「米国第一主義」


 トランプ大統領の就任演説のキーワードは「米国第一主義」でした。彼は次のように述べました。

 From this moment on, it's going to be America First. Every decision on trade, on taxes, on immigration, on foreign affairs, will be made to benefit American workers and American families.We must protect our borders from the ravages of other countries making our products, stealing our companies, and destroying our jobs. Protection will lead to great prosperity and strength. I will fight for you with every breath in my body - and I will never,ever let you down.

 この日から、「米国第一」だけになるのです。米国第一です。
 貿易、税金、移民、そして外交問題に関するすべての決定が、米国の労働者や米国民の利益になるようにします。
 私たちの製品をつくり、私たちの企業を奪い、雇用を破壊する他国の行為から、私たちは国境を守らなければなりません。防御が、大いなる繁栄と強さをもたらすのです。
 私は、息の続く限り皆さんのために戦い続けます。そして、皆さんを決してがっかりさせません。)
    (「朝日」1月22日付朝刊)

 はて、これまでの米国は、「米国第一主義」ではなかったのでしょうか。果たして国際主義だったのでしょうか。私は、そうは思いません。私は、米国のスタンダードを世界共通のスタンダードにし、世界共通市場を作ることが米国の国益につながるという洗練され、ソフトで遠望長大な「米国第一主義」だったように思います。
 トランプ大統領は、これまで自分の企業さえもうかればよいという個別企業のオーナーの論理で動いて来た人ですから、目先の利益に敏感で、ガサツ、ハードで近視眼的な「米国第一主義」の旗を掲げたに過ぎません。

 トランプ大統領のお手並みはじっくり拝見したいと思いますが、私は、その政策によって米国の貧富の格差拡大とラストベルト問題が解決できるとは到底思えません。何故なら、貧富の格差拡大とラストベルト問題は、米国だけの特有な現象ではなく、世界共通現象だからです。ですからいくら米国が保護主義を徹底し、たとえ関税・非関税の障壁を設け、多国籍企業に米国内への工場建設を促してもどうにもなりません。たとえば多国籍企業に渋々いくつかの国内工場を作らせても、現在の世界の資本主義構造の下では、徹底した合理化と低賃金によってしか企業収益を維持できず、労働者の雇用の拡大と賃金アップは望むべくもありません。

 世界各国の共通現象となっている貧富の格差の拡大とラストベルトの出現は、現在の資本主義のイデーである新自由主義(あらゆるものを商品化し、自由競争を最大限に拡張することを世界のスタンダードとするもので、いわば古典的な自由主義の極地と言っていいでしょう。)を、人間第一主義を世界のスタンダードにすることによってのみ阻止することができるのだと私は思います。それをやりとげるのが真の「国際主義」です。

 さて安倍首相は、このガサツ極まりない「米国第一主義」とどう向き合うのでしょうか。これまでのようにひたすら米国追随を続けるのであれば、尾籠な言い方ですがケツの毛までむしり取られることでしょう。

 わが国は、今こそ人間第一、名実ともに国際主義に転回したいものです。
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南沙諸島海域を東南アジアの平和と協調の海に

 1938年、大日本帝国は、南沙諸島を「新南群島」と命名して領有を宣言、台湾・高雄市に編入した。

 中国は、この大日本帝国のとった措置を前提にして、南沙諸島の領有の根拠を組み立てているようだ。たとえば王冠中・中国人民解放軍副参謀長は、2014年6月1日、シンガポールで開催されたアジア安全保障会議において次のように述べている。

「1946年、中国政府は『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』に基づいて、日本の侵略者から両諸島(注:南沙諸島及び西沙諸島)の主権を奪回。中国政府は1948年に『九段線』(注:当時は十一段線)の設定を宣言した。」

 果たして、カイロ宣言とポツダム宣言により、中国が南沙諸島の領有権を大日本帝国から「奪回」したと言えるだろうか。ことはそれほど単純ではなさそうである。まず両宣言の該当箇所を見てみよう。

カイロ宣言

第3項 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ

ポツダム宣言

第8項 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

 見れば明らかなように、1938年以後大日本帝国が領有するに至った南沙諸島(新南群島)は、カイロ宣言にいう「太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼」にも「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」にも該当しない。
 一方、ポツダム宣言は、「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるだけで、どのように局限するかは後の決定に委ねられているし、「日本国ノ主権」からはずされた地域をどうするかについては何も定められていない。

