明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?

4 征韓論

(1)征韓論序説
 
 1873年7月27日、清国での大任を終えて帰国した副島外務卿は、7月27日、8月7日と立て続けに、英国公使パークスと会談をもっている。その中で副島は、1872年9月、軍艦春日と汽船に乗船させた歩兵二小隊を率いて釜山に赴いた外務大丞花房義資が、草梁倭館を接収し、外務省の直轄下の大日本公館とした後の現地の状況や当面の日本政府の方針について説明している。

 この会談の模様を記録したパークスの覚書には次のように記されている。

 清国との談判において、「李鴻章も、日本が朝鮮の態度に憤激するのはよくわかるが、現在清国政府の関心は西方におけるイスラム教徒の反乱と、イリ地方におけるロシアの動きと、この二つにまったく引きつけられているので、日本と共同して朝鮮遠征を試みる余裕はないと、副島に語ったという。李鴻章の見るところでは、朝鮮は砲台の建設や、度重なる戦争準備のために、国力を消耗しきっているという。そこで日本が朝鮮の眼を覚ましてくれればありがたいと、李鴻章は述べたそうである。」
 日本政府の見解ないし意図はどこにあるのかと尋ねると、副島は、「目下何をすべきかを検討中であると答えた。」。副島はことばを続けた。「現状をこのままつづけるわけにはゆかない。朝鮮側の非友好的な態度のために、日本政府は下級の役人を2名だけ残して、すべて引き揚げた。朝鮮人は、日本人の居住する建物の窓の下をねり歩いたり、そこで出陣の踊りを演じたりした。これは彼らが崇める海神を祭る儀式にすぎなかったのかもしれないが、しかし日本人に対する非友好的な示威運動の様相を帯びていた。」
 最後に、副島はつぎのように述べた。「今後朝鮮と交渉をつづけるとすれば、艦隊の援護が必要となってくるだろう。


 パークスはこの覚書の中で、パークス自身がこの会談で得た結論として、次のように要約している。
 
 「目下、日本政府は、台湾南部の原住民に対して遠征軍を派遣することを計画している。さらに後日朝鮮と戦端を交えなければならない可能性があることを、日本政府は予期している。」

 この覚書は、1873年7月27日、8月7日の、副島との会談を記録したものであることに、再度、注目されたい。

                           (続く)

※この続きは6月1日からとさせていただきます。
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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(9)

(虎の尾を踏んだ太政官制の改革)

 西郷は、大久保留守中、大蔵省事務監督として、大蔵大輔井上以下を統括していたが、上述の1872年12月中旬から翌年4月初旬まで、島津久光問題で東京を不在にし、その後もおそらく4月いっぱいは、それに振り回されていただろうと思われる。そのため大蔵省は、この時期、人格・品性ともに見劣りのする井上が、その部下の渋沢栄一(三等出仕・少輔相当)とともに取り仕切っていた。

 井上は、1873年度予算編成において、前年9月発布の「学制」に基づき、各級学校の整備に力を入れていた文部省と、地方官から裁判事務を回収するため地方裁判所の整備に力を入れていた司法省の予算要求をいずれも半額にする、その一方で陸軍大輔山縣の率いる陸軍省の予算要求はほぼ満額認めた。
 そのため井上には、文部卿大木と司法卿江藤から、不公平かつ専横だとして批判がなされた。さらに工部省予算をめぐっても井上批判の声があがった。井上は、そうした批判に真摯に対応せず、長期欠勤し、大蔵省の事務停滞を招いてしまった。三条の岩倉宛て書簡では、「大隈参議にももっぱら周旋尽力しおり、決して瓦解に至りそうろうようの義はこれなく、不日折り合いもあいつき申すべく存じそうろう」としたためてあったが、この問題、そんな容易なことではなかった。 

 三条が、岩倉宛て1873年1月19日付書簡、及び「国事多端」4項目を伝えたその先便を書いた後、まもなく大蔵省問題は重大な進展を見せる。
 まず1月25日、江藤が、予算削減に抗議して太政官宛て辞表を提出する。それには「法律が定まり、訴訟制度が確立されてはじめ民の権利が保全される。そうしてはじめて民が富み、税収の実もあがる。さすれば軍備も拡充できる。工業も教育も盛んになる。等々」と司法制度整備の重要性を訴え、現状を憂え、今予算要求がいかに重要であるか具体的に明示する堂々たる文章が綴られていた。江藤の辞表が提出されると、司法省の主だった幹部は、一斉に江藤を支持し、三権分立の下での司法権の確立、法による国民の自由・人権の保障が司法省の任務であることを訴える意見書を太政官に提出した。

