戦前秘密保全法制 (3)

(2)軍機保護法

その制定経過

軍機保護法案が旧軍機保護法の改正法案として第70帝国議会に提出されたのは1937年2月26日、2.26事件の1年後、盧溝橋に銃弾の音が轟くわずか4か月余り前、時はまさに準戦時から戦時への端境期のことであった。この法案は、海軍省、内務省、司法省の協力を得て陸軍省が作成したものである。

当時の陸軍は、統制派、皇道派の対立抗争を統制派が制し、その説くところの広義国防国家に一路邁進していた。統制派が説いた広義国防国家とは、1934年10月1日、陸軍省新聞班が公表した「国防の本義とその強化の提唱」(いわゆる「陸軍パンフレット」)に明らかにされている。このパンフレットは「たたかひは創造の父、文化の母である」との印象的な章句で始まり、「国防は国家生成発展の基本的活力の作用なり」「国防は必勝の信念と国家主義精神を養い、それには国民生活の安定を図るを要する」とし、①万世一系の天皇を頂く日本固有の国家観念の明徴、②社会政策によって資本主義の修正、国民生活の向上を図る、③軍事産業優先のため統制経済を導入するなど、国家総動員体制と国家社会主義的政策、国民の国防精神を涵養し、高度国防国家をつくることを謳うものであった。

皇道派は国家社会主義、統制派は保守的な軍部強権派という区分けは全くの誤解である。彼らはいずれも同じ目標を持っていた。ただ異なるのは方法論。皇道派は下からのテロやクーデタによる権力掌握を狙い、統制派は陸軍内の要職を占め、組織を固め、上から権力を掌握するというものであった。統制派は懐刀・永田鉄山軍務局長を、1935年8月、相沢三郎中佐による暗殺事件で失ったが、陸軍要路にその勢力を培養しており、皇道派が2.26事件によって自滅するや、完全に陸軍の実権を掌握した。

一方、当時の海軍は、1930年4月、ロンドン軍縮会議で補助艦艇をアメリカとの比率10対7弱で妥結した海軍省首脳とこれを支持する者たち(条約派)と、あくまでも10対7を墨守することを強硬に主張した軍令部を中心とする者たち(艦艇派)が相争う抗争を艦艇派が制して、英米対決、大艦巨砲建造の強硬・軍拡路線を志向していた。

このように陸軍、海軍ともに軍国主義、軍備拡大、対外強硬路線派が制し、度重なるクーデタ未遂事件、血なまぐさい要人テロを背景に、軍部ファッショ・戦争路線に大きく傾いていたのであった。

これに対し、最後の抵抗ともいうべき政治的事件が起きた。1937年1月、広田弘毅内閣の総辞職を受けて、軍部ファッショと戦争路線に反対する政友会、民政党は、退役していた宇垣一成元陸軍大臣・前朝鮮総督を担ぎ出そうとした。宇垣も反軍部ファッショの覚悟を固めて、出馬の意思を表明、天皇から宇垣に組閣の大命が降下された。ここに反軍部ファッショ・平和の人民戦線「的」内閣の成立が日の目を見ようとした。しかし、実に、このとき無産政党の社会大衆党は、陸軍の進める広義国防路線を勤労大衆の生活向上を目標とし、社会主義的なものであると賛美して陸軍と結び、宇垣内閣の成立に反対するという決定的な誤りを犯してしまった。
陸軍は宇垣内閣には陸軍大臣を出さない強硬策で、宇垣内閣構想をつぶしてしまった。宇垣内閣は幻と消え、かわって陸軍の支持を得た林銑十郎元陸軍大臣(満州事変の朝鮮軍司令官。朝鮮軍を独断動員した越境将軍の異名をもつ。)が、同年2月2日、組閣を了したのである。

このように軍機保護法案は、軍部、とりわけ陸軍の輿望を担って登場した林内閣の手により、帝国議会に提出されたのであった。軍機保護法の解説書によるとその制定の理由として以下の説明がなされている(日高巳雄「軍機保護法」1937年)。

「近代における戦争が国家の総合力を動員する広義国防国家に在することは周知の事実にして之に伴い平戦両時に亙りて保護を必要とするもの亦往昔の比にあらず」

これは少しよそ行きの説明になっており、わかりにくい。もう少しわかり易い説明がある。1936年6月、陸軍次官梅津美治郎から内閣書記官長藤沼庄平宛に出された「国防上の機密に関する件」と題する通達である。そこには「将来戦における勝利の要諦は武力戦を主掌する軍が平時より営々として戦争準備を怠らざるが如く思想戦、経済戦を主掌する官民亦孜々として之が対策を考究準備し一朝時の時一糸不乱各最大能力を発揮し以て敵国を覆滅するに在り」として、軍機保護を一層徹底させることと、新たな軍機保護法の制定を要請した。つまり来たるべき戦争は、武力による戦争だけではなく、思想戦争、経済戦争を伴う総力戦であり、そのために新たな軍機保護法が必要だと言うのである。

第70帝国議会提出された軍機保護法案は、貴族院軍機保護法改正法律案特別委員会で審議を終えて衆議院に送付されたが、審議に入ることなく、同年3月31日、会期末を迎え、審議未了となった。

ところで林首相は、1937年度予算案が可決されたにもかかわらず、しかも政党基盤のない軍部内閣のため何らの政争もないにもかかわらず上記議会最終日に衆議院解散に打って出た。衆議院総選挙の結果は、民政党、政友会ともにほぼ現状維持、無産政党の社会大衆党の躍進という皮肉な結果であった。この結果をとらえて今こそ反軍部ファッショ人民戦線の結成をと呼び掛ける声も一時高まったが、社会大衆党の誤りは是正されず、日中戦争への突入により、その声は逼塞することとなってしまった。

さて軍機保護法案は、林内閣の総辞職、近衛文麿第一次内閣成立と慌ただしく動いた政局を経て、同年7月25日、新たな構成のもとに開会された第71回帝国議会に再提出され、貴族院同特別委員会で審議を終え、同月30日から衆議院同特別委員会で審議された。可決成立したのは同年8月8日である。法案が帝国議会に係属していた期間は暦日数にして49日間である。

この軍機保護法案の審議は、異例のスピード審議であったと評されている。それは、準戦時、戦時と軍部ファッショの時代であったから、そうなんだと妙な納得の仕方もある。しかるに我が特定秘密保護法においては、2013年10月25日に衆議院に提出され、11月26日には強行可決、参議院送付後12月6日には強行可決で成立、国会に係属していた期間は暦日数でわずかに43日間に過ぎない。しかも我が特定秘密保護法は、既存の秘密保護法の改正案ではなく、戦後はじめての包括的秘密保護法である。この異常な超スピード審議を一体どのように理由づけることができるであろうか。
(続く)
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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