「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その20

天皇制の軍事利用の包括的企画書

 2004年夏、加藤は、アメリカ国立公文書館(National Archives and Records Administration「NARA」)で、戦略情報局(OSS)関係資料の山の中から、1942年6月3日日付アメリカ陸軍省軍事情報部心理戦争課「日本計画(最終草稿)」なる文書を発見した。これは、実に、天皇制を利用した「情報戦」の企画書ともいうべき文書であった。

 「日本計画(最終草稿)」の公式の起草者は、当時、アメリカ陸軍省軍事情報部心理戦争課長で、アメリカ心理戦共同委員会議長のオスカー・ソルバート大佐であった。
 「日本計画(最終草稿)」はダイジェスト版3頁、本文32頁からなり、その内容は、対日戦争に軍事的勝利をおさめるため、敵国日本の内部に矛盾を作り出すことを狙いとしたプロパガンダ戦略の提言と具体的立案である。

 まずダイジェスト版の概略から。

 「日本の軍事作戦を妨害し日本軍の士気を傷つける」、「日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる」、「日本軍当局の信頼をおとしめ、打倒する」、「日本とその同盟者及び中立国を分裂させる」などと4項目の政策目標が掲げられる。

 その政策目標達成のため「日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること」「日本とアメリカとの間に、戦争行動の文明的基準を保持すること」など8項目の宣伝目的と一般的心理戦略をあげ、これにもとづいてより個別的な11項目の宣伝目的が明記されている。例示すると以下如くである。

・日本の天皇を、慎重に名前をあげずに平和のシンボルとして利用すること
・「今日の軍部政権の正当性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること
・日本に対して、われわれが勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福を約束すること


 末尾に「特別に慎重に扱うべき提案」として「現時点では、神道、宗教について、天皇崇拝についても、すべて言及は避けるべきである」、「天皇については、慎重で粘り強い(しかし名前を挙げない)言及が、推奨される」、「日本の皇室についても同様な扱いがとられる」など5項目の提案がなされている。

次 に本文の概略を述べる。本文は以下の六部構成からなる。

1.プロパガンダの政策目標―プロパガンダで工作すべき直接的目標
2.プロパガンダの目的―敵の心に届けられ定着するプロパガンダの要点
3.プロパガンダの論題―プロパガンダ目的を達成するために用いられる主張
4.作戦とテクニックについての一般的注意
5.いくつかの日本人の性格
6.特別の慎重に扱うべき提案


 上記「3.プロパガンダの論題―プロパガンダ目的を達成するために用いられる主張」において、日本社会と日本人の要約的分析と指針の提示がなされている。一部抜粋すると、以下の如くである。

 「日本人に対して、彼らの現在の軍事的指導者たちが、明治天皇が道を拓いた行程から大きく逸脱し、現在の天皇の望むところとは正反対の道に迷い込んだことを指摘すること。明治天皇の誇り、彼の拡張主義ではなく、彼の疑似立憲主義、彼の親英感情に基づく諸政策等々が、強調されなければならない。」
 
 そして以下の諸点が利用されるべきだという。

 第1に天皇は満州事変に反対だったが排外主義者による暗殺が広がるのを恐れてしぶしぶ認めたこと、第2に国際連盟総会において、天皇は松岡洋右に民主大国と決裂しないよう命じていたにもかかわらず、松岡が軍部の意向に従ったこと、第3に天皇は、日独伊三国同盟に反対で、それを防げなかった後も平和を望んでいたこと。

 要するに「天皇は平和のシンボル」であることを強調せよと言うのである。

 さらに「天皇は現在でも軍部指導者の犠牲になっていると述べること」により「シンボル=象徴」の意味が一層明らかになる」とされ、「天皇は西洋の国旗のような名誉あるシンボル」であり、「軍当局の批判の正当化に用いることは可能であり、和平への復帰の状況を強めるために用いることもできるだろう」と述べている。

 以上のとおり、「日本計画(最終草稿)」は、「天皇の象徴的側面」の利用価値を冷徹に繰り返し強調し、それを心理戦の武器とすることを賞揚しているのである。

 タカシ・フジタニ・カリフォルニア大学サンディエゴ校教授が『新資料発見 ライシャワー元アメリカ大使の傀儡天皇制構想』(『世界』2000年3月号)で紹介した、1942年9月14日付エドウィン・ライシャワーの陸軍省次官らへ提案した傀儡政権構想(puppet regime)メモランダムよりも3ヶ月以上も遡る時期に、陸軍省内部で、このように優れた天皇制を利用した「情報戦」の包括的な企画書が作成されていたことに驚きを禁じ得ない。

