立憲君主制と象徴天皇制の間 (5)

津田博士や石井博士は、戦前、天皇制国家から排斥され、もしくは天皇制国家と距離を置いていた。このお二人に対して、東京大学で倫理学を講じていた和辻哲郎氏は、1937年、文部省が発行した国民教化のための文書「国体の本義」の編纂に関与するなど、神格化された天皇・天皇制国家の国体を推進した立場であった。その文書では、個人主義を排撃し、国体の尊厳、天皇への絶対服従が説かれていた。それは全国の学校や官庁に配布され、国民を精神的・思想的に戦争に動員する武器となったのである。

その和辻氏が、戦後いちはやく変身を遂げ、大要以下のように説いて、日本国憲法における象徴天皇制を擁護した(和辻哲郎「国民統合の象徴」勁草書房 1948年)。

明治以前の天皇は久しく統治権の総覧者ではなかった。このことは明治維新の頃人々が単純に認めていたことであって、それを示すのが「王政復古」という標語である。
天皇の元来の呼称である「スメラミコト」という言葉は、天皇の伝労的な権能である「統一する」ことを表していた。日本国憲法に用いられる「日本国民統合の象徴」という言葉と同一である。
その統一とは、政治的な統一ではなく文化的な統一である。日本のピープルは言語や歴史や風習やその他一切の文化的活動において一つの文化共同体を形成してきた。日本のピープルは、その中から統一意識をはぐくみ、統一のシンボルとして尊皇の伝統を築いてきた。日本国憲法は、その伝統を明記したに過ぎない。
 
学者の言説の自由は断固として守らなければならない。しかし、変説をしたのであれば、その理由を開示するとともに、自己の従前の言説によって影響された歴史の顛末になにがしかの釈明が必要ではないか。読み手は、それを欠く学者の言説に重きを置かない自由を持つこともまた当然である。和辻氏に比べると、戦前、絶対主義的天皇制を基礎付ける憲法学説を講じ、その立場から日本国憲法に定める象徴天皇制を批判した憲法学者佐々木惣一氏は、それなりに一貫しており、まだ信を置けると言えようか。

戦前、天皇制国家の最もラジカルな批判者であり、これに果敢に挑み、壊滅を喫したのは、日本共産党であった。日本共産党のいわゆる32年テーゼは次のように述べていた。

日本において1868年以後に成立した絶対君主制は、その政策は幾多の変化を見たにもかかわらず、無制限の権力をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧及び専横支配のための官僚機構を間断なく造り上げて来た。日本の天皇制は、一方では主として地主という寄生的封建階級に立脚し、他方ではまた急速に進みつつあった強欲なブルジョアジーにも立脚し、これらの階級の頭部ときわめて緊密な永続的ブロックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級の利益を代表してきたが、それと同時に、日本の天皇制は、その独自の、相対的に大なる役割と、えせ立憲的形態で軽く粉飾されているに過ぎないその絶対的性質とを、保持している。自己の権力と自己の収入とを貪欲に守護している天皇制官僚は、国内に最も反動的な警察支配をしき、国の経済および政治的生活においてなお存在するありとあらゆる野蛮なるものを維持するために、その全力を傾けている。天皇制は、国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓の主要支柱である。天皇制国家機構は、搾取階級の現存の独裁の強固な背骨となっている。その粉砕は日本における主要なる革命的任務中の第一のものとみなされねばならならぬ。

なんと辛辣に戦前天皇制国家の特質を言い当てていることだろうか。私は、あの時代にかくも優れた知性と論理をもった集団が、この日本にいたことを誇りに思う。しかし、戦後、日本国憲法が存置した象徴天皇制は、もはやこのような批判が妥当する余地はなくなった。ただ、それではそのまま肯定していいだろうか。
私は、肯定できない。その理由を、以下の行論において、順次、述べていきたい。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (4)

津田博士とはやや異なる構成ながら、日本法制史の大家、石井良助博士も、戦後いちはやく、かねてからの自説であった「天皇不親政の伝統」に、新たに「刃に血ぬらざるの伝統」を追加・補充し、象徴天皇制原則こそ天皇制の伝統回帰だとして理論的に位置づける一連の労作を発表された。
今、私の手元にある「天皇 天皇の生成および不親政の伝統」(講談社学術文庫)をひもといて、石井博士の所説を見てみよう。

紀元前1世紀ごろ、日本の状況は「漢書 地理志」の短い記述、青銅器の分布状況から、九州を中心とする小国家群(銅剣・銅鉾文化圏)と、近畿を中心とする小国家群(銅鐸文化圏)とが対立していたと考えられる。紀元1世紀ころには、「後漢書」の記述により九州を中心とする小国家群の統合が進展していた様子がうかがわれる。一方、そのころ近畿でも統合が進んでいただろうと思われる。その中心は邪馬台国であったと考えられる。紀元2、3世紀になると、青銅器にかわって鉄器の使用が一般化し、二つの文化圏の統合が進行する。その統合者となったのが邪馬台国であり、その女王・卑弥呼であっただろうと思われる。それはいわゆる3世紀半ばの日本事情を書いた「魏志倭人伝」を根拠とした推論であり、古墳の考古学的研究からも裏付けられる。

「魏志倭人伝」の記述から、女王卑弥呼の任務は神の意思を「知る」ことにあったと考えられる。天皇の支配を「しろしめす」と言うのはここに由来する。そして神意を述べることを当時の言葉で「のる」と言い、これが後に天皇の「みことのり」になる。しかし、神意を知り、それを「のる」だけで支配できない。そこに外部に伝え、威令を遍く行き渡らせる者、当初は「男弟」、後には重臣が必要とされる。卑弥呼、後に天皇は、神意を知り、それをみことのりする、そして重臣が実際にはこれ執行する。天皇は「不親政」なのだ。

卑弥呼は3世紀半ばに死に、一族の女、台与があとを継いだが弱体化が進む。その機に北九州の一国、おそらく「奴国」の長が、東遷し、平和的に邪馬台国の王の地位についた。それが第10代とされる崇神天皇である。記紀の表記で、崇神天皇は「はつくにしらすすめらみこと」とされているのは、そのことを意味する。一方、台与は、記紀の表記では「豊鋤入姫命」で、崇神天皇の皇女とされているが、実際には、姥(祖父の姉妹)として崇敬の対象とされた。
 
