今なすべきことは日米同盟からの脱却を模索すること

 アメリカ憲法は、国家の武装と人民の武装を不可侵の権利とし、武力によって平和を維持するという思想を表しています。国際社会において戦争の自由が公認されていた18世紀末に成立した憲法ですから、これは当然のことでしょう。

 しかし現代のアメリカは、これをさらに極端に推し進め、国内にあっては銃器による大量殺傷事件が日常茶飯事、海外にあってはいつでもどこにでも軍隊を投入し、世界の警察官としてふるまっています。

 アメリカ憲法が成立した時代から時が進み、やがて、国際社会は、戦争の自由を否定し、戦争や武力行使を認めない方向へと進みます。第一次大戦後の、国際連盟の設立、ワシントン軍縮体制、パリ不戦条約、いずれも不徹底ではありましたが、戦争のない平和な国際社会を築くという人類の悲願達成への巨大な歩みでした。

 それでも日独伊三国の暴走をおさえることはできず、第二次大戦が引き起こされてしまいました。ですからこれら三国と対峙し、共に戦った連合国の中から、きたるべき戦後の国際社会において、みたび戦争の惨禍に見舞われないようにするにはどうするべきか、さらに徹底した平和維持の体制を模索する動きが始まったのは当然のことでしょう。

 その到達点は、1944年8月~10月のワシントン郊外ダンバートン・オークス邸における米英ソ中四大国の会談とそれに基づく提案に示されています。ダンバートン・オークス提案によると、戦後の国際社会においては、国ごとの戦争や武力行使を一切否定し、平和の確保を、国際社会が一致して設立する包括的国際機構に委ねることが確認されていたのです。

 しかし、戦争の終末期に、連合国の中心メンバーに深刻な亀裂が生じました。私は、その亀裂の最も重要な要因は、アメリカが、包括的な国際機構による平和から大国の力による平和へと後戻りを始めたことだと思います。

 国連は、このような前進と後退を反映する矛盾した憲章を採択してしまいました。戦争と武力行使は違法、しかし個別的もしくは集団的自衛権の行使は加盟国の固有の権利であると。

 第二次大戦後に成立したイタリア、ドイツ、韓国、フランスなどの憲法では、自衛のための戦争や武力行使を認めています。国連憲章と同じですね。日本国憲法は、全ての戦争と武力行使を否定し、平和の確保を諸国民の公正と信義に委ねることとしました。こうしてみると日本国憲法は、人類の最も前進した「戦争と平和」の思想を表していると言っていいでしょう。

 日米同盟という言葉がはじめて公式に用いられたのは、1981年の鈴木(善幸)・レーガン首脳会談後の日米共同声明でした。このとき鈴木首相は、記者の質問に答えて、日米同盟という言葉に軍事的意味はないと釈明をしました。日本国憲法をそれなりに理解していた鈴木首相はそう釈明するほかなかったのでしょう。しかし、外務省は、この釈明にスッタモンダの大騒ぎ、伊東正義外務大臣の辞職騒ぎに発展しました。

 思えばはるかかなたに来たものです。今では、安倍政権の下で、日米同盟は、日米軍事一体化路線をひた走っています。

 軍事力による「平和」という憲法をもつアメリカと、非軍事による平和という憲法をもつ日本とが、軍事一体化する、この不可解な現実を前に、私たちは拱手傍観していてはいけないでしょう。歴史的な米朝首脳会談を経て北東アジアの安全保障環境が大きく変わろうとしている今、私たちがなすべきことは、我が国の根本規範である日本国憲法に照らして現実を変革すること、即ち日米同盟からの脱却を模索することではないでしょうか。
                     (了)
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「米国第一主義」


 トランプ大統領の就任演説のキーワードは「米国第一主義」でした。彼は次のように述べました。

 From this moment on, it's going to be America First. Every decision on trade, on taxes, on immigration, on foreign affairs, will be made to benefit American workers and American families.We must protect our borders from the ravages of other countries making our products, stealing our companies, and destroying our jobs. Protection will lead to great prosperity and strength. I will fight for you with every breath in my body - and I will never,ever let you down.