 この問題は、はしなくも太政官による各省の統制・指導力不足を露呈したものであり、三条は、左右大臣・参議の合議体の強化、即ち第一に参議の補強、第二に正院への権限集中を図ることを余儀なくされた。前者に関しては、同年4月19日、後藤、大木、江藤の3名を新たに参議に任命し、後者に関しては、5月2日、太政官職制を改正して参議の権限を強化し、正院の合議を重視し、逆に太政大臣の最高意思決定権を奪い、上奏権を形式的・名目的なものに引き下げた。もう少し具体的にいうと、1871年9月制定の「太政官職制」では、「参議は大政に参与し、官事を議判する」と定められていたのを、「参議は内閣の議官にして、諸機務議判の事を掌る」と改め、「内閣は凡百施設の機軸たる所」と定められたの。これにより、正院の合議を「内閣」と規定し、そこに国政の最高意思決定権を与えたのである。

 このような太政官制改革は、既述の大久保が目指したピラミッド型有司専制の体制、太政官の最高意思決定権と上奏権を前提とし、参議の有力者もしくは各省の長官の有力者・・・まさに大久保のことであるが・・・が太政大臣へ働きかけ、その最高意思決定権と上奏権を利用して自己の意思を貫徹する体制の否定にほかならない。
 三条は、同年5月、岩倉に宛てた書簡で、「(要旨)使節団の帰国まではなるべく改革はしないように相談していたのだが、次第に各省の対立が進み、会計上もさしつかえが生じ、このままでは瓦解してしまうので、やむなく評議の上、改革した」と弁明したが、大隈などは「(要旨)そもそも使節団派遣は、内政、外交いずれの面でも薩長の軋轢や諸官吏の対立で、停滞をしたので、できるだけ海外に出し、『鬼の留守に洗濯』しようとしたのだ」(『大隈伯昔日譚』)と、ズバリと本音を吐露している。

 ともあれ、この改革は、まさに虎の尾を踏んだ、という類のものであったことは確かであり、ここに再三指摘してきた新たな対立と抗争の激化する一局面を見ることができる。

 なお、井上と渋沢は辞表提出したものの、その真意は却下されることを願ったのであろうが、内閣は、5月9日、これをあっさりと受理してしまった。これで一件落着というべきところだったが、井上と渋沢は、憤懣やるかたない思いで、歳入、歳出の数字が書かれた辞表文を新聞に掲載させてしまった。そのため国家機密を漏えいしたとの嫌疑を受けて司法省から追及を受けるという落ちまでついてしまった。
 立つ鳥跡を濁さずというが、井上は立つ前も立ってからも濁し続けたのである。
                                    (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(8

(太政大臣三条実美からの召還訓令)

 西郷をして「憐れむべき御小肝」と言わしめた(桐野利秋への書簡)太政大臣三条実美は、使節団の帰国が遅れる一方で、次々に生起する難問に頭を悩ませ、心細い思いを募らせたのであろう、1873年1月19日、使節団の岩倉に、木戸、大久保両名の召還命ずる訓令とともに次のような書簡を送った(原文を読みやすく表記した。)。

 「さて先便縷々申し述べそうろうとおり、本朝国事多端、やむをえざる要用もこれありそうろうについては、各位御帰朝の期もあいはかりがたく、かたがたもって大久保、木戸両人帰朝の御沙汰おうせだされそうろう間、公翰をもってお達し申しそうろうとおり、両人のところ、帰朝あいなりたくお達しこれありたくそうろう。両人お呼び返しの儀は、さだめて御不都合の儀もこれあるべく、ことに尊台において御迷惑とも察し奉りそうらえども、かれこれよんどころなき事情、御遠察祈望つかまつりそうろうことに御座そうろう。」

 この訓令と書簡が使節団のもとに届いたのは同年3月中旬、ワシントン、ロンドン、パリ、ブリュッセル、ハーグを巡歴し、ベルリンに入り、プロシアの鉄血宰相ビスマルクと面談し、弱小国プロシアをドイツ帝国に作り上げてきた「予があれこれの批判を顧みないで国権を全うした本心」を吐露され、「いま日本が親睦を通じ、あい交わるべき国は多々あるだろうが「国権自主を重んずるドイツの如きは親睦中の最も親睦なる国なるべし」とのご高説を拝聴して、一同、おおいに感銘を受けた直後のことであった。久米邦武『米欧回覧実記』によると、「交際の使臣、相宴会する際に、此の語は甚だ意味あるものにて、此の侯の辞令にならえると、政略に長ぜるとをよく認識して、玩味すべき言といいつべし」とある(原文をわかりやすく表記した。)。

