対日占領体制  その10

4 まとめ

(冷戦の始まり)

 対ソ関係は、これ以後悪化の一途をたどる。1946年2月には、駐ソ代理大使としてモスクワに赴任していたケナンが、「ソ連封じ込め」を説く異例の長文の電文をワシントンに送った。これはアメリカ政府高官の間で回し読みされ、大きな影響力を与え、これ以後、アメリカのソ連対決路線が顕著になって行くことになる。

 既に見たようにモスクワ協定中には、原子力の国際管理及び原子力兵器の禁止などのために国連に原子力委員会を設置することに関する合意もあった。この合意は、原爆を既に実戦に用いたアメリカ陸軍長官スティムソンのトルーマンに対する必死の訴えに基づいて進められたものであった。スティムソンは、原子力の秘密は独占できるものではなくアメリカの優位は過渡的なものに過ぎないから、むしろ原爆製造の秘密を積極的にソ連に提供し、共有することにより、共同管理をすることにより激しい軍拡競争を未然に防ぐようにするべきだと主張した。

 スティムソンの主張には、猛然たる反対があった。たとえばフォレスタル海軍長官は、原爆製造の知識は「アメリカ国民の財産」である、「われわれはヒトラーを当てにした。だがここで再び宥和を繰り返しても得るものは何もない。」などと述べた。しかし、モスクワ会談前の段階では、アメリカの政策には反映されなかった。
 上記の合意に基づいて、1946年1月24日に開催された第1回国連総会において、原子力委員会の設置が米英ソ三カ国の共同提案になる原子力委員会設置の件が満場一致で採択された。原子力委員会は、設置後速やかに、原子力の平和利用のための基本的な科学情報の交換、原子力が平和利用のためにのみ利用されるのを見とどけるための管理手段、各国の兵器庫から核兵器や他の大量殺戮兵器の撤廃、協定遵守国を危険な違反や言いのがれから守るための安全措置に関して速やかに報告書と勧告書をまとめることとされた。

 しかし、その直後からアメリカの政策転換が劇的に始まる。トルーマンからアメリカの国連原子力委員会主席代表に指名されたバルークが、画策を始め、6月14日、国連原子力委員会において、効果的な管理体制が機能しはじめ、違反に対する厳格な罰則が制定されてはじめて、原爆の製造中止、現存する原爆の廃棄という次の段階に移るとする考え方をアメリカ案として呈示するに至った。これは実質的に、アメリカの原爆独占を維持しようとするに等しい提案であった。
 ここに発足早々に国連原子力委員会は機能マヒに陥ることとなり、人類は、核軍拡競争を未然に防止すべきチャンスを逃してしまった。

 1947年1月、トルーマンの信を失ったバーンズに代わって長らく陸軍参謀総長を務めてきたマーシャルが国務長官に就任する。マーシャルは、ケナンを重用し、就任早々国務省に政策企画室を新設して、その室長に迎えた。これ以後、アメリカのソ連封じ込め政策は本格化する。いわゆるトルーマン・ドクトリンが議会での特別教書演説で打ち出されたのは同年3月のことであった。ギリシャ、トルコへの経済的・軍事的支援への賛意を議会からとりつけるために、ソ連共産主義体制ドミノ論を宣命したのである。

 これをもって冷戦の始まりとするのが一般的な見方である。マッカーサーの占領管理も、少し遅れるが、これに追随する。
  
 戦争は、国民を煽りたて、憎悪の坩堝に投げ込んでしまう。冷戦も同じである。アメリカは、国内に反共ヒステリーが渦を巻き、外交もこれに規定されて行く。一方のソ連も逆のベクトルに規定されて行く。

 ケナンは、まもなくこれを冷静に見る立場に移る。晩年、ベトナム戦争に反対する視点を持った彼は、上記の長文電報と後にその趣旨を敷衍した『ソヴェトの行動の源泉』というタイトルの論文(外交評論誌『フォーリン・アフェアーズ』1947年6月号に「X氏」なる匿名で掲載された。)で説いたソ連封じ込めとは、軍事的意味を持つものではなかったと述懐している。あの反共ヒステリーがベトナム戦争を不可避のものとしてしまったと。

