明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(24)  最終回
 
(まとめ)その3


―アーネスト・サトウの見た最後の西郷の印象から―

 ながながと書き綴ってきた本小論も、いよいよ最後を迎える。

 ここで種明かしをしておこう。この小論のタイトル『大西郷は永続革命をめざしたのか?』は、橋川が引用した『現代の理論』1968年1月号の司馬・萩原対談中で萩原が発した「パーマネント・レボリューション」という一語からとったものである。

 萩原は、この対談から8年後の1976年10月から、「朝日新聞」夕刊で『遠い崖』の連載を開始した。この連載は、延々1947回という最長不倒距離を記録して、1990年12月に終わった。私も、時々、拾い読みしたことはあったが、本年3月、この連載ものをまとめた『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫全14冊)を通読してみて、強い感銘を受けた。これほどに幕末・維新の時代を、膨大な資料を駆使し、広く見渡し、かつ深く抉った著作は、かつてあっただろうか。失礼ながら、司馬遼太郎の一群の幕末・維新を描いた諸作品と比べると、知的刺激力という点においてこの著作の方が格段に勝っていると私は思った。これは、歴史ドキュメンタリーと歴史小説というジャンルの違いにのみ帰せしめられないように思われる。

 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の主要登場人物の筆頭は、なんと言ってもアーネスト・サトウである。最後の話に入る前に、彼が、どんな人物であったかざっと見ておくこととする。

 サトウは、1843年6月30日、ロンドンで生まれた。父は元スウェーデン人の貿易商で、ナポレオンの興亡時代に、スウェーデン、ドイツ、フランス、ロシアと国籍や住居を転々と変え、1825年以後イギリスに定住、イギリス国籍を取得した。サトウというと、日本名ではと訝る人もいるかもしれないが、そのスペルはSatow、日本名ではない。ハンザ同盟で有名なリューベックとロストックの中間あたり、バルト海に臨むところにヴィスマールという港町がある。そこにSatow(「種をまく人の村」という意味だとのこと。)という地名のところがあるそうである。サトウの出自はこのあたりのようである。
 サトウは、ロンドンのユニバーシィティ・カレッジで学んでいた18歳のとき、イギリス外務省の通訳生試験に合格、同校卒業と同時に、希望通り日本駐在を命じられ、1861年11月、イギリスを立った。途中、北京での研修があったりして、横浜に着いたのは、1862年9月8日のことであった。ここに在日本イギリス公使館日本語通訳官としてのサトウのキャリアが始まる。
 サトウは、類まれな語学力と探究心、それに誰よりも秀でた行動力を生かし、勝海舟をはじめ幕府要人、西国雄藩の諸大名やその近臣たちとの接触だけではなく、薩摩、長州を中心とする討幕派志士たちと交わりを持った。その中には、勿論、西郷もいれば、大久保、伊藤もいる。サトウは、こうした活動を通じて、イギリスに、対日政策策定のための貴重な情報をもたらした。
イギリス公使パークスは、本国の指示もあって、公的には、幕末動乱期にも外交実務においては条約締結当事者である幕府とのパイプは維持するが、政治的には、幕府、討幕派のいずれにも加担しないという慎重な姿勢をとっていた。しかし、サトウは、自由奔放に活動し、来日後間もない時期に著した「英国策論」で、日本の主権者は天皇であり、大君(将軍)は、多くの大名諸侯のうちの首座の位置にあるに過ぎないと論じ、討幕派志士たちの間に、イギリスは討幕派に好意的であるとの風評を高めた。
 サトウは、1870年、日本語通訳官から日本語書記官に昇進、名実ともに在日本イギリス公使館の対日外交実務を取り仕切る地位につく。それから25年後の1895年7月に、駐日公使となり、三国干渉の時代に、後に日英同盟に発展する良好な日英関係形成に努めた。しかし、サトウの真骨頂は、なんと言っても西欧における当代随一の日本学者であったことである。
 サトウは日本女性との間に二人の子をもうけている。二男は武田久吉。著名な植物学者であり、日本山岳会の創立者でもある。