 この頃、木戸、大久保は対立が激しくなり、訓令への対応も区々となる。大久保は、訓令に従い3月末に帰国の途につき、5月26日帰国、木戸は、訓令を無視してロシアまで使節団とともに行動し、その後単独行動で2ヶ月にわたりヨーロッパ諸国を歴訪し、7月23日に帰国した。

 三条が、1月19日付書簡において、先便で、縷々申し述べたと言っている「国事多端」の内容は、以下の4項目に要約できる。

 第1は、島津久光問題。これは既に述べた。

 第2は、大蔵省問題。これは次項で述べる。

 第3は、台湾問題。これは第二話『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』の「政台の役」のところで述べたので繰り返さないが、少しだけ補足しておこう。台湾出兵については、当時、外務卿副島がその急先鋒で、元米国の駐厦門(アモイ)領事、チャールズ・ウィリアム・ル・ジャンドルなる者を大輔待遇という破格の厚遇をもって外務省顧問として雇い入れ、その指導のもとに着々と準備を進めていた。三条は、清国をはじめ、諸国との関係悪化を懸念し、慎重姿勢をとっていた。しかし、副島の勢いを止めることはできず、表向きは日清修好条規の批准書交換、内実は台湾問題での談判との秘めたる任務を与え、2月27日、遣清特命全権大使に任命せざるを得なかった(三条は、この書簡の中でも「やむをえざるの務にして」と弁明している。)。その副島が、勇躍、清国に出発したのは3月13日のことであった。

 第4は、朝鮮問題。書簡では、1872年9月、花房外務大丞を派遣して草梁倭館を接収し、外務省の直轄下に置き、大日本公館としたことに触れているだけで、さほど重要問題とは位置付けてはいないように思われる。
 この問題は、既に第二話『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』の「征韓論」のところで触れ、さらにその先の実際の武力を用いた朝鮮への干渉について「江華島事件」のところで触れたが、その間の部分は抜けているので、これを次章で述べる。

                                              (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(7)

(島津久光の奇怪な言動、西郷の苦悩)

 上述した廃藩置県とその後の急進的改革に憤懣やるかたない思いを募らせていた人物がいる。旧鹿児島(薩摩)藩の藩主の父にして事実上最高権力者島津久光である。

 既に見たように1872年7月27日、西国巡幸に際し、天皇一行は、鹿児島を訪れた。これは久光の不平、不満を慰撫することが隠れた目的であった。久光は、そのとき天皇に「建白書」を提出し、西郷を要石とする政府が推し進める最近の施策を、共和政治の悪弊に陥っているなどと激しく攻撃し、西郷解任にまで言及した。
 久光は、これで溜飲を下げ、自分を抑えるどころか、巡幸に同行しながら一度も、会いに来なかった西郷に、一層怒りをたぎらせる。同年9月はじめ、側近の海江田信義を上京させ、建白書の趣旨が生かされているかどうか確かめさせようとした。海江田は、諸方面に、久光の不満、要求を拡散しようとしたが、西郷の意を受けた勝安房、山岡鉄舟、大久保一翁らのかつての江戸城明け渡し問題で肝胆あい照らす仲となった面々の説得を受け、東京にとどまることになる。
 情報を絶たれた久光は、同年12月早々、太政大臣三条宛て、西郷を厳しく非難する手紙を送った。三条は、処理に困ったのであろうか、これを西郷に読ませ、その処置を西郷に委ねた。西郷は、ともかく謝罪するほかはないと考え、12月中旬、とるものもとりあえず、鹿児島へ帰った。

 鹿児島へ帰った西郷は、執事を通じて久光に次のような詫び状を差し出した(原文を読みやすく表記した。)。

 「御巡幸のみぎり、供奉おおせつけられ、御当地滞在中には、是非ご機嫌伺いとして拝謁願い奉るべきところ、等閑にまかり過ぎそうろう儀、全く朝官を甘んじ、再生の御こう恩忘却つかまつりそうろう場に立ち至り、御嫌忌をこうむり奉りそうろう仕合い、実に恐懼の次第に御座そうろうにつき、いかようともその罪を謝し奉るべきつもりにてまかりそうろうにつき、右の段、よろしく仰せあげられ下されたく願い奉りそうろう。」