 彼が晩年説いたような冷静な見方が、共有されていたならば、戦後国際社会は、早い段階でイデオロギーや体制を超えて諸国家が競争・共存し、国連を中心とした平和、安定、正義の国際秩序が構築されていたかもしれないし、日本も米国の従属国ともいうべき地位に甘んじることはなかったかもしれない。

 本稿『対日占領体制』は、それができなかった原因とそこからくみ取るべき教訓を考える端緒に過ぎない。                         
                    (了)


参考文献

①豊下楢彦『日本占領管理体制の成立』(岩波書店)
②五百旗頭真『米国の日本占領政策』上・下(中央公論社)
③同『戦争・占領・講和』(中公文庫)
④同『占領期 首相たちの新日本』(講談社学術文庫)
⑤坂本義和/R・E・ウォード編『日本占領の研究』(東京大学出版会)
⑥竹前栄治『戦後占領史』(岩波同時代ライブラリー)
⑦雨宮昭一『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(岩波新書)
⑧西崎文子『アメリカ冷戦政策と国連 1945-1950』(東京大学出版会)
⑨ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)
⑩アーネスト・メイ『歴史の教訓 アメリカ外交はどうつくられたか』(同上)
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対日占領体制  その9

4 まとめ

(対日占領体制に関する取り決めの形骸化)

 枢軸国諸国を無条件降伏させることにより、ファシズム、ナチズム、軍国主義を一掃してこれら諸国を平和・民主国家に造りかえ、包括的国際機構(国際連合)を設立して戦後の国際社会を平和、安定、正義の新しい秩序の下に置く。これは今次大戦を戦う目的であり、その目的は連合国の共同行動によって達成される。このことは連合国のコンセンサスがあった。そうである以上共同行動の原則は、占領そのこと自体においても貫徹されなければならない。そうでなければ竜頭蛇尾に終わってしまうことになる。
 それどころか占領が、共同行動の原則に反し、一国の意思を貫徹する単独占領体制とするということは、枢軸国諸国を当該占領国の影響力の下に置く、つまり当該占領国の勢力圏に取り込む結果をもたらすことになる。これは世界をいくつかの大国を盟主とする勢力圏に分割することにほかならず、包括的国際機構(国際連合)により、個別国家の野心、野望、国益万能主義を抑え、国際社会に平和、安定、正義をもたらそうという構想が死を宣告されるに等しいことになる。

 国際社会をいくつかの勢力圏に分割し、これらのバランス・オブ・パワーによってかりそめの平和を求めることが如何に空しいことであるか。それは、結局は、戦争を引き起こすことにつながることになる。このことは第一次大戦、第二次大戦の痛切な教訓ではなかったのか。

 イタリアに始まり、ブルガリア・ルーマニア・ハンガリーの東欧の枢軸諸国を経て、ドイツ、日本と、占領体制をめぐって、米英ソの連合国の主要国は、激しくせめぎ合った。最初、米英がソを事実上排除し、ついでソが米英を排除し、次いで分割占領、そして最後は米の単独占領体制。これを巻き戻そうとする最後のギリギリのところでの努力が、ようやく上記モスクワ協定に結実した。

 モスクワ協定は、アメリカ国内で、当初、歓迎された。12月7日付ニューヨーク・タイムズも、「平和への新しいスタート」との見出しの下に、以下のように論評した。

「あらゆる点において、ドイツと日本が降伏文書に署名して以来、世界に示された最も希望に満ちた文書である。」
「新しい対立の暗雲を」を吹き払い、「いかなる国際的解決においても最初の本質的なステップ」を成すもの。
「要するにそれは平和の勝利であり、その意味において人類の勝利である。」 

 しかし、それもつかのまのことであった。軍部、政界保守派が、モスクワ協定攻撃の狼煙をあげた。たとえば、ルーズベルトの下で合衆国陸海軍最高司令官(合衆国憲法第2条第2節第1項により、大統領が陸海軍最高司令官となる。)付参謀長を務めた海軍の長老リーヒ提督は、これを「宥和文書」と断じて非難した。共和党の重鎮ヴァンデンバーグ上院議員もこれに続き、1938年9月、イギリス、フランスが、ナチス・ドイツにチェコ・スロバキアのズデーデン地方を割譲することを認めたミュンヘン協定になぞらえて「ソヴィエトのミュンヘン」と決めつけ、トルーマンに圧力をかけた。

