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日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄について


 夏目漱石は、日露戦争中に、『吾輩は猫である』を書き始め、作家デビューを果たしたが、その中で、赫々たる戦果に沸き立ち、強国への道をひた走る当時の日本の民衆や指導者に対する強い違和感を、苦沙弥のセリフを通じて表現している。『坊っちゃん』の二年後に書かれた『三四郎』では、広田先生の口を通じて、これからの日本は「亡びるね」と言わせている。私は、漱石の勇気と慧眼に感服せざるを得ない。

 今、わが国では、日韓請求権協定に関する韓国側の対応を非難する声が、満ち満ちているが、漱石がこの様子を目の当りにしたらどんなふうに表現するであろうか。

 昨日、韓国政府は、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を延長せず、終了させることを決定した。この問題について、漱石ならぬ凡人の私が一石投じてみることにしたい。

 
日米軍事情報包括保護協定(GSOMIA)

 2007年5月、日米安全保障協議委員会(「ツー・プラス・ツー」)では「同盟の変革: 日米の安全保障及び防衛協力の進展」を話し合い、「新たに発生している安全保障上の課題に対して、より効果的に対応するために、二国間の情報協力及び情報共有を拡大し、深化する必要性」を確認した。
 その上で、このツー・プラス・ツーでは、具体的に「この同盟の変革に関する構想に沿った役割・任務・能力の進展」と、「軍事情報包括保護協定(GSOMIA)としても知られる、秘密軍事情報の保護のための秘密保持の措置に関する両政府間の実質的合意」を確認した。軍事同盟の強化の必然の成り行きである。
 日米軍事情報包括保護協定(GSOMIA)が調印されたのは、それから3か月後のことであった。同協定第6条は「日米両政府は秘密軍事情報について当該情報を提供する国の秘密保護と同等の保護を与えるための適当な措置を取ること」を確認している。これがあの悪名高き特定秘密保護法の源流である。
 軍事の突出は、国民の目から重要な情報を秘匿し、秘密情報にアクセスしようとする者には厳罰を科す体制を作り出す。戦前の軍機保護法、国防保安法がそれだった。戦後、自民党は秘密保護法制の制定に躍起になっていたが、幾度も壁に跳ね返された。GSOMIAはその壁を乗り越える原動力になった。

日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)

 2011年1月、日本の防衛大臣と韓国の国防部長官との間で日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)について、はじめて話し合われた。その背景には、アメリカによる後押しがあったことは言うまでもない。それがあってはじめて日米韓の軍事同盟体制が完結し、機能するからだ。
 韓国国内には、日本との間で、GSOMIAを締結することには強い抵抗があった。一つは、かつての植民地支配と宗主国としての非人道ふるまいに対し明確な謝罪をせず、被害者救済に消極的な日本に対する反発。もう一つは対中国、対ロ、対北朝鮮に対し、対立の火種をもたらすことになるという懸念。当時、政権にあった保守派の李明博大統領もこれには手を焼いたようだ。
 その上新たな難問が持ち上がった。2011年8月、憲法裁判所が、韓国政府が日本軍「慰安婦」被害者及び「原爆」被害者の賠償請求権に関し、韓国政府が具体的解決のために努力していないことは被害者らの基本権を侵害する違憲行為であるとの決定を出したのである。これを受けて韓国政府はこれらについて政府間交渉の開催を求めざるを得なかった。しかし、この申し入れに、日本政府は、韓国政府の足元を見たかのように、「日韓基本条約と日韓請求権協定により解決済みとを繰り返すばかりで、前に進まない状態が続く中、2012年8月、李明博大統領は「天皇が韓国に来たければ独立運動家に謝罪せよ」と要求したり、竹島を訪問、上陸したりのパフォーマンスを繰り返す。日韓関係の緊張の糸は、2013年2月、同じ保守派の朴槿恵大統領になった後も張り詰めたままで、日韓GSOMIA締結交渉はデッドロックに乗り上げた状態が続いた。
 北朝鮮のミサイル・核開発に直面し、日米韓軍事同盟体制の完成を急ぐアメリカは焦る。オバマ大統領の斡旋でようやく朴大統領と安倍首相の初顔合わせが実現するが、それはオバマ大統領を交えての三者会談という形であった。時に2014年3月、朴大統猟就任以来1年2か月を経過していた。

