「『葉隠』の研究 思想の分析、評価と批判」(九州大学出版会)を読んで

「『葉隠』の研究 思想の分析、評価と批判」(九州大学出版会)を読んで

 畏友種村完司君がこのほど標記の著書(以下『葉隠研究』と略称する。)を出版された。

 著者と私は愛知県立旭丘高校の同級生であった。今から、半世紀以上も昔のことである。著者は、高校時代から文学青年、哲学青年で、京都大学文学部へ進学されてからも、やはりその方面の勉学にいそしみ、哲学研究者となられた。

 私の知る限りでは、ヘーゲルやマルクスなどドイツ哲学を主に研究されていたのではないかと思っていたが、ご本人は、そこから出発して30歳代には西田・田辺哲学やフッサールの現象学の研究へと範囲を拡げ、40歳代には知覚論や身体論・心理関係論に研究テーマを収斂するようになり、その後さらにコミュニケーション論へ歩みを進めたと述べておられる。

 著者は、これまた私の知る限りでは、平和と民主主義、個人の尊厳に底打ちされた基本的人権を擁護する立場に立っておられたのではないかと思っていた。その著者が、今、何故『葉隠研究』を書かれたのか、本書を手にしたとき、正直とまどいを覚えた。

 『葉隠』は、大阪夏の陣と元和堰武から数えておよそ100年、天下泰平の時代に、武士たるものが戦闘をなりわいとする集団から文治をなりわいとする集団へと大きくその生きざまを転換したとき、武士とはどうあるべきかを思索し、追求し続けた佐賀藩の一介の地方武士の口述の聞き取り書きである。
 しかし、『葉隠』が、佐賀藩という一地方で読み継がれた地方版武士道の枠から抜け出して一躍歴史の檜舞台の躍り出たのは、幕末の尊攘派下級武士決起の精神的バックボーンとなったからである。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。」という情念ほとばしる言葉は、動乱の時代に、何事かをなさんとする者たちの心をゆさぶる熱いメッセージであった。
 彼ら尊攘派下級武士の成功は、『葉隠』を明示支配体制の支える教養と修養のテキストとして定着させることとなった。それだけのことであれば、別段、私のとまどいの原因になるようなものではない。私がとまどいを覚えたのは、戦前の軍国主義はなやかなりし時代に、『葉隠』は、教養と修養のテキストから飛躍をして、特攻隊や玉砕を美化し、国民をアジテーションする道具として用いられたという、忌まわしい記憶と結びついているからである。

 しかし、本書を読み進むうちに、そのとまどいは消失、次第に著者の論旨に引き込まれて行った。

 著者は、テキストを深く読み解き、思索して得た等身大の『葉隠』を、本書前半において、原文抜粋とその対訳を逐一あげながら、呈示している。その詳細は、直接本書にあたって体得して頂くこととしたい。私が注目したのは以下のことである。
『葉隠』は、一方で、文治にたずさわる文官的武士のあり方、奉公道を説いている。主君、藩への奉公は、常に死への覚悟をしつつ全てを捧げつくす心がなければ成就することはない。しかし、永い奉公には、忍耐と寛容、和の精神、礼節、憐憫の精神、心身の養生なども必要である。決してエキセントリックな死に狂いを説いているわけではない。
 しかし、『葉隠』は、他方で、文官的武士のあり方、奉公道におさまりきらないもの、武士の原点である戦士的武士の死をもいとわず敵陣へ打って出る剛勇、死に狂いの精神を説いている。それは、天下泰平の世にあっても、文官的武士の日常生活にいつふりかかるかわからない事変への備えとして常に覚悟をしておかなければならないことであると。
 『葉隠』には、この両者が併存していることを的確に指摘していることが、著者の『葉隠』論の特質である。

 著者は、本書後半において、これまで世に問われた『葉隠』論を俎上にあげ、逐一、共感を示しつつ、批判をしている。俎上に挙げられた論者は、大隈重信、古川哲史、奈良本辰也、三島由紀夫、和辻哲郎、相良亨、丸山真男、松田修、山本博文、小池嘉明の総数10名、政治家、哲学者、歴史家、文学者、政治・政治思想史学者と実に多彩である。著者は、これらの各論者が説くところに謙虚に耳を傾ける。それらから学ぶべきところは学び、ときには自説の変更さえも厭わない態度を示している。しかし、これらの論者は、『葉隠』を戦士的武士道の書として読むか、文官的奉公道の書として読むか、いずれかの一面に偏しているとして、著者は批判をする。これは、各論者の論の内在的批判であり、説得力がある。

