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立憲君主制と象徴天皇制の間 (15)

頭痛もおさまり、そろりと再開します。通説的な説明を今回も続けます。それに対して天皇制存続論のリアリズムと戦後占領下でのその貫徹は次回以後述べることとします。

1944年5月9日、米国務省・戦後計画委員会(PWC)が戦後対日占領政策のために採択した勧告文書「日本―政治―天皇」(PWC116d)は、三つの選択肢をあげただけで結論を出さない文書であった。なお、この原案起草に関わった国務省・戦後対外政策諮問委員会領土小委員会は、1943年10月には国務省・国/地域委員会(CAC)の一つである部局間極東地域委員会(FEAC)として再編成された。従ってそれ以後は、戦後対外政策諮問委員会領土小委員会の活動は、部局間極東地域委員会(FEAC)に引き継がれている。これまでの記述をその範囲で訂正する。

1944年11月21日、ハル国務長官の病気辞任、次官のエドワード・スティティニアスが昇格。彼は外交官経験が浅いということで、外交官として生涯を過ごし、日米開戦までの10年間、駐日大使を務め、「知日派」の巨頭と目されていたグルーを次官に抜擢した。

しかし、うずまくヒロヒトを戦争犯罪者として処罰せよとの世論がある。「フィラデルフィア・レコード」紙の社説では「グルーはヒロヒトと取引している」とまで非難される。こうした世論を背景に天皇制に批判的な議員が天皇制擁護に傾いていると見られるグルーの就任に噛み付く。上院外交委員会でもねっちりと適性審査が行われる。

こうした中、グルーは、同年12月12日、上院外交委員会の聴聞会で以下のように陳述した。

「日本は、近代においていまだかって戦争に負けたことがありません。従って我々は破壊と敗北による激変が日本国民にあたえる最終的影響をはかる基準をもっていません。我々は、降伏後、日本にいかなる権力を登場させるにせよ、その権力が協力的で、安定し、信頼にたるものであることを示すよう、その証拠を要求する権利をもっています。(中略)天皇制は日本の安定要素です。ここで比喩を用いるなら、天皇は大勢の働き蜂が仕え、敬愛する女王蜂のような存在です。もしも蜂の群れから女王蜂を取り除いたならば、その巣は崩壊するでありましょう。」

グルーが行ったこの「女王蜂」演説は、今の我が国の国民水準からすれば、さしずめ天皇制のカリカチュアであり、高みに立つ文明国家の目から未開の日本を見下したとでも言うべき暴論というところであろう。米国の「知日派」の巨頭といっても一皮向けばこのように日本人蔑視の意識を濃厚に帯びていたのである。おそらく米上院外交委員会においても多くの議員が「愚かなジャップども!」と溜飲を下げたことであろう。その甲斐あって攻撃の矛先も鈍り、なんとか審査をパスしたのであった。

1944年12月には、病身のルーズベルト大統領の指導力の衰えを補うために国務省・陸軍省・海軍省三長官からなる三人委員会が組織され、戦時内閣のような役割を果たすようになった。グルーは、スティテイニアスが戦後処理のための国際会議に忙殺されていたため事実上の国務長官代理として、三人委員会に出席することが多くなった。
さらに、この三人委員会の下部機構といて各省次官補レベルの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設けられ、まもなく対日占領政策の検討機関として極東小委員会(SFE)が活動を始める。SFEの議長は、グルーの駐日大使時代からの腹心ユージン・ドウマンが就任した。さらにSFEの下部作業部会には、やはりグルーの息のかかった「知日派」のブレイクスリーとボートンが加わった。国務省極東部長にはこれまでの親中派ホーンベックを更迭し、「知日派」のバランタインを就任させた。

これからヤルタ会談、ポツダム会談という時期に、国務省も、対日占領政策の検討機関も、相当「知日派」が要路を押さえた格好だ。やがて1945年4月24日、グルーに正式に国務長官代理が発令され、同年ら7月3日、バーンズ新長官が任命されるまでグルーは米国務省の実質ナンバーワンとしてその手腕を発揮することになったのである。

