明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(8

(太政大臣三条実美からの召還訓令)

 西郷をして「憐れむべき御小肝」と言わしめた(桐野利秋への書簡)太政大臣三条実美は、使節団の帰国が遅れる一方で、次々に生起する難問に頭を悩ませ、心細い思いを募らせたのであろう、1873年1月19日、使節団の岩倉に、木戸、大久保両名の召還命ずる訓令とともに次のような書簡を送った(原文を読みやすく表記した。)。

 「さて先便縷々申し述べそうろうとおり、本朝国事多端、やむをえざる要用もこれありそうろうについては、各位御帰朝の期もあいはかりがたく、かたがたもって大久保、木戸両人帰朝の御沙汰おうせだされそうろう間、公翰をもってお達し申しそうろうとおり、両人のところ、帰朝あいなりたくお達しこれありたくそうろう。両人お呼び返しの儀は、さだめて御不都合の儀もこれあるべく、ことに尊台において御迷惑とも察し奉りそうらえども、かれこれよんどころなき事情、御遠察祈望つかまつりそうろうことに御座そうろう。」

 この訓令と書簡が使節団のもとに届いたのは同年3月中旬、ワシントン、ロンドン、パリ、ブリュッセル、ハーグを巡歴し、ベルリンに入り、プロシアの鉄血宰相ビスマルクと面談し、弱小国プロシアをドイツ帝国に作り上げてきた「予があれこれの批判を顧みないで国権を全うした本心」を吐露され、「いま日本が親睦を通じ、あい交わるべき国は多々あるだろうが「国権自主を重んずるドイツの如きは親睦中の最も親睦なる国なるべし」とのご高説を拝聴して、一同、おおいに感銘を受けた直後のことであった。久米邦武『米欧回覧実記』によると、「交際の使臣、相宴会する際に、此の語は甚だ意味あるものにて、此の侯の辞令にならえると、政略に長ぜるとをよく認識して、玩味すべき言といいつべし」とある(原文をわかりやすく表記した。)。

 この頃、木戸、大久保は対立が激しくなり、訓令への対応も区々となる。大久保は、訓令に従い3月末に帰国の途につき、5月26日帰国、木戸は、訓令を無視してロシアまで使節団とともに行動し、その後単独行動で2ヶ月にわたりヨーロッパ諸国を歴訪し、7月23日に帰国した。

 三条が、1月19日付書簡において、先便で、縷々申し述べたと言っている「国事多端」の内容は、以下の4項目に要約できる。

 第1は、島津久光問題。これは既に述べた。

 第2は、大蔵省問題。これは次項で述べる。

 第3は、台湾問題。これは第二話『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』の「政台の役」のところで述べたので繰り返さないが、少しだけ補足しておこう。台湾出兵については、当時、外務卿副島がその急先鋒で、元米国の駐厦門(アモイ)領事、チャールズ・ウィリアム・ル・ジャンドルなる者を大輔待遇という破格の厚遇をもって外務省顧問として雇い入れ、その指導のもとに着々と準備を進めていた。三条は、清国をはじめ、諸国との関係悪化を懸念し、慎重姿勢をとっていた。しかし、副島の勢いを止めることはできず、表向きは日清修好条規の批准書交換、内実は台湾問題での談判との秘めたる任務を与え、2月27日、遣清特命全権大使に任命せざるを得なかった(三条は、この書簡の中でも「やむをえざるの務にして」と弁明している。)。その副島が、勇躍、清国に出発したのは3月13日のことであった。

 第4は、朝鮮問題。書簡では、1872年9月、花房外務大丞を派遣して草梁倭館を接収し、外務省の直轄下に置き、大日本公館としたことに触れているだけで、さほど重要問題とは位置付けてはいないように思われる。
 この問題は、既に第二話『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』の「征韓論」のところで触れ、さらにその先の実際の武力を用いた朝鮮への干渉について「江華島事件」のところで触れたが、その間の部分は抜けているので、これを次章で述べる。

                                              (続く)
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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(7)

(島津久光の奇怪な言動、西郷の苦悩)

