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明らかになった安倍首相の「ポツダム宣言」に対する強い反感

 5月20日に行われた志位和夫氏との党首討論で、安倍晋三首相が、ポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」と答弁したことが話題を呼んだが、それ以上に驚くべきことは、その安倍首相が自民党幹事長代理だった当時、月刊誌「Voice」2005年7月号の対談で、「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと報じられたことだ(朝日新聞デジタル 2015年5月22日08時36分)。

 どうやら安倍首相はポツダム宣言に対し、ひそかに敵意と言っていいほどの強い反感を抱き続けていたようだ。戦後レジームの出発点はポツダム宣言であるから、戦後レジームからの脱却を悲願とする安倍首相が、ポツダム宣言に対し、強い反感を抱き続けていたのは当然かもしれない。

 折角の機会だから、ここで、ポツダム宣言について、少しおさらいをしておきたい。

 1945年7月26日、無条件降伏し、連合国(ソ連)の占領下にあったドイツのポツダムの地より、米英中三カ国連名で、対日降伏勧告文が発せられた。これがポツダム宣言である。

 ポツダム宣言の骨子は、以下のとおりであった。

◎我ら(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、日本国に対し戦争を終結する機会を与える。
◎我らの条件は以下のとおりであり、これについては譲歩しない。
・日本国民をして世界征服の戦争へと導いた勢力を除去する。
・平和、安全及び正義の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本領域の諸地点の占領
・カイロ宣言の条項の履行。日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我らの決定する諸小島に限られる。
・日本軍武装解除。兵士は各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
・日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないこと。戦争犯罪人の処罰。民主主義的傾向の復活強化。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
・日本は経済復興させ、公正な賠償の義務を履行するために産業を維持することができること。戦争と再軍備のためのそれは認められないこと。
・これらの条件が達成せられ、日本国国民が自由に表明した意思により平和的傾向の責任ある政府の樹立せられたことが確認されたら占領は解かれること
・全日本軍の無条件降伏と日本国政府による保障が提供されること。これ以外の選択肢は、壊滅あるのみ。

 我が国政府がこれを確認したのは同月27日のことであった。

 政府部内では、東郷茂徳外相は、「無条件降伏を求めたるものにあらざることは明瞭」、「占領も地点の占領」であり「保障占領であって広範なる行政を意味していない点は、ドイツ降伏後の取り扱いとは非常なる懸隔がある」と評価し、慎重かつ前向きに検討することを求めた。鈴木貫太郎首相も、一旦はこれに賛同したが、陸海軍内に強硬な反対意見が噴出したため、同月28日に至り、記者会見の場で「何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。我々は断固戦争完遂に邁進するだけである。」と強硬姿勢をとることとなってしまった。

 鈴木首相の上記発言が、ポツダム宣言受諾を拒絶したものと受け取られたのは当然である。これによって降伏の機会を逸した我が国が、8月6日の広島、8月9日の長崎と、相次いで原爆投下され、人類史上かってない惨禍をこうむったことは周知のとおりである。その惨禍とソ連の対日参戦を見届け、ようやく我が国政府は、ポツダム宣言受諾に動く。それでも、同月10日に、発した声明文は以下のとおりであった。

 「帝国政府は天皇陛下の一般的平和克服に対する御祈念に基づき戦争の惨禍を出来得る限り速やかに終始せしめんことを欲し左のとおり決定せり
帝国政府は1945年7月26日「ポツダム」に於いて米、英、華三国首脳者により発表せられ爾後「ソ」連政府の参加を見たる共同宣言に挙げられたる条件を右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す
 帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件に関する明確なる意向が速やかに表示せられんことを切望す」

