「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その18

天皇制を利用することを模索してきたアメリカ

 わが国政府と天皇が、天皇制を維持するのみを目的とし、和平という名目の「名誉ある降伏」の道を模索していたことは、上に見たとおりである。これは、今風な言い方をすれば、天皇制原理主義である。
 これに対して、アメリカでは、一方では既に開戦当初から、天皇制を、戦争を有利に遂行するための具として、また戦後の日本統治の要として、利用しようという研究・検討が進められていた。さすがはプラグマティズムの国である。

 アメリカはプラグマティズムの国であると同時に情報公開の先進国でもある。実に夥しい分量の戦時中の政府、軍関係資料が公開されており、これらを調査、整理、研究した著作物も多数刊行されている。それらを参照して、アメリカ国務省や軍関係当局が、天皇制について進めていた研究・検討の状況を概観すると、以下の如くである。

国務省の研究・検討―天皇制維持論と廃絶論のせめぎ合いから

 天皇制維持論からスタート

 アメリカにおいて、戦後の日本の統治政策の研究・検討が始まったのは、1942年夏ころのことである。そのころ、国務省特別調査部に、日本史専攻の研究者ヒュー・ボートンらが加わった。
 1943年3月、国務省内に設置された戦後対外政策諮問委員会(1941年12月設置)の領土小委員会が活動を開始したころから、検討は本格的に進められるようになった。
 この委員会には、「知日派」といわれる上記ボートン、極東問題研究者ジョージ・ブレークスリー、長い滞日経験のある外交官ジョセフ・バランタイン、「親中派」の外交官スタンリー・ホーンベックらが加わっていた。
 同委員会は、1943年10月には、国務省・国/地域委員会(Interdivisional Country and Area Committee「CAC」)の一つである部局間極東地域委員会(Far East Area Committee「FEAC」)として再編成された。

 1944年1月、国務省に極東局が置かれてホーンベックが局長に就任、同時に「戦後計画委員会」(Post-War Programs Committee, State Department「PWC」)が設置された。戦後計画委員会(PWC)はコーデル・ハル国務長官が主宰し、国務省幹部をメンバーとし、対日占領政策を検討・作成することを目的とし、同年春から、活動を始めた。

 同年4月、「知日派」と言われる人たちが優勢の部局間極東地域委員会(FEAC)から戦後計画委員会(PWC)に出されてきた当初原案は、ボートンの比喩を用いると「自由主義的改革に天皇制のマントを着せる」というものであった。具体的には、6ヶ月程度の軽い占領を想定し、日本国民が望むなら天皇制を残し、できるだけ天皇と日本政府を用いて占領行政を遂行し、日本帝国の解体と非軍事化を行い、それが達成されるとともに日本を国際社会の平等な一員として受け入れるという内容であった。

 天皇制維持論がスタートだったのである。

 これに対し、「親中派」と言われ、天皇制を否定する人たちが優勢な国務省幹部からなる戦後計画委員会(PWC)は、これを却下し、書き直しを命じたが、部局間極東地域委員会(FEAC)からは微修正だけで、本質的には変わらない案が再び提出された。

 天皇制維持論は後退、しかし土俵際で踏ん張った

 同年5月1日、戦前最後の駐日大使で「知日派」として知られるジョセフ・グルーが極東局長に就任した。

 グルーは、戦後計画委員会(PWC)おいて、次のように、天皇制擁護論を弁じた。

 天皇ヒロヒトが、敗戦後、責任をとって退位するのはやむを得ないが軍国主義を廃し、民主的・平和的日本を建設するには天皇制は有力な資産となる、「天皇制こそ日本の隅の親石であり、頼みの大錨である。」。

 しかし、戦後計画委員会(PWC)の大勢を変えるには至らなかった。5月9日、戦後計画委員会(PWC)は、部局間極東地域委員会(FEAC)から上がってきた案を排し、「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)なる政策文書を採択したのであった。