 これを機に対ソ強硬派が、公然と声をあげ、国内世論をリードし始めた。ソ連をナチス・ドイツとパラレルに置き、全体主義国と断罪する議論が一般化した。
 1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻した際に、ナチスと共産主義が共食いしあうことを望んだほどに強硬な反ソ主義者であったトルーマンも、敏感に反応した。彼は、バーンズ外交は「対ソ宥和外交」であると見なし、そのバーンズ外交との決別を決意するに至る。1946年1月6日付バーンズ宛書簡(実際には、トルーマンの手元に留められたようである。)には、ソ連の脅威を指摘とともに、「もはや妥協をなすべきとは考えない」、「私はソ連を甘やかすことに疲れた」などとソ連に対する激しい非難の言葉が書き連ねられていた。

 モスクワ協定は、協定当事国であるアメリカの大統領によって事実上否定されるに等しい事態に立ち至った。枢軸国各国に対する占領体制の巻き戻しはおろか、米ソの関係は、もはや修復不能な地点に達してしまった。

 対日占領の実情を見ると、そもそもマッカーサーは、アメリカ政府のコントロールさえも及ばない独立王国を築きつつあると言っても過言ではないように事を運んでいた。その上、モスクワ協定が、国内の反発を受け、大統領による支えを失ってしまっている以上、対日占領体制に関する取り決めもその規範性は乏しくなり、形だけのものになってしまった。マッカーサーが、事実上、これを無視して占領管理にあたったことはむべなるかなと言うべきか。         

対日占領体制  その8

2 対立と協調のはざまで(続)

(事実上の単独占領体制―アメリカは何を根拠としたのか)

 では、アメリカはそのような事実上の単独占領体制をとる根拠をどのように説明しているのであろうか。アメリカが挙げているのは、ポツダム宣言に関するバーンズ回答書、マッカーサーを連合国最高司令官に任命した文書及び降伏文書である。

・ バーンズ回答書
  日本がポツダム宣言受諾するに際し、「右宣言ハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」と条件を付したことに対し、8月11日、バーンズ国務長官が米英ソ中4ヶ国を代表して回答した文書。その要約ないし抜粋は以下のとおり(日本外務省訳による)。
 ① 「天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官に制限の下に置かれるものとする。」
 (原文は「 the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.」。 正しい訳は「天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官に従属する。」となるところだが、国体護持に固執する軍部等の反発を危惧して苦肉の「意訳」したものと指摘されている。)
 ② 天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し降伏文書に調印させ、全軍の武装解除、戦闘行為の停止、降伏条項実施のため最高司令官の要求に従い命令を発すること。
 ③ 日本国の最終的政治形態は、『ポツダム宣言』に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定される。
 ④ 「連合国軍隊は、『ポツダム宣言』に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に留まる。

・ 連合国最高司令官任命にあたり英ソ中首脳に送った書簡 
 8月11日、トルーマンが、英ソ中首脳に送った書簡で、マッカーサーを連合国最高司令官に任命することを伝え、各首脳はこれを了承している。
 もっとも同文書には「日本軍隊の全面降伏を受理し、調整し、実施する」とあるだけであったし、任命書にも連合国最高司令官の任務を「日本の降伏を実施する」と定めているに過ぎなかった。

・ 降伏文書(9月2日)
 「日本軍と日本軍の支配下にある軍隊の無条件降伏を実効あらしめる具体的措置を取り決めるとともに、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と、上記バーンズ回答書の①が再確認されている。

  しかし、これらをもってアメリカの単独占領体制をとる根拠とするのはその文言内容からも疑問である。これらは、イタリア、東欧枢軸諸国の占領体制をめぐって延々と続けられた議論の経過を踏まえて解釈すれば、要するに降伏受理、即ち軍事的措置としての連合国最高司令官の権限、任務を定めに過ぎず、軍事的措置を超える、全般的占領体制にまで及ぶものとは必ずしも読みとれない。

(アメリカの動揺)