 さて、そのサトウが、1877年2月、一触即発状態にある鹿児島の情勢視察と、旧友で鹿児島県立病院の院長として病院経営と医師の指導・教育にあたっていたウイリアム・ウィリスの状況確認のために、鹿児島に赴いた。到着は、2月2日のことだった。既に、現地は、警視庁大警視川路利良が送り込んだとされる警官らの摘発が進み、西郷暗殺計画なるものが既定の事実となって鹿児島士族を激昂の渦に呑みこんでいた。私学校生徒による陸軍砲兵廠の火薬庫襲撃も起きていた。動乱はもはや止めようがなくなっていた。

 2月11日、西郷は、ウィリス宅を訪ねてきた。ウィリスが面談を申し入れていたからだが、おそらく旧知のサトウが、はるばる鹿児島まで来ていることを知って、別れの挨拶をしておきたいということもあったであろう。サトウは、このときのことを次のように日記に書きとめている。

 「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷について家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階へ上がり、ウィリスの居間に入るとまで言い張った。結局、一名が階段の下で腰をおろし、二名が階段の最初の踊り場をふさぎ、もう一名が二階のウィリスの居間の入り口の外で見張りにつくことで、収まりがついた。」
 「会話は取るに足りないものであった。」


 これは西郷の出陣六日前のことである。

 ようやく結論を書くときが来た。西郷は、決して自ら立ったのではない。旧知のなつかしいサトウ、戊辰戦争末期に傷病を負った薩摩藩兵の治療でひとかたならず世話になったウィリスとの別れのあいさつの場にさえ、護衛という名の監視下に置かれ、「取るに足りない」会話しかできなくなっている西郷は、もはや決起した鹿児島士族の虜囚にしか過ぎなかった。

 西郷は、幕末・維新の時代を一革命家として駆け抜けた。しかし、それは明治六年の政変までのことであった。西南戦争は、西郷にとっては永続革命の戦場ではなかったのである。

 提一灯行暗夜   一灯をささげて暗夜を行く
 勿憂暗夜     暗夜を憂うることなかれ
 只頼一灯     ただ一灯を頼め


 これは江戸時代の儒者・佐藤一斎の『言志晩録』にある言葉である。西郷の座右の銘だったという。1877年2月17日に出陣してから、同年9月24日、城山に果てるまで、西郷の脳裏に、この言葉が去来することはもはやなかっただろう。

                       (完)
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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(23)

(まとめ)その2

―橋川文三『西郷隆盛の革命性と反動性』から―

 丸山真男の異端の弟子、橋川文三が『西郷の革命性と反動性』という興味深い一文を書いている(『橋川文三セレクション』岩波現代文庫所収)。

 橋川は、遠山茂樹『明治維新』(橋川が読んだのは岩波全書版であるが、今は、岩波現代文庫で読める。)の次の文章を引用して考察を深めていく。

 「『此時に当り、反するも誅せらる。反せざるも誅せらる』の窮地に追い込まれた西郷は、ついに二月、逸る部下に擁せられて挙兵した。西郷起つの報は、自由民権派に大きなショックを与えた。熊本民権派は、ルソーの民約論を泣き読みつつ、剣をとって薩軍に投じた。」
 
 多くの歴史家から不平・没落士族の最後の反動的で無謀な決起によって引き起こされたとされているこの西南戦争が、そのように単純なものではなく多様で雑多なエネルギーが流入していたことを知る思想家橋川にとっても、なおルソーの名と結びつく一面をもっていたということは、刺激的なことであった。

 このルソーの民約論を泣き読みながら西郷軍に投じた人物は、橋川によると、孫文を支援し、辛亥革命の成功に寄与したアジア主義者・宮崎滔天の長兄・宮崎八郎である。八郎は、東京で中江兆民に師事し、兆民訳の『民約論』を熊本にもたらした。彼は、帰郷した後、熊本において、これを普及させ、自由民権運動の先頭に立っていた。
 