 この日から、「米国第一」だけになるのです。米国第一です。
 貿易、税金、移民、そして外交問題に関するすべての決定が、米国の労働者や米国民の利益になるようにします。
 私たちの製品をつくり、私たちの企業を奪い、雇用を破壊する他国の行為から、私たちは国境を守らなければなりません。防御が、大いなる繁栄と強さをもたらすのです。
 私は、息の続く限り皆さんのために戦い続けます。そして、皆さんを決してがっかりさせません。)
    (「朝日」1月22日付朝刊)

 はて、これまでの米国は、「米国第一主義」ではなかったのでしょうか。果たして国際主義だったのでしょうか。私は、そうは思いません。私は、米国のスタンダードを世界共通のスタンダードにし、世界共通市場を作ることが米国の国益につながるという洗練され、ソフトで遠望長大な「米国第一主義」だったように思います。
 トランプ大統領は、これまで自分の企業さえもうかればよいという個別企業のオーナーの論理で動いて来た人ですから、目先の利益に敏感で、ガサツ、ハードで近視眼的な「米国第一主義」の旗を掲げたに過ぎません。

 トランプ大統領のお手並みはじっくり拝見したいと思いますが、私は、その政策によって米国の貧富の格差拡大とラストベルト問題が解決できるとは到底思えません。何故なら、貧富の格差拡大とラストベルト問題は、米国だけの特有な現象ではなく、世界共通現象だからです。ですからいくら米国が保護主義を徹底し、たとえ関税・非関税の障壁を設け、多国籍企業に米国内への工場建設を促してもどうにもなりません。たとえば多国籍企業に渋々いくつかの国内工場を作らせても、現在の世界の資本主義構造の下では、徹底した合理化と低賃金によってしか企業収益を維持できず、労働者の雇用の拡大と賃金アップは望むべくもありません。

 世界各国の共通現象となっている貧富の格差の拡大とラストベルトの出現は、現在の資本主義のイデーである新自由主義(あらゆるものを商品化し、自由競争を最大限に拡張することを世界のスタンダードとするもので、いわば古典的な自由主義の極地と言っていいでしょう。)を、人間第一主義を世界のスタンダードにすることによってのみ阻止することができるのだと私は思います。それをやりとげるのが真の「国際主義」です。

 さて安倍首相は、このガサツ極まりない「米国第一主義」とどう向き合うのでしょうか。これまでのようにひたすら米国追随を続けるのであれば、尾籠な言い方ですがケツの毛までむしり取られることでしょう。

 わが国は、今こそ人間第一、名実ともに国際主義に転回したいものです。

南沙諸島海域を東南アジアの平和と協調の海に

 1938年、大日本帝国は、南沙諸島を「新南群島」と命名して領有を宣言、台湾・高雄市に編入した。

 中国は、この大日本帝国のとった措置を前提にして、南沙諸島の領有の根拠を組み立てているようだ。たとえば王冠中・中国人民解放軍副参謀長は、2014年6月1日、シンガポールで開催されたアジア安全保障会議において次のように述べている。

「1946年、中国政府は『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』に基づいて、日本の侵略者から両諸島(注:南沙諸島及び西沙諸島)の主権を奪回。中国政府は1948年に『九段線』(注:当時は十一段線)の設定を宣言した。」

 果たして、カイロ宣言とポツダム宣言により、中国が南沙諸島の領有権を大日本帝国から「奪回」したと言えるだろうか。ことはそれほど単純ではなさそうである。まず両宣言の該当箇所を見てみよう。

カイロ宣言

第3項 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

ポツダム宣言

第8項 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

 見れば明らかなように、1938年以後大日本帝国が領有するに至った南沙諸島(新南群島)は、カイロ宣言にいう「太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼」にも「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」にも該当しない。
 一方、ポツダム宣言は、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるだけで、どのように局限するかは後の決定に委ねられているし、「日本国ノ主権」からはずされた地域をどうするかについては何も定められていない。