 この問題が、米ソの間で本格的に議論されたのは、9月11日から開催された米英ソ中仏の五カ国の外相によるロンドン外相理事会(ロンドン外相理事会は上記のとおりポツダム会談で設置が決められている。これはその第1回会議である。)の場においてであった。
 イギリスはこれに先んじて対日占領政策の形成に実質的権限を有する連合国管理理事会(ACC)案を各国に伝えていたが、ベヴィン外相からは表立った発言がなかったのでかわってイギリス案を持ち出したのはモロトフであった。対日占領の現段階は、「純粋に軍事的な局面」は終わって政治・経済・財政上の問題に直面しており、ACCを東京に置き、ACCが占領行政を指揮する段階にあると彼は論じた。
 これに対し、ヨーロッパ諸国の講和問題のみを話し合う予定であったバーンズは、ベヴィンとの間で内々の妥協案を約束して、表ではこの問題を議題としないという対応をとった。一方、モロトフはあくまでもこの問題は緊急性があるとして議題とすることを求めた。結局、米ソの激突で、第1回ロンドン外相理事会は決裂してしまった。
  
 一旦は、共同行動の原則から離脱しようとしたものの、予想に反するソ連の強硬な反撃にあってバーンズは動揺したようだ。
 この対日占領体制問題は、アメリカの外交にとって実に難しい問題であった。それは東欧の枢軸諸国の問題にアメリカは一切嘴をさしはさむことが出来なくなることを意味するし、ドイツ問題にも悪影響を及ぼす。ヨーロッパや極東でソ連の政治攻勢も予測される。せっかく憲章を採択した国際連合の前途にも黄信号が灯る。
 ロンドン外相理事会決裂後、バーンズは辞任に傾いた。そのバーンズを説得して思いとどまらせ、事態の改善のために動いたのはハリマン駐ソ大使であった。ハリマンは、スターリンと面談して、落とし所をさぐり、バーンズとモロトフの間を取り持った。バーンズ、モロトフの間で、対日占領体制に関する文書上のやりとりが繰り返された。その結果、ようやく米英ソ三カ国外相会議開催にこぎつけることができた。

 12月15日からモスクワで開催された三カ国外相会議では、対日占領体制に関する件のほか、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーおよびフィンランドに対する講和条約の件、 朝鮮独立と当面の過渡的措置、 中国統一の促進、 原子力の国際管理及び原子力兵器の禁止などのために国際連合に原子力管理委員会を設置する件などが話し合われ、これらの問題についての合意が成立し、文書確認がなされた。これがモスクワ協定と呼ばれる歴史的文書である(12月27日公表)。

 モスクワ協定では、先のロンドン外相理事会決裂の要因となった対日占領体制の件について、以下のように取り決められた。
 
① すでに設置していたFEACにかえて、東京に連合国対日理事会(Allied Council for Japan ACJ)を設け、ワシントンに極東委員会(Far Eastern Commission FEC)を置く。
② ACJは最高司令官の諮問機関であり、米英ソ中四カ国の代表者で構成される。
③ FECは、対日占領政策の決定機関である。
  アメリカ政府は緊急事項が発生したときは委員会が行動をとるに至るまでの間最高司令官に対し中間指令を発することができる。ただし、日本国の憲政機構もしくは管理制度の根本的変革を規定し、又は全体としての日本国政府の変更を規定する指令は委員会における協議及び意見の一致の達成後においてのみ発せられる。
  米・英・仏・ソ・中・蘭・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・インド・フィリピン・(後にパキスタン・ビルマ)の代表者で構成される。

対日占領体制  その7

2 対立と協調のはざまで(続)

(事実上の単独占領体制)(続)

 占領体制の問題は、イタリアに始まり、東欧の枢軸諸国とドイツをめぐりめぐって、日本がその終着点になったのであるが、それは有終の美を飾ることはできなかった。対日占領体制は、分割占領となったドイツはさておき、イタリアに比しても、東欧の枢軸諸国に比してもグロテスクなものとなってしまった。イタリアでは連合軍は米英二カ国の軍隊が統合参謀長会議の下に戦い、米英両国が共同占領し、ソ連は事実上オブザーバーとされたのであった。東欧の枢軸諸国では連合軍と言ってもそれはソ連軍単独であり、ソ連が単独占領し、米英両国は事実上のオブザーバーであった。しかし、日本では、連合国軍は、アメリカ軍だけではなく、イギリス軍も、中国軍も、ソ連軍も連合国の一員として戦った。アメリカの単独占領、英ソ中の各国はオブザーバーというのは筋が通らない。ましてやアメリカはしきりに東欧枢軸諸国の占領体制に非を鳴らし、実質的参加を求め続けていたのであるから。