崇神天皇は、かくて近畿、北九州を統合する邪馬台国=大和の王となり、四道将軍を派遣し、宗教的威力をもって刃に血を塗ることなく、周辺諸小国を服属させていく。
    
このように漢書、後漢書、魏志倭人伝、古事記及び日本書紀の記述と考古学的知見に基づいて上代の歴史とその支配構造の論述が続く。上代において既に「天皇不親政」、「刃に血塗らざる」は確立し、我が国天皇の伝統となったと言うのである。そしてその後の歴史を通覧し、以下のように述べる。

前記の諸変遷のなかにおいて、天皇親政が標榜され、かつ行われたのは奈良時代を中心とする上世と近代だけである。ところが、この両時代とも、外国法継受時代である。上世はすなわち中国より律令制度が輸入された時代であって、我が国の全制度は中国化されたのである。そこに成立した天皇制は中国式天皇制であり、当時の天皇は中国式の皇帝であった。明治初年において天皇親政が強調されたが、それは王政復古が標榜された時代であり、太政官政治時代であり、当時の天皇はいちおう律令的な天皇の復活と規定しうるのであるが、やがて採用された立憲制度における天皇制は、明瞭にヨーロッパ、ことにプロシア流の皇帝を模倣したものである。ここに成立したのはプロシア的な天皇である。

かくして石井博士にあっては、日本国憲法の象徴天皇制は、まさに我が意を得たりというわけである。私は、石井博士の見解もなにやら現実離れをしているように思う。しかし、津田博士にしても、石井博士にしても、論理的に反駁するとなるとこれはなまなかなことではいかない。今すぐにはとても無理だ。しかし、あと数年の余裕をもらえればある程度の反駁ができるのではないかと心に期すものがある。人の上に人をつくる制度、人の外に人をつくる制度は民主主義とは相容れない。このままほっておくわけにはいかないのだ。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (3)

平沼赳夫氏の父、故平沼騏一郎氏は、大正年間に、検事総長、大審院院長、司法大臣を歴任し、司法界において重きをなした。騏一郎氏は、国粋団体・国本社の総裁も務め、ファシズムを推進、枢密院議長を経て、1939年1月、大命降下を受けて首相となり平沼内閣を組閣した。これは近衛文麿が日中戦争を泥沼化させて解決の目処のないまま投げ出した第一次近衛内閣の後を受けてのことだった。

平沼内閣は、日独伊三国同盟締結を求めて漂流し、同年8月、独ソ不可侵条約締結によって日独伊三国同盟への道が頓挫すると、「欧州情勢は複雑怪奇なり」との平沼声明を発し、さしたる成果もないままに内閣総辞職により退陣した。

騏一郎氏は、1940年7月に組閣された第二次近衛内閣において、内務大臣の任についた。その騏一郎氏が、1941年2月11日、紀元節において、小学校の教員らを前にして次のように演説した。

日本の国体は世界でも唯一無比のものであります。天照大神はニニギノミコトを、子々孫々、万世にわたり日本を統治せよとのみ言葉とともに、大和の橿原(ママ)に天降りさせたのであります。初代の神武天皇が即位されたのは2601年前のこのよき日に当たります。外国王朝は人が始めたものに過ぎません。外国の王や皇帝、大統領などはすべて人がつくったものですが、日本には皇祖から連綿と続く聖上があらせられます。したがって、天皇の統治は天から継続したものです。人のつくった王朝ならいつかは途絶するかもしれませんが、天のつくった皇位は人の力を超えているのであります。(ケネス・ルオフ「国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制」・岩波現代文庫から引用)

明快に万世一系の天皇制を解き明かしている。なんと単純でファナテッィクナ考え方であろうか。まさに狂気の時代である。

この年11月、津田左右吉博士は、そのファナテッィクな思想の虚構性にほんのわずかな光をあてたばかりに、公判に付された。1940年に、津田博士の主著「神代史の研究」、「古事記及び日本書紀の研究」、「日本上代史研究」及び「上代日本の社会及び思想」の4冊が発禁となり、これらの著作は皇室の尊厳を冒涜するもので出版法違反にあたるとして起訴されたのであった。1942年5月に宣告された判決では禁固3月(執行猶予付き)とされたが、検事控訴中に時効完成したため1944年に免訴となった。

津田博士がこのファナティックな神話にあてた光とは、古事記、日本書紀に厳密かつ合理的な史料批判を加え第14代仲哀天皇以前の記述は歴史的事実ではないということを論証したことであった。このようなことが犯罪として特高警察と思想検事の厳しい取り調べを受け、公判に付される時代があったことを私たちは決して忘れてはならない。

津田博士は、戦後まもなく早稲田大学総長に選ばれたが、自分はその任にあらずとこれを固辞し、一学究の徒としての生涯を終えた。まことに尊敬すべき人だ。一方、かの演説を行った騏一郎氏は、A級戦犯として東京裁判の被告人とされ、終身刑の宣告を受け、獄中で死去した。

その津田博士が、新憲法制定論議の一つイッシューとなった天皇制問題について、創刊間もない雑誌「世界」の編集部から、天皇制批判の論陣を張ることを期待されて執筆依頼されて書いたのが「建国の事情と万世一系の思想」であった。