 では、サンフランシスコ講和条約においては、どのように取りきめられているだろうか。

サンフランシスコ講和条約

第2条b項 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

第2条f項 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 サンフランシスコ講和条約では、日本は、台湾と南沙諸島(新南群島)を放棄することとしているが、条項はわざわざ別立てにされており、南沙諸島(新南群島)を台湾に付属させた大日本帝国の措置を追認せず、南沙諸島(新南群島)は、台湾とは別コースを歩むこととされているのである。
 勿論、中国も台湾も排除して締結された条約であるから、これを金科玉条とするわけにはいかないが、少なくとも、中国の主張のごとく、ことは単純ではないとは言えるだろう。

 南沙諸島をめぐっては、中国、ベトナム、フィリッピン、台湾、マレーシア、ブルネイなどがその全部もしくは一部について領有の主張をし、対立をしている。その間隙をぬって、アメリカが、アジア・リバランスの試金石とばかりに介入を強めている。そこで、南沙諸島問題をどう解するべきか、その解決の道筋を考えてみたい。

                               (続く)

「ある外交官の証言」 戦後政治外交史こぼれなし―その4

 今回は、ある外交官の証言に注目してみた。ある外交官とは、故中島敏次郎氏。1977年1月当時外務省条約局長。同年9月北米局長になり、その後外務審議官を経て、中国大使。外務省退官後は、最高裁判事に就任している。外務省のほぼ頂点をきわめた人である。
 
 私が注目したのは中島敏次郎『外交証言録 日米安保・沖縄返還・天安門事件』(岩波書店・2012年1月27日第1刷発行)中に採録された以下の証言である。

(問い)
 1977年1月、米国でカーター(Jimmy Carter)政権が始動します。カーター政権は、在韓米軍撤退の政策を掲げて、日本はじめアジア同盟国に動揺を与えます。
同年3月のワシントンにおける日米首脳会談でも、福田赳夫首相はこの問題に対する慎重な対応を働きかけております。当時の日本政府の対応についてお聞かせ下さい。
(中島)
  「カーターさんは、もともと誰も大統領になると思っていなくて、選挙のとき笑い話で、“Jimmy Who ?”と言われた方でした。強力な政治家がうまく出てこなかったところに、うまいこと飛び出したのだと思います。それで彼は在韓米軍撤退政策をぶちあげたのですが、あの人は海軍の軍人でしたので、妙にプリンシプルなことにこだわるところがありました。しかし、南北朝鮮の対立が続いていた時代ですから、簡単にそうなっては困るというので、いろいろな方面から反対論が出てきて、結局取り下げになったという経緯があります。
 私自身も取り下げることになって幸いだったと考えています。日本も思いとどまらせようとしたのでしょうけれども、その際にいかなる論理を組み立てたのかというのは、要するに、朝鮮半島情勢は依然として流動的であり、そういうときにアメリカが引く話になったら、アジアにいろいろ波紋が起こりますよと説得したのだと思います。
 もともと、朝鮮半島は、アメリカのアチソン(Dean G. Acheson)が、シベリアのほうから日本と朝鮮の間に防衛線があるという演説をやって、そのことが北朝鮮の南進による朝鮮戦争勃発の一つの契機になりました。そのためにうっかり防衛線の変更みたいな話を責任ある人がやると大変なことになるという国際社会の教訓があり、その頃を知っている人間は誰しも、再び北朝鮮を刺激して、朝鮮戦争で生々しい事態が起こることを非常に心配したわけです。それで結局、国連軍の代表があそこにいて、静かな情況が継続したことで 、ある意味ほっとしたということだったと思います。
(問い)
 中島大使はじめ外務省事務レベルでは、具体的にカーター政権に対して撤退政策の反対を働きかけたということで何かご記憶がございますか。
(中島)
 どういう形でやったかは詳しく覚えていません。誰が乗り込んでいってどうしたという記憶はなく、おそらく在米の我が方の大使館がいろいろ働きかけたと思いますが、静かな格好でやったのではないかと思います。