 実はアメリカも、主導権をいかに確保するかに腐心しつつも連合国の共同占領の方策を検討していた。そのことはSWNCC70シリーズの文書に痕跡を留めている。また軍部レベルの検討過程では、日本分割占領案も起案されている(JCSの下部機関である「統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee JWPC)」のJWPC385-1「日本および日本領土の最終的占領」)。しかし、これらは最終的には却下されてしまった。
 さらに対日占領体制として、米英中の三カ国、ソ連参戦した場合にはソ連も加えた四カ国を常任国とする「太平洋・極東高等委員会」を設置し、日本の戦後処理から戦争終結後の太平洋・極東地域の諸問題の調整など勧告行う権限を付与する案が検討されていた(SWNCC65-1)。しかし、その後の検討過程で、「太平洋・極東高等委員会」構想は、単なる諮問機関に過ぎない「極東諮問委員会(Far Eastern Advisory Commission FEAC)」に矮小化されてしまった。

 このようにして、しかも他国と何らの協議をすることもなく、アメリカが、事実上の単独占領体制を決めてしまったことは、どうやらこれまでの共同行動の原則、更には、米英ソ中、それに仏を加えた五大国が安全保障委員会の常任理事国として国際連合という包括的国際機構を仕切り、国際社会の平和、安定、正義を守るとう理想から離れ、アメリカが一部の同盟国とともに安全保障体制を確立するのだという安全保障戦略に転換しようとしていることを示しているようだ。

 かつてアメリカはモンロー主義の国として知られていた。ウイルソンは、第一次大戦後の国際社会のあり方、平和原則をかの「ウイルソンの14箇条」のとして提言し、国際連盟による平和維持を謳いあげた。しかし、モンロー主義の伝統を墨守せんとする国内保守派に厳しい足かせをかされ、国際連盟に加盟することさえできなかった。ルーズベルトは、アメリカを、ナチズム、ファシズム、軍国主義と戦う陣営に参加するために、このモンロー主義と対峙しつつ、ステップ・バイ・ステップで、歩みを進めてきたことは既に述べたとおりである。
 しかるに直接戦争の当事者となって4年にもならないのに、アメリカも、巨大な軍事力を持つに至り、軍事優位の思想と政治に絡みとられてしまったようだ。アメリカが世界の警察官になる布石は、この段階で打たれたといってよい。

 注: ウイルソンの14箇条・・・1918年1月8日、ウッドロー・ウイルソン大統領が、年頭教書演説で、第一次大戦後の国際社会のあり方を、14箇条に整理し、提言したもの。以下のとおり。
① 講和の公開、秘密外交の廃止
② 公海の自由
③ 公正・平等な通商関係
④ 軍備の縮小
⑤ 植民地問題の公正な措置
⑥ ロシアからの撤兵とロシアの自由選択
⑦ ベルギーの主権回復
⑧ アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還
⑨ イタリア国境の再調整
⑩ オーストリア=ハンガリー帝国の民族自決(オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障)
⑪ バルカン諸国の独立保証
⑫ オスマン帝国支配下の民族の自治保障とダーダネルス海峡の自由航行。
⑬ ポーランドの復活・独立の承認
⑭ 包括的国際機構(国際連盟)による平和維持

対日占領体制  その6

2 対立と協調のはざまで(続)

(2)対日占領体制
  
(事実上の単独占領体制)