 かくして急ぎ足で、2015年12月、慰安婦問題での合意を成立させ、2016年11年、日韓GSOMIA締結にこぎつけた。

まとめ

 このとき既に、韓国では、大法院の2012年5月の二つの差し戻し判決により元徴用工の損害賠償請求が認められることが確実になっていた。慰安婦問題での合意もよく練り上げられたものではなかった。朴政権は当座しのぎに走ってしまったのだ。
 さにあらんか慰安婦問題での合意をめぐって激しい反対運動が巻き起こり、朴大統領のスキャンダルもからんで、朴政権は、ダッチロール状態に陥り、ろうそく革命により文在寅大統領が誕生した。
 そして出るべくして出た2018年10月、11月の韓国大法院による元徴用工に対する損害賠償請求認容判決。文大統領が、これを尊重した上での解決策をさぐるほかなかったのはあまりにも当然。三権分立は、民主主義国家の根本原理であるし、文大統領自身、朴大統領の愚策を批判して当選したのだから。
 これに対し安倍政権はすべてシャットアウト。韓国大法院の判決を尊重した解決案をもって協議することを繰り返す韓国政府に「無礼」とまで断じ、輸出規制の強化と貿易管理上の優遇措置解除という禁じ手まで打つ始末。それでも8月15日光復節での演説で、文大統領は「今からでも日本が対話と協力の道に乗り出すなら、われわれは喜んで手を取る」と呼びかけたが、それも無視。韓国側には日本政府の態度はかつての植民地支配者と重ねあわせになって見えたとしても不思議ではない。

 韓国がGSOMIA終了決定をしたことは必然の成り行きであった。日本では、政府関係者はこれをとんでもない暴挙であるかのごとき吹聴し、マスメデイァも、これを垂れ流している。あまりにもレベルが低いと言わねばならない。彼らは、軍事同盟病にかかってしまっているようだ。日本政府やアメリカ政府がどのように考え、どんなことを言おうと、日韓の国民、のみならず平和を願う人々にとって、日米韓の軍事同盟体制にほころびが生じることは歓迎すべきことだ。軍事同盟をなくすことは地域集団安全保障体制への道である。(了)
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昭和天皇の戦後

 NHKが、その一部を公開した田島道治初代宮内庁長官に残した『拝謁記』によると、1952年2月、拝謁した田島に対し、昭和天皇は、再三再四、再軍備と憲法改正の必要性を述べとのこと。再軍備と憲法改正が必要だとの所見は、田島に「それは禁句であります」とたしなめられ、昭和天皇一個の個人的思いとして内に秘められるにとどまったようだ。

 しかしそれより前、マッカーサーの庇護もあり、また旧体制の残影もあって、いまだ昭和天皇の威光が日本の保守政治家に行き渡っていたころのこと、昭和天皇は大胆なチャレンジをし、彼らに大きな影響を与えた。

 第一。昭和天皇とマッカーサーとの第4回目の会見(1947年5月6日)において、以下のやりとりがなされている(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫)。

昭和天皇 「日本が軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりませぬ」「国連が極東委員会の如きものあることは困ると思います」

注:極東委員会は連合国の対日占領政策を調整・決定する機関であるが、ソ連も加わっていたので機能不全の状態であった。昭和天皇は国連も同様になることを懸念したのだろう。

マッカーサー 「日本が完全に軍備を持たないこと地震が日本の為には最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道である」「将来の見込みとしては国連は益々強固になって行くと思う」

昭和天皇 「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアティブを執ることを要するのでありまして、此のため元帥のご支援を期待しております」