 これに対して対日参戦をしたソ連を含め、米英中ソ4国を代表して米国務長官バーンズ名でなされた同月11日付回答書は以下のとおりであった。

 「我らの立場は左の通りなり。降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」

 見られるとおり、我が国が求めたのは国体護持。しかし、それについては、ポツダム宣言本文で、政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定されると述べていること、及びポツダム宣言第12項「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府を樹立せらる」ことを占領軍撤収の条件としていることから、国民主権原理に反する天皇大権を否定していることは明らかであり、求めるだけヤボというものである。恐らく日本政府が注目したのはバーンズ回答が「天皇・・・の権限は、・・・・・・・連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」としたことであろう。どうやら天皇及び皇室は安泰だとほのめかしているように読めるのだ。
 我が国政府にとって国民の命などどうでもよい、唯一つの要求は、「天皇と皇室の安泰」であったのだ。どうやらそれは認められそうだと胸を撫で下ろして、我が国政府は、同月14日、ポツダム宣言を受諾するに至ったのであった。この間には累々たる原爆犠牲者の屍が積み重ねられた。その犠牲者とその後現在までつながる被爆者の生と死のことを思うと、当時の我が国政府高官らは、万死に値すると言わなければならない。このことは、いかに善良で、忘れっぽい日本国民といえども、子々孫々に至るまで、ゆめゆめ忘るまじきことだ。

 さて我らが安倍首相は、当時の我が国政府高官の系譜に属するようである。私たちは、そのような安倍首相のもとで戦争立法の企てが進められているのだということに格別の注意を払う必要がある。平和、安全の美名の下には、戦前回帰の狙いが隠されているのだ。   (了)
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ゾルゲ事件断章 その2

 評論家松本健一氏は、『尾崎秀実 ゾルゲ事件上申書』(岩波現代文庫 2003年2月14日第一刷発行)に解説の一文を書いておられる。

 その中で、松本氏は、「この第一回目の上申書が、尾崎秀実の真実の転向を示すものなのか、それとも偽装転向なのか、については、現在でも議論がわかれているところである。ただ、その論理展開のしかたじたいは、当時の転向書の典型をかたちづくっている。翻っていると、そこにのべられている『転向』は型どおりのもので、尾崎秀実の精神の内面の動きがうかがえるものとはなっていないのである。ところが半年後の第二回目の上申書になると、その『転向』ははるかに具体的、というより自身の精神の内面を見つめる、ある意味では告白書の趣きを呈してくるのである。」と述べている。

 もっとも松本氏は、一方で、「かれが『転向』したのか、それとも偽装転向だったのか、などということは、わたしにはどうでもいいことのようにおもわれる。すくなくとも、共産主義=革命のみを正しい、絶対的な基軸と考え、尾崎はそこから離れていったのかどうかという『転向』議論は、何の意味ももたないとおもえるのである。」とも云っており、上申書(2)における尾崎秀実が、偽装転向であったかどうかの最終判断を回避(もしくは放棄)している。

 松本氏の見解に敢えて異を唱えるわけではないが、松本氏は上申書(2)の「精神の内面を見つめる」記述に着目して、「真実の転向」説に傾斜しているように思われるので、私は、むしろ同上申書中の「戦局の前途を想う」と題する第六章で展開されている戦局に関する大胆な提言に注目することにより、上記傾斜を「偽装転向」説側に少し戻しておきたいと思う。

 尾崎秀実は、第一章「重ねて上申書を呈上するにあたりて」、第二章「我が家、我が郷」、第三章「我が国土・我が国体を仰ぐ」、第四章「死に直面して」、第五章「悠久の大義に生きん」と綴ってきて、

 「今や私は日々の生活に満足し、我をして一日々々生かしめている総ゆるものに感謝しつつ悠々たる天地の中に生きつつあることを感じております。生物としての私は死によって、また個体を形成していた一切の原素に解体し去って跡なく消え去るでありましょう。しかしながら、それは宇宙の生命のうちに融化し去ることであります。」

と、超然として、死を迎える心境を語り、一旦ペンをおいたのであった。

 しかし、彼は、「現在上記のごとき心境に断罪の日を待ちつつある私もまた、眼前に迫り来る国家の逼迫せる危機を思っては、ただ黙し得ざるものがあるのを覚え、戦局の前途に考慮を馳せざるを得ないのであります。私は一度投じた再び取り上げて、この手記を続けます。」と述べて、第六章「戦局の前途を想う」を追加したのである。司法省刑事局思想課をして「今次大東亜戦争に対する被告としての見透対策が大胆率直に語られている」と言わしめた部分である。

 彼は、ここで、世界情勢の最近の発展を考察し、ドイツが本年度内(1944年内)に降伏に至るとの見通しをたて、そのもとで日本のとるべき根本態勢として、「総ゆる忍苦をもって現状を守り抜く」ことの重要性を提起している。彼は、その上で、長期戦を戦い抜くには、第一に、国民生活への配慮が大切であり、食うことの安心を保障することにより、国民生活に明るさを取り戻すことが必要であるとして以下のように述べる。