 あの60年安保闘争の後、颯爽と駐日大使として来日し、「日米パートナーシップ」、「ケネディ=ライシャワー路線」と称される日米蜜月時代を演出したライシャワーが、日米戦争勝利後にヒロヒトを中心とした傀儡政権(puppet regime)を樹立すること、日系アメリカ人部隊をもうけ連合国が人種差別的だと宣伝する日本のプロパガンダに対抗することなどを、陸軍省次官に提案していたことがわかったことは、多くの我が国国民の眉をひそめさせたに違いない。

 しかし、「日本計画(最終草稿)」は、さらにその上を行くもので、ライシャワーの提案の前に、かくも荘厳な天皇と天皇制の軍事的利用作戦計画が存在した事実を、わが国民は何と見るであろうか。これの作成日付である1942年6月3日と言えば、我が国が誇る連合艦隊の正規空母6隻のうち4隻を失い、一気に戦局が転換することになった同月5日のミッドウェー海戦の前のことである。

 世界の趨勢、彼我の戦力、相手国の文化・国民性を無視して、猪突猛進した我が国に比べ、アメリカはなんという奥底の深い国であろうか。わが国民は、まるで大人と子供の戦争に駆り出された子供たちのように、犬死を強いられたのである。

                              (続く)
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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その19

アメリカ軍関係当局の研究・検討―天皇制利用の「情報戦」計画

 天皇制への軍事的アプローチ

 アメリカ国務省が、戦後の対日占領政策の観点から天皇制をどうするべきかを研究・検討したのは、大きく見れば、第二次大戦を戦った連合国諸国の侵略的なファシズム・軍国主義諸国家を打ち倒し、平和・民主・安定の国際秩序を回復させ、その制度的保証を確保しようとの共通意思の表れと見ることができる。
 それは少し粗っぽい言い方をすれば、反帝・反ファッショの国際主義的「善意」として評価することも可能であったと言ってよい。

 政治学者加藤哲郎(一橋大学名誉教授)はその著『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』(平凡社新書)において、アメリカで、もう一つの天皇制に関する研究・検討があったことを、明らかにしている。
 アメリカの軍関係当局が、国務省より早くから、もっぱら天皇制を、戦争遂行の具として利用しようという視点から、研究・検討をしていたのである。
 これもまた少し粗っぽい言い方をすると、アメリカが、敵国日本に戦争に勝ちぬくための戦術・戦略レベル、アメリカ・ファーストの立場からのものと評価できるだろう。

 アメリカ軍関係当局による天皇制の研究・検討の歴史的経過を、同上書に依拠しつつ、他の文献も参照し、かつ私なりの判断、解釈を交えながら、紹介することとする。

「情報戦」の第一級の資源としての天皇制

 現代における国家間の戦争において、「情報戦」が大きな位置を占めている。「情報戦」とは、諜報・謀略活動である。第二次大戦時にはこれを、アメリカでは「心理戦」、英国では「政治戦」、ソ連ではコミンテルンを通じた「プロパガンダとアジテーション」であった。ナチス・ドイツはゲッペルス率いる宣伝省がこれを担っていた。

 日本にも、戦時中、内閣情報局があったが、本格的に「情報戦」を担う組織・機関というよりは、国内の思想統制と治安対策が主要な任務とした。

 アメリカでは「心理戦」という言葉が用いられているが、「情報戦」と同義である。天皇制は、その「情報戦」の第一級資源として、研究・検討されたのである。

 アメリカの「情報戦」を担う組織・機関

 アメリカで国家安全保障(National Security)という言葉が誕生したのは1941年7月の大統領令で大統領の直轄機関として情報調整局(Office of the Coordinator of Information「COI」)を設置したときに始まる。

 情報調整局(COI)は、上記大統領令発令と同時に発足した。発足時の当初予算は45万ドル、スタッフは92人に過ぎなかったが、僅か4ヵ月後の同年12月には予算1300万ドル、スタッフ600人、1942年3月には、スタッフは1852人へと、急速に巨大化した。

