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「在日米軍」―この法外の異物

1 在日米軍の実情

 まず、日本に駐留する米軍の現状について、客観的なデータをあげておこう。

(米軍基地)

 米軍現在、日米地位協定に基づき、米軍の使用に供されている施設及び区域(以下「米軍基地」)は、以下のように分類できる。

A 日米地位協定2-1-(a)に基づいて米軍が管理し、米軍が専用で利用しているもの
B 日米地位協定2-4-(a) に基づいて米軍が管理し、米軍が使用していないときには自衛隊も共同使用をするもの
C 日米地位協定2-4-(b) に基づいて、日本政府が管理し、米軍が一定条件の下に一時的に利用可能なもの

 これら米軍基地は、2017年1月1日現在で、全国78カ所、その総面積は263.6平方キロ(東京都の面積の約12%、大阪府の面積の約14%に相当)に及び、その71%は、国土の0.6パーセントを占めるに過ぎない沖縄に、集中している(梅林宏道『在日米軍 変貌する日米安保体制』岩波新書)。

(兵員数)

 防衛ハンドブック平成26年度版(朝雲新聞社)によると、2013年12月31日現在の兵員数は以下のとおりである(括弧内は、沖縄配備の兵員数で、沖縄県公表資料による、2014年3月31日現在のものである。)。

合計  5万0341人 (2万6883人)
陸軍    2316人 (  1547人)
海軍  1万9688人 (  3199人)
空軍  1万2354人 (  6772人)
海兵隊 1万5983人 (1万5365人)

(在日米軍関係経費)
     
 防衛省は、1970年代から在日米軍の駐留を円滑かつ安定的にするための施策として、財政事情など十分配慮しつつ、わが国が駐留経費を自主的に負担してきた説明している。いわゆる「思いやり予算」なる珍名で始められた経緯を説明しているのであるが、実際には、1971年6月の沖縄返還協定に関わる密約の延長戦上で、アメリカがわが国に対し、駐留経費の肩代わりを求め、1978年度から、負担をするようになったものであった。「思いやり予算」は、1987年度からは「地位協定第24条いついての特別協定」という法的枠組みが用意され、施設整備費、基地従業員労務費、光熱水料等から訓練移転費、米軍再編関係費などにその範囲が拡大されている。これを「受け入れ国支援」と呼んでいるがこれまた妙な呼称である。

 2018年度予算では、これらを含む在日米軍関係費は総額6001億円となっている(防衛省ホームページ)。少し時期は古いが、2004年に公表されたアメリカ国防総省「受け入れ国支援」報告書によると、総額に占める日本側負担率は74.5%とされている。至れり尽くせりとはこういうことを言うのであろう。私たちは、アメリカ国防総省が次のように総括していたことを強く記憶にとどめておくべきである。

  「日本は、他の同盟国に比較してずば抜けて多額の受け入れ国支援をしている。1990年会計年度の場合、33億ドル以上になる。日本の高額支援のおかげで、米軍を配備するのに、日本は米国内も含めて世界でもっとも安上がりの場所になっている。」(「アジア太平洋戦略の枠組み」1992年7月アメリカ国防総省/梅林前掲書)

2 在日米軍の役割

 ところでこのような在日米軍は、一体どのような役割を果たしているのであろうか。

 1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約と同時に調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧安保条約)では、在日米軍は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、内乱、騒じょうの鎮圧、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができるとされていた(第1条)。要するに在日米軍は、極東の安全や日本の安全確保が、アメリカの安全確保にかなうとアメリカが判断したときに用いられる軍隊だとされていたのである。

 1960年1月19日調印された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)では、日本の安全と極東における国際の平和及び安全の維持に寄与することに加えて、日本国の施政の下にある領域に対する武力攻撃に対処するために行動することが定められている(第5条、第6条)。旧安保条約と比べると、新安保条約は、日本の防衛のために使用されるべきことがひとまず明記されるに至ったことがわかる。そのためにこそ当時の岸信介首相ら日本の保守派が、連日、国会に押し掛ける怒涛の如きデモを前にして、自衛隊の治安出動を検討しつつ、議院内に警察官導入をし、野党議員を実力排除してまで単独採決をし、安保条約改訂を強行したのであった。しかし、これは単なる謳い文句に過ぎなかった。
 その後、冷戦時代には、在日米軍は、対ソ・対中抑止戦略の要としての役割を果たし、ベトナム侵略戦争においてその真価を如何なく発揮した。

