天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(5)

危機感煽る孝明天皇―攘夷原理主義者として

 1857年(安政4年)、前年来、アメリカ駐日領事が提起し、交渉が始まっていた日米通商条約に対し、幕府は、1854年(安政7年)の日米和親条約締結以来の内外の情勢を分析し、積極開国の路線に転じ、同年末には、これを締結する方針を固めた。

 しかし、諸大名には、水戸の徳川斉昭をはじめ、根強い反対意見があった。そこで、幕府は、天皇・朝廷の権威を利用することにより、国論統一をはかろうとした。幕府は、天皇・朝廷に対し、従来であれば、事後報告に留めていたところを、事前に報告し、勅許を取り付けようとしたのである。

 天皇・朝廷の権威を利用しようとした点では、反対派の斉昭も同じであった。彼は、関白九条尚忠に、欧米諸国の日本侵略の意図を強調し、通商条約はそのための手段に過ぎないと危機感を煽り、朝廷が傍観することなく、通商条約締結に反対することを宣言し、諸大名、有志の奮起を促すべきだとする意見書を提出したのである。

 こんなこととはつゆ知らず、幕府は、翌年早々にも、老中堀田正睦を上京させ、勅許取り付けにあたらせることにした。幕府は勅許取り付けに何の不安も持っていなかったようであるし、堀田も、これを儀式程度のことと考えていたようである。
 しかし、思いもかけず、強硬な反対にあい、勅許取り付けはあえなく失敗に終わってしまった。堀田は、「実に堂上方正気の沙汰とは存ぜられず」と嘆いてみたが、あとのまつりであった。

 朝廷においては、斉昭の意見書がどれだけの影響を及ぼしたのかは不明であるが、かってない規模と範囲で衆議が行われ、政治化が進んでいたのである。その中心となったのは、ほかならぬ孝明天皇であった。

 孝明天皇は、老中堀田が上京するとの知らせを受けるや、1858年3月2日(安政5年1月17日)、九条関白に辰翰を送り、意見聴取の範囲を現任の朝廷諸役にとどめず、三位以上または参議以上の公家に拡大すること、公家らに関白など朝廷諸役に遠慮なく自由に意見を出させるようにすべしと指示した。

 公家大衆らは公然と議論に参加し、各自自由に意見表明をした。孝明天皇は、当初は、通商条約に生理的反発を覚えつつ、朝廷諸役の意向を忖度しつつ慎重な態度であったが、次第に、勅許拒否にかたまり、一週間後のに再び九条関白に送った辰翰で「たとえ老中が上京していかに演説しようとも断固拒絶する、もしも外国人が納得しないなら『打ち払う』」との決心を披歴した。

 もっともその理由たるや当代においてこのようなことになれば伊勢神宮をはじめ神明、及び皇祖皇宗に申し訳が立たない、一身の恥などという情緒的なことを述べるばかりであった。

 かくして朝議は、勅許するかどうかは三家以下諸大名の意見を聞いてから決める、つまり直ちには勅許しないとの回答をすることに一旦決した。

 しかし、上京して、朝議が上記の如く決したことを知った堀田は、猛然と巻き返しを図る。同月25日(安政5年2月11日)、朝廷諸役らを宿舎に招き、以下のように説いた。

 地球上あらゆる国と国民を結びつける世界の趨勢から、今は、拒絶し鎖国体制を維持することは不可能であり、またそれがわが国の発展に資するものではない、その中に入って行くしか道はない。

 孝明天皇の攘夷論より堀田の開国論の方が合理的で説得力がある。朝廷諸役もこれに従い、朝議の再検討を始める。同年4月(安政5年3月)になると、先の朝議の結論は、「幕府に任せる」と改変されるかに見えた。このとき再び孝明天皇がイニシアティブを発揮し、同月20日(安政5年3月7日)、またまた九条関白に辰翰を発し、朝廷諸役の範囲にとどまらず、三位以上又は参議以上の公家らの意見聴取を指示した。これにより公家大衆から再び公然たる議論が沸き起こり、朝廷諸役による朝議改変の動きが封殺された。公然たる意見を表明は、中、下級の堂上公家、下級官人にまでひろがり、またその行動も、御所での集会、朝廷諸役宅への列参など、大衆運動の様相を呈するに至った。