 情報調整局(COI)の任務は、国家安全保障にかかわるあらゆる情報を収集・分析し、大統領や大統領の指定する政府機関・職員に提供することであり、情報調整局(COI)には、対外情報部(Foreign Information Service「FIS」)と調査分析部(Research and Analysis Branch「R&A」)がおかれていた。
 調査分析部(R&A)は、頭脳であり、アメリカ内の最高の研究者が集められた。対外情報部(FIS)は、「心理戦」のために策定されたプロパガンダの実行部門であった。

 しかし、急速に巨大化した組織・機関は、えてしてトラブルを起こすものである。情報調整局(COI)も例外ではなかった。このため、1942年6月、統合参謀本部(Joint Chiefs of Staff「JCS」)の決定により、同本部傘下の戦略情報局(Office of Strategic Services「OSS」)と、大統領直轄の戦時情報局(Office of War Information「OWI」。戦後、アメリカ情報局United States Information Agency「USIA」となる。)に分割・再編された。

 旧情報調整局(COI)の対外情報部(FIS)の、ホワイト・プロパガンダ(White propaganda。放送のような、情報を明瞭な事実として公衆に理解させることを目指したプロパガンダ)部門は、大統領直轄の戦時情報局(OWI)に移行した。

 旧情報調整局(COI)上記以外の部門は全て戦略情報局(OSS)に移行した。

 戦略情報局(OSS)は、第一に統合参謀本部(JCS)のための戦略情報の収集と分析、第二に同本部の要求する特殊作戦を任務とすることとなり、従来の調査分析部(R&A)はそのまま頭脳部門として残され、対外情報部(FIS)の残りの部門は、秘密情報部と特殊工作部として編成された。
 かくして諜報活動のような、非合法な手段によって公衆に不信・混乱・恐怖を与えることを目指すブラック・プロパガンダ(Black propaganda)の「心理戦」の研究・検討、実行は、戦略情報局(OSS)が引き受けることになった。

 改組後、戦略情報局(OSS)は、予算1億1554万ドル、スタッフ1万2718人という超巨大機関に膨張・発展を遂げた。戦後、1945年9月、一旦解散し、陸軍戦略情報局(SSU)に縮小改組され、1947年9月、国家安全保障法によりアメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency「CIA」)に改組された。

 戦後、アメリカ中央情報局(CIA)は、冷戦下で、他国の主権、独立を侵害する情報戦を展開し、反米もしくは非米政権の転覆と親米・傀儡政権の樹立、てこ入れに狂奔してきたことは周知のとおりである。そのルーツが日米開戦直後にあることがわかり、興味深い。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その18

天皇制を利用することを模索してきたアメリカ

 わが国政府と天皇が、天皇制を維持するのみを目的とし、和平という名目の「名誉ある降伏」の道を模索していたことは、上に見たとおりである。これは、今風な言い方をすれば、天皇制原理主義である。
 これに対して、アメリカでは、一方では既に開戦当初から、天皇制を、戦後の日本統治の要として、また戦争を有利に遂行するための具として、利用しようという研究・検討が進められていた。さすがはプラグマティズムの国である。

 アメリカはプラグマティズムの国であると同時に情報公開の先進国でもある。実に夥しい分量の戦時中の政府、軍関係資料が公開されており、これらを調査、整理、研究した著作物も多数刊行されている。それらを参照して、アメリカ国務省や軍関係当局が、天皇制について進めていた研究・検討の状況を概観すると、以下の如くである。

国務省の研究・検討―天皇制維持論と廃絶論のせめぎ合いから

 天皇制維持論からスタート

 アメリカにおいて、戦後の日本の統治政策の研究・検討が始まったのは、1942年夏ころのことである。そのころ、国務省特別調査部に、日本史専攻の研究者ヒュー・ボートンらが加わった。
 1943年3月、国務省内に設置された戦後対外政策諮問委員会(1941年12月設置)の領土小委員会が活動を開始したころから、検討は本格的に進められるようになった。
 この委員会には、「知日派」といわれる上記ボートン、極東問題研究者ジョージ・ブレークスリー、長い滞日経験のある外交官ジョセフ・バランタイン、「親中派」の外交官スタンリー・ホーンベックらが加わっていた。
 同委員会は、1943年10月には、国務省・国/地域委員会(Interdivisional Country and Area Committee「CAC」)の一つである部局間極東地域委員会(Far East Area Committee「FEAC」)として再編成された。

 1944年1月、国務省に極東局が置かれてホーンベックが局長に就任、同時に「戦後計画委員会」(Post-War Programs Committee, State Department「PWC」)が設置された。戦後計画委員会(PWC)はコーデル・ハル国務長官が主宰し、国務省幹部をメンバーとし、対日占領政策を検討・作成することを目的とし、同年春から、活動を始めた。