 「当局は真に謙虚に、かつ真剣に、何よりも自ら下層一般民衆の中に身を置いてこのことを考える必要があろうと思われます。」

 彼は、続ける。長期戦を戦うのに必要なことは、第二に勤労者層の政治的関心を高め、進んでその政治参与を実現する必要があると主張する。コミュニストたる尾崎秀実の面目躍如である。

 尾崎秀実は、さらに大東亜共同体にも敷衍し、中国問題の解決には中国の自主性を尊重すること、太平洋戦線においては守旧的防御に専念し、ソ連との良好な関係を維持して、ドイツ敗北後にヨーロッパ戦後体制をめぐり米ソの対立が生じることを待つべきである、そのとき米国も英国も疲弊をするだけではなく、国内には厭戦思想がひろがり、かつまた平和を希求する勢力が大きく進出するだろうから、わが国にとって米国とも妥協的収拾をはかる機会がおとずれるだろうと述べている。

 こういうことを堂々と述べる人が、ただひたすら懺悔をし、死一等を賜るを日を静かに迎えようとしていたとは到底思えないのである。(了)

ゾルゲ事件断章 その1

 ゾルゲ事件(当局発表では「国際諜報団事件」)に連座し、1944年11月7日、43歳の若さで刑死した尾崎秀実の、一審裁判所に提出した上申書(以下「上申書(1)」という。)、最終審の大審院に提出した上申書(以下「上申書(2)」という。)及び逮捕後約半年経過した1942年4月14日付検事調書(第27回)を読んだ(いずれも『尾崎秀実 ゾルゲ事件上申書』岩波現代文庫所収)。

 各上申書は、転向者としての真情を吐露したと認められた文書であり、いずれも内務省警保局発行の『特高月報』誌上に研究資料として掲載されたものである。

 上申書(1)は1943年6月8日付となっている。『特高月報』誌上には、内務省警保局保安課の手になる長い「はしがき」が付されている。抜粋すると以下の如くである。

 「尾崎秀実は、共産主義者として、国際共産党並びにその祖国ロシアに忠誠を尽くすために、日本の運命を売らんとした憎むべきスパイであった。そのスパイ生活は昭和5年から昭和7年までの『大阪朝日新聞』上海特派員時代、および昭和9年より昭和16年10月検挙されるまでの国際共産党諜報団時代の二時期に画される。」
 「その諜報内容には尾崎が、新聞記者として、あるいは内閣嘱託として、満鉄嘱託として、近衛公ないし風見章のいわゆるブレーンの一人として、かつまた昭和研究会の役員として、各その地位を利用し、(中略)『独ソ開戦前後の御前会議の状況』満鉄輸送関係等より推断して『年内に対ソ攻撃なし』との情報を送り、あるいは昭和16年8-9月頃世界各国の異常なる関心を集めて極秘裡に進められつつあった、日米交渉に関する日本の対米申入事項を提報する等、約90件に達している。」
 「尾崎が第一審において死刑を言い渡されたのは昭和18年9月29日であり、それが確定したのは、昭和19年4月5日、大審院において上告棄却となった時である。而して刑の執行はゾルゲと共に11月7日に行われたのである。」
「何れにしても、この上申書を書いた時は、まだ生きる希望を全然捨てねばならぬという時期ではなかった。しかしながら、それは極めて淡い希望であり、尾崎といえども当然死すべき運命を覚悟していたであろう。この上申書はこういった環境と心境の下に書かれたものであることを前提として、味わうべきであろう。」
 「死に直面して我が家、我が故郷、我が祖国を憶い、遂には我が国体の尊厳に触れて、これまでに犯した罪の怖ろしさに慄然となり、苦悩する思想犯の転向過程には、まことに味わうべきものがあろう。」

 上申書(2)は1944年2月29日付となっており、『特高月報』誌上には、以下の如き司法省刑事局思想課による「はしがき」が付されている。

 「本上申書は昭和19年4月5日上告棄却となった尾崎秀実が大審院の係判検事に提出したもので、大審院刑事部では昭和19年3月8日に受付けている。死に直面した被告が、悠久の大義に生きるべく思想的発展に懸命の努力を為していることが詳細に述べられているとともに、今次大東亜戦争に対する被告としての見透対策が大胆率直に語られているので、一読の価値あるものと認め印刷に付した次第である。」