 橋川は、八郎から、中江兆民へ、更にはその弟子幸徳秋水へと連想の糸を伸ばしてゆき、秋水全集から、秋水の師兆民を評した次の一文を引用する。

 「先生が平生いかに革命家たる資質を有せしかは、左の一話を以て知るべし。先生仏国より帰りて幾ばくもなく、著すところの策略一篇を袖にし、故勝海舟翁に依り、島津久光公に謁せんことを求む。(略)先生拝伏して曰く、嚮日献ずるところの鄙著(筆者注:「先日献呈した私の著書」)清覧賜えりや否や。公曰く、一閲を経たり。先生曰く、鄙見幸いに採択せらるるを得ば深甚なり。公曰く、足下の論甚だ佳し、只だこれを実行するの難きのみと。先生乃ち進んで曰く、何の難きことこれあらん、公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪うて直ちに太政官を囲ましめよ、こと一挙に成らん、今や陸軍中、乱を思うもの多し、西郷にして来る、響の応ずるが如くならんと、云々」

 兆民の革命的ロマンティシズムを秋水はみごとに描き出している。橋川は、この一文を引用した上で、兆民が、いかに西郷を敬愛していたか、西郷の死をどれだけ惜しんでいたことかと論を進める。

 橋川の言わんとするところは、西郷の革命性、西南戦争の革命性という側面にも正当に目配りをしなければならないということにあるように思われる。

 橋川は、今はもう廃刊となってしまった雑誌『現代の理論』1968年1月号にのった司馬遼太郎・萩原延壽の対談中の、萩原の次の発言を引用している。

 「“明治維新はこれじゃない”という西郷をどういうふうに考えられるかという問題ですね、いわばデモクラットの先駆だという形で西郷を見ることもまったく不可能ではないわけです。それからパーマネント・レボリューションという形の、一種のアナーキズムと見ることも可能であろうし、云々」

注:西郷の談話を記録した『西郷南洲翁遺訓』に、「今となりては、戊辰の善戦もひとえに私に営みたる姿になり行き、天下に対し戦死者に対して面目なきぞとて、しきりに涙を催されける」という有名な記述がある。萩原の発言は、これに関連してのコメントであろう。

 橋川はこの発言を肯定的に受け止め、たしかに西郷を一種独特のラジカル・デモクラットと考えることも不可能ではない、逆にいえば、大久保⇒伊藤の路線が日本を最も好ましい国家に作りあげたわけではなく、西郷の一見空漠たる東洋的な道徳国家のヴィジョンの中にあり得べきもう一つの国家像を見出すこともできる、と言う。

 ここまでお読みいただいた方々は、橋川のいうところを了とされるであろう。
  
                                (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(22)

(まとめ) その1

 話は、西郷という一政治家の問題から、明治六年の政変の本質論、明治十四年の政変論、さらには伊藤らの採用したプロシア流疑似立憲主義の弊害や後遺症の問題にまで広がってしまった。そろそろ本小論のタイトル『大西郷は永続革命をめざしたのか?』の守備範囲に戻ろうと思う。
 その前に、一点だけ補足しておきたい。

―西郷は遣朝使節早期派遣に何故こだわったか?―
 
 ここまでお読みいただいた方の中には、西郷は、征韓論に敗れたから下野したのではないということはわかったが、何故、あれほどまでに遣朝使節早期派遣にこだわったか、この点がモヤモヤしている方もおられるのではなかろうか。何を隠そう、わたし自身もそうである。

 この点について、私は、当該部分を書き綴っているときには、不義の戦いを仕掛けられたら後退しないで徹底的に戦うというのが激動の幕末の修羅場を駆け抜け、王政復古のクーデター、戊辰戦争を戦い抜いた志士、西郷の本性であり、また時の勢いというものもあったのだろうと考えていた。しかし、これだけのことでは、伊藤の描いた絵にまんまと乗せられたことを自認するに等しく、癪ではないか。
 そこで、もうひとひねり考えてみた。西郷は、もっともらしい理屈をつけて西郷の平和的遣朝使節の派遣を延期させ、時期を見て、武力による威嚇によって手っ取り早く朝鮮を屈服させようという大久保、伊藤、岩倉の奇手(事実はそのとおり進んだ。)をきちんと読み切っていたが故に、敢えて形になずまず愚直な手を選んだのではないかと。
 だが、それでもまだしっくりしない。西郷は、もう少し先のところまで手を読んでいたのではないだろうか。