 さらに、冷戦終結後には、在日米軍は、世界の警察官アメリカの世界戦略の支柱となり、中東紛争への介入と対テロ戦争遂行に、めざましい活躍ぶりを示している。ついでに言えば自衛隊は、次第にそれに組み込まれ、在日米軍と一体化する方向に進んだ。このことをなぞるように、日米間の合意がなされ、国内法の整備がなされてきたことは近々この20年来の外交史をたどると一目瞭然である。 ざっと見ると以下の如くである。

 1996年 4月 橋本・クリントン会談後に出された「日米安保共同宣言」により、日米安保体制を、アジア・太平洋地域の安全保障と世界的規模での協力体制の基礎・土台と新安保条約の規定を逸脱する内容で再定義(97年「新ガイドライン」と99年周辺事態法により具体化)。
 2005年10月 日米戦略協議(日本側外務・防衛のトップとアメリカ側国務長官、国防長官により構成)報告書「日米同盟―未来のための転換と再編」において、「日米安保共同宣言」ではややあいまいであった政界的規模での協力体制を、安全保障環境の改善、即ち軍事における協力体制と明確化し、政府・軍レベルの一体化、弾道ミサイル(BMD)における協力体制、共同演習のあり方の転換により日米同盟を強化し、あわせて、軍事機密情報の保護などを謳った。

 その後、2012年12月、第二次安倍政権誕生後、特定秘密保護法、7.1集団的自衛権容認閣議決定、15年ガイドライン、安保法制制定に至る経緯は、「日米同盟―未来のための転換と再編」の具体化である。

 かくして海兵隊は言うに及ばす、原子力空母とその随伴艦(イージス戦闘システムと対地ミサイル・トマホーク発射装置を備えた巡洋艦や駆逐艦など)からなる空母打撃群やや海兵隊と一体となって運用される水陸両用部隊及び原子力潜水艦部隊を主体とする海軍も、航続距離の長い戦闘機や爆撃機と空中給油機や空中警戒管制機(AWACS)などを備えた空軍も、さらにはベトナム戦争時代にグリーンベレーと呼ばれて恐れられた特殊部隊を主体とする陸軍の戦闘部隊も、在日米軍は、いつでも、世界のどこにでも投射できるように編制と練成がなされているのであり、日本の防衛なぞ眼中にないことは一目瞭然である。       
 
3 何故在日米軍は「在日」でなければならないのであろうか

 国防総省の資料によると2015年9月末現在のアメリカの総兵力は、陸軍約49万人強、海軍約33万人弱、海兵隊18万人強、空軍31万人強、総計131万人強で、太平洋軍、欧州軍、中央軍、北アフリカ軍、北方軍、南方軍など九つの統合軍に区分されている。その中でも最大のものが太平洋軍で、在日米軍もこれに属している。これらの兵力は、アメリカ本土を中心とし、世界各地に配置された基地群を、まるでハスの葉の上を跳ぶカエルのように、移動して、世界の紛争に備えている。これを「ハスの葉戦略」(リリー・パッド・ストラテジー)を呼ぶそうである。今日の世界は狭い。ましてアメリカが今日保有する航空機、艦船、ミサイル、通信・情報網とハイテク技術をもってすれば、世界のどこにいようとハスの葉を跳びかい、紛争に対応することができる。カエルにとっては、紛争地点の近くに居なければならない理由はなく、またどこか一つのハスの葉を拠点とすることに固執しなければならない必然性もないのである。

 在日米軍もハスの葉の上を跳んで移動するカエルであり、前述の如く、世界の紛争地点に跳び込むことが予定されている。してみると在日米軍が、「在日」でなければならない理由を、軍事的合理性の観点からは説明できない。

 今日、在日米軍が、「在日」たるの所以は、さまざまな理屈で粉飾がなされているものの、つまるところは①いつでも、どこでも、期限の定めもなく、使用目的・条件も限定しないで、基地が提供され、我が国の法的規制を受けす、行政的介入も受けずに基地使用ができ、かつ軍人・軍属及びその家族に特権的地位が保障されていること(この法的枠組みについては別稿で論じることとする。)、②前述のとおり手厚い「受け入れ国支援」によりランニングコストが最も安上がりであり、かつ代替施設を確保しようとすれば巨額の費用を要すること、即ちこの野放図な法的、経済的地位にその要諦があるのである。