 朝議で勅答の内容が確定し、堀田に伝達されたのは同年5月3日(安政5年3月20日)のことであった。

 通商条約は国威を損なう。公卿らは、国体を変ずることを危惧している。三家以下諸大名の意見を徴し、評議の上、あらためて勅許伺いを出せ。

 堀田は、戦争になってもよいのかと迫ったが、孝明天皇は、「是非なき儀」と答えたという。孝明天皇の攘夷原理主義が最高点に達した一瞬である。

 ともあれ通商条約勅許問題は、朝幕関係を決定的に転換させた。天皇・朝廷が幕藩体制の付属物から自立し、現実政治を動かす権力を持つに至ったのである。同時、それは攘夷と討幕が大衆的に結合する起点ともなった。

                                (続く)
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天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(4)

海防勅書

 孝明天皇が即位した1846年3月(弘化3年2月)といえば、清国が阿片戦争でイギリスに蹂躙された記憶もまだ新しい時期、わが国にもアメリカ、イギリ、フランスの軍艦が来航して航路・港湾の測量や通商を要求することが頻繁になっていた。

 祖父光格天皇から天照大神、神武天皇に伝わる万世一系の皇統の教えと、それをバックにした強烈な君主意識を叩きこまれた孝明天皇は、この状況に条件反射し、光格天皇も成しえなかった挙に出た。同年10月21日(弘化3年8月29日)、幕府に要旨以下の如き勅書を下した。

 「近年異国船がときどき来航するという噂を耳にしている。幕府は、異国を侮らず畏れず海防を一層強化し、『神州の瑕瑾』とならないように処置し、宸襟を安んじるように」
 
 世にこれを海防勅書と呼んでおり、天皇が幕府の対外政策に直接介入したはじめてのできごとである。

 さらに武家伝奏は、上記勅書を伝達する際、(要旨)「異国船の儀、文化度の振り合いもあるから、差し支えない範囲で、最近の状況を報告されたい」との要望を付け加えている。「文化度の振り合い」とは、1807年(文化4年)、幕府が朝廷に、蝦夷地に来航したロシア船との紛争を報告した先例に倣ってという趣旨である。

 幕府は、これを異例・異式として咎めるどころか、同年11月21日(弘化3年10月3日)、要旨以下の回答を行った。

 「先般のお沙汰は、将軍に言上されることになりました。最近の異国船渡来の模様については、老中より、文化度の振り合いでよろしく取り計らえとの意向が示されましたので、禁裏付武士へ伝えました」これにより、幕府は、対外情勢を朝廷に報告することが慣例化し、外交問題に関し、天皇・朝廷が幕府に、指示・要求を出せる仕組みのひな形となる。

五畿内七道諸国司への太政官符

 1853年(嘉永6年)と翌年のペリー来航と日米和親条約については、あたらしくできた慣例に従い、幕府から朝廷に対し、報告がなされた。これに対し、孝明天皇は、武家伝奏を通じて、「アメリカへの回答を行うにあたっては「神州の一大事であり、人心動揺により国内が混乱し、国体を辱めることがないように」と一般論的な叡慮を伝えさせるにとどめざるを得なかったが、その際、老中阿部正弘らから、幕府としては、アメリカへの回答は穏便に扱わざるを得ませんが、叡慮を安んじることを重視しています、今後、こうしたいと思われることがあれば遠慮なくお申し付け下さい、お申し付けに従いあらためて対応をします、との返事を得た。

 天皇・朝廷が、幕府に対し、指示・要求を出せる仕組みが確認されたのである。しかし、このチャンスに、朝廷において、アメリカへの回答をめぐって意見対立があり、幕府への大政委任論の立場から、幕府に任せるべきだという意見が大勢を占めた。