 『葉隠』は、あくまでも江戸時代中葉、幕藩体制の基盤が固まった時代の産物であり、封建社会、身分制社会の真っただ中にある武士としていかに生くべきかを追求して形をなしたものであるから、あくまでもそのような時代、社会にのみ通用する歴史的文書として、位置付け、評価するのが妥当である。そのことを無視して、『葉隠』の中のある特定の文章、言葉を、現代のわれわれ―個人の尊厳に底打ちされた基本的人権の担い手―へのメッセージとして読みとることを期待したり、勧めたりするのは、間違いである。筆者は、このように説く。しかし、筆者は、特定の文章、言葉を超えて、『葉隠』には、一つの通奏低音が、静かに流れていることを聴き取っている。『葉隠』を世に送り出した佐賀藩の一介の地方武士は、幕府、藩への絶対的忠誠と服従を、単に盲目的な隷従としてではなく、死を常に覚悟しつつ主体的に服従することを説くことにより、武士の自律性を意図せぬまま表出しているのだと。

 かくて著者は、『葉隠』に「服従と自律の矛盾的統一」なる通奏低音を聴き取り、現代の我々、組織・機構・団体への服従と、個人の尊厳に底打ちされた基本的人権の担い手としての自律、その狭間にある我々に、いかに生くべきかと問うている。

 近時の、公文書を改ざん、隠ぺい、破棄し、主への忖度から平然とウソをつき、行政にさじ加減をする、文官的官僚、あるいは武官的官僚には、服従と自律の矛盾的統一ではなく、盲目的隷従しか見られない。醜悪、これ極まれりである。

 「葉隠研究」は学術書であるが、今、多くの国民に読まれるべき恰好の書である。

                                (了)
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対日占領体制  その10

4 まとめ

(冷戦の始まり)

 対ソ関係は、これ以後悪化の一途をたどる。1946年2月には、駐ソ代理大使としてモスクワに赴任していたケナンが、「ソ連封じ込め」を説く異例の長文の電文をワシントンに送った。これはアメリカ政府高官の間で回し読みされ、大きな影響力を与え、これ以後、アメリカのソ連対決路線が顕著になって行くことになる。

 既に見たようにモスクワ協定中には、原子力の国際管理及び原子力兵器の禁止などのために国連に原子力委員会を設置することに関する合意もあった。この合意は、原爆を既に実戦に用いたアメリカ陸軍長官スティムソンのトルーマンに対する必死の訴えに基づいて進められたものであった。スティムソンは、原子力の秘密は独占できるものではなくアメリカの優位は過渡的なものに過ぎないから、むしろ原爆製造の秘密を積極的にソ連に提供し、共有することにより、共同管理をすることにより激しい軍拡競争を未然に防ぐようにするべきだと主張した。

 スティムソンの主張には、猛然たる反対があった。たとえばフォレスタル海軍長官は、原爆製造の知識は「アメリカ国民の財産」である、「われわれはヒトラーを当てにした。だがここで再び宥和を繰り返しても得るものは何もない。」などと述べた。しかし、モスクワ会談前の段階では、アメリカの政策には反映されなかった。
 上記の合意に基づいて、1946年1月24日に開催された第1回国連総会において、原子力委員会の設置が米英ソ三カ国の共同提案になる原子力委員会設置の件が満場一致で採択された。原子力委員会は、設置後速やかに、原子力の平和利用のための基本的な科学情報の交換、原子力が平和利用のためにのみ利用されるのを見とどけるための管理手段、各国の兵器庫から核兵器や他の大量殺戮兵器の撤廃、協定遵守国を危険な違反や言いのがれから守るための安全措置に関して速やかに報告書と勧告書をまとめることとされた。

 しかし、その直後からアメリカの政策転換が劇的に始まる。トルーマンからアメリカの国連原子力委員会主席代表に指名されたバルークが、画策を始め、6月14日、国連原子力委員会において、効果的な管理体制が機能しはじめ、違反に対する厳格な罰則が制定されてはじめて、原爆の製造中止、現存する原爆の廃棄という次の段階に移るとする考え方をアメリカ案として呈示するに至った。これは実質的に、アメリカの原爆独占を維持しようとするに等しい提案であった。
 ここに発足早々に国連原子力委員会は機能マヒに陥ることとなり、人類は、核軍拡競争を未然に防止すべきチャンスを逃してしまった。