 上述した廃藩置県とその後の急進的改革に憤懣やるかたない思いを募らせていた人物がいる。旧鹿児島(薩摩)藩の藩主の父にして事実上最高権力者島津久光である。

 既に見たように1872年7月27日、西国巡幸に際し、天皇一行は、鹿児島を訪れた。これは久光の不平、不満を慰撫することが隠れた目的であった。久光は、そのとき天皇に「建白書」を提出し、西郷を要石とする政府が推し進める最近の施策を、共和政治の悪弊に陥っているなどと激しく攻撃し、西郷解任にまで言及した。
 久光は、これで溜飲を下げ、自分を抑えるどころか、巡幸に同行しながら一度も、会いに来なかった西郷に、一層怒りをたぎらせる。同年9月はじめ、側近の海江田信義を上京させ、建白書の趣旨が生かされているかどうか確かめさせようとした。海江田は、諸方面に、久光の不満、要求を拡散しようとしたが、西郷の意を受けた勝安房、山岡鉄舟、大久保一翁らのかつての江戸城明け渡し問題で肝胆あい照らす仲となった面々の説得を受け、東京にとどまることになる。
 情報を絶たれた久光は、同年12月早々、太政大臣三条宛て、西郷を厳しく非難する手紙を送った。三条は、処理に困ったのであろうか、これを西郷に読ませ、その処置を西郷に委ねた。西郷は、ともかく謝罪するほかはないと考え、12月中旬、とるものもとりあえず、鹿児島へ帰った。

 鹿児島へ帰った西郷は、執事を通じて久光に次のような詫び状を差し出した(原文を読みやすく表記した。)。

 「御巡幸のみぎり、供奉おおせつけられ、御当地滞在中には、是非ご機嫌伺いとして拝謁願い奉るべきところ、等閑にまかり過ぎそうろう儀、全く朝官を甘んじ、再生の御こう恩忘却つかまつりそうろう場に立ち至り、御嫌忌をこうむり奉りそうろう仕合い、実に恐懼の次第に御座そうろうにつき、いかようともその罪を謝し奉るべきつもりにてまかりそうろうにつき、右の段、よろしく仰せあげられ下されたく願い奉りそうろう。」

 ようやく面談を許された西郷に突き付けられたのは、14ヶ条の「罪状書」であった。その一部は既に紹介したが、次の条々(要旨)にはあいた口がふさがらない。

・戊辰戦争終結後、朝官に任ずるとの御内命をお断りした、帰藩したのはもっともであるが、正三位や参議という高位高官を遠慮なくお受けしたのはどんなつもりか。
・戊辰戦争終結後、解兵後の兵隊の暴行を取り締まるどころか尻押しした。
・高給を貪り、己に従う者ばかり登用し、その余の者の苦情を無視し、苛政を行っている。
・四民平等などというのは国威にかかわる重大事。
・御巡幸のとき供奉した中で最上位の高官として、天皇の失徳のみ醸し出した。
・お前が徳大寺にはじめに申し述べたこと(いわゆる24ヶ条意見書のことと思われる。)は、長州・土佐等手を打って喜んだというではないか。もってのほかだ。


 西郷も「むちゃの御論あきれ果てそうろうことに御座そうろう」と評したとのことであるが、それでも西郷には、1864年3月、沖永良部の座敷牢に幽閉されていたところを赦免され、禁門の変、討幕派の大同団結、王政復古のクーデター、戊辰戦争へと活躍する場を与えてくれた大恩は打ち消し難い。

 その後、西郷は、鹿児島にとどまり、謹慎を続ける。政務逼迫、台湾問題で兵を派遣し、征伐を加えるべしと息まく外務卿副島に手を焼く太政大臣三条からは上京して欲しいとの矢の催促。そこで西郷、三条は、一計を案じ、勅使として勝安房を鹿児島に派遣、久光に面会させ、天皇の命令に従って西郷を上京させるという形をとる。ようやくにして西郷は、翌1873年4月1日鹿児島を立ち、東京に戻ったのは同月6日のことであった。

 久光の奇行は、それだけでは終わらなかった。勅使勝安房は、前出の建白書の趣旨を詳しく聞きたいとの「勅書」を持参し、久光に手渡した。これに従ったのであろうか、久光は、同月23日、結髪帯刀、異様な風体の旧家臣の壮士約250人率いて、上京した。ひと騒動持ちあがるのではないかと、政府関係者は随分心配をしたようである。しかし、勝安房らが奔走してこれら壮士を鹿児島に引き取らせる一方、久光は、維新において功績大なり認められたごくわずかな人に与えられる麝香間祇侯(じゃこうのましこう)にまつりあげられ、ようやくしおらしくなったようである。

