近現代史に学ぶ

 現在を、過去の歴史のある時代と比較して、そこから教訓を汲み出し、時には現状改善の処方箋を書いたり、時には迫りくる危険に警鐘を乱打したりすることがよくある。

 最近、柄谷行人『憲法と無意識』(岩波新書)と、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(同)を続けて読んで、あらためてこの問題を考えてみた。

 柄谷氏は、17世紀以来の歴史を通観し、世界資本主義は、覇権国家(帝国)が確立し、存続する時代と、それが消失し、新たな覇権国家(帝国)の座をめざしてしのぎをけずる時代とが、120年周期で、繰り返されていると言う。
 彼によると、オランダが1750年頃まで、イギリスが1810年頃から1870年頃まで、アメリカが1930年頃から1990年頃まで、それぞれ覇権国家(帝国)であり、そのはざかい期の各60年は、覇権国家をめざす諸国が、しのぎをけずって戦う帝国主義の時代である。
 このようにして現在をこの歴史段階の中に据えると、勿論、帝国主義の時代ということになる。現在を一言で言い表すキーワードは「新自由主義」であるが、これは無限に自由市場の拡大をめざすもので、無限に領土の拡大をめざす古い帝国主義の現代的姿態であるが、それはいつ再び古い姿態に変ずるか誰も予測はできないものである。
 柄谷氏は、少し120年周期にこだわり過ぎて、覇権国家アメリカの成立時期を、15年ほどはやめてしまっているのが気になるが、このような模式を用いて、時代区分をし、その循環性を指摘することは、確かに現在を考え、明日を模索するための補助線を見つけることができる。
 柄谷氏は、この循環模式の仮説から、現在の日本を、1890年代の日清戦争直前の時代になぞらえて考えることを提起している。
 確かに、日韓、日朝、日中の対立と共存、東アジアの現状は、日清戦争直前の時代を彷彿とさせるものがある。

 ただあの時代と違う点が一つある。それはわが国に憲法9条があるということだ。憲法9条があるから、東アジアの課題を解決するには平和的方法以外に選択肢は存在しない。しかし、憲法9条の規範性を後退させると、平和的方法以外の選択肢が浮上してくる。憲法9条が我々を守ってくれるのである。だから我々は憲法9条を護らなければならない。

 三谷氏は、わが国の近現代史を概観し、第一次世界大戦後の大正デモクラシーと呼ばれた時代は、国際的にも、ワシントン体制と呼ばれる平和、軍縮を核とする国際協調の時代であったことに注目する。
 ワシントン体制とは、太平洋海域の安定・現状保全を目的とする日英米仏の4カ国条約、中国の政治的・領土的保全と門戸開放・機会均等を謳う関係9カ国条約、主要海軍国5カ国の海軍軍縮条約と、国際連盟創設、パリ不戦条約等から成り立っており、条約の内容面では国際協調・軍縮・平和、条約形式面では二国間条約ではなく、多国間条約であることを特色としていた。
 三谷氏は、ワシントン体制は、平和共存の政治的軍事的な一連の条約群が、経済・金融面での相互協力・提携関係と表裏一体のものであったことを強調する。

 しかし、それはヨーロッパでもアジアでも、いとも簡単に崩れ去ってしまい、地域主義、ブロック体制、帝国主義戦争に洗い流されてしまった。

 現在を、この文脈においてみると、ワシントン体制は国連体制に進化発展を遂げ、無数のインターナショナルな条約によって、世界は構築されるに至ったが、一方で、中東、アフリカ、東アジアでは紛争と緊張が絶えず、アメリカ、中国をはじめ、自国第一主義が台頭しており、過去と未来が鬩ぎ合っている。

 わが国は、憲法で、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(前文)と世界に宣言した唯一の国である。どのようにすれば1930年代の再現を防ぐことができるのか、そのことを真剣に世界に発信する責務がある。
                               (了)
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共謀罪法施行「弁護士は国民皆犯罪者化の悪法と闘い続けなければならない」


 共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)が、本日、施行された。これにより、一般刑法犯を主体に277もの対象犯罪について、共謀段階での処罰が可能とされることになった。

 対象犯罪には、たとえば次に掲げるように、こんなものまでがと驚くようなものがある。

 収賄、窃盗、不動産侵奪、事後強盗、詐欺、背任、横領、盗品有償譲り受け等、森林窃盗、覚せい剤の使用等、強制わいせつ、特許法違反、実用新案法違反、意匠法違反、著作権法違反、所得税法違反、消費税法違反・・・。