天皇と天皇制をどう取り扱うべきかに関する対日占領政策の検討は、その後日本降伏に至るまでわずかに、同年3月16日、SWNCCで採択された「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55文書)に見られるだけである。それによると、①天皇個人およびその家族をどう処遇するか、②天皇制に対する軍政府の対応(注:この段階では日本にもドイツ同様に無条件降伏、全面占領と軍政を敷くことが考えられていた。1945年3月段階の沖縄関係SWNCC52シリーズ文書から同年6月11日採択されたSWNCC150文書「日本打倒後の初期対日方針」も、またヤルタ会談もこの考え方をベースとしていた。同年4月16日、トルーマン新大統領は上下両院合同議会の就任演説で「われわれの要求は過去においても現在においても無条件降伏である。」と述べて拍手喝采を浴びている。)、③天皇が逃亡した場合どうするかの三項目について検討すること、統合参謀本部(JCS)に検討委員会を設置すること、民間人の意見も聞くこと、国務省がその検討内容を起草することとあっただけで、中身は空白であった。これに実質的内容が盛り込まれたのは日本降伏後の同年9月26日の「SFE126」文書まで待たねばならなかった。

さてこうした布陣と地位に立ってグルーは、壊滅的打撃という最悪事態を防ぐために、無条件降伏路線を修正し、日本に早期に名誉ある降伏を選択させる道を探求しようとする。同年4月12日に、トルーマン新大統領が誕生している。グルーはこれまでの政策変更の可能性があると見たのかもしれない。しかし、おそらくグルーは、原爆の開発と使用が近づいていることを知って、10年も過ごした日本のことを原爆による破壊から救いたいと考えたのであろう。そう思いたい。

グルーは、同年4月14日、トルーマンに対して次のような書簡を送った。

「無条件降伏とは、もし日本の国民が望むのでれば、現行の皇室の下での君主制の廃止を意味するものではないことを大統領が公的な声明で明らかにしないならば、たとえ軍事的に敗北しても、日本の降伏はありえない。」

グルーが次に打った手は、同年5月31日に行われるトルーマン大統領の対独戦勝記念声明において、無条件降伏を修正した文言を盛り込ませることであった。5月26日土曜日、ドウーマンを呼びつけ、週末を返上して、声明文草稿を作成することを指示した。ドウーマンの用意した草稿には以下のように書かれていた。

「連合国の占領軍は、これらの目的が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、いち早く日本から撤退するであろう。もし平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植えつけられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする。」

5月28日、国務省幹部会では、上記声明文草稿に対する激しい反対が噴出し、国務省案としてこれを使用することはできなかったが、同日、グルーは、直接、トルーマン大統領に会い、早期終戦を可能にする対日条件を示すこの草案に基づいて大統領声明を発するべきだと談判した。これに対して、トルーマンは、「軍の指導者が同意するなら」との条件付きでこれを承諾したのであった。グルーは、勇気を得て、陸軍、海軍首脳と面談、同様、説得を試みた。最長老の陸軍長官スティムソンは明確に同意し、立憲君主制の存続をもっと明確にするべきだとさえ述べた。スティムソンにならい、他の軍首脳も誰も正面きって反対しなかった。しかし、そのタイミングだけが問題で、マーシャル陸軍参謀総長が「ここでは明かすことができないある軍事的理由によって」時期尚早だと述べ、これに他の軍首脳も同意した。
ここにいう「ここでは明かすことができないある軍事的理由」とは原爆開発を意味することは明らかであろう。かくして、5月31日の皇室の存続と立憲君主制の温存を認める対日大統領声明は不発に終わった。しかし、このときのグルーの努力は、スティムソンのポツダム宣言草稿に生かされることになった。

スティムソンが起草したポツダム宣言草案第12条は以下のとおりであった。

「われわれの目的が達成され、あきらかに平和的傾向を有し、また日本国民を代表する責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は日本から撤退する。これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」
これが書き換えられた経緯は、以前に述べたので繰り返さない。
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立憲君主制と象徴天皇制の間 (14)

日本降伏時点までに、米国以外の連合国諸国において、天皇及び天皇制についてどのような見解が示され、或いはどんな提言がなされていたかを丹念に調査、整理した研究は、武田清子「天皇観の相克」(岩波同時代ライブラリー)をおいてほかにないだろう。この著作は、1978年7月岩波書店より単行本で刊行され、1993年7月、岩波同時代ライブラリー版として刊行されたものである。

これに比べて米国におけるそれは有り余るほどの原資料が公開され、これらを調査、整理、研究した著作物も多数刊行されている。しかし、それらはあまりにも多岐にわたるので、いろいろな見解や提言を見ていくことはやめて、米国の対日占領政策中の天皇及び天皇制に関する見解に限定して述べることとする。

 この点について、これまでの通説とおぼしきところを概観するとほぼ以下の如くである。

米国の対日占領政策の検討は、1942年夏以後、国務省特別調査部からの要請で日本史専攻のヒュー・ボートンらが加わったころから始まった。その後、1943年3月、国務省内に設置された戦後対外政策諮問委員会(1941年12月設置)の領土小委員会が活動を開始したころから、本格的な検討がなされるようになった。
この委員会には、知日派といわれる上記ボートン、極東問題研究者ジョージ・ブレークスリー、長い滞日経験のある外交官ジョセフ・バランタイン(後に国務省に設置される極東局次長に就任)、親中派の外交官スタンリー・ホーンベックらが加わっていた。