 日米和親条約締結直後の1854年11月8日(嘉永7年9月18日)、今度は、ロシア使節・プチャーチンの乗る軍艦ディアナ号が大阪湾天保山沖に来航した。お膝元を不意打ちされて動転した孝明天皇と朝廷は、1855年2月9日(安政元年12月23日)、国家的危難を救うためとして、五畿内七道(古代日本の律令制国家の広域地方行政区画)の諸国司へ「諸国の寺院の梵鐘」を「皇国擁護の器」である大砲に鋳かえることを命じる太政官符を発した。これは内容といい、また形式といい、あまりにもアナクロニズムであり、かつまた梵鐘を大砲に鋳かえることは不穏当ということで、実効ある命令とはならなかったが、幕藩体制と朝幕関係を根本から揺るがす大事件であったことは否定できない。以後、幕府は、天皇・朝廷の意向を重要視せざるを得なくなって行く。

                                (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(3)

「天皇」の尊号復活

 古来、「天皇」の尊号は、死去後におくられる諡号(しごう)もしくは追号(ついごう)として用いられてきた。このように使用されてきた「天皇」の尊号が、10世紀の終わり村上天皇(在位946年~967年)以来、実に、約900年にわたって中断されていたと聞くと、多くの人は意外に思うかもしれない。この間、「院」の号が「天皇」の尊号にかわって用いられてきた。
 江戸時代に編纂された公家・朝廷の職員録『雲上明覧』では、村上天皇の次は冷泉院、光格天皇の先代は後桃園院、その間も全て「○○院」と表記されている。

 なんのことはない。金のあるものは、貴賎を問わず死後には、「○○院」の称号を授かっていたのである。この世に先がけて、あの世では、四民平等であった。

 これまで光格天皇と書いてきたのでそのまま続けるが、光格天皇は、1840年(天保11年)死去した。すると死去した翌年、閏正月に、彼に、「光格天皇」なる諡号(しごう)がおくらた。だから光格天皇と称されるのは、死後のことなのである。

 これは、幕末の動乱に引き継がれる直前の不安定な時代に、38年間在位、院政の時期も含めると41年間、天皇と朝廷の地位引き上げに腐心し、多大の功のあった怪物といってもよい異例の人物であった彼には、ふさわしい処遇であったと言ってよい。

 しかし、こうしてできた先例は、これ以後、引き継がれる。もっとも1868年10月23日(慶応4年9月8日)発せられた明治改元の詔により、天皇一代元号一つという一世一元の制が定められてからは、「元号+天皇」の尊号が用いられるようになったのであるが。
 「天皇」の尊号復活は、現実政治においても独り歩きし、当代の天皇の格式と威厳を一層高めることになった。もはや朝幕関係において、天皇・朝廷優位は動かし難い現実の力を持つに至るのである。

 なお、冷泉院から後桃園院に至る57代の「院」が「天皇」と呼称されることに改められたのは、1925年(大正14年)のこと、時の政府が、わざわざそのようなことを定めたのである。しかし、歴史は上書きをしても消去はできない。

攘夷原理主義と大政委任論原理主義の狭間で

 さて、光格天皇がこねた王政復古餅、ついて完成させたのは孝明だと藤田覚氏は言われたが、その孝明天皇が即位したのは、1846年3月(弘化3年2月)、以来、彼は、1867年1月(慶応2年12月)、死去するまで、文字通り、幕末動乱の時代を、悩み、苦しみ、もだえつつ生き抜いた

 孝明天皇は、この動乱の時代に、一方では硬直した攘夷原理主義者として、名もなき衆生を政治の世界に引きずり込み、他方では、これまた硬直した大政委任論原理主義者として、公武一体論に固執し、前者によって討幕論にまで突き進んだ勢力から、その勢いをそぐ障害物とみなされることになる。