マッカーサー 「米国の根本観念は日本の安全保障を図る事である。この点については十分ご安心ありたい。日本の安全(Integrity)を侵すためには戦術上にもっとも困難な水陸両用作戦によらなければならないが、これはアメリカが現在の海軍力及び空軍力を持つ限り絶対に為しえない」

 第二。沖縄メッセージ。これは、1947年9月19日、昭和天皇の側近寺崎英成に託され、GHQ外交顧問シーボルトを通じ、マーシャル国務長官に伝えられたもの。「アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与(リース)をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである」。これに引き続きの影響。同じく1948年3月初旬、寺崎の意見という形で、同ルートで伝えられたメッセージには、「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請するとの趣旨が示された(豊下・前掲)。

 これら昭和天皇が現実政治の場で表明した所信は、日米双方当局者に大きな波紋を呼び起こすことになった。『拝謁記』が一部公開されたこの機に、新憲法施行後間もない時期に、昭和天皇が憲法4条1項に違反し、かつ平然と憲法の平和条項を踏みにじっていたことを確認しておきたい。(了)

昭和天皇と吉田茂

 8月17日(土)NHK報道スペシャル。田島道治元宮内庁長官が書き残した『拝謁記』の中から、サンフランシスコ平和条約発効後の1952年5月3日に行われた日本の独立回復を祝う式典での昭和天皇の「おことば」にスポットをあてた。
『拝謁記』には、「おことば」を検討する過程でなされた昭和天皇の発言が記録されている。以下の如くである。

 (1952年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」 
 (同年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」

 番組では、昭和天皇が、この「おことば」に戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたとのナレーションが流れた。しかし、私に言わせれば、これは深い悔恨、反省の気持ちなどというものではない。これは一億総懺悔論であり、陸海軍の大元帥たる自己の責任にほうかむりするものだ。

 このような責任逃れの論は、既に1946年3月から4月に昭和天皇の側近寺崎英成が記録した『昭和天皇独白録』(文春文庫)の基調をなしている。以下少し抜粋してみよう。

 「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬことである。もし己が好むところを裁可し、好まざるところを裁可しないとすれば、これは専制君主となんら異なるところはない。終戦の際は、しかしながら、これとは事情を異にし、廟議がまとまらず、議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために、私が是なりと信ずるところに依て、事を裁いたのである。」

 「今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら無条件降伏に対し『クーデター』様のものが起こったくらいだから、もし開戦の閣議決定に対し私が『ベトー』を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。私がもし開戦の決定に対して『ベト―』をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命の保証もできない、それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、はては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになっただろう」

 注:べトーとは、veto=拒絶である。


 『拝謁記』に戻るが、田島長官から、昭和天皇の考えを告げられた吉田茂総理大臣は、これに反対し、「戦争を御始めになった責任があると言われる危険がある」、「はもはや戦争とか敗戦とかいふ事は言って頂きたくない気がする」などと述べたと言う。

 城山三郎『落日燃ゆ』は、戦前、満州奉天にいたころの吉田茂の姿を描いている。戦後日本を引っ張り、戦後清算をあいまいな形で終わらせ、今日に続く生煮えの日本の骨格を作った吉田茂は、1920年代後半、奉天総領事として、対中強硬姿勢を取り続けた。彼は、中国侵略の水先案内人だった。

 天皇の側近牧野伸顕を岳父とし、加藤高明首相のお墨付きをもらって奉天総領事に赴任した吉田茂は、関東軍や満鉄関係者も一目置く大物総領事であった。1927年と1928年の2回、対中国強硬路線をとる田中義一内閣の下で、中国政策の基本方針を検討する「東方会議」が開かれたが、並みいる閣僚、外務省首脳、軍首脳を前に、吉田茂は、主役の一人として活躍し、「現地保護」、「満蒙の特殊権益」のための出兵も辞さない武断政策を確立に導き、奉天で、「東方会議」で決まった新方針を、実行に移した。