 さてこの時期、西郷にとっては、まことにわずらわしいことが続いた。旧主君筋からのいわれなき誹謗と中傷、その奇行、それに政府要人の腐敗現象、それでも敢えてその力を必要とするが故の寛容な処置。苦悩、懊悩しながらも、当初の24ヶ条意見書で申し述べたとおり、中央集権制の近代国家を確立する、そのために統一され、公正で一貫性のある政治を推し進めるしかない、との心境であったのだろう。
 好漢、西郷の真骨頂である。

(続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(6)

(旧肥前、土佐藩勢力の台頭、旧長州勢力の凋落)

 上に述べたように江藤が、留守政府内で存在感を高めただけでなく、1873年4月19日、左院議長後藤象二郎、文部卿大木喬任、それに司法卿江藤の3名が新たに参議に任命された。これで留守政府の参議は、筆頭の西郷のほか、板垣、大隈、後藤、大木、江藤となり、旧薩摩1、旧長州0、旧土佐2、旧肥前3となった。旧土佐、肥前勢力の台頭は、明らかである。
 それに比べて、旧長州藩勢力はと言えば、不祥事が相次ぎ、その凋落は目をおおうばかりであった。

 留守政府が急進的改革を加速させ、大きな実績をあげていたこと、とりわけ急進的民権論者とでも評し得る江藤の目をみはるような活躍ぶりとあわせて、この旧土佐、旧肥前勢力の台頭、旧長州勢力の凋落は、これまた上述した新たな対立と抗争のもう一つの局面であった。

 旧長州勢力の人々の不祥事の経緯は、ストーリーとしても非常に興味深く、日本政治疑獄史において多くのページを割くに値するが、この小論では、ごく簡潔に触れるにとどめざるを得ない。

① 陸軍大輔山縣有朋の公金横流し疑惑

 元長州騎兵隊幹部にして山縣の部下であった山城屋和助なる兵部省⇒陸軍省御用商人に、陸軍省は、総計64万円余りの大金(国家予算の1%ほどである)を貸し付けていた。山城屋は、これを生糸相場や遊興費に費消した挙句、1872年12月29日、陸軍省内で割腹自殺。山縣の公金横流しと同人から遊興費等を融通させていたとの疑惑があり、山縣は窮地に追い込まれたが、陸軍省の混乱を防ぐために西郷が奔走し、助けた。
 しかし、山縣は、旧長州藩御用達から陸軍省御用商人となっていた三谷三九郎なる者が陸軍省公金35万円を借り受け、返済不能となった件でも陸軍省内部で疑惑を持たれ、翌1873年4月18日、辞職を余儀なくされた。ただ、このときも西郷が陸軍省の混乱を防ぐために環境を整え、わずか11日後の同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理)として復職させた。
 なお、これらの事件については、司法卿江藤の追及の的になっていたことは言うまでもない。

 山縣にはその後も黒いうわさが絶えなかったが、やがて内閣総理大臣、帝国陸軍のドン、そして維新の元勲としてそのときどきのキングメーカーになる。みごとというべきだろうか?

② 大蔵大輔井上馨の利権あさり疑惑

 井上も、三井組とのいかがわしい関係はよく知られていた。

 上に述べた三谷三九郎事件は、返済能力のない三谷に代わって三井組に返済をさせ、そのかわりに三谷の所有地を三井組に移す形で処理されたのであるが、三井組はその結果多大の利益を得ることとなった。この処理は、井上が、山縣と組んで策動したのではないかと疑われている。

 井上は、後に述べるようにその後間もない同年5月9日、辞職をして大蔵省を去り、一民間人となるのであるが、在職中の末期に、大蔵省があらぬ口実をもうけて旧盛岡藩御用達の商人・村井茂平から、同人有する尾去沢銅山経営権を没収し、これを岡田平蔵なる者に破格の格安条件で払い下げさせた。そして大蔵省辞職後の同年8月に、上記銅山地境に、臆面もなく「従四位井上馨所有地」なる木標を立てたと言われている。
 この露骨で悪質な職権乱用による財産乗っ取り事件は、江藤司法卿の追及するところとなり、司法省大丞兼大検事警保頭島本仲道の捜査報告書によって容疑の裏付けがなされたとして、司法省から太政官に井上勾引の申し出がなされるに至っていた。後述の政変、江藤の下野という事態に至っていなければ、井上の身柄拘束にまで至っていたであろう。
 なお、井上、岡田を含め、これに関与した者は全て旧長州藩出身者であった。

③ 旧長州藩出身大物地方官の職権乱用、井上も結託か?