 以下述べることは、疑問符をつけたままとせざるを得ないが、一応の読み筋を明らかにしておくこととする。

 検討してみる必要があるのは、西郷が次ように語っていることの意味である。これは、戊辰戦争時の西郷の寛大な処置に感激して西郷を慕っている旧庄内藩藩士酒井玄蕃が、1874年1月、わざわざ鹿児島を訪れ、下野後の西郷に面談した時の西郷の談話を書きとめたものである(同人の『心覚えの大意』と題する覚書)。わかりにくい表現があり、解読するのが難しいが、原文カタカナをひらがな表記にあらためるにとどめた。

 「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず。只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか。左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホセットの方よりニコライ迄も張り出し、此の方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、且つ聞くが如くんば、都留児へが魯国よりも是非此の儘にては相済み申さず、震って国体を引き起こせと、泣いて心付け候由、又英国にても同じく泣いて右の通りにいたし候趣、此れ何故に候や。」
 「兼ねて掎角の勢いにて、英・魯の際に近く事起こり申すべきと、此の頃亜国公使の極内の心付けもこれにあり、且つ欧羅巴にては、北海道は各国雑居の地に致し候目論見頻りにこえありと相聞き、大方其の事も近々懸け合いに相成るべく、兎に角英にて、海軍世界に敵なく候間、却って北海道は英・仏へ借し候方は如何などと申す事にて、欧羅巴においても魯の北海道目懸け候は、甚だ以て大乱に関係いたし候。右故趣向も付け候には相違これなく、右の通りの事情に候得ば、日本にて其の通りに奮発いたし候とならば、都留児においても是非一と憤発は致すべく、左すれば弥英にて兼ねてよりのホー蘭土より事を起こすには相違なく、能能(よくよく)英国と申し合わせ、事を挙げ候日には魯国恐るに足らずと存じ奉り候。」


 まず文意を確認しておこう。
 ホセットはポシェット、ニコライはニコライエフスク、いずれもロシア沿海州の港湾である。都留児はオスマン・トルコ、掎角の勢いとは相争う状態。ロシアの南進策により、樺太への圧迫が強まり、現地に居住する日本人の安全が確保できない状態となっている。それだけではなく、やがて北海道にまでロシアの勢力が及ぶ勢いである。これを阻止するためには、戦争は避けがたい状況にある。
 ロシアは強国である。しかし、ロシアはイギリスと、ポーランド、トルコをめぐって一触即発の状態である。従って、断然、ロシアとの開戦も辞せず、断固たる措置をとるべきだ。
 言わんとしていることは、こんなふうなことではなかろうか。

 既に見たように、政変前の1873年9月19日付鮫島宛ての手紙では、岩倉もロシアによる樺太圧迫が緊急課題で、すぐに談判を始めなければならないとの認識を示していたし、10月14日の閣議でもその趣旨の発言をした。ただ彼の場合は、日和見的で当面の弥縫策を考えていたに過ぎなかった(それは1875年5月、千島樺太交換条約として実現される。)。
 一方、西郷の認識は、ロシアの南進は不可避であり、その侵略を阻止するために、強国ロシアとの戦争は避けがたいというところまで追いつめられているという差し迫ったものである。西郷は、イギリスとの連携に言及しているが、ロシアとの戦争を覚悟するということになれば、それだけでは不足があると考えた。

 ここで1875年10月8日付の西郷が篠原冬一郎こと国幹に送った手紙の次の文面を思い起こしてみよう。

 「朝鮮の儀は数百年来交際の国にて、御一新以来、その間に葛藤を生じ、既に五、六ヶ年談判に及び、今日その結局に立ち至りそうろうところ、全く交際これなく人事尽くしがたき国と同様の戦端を開きそうろう儀、まことに遺憾千万に御座そうろう。」

 既に清国とは対等・平等の日清修好条約に締結し、友好協力関係を確立しているが、それに引き続き、朝鮮とも同様の条約を締結し、友好協力関係を確立することが喫緊の課題だ。これによりロシアの侵略と戦うことができる。

 このように西郷は考えたのではなかろうか?