 満州の軍閥張作霖に対し、中国側の京奉鉄道が、日本側の南満州鉄道を横断している現状は日本側の権益を侵害すると、一方的に非難し、横断をやめるよう要求、これを受け入れなければ「覚悟がある」と脅したこと、それまで、関東軍が張作霖との交渉にあたっていたのを、外務省出先である奉天総領事が交渉にあたるべきだとして関東軍ともひと悶着を起こしたこと、それだけではなく、張作霖を見下した言動に、張が起こって、「『覚悟がある』とは、武力で満州を掠奪するつもりか」と息まき、北京へと去ったことなど・・・『落日燃ゆ』でいくつかのエピソードが描かれている。

 関東軍参謀河本大作らが張作霖爆殺事件が起こしたのは、その後間もない1928年6月4日のこと。吉田茂の強硬姿勢がこれと直接結びついたという証拠はない。しかし、吉田茂はアジア太平洋戦争の発火点に近いところで、危険をかえりみず好物の葉巻に火をつけたことは間違いない。

 昭和天皇と臣茂。戦後においても、二人は手を携えて、戦争責任にあいまいにし、アメリカと手を組む道を選び取り、あいまいで生煮えの戦後日本をつくりあげることに寄与した。(了)

「朝日新聞よ、しっかりせよ!」

 8月18日付朝日新聞は、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の中止に関連して二人の憲法学者の意見を載せている。一人は、川岸令和早稲田大学教授。川岸教授は、最高裁判例でも認められた「敵対的聴衆の法理」を挙げて、敵対的聴衆がいるからと言って、すぐに表現活動を制限できるわけではない、それができるのは警備上の混乱を防ぐことができない特別な事情がある場合に限られると述べている。

 確かに「敵対的聴衆の法理」は、多数者の批判・非難・嫌悪に迎合して表現の自由を制限してはならないという点では歯止めにはなる。もっともそこで指摘される警備上の混乱を防ぐことができない特別の事情は、生命・身体・財産への実害発生の「明白かつ現在の危険」が存する場合と限定されなければならず、その縛りが緩むと歯止めとして機能を失う。

 「敵対的聴衆の法理」及び「明白かつ現在の危険の法理」からみると、指摘されている状況の下で、「表現の不自由展・その後」を中止とした実行委員会の判断は、必ずしも適正であったとは言えないだろう。

 しかし、私はこの問題の本質は、名古屋市長、大阪市長、大阪府知事、官房長官が積極的に発言し、敵対的聴衆を煽ったことにあると考える。公権力の担い手、公党の幹部たる彼らは、「敵対的聴衆の法理」を重んじて、むしろ騒ぎを鎮静する側にあったのに、自ら敵対的聴衆の一人としてとして躍り出て騒ぎだし、有象無象の敵対的聴衆を活性化させ、大胆不敵な言動に走らせてしまった。それが実行委員会をして中止の判断に至らしめてしまったのである。名古屋市長、大阪市長、大阪府知事、官房長官の罪は重い。

 朝日新聞が、表現の不自由展中止に関して、載せたもう一人の憲法学横大道聡慶応大学教授は、「誰が表現の自由を制約したのか」と問い、実行委員会と芸術監督の津田大介氏だと言い放ち、罪を事実上津田氏になすりつけている。公権力の担い手、公党の幹部の言動とその役割は、横大道教授の眼中にはないようだ。

 朝日新聞の「表現不自由展・その後」中止問題に関する報道姿勢は、あいまいである。この問題の本質・的をはずしているように思えてならない。川岸教授の意見と横大道教授の意見を並べ、両論併記な立場をとっているのもそれを示している。

 これは徴用工問題に関する姿勢にも共通している。8月17日の社説は、その典型である。

 朝日新聞はかつて慰安婦事件に関わる報道で、植民地支配と侵略戦争の責任を問い、戦後処理の徹底を推し進めるオピニオンリーダーの役割を果たした。しかし、それにより右翼・歴史修正主義者、さらには右派マスメディアの総攻撃を招き寄せ、大きな打撃をこうむった。さらに福島第一原発事故後の所長・所員の行動を報じた記事に対してもバッシングを受けた。朝日新聞は、これらに事実と道理で反撃するのではなく、屈服してしまった。