 その死について、岩倉具視による毒殺論など学者による論争まで行われているが、その生きざまの鮮烈な印象がそうさせている一面もあるようである。

 いずれにしても、孝明天皇は、天皇・朝廷の地位・権威を、もはや将軍・幕府も手を触れることができないほどの高みに引き上げた。その経緯の若干を次回に述べることとする。

                         (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(2)

やり過ぎた光格天皇

 光格天皇は、天皇家では傍系の閑院宮家出身であることは既に述べた。その父、典仁親王は、6代前の東山天皇の孫である。当時、前出の禁中並公家諸法度によれば、御所内で着座する際の席順は、親王は、摂政・関白はおろか太政大臣、左大臣、右大臣よりも下座ということになっていた。光格天皇は、即位後、父が臣下よりも下座に着座するのを見るにつけ、心中ひそかに父を思いやっていたようである。

 父へのしのびない情が嵩じて、光格天皇は、父に太上天皇の尊号をおくることを思い立ち、即位後3年ほどしてから幕府に承認を求めようと動き始める。
 光格天皇は、父への親孝行と先例があることを理由にあげたが、幕府側の対応は、「なお再考を求む」であり、なかなか思うようには進まなかった。
 幕府側の考えは、要するに認めないということだと知った光格天皇は、1792年(寛政3年)1月、公卿(高位の公家)らの群議を経て、一方的宣下により強行突破を図ろうとした。一方的宣下の方針通告を受けた幕府側の責任者松平定信は、事態を紛糾させた責任を問うべく天皇側近の公卿2名を江戸に呼びつけ、厳しく尋問、閉門・蟄居の処分を申し渡した。

 光格天皇も、その力を過信したようだ。父典仁へ尊号を一方的に宣言しようとする試みは挫折した。しかし、彼は、これを反省し、その後は伊勢神宮、賀茂社、石清水八幡宮などの神事再興に力を尽くし、折から切迫する内外の危機に、祈る天皇としてその存在価値を高めることとなる。まことにしたたかなお方であった。

大政委任論の台頭

 危機の時代には、統治権力の権威と正当性がかえりみられ、その論理的説明が図られるものである。

 天明の大飢饉後の1787年(天明7年)の年に、本居宣長は、『たまくしげ』を著し、その中で、「天下の御政(おまつりごと)」は、朝廷の「御仁(みまさし)により徳川家康とその子孫が代々おこなってきた、国土と王民は、天皇が将軍に預けたものであるからその私有物ではないという趣旨のことを書いている。

 江戸時代、大政は天皇から将軍に委任されたものであるという考え方を公然と説いたものはこれが嚆矢である。

 光格天皇と対峙したあの松平定信も、幕府の統治権力が黄昏れはじめたことを自覚し、側近の儒者の意見を徴し、この考え方こそ、その統治権力に生きた力を与えるものであることを認識していた一人であった。

 松平定信が、1788年(天明8年)、年若い将軍家斉に献呈した『将軍家御心得十五箇条』には、「古人も天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申し候、まして六十余州は禁廷より御預かり遊ばれ候御事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候、将軍と成らせられ天下を御治め遊ばれそうろうは、御職分に御座候」と書かれていた。
 1791年(寛政3年)、後期水戸学の祖と言われる藤田幽谷が、幕府が朝廷を尊ぶことにより諸大名は幕府を尊び、家臣は大名を尊ぶことを説いた『正名論』も、松平定信の求めに応じて書かれたものだという。

 実にこれ以後幕末にかけての対外問題の処理を通して、この大政委任論の革袋に酒がつぎ込まれていくことになる。大政成委任論は、当初の目論見を超えて、朝幕関係を、一気に天皇・朝廷優位に転換するバネとなった。

                              (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(1)

 「戦国時代の群雄割拠を終焉させて天下統一を実現した英雄三人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について、『織田がこね 豊臣がつきし天下餅 食らうは徳川』と言い表わされるのは有名である。これをもじって明治維新の王政復古を三人の天皇、光格天皇、孝明天皇 明治天皇で表現してみると『光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治』ということになろうか。」(藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫))