                (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(21)

(明治六年の政変とは一体何だったのか)
―「蜘蛛の糸の巻きあい」の如くもつれた対立と抗争の再確認とその後―


 ここで明治六年の政変をひきおこすことになった「蜘蛛の糸の巻きあい」(大久保の表現)の如くもつれた対立と抗争を再確認しておこう。

① 木戸の急進的改革志向とそれに反発する漸進改革の大久保の対立。
② 留守政府の約束に反した急進改革の推進とこれに反発する使節団主要メンバーの対立、感情のもつれ。
③ 留守政府における旧肥前、土佐藩勢力の台頭、旧長州藩勢力の凋落、旧長州勢力に対する江藤率いる司法省の追及
④ 留守政府が、太政官制を改革し、有司専制の基盤を掘り崩してしまったこと。
⑤ 副島の外交姿勢

 これらは政変の結果、どうなったか。

 ①については大久保のヘゲモニーの確立、木戸のフェイドアウトによって解決を見た。

 ②は使節団主要メンバーの圧勝により決着した。

 ③については旧肥前、旧土佐藩勢力地滑り的退潮、旧長州勢力の復権(大久保の後継者は伊藤という路線も確立した。)、司法省による追及の頓挫により解決した。それにより、井上も槇村も逃げおおせることができた。

 井上は、1873年5月9日、外務大輔を辞職し、政府を去っていたが、1875年1、2月の大阪会議の根回しをして、政府への影響力を確保、1876年2月、江華島事件の処理においては弁理大臣の黒田清隆を補佐する副使となって朝鮮との交渉に当たり、日朝修好条規を締結させるのに貢献した。その後、井上は、しばらく外遊をしたあと、1878年6月、伊藤の要請を受けて参議兼工部卿に就任、翌1879年9月、外務卿へ転任。明治十四年の政変では、伊藤の盟友として、大隈追い落し一役買った。

注:政変直後の11月1日、井上は参議兼工部卿となった伊藤に次のような書簡を送っている。熟読玩味して頂きたい。利権あさりの催促状である。わが世の春を謳歌する井上の顔が目に浮かぶようである。

 「・・・早速ながらわがままがましくそうらえども、工部卿職に対しそうらいて申しあげそうろう。諸鉱山への税御免と□□(破損により不明)鉱山だけは是非とも生(:井上のこと)へおうせつけられたく願い奉りそうろう。また飛騨高山鉱山の儀は小民稼ぎ(小規模経営という意味)に従来の弊多くこれありそうらえども、充分見込みもこれありそうろう山にそうろうあいだ、一応鉱山寮に(工部省の部局である)のものにお引けあげ下されそうらいて、わが会社へお任せ下されそうらえばありがたく存じそうろう・・・」


 山縣は、1873年4月18日、あいつぐ不祥事と自身に対する疑惑の責任をとり、一旦、陸軍大輔を辞職したが、その後間もなく、西郷に救ってもらい、同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理。)に就任(同年6月には正式に陸軍卿となる)、やがて帝国陸軍と近・現代日本の政界に、長州閥という魔物を埋め込むことに貢献することとなった。

 ④については岩倉の閣議決定無視、太政大臣の上奏権の不可侵なる言動により、内閣・閣議を国政の最高意思決定機関とした1873年5月2日改正の太政官職制を失効せしめ、太政大臣(もしくは左右大臣)の上奏権と輔弼専権が再確認された。有司専制は復活した。