尊敬する津田博士の説くところだからきちんと整理しておこう。

古事記や日本書紀の記述は、歴史家自らが史料批判を行い、歴史に構成しなおす必要がある。それはいまだ確定したものはないが、私案を提示する。これは私案ではあるが一般世間に提示するだけの自信はある。
日本国家の形成は、日本民族によってなされた。それは長い歴史的過程を経て徐々になされたものである。
先史時代には多くの小国家が分立し、それぞれに宗教的権威をもつ君主がそれぞれの小国家を統べていた。それら小国家の一つがいくつかを小国家を統御する形態のものもあったようだ。
日本民族の存在が世界的意義を持つようになったのは、九州西北部の小国家に属する者が、朝鮮半島西北部に進出していた漢人と接触したことが始まりだった。彼らは漢人から絹や青銅器などの出種々の工芸品や知識を得、漢の文物を学ぶようになった。紀元前1世紀末ころことだ。九州西北部の小国家群は、1世紀、2世紀と漢人との交流を深め、やがて鉄器の使用、製作をするようになり、3世紀になると、邪馬台国が九州西北部の諸小国家を統御する力を持つに至った。
九州西北部の小国家群が得た文物、知識、技術は瀬戸内海を通じて近畿地方にも伝えられ、1~2世紀頃には近畿地方に文化の一つの中心がつくられ、そこを領有する政治的勢力が存在するに至ったと理解できる。その政治的勢力こそ皇室の祖先を君主とするものであった。豊かな平野、地勢と交通の要衝を押さえていたことからその政治勢力が近隣の小国家を統合し、西に東にその勢力を広げ、3世紀になると出雲の勢力も服属させた。九州西北部の邪馬台国などを服属させたのは、4世紀に入って、中国大陸東北部で遊牧民族の活動が活発化し、政治的混乱が起こってこれら九州西北部の諸国家が弱体化した機に乗じてことであった。九州西北部を服属させるや、大和の勢力は朝鮮半島に進出して文物、知識、技術を採り入れ、より優勢となって5世紀には九州全部、中国・山陰地方、近畿地方から関東地方に至る大和国家と大和朝廷(以下単に「大和国家」という。)が形成された。
このように日本の建国は際立った事件によって特徴づけられるわけではない。敢えて言えば皇室の祖先が、近畿地方にあった一小国の君主となったときであるが、その時期を特定することはできない。だからいわゆる神武東征の物語は歴史的事実ではない。大和国家形成過程においては、武力を用いることは稀で、その君主に伴う宗教的権威や地方小国の君主を国造・県主として包摂する政策によって服属させていったものと考えられる。さらに大和国家の勢威が増大するにつれて、諸小国の君主は自らの勢力を温存するために服属することも多かったと考えられる。
大和国家の皇室が5世紀には不動の地位を得るに至ったのは以下の事情が考えられる。

①皇室が日本民族から起こり、次第に周囲の小国家を主として武力によらない方法で服属させていき、これら小国家の君主を国造、県主として包摂したこと。
②異民族との戦争がなかったこと。
③上代には政治らしい政治、君主の事業らしい事業がなかった。後にこれは変化が生じるが、その場合も天皇は政治の局にはあたらず、朝廷の重臣たちが相諮って処理したこと。
④天皇に宗教的の任務と権威があったこと。天皇は普通の人だが、日常の生活が呪術や祭祀によって支配されていた当時においては、呪術を行う人、祭祀を行う人として精神的権威を獲得した。
⑤朝鮮半島を経て流入した文物、知識、技術を最も多く利用できたのは朝廷であったから、おのずから文化上も卓越した威厳を獲得し、そこを中心に文化的生活の位階が生じ、また朝鮮半島への進出に伴い、朝廷周辺の権力者に民族的感情を呼び起こし、その感情の象徴として皇室を仰ぎ見る態度が生じてきたこと。

このようにして皇室が不動の地位を固め、長く存続してきたことにより、未来に向けて皇室を永続させようという欲求と義務感が朝廷周辺の権力者に生じてくる。それが起源説話を生み出す機縁であり、皇室の権威を高めるために、6世紀のはじめ頃、大和国家の起源説話がつくられた。
6世紀以後においても、天皇は、原則として政治に局にはあたらず、いわゆる親政が行われたのは例外的事象であった。摂関、幕府などの権家の威勢は永続せず、やがて没落しても、政治の局には立たない皇室は永続してきた。皇室は権家に対して精神的権威を持ち、家長である天皇の保有する皇位の永久性を確立した。承久、建武の覇権獲得の動きは例外かつ一時のできごとであった。
時代が下り、皇室が不動の地位を得た事情のいくつかは消滅し、天皇は、実際政治から遠ざかり、権家との関係ではむしろ弱者の位置に置かれることになったが、精神的権威として崇敬は、民衆の間でむしろ高まった。明治維新は、幕府から政治的権力を奪い、天皇に権力を移し、天皇親政を目指した運動であった。幕府と封建諸侯が消滅すると、立憲政体により天皇親政をむしろ抑制しようという考え方も生じたが、藩閥は、逆に天皇を国民の上に君臨する絶対的権力者とし、かつこれまで権家が保持していた軍事の権を、一般国務に優越するものとして天皇に帰属せしめた。国民は、天皇に親愛の情を抱くよりは、その権力と威厳に服従するように仕向けられた。学校教育の場でも、万世一系の天皇を戴く国体の尊厳が教え込まれた。しかし、国民の間には、なおも天皇を精神的権威として見、天皇に対する崇敬の念、親愛の情の表出が見られた。昭和に至り、軍部及びそれに追随する官僚がそれをも押さえ込み、現代人の知性に適合しない極端な思想を強制した。
敗戦により、戦争の艱難辛苦を天皇に帰せしめ、天皇制廃止を主張する者が生じている。天皇の存在は民主主義と相反するとの主張もある。しかし、天皇は国民的結合の中心であり、国民的精神の生きた象徴である。

これを読むと、なんと主観的・観念的・空想的な主張であるかと思うであろう。私もそう思う。世界編集部もそう思ったのであろう。世界編集部は、津田博士への手紙で「彼ら(国体護持を唱える国粋主義者たち)は、先生のような国史のご研究から皇室擁護の結論が出るとは夢にも考えておらないにちがいありません。」と書いている。編集部とのやりとりで津田博士は明治時代の産物である天皇制を支持するものではないことを釈明したが、上記整理した津田博士の主張からそれは当然のことである。

それにしても精神的権威・国民統合の象徴としての天皇なる国民意識は、果たして万古不易、日本国民に共通する心情であろうか。確かに津田博士の上記主張の行間には津田博士の、古事記、日本書紀の豊富な研究と歴史研究の成果が凝縮されており、重みがある。しかし、私は、納得がいかない。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (2)

今日は、建国記念の日だ。

「国民の祝日に関する法律」第2条によると、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と、その趣旨が定められている。同条は、「国民の祝日を次のように定める」として、「元日」から天皇誕生日まで14ケ日の祝日を定めている。そのうち唯一、「建国記念の日」だけが、法文自体からは日が特定できず、「政令で定める日」とされている。

日本書紀で神武天皇即位の日とされている日が紀元前660年2月11日にあたるそうで、1873年10月14日、太政官布告第344号により、その日を紀元節とし、我が国第一の大祭日とされた。万世一系の天皇神話である。

日中戦争が泥沼化し、戦時下で物資が不足し、さまざまな統制が強まり、対英米関係も険悪化しつつあった1940年は、何もなければ東京オリンピックや万国博覧会が開催される計画があったが、全て中止。かわって同年11月10日には、紀元2600年の大式典が行われ、人々はつかのまの憂さ晴らしをしたという。紀元2600年、それはまさに壮大なる虚構であった。