 1947年1月、トルーマンの信を失ったバーンズに代わって長らく陸軍参謀総長を務めてきたマーシャルが国務長官に就任する。マーシャルは、ケナンを重用し、就任早々国務省に政策企画室を新設して、その室長に迎えた。これ以後、アメリカのソ連封じ込め政策は本格化する。いわゆるトルーマン・ドクトリンが議会での特別教書演説で打ち出されたのは同年3月のことであった。ギリシャ、トルコへの経済的・軍事的支援への賛意を議会からとりつけるために、ソ連共産主義体制ドミノ論を宣命したのである。

 これをもって冷戦の始まりとするのが一般的な見方である。マッカーサーの占領管理も、少し遅れるが、これに追随する。
  
 戦争は、国民を煽りたて、憎悪の坩堝に投げ込んでしまう。冷戦も同じである。アメリカは、国内に反共ヒステリーが渦を巻き、外交もこれに規定されて行く。一方のソ連も逆のベクトルに規定されて行く。

 ケナンは、まもなくこれを冷静に見る立場に移る。晩年、ベトナム戦争に反対する視点を持った彼は、上記の長文電報と後にその趣旨を敷衍した『ソヴェトの行動の源泉』というタイトルの論文(外交評論誌『フォーリン・アフェアーズ』1947年6月号に「X氏」なる匿名で掲載された。)で説いたソ連封じ込めとは、軍事的意味を持つものではなかったと述懐している。あの反共ヒステリーがベトナム戦争を不可避のものとしてしまったと。

 彼が晩年説いたような冷静な見方が、共有されていたならば、戦後国際社会は、早い段階でイデオロギーや体制を超えて諸国家が競争・共存し、国連を中心とした平和、安定、正義の国際秩序が構築されていたかもしれないし、日本も米国の従属国ともいうべき地位に甘んじることはなかったかもしれない。

 本稿『対日占領体制』は、それができなかった原因とそこからくみ取るべき教訓を考える端緒に過ぎない。                         
                    (了)


参考文献

①豊下楢彦『日本占領管理体制の成立』(岩波書店)
②五百旗頭真『米国の日本占領政策』上・下(中央公論社)
③同『戦争・占領・講和』(中公文庫)
④同『占領期 首相たちの新日本』(講談社学術文庫)
⑤坂本義和/R・E・ウォード編『日本占領の研究』(東京大学出版会)
⑥竹前栄治『戦後占領史』(岩波同時代ライブラリー)
⑦雨宮昭一『占領と改革 シリーズ日本近現代史⑦』(岩波新書)
⑧西崎文子『アメリカ冷戦政策と国連 1945-1950』(東京大学出版会)
⑨ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波現代文庫)
⑩アーネスト・メイ『歴史の教訓 アメリカ外交はどうつくられたか』(同上)

対日占領体制  その9

4 まとめ

(対日占領体制に関する取り決めの形骸化)

 枢軸国諸国を無条件降伏させることにより、ファシズム、ナチズム、軍国主義を一掃してこれら諸国を平和・民主国家に造りかえ、包括的国際機構(国際連合)を設立して戦後の国際社会を平和、安定、正義の新しい秩序の下に置く。これは今次大戦を戦う目的であり、その目的は連合国の共同行動によって達成される。このことは連合国のコンセンサスがあった。そうである以上共同行動の原則は、占領そのこと自体においても貫徹されなければならない。そうでなければ竜頭蛇尾に終わってしまうことになる。
 それどころか占領が、共同行動の原則に反し、一国の意思を貫徹する単独占領体制とするということは、枢軸国諸国を当該占領国の影響力の下に置く、つまり当該占領国の勢力圏に取り込む結果をもたらすことになる。これは世界をいくつかの大国を盟主とする勢力圏に分割することにほかならず、包括的国際機構(国際連合)により、個別国家の野心、野望、国益万能主義を抑え、国際社会に平和、安定、正義をもたらそうという構想が死を宣告されるに等しいことになる。

 国際社会をいくつかの勢力圏に分割し、これらのバランス・オブ・パワーによってかりそめの平和を求めることが如何に空しいことであるか。それは、結局は、戦争を引き起こすことにつながることになる。このことは第一次大戦、第二次大戦の痛切な教訓ではなかったのか。