1944年1月、国務省に極東局が置かれてホーンベックが局長に就任、同時に「戦後計画委員会」(PWC)が設置された。PWCはコーデル・ハル長官が主宰し、国務省幹部をメンバーとする対日占領政策を検討・作成することを目的とし、同年春から、活動を始めた。

同年4月、知日派優勢の同委員会から出されてきた当初原案は、ボートンの比喩を用いると「自由主義的改革に天皇制のマントを着せる」というものであった。具体的には、6ヶ月程度の軽い占領を想定し、日本国民が望むなら天皇制を残し、できるだけ天皇と日本政府を用いて占領行政を遂行し、日本帝国の解体と非軍事化を行い、それが達成されるとともに日本を国際社会の平等な一員として受け入れるという内容であった。

これに対し、親中派で、天皇制を否定する国務省幹部が優勢なPWCは、これを却下し、書き直しを命じた。しかし領土委員会からは微修正だけで、本質的には変わらない案が再び提出された。

同年5月1日、国務省では重要な人事異動があった。戦前最後の駐日大使で知日派として知られるジョセフ・グルーが極東局長に就任したのである。

グルーは、PWCにおいて、天皇ヒロヒトと天皇制を区別して、天皇ヒロヒトが、敗戦後、責任をとって退位するのはやむを得ないが軍国主義を廃し、民主的・平和的日本を建設するには天皇制は有力な資産となる、「天皇制こそ日本の隅の親石であり、頼みの大錨である」と弁じたのであった。

結局、PWCが採択した文書は「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)である。この文書では占領軍当局が取り得る三つの選択枝が提起されているにとどまる。第一は天皇にみずからの機能を行使する権限を全然与えない。第二は天皇にその機能をすべて与える、第三はその一部分を委任する。そのうえで同文書は、占領軍当局としては、出来るだけ融通性のある方針を立てておくべきことを勧告し、もし天皇の特定の制限された機能を行使することを許可することを決定するならば、その場合、可能であれば天皇を保護・拘束・監督下におく、日本国民に対し占領軍当局の権威は天皇のそれよりも高位にあることを示す、天皇の特定の制限された権能を行使させることが占領政策に利益にならなければ全て停止する方が有利になるかもしれないなどを配慮事項として示している。

ハル長官、その後任者ジェームス・バーンズ、後に国務次官になったディーン・アチソン、ホーンベック等の国務省幹部が天皇制廃止の考えに傾いていたこと、及びグルーをはじめとする知日派が結束して論陣をはったことをもってしてもPWCが上記の文書しか採択できなかったことは、他の連合国諸国の意見、考え方、米国内のラティモアらの親中派研究者の見解、天皇制廃止と天皇を戦争犯罪者として処罰することを求める米国市民の広範な世論や新聞論調を反映しているものであった。

とまれPWC116dは、結論先送りである。その後日本がポツダム宣言受諾するまでの若干の紆余曲折は次回とする。

※風邪のため中断。上に述べたことはあくまでも従来の通説。加藤哲郎一橋大学名誉教授の「象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦『日本計画」」(平凡社新書)は、これに挑戦する魅力的なストーリーを展開しており、私もおおいに刺激を受けた。私は、象徴天皇制が存置されたのは、戦争の論理とそれを承継する占領統治の論理であったことを明らかにしたい。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (13)

天皇及び天皇制をどうしようと欲したか、日本降伏直前までの連合国諸国における状況を続いて見て行こう。

オーストラリアの状況概観

医療宣教師として朝鮮・ソウルに滞在し、真珠湾攻撃の日に日本官憲により逮捕・投獄された経験を持つチャールス・マクラレン博士は1944年5月23日付「シドニー・モーニング・ヘラルド」に、「日本の敗北後の交渉において、連合国は、天子としての天皇を認めることを絶対に拒否すべきである。連合国は、天皇をその言葉が普通に意味するものとして取り扱うことを要求すべきである。」と述べた。
これはオーストラリアにあっては例外的な考え方であり、同国の、天皇と天皇制に対する考え方は、概して、天皇は戦争犯罪者として処罰されるべきであり、天皇制は廃しされるべきであるという厳しいものであった。
その理由は、日本人は「天孫民族」として「世界制覇(支配)」の使命を神話的・現人神的天皇から与えられていると信じており、それが太平洋の平和の危機の原因となっているのであるから、天皇及び天皇制を廃さなければならないと考えられていたからである。その一部を例示してみよう。
 