 ようやく面談を許された西郷に突き付けられたのは、14ヶ条の「罪状書」であった。その一部は既に紹介したが、次の条々(要旨)にはあいた口がふさがらない。

・戊辰戦争終結後、朝官に任ずるとの御内命をお断りした、帰藩したのはもっともであるが、正三位や参議という高位高官を遠慮なくお受けしたのはどんなつもりか。
・戊辰戦争終結後、解兵後の兵隊の暴行を取り締まるどころか尻押しした。
・高給を貪り、己に従う者ばかり登用し、その余の者の苦情を無視し、苛政を行っている。
・四民平等などというのは国威にかかわる重大事。
・御巡幸のとき供奉した中で最上位の高官として、天皇の失徳のみ醸し出した。
・お前が徳大寺にはじめに申し述べたこと(いわゆる24ヶ条意見書のことと思われる。)は、長州・土佐等手を打って喜んだというではないか。もってのほかだ。


 西郷も「むちゃの御論あきれ果てそうろうことに御座そうろう」と評したとのことであるが、それでも西郷には、1864年3月、沖永良部の座敷牢に幽閉されていたところを赦免され、禁門の変、討幕派の大同団結、王政復古のクーデター、戊辰戦争へと活躍する場を与えてくれた大恩は打ち消し難い。

 その後、西郷は、鹿児島にとどまり、謹慎を続ける。政務逼迫、台湾問題で兵を派遣し、征伐を加えるべしと息まく外務卿副島に手を焼く太政大臣三条からは上京して欲しいとの矢の催促。そこで西郷、三条は、一計を案じ、勅使として勝安房を鹿児島に派遣、久光に面会させ、天皇の命令に従って西郷を上京させるという形をとる。ようやくにして西郷は、翌1873年4月1日鹿児島を立ち、東京に戻ったのは同月6日のことであった。

 久光の奇行は、それだけでは終わらなかった。勅使勝安房は、前出の建白書の趣旨を詳しく聞きたいとの「勅書」を持参し、久光に手渡した。これに従ったのであろうか、久光は、同月23日、結髪帯刀、異様な風体の旧家臣の壮士約250人率いて、上京した。ひと騒動持ちあがるのではないかと、政府関係者は随分心配をしたようである。しかし、勝安房らが奔走してこれら壮士を鹿児島に引き取らせる一方、久光は、維新において功績大なり認められたごくわずかな人に与えられる麝香間祇侯(じゃこうのましこう)にまつりあげられ、ようやくしおらしくなったようである。

 さてこの時期、西郷にとっては、まことにわずらわしいことが続いた。旧主君筋からのいわれなき誹謗と中傷、その奇行、それに政府要人の腐敗現象、それでも敢えてその力を必要とするが故の寛容な処置。苦悩、懊悩しながらも、当初の24ヶ条意見書で申し述べたとおり、中央集権制の近代国家を確立する、そのために統一され、公正で一貫性のある政治を推し進めるしかない、との心境であったのだろう。
 好漢、西郷の真骨頂である。

(続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(6)

(旧肥前、土佐藩勢力の台頭、旧長州勢力の凋落)

 上に述べたように江藤が、留守政府内で存在感を高めただけでなく、1873年4月19日、左院議長後藤象二郎、文部卿大木喬任、それに司法卿江藤の3名が新たに参議に任命された。これで留守政府の参議は、筆頭の西郷のほか、板垣、大隈、後藤、大木、江藤となり、旧薩摩1、旧長州0、旧土佐2、旧肥前3となった。旧土佐、肥前勢力の台頭は、明らかである。
 それに比べて、旧長州藩勢力はと言えば、不祥事が相次ぎ、その凋落は目をおおうばかりであった。

 留守政府が急進的改革を加速させ、大きな実績をあげていたこと、とりわけ急進的民権論者とでも評し得る江藤の目をみはるような活躍ぶりとあわせて、この旧土佐、旧肥前勢力の台頭、旧長州勢力の凋落は、これまた上述した新たな対立と抗争のもう一つの局面であった。

 旧長州勢力の人々の不祥事の経緯は、ストーリーとしても非常に興味深く、日本政治疑獄史において多くのページを割くに値するが、この小論では、ごく簡潔に触れるにとどめざるを得ない。