4 まとめ
 
 以上述べたところを、どのように総括すればよいだろうか。私の頭に浮かぶのはただ一言、「法外の異物」という言葉である。

 明治初年、往時の覇権国家イギリスに対し、呱呱の声をあげたばかりの明治政府は、「日本に外国軍隊が存在すべきではない。」、「外国軍隊の存在は、われわれにとって不名誉なことである。」、「外国軍隊の撤退が行われるべきであることは、疑いを容れない。」と堂々たる主張を行い、英仏駐屯軍の撤退を迫った。

 一方、国内総生産(GDP)世界第三位を誇るほどに高度に経済的発展を遂げた現代日本における自民党政府は、野放図な法的、経済低地位を保障し、拝み倒すようにして米軍を我が国に留めている。

 私たちは、そろそろこの「法外の異物」の除去を求める時期に差し掛かっているのではなかろうか。
                                  
                             (了)
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今なすべきことは日米同盟からの脱却を模索すること

 アメリカ憲法は、国家の武装と人民の武装を不可侵の権利とし、武力によって平和を維持するという思想を表しています。国際社会において戦争の自由が公認されていた18世紀末に成立した憲法ですから、これは当然のことでしょう。

 しかし現代のアメリカは、これをさらに極端に推し進め、国内にあっては銃器による大量殺傷事件が日常茶飯事、海外にあってはいつでもどこにでも軍隊を投入し、世界の警察官としてふるまっています。

 アメリカ憲法が成立した時代から時が進み、やがて、国際社会は、戦争の自由を否定し、戦争や武力行使を認めない方向へと進みます。第一次大戦後の、国際連盟の設立、ワシントン軍縮体制、パリ不戦条約、いずれも不徹底ではありましたが、戦争のない平和な国際社会を築くという人類の悲願達成への巨大な歩みでした。

 それでも日独伊三国の暴走をおさえることはできず、第二次大戦が引き起こされてしまいました。ですからこれら三国と対峙し、共に戦った連合国の中から、きたるべき戦後の国際社会において、みたび戦争の惨禍に見舞われないようにするにはどうするべきか、さらに徹底した平和維持の体制を模索する動きが始まったのは当然のことでしょう。

 その到達点は、1944年8月~10月のワシントン郊外ダンバートン・オークス邸における米英ソ中四大国の会談とそれに基づく提案に示されています。ダンバートン・オークス提案によると、戦後の国際社会においては、国ごとの戦争や武力行使を一切否定し、平和の確保を、国際社会が一致して設立する包括的国際機構に委ねることが確認されていたのです。

 しかし、戦争の終末期に、連合国の中心メンバーに深刻な亀裂が生じました。私は、その亀裂の最も重要な要因は、アメリカが、包括的な国際機構による平和から大国の力による平和へと後戻りを始めたことだと思います。

 国連は、このような前進と後退を反映する矛盾した憲章を採択してしまいました。戦争と武力行使は違法、しかし個別的もしくは集団的自衛権の行使は加盟国の固有の権利であると。

 第二次大戦後に成立したイタリア、ドイツ、韓国、フランスなどの憲法では、自衛のための戦争や武力行使を認めています。国連憲章と同じですね。日本国憲法は、全ての戦争と武力行使を否定し、平和の確保を諸国民の公正と信義に委ねることとしました。こうしてみると日本国憲法は、人類の最も前進した「戦争と平和」の思想を表していると言っていいでしょう。

 日米同盟という言葉がはじめて公式に用いられたのは、1981年の鈴木(善幸)・レーガン首脳会談後の日米共同声明でした。このとき鈴木首相は、記者の質問に答えて、日米同盟という言葉に軍事的意味はないと釈明をしました。日本国憲法をそれなりに理解していた鈴木首相はそう釈明するほかなかったのでしょう。しかし、外務省は、この釈明にスッタモンダの大騒ぎ、伊東正義外務大臣の辞職騒ぎに発展しました。