・1942年に公刊されたW・J・トマス「日本が神と呼ぶ人間」なるパンフレット
天皇の名において政治的暗殺が栄光化され、残虐行為が正当化され、世界の征服が宗教的信念にまで高められている。

・1942年にシドニーで発行されたジャーナリスト・グループの「ファシストと日本―ヒトラーの味方」なるパンフレット
日本政府におけるすべての権力の源は、2600年を通じて万世一系に連続してきた天照大御神の子孫としての天皇であるということ、日本における内閣は議会に対してではなく天皇に対して責任を負うということ、日本における軍国主義ファシスト・グループの存在は、ヨーロッパのファシズムの真似であるということではなく、永い歴史を通して天皇宗によって作り出されてきたものであり、軍隊における訓練は、天皇の神性への宗教的熱情をもって教えこまれた道徳訓練であるということ、在郷軍人会・玄洋社・黒竜会などによる軍国主義・ファシズムのイデオロギーの唱道・宣伝は、天皇崇拝の思想、すなわち、皇道と武士道によっておし進められているということ、こうした思想を原動力として日本は外国制覇を推進しているのだ。
 
・時事誌「国際問題覚書」1945年15日号「神道―日本の国家的信仰」
ある著名な神道主唱者の最近のパンフレットによると日本は人類の根源的な母国であり、すべての文明がその淵源をもつ国だということである。いまや一つの屋根のもとにすべての国々を天照大御神の直系の子孫として、宇宙生命の中心である天皇陛下の神聖なる保護のもとにそれぞれの国が正しい位置を与えられる世界家族の一つしに再統一するための聖なる戦争を行っているということである。

・1945年5月25日付「ニューヨーク・タイムス」は、「日本の元首として、システィマティックな蛮行に対して責任があるとの理由によって、天皇ヒロヒトの戦争犯罪者としての告発と処刑をオーストラリアは要求している。中国のスポークスマンは、オーストラリアの要求に対する強い支持を表明した」と報じた。

・1945年8月12日、在米オーストラリア公使館から米国務省に届けられた「日本の将来―オーストラリア政府の見解」には「国家の元首にして大元帥として、天皇は、日本の侵略行為と犯罪行為に対して責任を負うべきである。天皇制の将来は当然、日本国民によって決定されるべきであるが、そのような決定がなされる前に、天皇制の廃止、あるいは、国家の立憲的元首としての承認を目ざす政治運動のための組織と宣伝の自由が充分に与えられるべきである。」と述べられていた。
  
 
英国の状況概観

中国、オーストラリアに比べると英国の場合、自国が君臨すれども統治せずの「立憲君主制」の国であるだけに、天皇制そのものを廃止せよという意見はあまり見られず、有力紙の報道も、天皇大権への警戒、現人神なる天皇の神話に対する批判、天皇の戦争責任を問うなどの他国の主張を紹介する程度にとどまっていた。政府及び関係機関も、1944年段階で、王立国際問題研究所が作成した文書中で「民主主義的な行政機関をもった立憲的君主制が日本と世界の利益のために最も好ましい解決となるかもしれない」と述べられていた程度で、天皇制の将来や天皇の戦争責任問題について対外的に表明することを意図的に避けていたように思われる。

もっとも英国政府の真意は、オーストラリア政府からの「日本の侵略行為と戦争のもろもろの罪の問いに対して、天皇は責任をとるべきである。・・・いかなる除外も容認されるべきではない。」との1945年8月13日付極秘申し入れ電文に対する極秘返書電文において「天皇を戦争犯罪者として告発することは、重大な政治的誤りだとわれわれは考える。日本国民を支配するために、天皇の玉座を利用することによって、人的資源、および、他のもろもろの資源におけるコミットメントを節約したいとわれわれは望んでいる。そして、現天皇を告発することは、われわれの意見としては、最も不得策だと思える。」と表明されていたとおりであった。

太平洋問題調査会の状況概観

太平洋問題調査会とは、アジア・太平洋地域内の民間レベルでの相互理解・文化交流の促進を目的として1925年、ホノルルにおいて設立された国際的な非政府組織・学術研究団体であり、当該地域の政治・経済・社会など諸問題の共同研究を通じ学術専門家たちの国際交流をはかる活動をした。