 小野組は、江戸時代に「井筒屋」を名乗った豪商で、戊辰戦争以来、三井組、島田組とともに維新政権の財政を支える一翼を担ってきた。1873年4月、小野組が、本店を神戸と東京に転籍することを京都府へ申し出たところ、京都府はこれを受理しないばかりか、さまざまな圧迫を加えた。当時、京都府の大参事として京都府政を牛耳っていたのは、これまた旧長州藩出身の槇村正直であったことから、これはまだ大蔵省大輔の地位にあって槇村を配下に置く井上のさしがねだという風評が流れた。三井組と結託した井上が、三井組の商売敵たる小野組に待ったをかけ、三井組をバックアップしようとしたのだというわけである。井上の黒い霧は、ここにも垂れこめていたのである。
 その真偽はともかく、小野組は、前出の司法省達第46号に基づき、同年5月、京都裁判所に訴え出た。京都裁判所は、司法卿江藤の肝いりで天誅組の生き残りの硬派の北畠治房が所長を務めていた。その北畠所長の下で、裁判所は裁判を迅速に進め、同年6月、京都府は、上記転籍申し出を受理し、至急送籍せよとの判決を下した。
 しかし、京都府は、請書も出さず上訴もしないで黙殺する態度をとり、さらには小野組に対する攻撃を強めた。そこで北畠は、ただちに京都府の対応は違式罪にあたるので速やかに処罰するべきだと司法省に報告した。これを受けて司法省は、同年7月、上記処罰を相当とする決定を得た。そこで、京都裁判所は、同円8月、知事長谷信篤及び大参事槇村に対し、それぞれ贖罪金8円、同6円を課する判決を下した。
 長谷、槇村はそれをも無視するので、北畠裁判長は、司法省を通じて太政官に、両名の身柄拘束の許可を求めるまでに紛糾して行った。その後、穏便な解決を願う三条の意向を汲んで、太政官は、司法省にこの件を裁く臨時裁判所を設置して審理させることとしたが、司法省による槇村追及の手は一向に弱まることはなかった。これは「明治六年の政変」直前のことである。
 
        (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(5)

留守政府の栄光と混迷

(急進的改革の加速)

 留守政府は、使節団が出発するや、満を持してというか、鬼のいぬ間の洗濯とばかりにというか、それまで以上に急進的改革を加速し、次々と実施して行った。試みに、これらを年表にして書き出してみると、以下の如し、である。

 72年1月27日  華士族・卒の職業自由許可
注:卒とは最下級の武士の身分

 同年3月8日    卒身分の廃止
 同23日       土地永代売買解禁
注:土地永代売買の解禁は、自由な土地所有権を認めるものである。

 同年9月4日    学制公布
注:全国を8大学区にわけ、それぞれに大学校を1校もうける、各大学区を32の中学区に区分し、それぞれに中学校1校をもうける、中学区を210の小学区に区分し、それぞれに小学校1校をもうける、小学校は修業年限4年の義務制とするなど

 同年10月2日   家抱(けほう)・水呑百姓解放、農民の職業許可
注:家抱も水呑百姓も本百姓に隷属する農民
 同年11月2日   人身売買禁止・芸娼妓解放・強制的年季奉公の禁止
 同年12月28日  徴兵の詔と太政官告諭
注:世襲坐食の武士にかわって国民皆兵制とすることにより、四民平等と自由を実現できると説く

 73年1月1日    太陽暦実施(旧暦12月3日を新年の1月1日とする)
 同10日        徴兵令公布
 同年7月28日    地租改正条例公布
注:田畑のみの貢納制を廃止し、全ての土地の価格に所定割合を乗じた額の地租を納める制度。これにより封建的土地所収制度は解体され、近代的土地所有制度の確立が始まった。
 
 これらの中で、徴兵制、地租改正、学制は、明治の三大改革と言われるものでるが、これらが全て留守政府の手で行われていることに注目したい。さらに、留守政府は、士族の完全消滅をもたらすことになる秩禄処分にも大きく歩み出していることが、前出の大久保宛て西郷の1872年3月23日付書簡によって確認できる。
 
(躍動する江藤新平)