 これらは、果たして「テロリズムその他の組織的犯罪集団」と親和性のある犯罪だと言えるのだろうか。本法が、マグロもタイも、そして雑魚までも、巨大な大網をうって一網打尽にし、「国民皆犯罪者化」をめざす大悪法であうことをあらためて思い知らされた。

 ともあれ実行行為に着手する前の段階で、277もの犯罪類型が創出されてしまった。目的遂行犯を加えるとその2倍というべきかもしれない。あっというまの犯罪類型の粗製乱造であった。

 共謀罪法の施行は、今後、わが国の刑事司法の運用に大混乱をもたらすであろう。放置しておけば、その被害は、国民が被ることになる。

 弁護士の役割はいよいよ重大である。

 とりわけ、これまでもしばしば捜査権限を濫用し、国民の権利・自由を不当に侵害した前歴を有する、警察、検察へのチェックは、まったなしである。

 日弁連が、とりまとめ、法務大臣、外務大臣に提出した2017年2月17日付「いわゆる共謀罪を創設する法案を国会に上程することに反対する意見書」には、以下の記述がある。

「計画」(合意)は人と人との意思の合致によって成立する。したがって、その捜査手法は、会話、電話、メール等の人の意思を表明する手段及び人の位置情報等を収集することとなる。既に通信傍受やGPS(グローバル・ポジショニング・システム)による捜査が行われているところ、共謀罪の捜査のためとして、新たな立法により、更なる通信傍受の範囲の拡大、会話傍受、更には行政盗聴まで認めるべきであるとの議論につながるおそれがある。このような捜査手法が認められたなら、市民団体や労働組合等の活動を警察が日常的に監視し、行き過ぎた行動に対して、共謀罪であるとして立件するおそれもあり、市民の人権に少なからぬ影響を及ぼしかねない。」

 弁護士は、これを肝に銘じて、憲法31条、13条、19条、21条を武器に、果敢に闘わなければならない。

                          (了)

憲法改正白熱討論「緊急事態条項」


 昨日(7月8日土曜日)、私も所属する兵庫県弁護士会主催で、緊急事態条項創設賛成の立場から大阪国際大学名誉教授で憲法学者の奥村文男氏と反対の立場から弁護士で日弁連災害復興支援委員会元委員長の永井幸寿氏の二人の論客による、「緊急事態条項」是か非かをめぐる討論会が行われた。

 緊急事態条項とは、一般に、「戦争・内乱・恐慌ないし大規模な自然災害など、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して、非常措置をとる権限」を政府に与える憲法上の条項のこととされている。
 これに対し、奥村氏は、「戦争・内乱・恐慌ないし大規模な自然災害など、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において」、立憲的な憲法秩序の枠内で、国民の生命、財産等を守るために政府が迅速に対応できるように権限を集中するための憲法上の条項だと説明された。しかし、立憲的秩序の枠内であるというなら、憲法にわざわざそのような条項を設ける必要はなく、下位法で対応できることであり、緊急事態条項はそもそも必要ないことになる。
 私は、やはり緊急事態条項といわれるものは、一般に理解されているようなものを前提としないと議論が前に進まないように思う。

 さて、ご承知のように、日本国憲法には、緊急事態条項は存在しない。これを積極的な意味があると考えるのか、それとも憲法の欠陥だとマイナス評価をするのか、ここがそもそもの出発点であるが、この点について、奥村氏は、後者、永井氏は前者である。

 憲法制定会議となった第90帝国議会の帝国憲法改正案委員会において、憲法問題担当国務大臣金森徳次郎氏が、何故、明治憲法の緊急勅令のような制度を設けないのか明確に答弁をしている。要約すると以下のとおりである。

① 民主政治を徹底し、国民の権利を擁護することを目的とする日本国憲法にそぐわない。
② それが濫用され、憲法破壊につながる。
③ 非常時であっても臨時議会の招集や参議院の緊急集会により対応できる。
④ 平素から法律を整備するなど準備しておけばそれで足りる。

 憲法制定当時の、提案者側は、どうやら積極説であったようである。戦後、わが国は、金森氏の説くところに従うようにして、大災害など緊急事態に対処する法制度を整備してきた。はたして、それによって、現在、解決困難な問題が生じているだろうか。