第1の注目点

 1960年代から70年代は、米国が、ベトナム戦争とその後遺症に病んでいた時代である。カーターの前々任者の共和党ニクソン大統領は、就任間もなくの1969年7月、グァムでの記者会見で、非公式に新戦略・ニクソン・ドクトリンを発表した。それは、ベトナム戦争の泥沼化と、アメリカ経済の深刻な落ち込みを受けて、「(イ)米国は太平洋国家として今後もアジアにかかわりをもつ、(ロ)米国は従来の条約上の約束は今後も守る、(ハ)しかし米国は新しい約束はしない。アジアの安全保障はアジアの自主性を促がす範囲で米国は援助するに止める、(ニ)アジア地域が核の脅威をうけた場合を除き、米国は紛争に介入せず、アジアの互助と自立を促進させる。」とし、ベトナム戦争の収束とアジアに展開する米軍の整理、縮小、アジア諸国には自ら責任を果たさせるとの方向性を打ち出したものであった。カーターは、民主党候補として、ニクソン辞任後の1976年11月の大統領選挙で、副大統領から昇格した現職大統領のフォードを破り当選したのであるが、ニクソン・ドクトリンの延長線上において在韓米軍撤退を打ち出したものであろう。これは米国にとって、賢明かつ合理的で現実的政策であったと評価できる。
 しかるにわが国政府・外務省は、米国にこれを思いとどまらせるために、総力をあげて説得にあいつとめていたことを、故中島氏は、実にあっけらかんとその内実も含めて語っているのだ。
 このようなことをしたのであれば、わが国は、応分の役割分担に任ぜざるを得ないことになるのは当然である。カーター民主党大統領が1期で終わり、レーガン共和党大統領の時代になると、「日米軍事同盟」時代が幕開けとなったが、その端緒はこのあたりからであったのかもしれない。
 因みに日米同盟なる用語が、公式に用いられたのは鈴木善幸首相が1981年5月に訪米したときのこと。このときに初めて日米共同声明に盛り込まれた。その後、時はたち、今、日米同盟の深化を叫ぶ安倍首相の下で、わが国は、ついに違憲の集団的自衛権の封印を解き、米国とともに世界で一体となって戦う道に入り込もうとしている。まさに今昔の感がある。

第2の注目点

 以前から、朝鮮戦争勃発の要因の一つとして、ディーン・アチソン国務長官が、1950 年1月12 日ナショナルプレスクラブで行った演説で、アリューシャンから日本列島、琉球諸島、フィリピンに至る島嶼ラインの重要性を指摘したことがあげられていた。金日成に朝鮮半島には米国はコミットしないとの誤ったメッセージを送り、「南朝鮮解放」への決断に導かせたというのである。
 そのことを外務省のトップに近い故中島氏が公然と認めたのである。しかも単に話としてそうだと言うだけではなく、カーター政権に韓国から米軍撤退を断念させる論拠としたとのことのようだから、これは驚きである。
 ところで、このアチソン演説は、1948年3月初旬、皇室御用掛の寺崎英成が、昭和天皇の意向を戴して、GHQ顧問シーボルトを通じ米国務省に伝達された「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請した天皇メッセージといわれるものを彷彿させる。アチソンは、何故わざわざ「南朝鮮」を抜いたのであろうか。ミステリアスだ。
                                 (了)

「なぜ沖縄は分離されてしまったのか」 戦後政治外交史こぼれなし―その3

 「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

 これは1952年4月28日発効したサンフランシスコ講和条約の第3条の条文である。これより前、沖縄は、米国の占領下にあって、当初は米国軍政府、1950年12月15日以後は米国民政府の統治に服していたが、これにより、1952年4月28日以後も、米軍の占領と米国民政府の統治は、継続することになった。わが国本土が、連合国の占領とGHQの間接統治を脱して、法的には独立を回復したにもかかわらず、わが国の一部であった沖縄が、わが国本土から切り離され、米国の統治を受け続けることになったのは、どうしてなのだろうか。その要因をアトランダムに列挙してみよう。