 同年4月、「知日派」と言われる人たちが優勢の部局間極東地域委員会(FEAC)から戦後計画委員会(PWC)に出されてきた当初原案は、ボートンの比喩を用いると「自由主義的改革に天皇制のマントを着せる」というものであった。具体的には、6ヶ月程度の軽い占領を想定し、日本国民が望むなら天皇制を残し、できるだけ天皇と日本政府を用いて占領行政を遂行し、日本帝国の解体と非軍事化を行い、それが達成されるとともに日本を国際社会の平等な一員として受け入れるという内容であった。

 天皇制維持論がスタートだったのである。

 これに対し、「親中派」と言われ、天皇制を否定する人たちが優勢な国務省幹部からなる戦後計画委員会(PWC)は、これを却下し、書き直しを命じたが、部局間極東地域委員会(FEAC)からは微修正だけで、本質的には変わらない案が再び提出された。

 天皇制維持論は後退、しかし土俵際で踏ん張った

 同年5月1日、戦前最後の駐日大使で「知日派」として知られるジョセフ・グルーが極東局長に就任した。

 グルーは、戦後計画委員会(PWC)おいて、次のように、天皇制擁護論を弁じた。

 天皇ヒロヒトが、敗戦後、責任をとって退位するのはやむを得ないが軍国主義を廃し、民主的・平和的日本を建設するには天皇制は有力な資産となる、「天皇制こそ日本の隅の親石であり、頼みの大錨である。」。

 しかし、戦後計画委員会(PWC)の大勢を変えるには至らなかった。5月9日、戦後計画委員会(PWC)は、部局間極東地域委員会(FEAC)から上がってきた案を排し、「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)なる政策文書を採択したのであった。

 この文書は占領軍当局が取り得る次の三つの選択枝を提起している。

第一は天皇にみずからの機能を行使する権限を全然与えない。
第二は天皇にその機能をすべて与える。
第三はその一部分を委任する。


 そのうえで同文書は、占領軍当局としては、出来るだけ融通性のある方針を立ておくべきだとした上で、次のように勧告する。

 もし天皇の特定の制限された機能を行使することを許可することを決定するならば、その場合、可能であれば天皇を保護・拘束・監督下におく、日本国民に対し占領軍当局の権威は天皇のそれよりも高位にあることを示す、天皇の特定の制限された権能を行使させることが占領政策に利益にならなければ全て停止する方が有利になるかもしれない等々。

 日本降伏を見越して、1944年5月9日という時期に、アメリカ国務省・戦後計画委員会(PWC)が戦後対日占領政策のために採択した勧告文書「日本―政治―天皇」(PWC116d)は、天皇制廃絶論ではない。天皇制維持論は、土俵際で踏ん張ったのである。

 結局、これがアメリカ国務省の対日占領政策の基礎となった。

 では軍関係当局はどのような研究・検討を進めていたか。それは次回に述べる。

                            (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その17

敗戦処理のヤマ場―醜態をさらす日本の上層部の面々(3)

 その第四弾。わずか35分の御前会議で和平方針へ転換

 6月8日の御前会議で、決然と反対する者はただの一人もいないまま徹底抗戦・本土決戦に一決したのであったが、その裏で、その直後から、決定見直しの動きは水面下で始まっていた。なんとも無責任というほかはない。この無責任な状況の下で、沖縄戦は最終段階を迎え、同月23日、終結した。沖縄の日本軍は殲滅された。戦死者約10万9000人、県民の死者約10万人である。

 大元帥たる天皇のもとにはあらゆる情報が集まる。当然、沖縄戦の敗北近しという情報も入っていたことであろう。

 同月20日、天皇は東郷に「最近受け取った報告によって、統帥部の言っていることとは違って、日本内地の本土決戦の準備がまったく不十分であることが明らかとなった。なるべく速やかに戦争を終結せしめることに取り運ぶよう希望する。」と述べた。

 沖縄戦が終結する1日前の同月22日には、天皇自ら御前会議を招集した。根回ししたのは木戸である。招集に応じて出席したのは、鈴木、東郷、阿南、米内、梅津及び豊田副武軍令部総長であった。