 思えばはるかかなたに来たものです。今では、安倍政権の下で、日米同盟は、日米軍事一体化路線をひた走っています。

 軍事力による「平和」という憲法をもつアメリカと、非軍事による平和という憲法をもつ日本とが、軍事一体化する、この不可解な現実を前に、私たちは拱手傍観していてはいけないでしょう。歴史的な米朝首脳会談を経て北東アジアの安全保障環境が大きく変わろうとしている今、私たちがなすべきことは、我が国の根本規範である日本国憲法に照らして現実を変革すること、即ち日米同盟からの脱却を模索することではないでしょうか。
                     (了)

「『葉隠』の研究 思想の分析、評価と批判」(九州大学出版会)を読んで

「『葉隠』の研究 思想の分析、評価と批判」(九州大学出版会)を読んで

 畏友種村完司君がこのほど標記の著書(以下『葉隠研究』と略称する。)を出版された。

 著者と私は愛知県立旭丘高校の同級生であった。今から、半世紀以上も昔のことである。著者は、高校時代から文学青年、哲学青年で、京都大学文学部へ進学されてからも、やはりその方面の勉学にいそしみ、哲学研究者となられた。

 私の知る限りでは、ヘーゲルやマルクスなどドイツ哲学を主に研究されていたのではないかと思っていたが、ご本人は、そこから出発して30歳代には西田・田辺哲学やフッサールの現象学の研究へと範囲を拡げ、40歳代には知覚論や身体論・心理関係論に研究テーマを収斂するようになり、その後さらにコミュニケーション論へ歩みを進めたと述べておられる。

 著者は、これまた私の知る限りでは、平和と民主主義、個人の尊厳に底打ちされた基本的人権を擁護する立場に立っておられたのではないかと思っていた。その著者が、今、何故『葉隠研究』を書かれたのか、本書を手にしたとき、正直とまどいを覚えた。

 『葉隠』は、大阪夏の陣と元和堰武から数えておよそ100年、天下泰平の時代に、武士たるものが戦闘をなりわいとする集団から文治をなりわいとする集団へと大きくその生きざまを転換したとき、武士とはどうあるべきかを思索し、追求し続けた佐賀藩の一介の地方武士の口述の聞き取り書きである。
 しかし、『葉隠』が、佐賀藩という一地方で読み継がれた地方版武士道の枠から抜け出して一躍歴史の檜舞台の躍り出たのは、幕末の尊攘派下級武士決起の精神的バックボーンとなったからである。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」という情念ほとばしる言葉は、動乱の時代に、何事かをなさんとする者たちの心をゆさぶる熱いメッセージであった。
 彼ら尊攘派下級武士の成功は、『葉隠』を明示支配体制を支える教養と修養のテキストとして定着させることとなった。それだけのことであれば、別段、私のとまどいの原因になるようなものではない。私がとまどいを覚えたのは、戦前の軍国主義はなやかなりし時代に、『葉隠』は、教養と修養のテキストから飛躍をして、特攻隊や玉砕を美化し、国民をアジテーションする道具として用いられたという、忌まわしい記憶と結びついているからである。

 しかし、本書を読み進むうちに、そのとまどいは消失、次第に著者の論旨に引き込まれて行った。

 著者は、テキストを深く読み解き、思索して得た等身大の『葉隠』を、本書前半において、原文抜粋とその対訳を逐一あげながら、呈示している。その詳細は、直接本書にあたって体得して頂くこととしたい。私が注目したのは以下のことである。
『葉隠』は、一方で、文治にたずさわる文官的武士のあり方、奉公道を説いている。主君、藩への奉公は、常に死への覚悟をしつつ全てを捧げつくす心がなければ成就することはない。しかし、永い奉公には、忍耐と寛容、和の精神、礼節、憐憫の精神、心身の養生なども必要である。決してエキセントリックな死に狂いを説いているわけではない。
 しかし、『葉隠』は、他方で、文官的武士のあり方、奉公道におさまりきらないもの、武士の原点である戦士的武士の死をもいとわず敵陣へ打って出る剛勇、死に狂いの精神を説いている。それは、天下泰平の世にあっても、文官的武士の日常生活にいつふりかかるかわからない事変への備えとして常に覚悟をしておかなければならないことであると。
 『葉隠』には、この両者が併存していることを的確に指摘していることが、著者の『葉隠』論の特質である。