敗戦後の1948年7月、片山内閣は「国民の祝日に関する法律」を制定した。当初の法案には、2月11日を「建国の日」とすることが盛り込まれていたが、GHQ民間情報教育局(CIE)宗教課の介入により、削除された。その後保守派・右派から執拗な紀元節復活運動が展開された。それを受けて政府は「国民の祝日に関する法律」改正案、つまり「2月11日を建国記念日」と定める改正案を、9回にわたり提出、その都度廃案となるという繰り返しが続いた。

1966年6月に至り、紀元節から切り離し、「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であると解釈できるようにし、附則において、具体的な日は、各界の有識者から組織される審議会に諮問し、その答申をもとに政令で定めることにして、ようやく改正案が成立した。それが現行法である。

ただちに建国記念日審議会が総理府に設置され、約半年の審議を経て、「建国記念の日」の日を「2月11日」とする答申が、1966年12月、時の政府・佐藤内閣に提出された。佐藤内閣は、ただちに「建国記念の日は、2月11日とする。」とする旨の「建国記念の日となる日を定める政令」(1966年政令第376号)を定め、即日施行した。

はじめての建国記念の日は1967年2月11日であった。私は、当時大学2年生の最後の時期を送っていた。学生自治会が、同盟登校を呼びかけ、その呼びかけに応えて雪のそぼ降る中を多くの学生が登校したことを記憶している。

偶然のめぐりあわせであろうか。昨日、津田左右吉博士が創刊間もない雑誌「世界」編集部の求めに応じて書いた論文「建国の事情と万世一系の思想」を読んだ。1946年4月号に、論文をレヴューして驚いた編集部が津田博士宛に差し出した手紙の写しとともに載せられたいわくつきの論文である。
その紹介は明日することにしよう。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (1)

これからしばらくの間、「立憲君主制と象徴天皇制の間」と題して、天皇や天皇制に関することを思いつくままに書いていくことにしようと思う。

私が、天皇や天皇制について、ちょっと突っ込んで考えてみようと思ったのは、昭和天皇独白録を読んでからだ。独白録は、1928年6月の張作霖爆殺事件に関連する田中義一首相とのやりとりに始まり、1945年8月14日ポツダム宣言受諾決定に至る約17年間のできごとを昭和天皇が回想して側近に語り、これを記録した文書である。

1946年2月から脳出血で倒れるまで2年程の間、宮内省御用掛として、昭和天皇に仕えた故寺崎英成氏の遺品中から発見され、遺族の希望で公開されたものである。初出は、文藝集住1900年12月号であった。現在は、文春文庫となっているので手軽に読める。

独白録は、読み物として非常に面白い。だが、面白いと言ってすましてしまうわけにはいかない重大な問題を含んでいる。

独白録は以下の文章で締めくくられている。

開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむを得ぬことである。もし己が好むところを裁可し、好まざるところを裁可しないとすれば、これは専制君主となんら異なるところはない。終戦の際は、しかしながら、これとは事情を異にし、廟議がまとまらず、議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族のために、私が是なりと信ずるところに依て、事を裁いたのである。
今から回顧すると、最初の私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起こったくらいだから、もし開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。
(中略)
 私がもし開戦の決定に対して「ベト―」をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命の保証もできない、それはよいとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、はては終戦も出来かねる始末となり、日本は滅びることになったであろうとおもう。
     (注:ベトー veto=拒絶)

昭和天皇は、立憲君主制をよりどころにして戦争責任を否定し、かりに日米開戦を拒絶をしていたら内乱勃発で、とんでもない事態になっていたであろうと開戦を承認したことをむしろ正当化しているのである。

明治憲法では、一般国務については国務各大臣が天皇を輔弼しその責任を負うと規定されているが(第55条)、統帥権の独立(第11条)と宣戦講和の大権(13条)が認められている。憲法上は、立憲君主というよりは専制君主に近いし、とりわけ昭和期に入ると神格化され、実態的にも到底立憲君主とは言えなくなっている。

私は、このような昭和天皇の弁明がはたして成り立つであろうか疑問に思った次第である。

戦前秘密保全法制番外編

1 刑法第1編「総則」第7章・第42条では自首は「その刑を減軽することができる」と定められている。即ち、自首は、任意的減免事由とされている。これは全ての犯罪に共通して適用される規定で、自首することにより犯罪の発覚を早めることにより被害をできるだけ小さくし、社会的不安をなくし、捜査を容易にするなどの刑事政策的理由を挙げる説、改悛の情を示すものであり責任非難の程度を減少させることを理由に挙げる説、あるいはその両者だという説がある。

私は、責任非難の程度は犯罪行為そのものについて評価されるものであり、事後の行為でそれが減少するというのはあり得ないと思うので刑事政策説に軍配をあげる。

2 ところでわが特定秘密保護法第26条は、特定秘密漏えい及び特定秘密不正取得の各未遂罪、特定秘密漏えい及び特定秘密不正取得の各共謀罪について、自首したときは「刑を免除し、又は減刑する」と定めている。

現行刑法典を見ると、内乱の予備・陰謀罪(刑法第78条)及び内乱(予備・陰謀を含む)の幇助罪(刑法第79条)について暴動に至る前に自首したときは刑を免除する(刑法第80条)、(外国に対する)私戦の予備・陰謀罪について自首したときは刑を免除する(刑法第93条)、身代金目的略取誘拐予備罪について実行に着手する前に自首したときは減刑又は免除する(刑法第228条の2)との規定が置かれている。

これらでは自首は、必ず免除もしくは減刑又は免除される、即ち必要的免除もしくは必要的減免事由とされているのである。

刑法典以外にも多くの法律で、自首は必要的減免事由とされている。中でも特別防衛秘密に関する日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法第6条、防衛秘密に関する自衛隊法第122条第5項、合衆国軍隊の秘密に関する、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法第8条も、自首を必要的減免事由としていることが注目される。

また戦前秘密保全法制の三本柱、軍機保護法、軍用資源秘密保護法及び国防保安法についても、いずれも自首を必要的減免事由とする規定が置かれている。

3 これら必要的減免規定についても表向きの理由は、上述の刑事政策的理由によるものとされるであろう。しかし、とりわけ治安立法では、おとり捜査(「アジャン・プロヴォカトゥール=訴追する司法巡査」)的に悪用される危険性を孕んでおり、十分な注意が必要である。

戦前秘密保全法制 (10)

まとめ

明治以後太平洋戦争に至るまでの我が国の、外への侵略と内への軍国主義・国民抑圧の体制確立の歴史を駆け足で眺めながら、その流れの中に秘密保全法制の生成、発展、完成の推移をプロットし、その中心をなす三本柱である軍機保護法、軍用資源秘密保護法及び国防保安法の概略を説明してきた。