 この文書は占領軍当局が取り得る次の三つの選択枝を提起している。

第一は天皇にみずからの機能を行使する権限を全然与えない。
第二は天皇にその機能をすべて与える。
第三はその一部分を委任する。


 そのうえで同文書は、占領軍当局としては、出来るだけ融通性のある方針を立ておくべきだとした上で、次のように勧告する。

 もし天皇の特定の制限された機能を行使することを許可することを決定するならば、その場合、可能であれば天皇を保護・拘束・監督下におく、日本国民に対し占領軍当局の権威は天皇のそれよりも高位にあることを示す、天皇の特定の制限された権能を行使させることが占領政策に利益にならなければ全て停止する方が有利になるかもしれない等々。

 日本降伏を見越して、1944年5月9日という時期に、アメリカ務省・戦後計画委員会(PWC)が戦後対日占領政策のために採択した勧告文書「日本―政治―天皇」(PWC116d)は、天皇制廃絶論ではない。天皇制維持論は、土俵際で踏ん張ったのである。

 結局、これがアメリカの対日占領政策の基礎となった。

 では軍関係当局はどのような研究・検討を進めていたか。それは次回に述べる。

                            (続く)
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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その17

敗戦処理のヤマ場―醜態をさらす日本の上層部の面々(3)

 その第四弾。わずか35分の御前会議で和平方針へ転換

 6月8日の御前会議で、決然と反対する者はただの一人もいないまま徹底抗戦・本土決戦に一決したのであったが、その裏で、その直後から、決定見直しの動きは水面下で始まっていた。なんとも無責任というほかはない。この無責任な状況の下で、沖縄戦は最終段階を迎え、同月23日、終結した。沖縄の日本軍は殲滅された。戦死者約10万9000人、県民の死者約10万人である。

 大元帥たる天皇のもとにはあらゆる情報が集まる。当然、沖縄戦の敗北近しという情報も入っていたことであろう。

 同月20日、天皇は東郷に「最近受け取った報告によって、統帥部の言っていることとは違って、日本内地の本土決戦の準備がまったく不十分であることが明らかとなった。なるべく速やかに戦争を終結せしめることに取り運ぶよう希望する。」と述べた。

 沖縄戦が終結する1日前の同月22日には、天皇自ら御前会議を招集した。根回ししたのは木戸である。招集に応じて出席したのは、鈴木、東郷、阿南、米内、梅津及び豊田副武軍令部総長であった。

 『木戸幸一日記』下巻(東京大学東大出版会)によると。会議の模様は以下のように記述されている。

 「午後3時より御召集に相成たる最高戦争指導会議構成員の会合の模様につき御話ありたり。先づ陛下より『戦争の指導に就ては曩(さき)に御前会議に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む』との意味の御言葉あり。右につき首相の意見如何との御尋ねあり、首相は仰せの通りにて其実現を図らざるべからずと奉答す。今日は最早其時期なれば速に着手することを要すと奉答。東郷外相も亦、之を補足して意見を言上す。終りに梅津総長に御尋ねあり、総長は異存はなきも、之が実施には慎重を要すと奉答。重ねて慎重を要することは勿論なるも、其の為め時期を失することはなきやとの御質問あり、之に対し総長は速かなるを要すとはっきり奉答せり」

 東郷の発言を補足する。

 「連合国は、ベルリン郊外のポツダムで7月半ばに会議を開くと発表しています。その前に、なんとか7月はじめまでにはソ連との協定に達したいと考えます。」

 阿南も「特に申し上げることはありません。」とこれに応じた。

 こうして和平の時期、方法を明示した東郷案が承認された。ここでもソ連頼み。和平の目的は天皇制の維持である。徹底抗戦・本土決戦の6月8日御前会議決定は、かくして覆された。会議に要した時間はわずかか35分であった。

 その第五弾。袖にされた日本。

 6月23日、東郷は、広田と会い、先に尻切れトンボになっていたマリク大使との話を、至急再開するように要請した。

 翌24日、早速、広田・マリク会談が、箱根で持たれた。

 しかし、広田は、ソ連との関係強化のために、満州、中国、東南アジアで、ソ連に譲歩する用意があると述べるにとどめ、戦争終結のためソ連の斡旋を求めるとの申し出さえしない。マリクは、「二国間の関係は日ソ中立条約を基礎にして正常に発展しているように思われる。ソ連は条約を破棄する決定を行ったが、ソ連政府は条約を破ったわけではない。」と応答、交渉継続を拒まない態度をとる。