 ご覧のように、各上申書は、当局公認の転向文書であるが、印刷に付し、あるいは「特高月報」誌上へ転載するという異例の扱いといい、「はしがき」の書きぶりといい、当局者さえも胸打つものがあったのであろう。

 一方、検事調書は、家族や交友関係あるいは仕事上の関係者への複雑な心境を語る部分もあるが、その他は自己の世界観、国体観、世界情勢の把握など自己の信念を決然と貫いた供述がしたためられた文書である。逮捕後約半年、第27回目の検事調書に至って、厳しく長く執拗な取調べにもかかわらず、非転向を貫き、堂々たる供述を展開している尾崎秀実の不屈の意思は、読む人に感動を呼び起こすであろう。
 彼は、やがて転向し、転向者として刑事裁判を受けることになったのであるが、上申書(1)、上申書(2)の行間、裏にまで目配りして読むと、これらからは、死刑の威嚇を伴って屈服を迫る国家権力に遂にこうべを垂れた真の転向者の姿とは異なる姿が浮かび上がってくる。彼は、たぐい稀な情勢分析能力により、日本の敗北が近いことを確信し、何としても生きのびることを選択し、そのために必至になって、当局者さえも心を動かされるほどに転向者を演じ通したのではなかろうか。日本敗北と世界大戦の終結は、世界革命の始まりである。生きて、世界革命を見届けよう。私には、彼がそのように考えたに違いないように思われる。

 あにはからんや、日本が敗北する前に、尾崎秀実は、死刑を執行された。しかし、それはむしろ幸いなことではなかったろうか。偉大な世界革命の根拠地となるべきソ連が、過渡期のプロレタリアート独裁を変じて醜悪なまでに国家権力を肥大させ、世界革命の反対物に転化したのだから。彼は、美しい世界革命の夢に生き続けることができたのだ。(了)

沖縄は「自己決定権の確立」を模索している

 昨年10月18日、10月19日と続けて、当ブログにおいて、わが国政府の沖縄に対する理不尽な措置について、論評した。

 1回目は、明治政府が行った琉球処分。これは、沖縄を住民の意思を無視してわが国に併合したものであり、沖縄に対する侵略であった。
 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-161.html


 2回目は、戦後における第二の琉球処分。これは、沖縄をわが国から切り離し、米国の統治に委ねつつ、名目上のみ主権を留保して紐をつけておくという姑息な措置であった。
 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-160.html

 沖縄は、アジア太平洋戦争下、本土の盾としてわが国唯一の地上戦の戦場とされ、壊滅的な犠牲をこうむり、さらにはソ連を介した和平工作において捨石として利用されようとし、その上戦後ずっと米軍基地を殆ど一手に引き受けさせられ、本土の防波堤の役割を担わされてきた。
 このような理不尽かつ不当な扱いで煮え湯を飲まされ続けたにもかかわらず、沖縄の人たちは、一度は、日本を祖国として選び、祖国復帰の闘いに一致して取り組み、形の上では、日本への復帰を成し遂げた。だが、日本への復帰によって、沖縄の人たちは、何らやすらぎを得ることはできなかった。

 1995年9月、三人の米兵による少女暴行事件によって、沖縄では、米軍基地整理縮小を求める声が津々浦々に沸き起こった。時の大田昌秀知事のもとで、史上空前の大運動が展開された。この大運動は、1996年4月、日米政府間において、普天間基地の返還・名護市辺野古沖への移設の合意により、一旦収束をみた。

 しかし、普天間基地の辺野古移設は、沖縄の人たちにとっては、到底、受け入れがたいものであり、その後、日米政府を揺さぶり続ける震源地となっている。日米政府は揺れ続けている。中でも日本政府の振幅の激しさと異常性は、沖縄の人々の怒りを沸点にまで高めている。そして今や、沖縄の人たちは、一度は選び取った祖国日本が、それに値するかどうか、そのことを深く考え始めている。