 ⑤については、副島の退任により、外交姿勢は転換されることになった。
 副島の外交姿勢というとき、朝鮮への大規模侵攻論だけではなく、外国人の国内旅行の自由を求める諸国との交渉姿勢もその中に入る。安政以来の、修好通商条約では、締約国の諸国民の移動範囲を開港場から10里以内と制限していたが、これを撤廃し、これら諸国民の内国旅行の自由を求める声が諸国外交団から上がっていた。副島は、これを容認することに前向きであったのである(パークスの1873年12月8日付本国外務省への報告)。
 政変後、外務卿に就任した寺島は、11月8日に行われた諸外国代表との会談で、副島の下で煮詰められつつあった「内地旅行規則案」について論議することを拒否した。その弁を確認しておこう。

「(超訳要旨)各国は風俗・文化を異にしている。だから各国民に内国旅行の自由を認めるのは不都合である。治外法権の下でも外国人の内国旅行の自由を認めている国もあるが、わが国は、そうした諸国の経験を研究した上でなければ交渉には入れない。」(日本外交文書第6巻)。

 やがて時代は、明治憲法の制定、国会開設へと進んで行く。この近代日本の立憲政治の草創期が、伊藤のような政治家に道筋をつけられたことは、私たち現代を生きる者にとって幸せであったのか、不幸であったのか、それは現在の政治状況の評価とともに各人各様の考えとなるのであろうが、私は、不幸であったと考える一人である。

 明治六年の政変、明治十四年の政変により、フランス流立憲政治、アメリカ流立憲政治、イギリス立憲政治、いずれにも向かい得る多様な可能性は消去され、プロシア流の疑似立憲政治へと選択肢が絞られた。法律によっていかようにも制限できる「自由」と「権利」、万世一系の天皇の大権、統帥権の独立。その下でわが国は、産業の発展と軍事大国化の道をひた走り、植民地と市場の確保のために軍事力を行使し続ける。気づいてみれば、軍国主義、ファシズムが席巻し、アジア全域を侵略し、世界を相手に無謀な戦争へ突入に突入していた。
 しかし、敗戦によって、その道が完全に断ち切られたわけではない。今も、わが国民は、疑似立憲政治の呪縛から解き放たれてはいないのである。

          (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(20)

(明治六年の政変とは一体何だったのか)

 再び前出の高等学校用教科書を見てみよう。そこには、「征韓論が否決されると西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣らの征韓派参議はいっせいに辞職した(明治六年の政変)」と記述されている。この説明、明治六年の政変とは、征韓論を否決された筆頭参議西郷以下の合計5参議が辞職して下野したことだという説明は、一般に広くゆきわたっているものと思われるが、ここまでお読み頂いた方には、誤りであることはもうおわかりであろう。
 このような説明が誤りであることは、翌1875年5月に征台の役が敢行し、さらにその翌年9月に江華島事件を引き起こした政変後の「反征韓派」の率いる政府の実際の行動が、何ものにもまさって顕著な証明となる。

 あらためて確認しておこう。明治六年の政変とは、以下のようなことであった。

 1871年8月、三条、岩倉、西郷、木戸、板垣、大隈によって構成される政府(大久保は大蔵卿として大きな力をもっていたが、参議ではなかった。)が発足して以来、とりわけ遣外欧米視察団出発以来、急進的改革が累次積み重なり、同使節団全員が帰国した直後の1873年9月中旬の時点で、蜘蛛の糸の巻きあいといった具合に、もつれにもつれてしまった政権内部の対立と抗争を、遣朝使節派遣問題に焦点をあわせ、西郷が用いた「レトリックとしての使節暴殺論」を逆転させ、使節派遣=即時開戦との論をたてて、遣朝使節派遣を延期=拒否し、西郷と西郷を支持する参議らを失脚させることによって、漸進改革の提唱者である大久保を中心とした政権に一新する、同時に、有司専制なる少数者の密室政治を復活させ、確立させる、これが明治六年の政変である。

 狂言回しは伊藤、主役は大久保、脇役は岩倉、ピエロを演じさせられたのは三条、木戸は舞台の袖に立ったものの、間もなくおりてしまう。

注:木戸は、1874年4月、征台の役に反対して参議兼文部卿を辞職、以後1875年1、2月の「大阪会議」後、同年3月に一旦参議復帰、翌1876年3月再び辞職。1877年5月26日、西南戦争のさなか、西郷と政府の双方を案じながら死去。享年45歳
 