 著者は、本書後半において、これまで世に問われた『葉隠』論を俎上にあげ、逐一、共感を示しつつ、批判をしている。俎上に挙げられた論者は、大隈重信、古川哲史、奈良本辰也、三島由紀夫、和辻哲郎、相良亨、丸山真男、松田修、山本博文、小池嘉明の総数10名、政治家、哲学者、歴史家、文学者、政治・政治思想史学者と実に多彩である。著者は、これらの各論者が説くところに謙虚に耳を傾ける。それらから学ぶべきところは学び、ときには自説の変更さえも厭わない態度を示している。しかし、これらの論者は、『葉隠』を戦士的武士道の書として読むか、文官的奉公道の書として読むか、いずれかの一面に偏しているとして、著者は批判をする。これは、各論者の論の内在的批判であり、説得力がある。

 『葉隠』は、あくまでも江戸時代中葉、幕藩体制の基盤が固まった時代の産物であり、封建社会、身分制社会の真っただ中にある武士としていかに生くべきかを追求して形をなしたものであるから、あくまでもそのような時代、社会にのみ通用する歴史的文書として、位置付け、評価するのが妥当である。そのことを無視して、『葉隠』の中のある特定の文章、言葉を、現代のわれわれ―個人の尊厳に底打ちされた基本的人権の担い手―へのメッセージとして読みとることを期待したり、勧めたりするのは、間違いである。筆者は、このように説く。しかし、筆者は、特定の文章、言葉を超えて、『葉隠』には、一つの通奏低音が、静かに流れていることを聴き取っている。『葉隠』を世に送り出した佐賀藩の一介の地方武士は、幕府、藩への絶対的忠誠と服従を、単に盲目的な隷従としてではなく、死を常に覚悟しつつ主体的に服従することを説くことにより、武士の自律性を意図せぬまま表出しているのだと。

 かくて著者は、『葉隠』に「服従と自律の矛盾的統一」なる通奏低音を聴き取り、現代の我々、組織・機構・団体への服従と、個人の尊厳に底打ちされた基本的人権の担い手としての自律、その狭間にある我々に、いかに生くべきかと問うている。

 近時の、公文書を改ざん、隠ぺい、破棄し、主への忖度から平然とウソをつき、行政にさじ加減をする、文官的官僚、あるいは武官的官僚には、服従と自律の矛盾的統一ではなく、盲目的隷従しか見られない。醜悪、これ極まれりである。

 「葉隠研究」は学術書であるが、今、多くの国民に読まれるべき恰好の書である。

                                (了)

対日占領体制  その10

4 まとめ

(冷戦の始まり)

 対ソ関係は、これ以後悪化の一途をたどる。1946年2月には、駐ソ代理大使としてモスクワに赴任していたケナンが、「ソ連封じ込め」を説く異例の長文の電文をワシントンに送った。これはアメリカ政府高官の間で回し読みされ、大きな影響力を与え、これ以後、アメリカのソ連対決路線が顕著になって行くことになる。

 既に見たようにモスクワ協定中には、原子力の国際管理及び原子力兵器の禁止などのために国連に原子力委員会を設置することに関する合意もあった。この合意は、原爆を既に実戦に用いたアメリカ陸軍長官スティムソンのトルーマンに対する必死の訴えに基づいて進められたものであった。スティムソンは、原子力の秘密は独占できるものではなくアメリカの優位は過渡的なものに過ぎないから、むしろ原爆製造の秘密を積極的にソ連に提供し、共有することにより、共同管理をすることにより激しい軍拡競争を未然に防ぐようにするべきだと主張した。

 スティムソンの主張には、猛然たる反対があった。たとえばフォレスタル海軍長官は、原爆製造の知識は「アメリカ国民の財産」である、「われわれはヒトラーを当てにした。だがここで再び宥和を繰り返しても得るものは何もない。」などと述べた。しかし、モスクワ会談前の段階では、アメリカの政策には反映されなかった。
 上記の合意に基づいて、1946年1月24日に開催された第1回国連総会において、原子力委員会の設置が米英ソ三カ国の共同提案になる原子力委員会設置の件が満場一致で採択された。原子力委員会は、設置後速やかに、原子力の平和利用のための基本的な科学情報の交換、原子力が平和利用のためにのみ利用されるのを見とどけるための管理手段、各国の兵器庫から核兵器や他の大量殺戮兵器の撤廃、協定遵守国を危険な違反や言いのがれから守るための安全措置に関して速やかに報告書と勧告書をまとめることとされた。