 イタリアに始まり、ブルガリア・ルーマニア・ハンガリーの東欧の枢軸諸国を経て、ドイツ、日本と、占領体制をめぐって、米英ソの連合国の主要国は、激しくせめぎ合った。最初、米英がソを事実上排除し、ついでソが米英を排除し、次いで分割占領、そして最後は米の単独占領体制。これを巻き戻そうとする最後のギリギリのところでの努力が、ようやく上記モスクワ協定に結実した。

 モスクワ協定は、アメリカ国内で、当初、歓迎された。12月7日付ニューヨーク・タイムズも、「平和への新しいスタート」との見出しの下に、以下のように論評した。

「あらゆる点において、ドイツと日本が降伏文書に署名して以来、世界に示された最も希望に満ちた文書である。」
「新しい対立の暗雲を」を吹き払い、「いかなる国際的解決においても最初の本質的なステップ」を成すもの。
「要するにそれは平和の勝利であり、その意味において人類の勝利である。」 

 しかし、それもつかのまのことであった。軍部、政界保守派が、モスクワ協定攻撃の狼煙をあげた。たとえば、ルーズベルトの下で合衆国陸海軍最高司令官(合衆国憲法第2条第2節第1項により、大統領が陸海軍最高司令官となる。)付参謀長を務めた海軍の長老リーヒ提督は、これを「宥和文書」と断じて非難した。共和党の重鎮ヴァンデンバーグ上院議員もこれに続き、1938年9月、イギリス、フランスが、ナチス・ドイツにチェコ・スロバキアのズデーデン地方を割譲することを認めたミュンヘン協定になぞらえて「ソヴィエトのミュンヘン」と決めつけ、トルーマンに圧力をかけた。

 これを機に対ソ強硬派が、公然と声をあげ、国内世論をリードし始めた。ソ連をナチス・ドイツとパラレルに置き、全体主義国と断罪する議論が一般化した。
 1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻した際に、ナチスと共産主義が共食いしあうことを望んだほどに強硬な反ソ主義者であったトルーマンも、敏感に反応した。彼は、バーンズ外交は「対ソ宥和外交」であると見なし、そのバーンズ外交との決別を決意するに至る。1946年1月6日付バーンズ宛書簡(実際には、トルーマンの手元に留められたようである。)には、ソ連の脅威を指摘とともに、「もはや妥協をなすべきとは考えない」、「私はソ連を甘やかすことに疲れた」などとソ連に対する激しい非難の言葉が書き連ねられていた。

 モスクワ協定は、協定当事国であるアメリカの大統領によって事実上否定されるに等しい事態に立ち至った。枢軸国各国に対する占領体制の巻き戻しはおろか、米ソの関係は、もはや修復不能な地点に達してしまった。

 対日占領の実情を見ると、そもそもマッカーサーは、アメリカ政府のコントロールさえも及ばない独立王国を築きつつあると言っても過言ではないように事を運んでいた。その上、モスクワ協定が、国内の反発を受け、大統領による支えを失ってしまっている以上、対日占領体制に関する取り決めもその規範性は乏しくなり、形だけのものになってしまった。マッカーサーが、事実上、これを無視して占領管理にあたったことはむべなるかなと言うべきか。         

対日占領体制  その8

2 対立と協調のはざまで(続)

(事実上の単独占領体制―アメリカは何を根拠としたのか)

 では、アメリカはそのような事実上の単独占領体制をとる根拠をどのように説明しているのであろうか。アメリカが挙げているのは、ポツダム宣言に関するバーンズ回答書、マッカーサーを連合国最高司令官に任命した文書及び降伏文書である。

・ バーンズ回答書
  日本がポツダム宣言受諾するに際し、「右宣言ハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」と条件を付したことに対し、8月11日、バーンズ国務長官が米英ソ中4ヶ国を代表して回答した文書。その要約ないし抜粋は以下のとおり(日本外務省訳による)。
 ① 「天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官に制限の下に置かれるものとする。」
 (原文は「 the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.」。 正しい訳は「天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官に従属する。」となるところだが、国体護持に固執する軍部等の反発を危惧して苦肉の「意訳」したものと指摘されている。)
 ② 天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し降伏文書に調印させ、全軍の武装解除、戦闘行為の停止、降伏条項実施のため最高司令官の要求に従い命令を発すること。
 ③ 日本国の最終的政治形態は、『ポツダム宣言』に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定される。
 ④ 「連合国軍隊は、『ポツダム宣言』に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に留まる。