①太平洋戦争末期における米国(連合国)側の指揮命令系統の相違により、占領が別々に進行した。
②沖縄はポツダム宣言受諾前に全島制圧され、本土が連合国の間接統治に移行する前に、米国の軍政が施行され、直接統治が開始されていた。
③1946年1月29日付連合国最高司令官覚書(「日本政府の権限の及ぶ範囲に関する覚書」)で、日本政府の管轄から除外された。
④日本の非武装化を徹底することによる防衛上の空白を、沖縄を一大空軍基地とすることにより穴埋めするというマッカーサー構想(1947年6月、記者会見で、マッカーサーは「沖縄を米軍が支配し、空軍の要塞化すれば、非武装国家日本が軍事的真空地帯になることはない。」と述べた。)
⑤米軍部の強い意向(戦略的要衝論、あるいは多数の米国人の若者が血を流して得た土地を手放すことはできないという戦前の日本軍部に相通ずる考え。)
⑥1947年9月19日、寺崎英成からGHQ外交顧問シーボルトを通じ、マーシャル国務長官に伝えられた昭和天皇メッセージ「アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与(リース)をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである。」の影響。同じく1948年3月初旬、寺崎の意見として表明され、同ルートで伝えられた「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請するメッセージの影響。
⑦米国務省内での対日政策の大転換
 米国務省は、大西洋憲章、カイロ宣言の定める領土不拡大の原則を守ろうとするニュ-ディーラーたち(対ソ協調派、国際協調派)が戦後しばらくは実権を握っていた。彼らは極東局を拠点にしていた。
 これに対抗してソ連問題の専門家ジョージ・ケナンが、1947年5月国務省に新設された政策企画部の部長に就任、極東政策も対ソ対決、ソ連封じ込め路線に転換する。決定的のターニングポイントは、1947年8月9日。このとき極東局の対日政策(全面講和・非武装体制化案)は、ケナンの具申により、不採択となり、ケナンの説く片面講和・武装体制化案がマーシャル長官及び軍部の支持によりが有力となるに至った。同年9月の国務省内の機構改革で、ニュ-ディーラーたちが後退、ケナンの息がかかった対ソ対決派が台頭。
 GHQ外交顧問として国務省が派遣したニュ-ディーラーの一人ジョージ・アチソンも同年8月17日飛行機事故で死亡、対ソ対決派のシーボルトが引き継いだ。
 こういう流れに掉さし、ディーン・アチソン国務長官は、1950 年1 月12日ナショナルプレスクラブでの演説で、アリューシャンから日本列島、琉球諸島、フィリピンに至る島嶼ラインの重要性を指摘するとともに、「琉球の住民の利益のために我々は適当な時期に琉球諸島を国連の信託統治のもとに置くことを提案する。だが琉球諸島は太平洋の防衛線の一部であり、我々はこれを保持しなければならない」と述べた。
⑧国際情勢の変化・・・冷戦体制の進行と朝鮮戦争の勃発
1947年 6月 5日「マーシャル・プラン」・ソ連拒否
1948年 4月 1日ベルリン封鎖(陸上輸送規制の強化)
1948年 7月17日大韓民国樹立宣言
1948年 9月 9日朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言
1949年 4月 4日NATO調印
1949年 5月 6日ドイツ連邦共和国成立
1949年10月 1日中華人民共和国成立
1949年10月 7日ドイツ民主共和国成立
1950年 6月25日朝鮮戦争勃発

 これらが相互に因となり果となり、米国の対日政策は、片面講和、日米二国間の条約により、日本本土には望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間は駐留させる、沖縄の米国統治を確保し、米軍基地として最大限活用する、これらを通してソ連封じ込めの戦略的拠点として日本と沖縄を利用するというところに収斂し、わが国の吉田政権もこれを受け入れるということになって行ったものと考えられる。
 ただこれらの中で、最も重要なものは何かと問われれば、私は、米国側にとっては朝鮮戦争の勃発、わが吉田政府にとっては天皇メッセージであったと答えることとしたい。

                           (了)

戦後政治外交史こぼれなし―その2

対米自立の気概など微塵も見られなかった岸信介氏

 安倍晋三氏は、おじいちゃん子であったようである。おじいちゃんとは、言わずと知れた岸信介氏のことだ。

 朝日新聞連載の『70年目の首相』の2回目、『改憲へ、祖父の背中追う 「日米対等」求め安保改定―集団的自衛権』に、安倍氏が岸氏に心酔していたことを示す以下のエピソードを紹介されている。安倍氏は、不平等・片務・従属的な旧安保条約の改定に力を注ぎ、「平等・双務・対等」の新安保条約を締結した岸氏を仰ぎ見て、その背中を追い続けてきたのであろう。