 6月15日のモロトフからマリクにあてた訓令「「もし広田が再度の会見を要請してくるならば、貴下は広田と会見し、意見を聞くことにする。もし、広田がまた一般的な問題しか提起しないならば、貴下は、ただ、この会談の内容を最初の可能な機会に(ただし外交クーリエで)モスクワに報告するだけにとどめること」を思い起こして頂きたい。マリクは、交渉引き延ばしの訓令に忠実に従っているのだ。

 続いて、29日、東京のソ連大使館にて、広田・マリク会談続行。

 広田は、ソ連の満州国への内政不干渉と領土保全の保障と引き換えに満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連からの石油供給と引き換えに日本のソ連領海での漁業権の放棄、その他ソ連が関心を持つあらゆる問題をあげた。
 マリクは、「この提案はソ連政府の上層部において真剣に考慮されるであろう」と答えた。心憎いばかりの冷静な対応である。

 広田はさらに粘る。しかし、とうとう、マリクは病気と称して会おうとしなくなる。もはや梃子でも動かなくなった。それがわかったのは7月11日のことである。もはやソ連との交渉の窓口もなくなってしまった。

 広田が下手を打ったわけではない。誰がやっても同じであった。なぜなら既にスターリンは、ヤルタ密約に従い、対日参戦を決定、その成果をいかに確保するかにあらゆる努力を傾注していたのだから。既に7月17日を期して、ベルリン郊外のポツダムに、米・英・ソ3カ国首脳が集い、ヨーロッパ戦後処理策及び対日戦争当事国による対日戦争終結とその後の方策が話し合われることが決まっていたのである。

 それでも東郷はあきらめない。ソ連が賢いのか、日本が愚かなのか。それは各自の判断に任せよう。

 東郷は、ソ連に天皇の特使を派遣して一挙に打開しようと図る。近衛特使派遣構想である。近衛もいよいよ出番がまわってきたとばかりに随分に乗り気になったようである。天皇はといえば、近衛にはあまり信頼をおいていなかったようであるが背に腹はかえられず、渋々この人事に同意する。

 近衛が張り切ってまとめた和平案「和平に関する要綱」は以下のとおりであった。

 第一に、国体の護持。国体とは皇統を確保し、天皇政治を行うことを主眼とするが、我が国古来の伝統たる天皇を戴く民本主義に復帰することを約束する。
 第二に、領土は我が国固有の本土に制限されること、行政が若干の期間監督を受けること、戦争責任者の処分を認めること、一時的な完全武装解除を認めること、軍事占領は回避に努めるが一時的に若干の駐屯を認めることなど。


 ここでも天皇制維持が第一義である。天皇制が維持されれば領土は「固有の本土」だけでよい。沖縄も要らないということになる。尖閣諸島や竹島、北方領土をめぐって、今、日本政府が主張していることなど、当時はどうでもいい問題だったことを、是非、記憶にとどめておいて頂きたい。

 しかし、ソ連は、出先の佐藤駐ソ大使に慇懃な姿勢をとるばかりで、特使受け入れを受諾しなかった。近衛特使派遣構想は幻に終わった。これもはじめからわかっていたこと。人間は決してタコつぼにこもってはならない。タコつぼにこもるとこんなにも世の中のことがわからなくなるのである。
                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その16

敗戦処理のヤマ場―醜態をさらす日本の上層部の面々(2)

 その第三弾。アリ地獄の中でうつろにこだまする「天皇制維持」の掛け声

 ソ連一辺倒にのめりこんだ日本政府は、ますますソ連に翻弄される。ソ連は、日ソ交渉を、決して拒否せず、できるだけ引っ張ろうとした。

 6月15日、モロトフからマリク大使への訓令。

 「もし広田が再度の会見を要請してくるならば、貴下は広田と会見し、意見を聞くことにする。もし、広田がまた一般的な問題しか提起しないならば、貴下は、ただ、この会談の内容を最初の可能な機会に(ただし外交クーリエで)モスクワに報告するだけにとどめること」