T・A・ビッソン、O・ラティモア、E・H・ノーマンなど著名なアジア研究者・日本研究者を育成する役割を果たした。東西冷戦の影響下で、アメリカで左派的・容共的団体とみなされて反共攻撃の標的となり、解散のやむなきに至った。戦時下においても1942年12月と1945年1月に、日本は不参加であるが、全体会議が持たれ、機関紙「太平洋問題」が発行されている。

アジア・太平洋問題の研究をするこの太平洋問題調査会において、それぞれの所属国にとらわれないアジア・日本問題研究者として、日本の天皇と天皇制についてどのような議論が行われていたかを見ておくことは現実に選択された政策を検討する上でも意義のあることであろう。

米国のT・A・ビッソンは日本の天皇制の歴史的研究の成果に立って、軍国主義と天皇制との不可分の関係を指摘し、天皇制は廃止されるべきことを主張した。

これに対し、同じく米国のソウル・ベイツ及びケネス・ラウレットは共同で、日本において不安定さの中で新しい政権が充分に広範な支持を獲得しうる強さ求める力は天皇の威信以外には発見できないと述べ、天皇及び天皇制を何らかの形で残すことを主張した。
 
カナダのE・H・ノーマンは該博な日本史の知見に基づいて、「天皇制が、本質上、政治的に中立のものであって、ピストルのように、生命のない、何ものかであるかのように、善にも悪にも利用されるものであり、そこにはなんら社会的価値は本来そなわっておらず、それが利用される時にのみ意味をもってくるものだと考えることは、天皇制の歴史に対する大きな誤解である。(中略)日本に現存する天皇制は、平和と民主主義の道具として利用できると、真実に信じている善意の西洋人が多く存在しているのである。しかも、近代日本の歴史において、天皇制が進歩主義的役割を演じたことを得心いくように示したくれた者は、これまでに誰一人としていないといっても過言ではないであろう。」と明快に天皇制廃止を主張した。

米国のウイリアム・ジョンストンは天皇制存続論を①伝統的神話的天皇論、②天皇は消極的な道具であるとの論、③天皇は日本社会に安定をもたらす唯一の要素であるとの論に整理、天皇制廃止論を①伝統的神話的天皇論と超国家主義及び軍国主義と不可分論、②天皇を温存・利用すれば将来復讐戦争の原因になるとの危険論、③天皇は反動支配のための基盤であるとの論に整理したうえで、自身は廃止論に立ち、第一に天皇に敗戦と惨禍の責任をとらせること、第二に1937年以後の戦争に責任あるグループの代表を戦後の政府に絶対に入れないこと、第三に連合国は天皇制廃止を求めるグループを承認、支持すべきこと、第四に連合国は日本の政治的・経済的・社会的再建を可能にするための支援をなすべきことを主張した。

なお1945年1月の第9回太平洋問題調査会会議の日本問題円卓会議で、米国のO・ラティモアが天皇制廃止を主張し、中華民国代表の毓麟が蒋介石総統のカイロ会談における発言に基づき日本人の意思によって決めるべきだとの主張をするなど、従前の天皇制廃止論、存続論、日本人の意思に任せるとの論が各出席者個人の資格でこもごも述べられた。

※さて次回は米国の状況を述べる。以上に見てきた連合国諸国の侃々諤々の議論と米国の議論の質は相当違うようだ。占領後の坩堝の中で、それらがどのように収束するか、その決め手はなんであったのか、興味は尽きない。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (12)

我が国政府が、1945年8月10日に発した条件付ポツダム宣言受諾声明全文をあげておこう。以下のとおりである。

帝国政府は天皇陛下の一般的平和克服に対する御祈念に基づき戦争の惨禍を出来得る限り速やかに終始せしめんことを欲し左のとおり決定せり
帝国政府は1945年7月26日「ポツダム」に於いて米、英、華三国首脳者により発表せられ爾後「ソ」連政府の参加を見たる共同宣言に挙げられたる条件を右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す
帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件に関する明確なる意向が速やかに表示せられんことを切望す

これに対して4国を代表して米国務長官バーンズ名でなされた同月11日付回答書は以下のとおりであった。

「ポツダム」宣言の条項は之を受諾するも「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解」を併せ述べたる日本国政府の通報に関し吾等の立場は左の通りなり
降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす
天皇は日本国政府及び大本営に対し「ポツダム」宣言の諸条項を実施する為必要なる降伏条項署名の権限を与え且之を保障することを要求せられ 又天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及び何れの地域にあるを問わず右官憲の指揮下にある一切の軍隊にたいし戦闘行為を終止し、武器を引渡し及び降伏条項実施の為最高司令官の要求することあるべき命令を発することを命ずべきものとす
日本国の最終的の政治形態は「ポツダム」宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす
連合国軍隊は「ポツダム」宣言に掲げられたる諸目的を完遂せらるる迄日本国内に留まるべし