 あれ以来朝日新聞は変わった。事象に迫って真実を抉り出す鋭い観察は影をひそめ、「客観報道」の名目で、事象の周辺をなぞり、真実をぼかしてしまっていると言うのは果たして言い過ぎだろうか。
 
 最近の徴用工問題に関する姿勢はかつての慰安婦問題に関するそれと雲泥の差がある。羮に懲りて膾を吹くとは言い得て妙だ。朝日新聞の変化は、まさにこれではないか。古いことを持ち出すようだが、朝日新聞は、満州事変前にはリベラル色が強く軍部に批判的であったが、事変後は手のひらを反すように軍部に迎合的になったという苦い過去がある。まさに前車の轍ではないか。
 朝日新聞になおも期待を寄せる一読者として、「朝日新聞よ、しっかりせよ!」と言いたい。(了)

独立祝い

 1965年10月、日韓条約締結交渉(日韓会談)の総仕上げにあたった佐藤内閣の外相椎名悦三郎は、徴用工いついて、国会で、次のように答弁しています。

 「私はあの戦争時代に役人をしておりまして、それで九州の炭鉱地方をずっと回って歩いたことがある。その当時、たくさんの韓国の青年が、強制労働ですね、それに狩りだされて、そして炭鉱に配置された、いたいけなその状況をまだ私は胸に刻み込んでいる(だから反省するという言葉を使った)。」

 戦時中、厚生次官として徴用工動員政策を推進のを指導した椎名は、徴用工が強制動員であり、過酷な労働を強いられていたことをよく知っており、さすがに良心にとがめるものがあったようです。あの世で今をときめく安倍内閣の面々の発言にきっと苦々しい思いをしていることでしょう。、

 さて、彼は、同じ時期の国会で、日韓請求権協定に関して次のように答弁しています。

 「(無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力について)賠償とは全く関係がない、英仏が旧植民地の独立を認めた際も国の誕生を祝い、経済の前途を支持する意味ので相当の経済協力をしている、その例と同じだ。」

 なるほど日韓請求権協定に定める無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力は、賠償金とは無関係で、独立祝いだということなのですね。

 1965年、戒厳令で押しつぶされた韓国の日韓会談反対運動では、学生たちのデモ隊の掲げた横断幕のスローガンには「第二次韓日合邦決死反対」とありました。彼らは、日韓会談を、新たな装いの植民地支配へ突き進むものと見て、第二の日韓併合反対を叫んだのです。

 上記の独立祝いですが、過去の植民地支配を合法とし、旧植民地を、独立後も勢力圏に置き続けようとして旧宗主国のふるまった毒饅頭と言えましょう。韓国の朴正煕軍事独裁政権は、韓国国民の抵抗を戒厳令で押さえつけ、日本が差し出した毒饅頭に食らいついたのでした。そのとばっちりを受けて、今日、民主主義に基づいて正当に組織され、国民を真に代表する政府が、日本政府に国際法違反だなどと大口をたたかれているのです。

 しかし、毒饅頭を食わせた国の政府が、大口をたたくのは、いかにもおかしいことではないでしょうか。

 植民地の獲得や、植民地支配は合法である。それが植民地支配を自国発展の支柱としたヨーロッパ近代(そして日本近代)が作り出した国際法の常識でした。国際法はかつて先進国どうしの約束事に過ぎなかったのです。その植民地合法論は今も生きながらえています。

 その克服が求められるようになったのは最近のことです。ダーバン人種差別反対国際会議で「植民地支配は人道に対する罪であった」と宣言されたのは、実に2001年のこと。植民地支配は人道に対する罪という植民地違法論が国際法として認知される緒についたところですが、やがてこれが支配的見解となることでしょう。従って毒饅頭の毒の効き目がなくなり日本政府が大口をたたくことができなくなる日が遠からず訪れるでしょう。国際文書は、解釈時点の支配的な法体系全体の枠内で、解釈適用されなければならない(1971年国際司法裁判所勧告的意見)からです。(了) 
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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