 では、サンフランシスコ講和条約においては、どのように取りきめられているだろうか。

サンフランシスコ講和条約

第2条b項 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

第2条f項 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 サンフランシスコ講和条約では、日本は、台湾と南沙諸島(新南群島)を放棄することとしているが、条項はわざわざ別立てにされており、南沙諸島(新南群島)を台湾に付属させた大日本帝国の措置を追認せず、南沙諸島(新南群島)は、台湾とは別コースを歩むこととされているのである。
 勿論、中国も台湾も排除して締結された条約であるから、これを金科玉条とするわけにはいかないが、少なくとも、中国の主張のごとく、ことは単純ではないとは言えるだろう。

 南沙諸島をめぐっては、中国、ベトナム、フィリッピン、台湾、マレーシア、ブルネイなどがその全部もしくは一部について領有の主張をし、対立をしている。その間隙をぬって、アメリカが、アジア・リバランスの試金石とばかりに介入を強めている。そこで、南沙諸島問題をどう解するべきか、その解決の道筋を考えてみたい。

                               (続く)

「ある外交官の証言」 戦後政治外交史こぼれなし―その4

 今回は、ある外交官の証言に注目してみた。ある外交官とは、故中島敏次郎氏。1977年1月当時外務省条約局長。同年9月北米局長になり、その後外務審議官を経て、中国大使。外務省退官後は、最高裁判事に就任している。外務省のほぼ頂点をきわめた人である。
 
 私が注目したのは中島敏次郎『外交証言録 日米安保・沖縄返還・天安門事件』(岩波書店・2012年1月27日第1刷発行)中に採録された以下の証言である。

(問い)
 1977年1月、米国でカーター(Jimmy Carter)政権が始動します。カーター政権は、在韓米軍撤退の政策を掲げて、日本はじめアジア同盟国に動揺を与えます。
同年3月のワシントンにおける日米首脳会談でも、福田赳夫首相はこの問題に対する慎重な対応を働きかけております。当時の日本政府の対応についてお聞かせ下さい。
(中島)
  「カーターさんは、もともと誰も大統領になると思っていなくて、選挙のとき笑い話で、“Jimmy Who ?”と言われた方でした。強力な政治家がうまく出てこなかったところに、うまいこと飛び出したのだと思います。それで彼は在韓米軍撤退政策をぶちあげたのですが、あの人は海軍の軍人でしたので、妙にプリンシプルなことにこだわるところがありました。しかし、南北朝鮮の対立が続いていた時代ですから、簡単にそうなっては困るというので、いろいろな方面から反対論が出てきて、結局取り下げになったという経緯があります。
 私自身も取り下げることになって幸いだったと考えています。日本も思いとどまらせようとしたのでしょうけれども、その際にいかなる論理を組み立てたのかというのは、要するに、朝鮮半島情勢は依然として流動的であり、そういうときにアメリカが引く話になったら、アジアにいろいろ波紋が起こりますよと説得したのだと思います。
 もともと、朝鮮半島は、アメリカのアチソン(Dean G. Acheson)が、シベリアのほうから日本と朝鮮の間に防衛線があるという演説をやって、そのことが北朝鮮の南進による朝鮮戦争勃発の一つの契機になりました。そのためにうっかり防衛線の変更みたいな話を責任ある人がやると大変なことになるという国際社会の教訓があり、その頃を知っている人間は誰しも、再び北朝鮮を刺激して、朝鮮戦争で生々しい事態が起こることを非常に心配したわけです。それで結局、国連軍の代表があそこにいて、静かな情況が継続したことで 、ある意味ほっとしたということだったと思います。
(問い)
 中島大使はじめ外務省事務レベルでは、具体的にカーター政権に対して撤退政策の反対を働きかけたということで何かご記憶がございますか。
(中島)
 どういう形でやったかは詳しく覚えていません。誰が乗り込んでいってどうしたという記憶はなく、おそらく在米の我が方の大使館がいろいろ働きかけたと思いますが、静かな格好でやったのではないかと思います。