見られるとおり、我が国が求めた天皇大権に変更を加えないとの点について、イエスともノーとも答えていない。ただ、政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定されると述べていること、及びポツダム宣言第12項「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府を樹立せらる」ことを占領軍撤収の条件としていることから、少なくとも国民主権原理に反する天皇大権を否定していることは明らかであろう。つまり日本降伏の時点以前において、天皇大権を否定する限りでは米、英、中、ソ諸国は一致していたと言ってよい。

それではその先はどうであったろうか。米、英、中、ソは勿論、その他の連合国を構成する諸国の中でも、或いは最も有力な構成国である米国内においても、さまざまな意見が錯綜していたのであった。
米国以外の状況を見ていくこととするが、まずは我が国の侵略により最も大きな被害を受けた中国を取り上げてみよう。

※以下の叙述は武田清子「天皇観の相克」(岩波同時代ライブラリー)を負うところが多い。

孫科(孫文の長男・立法院院長)が1944年10月に発表した「ミカドは去るべし」

天皇崇拝の思想は日本の侵略戦争の真髄であるがゆえに、ミカドは去るべきである。・・・日本においては、軍国主義と軍閥の力と天皇制とは本質的に織り合わされているのだ。日本の軍国主義者たちはその存在そのものをミカドにたよるものだという点こそ強調されるべきことであり、これはごまかされてはならないことである。日本国民に対する軍国主義者たちの圧倒的で包括的な権力はミカドから発するものである。ミカド自身が膨張主義の真髄そのものである。(中略)
われわれはきびしい、変更不可能な軍事的・政治的決着をつけなければならない。すべての戦争犯罪者は裁判にかけられるべきである。天皇裕仁がそれら戦争犯罪者の一人であるかどうかは、証拠が明らかに示すべきである。(中略)
中国は、ミカドと天皇崇拝の制度を保持した日本は、中国の平和と安全保障にとって危険であると信じることを止めないであろう。

重慶における一般的論調

1944年12月3日付「ニューヨーク・タイムス」は同月2日付重慶の新聞の社説「アメリカが皇居・神宮などを爆撃しないのは、日本の神の怒りをアメリカが恐れるからだと日本人は理解している。日本がたとえどんなに全面的に敗北するにせよ、ミカドが存在する限り、彼らの神は彼らとともにあることになる」との主張を報じた。

1945年2月13日付「ニューヨーク・タイムス」は世界労働組合評議会に出席した中国代表の「日本の天皇は、日本の侵略の真の指導者として罪に問われるべきであり、戦争犯罪者として裁判にかけられるべきだ」「日本軍閥の首長としてのミカドの全制度は追放されなければならない」との意見を表明したことを報じた。

同年5月17日付「ニューヨーク・タイムス」は重慶の新聞の「天皇ヒロヒトは、戦犯第一号として罪を問われるべきである。中国はヒロヒトを許すことは出来ない。また、世界の文明国の人間は、ヒロヒトに対して寛大であることは出来ない。彼は裁判にかけられ、処刑されるべきであり、南京の孫文通りにさらされるべきだ」との記事を紹介した。

同月22日付「ニューヨーク・タイムス」は、中国政府スポークスマンが、ヒロヒトは戦争指導者の支持なしに日本人民を指導したり、影響を与えたり出来るほど強い存在とは考えないが、中国政府としては、天皇ヒロヒトは、軍閥・財閥とともに告発されなくてはならないと考えていると述べた旨報道した。

同年8月12日付「ニューヨーク・タイムス」は「『日本を如何に取り扱うか』というシンポジウムにおいて、中国の論説家が、日本の天皇はヒトラーやムソリーニよりも悪い戦争犯罪者だと言った。天皇の名において無数の人間が殺されたというっ事実は、彼の罪悪の証拠である。死刑が望ましい。さもなければ、人びとがかって全能の神と考えていた者が一個の人間に過ぎないことを示すために労働刑に処して生きることが命じられるべきだ」との重慶放送の内容を紹介した。

蒋介石総統の意見

蒋介石は、1943年11月23日、カイロ会談において、ルーズヴェルトの天皇制は廃止されるべきかどうかとの質問に対して「これは、日本の政府形態(組織)に関する問題を含んでおり、将来、国際関係に千載的遺恨を残すような誤りを犯さないために、戦後、日本国民自身の意思決定にまかせるべきことだ」と答えている。

延安の立場

やがて中華人民共和国に成長して行く延安における中国共産党が日本の天皇と天皇制についてどのような処遇を考えていたかは興味のあるところである。下記は中国共産党の考え方を反映しているものとして参考になる。