 官房副長官を務めていたころのある日、安倍氏は、かつて岸氏もいたことがある旧首相官邸の窓から外の景色を眺めながら、「昔、おじいちゃんが安保闘争のとき、デモ隊にあんなに囲まれたのによくやったよなあ。たぶんいまの支持率だったらゼロ%だろう。やっぱりすごいよな。」とつぶやいたとのこと。これは秘書官だった井上義行氏(現参院議員)の証言である。
 この4月29日、安倍氏は、米議会上下両院合同会議での演説において、安保法案を8月までには成立させるとただならぬ誓約をしてしまったが、その前に、「1957年6月、私の祖父、岸信介はまさにここに立ち、日本の首相として演説を始めました。」と58年前の岸氏の演説を引用しながら語っている。

 
 しかし、安倍氏が仰ぎ見て、背中を追ってきた「平等・双務・対等」の新安保条約締結の推進者としての岸氏の姿は、果たして、真実ありのままのものであっただろうか。

 現実主義者の国際政治学者・故高坂正堯氏は、以下のように論評をしている(中公クラシックス「宰相吉田茂」所収の「吉田茂以後」)。

 「岸はなんと言っても伝統的なナショナリストであった。だから内乱条項があったり、期限が定まっていない安保条約の存在は、彼にとっては快いものではなかったのである。彼が、米国との交渉の席で、『それではまるで満州国だ』と口走ったのは、彼の本心を案外よく表現しているのである。(中略)
 しかし、彼は日本と米国との間の平等性は、安保条約の条項を変えることによって左右されるようなものではないことを認識することができなかった。もちろん、純技術的には、日米安保条約の条文を変更することは好ましいことであったが、それは基本的な相違をもたらすものではなかったのである。だいたい、米国との協力に安全保障を依存することが、すでに独立についての異なった考え方に立脚することであった。そうした体制において日本の独立性を増すためには、安保条約の条文を変更するだけではなく、外交のあり方全体を問題にしなければならなかったのである。」

 高坂氏は、岸氏が「平等・双務・対等」の新安保条約締結の推進者であったこと自体は否定していない。これが前半部分で述べられている。しかし、後半部分では、岸氏は、外交のあり方自体を問題にし、日本の独立性を増すための努力はしなかったと批判をしているのである。

 だが、私は、岸氏が「平等・双務・対等」の新安保条約締結の推進者であったこと自体も疑わしいと考えるのである。それは以下に述べるとおりである。

 前回述べた重光外相、ダレス国務長官の会談に、岸氏は、民主党幹事長として同席し、鳩山・重光外交の失敗を目の当たりにした。このことは岸氏にとって「偉大な米国」への姿勢をかえさせるに余りあるできごとであった。岸氏は、1957年2月、満を持して首相に就任したのであるが、旧安保条約の抜本的改定を打ち出すことはできなかったのである。岸氏が実際に持ち出したのは、旧安保条約の微修正、即ち、在日米軍の基地使用について事前協議制をもうけること、なんらかの期限をもうけることだけだった。

 当時わが国では、第五福竜丸被ばく以後燎原の火のごとく燃え広がった原水爆禁止運動、内灘、砂川を頂点とする基地反対闘争、さらにはジラード事件の発生を契機に急速に対米自立を求める広範な国民運動の展開など、保守政権の足もとを揺るがし、非武装・中立の政権の成立さえ展望される情勢となっていた。
 これに危機感を抱いたのは、岸新内閣発足と時を同じくして駐日大使として着任してきたダグラス・マッカーサー2世であった。マッカーサー大使は、岸内閣に先んじて、本国政府に「日本に親共産主義、中立主義の道をとらせないためには、安保条約を改定して、他の同盟国と同じように、完全かつ平等なパートナーとして扱う必要がある。」と意見具申をし、微修正要求しかしない岸内閣の鼻先をとらえて、「平等・双務・対等」の新安保条約締結に誘導したのであった。勿論、米国の国益を守るために。

 さすがは独立独歩の超大国、米国の辣腕大使である。
 それに比べ、鼻先をとられてそのあとをおずおずとつき従った岸氏に、対米自立の気概など微塵も見られない。高坂氏の論ずる前半部分は正しくない。むしろ、それとは反対に後半の見立てを裏付けているとさえ言っていい体たらくであったのである。

                           (了)
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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