注:外交クーリエとは、外交上の文書を送る手段。モロトフは、日本側に傍受されることを慮って、電文で報告することを禁止したのである。

 6月8日の御前会議の結果を受けて、和平派は、あらためて策を講じはじめた。

 まず内大臣木戸が、政府外の有力者、及び政府内の東郷、米内らと連絡をとりあい、和平に向けた「時局収拾試案」を起草した。

(要旨)時期を失すれば「遂に独乙の運命と同一の轍を踏み、皇室の御安泰、国体の護持てふ至上の目的すら達しざるを悲境に落つること必定」であり、「皇室の安泰と国体の護持」を含む「名誉ある講和」を求めなければならない。

 木戸は、翌9日、これを天皇に上奏した。この上奏を受けて、天皇も、ようやく本格的に動き始める。満州視察から帰国したばかりの参謀総長梅津と、国内各軍管区の状況視察を終えた長谷川清海軍大将をそれぞれ呼び付けて、その結果を報告させた。

 同日の梅津の報告。「満州と支那にあります兵は、すべてをあわせても、米国の8個師団ぐらいの戦力しかありません。しかも弾薬保有量は近代式な大会戦をやれば1回分しかありません。」

 12日の長谷川の報告。「自動車の古いエンジンを取り付けた間に合わせの小舟艇が、特攻兵器として何千何百と用意されているのです。このような事態そのことがすでに憂うべきことでありますうえに、そのような簡単な機械を操作する年若い隊員が、欲目にみても訓練不足と申すほかありません。動員計画そのものもまことに行き当たりばったりのずさんなものでございまして、浪費と重複以上のなにものでもありません。しかも、機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われております。」

 さすがに天皇も愕然とし、体調を崩してしまう。15日は一日床についてしまった。

 こうして先の御前会議の決定見直しの動きが始まった。木戸は、米内、鈴木の同意をとりつけ、政府内に明確な和平派ブロックが形成された。

 彼らの共通項は、「皇室の安泰と国体の護持」。しかし、実際にはさらに「皇室の護持」に絞られる。18日、木戸は、陸相阿南を次のように説得している。

 阿南 「国体を護持するためには本土で最後の決戦をすることが最善の方法だ。」

 木戸 「もし米軍が本土上陸して三種の神器を奪われたり、伊勢神宮が占拠されたりしたらどうするのか。」
 
 阿南も、これには抵抗できず、木戸試案に反対はしないことを約束したとのことである。

 当時の日本の上層部は、戦地や占領地で繰り返される惨劇や残虐行為は勿論のこと、飢えと死に直面している国民の悲惨な姿は全く見えていない、ただ三種の神器、伊勢神宮、皇室の存続しか見えていなかったのである。

 アリ地獄の中で、「天皇制維持」の掛け声がうつろにこだまするようだ。反吐が出そうな醜態ぶりはまだまだ続く。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その15

怜悧かつ事務的なソ連の対応

 外務省は、早速、上記最高戦争会議で確認された対ソ方針を、ストレートに駐日ソ連大使マリクに申し出をしたようだ。真正直なのは普通なら咎めだてされることではない。しかし、相手は海千山千のスターリン率いるソ連との交渉となると話は別で、これでは五分と五分の話にはならない。

 ソ連はヤルタ密約に従い、着々と対日参戦の準備進める。5月28日には、モスクワを訪問した米国特使ハリー・ホプキンスとの会談で、スターリンは、「ソ連軍は8月8日までに十分に対日参戦の準備を完了する、8月9日には攻撃を開始する」とヤルタ密約の趣旨を再確認した上で、「イギリスと日本が条件付降伏に関する交渉をしているという噂を耳にしたが、日本の軍事力の完全な破壊を目差す無条件降伏が好ましい」と述べた。

注:ハリー・ホプキンス―元合衆国商務長官。ルーズヴェルトの外交顧問。

 スターリンにとっては、ソ連参戦前の日本降伏を阻止することが至上命題であるかの如くである。上記の如き日本政府の方針は、一笑にふされてしまったも同然であった。

 このようなソ連を相手に、あせる日本政府は、和平条件を、本土の確保と国体の護持、即ち天皇制の維持に絞り込むことを明確にしてゆく。

敗戦処理のヤマ場―醜態をさらす日本の上層部の面々(1)