「延安―1944年」(みすず書房)の著者ガンサー・スタインが1944年9月末に岡野進(野坂参三)から聞き取った天皇制に関する意見は「『天皇制打倒』のスローガンは避けねばならない。いま、このスローガンを利用することは、日本の支配階級のさまざまな集団が、再び天皇のもとに結集して、増大しつつある相互間のいがみ合いをとりしずめ、国民の中の同様分子を彼らに従わせようとするのを助けるようなものである。(中略)天皇は実は軍国主義者の表看板にすぎない。一度軍国主義者を倒してしまえば天皇制は楽に倒すことができる。」というものであった。

1945年5月の中国共産党第7回全国大会において、岡野進(同上)は政治報告を行い、「天皇は戦争を起こしたという責任を逃れることは出来ないが、天皇はまだ多数の日本の人民に尊敬されている。従って天皇の存廃問題は、戦後、日本の人民の自由な意思によって決定すべきである。また、もし日本の人民が天皇保持を決定するならば、その時の天皇は過去のそれのように反民主的かつ膨大な専制的独裁権を握ることは絶対に許せない」と主張した。

以上のとおり蒋介石や中国共産党の見解については日本国民の意思を尊重するべきだと述べているのは、公式論として、括弧にくくってみれば、中国の天皇及び天皇制に対する考えは非常に厳しく、天皇を戦争犯罪者として処罰し、天皇制は廃止されるべきだというところに集約されるようである。


立憲君主制と象徴天皇制の間 (11)

トルーマンが原爆投下命令を自ら出したのか、出したとしてそれはどの時点のことであるのか、さまざまに取り沙汰されている。いくつかの断片的事実はあるが、それらは決定的なものではなく、確定困難である。しかし、私は、トルーマン自身が日本のポツダム宣言拒否直後に最終命令を出したものであろうと考えるのが妥当であると思う。
その理由は、大量破壊兵器の使用を無条件降伏勧告もなしに命じてしまうということは正当性を欠くであろうということ、ソ連の対日参戦を防ぎつつ日本に無条件降伏をさせるという高度に政治的な決断を大統領以外のものが代行できないだろうということからだ。

一方、スターリンは、それまでの日本側からソ連への働きかけに照らし、ポツダム宣言をすんなりと日本が受諾してしまうことはないと考えた。このポツダム宣言にソ連政府が加わっていないことも、日本がソ連に期待をつなぎ、直ちに受諾しないだろうと考える根拠になった。
しかし、スターリンは、トルーマンの言う「尋常ならざる破壊力を有する新兵器」が使用された結果日本が抗戦意欲を喪失して降伏してしまうことには大いなる危惧を抱いた。勿論、スターリンは、その「尋常ならざる破壊力を有する新兵器」とは原爆のことであることは把握していたであろう。そこでスターリンは、さらに対日参戦の時期を早めるように命じた。

鈴木首相のポツダム宣言黙殺宣言、即ち拒絶は、我が国政府が、世界から置き去りにされ、こうした米ソの赤裸々な主導権争いとは全くかけ離れた別世界に浮遊していたことを如実に示していた。ましてや「天皇と皇室の存続」の保証がないことがその理由であったことにおいておやである。

東郷外相は、広島への原爆投下とその甚大な被害を知った後も、8月6日午後5時、7日午後3時40分と続けて、モスクワ駐在の佐藤駐ソ大使に、ポツダム会議から帰還したモロトフと至急会見するように指示する訓令電を発している。折り返し佐藤大使から東郷外相にモスクワ時間7日午後7時50分発の、「明日午後5時にモロトフと会見予定」との電文が届き(この電文が東郷外相のもとに届いたのは8日正午であった。)、一縷の望み抱いたのであった。

7日午後、閣議。ポツダム宣言を基礎に戦争終結を求める意見も出たが、反対の意見にかき消されてしまう。8日も無為に過ごされる。当日、米内海相と東郷外相との間には、ソ連の和平斡旋の件、「今日明日には何とか言ってくるだろう」との会話が取り交わされている。

ポツダム宣言受諾に大きく傾いたのは8月9日のことであった。
同日午前4時ころ、モスクワ放送が対日宣戦布告を報じ、これを外務省ラジオ室と同盟通信が受信。直ちに迫水久常内閣書記官長が、鈴木首相に電話で報告した。
なお、モスクワ時間8日午後5時、佐藤駐ソ大使は予定通りモロトフとの会見のためクレムリンに赴いたが、そこでモロトフからソ連政府名による宣戦布告の声明文を読み上げられた。