 しかし、その直後からアメリカの政策転換が劇的に始まる。トルーマンからアメリカの国連原子力委員会主席代表に指名されたバルークが、画策を始め、6月14日、国連原子力委員会において、効果的な管理体制が機能しはじめ、違反に対する厳格な罰則が制定されてはじめて、原爆の製造中止、現存する原爆の廃棄という次の段階に移るとする考え方をアメリカ案として呈示するに至った。これは実質的に、アメリカの原爆独占を維持しようとするに等しい提案であった。
 ここに発足早々に国連原子力委員会は機能マヒに陥ることとなり、人類は、核軍拡競争を未然に防止すべきチャンスを逃してしまった。

 1947年1月、トルーマンの信を失ったバーンズに代わって長らく陸軍参謀総長を務めてきたマーシャルが国務長官に就任する。マーシャルは、ケナンを重用し、就任早々国務省に政策企画室を新設して、その室長に迎えた。これ以後、アメリカのソ連封じ込め政策は本格化する。いわゆるトルーマン・ドクトリンが議会での特別教書演説で打ち出されたのは同年3月のことであった。ギリシャ、トルコへの経済的・軍事的支援への賛意を議会からとりつけるために、ソ連共産主義体制ドミノ論を宣命したのである。

 これをもって冷戦の始まりとするのが一般的な見方である。マッカーサーの占領管理も、少し遅れるが、これに追随する。
  
 戦争は、国民を煽りたて、憎悪の坩堝に投げ込んでしまう。冷戦も同じである。アメリカは、国内に反共ヒステリーが渦を巻き、外交もこれに規定されて行く。一方のソ連も逆のベクトルに規定されて行く。

 ケナンは、まもなくこれを冷静に見る立場に移る。晩年、ベトナム戦争に反対する視点を持った彼は、上記の長文電報と後にその趣旨を敷衍した『ソヴェトの行動の源泉』というタイトルの論文(外交評論誌『フォーリン・アフェアーズ』1947年6月号に「X氏」なる匿名で掲載された。)で説いたソ連封じ込めとは、軍事的意味を持つものではなかったと述懐している。あの反共ヒステリーがベトナム戦争を不可避のものとしてしまったと。

 彼が晩年説いたような冷静な見方が、共有されていたならば、戦後国際社会は、早い段階でイデオロギーや体制を超えて諸国家が競争・共存し、国連を中心とした平和、安定、正義の国際秩序が構築されていたかもしれないし、日本も米国の従属国ともいうべき地位に甘んじることはなかったかもしれない。

 本稿『対日占領体制』は、それができなかった原因とそこからくみ取るべき教訓を考える端緒に過ぎない。                         
                    (了)


参考文献

①豊下楢彦『日本占領管理体制の成立』(岩波書店)
②五百旗頭真『米国の日本占領政策』上・下(中央公論社)
③同『戦争・占領・講和』(中公文庫)
④同『占領期 首相たちの新日本』(講談社学術文庫)
⑤坂本義和/R・E・ウォード編『日本占領の研究』(東京大学出版会)
⑥竹前栄治『戦後占領史』(岩波同時代ライブラリー)
⑦雨宮昭一『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(岩波新書)
⑧西崎文子『アメリカ冷戦政策と国連 1945-1950』(東京大学出版会)
⑨ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)
⑩アーネスト・メイ『歴史の教訓 アメリカ外交はどうつくられたか』(同上)

対日占領体制  その9

4 まとめ

(対日占領体制に関する取り決めの形骸化)