 幕府の支配下にあった天皇・朝廷

 戦国時代、没落し、疲弊の極に呻吟していた天皇と皇室は、天下統一の過程で、覇者による支配に権威と正当性を与え、位階・官職を授与することで家臣・諸大名を圧服する道具として、その存在意義を見出され、覇者の庇護を受けて、存続することができた。

 徳川幕府が成立し、幕藩制統治システムが成立すると、1615年、「禁中並びに公家諸法度」が制定され、天皇と朝廷は、幕府の定める法令により規律されることになった。

 幕府による天皇、朝廷支配は、将軍⇒老中⇒京都所司代⇒禁裏付と順次下達され、公家の武家伝奏⇒関白⇒天皇と「上達」され、貫徹する仕組みとなっていた。

 上記諸法度第1条には「天子諸芸能の事、第一御学問なり」と天皇の在り方が定められおり、第11条には「関白、伝奏並びに奉行職事申し渡す儀、堂上・地下の輩相背くにおいては、流罪たるべき事」と朝廷官人(堂上は殿上人、地下は昇殿を許されない官人)が幕府の刑罰権に服することが定められている。幕末に激変するのであるが、それまでの朝幕関係の実際を見ると、幕府の威令は天皇、朝廷を覆っていたことがわかる。
 経済的にも、幕府が献上した禁裏御料3万石や上皇・公家所領など、朝廷の支配下にある所領は10万石、一貧乏藩の域にしか達し得ず、天皇、朝廷は、幕府の丸抱えと言うに等しい状態であった。

 幕府による天皇と朝廷支配にかげりが見えるのは、18世紀末頃からである。直接の契機となったのは1782年(天明2年)、天明の大飢饉である。幕府のおひざ元ともいうべき関東地方各地に頻発する大規模な百姓一揆は、幕府、将軍の威光を容赦なく叩きのめす。それと反比例して、尊王思想が、勃興する。

光格天皇による天皇・朝廷の地位引き上げの努力

 この流れに掉さし、上手に身をまかしたのは光格天皇であった。

 光格天皇は、傍系の閑院宮家出身で、1779年(安永8年)12月、即位し、1817年(文化14年)5月に退位するまで(退位後の1840年(天保11年)12月崩御までは上皇。歴史上最後の上皇である。)、天明大飢饉後の尊王思想の民衆への普及と幕府の朝廷尊重姿勢への微妙なポジション移動を読み取って、窮民救済を指示し、民衆の支持を確固たるものとし、宮中の神事・祭式を復興させ、先例に基づいて朝議を復興させ、天皇の威厳を高めて行った。

 1782年(天明2年)、天明の大火により京都御所が灰燼に帰すると、光格天皇は、消失前の御所ではなく古式の復古的御所の造営をすることを幕府に求めた。財政難の中、造営費を節約したい幕府は、事を重大と見て、老中松平定信を御所造営の総奉行に任命、復古的御所造営を断念させようとしたが、この交渉の中で、朝廷側は、プランをまとめて幕府側に突き付けるという従来なら考えられない強引なやり方をとり、光格天皇の初志を貫徹し、1790年(寛政2年)、復古的御所が完成すると、仮住まいの聖護院を出て、鳳輦(ほうれん)に乗り、美々しい行列を従えて、新しい御所に移った。

 このときの朝幕間の交渉において、もう一つ大きな変革がもたらされた。それは、従来、朝廷側の武家伝奏が一方的に京都所司代の屋敷に赴くというやり方であったが、光格天皇は、これは昔からそうであったわけではないから改めるできであると主張し、京都所司代の役人も、武家伝奏の屋敷を訪れるようにさせたことである。

 このようにして次第に、天皇・朝廷の地位は引き上げられ、朝幕対等の関係が築かれていくことになった。

                           (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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