これら三本柱のうち軍機保護法についてはその適用状況、具体的事件等が比較的解明されており、一定の考察を加えることができた。しかし、軍用資源秘密保護法と国防保安法については適用状況、具体的事件等があまり解明されておらず、きちんとした考察を加えることができなかった。それがやや心残りである。さらに研究を続け、他日の完成を期したいと思う。

さて戦前秘密保全法制を検討してみて、多くの貴重な教訓が得られた。我が特定秘密保護法を検討する際に大いに参考とすべきであろう。

これらの教訓は、行文中において逐次述べてきたつもりであるが、整理して以下に摘記しておくこととする。

①秘密保全法制は戦争に備えて軍隊と軍備を整備するのと並行して制定され始めた。

②当初は、当面の要請に応える形で、バラバラに法令が制定され、適用対象者・秘密の範囲・適用されるべき時と場合などは比較的限定的であったし、犯罪とされる行為態様も最小限度のもので、その上それに科される刑事罰も比較的軽かった。

③戦争の準備と開始は、秘密保全法制を成長、増殖させる梃となる。秘密保全法制は、さらに戦争拡大の勢いと正比例して成長、増殖する。適用対象者・秘密の範囲もどんどん拡大して行き、最終的には秘密とはおのずから定まっているという「自然秘」なる概念に行き着くことになる。

④犯罪とされる行為も次第に細分化され、網羅的となり、その上それに科される刑事罰も重罰化され、死刑、無期懲役まで科されるようになる。

⑤刑事手続にも特例がもうけられ、捜査官の強制権限が強められる。とりわけ裁判手続が簡略化され、弁護人は司法大臣の認可した弁護士に限る、弁護人は公判で国家機密、軍事上の秘密、軍用資源秘密等について陳述できないなど被告人の防御権が著しく制限されるようになる。

⑥警察・憲兵による国民に対する支配と監視の目が網の目のように張られていく。警察・憲兵は、思想的に問題あると思われる者、まつろわない者、あるいは外国人などをマークし、些細な口実をもうけて干渉する。警察による濫用がひどくなり、秘密を認識して探知収集した、あるいは秘密を認識して漏えいしたなどとは到底言えないような事件で検挙され、挙句の果ては事件の捏造により重罰が科される。

⑦こうしたことによって、報道機関は政府・軍部の広報機関となり、国民は、目と耳は塞がれただけではなく、報道機関も国民も、戦争に協力・加担するように思想動員されて行った。

以下は、特定秘密保護法が強行成立させられた2013年12月6日に、私が書いた文章である。

多くの人々がまなじりを決して国会を包囲している。この空前の民衆の民主主義を求める高みを何にたとえるべきか。民衆はたとえ特定秘密保護法が成立しても反逆する力を確実に獲得した。灰塵の中から現代のリヴァイアサンは蘇る。
傲慢な自民党、哀れな仔羊公明党。見よ、勝ち誇った顔が凍り付いているのを。
私たちは負けない。私たちには敗北という言葉はない。何故ならつねに蹉跌を乗り越える勇気があるからだ。一時の結果をものともしない継続する志があるからだ。彼らはそのことに気づかず、すぐに勝ち誇る。しかし過ぎ去った歴史は、彼らこそ歴史の屑籠に捨て去られる運命にあることを示しているのだ。
安倍政権は走り続けなければこける悲しき一輪車。国家安全保障戦略・新「防衛計画の大綱」の策定、国家安全保障基本法の制定、憲法改正へと、周辺諸国を攻撃する能力を高め、集団的自衛権容認で米国とともに世界で戦争をする国づくりに狂奔するだろう。原発も福島事故前へと逆コースを鮮明にするだろう。
特定秘密保護法案反対の声を上げた多くの国民は、これに立ち向かう力を獲得した。きっとこうした安倍政権の暴走の前に立ちはだかるだろう。一輪車は簡単に止められる。特定秘密保護法案強行可決は、安倍政権の崩壊のはじまりだ。

特定秘密保護法を廃止しなければ、戦前秘密保全法制への胎動が始まる。しかし、今、人々は、これを廃止する知恵と力を身につけたと私は思いたい。
                                     (了)

戦前秘密保全法制 (9)

今日は国防保安法を説明する。少し長くなり、面倒な話が多くてわかりにくいかもしれないが、ご辛抱のほどを。あとは明日まとめをしてようやく完結となる。

国防保安法
 
制定経過

政府が、国防保安法案を帝国議会に提出したのは、1941年1月29日、第76帝国議会であった。衆議院で先議され、本会議で可決されたのが翌2月8日、貴族院に送付されて同本会議で可決成立となったのは同月27日、軍用資源秘密保護法と同様に、審議に要した期間はわずか1ヶ月であった。

実は、同年3月、本法より10日余り後に、改正治安維持法も成立し、同年5月、本法の5日後に施行されている。治安維持法は、1928年、帝国議会に最高刑死刑とする改正案が上程されたが、審議未了・廃案となり、緊急勅令の立法形式で同じ内容の改正されていた。1941年の改正治安維持法では、全般的にさらなる重罰化、禁錮刑をなくし懲役刑への一本化(政治犯を強盗、殺人などの一般犯罪と同一視することになる)、「国体の変革」を目的とする結社を支援する結社禁止及び「組織を準備することを目的」とする結社(準備結社)禁止し、これを罰する新たな犯罪類型のもうけたこと、これらとあわせて、刑事手続について、刑事訴訟法の特例を設けたこと、とりわけ同法違反事件の審理を二審制としたこと、刑の執行を終えても予防拘禁制度をもうけて予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)とし、永遠に社会復帰を阻むことができるようにしたことなど、重大な改正が行われた。

本法案は、国家秘密を包括的に対象とし、死刑を含む重罰規定まで定め、かつ改正治安維持法と同様、刑事手続の重大な特例を定めるという特大の重要法案であったにもかかわらず、このようなるのに、さしたる議論もなく通過してしまうほどに審議が形骸化してしまった帝国議会は、もはや議会の名に値せず、軍部独裁にお墨付きを与えるだけのお飾り機関に転落していたと言わざるを得ない。それもそのはず前年3月には斉藤隆夫議員の反軍演説・除名事件があり、10月には、大政翼賛会発足、もはや自由な議論は存在しなくなっていた。
なお本法が施行されたのは同年5月であった。