 江藤は、旧肥前藩出身、後に1874年2月、佐賀の乱の旗頭に祭り上げられ、敗北後、現地に入り陣頭指揮をとった大久保の命により、斬首の上、梟首(きょうしゅ)という残酷な処罰を受けている。
 
 江藤は、留守政府にあって、当初は、太政官の立法機関と位置付けられた左院の副議長として左院を行政権から独立性を高めるべくため努力した(たとえば左院事務章程に「オヨソ一般ニ布告スル諸法律制度ハ本院コレヲ議スルヲ通則トス」と定めて、立法の専管機関であることを明らかにした。)。
 ついで江藤は、1872年5月、司法卿に転じたが、ここでいかんなくその能力を発揮する。司法省は前年8月に設置されていたが、刑事裁判事務を所管するものの民事裁判事務は大蔵省監督下の地方官が処理するなど、全般に影の薄い存在であった。江藤は、これにメスを入れ、裁判所を整備し、刑事裁判事務を行うだけではなく、地方行政を司る地方官が行っていた民事裁判事務を裁判所に引き取らせ、行政権から独立した司法権の確立を図ろうとした。
 それを明文化したのが、同年9月制定の、全文22章108条からなる「司法職務定制」である。これを見ると、裁判事務を、司法省管轄下の裁判所に移すだけではなく、裁判所を構成する裁判官が、かつての封建的意識に毒された地方官から移行した者が多かったために、その権限濫用と違法・不当な裁判を防止し、人民の権利を擁護するための手段、手続きも盛り込まれているのが注目される。
 さらに江藤はその歩みを前に進める。上記「司法省事務章程」に基づいて、民事裁判事務を裁判所に回収する取り組みに対して、大蔵省及びその配下の地方官らが抵抗を続ける。彼らの横暴が次第に明らかになる。その過程において同年12月、「司法省達46号」が発出された。以下に抜粋する如く、「司法省事務章程」の趣旨を一層明確にかつ具体化したものと言える。

・ 地方官及ヒ其戸長(注1)等ニテ太政官ノ御布告及ヒ諸省ノ布達ニモトリ規則ヲ立テ或ハ処置ヲ為ス時ハ、各人民(華士族卒平民ヲ併セ称ス)ヨリ、其地方裁判所ヘ訴訟シ又ハ司法省裁判所(注2)ヘ訴訟苦シカラサル事
・ 地方官及ヒ其戸長等ニテ各人民ヨリ願伺届等ニ付キ、之ヲ壅閉(注3)スル時ハ各人民ヨリ、其地方裁判所エ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事
・ 各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官ニテ之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ、各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラサル事
(中略)
・ 各人民ニテ地方裁判所及ヒ地方官ノ裁判ニ服セサル時ハ司法省裁判所ニ訴訟苦シカラサル事

注1 戸長とは、当時の地方組織の最末端の役人である。
2 司法省裁判所は、地方裁判所の上級裁判所であるが、後に、1875年1月の大阪会議とこれを受けた同年4月の漸次立憲の詔に従い、同年5月、大審院が設置され、廃止となった。
3 壅閉 握りつぶすこと


 徳富蘇峰をして「本来のラジカル」「制法的頭脳の持主」と言わしめた江藤の面目躍如である。
     (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(4)

政権の要石となった西郷

(廃藩置県)

 政府メンバーの一新は、維新改革を前進させる力となった。というよりもその力を貯めるための一策であったというほうが正しいかもしれない。

 既に1869年に、各大名が、領地と領民を、国家に返上するという版籍奉還が実施されていたが、これは多分に名目的・形式的なもので、実質的には、各藩の領土・領民は、その後も各藩主の支配下にあった。このような中途半端な状態がそのまま残される筈はなく、当然、その先に、名実ともに、領土、領民を国家に帰属させ、各藩主の支配を断ち切る抜本的な変革、即ち廃藩置県が展望されていた。
 新たな陣容により基盤を強固にした政府は、そのわずか2週間余り後の1871年8月29日(旧暦明治4年7月14日)、これを一挙に実現させてしまった。まるで直属の軍隊の威力、西郷の叱咤激励の声、木戸の冷徹な論理の力につき動かされるように。

 ついに封建主義の根幹に大ナタがふるわれ、以後、わが国は中央集権の国民国家として、近代化の道を進み始める。
 しかし、その進め方、国家の統治システムの構想、不平等条約の締結を余儀なくされた西欧列強諸国やアジアの近隣諸国との関係等をめぐって、新たな対立と抗争が始まる。1871年8月末、西郷は、否応なくその真っ只中に立つことになったのである。