 こうして6月から8月にかけての敗戦処理のヤマ場を迎えることになる。そのヤマ場で、当時の日本の上層部を構成した人々のさらけ出した醜態は目をおおうばかりであった。

 その第一弾。広田弘毅元首相による対ソ折衝。

 東郷は、広田を担ぎ出す。広田に、ソ連に中立を維持させるだけではなく、ソ連との関係を改善することは我が国にとって緊急の課題である旨説明し、マリク駐日大使と折衝することを依頼したのである。その結果、6月3日、4日と、箱根強羅ホテルにて、広田・マリク会談が実現した。
 この会談は、広田がソ連賞賛のお世辞と一般的な日ソ関係改善の意向表明をするばかりで、なんの具体的な話もなく、完全な尻切れトンボであった。

 その第二弾。徹底抗戦・本土決戦の方針決定。

 こんな中、6月6日、最高戦争指導会議で、こうした経過を無視するようにして、陸軍が作成した「今後とるべき戦争指導の基本大綱」が採択された。「大綱」は、主敵アメリカに対する戦争遂行をあくまでも唱えるものであった。
 もっともこれに付属する「国力の現状」と題する文書は、年度末には船舶は皆無に至り、鉄道輸送力も半減する、燃料不足の危機、軍需生産の麻痺、食料危機とあいまって、近代的物的戦力の総合発揮は極めて至難となった、と徹底抗戦の方針とはうらはらな報告をしていた。

 6月8日、御前会議。わずかに東郷から「大綱」の情勢分析が楽観的に過ぎるとの発言があった。鈴木と米内は沈黙した。深謀遠慮によるものだったのだろうか。彼らの和平への覚悟はそんな程度のものだっただろう。結果は、反対意見なしでそのまま決定となった。

 翌9日、第87帝国議会の秘密会で、東郷は、外交方針について、大要以下の報告をしている。

 ドイツ崩壊後、米英ソ三国の間には利害の相違が表面化する場面も生じているが、大局的には、「大東亜戦争」終結に至るまで協調関係が続くと見なければならない。ソ連は、スターリンが我が国を侵略国と呼び、4月5日には日ソ中立条約を破棄通告しており、対日参戦の危険も生じているが、条約自体はまだ10ヶ月間の有効期間があり、最悪の事態を防ぐために対ソ交渉に全力を注がなければならない。
 
 しかし、この秘密会に外務省政務局が提供した資料には、米国の対日戦略を分析し、特に皇室の取り扱いについて、米国内部で二つの相反する見解、即ち、日本の侵略的行為の根源は皇室を中心とする国体自体に求められるという論と、天皇は軍閥の侵略主義に反対の立場をとっており、日本国民の皇室に対する崇敬の念はこれを抹殺するより日本統治上利用すべきだという論があることが正確に指摘されていた。東郷と外務当局は、このような冷静で正確な情勢分析をしていたのに、あらゆる非公式チャンネルを利用して、米国への働きかけをすることに全力を傾注できなかったのは不可思議というほかはない。

 日本政府上層部の面々の醜態ぶりはさらに続く。それは次回に。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その14

ソ連へのラブコール―東郷外交がはまりこんだ陥穽

 鈴木貫太郎内閣=敗戦処理内閣において、重要な役割を果たしたのは東郷重徳外相だった。

 東郷は、日米開戦時の東条英機内閣でも外相を務めたのであるが、東条内閣への入閣にあたり、東条に日米交渉による開戦回避に努力することを約束させ、一路開戦に突き進む軍部に対抗して最後まで日米交渉を主導した人である。
 彼は、鈴木首相から外相就任を要請されたとき、早期に戦争終結をさせるため、一日も早く和平交渉を開始しなければならないと考えていたので、鈴木の考えを質したところ、2、3年は、戦争継続しても大丈夫だとの返事を受けて失望し、いったんは辞退した。しかし、周囲の強い要請と鈴木から外交は一任するとの約束を得て、ようやく就任を承諾したのであった。
 東郷は、かつて日米開戦の回避には失敗したが、今度こそは早期に戦争終結を成功させようと、心にかたく誓ったことであろう。