本法の制定理由は、貴族院本会議で政府を代表して行われた柳河平助司法相の以下の説明に尽きるであろう。
・近代戦は国家総力戦。諜報・宣伝・謀略等の秘密戦が、各地各方面に亘って行われている。
・敵性国家は、軍事のみならず、外交、財政、経済等各方面に亘る国家の重要機密など、広範囲に国力を探知収集している。
・軍機保護法その他軍事上の秘密を保護すべき法規は存在しているが、広範囲に亘る国家の重要機密を保護すべき法規、並びに外国の行う宣伝、謀略を防止すべき法規が不備であり、対抗策が必要である。

内容

第一に保護される秘密について

本法で保護されるべき「国家機密」を第1条で「国防上外国に対し秘匿することを要する外交、財政、経済其の他に関する重要なる国務に係る事項にして」、以下のいずれかに「該当するもの及び之を表示する図書物件」と定めている。

① 御前会議、枢密院会議、閣議又は之に準ずべき会議に付せられたる事項及其の会議の議事
② 帝国議会の秘密会議に付せられたる事項及其の会議の議事
③ ①、②の会議に付する為準備したる事項其の他行政各部の重要なる機密事項

本法では、軍機保護法のように三段構造で「軍事上の秘密」を指定することも、軍用資源秘密保護法のように二段構造で「軍用資源秘密」を指定することもなく、ただこれだけの規定がなされているである。議会では、その理由として、政府委員は、法令に「国家機密」の種類・範囲を記載するだけでも、外国に対し「国家機密」を察知されることになるという妄想に近い説明をしている。しかし、これではまるで巨大な投網を投げ放った如く、広範多岐に亘る事項及び図書物件が「国家機密」とされてしまうことになる。

さすがに軍部独裁にお墨付きを与えるだけのお飾り機関と堕した帝国議会でも、衆議院で「国家機密」とは何か不明確であるとの質問が出され、少しは応酬があったようだ。
政府委員は、「国家機密」は指定されてはじめて秘密となるのではなく、指定されようがされまいが秘密なのであるとして、「指定秘」に対して「自然秘」なる概念を持ち出して説明したものの、取り扱いの過誤をなくすために国防保安法施行令で主務大臣又は会議の長もしくは主宰者が秘密を保持するべき措置を指示し、図書・物件には標記をすることが定められるに至った。
もっとも立法担当者の解説書によると、実際の適用場面では、やはり「自然秘」の考え方が採用されるとされている。

第二に行為態様・罰則について

本法にあっても、第三者の探知収集罪には、軍機保護法、軍用資源秘密保護法及び我が特定秘密保護法と同様に、犯罪構成要件には「国家機密であることを知って」なる要件は書かれていない。但し、第三者の外国に通報する目的による外交、財政、経済その他に関する情報の探知収集罪について、「国防の用途に供される虞あることを知って」行為することが要件とされている。しかし、このような漠然として記述がどれだけ適用抑制に働くか疑問である。

具体的に見て行くと、単純探知収集を罰する規定はないが過失漏えい処罰する規定は置かれている。罰則は死刑、無期懲役を含む重罰が科されることになっている。概略、書き出してみよう。
業務上知得領有者の単純漏えいは5年以下の懲役又は罰金、業務上知得領有者の外国若しくは外国のために行動する者への漏えい又は公表は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役、公表目的又は外国若しくは外国のために行動する者に漏えいする目的の探知収集は1年以上の有期懲役、外国若しくは外国の為に行動する者に漏えいし又は公表する目的で探知収集探知しかつ外国若しくは外国のために行動する者への漏えいし又は公表は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役、一般の知得領有者が外国又は外国のために行動する者に漏えい又は公表は無期又は1年以上の懲役、国防上の利益を害する目的で「その用途に供される虞あることを知って」外国に通報する目的による外交、財政、経済その他に関する情報を探知収集は10以下の懲役、外国通謀又は外国の利益のため治安を害する事項の流布はハ無期又は1年以上の懲役、外国通謀又は外国の利益のために金融界の撹乱、重要物資の生産又は配給の阻害など国民経済の運行を著しく阻害する虞のある行為は無期又は1年以上の懲役、情状により罰金併科。このようにおよそ想定される行為がこれでもかこれでもかと処罰対象とされ、しかも極めて重罰が科されることになっている。

第三に刑事手続の特例規定について
 
本法においては刑事手続について重大な特例をもうけられている。一つは弁護人を司法大臣の指定した弁護士の中から選任しなければならないこと、二つには検察官に広範囲の強制捜査権を与えたこと、三つ目は、これが一番重要なのだが、本法違反事件については改正治安維持法違反事件と同様、三審制をとらず二審制としたことである。
上記の特例は軍機保護法違反事件、軍用資源秘密保護法違反事件その他の秘密保護法制違反事件にまで適用されることがされている。
既に述べた軍機保護法違反とされた宮沢・レーン事件においても、控訴審はなく、一審・札幌地裁判決に対しては大審院への上告がなされ、上告棄却で確定している。

適用状況

本法は、濫用の危険性極めて大なるものであったことは以上述べたところから容易に理解できるであろう。実際、やはりこの点も帝国議会衆議院の審議において質問がなされ、近衛文麿首相が「これが運用につきましては極めて慎重な考慮を必要とする」と答弁し、柳河司法相も本法立案の精神たる間諜防止、国家機密の漏えいを予防する以外に他の目的に利用することは一切致さぬ」と述べている。また刑法学者の団藤重光東京帝大教授も「本法の立法の趣旨がもっぱら国防にあるという当然の事柄を没却して、本法が国内政治目的に利用されるようなことが万一発生すれば、事態は重大かつ深刻であるといわなければならない」と指摘していた。

しかし、いざ施行されると、本法を梃として防諜体制づくりと報道機関と国民の防諜、そして戦争への思想動員が大々的に展開されたのであった。

本法の具体的な適用状況については資料不足で、説明することはあまりないが、施行された1941年5月以後同年度には59件が検挙されていることは判明している。これだけを見ると意外に少ないと思われるかもしれないが、統計に上がる件数は実際の検挙、あるいは検挙まではいかないが連行される件数のごく一部とみるべきであろう。