・ 連合国最高司令官任命にあたり英ソ中首脳に送った書簡 
 8月11日、トルーマンが、英ソ中首脳に送った書簡で、マッカーサーを連合国最高司令官に任命することを伝え、各首脳はこれを了承している。
 もっとも同文書には「日本軍隊の全面降伏を受理し、調整し、実施する」とあるだけであったし、任命書にも連合国最高司令官の任務を「日本の降伏を実施する」と定めているに過ぎなかった。

・ 降伏文書(9月2日)
 「日本軍と日本軍の支配下にある軍隊の無条件降伏を実効あらしめる具体的措置を取り決めるとともに、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス」と、上記バーンズ回答書の①が再確認されている。

  しかし、これらをもってアメリカの単独占領体制をとる根拠とするのはその文言内容からも疑問である。これらは、イタリア、東欧枢軸諸国の占領体制をめぐって延々と続けられた議論の経過を踏まえて解釈すれば、要するに降伏受理、即ち軍事的措置としての連合国最高司令官の権限、任務を定めに過ぎず、軍事的措置を超える、全般的占領体制にまで及ぶものとは必ずしも読みとれない。

(アメリカの動揺)

 この問題が、米ソの間で本格的に議論されたのは、9月11日から開催された米英ソ中仏の五カ国の外相によるロンドン外相理事会(ロンドン外相理事会は上記のとおりポツダム会談で設置が決められている。これはその第1回会議である。)の場においてであった。
 イギリスはこれに先んじて対日占領政策の形成に実質的権限を有する連合国管理理事会(ACC)案を各国に伝えていたが、ベヴィン外相からは表立った発言がなかったのでかわってイギリス案を持ち出したのはモロトフであった。対日占領の現段階は、「純粋に軍事的な局面」は終わって政治・経済・財政上の問題に直面しており、ACCを東京に置き、ACCが占領行政を指揮する段階にあると彼は論じた。
 これに対し、ヨーロッパ諸国の講和問題のみを話し合う予定であったバーンズは、ベヴィンとの間で内々の妥協案を約束して、表ではこの問題を議題としないという対応をとった。一方、モロトフはあくまでもこの問題は緊急性があるとして議題とすることを求めた。結局、米ソの激突で、第1回ロンドン外相理事会は決裂してしまった。
  
 一旦は、共同行動の原則から離脱しようとしたものの、予想に反するソ連の強硬な反撃にあってバーンズは動揺したようだ。
 この対日占領体制問題は、アメリカの外交にとって実に難しい問題であった。それは東欧の枢軸諸国の問題にアメリカは一切嘴をさしはさむことが出来なくなることを意味するし、ドイツ問題にも悪影響を及ぼす。ヨーロッパや極東でソ連の政治攻勢も予測される。せっかく憲章を採択した国際連合の前途にも黄信号が灯る。
 ロンドン外相理事会決裂後、バーンズは辞任に傾いた。そのバーンズを説得して思いとどまらせ、事態の改善のために動いたのはハリマン駐ソ大使であった。ハリマンは、スターリンと面談して、落とし所をさぐり、バーンズとモロトフの間を取り持った。バーンズ、モロトフの間で、対日占領体制に関する文書上のやりとりが繰り返された。その結果、ようやく米英ソ三カ国外相会議開催にこぎつけることができた。

 12月15日からモスクワで開催された三カ国外相会議では、対日占領体制に関する件のほか、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーおよびフィンランドに対する講和条約の件、 朝鮮独立と当面の過渡的措置、 中国統一の促進、 原子力の国際管理及び原子力兵器の禁止などのために国際連合に原子力管理委員会を設置する件などが話し合われ、これらの問題についての合意が成立し、文書確認がなされた。これがモスクワ協定と呼ばれる歴史的文書である(12月27日公表)。

 モスクワ協定では、先のロンドン外相理事会決裂の要因となった対日占領体制の件について、以下のように取り決められた。
 
① すでに設置していたFEACにかえて、東京に連合国対日理事会(Allied Council for Japan ACJ)を設け、ワシントンに極東委員会(Far Eastern Commission FEC)を置く。
② ACJは最高司令官の諮問機関であり、米英ソ中四カ国の代表者で構成される。
③ FECは、対日占領政策の決定機関である。
  アメリカ政府は緊急事項が発生したときは委員会が行動をとるに至るまでの間最高司令官に対し中間指令を発することができる。ただし、日本国の憲政機構もしくは管理制度の根本的変革を規定し、又は全体としての日本国政府の変更を規定する指令は委員会における協議及び意見の一致の達成後においてのみ発せられる。
  米・英・仏・ソ・中・蘭・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・インド・フィリピン・(後にパキスタン・ビルマ)の代表者で構成される。