第1の注目点

 1960年代から70年代は、米国が、ベトナム戦争とその後遺症に病んでいた時代である。カーターの前々任者の共和党ニクソン大統領は、就任間もなくの1969年7月、グァムでの記者会見で、非公式に新戦略・ニクソン・ドクトリンを発表した。それは、ベトナム戦争の泥沼化と、アメリカ経済の深刻な落ち込みを受けて、「(イ)米国は太平洋国家として今後もアジアにかかわりをもつ、(ロ)米国は従来の条約上の約束は今後も守る、(ハ)しかし米国は新しい約束はしない。アジアの安全保障はアジアの自主性を促がす範囲で米国は援助するに止める、(ニ)アジア地域が核の脅威をうけた場合を除き、米国は紛争に介入せず、アジアの互助と自立を促進させる。」とし、ベトナム戦争の収束とアジアに展開する米軍の整理、縮小、アジア諸国には自ら責任を果たさせるとの方向性を打ち出したものであった。カーターは、民主党候補として、ニクソン辞任後の1976年11月の大統領選挙で、副大統領から昇格した現職大統領のフォードを破り当選したのであるが、ニクソン・ドクトリンの延長線上において在韓米軍撤退を打ち出したものであろう。これは米国にとって、賢明かつ合理的で現実的政策であったと評価できる。
 しかるにわが国政府・外務省は、米国にこれを思いとどまらせるために、総力をあげて説得にあいつとめていたことを、故中島氏は、実にあっけらかんとその内実も含めて語っているのだ。
 このようなことをしたのであれば、わが国は、応分の役割分担に任ぜざるを得ないことになるのは当然である。カーター民主党大統領が1期で終わり、レーガン共和党大統領の時代になると、「日米軍事同盟」時代が幕開けとなったが、その端緒はこのあたりからであったのかもしれない。
 因みに日米同盟なる用語が、公式に用いられたのは鈴木善幸首相が1981年5月に訪米したときのこと。このときに初めて日米共同声明に盛り込まれた。その後、時はたち、今、日米同盟の深化を叫ぶ安倍首相の下で、わが国は、ついに違憲の集団的自衛権の封印を解き、米国とともに世界で一体となって戦う道に入り込もうとしている。まさに今昔の感がある。

第2の注目点

 以前から、朝鮮戦争勃発の要因の一つとして、ディーン・アチソン国務長官が、1950 年1月12 日ナショナルプレスクラブで行った演説で、アリューシャンから日本列島、琉球諸島、フィリピンに至る島嶼ラインの重要性を指摘したことがあげられていた。金日成に朝鮮半島には米国はコミットしないとの誤ったメッセージを送り、「南朝鮮解放」への決断に導かせたというのである。
 そのことを外務省のトップに近い故中島氏が公然と認めたのである。しかも単に話としてそうだと言うだけではなく、カーター政権に韓国から米軍撤退を断念させる論拠としたとのことのようだから、これは驚きである。
 ところで、このアチソン演説は、1948年3月初旬、皇室御用掛の寺崎英成が、昭和天皇の意向を戴して、GHQ顧問シーボルトを通じ米国務省に伝達された「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請した天皇メッセージといわれるものを彷彿させる。アチソンは、何故わざわざ「南朝鮮」を抜いたのであろうか。ミステリアスだ。
                                 (了)

「なぜ沖縄は分離されてしまったのか」 戦後政治外交史こぼれなし―その3

 「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

 これは1952年4月28日発効したサンフランシスコ講和条約の第3条の条文である。これより前、沖縄は、米国の占領下にあって、当初は米国軍政府、1950年12月15日以後は米国民政府の統治に服していたが、これにより、1952年4月28日以後も、米軍の占領と米国民政府の統治は、継続することになった。わが国本土が、連合国の占領とGHQの間接統治を脱して、法的には独立を回復したにもかかわらず、わが国の一部であった沖縄が、わが国本土から切り離され、米国の統治を受け続けることになったのは、どうしてなのだろうか。その要因をアトランダムに列挙してみよう。