本法の適用事案の著名事件としては、尾崎・ゾルゲ事件がある(ほかに尾崎秀美についてはほかに治安維持法違反と軍機保護法違反、リヒャルト・ゾルゲに対して治安維持法違反が併合されている。)。尾崎とゾルゲは、1943年9月29日、東京地裁でそれぞれ死刑判決を受け、尾崎は、1944年4月5日、ゾルゲは、1944年1月20日、それぞれ大審院において上告棄却となり、1944年11月7日、両名揃って絞首刑を執行された。時にロシア革命記念日であった。尾崎は享年43歳、ゾルゲは享年49歳。
(続く)

戦前秘密保全法制 (8)

(4)軍用資源秘密保護法及び国防保安法

旧軍機保護法軍機保護法が成立した後、警察当局と相協力しあって防諜活動を進め、かつ国防観念を高める目的で、民間の防諜組織が全国各地に続々とつくられていく。旧内務省警保局はこれらを1939年4月、全国一斉に発足した警防団の下に一元化させ、警防団の手で、防諜活動、防諜教育・訓練が実施されることとなった。そうした流れの中で、1939年3月、軍用資源秘密保護法が、1941年3月、国防保安法が制定された。早速、それらの説明に入って行こう。

(軍用資源秘密保護法)

制定経過

軍用資源秘密保護法は、1939年2月、第74帝国議会の衆議院に提出、3月に成立、公布さ、同年6月から実施された。政府による法案提出から成立までわずか1ヶ月、さすがに帝国議会ももはや戦争遂行のための法律製造機関に変貌を遂げてしまったと断ぜざるを得ない。かの有名な反軍演説で斉藤隆夫議員が圧倒的多数で除名されるのは、これから1年もたたない1940年3月7日のことであった。

同法は、1年前に制定された国家総動員法と密接な関連があり、時の陸相板垣征四郎は、法案提出理由を以下のように説明している。

今日の戦争が国家総力戦であるにもかかわらず、軍機以外に広く国防力の判定に資する資料を秘匿する法令の整備が日本では不十分。総力戦時代の要求に即応していない。速やかな法整備が必要。本法案は「スパイ行為の取り締まりを主なる目標」とするものであって、主として「外国ももしくは外国の為に行動する者に秘密を漏泄し、又は其の目的を以て之を探知収集、或いは之を公にする者」を処罰するものである。

内容

第一に保護される秘密について

軍機保護法では、第1条第1項で「軍事上の秘密と称するは作戦、用兵、動員、出師其の他軍事上秘密を要する事項又は図書物件」とし、同条第2項で軍事上秘密を要する事項又は図書物件の種類範囲」を陸軍大臣又は海軍大臣の命令、実際には陸軍軍機保護法施行規則及び海軍軍機保護法施行規則で広範かつ抽象的に定め、さらにこれに基づき陸軍大臣、海軍大臣が具体的な指定をするとの三段構造で指定された。

これに対し軍用資源秘密保護法では、第1条で「本法は国防目的達成の為軍用に供する(軍用に供すべき場合を含む以下之に同じ)人的及物的資源に関し外国に秘匿することを要する事項の漏泄を防止する以て目的とす」とし、第2条で抽象的、概括的に15項目の事項を定め、陸軍大臣又は海軍大臣(官庁の管理に属するものについては主務大臣)が指定するという二段構造になっている。国家総動員法の対象となる総動員物資及び総動員業務に係る人的資源は全て指定対象となるのである。

この秘密指定の形式は、我が特定秘密保護法における特定秘密指定の構造と同じである。

第二に行為態様・罰則について

軍機保護法と同様に、犯罪構成要件には「秘密であることを知って」なすことは明示されていない。我が特定秘密保護法も同じであることは前述のとおりである。

単純探知収集を罰する規定はない。また過失犯を罰する規定もない。ではどういう行為に対しどのような刑が科されるか。煩雑だが書き出してみよう。

公表目的又は外国若しくは外国のために行動する者に漏えいする目的の探知収集は10年以下の懲役、業務上知得領有者の単純漏えいは対象事項を限定して6月以下の懲役又は罰金、業務上知得領有者の外国若しくは外国のために行動する者への漏えい又は公表は1年以上有期懲役、外国若しくは外国の為に行動する者に漏えいし又は公表する目的で探知収集探知しかつ外国若しくは外国のために行動する者への漏えいし又は公表も1年以上の有期懲役、一般の知得領有者の単純漏えいは対象事項を限定して6月以下の懲役または罰金、一般の知得領有者の外国若しくは外国のために行動する者への漏えい又は公表は10年以下の懲役、業務上知得領有者の外国人への漏えい2年以下の懲役又は罰金。

秘密対象事項が極めて広範で、かつ行為態様も非常に細かく規定され、大変分りづらい法律になっている。ただ対象秘密事項が軍事機密ではないだけに単純な探知収集や一部の単純な漏えいはずされ、法定刑が軽くなっている。一方、軍用資源秘密を外国又は外国のために行動する者に漏えいするため探知収集・漏えいを目的した団体(要するにスパイ団)を組織した者又はその団体の指導者は5年以上に懲役、情を知って加入した者は2年以下の懲役とされるなど処罰対象行為は広げられている。

適用状況

軍機保護法の適用の概況のところで述べたように、同法の濫用は甚だしきものがあった。さすがにそのことは問題となっていたようである。軍用資源秘密保護法の審議過程で、貴族院において「予め国民一般に本法の精神及び内容を十分よく知らしめ、また指導取締の任にある者に対しましても、同様できるだけ之を周知せしめて、適性なる措置をとる」との政府委員の説明がなされたほどで、それが多少適用を慎重にさせたのか、1939年度の検挙人数は16人、軍機保護法が1937年10月適用で同年度の検挙人数が38人であったのに比べ、軍用資源秘密保護法は1939年6月施行であるから、相当少ないと言える。もっとも1940年以後の検挙件数もしくは人数は不明である。後に述べる国防保安法の適用状況からするとおおいに濫用された可能性がある。
(続く)

戦前秘密保全法制 (7)

(3)再び時代の動き

 1937年7月7日、盧溝橋事件を経て、我が国は、本格的に対中国侵略戦争に踏み込んで行ったことは前述した。間もなく戦前秘密保全法制の三本柱とされる三法、上述の軍機保護法に加えて、軍用資源秘密保護法及び国防保安法が制定され、完結を見ることになるのであるが、その説明をする前に、時代の動きを駆け足で見て行くこととしよう。