 かくして東郷は、米内光政(よない みつまさ)海相、木戸内大臣ら、和平派の中心となって、その後の和平工作を画策することになるのである。

 当時の陸軍中枢部は、背後の仮想敵・ソ連の参戦を強く危惧し、対ソ関係の安定を望んでいた。

 たとえば参謀本部第12課課長代行種村佐孝大佐は、1945年年4月29日、「今後の対『ソ』施策に対する意見」なる意見書を作成し、陸軍首脳に配布している。

 それによると、「(要旨)ソ連の対日動向が大東亜戦争遂行において致命的影響を及ぼす。だからソ連には言いなり放題となって、満州、遼東半島、南樺太、台湾、琉球、北千島、朝鮮をかなぐり捨て、東清鉄道の譲与、漁業条約の破棄をして日清戦争前の状態に戻しても可である。」とし、「支那における交渉の対象は延安政権とするも差し支えなきこと」、そのためには「国民政府を解消せしむこと」とまでも提言されている。

 勿論、これはソ連を味方に引き入れ、英米との正面戦争を貫徹するための方策を述べたに過ぎないものであり、今、読めば、これは極論であるが、当時の陸軍首脳には、対ソ関係安定のための積極的提言として、違和感なく、受け入れられたようである。

 ことほど左様に当時においては、陸軍中枢部は、ソ連が日本の命運を握る決定的ファクターと考えていたのである。

 東郷は、そこを逆手にとって陸軍中枢部の暗黙の支持の下、ソ連へのラブコールを送り、その仲介のもとに英米との和平、戦争終結を図るという道を進み始める。それを決定付けたのは、5月11、12、14日に行われた最高戦争指導会議であった。

注:最高戦争指導会議は1944年8月に、従来の大本営政府連絡会議を改称、改編して設置された。首相、外相、陸相、海相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で構成され、必要に応じ、その他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長を列席させることができた。重要事項は、天皇臨席のもとで決定する。これが御前会議である。

 その会議では以下のことが確認された。

 「現下日本が英米との間に国力を賭して戦いつつある間において、ソ連の参戦を見る如きことあるにおいては帝国の死命を制せらるべきを以って、対英米戦争が如何なる様相を呈するにせよ帝国としては極力その参戦防止に努むる必要あり」

 その具体的な細目として、①ソ連参戦防止、②ソ連の中立確保、③戦争終結の三つの目的を図るために、対ソ交渉を進めること、その際、ポーツマス条約と日ソ基本条約を破棄し、南樺太の返還、北千島の譲渡、漁業権の解消、津軽海峡の開放、東清鉄道の譲与、内蒙古におけるソ連の勢力範囲承認、遼東半島の租借権返還などソ連への大幅譲歩をすることを確認した。もっとも、後に阿南惟幾陸相が一部翻意したため、上記③の戦争終結の目的は保留されることとなった。

 なお、この会議において、天皇制維持こそが和平の眼目であることが、あけすけに語られている。是非、記憶にとどめておいて頂きたい。

 米内が阿南に向かって、「われわれは皇室の擁護ができさえすればよい。本土だけになっても我慢しなければならぬのではないか」と発言、「対ソ工作も結局するところ米英との仲介の労を取らせて大東亜戦争を終結することに最後はなると思う」とダメ押ししたのを受けて、梅津美治郎参謀総長も「そのとおりだ」と応じた。

 かくして東郷は、上記①、②の目的で、軍部お墨付きで、対ソ交渉へのフリーハンドを獲得したのであった。

 その後の東郷の対ソ交渉へののめりこみは、尋常なことではなかった。功を焦ったというべきか。日本政府内において和平への動きが公然と始まることになった点では特筆されるが、外交が対ソ一本槍に硬直化し、米国内でのいわゆる「知日派」らが画策し、無条件降伏によらない早期戦争終結に日本を誘導しようという動きを無視し、いたずらに時を空費して犠牲を累増させてしまったと、歴史家が批判するのも一理ないではない。

                                (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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