 アメリカ国務省が、日本の戦後処理に関する研究に着手したのは1942年8月、知日派と言われる日本の政治・文化に精通した人たちを集めて特別調査部に極東班を置いてからのことである。
 極東班は、従前の外交関係協議会・極東グループの先行研究を引き継ぎ、領土処理、戦犯問題、占領の範囲と期間、占領軍の国家的構成、占領軍政の権限、天皇制の取り扱いをはじめとする戦後日本の政治・経済のあり方などの基礎的研究を進め、1943年6月頃までに多くの実りある成果をあげた。
 それらの研究成果は、政策決定機構・・・当初は国務長官を長とする「戦後対外政策に関する諮問委員会」(主としてその下部組織である「領土小委員会」)、1944年2月からは国務長官を議長とする「戦後計画委員会(Post-War Programs Committee PWC)」(主としてその下部組織である「国と地域委員会(」(Interdivisional Country and Area Committee CAC)」・「極東に関する地域委員会(極東地域委員会)」)、1945年1月以後は「国務、陸軍、海軍三省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee SWNCC)」(その下部組織である「極東小委員会(Subcommittee for the Far East SFE)」と「統合参謀会議」(Joint Chiefs of Staff JCS)及び「統合計画参謀(Joint Staff. Planners JPS)」等その下部機関)・・・で具体的に政策文書化される段階で、変容を免れなかったが、そのエッセンスは最終文書に至るまであとを留めていると言ってよい。

 具体例をあげてみよう。対日占領政策の根幹を扱った一連の文書はSWNCC150シリーズ「日本降伏後の米国の初期対日占領方針」として知られているが、そのエッセンスは、上記極東班で起案した「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」であった。そこには領土についてはカイロ宣言を予告する内容が、軍事面では非軍事化が、経済面では軍事につながる重工業は抑制されるものの戦後の国際経済への復帰は認めることが、さらには他国の権利を尊重する政府を樹立すべきことなどが示されていた。
 SWNCC150-1は、SWNCCで6月11日採択されたものであるが、①日本国の主権の及ぶ範囲、②武装解除と軍国主義者の一掃、③自由と人権の尊重、民主主義の奨励、民主主義勢力の助長、④経済の非軍事化、⑤平和的経済活動の再開などが掲げられている。これらの項目を見るだけでも、ポツダム宣言の基礎となっていることがわかる。

  注: ポツダム宣言

   第1項から第5項は降伏勧告と警告。第6項から第12項の要約ないし抜粋は以下のとおりである。
 ⑥ 「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。」
 ⑦ 我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点を占領。
 ⑧ カイロ宣言の履行。「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られる。」
 ⑨ 日本軍は武装解除。各自は、「家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。」
 ⑩ 戦争犯罪人の処罰。「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」
 ⑪ 経済復興すること、軍事以外の生産手段を保有すること、将来国際貿易に復帰することが許可される。
 ⑫ 「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。」
「この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。」
 第13項は再度の警告に続いて「我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。」として、第10項とともに国家機構、政府を解体せず、直接統治(軍政)をしくものではないことを明示している。


 ところでSWNCC150-1では、直接軍政がしかれることが明示されていた。この部分は、ポダム宣言で間接統治とされたのを受けて、間接統治に書き改められた。その上で、8月31日のSWNCCは、これを確定し、9月6日に大統領が承認を与えた(22日国務省が発表)。

 そのSWNCC150-4Aでは、「軍事占領」の項として、以下のように記述されている。

 「降伏条項ヲ実施シ上述ノ究極目的ノ達成ヲ促進スル為日本国本土ハ軍事占領セラルベシ右占領ハ日本国ト戦争状態ニ在ル聨合国ノ利益ノ為行動スル主要聨合国ノ為ノ軍事行動タルノ性質ヲ有スベシ右ノ理由ニ因リ対日戦争ニ於テ指導的役割ヲ演ジタル他ノ諸国ノ軍隊ノ占領ヘノ参加ハ歓迎セラレ且期待セラルルモ占領軍ハ米国ノ任命スル最高司令官ノ指揮下ニ在ルモノトス協議及適当ナル諮問機関ノ設置ニ依リ主要聨合国ヲ満足セシムベシ日本国ノ占領及管理ノ実施ノ為ノ政策ヲ樹立スル為有ラユル努力ヲ尽スベキモ主要聨合国ニ意見ノ不一致ヲ生ジタル場合ニ於テハ米国ノ政策ニ従フモノトス」
 (出典:日本政治・国際関係データベース/政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)
 
 これは、事実上、アメリカによる単独占領体制をとることを示している。
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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