 永井氏は、阪神・淡路大震災から東日本大震災に至る多くの大災害において、災害復興支援活動を行ってきた経験に基づいて、災害対策基本法をはじめとする災害法制は、逐次問題解決する形で整備されてきた、将来への対応も事態を具体的に俎上に載せて対応策を法的に手当てすればよい、むしろ問題は、それらを使いこなす事前の訓練や準備、現場を所管する自治体こそが第一次的に災害対策の権限を持つべきで、政府は、人、もの、かねのバックアップに徹する、このようなことが重要だと指摘された。

 これに対し、奥村氏は、個別の法制度だけでは、どうしても腰が引けた対策しかできない、個別法にはこれを統括する基本法が必要であり、さらにその根拠となる憲法上の緊急事態条項が必要であると説明された。その具体的なケースとして、近い将来予測される南海トラフ地震、北朝鮮のミサイルが頻繁にEZ内に落下する状況をあげられた。

 憲法改正には、立憲主義的規制がある。①厳格な手続きによる規制、②憲法の根本原則・・・国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義、三権分立・・・を変えることはできない、③憲法を改正しなければならないやむを得ない事由が存在し、改正することに合理性、相当性があるということが実証されなければならない、この三つである。奥村氏の主張は、この③に対する考慮が全く見られず、主観的・抽象的な必要性に終始されているように思われた。もっと言えばイデオロギー的主張に過ぎないようである。

 奥村氏が憲法9条改憲論にコミットされているかどうかは知らないが、イデオロギー的主張という点は、憲法9条改憲論にも共通するものある。

                              (了)

憲法9条は戦後日本のアイデンティティーである

 憲法9条の起源については、諸説ある。

 1946年1月24日のマッカーサー・幣原会談で、幣原首相が主張したものをマッカーサーがGHQ憲法草案に取り込んだという経緯は、まちがいないようである。 

 この経緯から、憲法学者や政治学者の中では、幣原・マッカーサー共同説もしくは幣原原因・マッカーサー決定説を唱える者が多いようである。

 しかし、私は、マッカーサーは受動的であり、幣原の主張こそが決定的であったと考える.。その理由については当ブログでも、既に、述べたことがあるので割愛する。

 たとえば以下をご覧頂きたい。

『立憲君主制と象徴天皇制の間 (26)』(2014年3月16日)
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-59.html

『憲法九条は幣原喜重郎元首相の発案によるもの』(2016年8月28日)
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-296.html


 幣原をしてそのように主張させたものは、なんだったのだろうか。

 憲法制定過程で、当時の国際法に基づいて、自衛のための戦争さえも放棄することを非として、憲法9条に異を唱えたのは日本共産党であった。それは近代知の最先端を行く主張であったと言ってよく、当時の議論としては正当であった。
 これに対し、提案者側の吉田茂首相をはじめ、政府当局者は、すぐる大戦によって壊滅的打撃を受けた日本の眼前の光景を思い浮かべ、いかなる名目の戦争も非であることを滔々と情熱的に訴えた。これまた日本国民の当時の言葉にならない思いを、正当に代弁したものであった。

 この論争は、9条の根源を、くっきりと浮かび上がらせている。それはまさに泥沼の十五年戦争をさまよい歩いた日本国民の原体験を、ストレートに表現したものなのである。日本共産党もまもなく見解を変え、9条を最も強固に擁護する立場に転じたことは賢明であった。
 幣原は、戦前、幣原外交の名で呼ばれた国際協調外交にコミットし、右翼・軍部から国賊とののしられて苦難の時代を過ごした人であった。その幣原が、たまたま憲法制定過程のとっぱなにおいて、首相という地位につき、この日本国民の原体験を、憲法の高み押し上げる一撃を与えることによって不朽の名声を得ることができた。人間万事塞翁が馬である。

 柄谷行人は、最近の著書の中で、憲法9条は無意識の問題であると主張している。彼は、フロイト心理学によりつつ、認識論のレベル、意識的な反省のレベルをこえる人間自然の情動によって、憲法9条を説明し、それを文化の問題へと格上げしている(『憲法の無意識』岩波新書)。

 柄谷の論の運び方には異論もあろうが、憲法9条を文化の問題にまで格上げしたのは卓見である。私は、これを戦後日本のアイデンティティーと見なしたい。

 柄谷は、同書で、以下のようにも述べている。

「政府・自民党は、ふだんは公然と九条の改正を唱えているにもかかわらず、選挙となると、決して九条改正を争点にしないのです。」

 このひそみに倣うと、都議選前に、憲法9条改憲を唱えた安倍自民党が、歴史的惨敗を喫したのも、まさに「むべなるかな」であった。

                  (了)