 大久保、木戸と、傑物はあい並び立つことはあり得ないとの通則がここでも貫徹したのか、二人は、結局、あい並び立つことはなかった。

 イチかバチかの大ばくちを仕掛けた、伊藤、大久保。勝負は、彼ら胴元側の大勝利のうちに終わった。このときの勲一等により、大久保のあとは伊藤という道筋もつけられ、実際、1878年5月14日、大久保が非業の死を遂げた後、実際、そのとおりになって行ったのである。やがて、伊藤には、名実ともに第一人者となるためには、ひたひたと追走する参議兼大蔵卿大隈を振り切ることが課題となる。それをやりとげるのは明治14年10月のこと、明治十四年の政変である。苦節十年、深謀遠慮、積極果断、まことの策士ここにあり、である。

補遺―明治十四年の政変

 ここで少し脱線するが、明治六年の政変の狂言回し・伊藤という人物評価に関わることであるから、明治十四年の政変について若干解説しておこう。

 1877年2月、鹿児島の郷里に隠棲した西郷を巻きみ、九州地方を戦乱の渦に投じこんだ西南戦争は、同年9月、大久保率いる中央政府の勝利のうちに終結した。しかし、その後遺症はその後の明治政府に重くのしかかる。上述のごとく大久保暗殺もその一例であるが、それ以上に深刻であったのは、西南戦争の戦費調達のための政府財政のひっ迫とインフレ・米価高騰の進行による自作農、中・上層農民の富の富裕化(地租は地価の100分の3、金納であるから、米価高騰による利得は、自作農、中・上層農民の手元に集積する。)と江戸時代と変わらぬ割合の現物納付を強いられる小作農民、賃金・給与、日銭稼ぎの都市生活者(彼らはインフレと米価高騰の直撃を受ける。)など一般人民の生活の窮乏化であった。

① 政府財政のひっ迫に関して言えば、大蔵省部門を管掌する参議・大隈(この時点では、参議、各省長官兼任制度は改められていた。)は、財政積極論の立場から5000万円(当時の歳出予算の8割程度、地租収入の1.3倍)の導入を主張した。これに対して、伊藤は反対であった。しかし、反対派は参議の中では少数派であったため、岩倉を走らせて、問題を天皇の裁可にゆだね、結局、外債不可との「勅諭」を得て、大隈の主張を排斥した。
 それでは財政の手詰まりをどう打開するのか。結局、緊縮財政政策しかないことになる。大隈も一旦は、引きさがり、これに従うことになる。しかし、折からのインフレを追い風に、積極財政をとって殖産勧業を図るべしと考える大隈は、やがて早期に国会開設し、公議輿論を吸収した安定政権を確立し、外債を導入するという方向に活路を見出そうとする。

② 富裕化した自作農、中・上層農民の資金力は、農村を地盤とする民権運動を高揚させ、一般人民の窮乏化は、反政府の機運を高め、これまた民権運動に結集してゆく。1879年11月、板垣退助率いる愛国社は、大会を開いて、民選議院設立請願運動を展開することを決めると、全国津々浦々から、請願運動が澎湃として沸き起こる。民権運動は、これを機に空前の盛り上がりを見せる。

③ こうした民選議院設立請願運動の高まりを見て、政府は、一方で懐柔・譲歩、他方で弾圧、つまりアメとムチの対策をとった。
 アメは、同年12月、伊藤の主導の下に、左大臣有栖川宮熾仁名義で、各参議から国会開設についての意見書提出を命じ、政府主導で国会開設の先鞭をつけようとしたことである。これに応じて提出された各参議の意見は、一部は時期尚早論、多くは漸進論であった。
 ムチは、1880年4月5日太政官布告第12号「集会条例」であった。これは政治集会を許可制とし、所割警察署の自由裁量に近い拒否権を認め、集会開会後であっても立会警察官に解散権限を与え、違反者には罰金、禁獄の罰則が科されるという集会の自由を奪うに等しいものであった。