 枢軸国諸国を無条件降伏させることにより、ファシズム、ナチズム、軍国主義を一掃してこれら諸国を平和・民主国家に造りかえ、包括的国際機構(国際連合)を設立して戦後の国際社会を平和、安定、正義の新しい秩序の下に置く。これは今次大戦を戦う目的であり、その目的は連合国の共同行動によって達成される。このことは連合国のコンセンサスがあった。そうである以上共同行動の原則は、占領そのこと自体においても貫徹されなければならない。そうでなければ竜頭蛇尾に終わってしまうことになる。
 それどころか占領が、共同行動の原則に反し、一国の意思を貫徹する単独占領体制とするということは、枢軸国諸国を当該占領国の影響力の下に置く、つまり当該占領国の勢力圏に取り込む結果をもたらすことになる。これは世界をいくつかの大国を盟主とする勢力圏に分割することにほかならず、包括的国際機構(国際連合)により、個別国家の野心、野望、国益万能主義を抑え、国際社会に平和、安定、正義をもたらそうという構想が死を宣告されるに等しいことになる。

 国際社会をいくつかの勢力圏に分割し、これらのバランス・オブ・パワーによってかりそめの平和を求めることが如何に空しいことであるか。それは、結局は、戦争を引き起こすことにつながることになる。このことは第一次大戦、第二次大戦の痛切な教訓ではなかったのか。

 イタリアに始まり、ブルガリア・ルーマニア・ハンガリーの東欧の枢軸諸国を経て、ドイツ、日本と、占領体制をめぐって、米英ソの連合国の主要国は、激しくせめぎ合った。最初、米英がソを事実上排除し、ついでソが米英を排除し、次いで分割占領、そして最後は米の単独占領体制。これを巻き戻そうとする最後のギリギリのところでの努力が、ようやく上記モスクワ協定に結実した。

 モスクワ協定は、アメリカ国内で、当初、歓迎された。12月7日付ニューヨーク・タイムズも、「平和への新しいスタート」との見出しの下に、以下のように論評した。

「あらゆる点において、ドイツと日本が降伏文書に署名して以来、世界に示された最も希望に満ちた文書である。」
「新しい対立の暗雲を」を吹き払い、「いかなる国際的解決においても最初の本質的なステップ」を成すもの。
「要するにそれは平和の勝利であり、その意味において人類の勝利である。」 

 しかし、それもつかのまのことであった。軍部、政界保守派が、モスクワ協定攻撃の狼煙をあげた。たとえば、ルーズベルトの下で合衆国陸海軍最高司令官(合衆国憲法第2条第2節第1項により、大統領が陸海軍最高司令官となる。)付参謀長を務めた海軍の長老リーヒ提督は、これを「宥和文書」と断じて非難した。共和党の重鎮ヴァンデンバーグ上院議員もこれに続き、1938年9月、イギリス、フランスが、ナチス・ドイツにチェコ・スロバキアのズデーデン地方を割譲することを認めたミュンヘン協定になぞらえて「ソヴィエトのミュンヘン」と決めつけ、トルーマンに圧力をかけた。

 これを機に対ソ強硬派が、公然と声をあげ、国内世論をリードし始めた。ソ連をナチス・ドイツとパラレルに置き、全体主義国と断罪する議論が一般化した。
 1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻した際に、ナチスと共産主義が共食いしあうことを望んだほどに強硬な反ソ主義者であったトルーマンも、敏感に反応した。彼は、バーンズ外交は「対ソ宥和外交」であると見なし、そのバーンズ外交との決別を決意するに至る。1946年1月6日付バーンズ宛書簡(実際には、トルーマンの手元に留められたようである。)には、ソ連の脅威を指摘とともに、「もはや妥協をなすべきとは考えない」、「私はソ連を甘やかすことに疲れた」などとソ連に対する激しい非難の言葉が書き連ねられていた。

 モスクワ協定は、協定当事国であるアメリカの大統領によって事実上否定されるに等しい事態に立ち至った。枢軸国各国に対する占領体制の巻き戻しはおろか、米ソの関係は、もはや修復不能な地点に達してしまった。

 対日占領の実情を見ると、そもそもマッカーサーは、アメリカ政府のコントロールさえも及ばない独立王国を築きつつあると言っても過言ではないように事を運んでいた。その上、モスクワ協定が、国内の反発を受け、大統領による支えを失ってしまっている以上、対日占領体制に関する取り決めもその規範性は乏しくなり、形だけのものになってしまった。マッカーサーが、事実上、これを無視して占領管理にあたったことはむべなるかなと言うべきか。         
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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