 『木戸幸一日記』下巻(東京大学東大出版会)によると。会議の模様は以下のように記述されている。

 「午後3時より御召集に相成たる最高戦争指導会議構成員の会合の模様につき御話ありたり。先づ陛下より『戦争の指導に就ては曩(さき)に御前会議に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む』との意味の御言葉あり。右につき首相の意見如何との御尋ねあり、首相は仰せの通りにて其実現を図らざるべからずと奉答す。今日は最早其時期なれば速に着手することを要すと奉答。東郷外相も亦、之を補足して意見を言上す。終りに梅津総長に御尋ねあり、総長は異存はなきも、之が実施には慎重を要すと奉答。重ねて慎重を要することは勿論なるも、其の為め時期を失することはなきやとの御質問あり、之に対し総長は速かなるを要すとはっきり奉答せり」

 東郷の発言を補足する。

 「連合国は、ベルリン郊外のポツダムで7月半ばに会議を開くと発表しています。その前に、なんとか7月はじめまでにはソ連との協定に達したいと考えます。」

 阿南も「特に申し上げることはありません。」とこれに応じた。

 こうして和平の時期、方法を明示した東郷案が承認された。ここでもソ連頼み。和平の目的は天皇制の維持である。徹底抗戦・本土決戦の6月8日御前会議決定は、かくして覆された。会議に要した時間はわずかか35分であった。

 その第五弾。袖にされた日本。

 6月23日、東郷は、広田と会い、先に尻切れトンボになっていたマリク大使との話を、至急再開するように要請した。

 翌24日、早速、広田・マリク会談が、箱根で持たれた。

 しかし、広田は、ソ連との関係強化のために、満州、中国、東南アジアで、ソ連に譲歩する用意があると述べるにとどめ、戦争終結のためソ連の斡旋を求めるとの申し出さえしない。マリクは、「二国間の関係は日ソ中立条約を基礎にして正常に発展しているように思われる。ソ連は条約を破棄する決定を行ったが、ソ連政府は条約を破ったわけではない。」と応答、交渉継続を拒まない態度をとる。

 6月15日のモロトフからマリクにあてた訓令「「もし広田が再度の会見を要請してくるならば、貴下は広田と会見し、意見を聞くことにする。もし、広田がまた一般的な問題しか提起しないならば、貴下は、ただ、この会談の内容を最初の可能な機会に(ただし外交クーリエで)モスクワに報告するだけにとどめること」を思い起こして頂きたい。マリクは、交渉引き延ばしの訓令に忠実に従っているのだ。

 続いて、29日、東京のソ連大使館にて、広田・マリク会談続行。

 広田は、ソ連の満州国への内政不干渉と領土保全の保障と引き換えに満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連からの石油供給と引き換えに日本のソ連領海での漁業権の放棄、その他ソ連が関心を持つあらゆる問題をあげた。
 マリクは、「この提案はソ連政府の上層部において真剣に考慮されるであろう」と答えた。心憎いばかりの冷静な対応である。

 広田はさらに粘る。しかし、とうとう、マリクは病気と称して会おうとしなくなる。もはや梃子でも動かなくなった。それがわかったのは7月11日のことである。もはやソ連との交渉の窓口もなくなってしまった。

 広田が下手を打ったわけではない。誰がやっても同じであった。なぜなら既にスターリンは、ヤルタ密約に従い、対日参戦を決定、その成果をいかに確保するかにあらゆる努力を傾注していたのだから。既に7月17日を期して、ベルリン郊外のポツダムに、米・英・ソ3カ国首脳が集い、ヨーロッパ戦後処理策及び対日戦争当事国による対日戦争終結とその後の方策が話し合われることが決まっていたのである。

 それでも東郷はあきらめない。ソ連が賢いのか、日本が愚かなのか。それは各自の判断に任せよう。

 東郷は、ソ連に天皇の特使を派遣して一挙に打開しようと図る。近衛特使派遣構想である。近衛もいよいよ出番がまわってきたとばかりに随分に乗り気になったようである。天皇はといえば、近衛にはあまり信頼をおいていなかったようであるが背に腹はかえられず、渋々この人事に同意する。

 近衛が張り切ってまとめた和平案「和平に関する要綱」は以下のとおりであった。

 第一に、国体の護持。国体とは皇統を確保し、天皇政治を行うことを主眼とするが、我が国古来の伝統たる天皇を戴く民本主義に復帰することを約束する。
 第二に、領土は我が国固有の本土に制限されること、行政が若干の期間監督を受けること、戦争責任者の処分を認めること、一時的な完全武装解除を認めること、軍事占領は回避に努めるが一時的に若干の駐屯を認めることなど。