対日占領体制  その7

2 対立と協調のはざまで(続)

(事実上の単独占領体制)(続)

 占領体制の問題は、イタリアに始まり、東欧の枢軸諸国とドイツをめぐりめぐって、日本がその終着点になったのであるが、それは有終の美を飾ることはできなかった。対日占領体制は、分割占領となったドイツはさておき、イタリアに比しても、東欧の枢軸諸国に比してもグロテスクなものとなってしまった。イタリアでは連合軍は米英二カ国の軍隊が統合参謀長会議の下に戦い、米英両国が共同占領し、ソ連は事実上オブザーバーとされたのであった。東欧の枢軸諸国では連合軍と言ってもそれはソ連軍単独であり、ソ連が単独占領し、米英両国は事実上のオブザーバーであった。しかし、日本では、連合国軍は、アメリカ軍だけではなく、イギリス軍も、中国軍も、ソ連軍も連合国の一員として戦った。アメリカの単独占領、英ソ中の各国はオブザーバーというのは筋が通らない。ましてやアメリカはしきりに東欧枢軸諸国の占領体制に非を鳴らし、実質的参加を求め続けていたのであるから。

 実はアメリカも、主導権をいかに確保するかに腐心しつつも連合国の共同占領の方策を検討していた。そのことはSWNCC70シリーズの文書に痕跡を留めている。また軍部レベルの検討過程では、日本分割占領案も起案されている(JCSの下部機関である「統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee JWPC)」のJWPC385-1「日本および日本領土の最終的占領」)。しかし、これらは最終的には却下されてしまった。
 さらに対日占領体制として、米英中の三カ国、ソ連参戦した場合にはソ連も加えた四カ国を常任国とする「太平洋・極東高等委員会」を設置し、日本の戦後処理から戦争終結後の太平洋・極東地域の諸問題の調整など勧告行う権限を付与する案が検討されていた(SWNCC65-1)。しかし、その後の検討過程で、「太平洋・極東高等委員会」構想は、単なる諮問機関に過ぎない「極東諮問委員会(Far Eastern Advisory Commission FEAC)」に矮小化されてしまった。

 このようにして、しかも他国と何らの協議をすることもなく、アメリカが、事実上の単独占領体制を決めてしまったことは、どうやらこれまでの共同行動の原則、更には、米英ソ中、それに仏を加えた五大国が安全保障委員会の常任理事国として国際連合という包括的国際機構を仕切り、国際社会の平和、安定、正義を守るとう理想から離れ、アメリカが一部の同盟国とともに安全保障体制を確立するのだという安全保障戦略に転換しようとしていることを示しているようだ。

 かつてアメリカはモンロー主義の国として知られていた。ウイルソンは、第一次大戦後の国際社会のあり方、平和原則をかの「ウイルソンの14箇条」のとして提言し、国際連盟による平和維持を謳いあげた。しかし、モンロー主義の伝統を墨守せんとする国内保守派に厳しい足かせをかされ、国際連盟に加盟することさえできなかった。ルーズベルトは、アメリカを、ナチズム、ファシズム、軍国主義と戦う陣営に参加するために、このモンロー主義と対峙しつつ、ステップ・バイ・ステップで、歩みを進めてきたことは既に述べたとおりである。
 しかるに直接戦争の当事者となって4年にもならないのに、アメリカも、巨大な軍事力を持つに至り、軍事優位の思想と政治に絡みとられてしまったようだ。アメリカが世界の警察官になる布石は、この段階で打たれたといってよい。

 注: ウイルソンの14箇条・・・1918年1月8日、ウッドロー・ウイルソン大統領が、年頭教書演説で、第一次大戦後の国際社会のあり方を、14箇条に整理し、提言したもの。以下のとおり。
① 講和の公開、秘密外交の廃止
② 公海の自由
③ 公正・平等な通商関係
④ 軍備の縮小
⑤ 植民地問題の公正な措置
⑥ ロシアからの撤兵とロシアの自由選択
⑦ ベルギーの主権回復
⑧ アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還
⑨ イタリア国境の再調整
⑩ オーストリア=ハンガリー帝国の民族自決(オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障)
⑪ バルカン諸国の独立保証
⑫ オスマン帝国支配下の民族の自治保障とダーダネルス海峡の自由航行。
⑬ ポーランドの復活・独立の承認
⑭ 包括的国際機構(国際連盟)による平和維持
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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