 沖縄の地元紙、沖縄タイムスは、昨年8月から9月にかけて歴代基地担当記者9名による『普天間基地の本質』と題する特集記事を連載した。その中で、「自己決定権の確立」なる言葉を用いて、沖縄の新しいスタートを語っている。同じく地元紙、琉球新報も、昨年5月連載した『道標(しるべ)求めて-琉米条約百六十年 主権を問う』の中で、「日本国への併合後も沖縄住民への差別や人権が無視される状況が続き、そのたびに自治権拡大や自立論、独立論など、沖縄の『主権』を追及する主張が叫ばれてきた。沖縄が目指すべき『主権』やその実現への道筋を考える上で、条約をめぐる歴史から学ぶ教訓は多い。歴史は今の沖縄に何を語りかけるのか、現在の視点から歴史を捉えなおし、沖縄が歩むべき将来像を探る」と書いている。
(仲里効『南のエッジから日本を揺さぶる変革の波(下)』世界2014年12月号より)

 沖縄の人たちは、真剣に、自らの将来を見定めようとしている。そんなところに次のニュースが舞い込んだ。

【2014年9月13日 11時12分配信の沖縄タイムス・デジタルニュース】

 「米元副大統領で、クリントン政権下で駐日米大使を務めたウォルター・モンデール氏が1995年当時、米軍普天間飛行場の返還交渉で、日本側が在沖縄米海兵隊の駐留継続を望んでいたと述べていたことが12日までに分かった。同年に発生した少女暴行事件の重大性を米側が認識し、海兵隊の撤退も視野に検討していたが、日本側が拒否し、県内移設を前提に交渉を進めていたことになる。

 モンデール氏の発言は米国務省付属機関が2004年4月27日にインタビューした口述記録に記載。1995年の少女暴行事件について「県民の怒りは当然で私も共有していた」と述べ、「数日のうちに、問題は事件だけではなく、米兵は沖縄から撤退すべきかどうか、少なくともプレゼンスを大幅削減すべきかどうか、米兵の起訴に関するガイドラインを変更すべきかどうかといったものにまで及んでいった」と回顧している。

 その上で「彼ら(日本政府)はわれわれ(在沖海兵隊)を沖縄から追い出したくなかった」と指摘し、沖縄の海兵隊を維持することを前提に協議し、「日本政府の希望通りの結果となった」と交渉過程を振り返った。交渉相手として橋本龍太郎首相(当時)と河野洋平外相(同)の名前を挙げているが、両氏の具体的な発言は入っていない。

 当時、ペリー国防長官は米議会で「日本の全ての提案を検討する」と発言。ナイ国防次官補(当時)も「兵力の本土移転も含む」と述べるなど日本側が希望した場合は本土移転も検討する意向を示していた。」

 なんと米国は現在のような規模の沖縄基地の存続には何ら固執していなかったというのだ。現状規模の米軍のプレゼンスを望んでいたのは日本政府だったのである。冷戦終結後の、米軍再編成、世界的規模での米軍のプレゼンスの縮小という流れの中で、みたび琉球処分が行われたのだ。仏の顔も三度までという。沖縄の人たちの意識において、本土離れは確実に進むであろう。

 辺野古では、連日激しい抵抗が繰り返されている。日本政府は、これを圧殺しようとしている。顧みて、私は、一度は日本を祖国として選んだ沖縄の人たちを同胞として遇するに果たしてどれだけのことをしてきたであろうか、恥じ入るばかりである。 (了)

戦争責任追及の不徹底がもたらしたもの

 わが国の政治には美しさがない、というよりはっきりいって醜い。それは、一つには、政治家、特に保守的政治リーダーたちの無節操、無責任、廉潔性の欠如に原因があるようだ。

 わが国の保守的政治リーダーたちの無節操、無責任、廉潔性の欠如は一体どこから来ているのであろうか。これは保守的政治家の遺伝子ともいうべきものに由来するもので、彼ら子々孫々に連綿と受け継がれてゆくべきものなのであろうか。

 私は、これは、アジア・太平洋戦争にかかわる戦争責任の処理に起因する特殊要因が大きく影響しているように思う。昭和天皇は勿論、戦後の保守的政治リーダーたちのひな型を形成した人たちの多くは日本国民の手によって、戦争責任を厳しく追及されるべき人たちであった。

 戦争責任は、ほんのひとにぎりの軍人、政府当局者、軍国主義者もしくは超国家主義者に対する勝者の、勝者による、勝者のための裁きというかたちで処理されてしまった。そこにおいては国際法の理念である正義、公正は無視され、プラグマティックな考え方がまかりとおり、超大国の政治的打算が優先された。そして実に残念なことではあるが、日本国民の手による戦争責任の追及は不発に終わってしまった。