④ 大隈は、早期国会開設論と立憲政体としてイギリス流の議院内閣制をとるべき固めたが、意見書の提出を控えていた。これにより政府内の対立が先鋭化することを避けようとしたのである。しかし、有栖川宮からの重ねての催促を受けて、意見書の内容を他の参議に明かさないとの約束のもと、ようやく1881年3月に意見書を提出した。
 その内容は、年内に憲法制定、政体は政党本位の議院内閣制とする、翌年末には国会議員選挙、2年後国会開会という急進的なものであった。
 その内容に驚いた有栖川宮は、約束に反して、三条、岩倉に相談、伊藤もその意見書を閲読するに至る。伊藤は憤然として、大隈を切るための陰謀をめぐらし始める。

注:松本清張『象徴の設計』(松本清張全集17・文芸春秋社)の中で、伊藤が山縣自慢の邸宅・椿山荘に山縣を訪れて交わしたやりとりが出てくるので抜粋してみよう。山縣は、このころは参議兼参謀本部長であった。

(伊藤)「狂介、あとはおぬしに頼むよ」と言った。有朋にはなんのことかわからなかったが、伊藤がそれから言いだしたことは悉く彼の胸に響いた。
(伊藤)「今も言うたとおり、大隈は頭の悪い奴じゃが、目先は利いとる。あいつの議論は、みんな若いもんから取って来とる。そこで・・・そこで、俺が考えるには、大隈を台閣に置くと、将来物騒でいけん。いい加減なところであいつを引きずり下ろそうと思っちょる。」
(中略)
(伊藤)「だが、もし、板垣と大隈とが手を握って、全国的に自由民権の火を大きくしたら、こりゃアもうわしの手に負えぬ。そこで、狂介、おぬしが最後の締め括りをしてくれと頼んだのじゃ。おぬしさえ引き受けてくれたら、わしは安心して下野した大隈を生け捕ることができる。
(山縣)「あとを頼むというのは、これのことか?」と山縣は坐ったまま腰のサーベルに手を当てる真似をした。
(伊藤)「そうだ。おぬしにそのほうをしっかり頼んでおきたい。そっちさえ引き受けてくれたら、わしはあんな連中の反政府運動ぐらい水をかける自信は十分にある。」

 伊藤は、山縣に、大隈を切った後、板垣、大隈が共闘して反政府運動が拡大した時、軍事力による弾圧を求める。山縣は、これを引き受ける。なにやら若いころ、江戸・御殿山に新築中のイギリス公使館を焼き討ちした頃のテロリストの姿を彷彿とさせるではないか。私には、このやりとりがフィクションとは思われぬ迫真性をもっているように思えてならない。 

 
 結局、伊藤は全参議を糾合し、再び岩倉と結託し、岩倉をして、折から発生した(北海道)開拓使官有物の払い下げ問題(開拓使の存続期間満了をもって、時価3000万円相当ともいわれた官有物を、わずか30万円で、しかも30年間無利息割賦払いという、現代の森友学園国有地払い下げ問題など足もとにも及ばない巨額の国家財産簒奪事件。開拓使長官が黒田清隆、払い下げを受ける者が五代友厚、いずれも旧薩摩藩出身であることから連日新聞紙上をにぎわした。)で、大隈が情報操作をして、騒ぎを大きくし、早期国会開設の自論を有利に導き、政権基盤を確保しようとしているなどと天皇に讒訴、参議罷免を上奏させるに至った。

 大隈は涙をのんで、同年10月11日、辞表提出、翌日、これを受理するとともに開拓使官有物払下げは取り消し、あわせて「明治23年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志をなさんとす」との勅諭(国会開設の詔)が公布された。

 大隈が追い落とされた翌年、1882年8月5日、戒厳令が制定された(太政官布告第36号)。これはたまたま時期がそうなったものではないことは、衆目の一致するところであろう。

 こうして見ると、明治十四年の政変は、明治六年の政変の規模の小さいリフレインであったといえる。伊藤の奸知がますます冴えわたっているのが見えるようだ。

                               (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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