① 陸軍大輔山縣有朋の公金横流し疑惑

 元長州騎兵隊幹部にして山縣の部下であった山城屋和助なる兵部省⇒陸軍省御用商人に、陸軍省は、総計64万円余りの大金(国家予算の1%ほどである)を貸し付けていた。山城屋は、これを生糸相場や遊興費に費消した挙句、1872年12月29日、陸軍省内で割腹自殺。山縣の公金横流しと同人から遊興費等を融通させていたとの疑惑があり、山縣は窮地に追い込まれたが、陸軍省の混乱を防ぐために西郷が奔走し、助けた。
 しかし、山縣は、旧長州藩御用達から陸軍省御用商人となっていた三谷三九郎なる者が陸軍省公金35万円を借り受け、返済不能となった件でも陸軍省内部で疑惑を持たれ、翌1873年4月18日、辞職を余儀なくされた。ただ、このときも西郷が陸軍省の混乱を防ぐために環境を整え、わずか11日後の同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理)として復職させた。
 なお、これらの事件については、司法卿江藤の追及の的になっていたことは言うまでもない。

 山縣にはその後も黒いうわさが絶えなかったが、やがて内閣総理大臣、帝国陸軍のドン、そして維新の元勲としてそのときどきのキングメーカーになる。みごとというべきだろうか?

② 大蔵大輔井上馨の利権あさり疑惑

 井上も、三井組とのいかがわしい関係はよく知られていた。

 上に述べた三谷三九郎事件は、返済能力のない三谷に代わって三井組に返済をさせ、そのかわりに三谷の所有地を三井組に移す形で処理されたのであるが、三井組はその結果多大の利益を得ることとなった。この処理は、井上が、山縣と組んで策動したのではないかと疑われている。

 井上は、後に述べるようにその後間もない同年5月9日、辞職をして大蔵省を去り、一民間人となるのであるが、在職中の末期に、大蔵省があらぬ口実をもうけて旧盛岡藩御用達の商人・村井茂平から、同人有する尾去沢銅山経営権を没収し、これを岡田平蔵なる者に破格の格安条件で払い下げさせた。そして大蔵省辞職後の同年8月に、上記銅山地境に、臆面もなく「従四位井上馨所有地」なる木標を立てたと言われている。
 この露骨で悪質な職権乱用による財産乗っ取り事件は、江藤司法卿の追及するところとなり、司法省大丞兼大検事警保頭島本仲道の捜査報告書によって容疑の裏付けがなされたとして、司法省から太政官に井上勾引の申し出がなされるに至っていた。後述の政変、江藤の下野という事態に至っていなければ、井上の身柄拘束にまで至っていたであろう。
 なお、井上、岡田を含め、これに関与した者は全て旧長州藩出身者であった。

③ 旧長州藩出身大物地方官の職権乱用、井上も結託か?

 小野組は、江戸時代に「井筒屋」を名乗った豪商で、戊辰戦争以来、三井組、島田組とともに維新政権の財政を支える一翼を担ってきた。1873年4月、小野組が、本店を神戸と東京に転籍することを京都府へ申し出たところ、京都府はこれを受理しないばかりか、さまざまな圧迫を加えた。当時、京都府の大参事として京都府政を牛耳っていたのは、これまた旧長州藩出身の槇村正直であったことから、これはまだ大蔵省大輔の地位にあって槇村を配下に置く井上のさしがねだという風評が流れた。三井組と結託した井上が、三井組の商売敵たる小野組に待ったをかけ、三井組をバックアップしようとしたのだというわけである。井上の黒い霧は、ここにも垂れこめていたのである。
 その真偽はともかく、小野組は、前出の司法省達第46号に基づき、同年5月、京都裁判所に訴え出た。京都裁判所は、司法卿江藤の肝いりで天誅組の生き残りの硬派の北畠治房が所長を務めていた。その北畠所長の下で、裁判所は裁判を迅速に進め、同年6月、京都府は、上記転籍申し出を受理し、至急送籍せよとの判決を下した。
 しかし、京都府は、請書も出さず上訴もしないで黙殺する態度をとり、さらには小野組に対する攻撃を強めた。そこで北畠は、ただちに京都府の対応は違式罪にあたるので速やかに処罰するべきだと司法省に報告した。これを受けて司法省は、同年7月、上記処罰を相当とする決定を得た。そこで、京都裁判所は、同円8月、知事長谷信篤及び大参事槇村に対し、それぞれ贖罪金8円、同6円を課する判決を下した。
 長谷、槇村はそれをも無視するので、北畠裁判長は、司法省を通じて太政官に、両名の身柄拘束の許可を求めるまでに紛糾して行った。その後、穏便な解決を願う三条の意向を汲んで、太政官は、司法省にこの件を裁く臨時裁判所を設置して審理させることとしたが、司法省による槇村追及の手は一向に弱まることはなかった。これは「明治六年の政変」直前のことである。
 
        (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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