 盧溝橋事件そのものは、北京郊外の盧溝橋付近において天津駐屯軍の一部隊が夜間演習をしていたところ、同じように近くで演習していた中国国民政府軍側から数発の銃弾が撃ち込まれたという、何だか謎めいてよくわからない偶発事件をきっかけに、いきり立った現地連隊長がはやって独断で攻撃命令を出し、中国国民政府軍側に攻撃を仕掛けて発生した小競り合いである。因みに、この連隊長氏は、皇道派と目された人物で、2.26事件後に左遷され、出席街道をはずれてしまった個人的うっぷんがあったと言われている。この小競り合い上部機関の外交的折衝によって、翌々9日には停戦協定が成立して、一旦、戦闘は終わったのであった。

ところがかのうっぷん晴らしにうつつをぬかす連隊長氏は、停戦協定を無視して部隊を進軍させ、これを止めようとした旅団長と睨み合って停止命令を跳ね返し、強引に攻撃を許可させてしまった。さらに11日、陸軍は、内地から3個師団、朝鮮から1個師団、満州から2個旅団派遣を決定、時の近衛内閣(同年6月、林内閣の総辞職を受けて、組閣したばかりであった。)もこれを承認し、中国国民政府に対し、19日までに謝罪をすることと現地付近の中国軍の撤退を強硬に要求し、これが受け入れられない限り「武力膺懲」を行うことを通告したのであった。そして早くも同月13日、我が国内では、新聞各紙が一斉に中国膺懲を煽るキャンペーンを開始し、我が少国民は戦争熱に浮かされることとなった。盧溝橋事件をめぐってはさまざまな陰謀・謀略論がある。私は、この手回しのよさを見ると、どう見ても、疑惑の銃弾には裏があり、独断攻撃命令もかの連隊長氏のうっぷん晴らしに帰せしめるわけにはいかないように思うのである。

近衛内閣の発した上記高圧的通告に対し、中国側が怒り心頭、反発するのは理のしからしむるところ、中国共産党は徹底抗戦の声明を発し、国民政府の首班・蒋介石も「我々の態度は戦いに応ずるのであって、戦いを求めるのではない。我々は弱国ではあるが、我が民族の生命を保持せねばならず、祖先から託された歴史上の責任を負わざるを得ない」との有名な「最後の関頭演説」と呼ばれる決然たる抗戦声明で応じた。

ここに、かねて中国一撃論を唱えていた我が日本軍は、好機到来とばかりに戦端を開いた。北支といわれる中国北部から始まった戦争は、たちまちのうちに拡大、同年8月9日に発生した一海軍軍人が中国保安隊に射殺された事件をきっかけに同月13日には上海にも飛び火、同月15日には近衛内閣は「支那軍の暴戻に膺懲し、南京政府に反省を促す」と政府声明を発して、中国との本格的な戦争の泥沼にはまり込んでいくことになる。

陸軍首脳は、かねての一撃論どおり、当初、2か月で戦争を終結させると豪語(天皇にもその旨上奏)していたが、中国各軍の抗戦意欲は極めて旺盛、必死に応戦し、戦火は拡大するばかり、ついに日本軍は国民政府軍を追って、同年12月10日、南京市に突入、同13日には制圧するに至った。ここで、日本軍は、歴史に一大汚点を残すことになった南京大虐殺を引き起こしたのである。

南京市を制圧した中支那方面軍の一部の軍紀は乱れ、とりわけこれを構成する第16師団は顕著で、師団長中島今朝吾自らも蒋介石の自宅から大量に珍宝を私的に持ち帰るというコソ泥行為まで働いていた。同軍司令官松井石根は、1938年末に、調査のために現地に赴いた田中隆吉(後に陸軍兵務局長の要職につき、敗戦後、GHQに全面協力。1932年1月の第一次上海事件のときに、日本軍出撃の口実として日蓮宗僧侶虐殺事件を仕組んだ人物。自らの回想記に「我が半生は、陰謀工作に終始したと言っていい」と述懐している。)に「残虐行為をやめさせるためにできる限りのことをしたが、どうにもならなかった。私はその責任を負わなければならないだろう」と述べたとのことである。

中国国民政府は、1937年9月、我が国の侵略行為を国際連盟提訴、同年10月、国際連盟総会で9カ国条約(1922年2月、主力艦艇の削減をめざしたワシントン会議において、中国の領土保全・門戸開放・機会均等などを約した対中国権益の調整をする条約で、米英日など9カ国が調印)及び不戦条約(1928年8月、日本も調印した侵略戦争を禁止する条約)の各違反として我が国に対する非難決議がなされ、英米両国次第に我が国への態度を硬化させ、中国国民政府支援の姿勢を強めていくことになった。

この間、ドイツ駐中国大使トラウトマンによる和平あっ旋もあったが我が国が厳しい注文をつけたため不調、1938年1月、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との無謀な声明を発して、和平の道を閉ざしてしまった。日本軍は、同年10月、広東、漢口、武昌等主要都市を制圧するも、重慶に逃れた国民政府、延安に逃れた中国共産党主力軍とのにらみ合いが続き、戦線は膠着状態に陥り、徒に日本軍将兵と中国軍民の血が流される事態が続くことになった。

 我が国は、このように無謀な対中国侵略戦争を拡大と継続により、外には、1939年6月、天津租界封鎖事件を起こしてイギリス、アメリカとの対立を決定的にして、同年7月、アメリカから日米通商航海条約の破棄通告を受け、同年5月~9月、ノモンハン事件でソ連軍と衝突して大きな打撃を受け、1940年7月、アメリカによる屑鉄、石油、航空用ガソリン禁輸措置、同年9月、ヨーロッパにおけるドイツの快進撃に乗じて北部仏印(ベトナム北部)侵攻と日独伊三国同盟調印、1941年2月以後ドラウト牧師らの民間外交に発端する日米交渉も7月にはほぼ挫折、南部仏印(ベトナム南部)侵攻とアメリカによる同月末と同年8月初めの在米資産凍結、石油全面禁輸措置、そして同年12月8日、対米英蘭開戦と、戦争と破滅へのドミノ倒しが進んで行った。

また内においては、1938年3月、国家総動員法制定と電力国家管理法制定、1939年9月、物価凍結令発令、1940年10月、大政翼賛会発足、11月、大日本産業報国会結成と、戦時統制経済とファッシズムが進行した。

こうした戦争とファッシズムの進行こそ、またしても新たな秘密保護法を生み出す母胎となったのである。

※いよいよ軍用資源秘密保護法と国防保安法の登場ですが、急ぎの案件が入ってしまいましたので2日間連載を中断せざるを得ないことになりました。連続してお読み頂いている方には申し訳ありませんが、暫くお待ちください。
(続く)
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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