 極東軍事裁判及び日本の旧占領地において行われた裁判によって裁かれた人たちは、ただ運が悪かったのだ、これは単なる敗戦国の戦勝国に対する通過儀礼としてやむを得なかったのだ、と、裁きを免れた夥しい数の戦犯容疑者や戦犯候補者たちは、そう叫んだ。そしてわが国民も、「一億総懺悔」論なる国民への責任転嫁のめくらましに幻惑されて、彼らのそうした叫びをなんとなく受け入れてしまい、彼らを戦後の保守的政治リーダーとして認知してしまったのである。

 戦争責任については、既にあまたの歴史家、政治学者、思想家が論じている。私は、最もこれを誠実に、精緻かつラジカルに論じているのは、家永三郎『戦争責任』(岩波現代文庫)であると思う。家永先生は、まずは昭和天皇の戦争責任を解明し、ついで日本国家と戦争開始・継続時の諸決定に関与した当局者とこれを推進した文武の諸官、学者、政治家、思想家たちの被占領諸国、交戦諸国及びこれら諸国の人民、並びに日本国民に対する戦争責任を明確にする。さらに同時代の一般の日本国民と現代の日本国民の戦争責任とその責任のとり方についても論及している。家永先生の鉾先は、連合国諸国にも及び、それら諸国の戦争責任も決してうやむやにはしない。是非一読をされたい。

 ことを極東軍事裁判に限って、不条理の数々を見ておこう。

 第一に、天皇の戦争責任は、いちはやく追及圏外に置かれてしまった。米国の戦時における心理作戦(戦争戦術の一環としての情報・諜報作戦)の最重点は天皇の利用であったが、それが占領下においてGHQ・マッカーサーの手で発動されたのである。

 第二に、GHQが逮捕した戦犯容疑者は、起訴された28名のほかに少なくとも50名が巣鴨プリズンに収用もしくは一部自宅拘禁され、第二次起訴を待つ身であった。ところが1947年8月~10月にかけて、国際検察局は、早々と真崎甚三郎、鮎川義介、正力松太郎ら31名の起訴を諦め、彼らを釈放してしまった。残り19名の中に、「革新官僚」で戦時の閣僚に就任した岸信介、安倍源基、後藤文夫らや豊田副武、児玉誉士夫、笹川良一らの名前が確認できる。極東軍事裁判は、1948年12月12日、28名の被告中、途中死亡した松岡洋右と永野修身、精神障害により免訴となった大川周明を除く25名に対し、死刑7名(東条英機、広田弘毅ら)、終身禁固16名という重刑を科する判決で終わり、同月23日、7名に対する絞首刑が執行された。くだんの19名の容疑者らは、なんとその翌日全員釈放された。なんというクリスマス・プレゼントであろうか。

 極東軍事裁判の不条理はこれだけのことではなかった。第三に、免責の特典を得た昭和天皇は、1951年4月、マッカーサーとの最後の会見で、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付き、この機会に謝意を表したいと思います。」と述べた。あっと驚くなんとかである。昭和天皇は、一体、どういうことに謝意を表したのであろうか。

 第四に、これまたあっと驚くなんとかであるが、岸信介が総理大臣に就任してまっさきにやったことは、終身禁固刑を受けて仮出所中のA級戦犯10名の赦免要求であった。

 サンフランシスコ講和条約11条は以下のように定めている。

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を科した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。」

 この赦免規定を活用して、岸は、かつての巣鴨プリズンの仲間たちの救済を図ったのである。この頃になると米国も、日本はアジア太平洋戦略の有力なパートナーである。多少の無理もきいてやらねばならない。岸が駐日米国大使に要求をしたのが1957年5月1日、米国は、早速かつての連合国の了解を取り付け、翌1958年4月7日付で、わが外務省に対し、終身禁固刑は「服役した期間まで刑を減刑する」との赦免決定を送付してきたのである。なんとお手軽な終身禁固刑であろうか。赦免を受けた人たちの中には、後に、自民党代議士となり、池田内閣で法務大臣をつとめた賀屋興宣がいた。

 こうした戦争犯罪の処理が、国民各層にモラル・ハザードをもたらしたのである。とりわけわが国の保守的政治リーダーにおいて、それは顕著であった。 (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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