 ここでも天皇制維持が第一義である。天皇制が維持されれば領土は「固有の本土」だけでよい。沖縄も要らないということになる。尖閣諸島や竹島、北方領土をめぐって、今、日本政府が主張していることなど、当時はどうでもいい問題だったことを、是非、記憶にとどめておいて頂きたい。

 しかし、ソ連は、出先の佐藤駐ソ大使に慇懃な姿勢をとるばかりで、特使受け入れを受諾しなかった。近衛特使派遣構想は幻に終わった。これもはじめからわかっていたこと。人間は決してタコつぼにこもってはならない。タコつぼにこもるとこんなにも世の中のことがわからなくなるのである。
                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その16

敗戦処理のヤマ場―醜態をさらす日本の上層部の面々(2)

 その第三弾。アリ地獄の中でうつろにこだまする「天皇制維持」の掛け声

 ソ連一辺倒にのめりこんだ日本政府は、ますますソ連に翻弄される。ソ連は、日ソ交渉を、決して拒否せず、できるだけ引っ張ろうとした。

 6月15日、モロトフからマリク大使への訓令。

 「もし広田が再度の会見を要請してくるならば、貴下は広田と会見し、意見を聞くことにする。もし、広田がまた一般的な問題しか提起しないならば、貴下は、ただ、この会談の内容を最初の可能な機会に(ただし外交クーリエで)モスクワに報告するだけにとどめること」

注:外交クーリエとは、外交上の文書を送る手段。モロトフは、日本側に傍受されることを慮って、電文で報告することを禁止したのである。

 6月8日の御前会議の結果を受けて、和平派は、あらためて策を講じはじめた。

 まず内大臣木戸が、政府外の有力者、及び政府内の東郷、米内らと連絡をとりあい、和平に向けた「時局収拾試案」を起草した。

(要旨)時期を失すれば「遂に独乙の運命と同一の轍を踏み、皇室の御安泰、国体の護持てふ至上の目的すら達しざるを悲境に落つること必定」であり、「皇室の安泰と国体の護持」を含む「名誉ある講和」を求めなければならない。

 木戸は、翌9日、これを天皇に上奏した。この上奏を受けて、天皇も、ようやく本格的に動き始める。満州視察から帰国したばかりの参謀総長梅津と、国内各軍管区の状況視察を終えた長谷川清海軍大将をそれぞれ呼び付けて、その結果を報告させた。

 同日の梅津の報告。「満州と支那にあります兵は、すべてをあわせても、米国の8個師団ぐらいの戦力しかありません。しかも弾薬保有量は近代式な大会戦をやれば1回分しかありません。」

 12日の長谷川の報告。「自動車の古いエンジンを取り付けた間に合わせの小舟艇が、特攻兵器として何千何百と用意されているのです。このような事態そのことがすでに憂うべきことでありますうえに、そのような簡単な機械を操作する年若い隊員が、欲目にみても訓練不足と申すほかありません。動員計画そのものもまことに行き当たりばったりのずさんなものでございまして、浪費と重複以上のなにものでもありません。しかも、機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われております。」

 さすがに天皇も愕然とし、体調を崩してしまう。15日は一日床についてしまった。

 こうして先の御前会議の決定見直しの動きが始まった。木戸は、米内、鈴木の同意をとりつけ、政府内に明確な和平派ブロックが形成された。

 彼らの共通項は、「皇室の安泰と国体の護持」。しかし、実際にはさらに「皇室の護持」に絞られる。18日、木戸は、陸相阿南を次のように説得している。

 阿南 「国体を護持するためには本土で最後の決戦をすることが最善の方法だ。」

 木戸 「もし米軍が本土上陸して三種の神器を奪われたり、伊勢神宮が占拠されたりしたらどうするのか。」
 
 阿南も、これには抵抗できず、木戸試案に反対はしないことを約束したとのことである。

 当時の日本の上層部は、戦地や占領地で繰り返される惨劇や残虐行為は勿論のこと、飢えと死に直面している国民の悲惨な姿は全く見えていない、ただ三種の神器、伊勢神宮、皇室の存続しか見えていなかったのである。

 アリ地獄の中で、「天皇制維持」の掛け声がうつろにこだまするようだ。反吐が出そうな醜態ぶりはまだまだ続く。

                                 (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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