 木戸の急進的改革志向とそれに反発する大久保の自己の権力基盤固め、これらはその新たな対立と抗争の一局面であった。

 それに関して、西郷は、政策論では木戸を支持し、組織論では、大久保を支持したように思われる。それは結局のところ、権力基盤を固めようとする大久保を利する結果をもたらしたとも言えるのではなかろうか。

 前者に関して言えば、廃藩置県実施後、堰を切ったように、10月、「華族・士族・平民間の通婚許可」、「被差別民の解放」、「田畑勝手作の許可」(耕作の自由)などが実施されたことが確認できる。

 ① 廃藩置県と同時に太政官制が改革された。これは太政官を、太政大臣、左右大臣、参議の合議制機関たる正院、立法機関たる左院、各省長官の協議・調整機関たる右院の三つの機関からなるものとするなどの改革である。太政大臣に三条、右大臣に岩倉、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任。大臣が天皇を輔弼し、参議・卿を指揮する。岩倉と大久保とは、丁卯(ていぼう)以来、つまり二人が相謀って発動した1868年1月3日(慶応3年12月9日。丁卯とはこの年のこと。)王政復古の大号令以来のツーカーの仲である。大久保にとっては、右大臣岩倉を通じて主導権を握れることは明らかで、この改革は、既に述べた有司専制の道を進めようとする大久保の意に沿うものであった。

 ② 9月、民部省が大蔵省に併合・廃止され、巨大な大蔵省が出現した。これは勿論、大蔵卿・大久保の権限強化となる。

岩倉遣外欧米使節団と留守政府

(モラトリアムは許されなかった)

 さて岩倉遣外欧米使節団(以下「使節団」という。)が横浜を立ったのは、同年12月23日である。そのメンバーの主だった顔触れを見てみよう。

 特命全権大使/右大臣 岩倉具視  副使/参議 木戸孝允
 副使/大蔵卿 大久保利通  副使/工部大輔 伊藤博文
 副使/外務少輔 山口尚芳

 使節団の意義、使節団の活動、その功罪等は、それはそれで興味深いのである、この小論では触れないことにする。ただ、まさに廃藩置県実施後、難問山積、新たな対立と抗争が始まっているこの時期に、このような豪華メンバーを揃えた使節団が派遣されたことに、私は、驚きを禁じ得ないとだけ言っておきたい。

 これに対し、このとき残された政府(一般に留守政府と呼ばれている。)のメンバーの顔触れを見ると以下のとおりである。

 太政大臣 三条実美  参議 西郷隆盛  参議 大隈重信
 参議 板垣退助  左院議長 後藤象二郎  外務卿副島種臣
 大蔵大輔 井上馨  兵部大輔 山縣有朋  開拓次官 黒田清隆

 この顔触れを見るとき、使節団のメンバーならずとも、独走したりはしないだろうかと心配になる。そのためか、使節団の主要メンバーと、留守政府のメンバーとの間で、それぞれ署名捺印までして取り交わした十二箇条からなる約束書を取り交わしたのであった。その中には、その趣旨を次のように要約できる項目があった。

・内政・外交の重要問題については、使節団帰国後に手をつける。
・留守政府の人事に関しては、現状を維持する。
・使節団と留守政府との間に、議論、矛盾、差異を生じないようにする。
・廃藩置県の目的に沿う改革は実施すべきである。

 使節団のメンバーからすれば、このような約束書を取り交わしておけば、西郷という要石もいることだから大丈夫と思ったに違いない。しかし、それは甘かった。留守政府は、取り交わした約束文書を無視して、後にみるとおり次々と新たな改革に手を染めて行ったのであった。
 使節団は、当初の見込みでは、10ヶ月半程度で帰国する筈であった。ところが実際には、1年9ヶ月という思いもかけない長期間の留守をしてしまった(もっとも三条からの訓令により、少し、早期に帰国した大久保、木戸の留守期間は、それぞれ1年5ヶ月、1年7ヶ月である。)。だから、使節団メンバーとしても、その背信を、公然と咎めることはできなかったのである。
 使節団が留守政府に抱く屈折した意識は、上述の新たな対立と抗争のもう一つの局面であった。
                     (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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