①太平洋戦争末期における米国(連合国)側の指揮命令系統の相違により、占領が別々に進行した。
②沖縄はポツダム宣言受諾前に全島制圧され、本土が連合国の間接統治に移行する前に、米国の軍政が施行され、直接統治が開始されていた。
③1946年1月29日付連合国最高司令官覚書(「日本政府の権限の及ぶ範囲に関する覚書」)で、日本政府の管轄から除外された。
④日本の非武装化を徹底することによる防衛上の空白を、沖縄を一大空軍基地とすることにより穴埋めするというマッカーサー構想(1947年6月、記者会見で、マッカーサーは「沖縄を米軍が支配し、空軍の要塞化すれば、非武装国家日本が軍事的真空地帯になることはない。」と述べた。)
⑤米軍部の強い意向(戦略的要衝論、あるいは多数の米国人の若者が血を流して得た土地を手放すことはできないという戦前の日本軍部に相通ずる考え。)
⑥1947年9月19日、寺崎英成からGHQ外交顧問シーボルトを通じ、マーシャル国務長官に伝えられた昭和天皇メッセージ「アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与(リース)をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである。」の影響。同じく1948年3月初旬、寺崎の意見として表明され、同ルートで伝えられた「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請するメッセージの影響。
⑦米国務省内での対日政策の大転換
 米国務省は、大西洋憲章、カイロ宣言の定める領土不拡大の原則を守ろうとするニュ-ディーラーたち(対ソ協調派、国際協調派)が戦後しばらくは実権を握っていた。彼らは極東局を拠点にしていた。
 これに対抗してソ連問題の専門家ジョージ・ケナンが、1947年5月国務省に新設された政策企画部の部長に就任、極東政策も対ソ対決、ソ連封じ込め路線に転換する。決定的のターニングポイントは、1947年8月9日。このとき極東局の対日政策(全面講和・非武装体制化案)は、ケナンの具申により、不採択となり、ケナンの説く片面講和・武装体制化案がマーシャル長官及び軍部の支持によりが有力となるに至った。同年9月の国務省内の機構改革で、ニュ-ディーラーたちが後退、ケナンの息がかかった対ソ対決派が台頭。
 GHQ外交顧問として国務省が派遣したニュ-ディーラーの一人ジョージ・アチソンも同年8月17日飛行機事故で死亡、対ソ対決派のシーボルトが引き継いだ。
 こういう流れに掉さし、ディーン・アチソン国務長官は、1950 年1 月12日ナショナルプレスクラブでの演説で、アリューシャンから日本列島、琉球諸島、フィリピンに至る島嶼ラインの重要性を指摘するとともに、「琉球の住民の利益のために我々は適当な時期に琉球諸島を国連の信託統治のもとに置くことを提案する。だが琉球諸島は太平洋の防衛線の一部であり、我々はこれを保持しなければならない」と述べた。
⑧国際情勢の変化・・・冷戦体制の進行と朝鮮戦争の勃発
1947年 6月 5日「マーシャル・プラン」・ソ連拒否
1948年 4月 1日ベルリン封鎖(陸上輸送規制の強化)
1948年 7月17日大韓民国樹立宣言
1948年 9月 9日朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言
1949年 4月 4日NATO調印
1949年 5月 6日ドイツ連邦共和国成立
1949年10月 1日中華人民共和国成立
1949年10月 7日ドイツ民主共和国成立
1950年 6月25日朝鮮戦争勃発

 これらが相互に因となり果となり、米国の対日政策は、片面講和、日米二国間の条約により、日本本土には望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間は駐留させる、沖縄の米国統治を確保し、米軍基地として最大限活用する、これらを通してソ連封じ込めの戦略的拠点として日本と沖縄を利用するというところに収斂し、わが国の吉田政権もこれを受け入れるということになって行ったものと考えられる。
 ただこれらの中で、最も重要なものは何かと問われれば、私は、米国側にとっては朝鮮戦争の勃発、わが吉田政府にとっては天皇メッセージであったと答えることとしたい。

                           (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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