国会は首相の改憲暴走をチェックしなければならない

 今朝の「朝日新聞」社説は、『与党と改憲 首相の暴走に歯止めを』と題して、「まずは首相が自分本位の改憲構想を白紙に戻す」べきだが、立法機関が首相の誤りをチェックするという当たり前の機能を果たすためには、野党のみならず与党にも大きな責任があることを論じている。極めて常識的で、おそらく今の国民の70~80%の考えを代弁するものと見てよい。
 以下に全文引用するので、ざっと目で追って頂きたい。

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 東京都議選での自民党惨敗を受け、安倍首相が急ぐ憲法改正に対して、与党から慎重な議論を求める声が相次いでいる。

 おとといの自民党憲法改正推進本部の会合で、石破茂・前地方創生相は、こう指摘した。

 「丁寧な議論をちゃんとやって、分かるようにやって、というのが都民の意思だった」

 船田元・推進本部長代行も記者団に「あらかじめ期限を切って憲法改正を議論するというのは、私自身はあまり得策ではないと思う」と語った。

 ともに、もっともな発言である。首相が都議選の敗北を真に反省しているのなら、これまで「1強」の下で封じ込められてきた与党内の率直な意見に、きちんと耳を傾けるべきだ。

 2020年、9条に自衛隊の存在を明記した改正憲法を施行したい。今秋の臨時国会で、自民党の憲法改正原案を衆参の憲法審査会に提出する――。5月以降、首相が矢継ぎ早に示した考え方は筋が通らない。

 憲法改正を発議する権限は国会にある。行政府の長である首相が、自らの案を期限を切るかたちで示し、強引に進めようとするなら、まさに「1強」の暴走というほかない。

 「20年施行」をめざすのは、自らの首相在任中に改憲したいからだろう。自民党案の提示を急ぐのも、発議に必要な衆参で3分の2の改憲勢力があるうちに、という思惑がにじむ。

 連立を組む公明党から、異議があがったのも無理はない。

 山口那津男代表はおとといの記者会見でこう語った。

 「憲法(改正)は政権が取り組む課題ではない」「憲法改正は国会が発議する。与党の枠組みが、ただちに憲法の議論につながるものではない」

 山口氏は昨年の参院選後、9条改正は「当面必要ない」と述べていた。自民党と同調して安全保障関連法を成立させた結果、改正は急を要さなくなった。そんな考えのようだ。

 岸田文雄外相も6月末、同様の見解を示した。安保法によって「平和憲法との関係でどこまでの備えが許されるのか、ぎりぎりの結論を出した」「その結論が出たとたんに平和憲法そのもの、9条を変えるとなれば、話は振り出しじゃないかということになりかねない」。

 多くの国民が納得できる憲法論議を取り戻すには、まず首相が自分本位の改憲構想を白紙に戻す必要がある。

 行政府にあやまりがあれば正す、という立法府の責任を果たせるか。野党のみならず、与党も問われている。

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 さて、衆院憲法審査会の議員団が、この11日から10日間の日程で、英国とイタリア、スウェーデンの3カ国を視察にでかけるそうである。

 イギリスでは、昨年実際された「ブレグジット」国民投票の実情について、イタリアでは、これまた昨年実施された憲法改正国民投票の実情について、スウェーデンでは、教育無償制度が憲法ではなく「統治法」に基づいて実施されている実情ついて調査をするそうである。虚心坦懐に学び、見聞を広めることはよいことだ。とりわけ、与党議員は、党派にとらわれず首相の改憲暴走をチェックするという議員の本分、国会の機能について、あらためて認識を深めてきて欲しい。
 少し気になるのは、イタリアの憲法改正国民投票について、レンツィ首相(当時)の信任投票の色合いが濃くなり、改憲の是非ではなく「政権への審判」になったのではないかという先入見に基づいて、ピントはずれな結論を出されはしないかということである。
 イタリアの経験を学ぶなら、当ブログの7月4日の記事『イタリア憲法改正の挫折―何が問題だったのか』で述べたことを参考にして欲しいものだ。イタリアでは、レンツィ首相の改憲暴走を国会がチェックできず、やむなく国民がチェックしたのである。

                             (了)

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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