「連合国はソ連政府にたいして、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の速やかな平和の確立に貢献するために日本の侵略にたいする戦争に参加することを申し入れた。」
ソ連政府は、ソ連の参戦こそが「平和の到来を早め、今後起こり得る犠牲と苦難より諸国民を解放し、またドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と判断し、「明日、即ち8月9日よりソ連と日本は戦争状態にあるものとみなす。」

ここに「8月9日」とあるのはモスクワより6時間早いザバイカル時間であり、日本時間と同等である。戦闘行動開始1時間前の通告だということになる。佐藤大使は、モロトフの許可を得て、ただちにそのテキスト写しに基づき、日本外務省への電文を用意し、ソ連側に託したがその電文は届いていない。その1時間前の通告さえも本国政府には届いていないのである。

ソ連軍が満州国境を越えてなだれ込んだのは日本時間で9日午前2時。ソ連政府の対日宣戦布告を流すモスクワ放送を外務省ラジオ室と同盟通信が受信したのはそれから2時間ほど後のことであった。同日、以下述べるが如く、東郷外相は多忙を極めたので、ソ連のマリク駐日大使との会見に応じたのは10日になってからのこと、マリク大使が宣戦布告文を読み上げた後、同人に怒りをぶちまけたとのことである。怒るよりはソ連にたばかられたことを恥じるべきではなかったか。

9日早朝、東郷外相以下外務省首脳は緊急会議。ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるほかはないこと、ポツダム宣言受諾の条件は皇室の安泰のみとすること、しかしその条件交渉をするのではなく一方的に「ポツダム宣言受諾は皇室の地位にいかなる影響も及ぼさないという理解の下に」と宣言することを確認した。

午前8時ころ、東郷外相は鈴木首相宅を訪問、外務省首脳の確認事項を伝えた。鈴木首相は、「ともかく陛下の思召を伺ってからにしましょう」といって、すぐに宮中に向かった。そこで木戸内大臣より、天皇から「戦局の収拾につき急速に研究決定の要あり」と命じられた旨聞き、午前10時30分から最高戦争指導会議を開催する招集をかけた。一方、東郷外相は、米内海相と会い、外務省首脳確認について承諾を得た。

最高戦争会議が始まったのは午前11時近くからであった。そこで東郷外相は、外務省首脳の確認どおり皇室の安泰を唯一の条件としてポツダム宣言を受諾すべき旨をよどみなく提案した。鈴木首相、米内海相がこれに同調した。これに対し、阿南陸相は、梅津参謀総長、豊田軍令部総長はこれに反対し、三者の間でややウェートの置き方が異なるものの、皇室の安泰を含む国体護持、占領範囲と態様、武装解除は我が国自身の手で行うこと、戦争犯罪人の処罰は我が国が行うことの4条件のもとにポツダム宣言受諾を主張した。

その会議の最中に2発目の原爆が長崎に投下されたとのニュースが飛び込んだ。しかし、3名の態度は変わらない。最高戦争会議を中断して、午後2時半から臨時閣議に移行、延々午後10時まで続けられたが阿南陸相は態度を変えない。阿南陸相は、国体を護持する保障は軍隊の維持にある、軍隊が存在しなければ一条件であっても履行させる手段はない、原爆投下とソ連参戦のもとでは勝利は不可能であるが、大和民族の名誉にかけて戦い続けるべきだと狂気の主張をするばかりであった。

その間、鈴木首相は、天皇臨席のもとで最高戦争会議(御前会議)を行い、天皇の「聖断」による事態打開を図ることを画策。午後11時50分、宮中防空壕内で平沼騏一郎枢密院議長も加えた御前会議が開催された。東郷外相は、かねての外務省首脳確認が少し変更された「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾するとの一条件案を書面に基づき主張、これに対し阿南陸相が四条件案を同じく書面に基づき主張、三対三の対立の構図が再び繰り返された。議論は紛糾し、午前2時過ぎ、意見を求められた平沼枢密院議長は、東郷外相の提案に対し、「天皇の国法上の地位」を「天皇統治の大権」改めること、決定は聖断によるべきだと意見を述べた。これを受けて鈴木首相が天皇の前に進み出て、すでに長時間にわたり審議せられ、意見の一致を見ざるは甚だ遺憾である、このうえは恐懼に堪えぬが御聖断を仰ぐの外なしと聖断を求めた。

これに応えて天皇は平沼修正の東郷案を支持して以下のように述べたということである。

「このまま戦争を続ければ、無辜の国民に苦悩を増し、ついには民族絶滅となるだけでなく、世界人類をいっそう不幸に陥れることになる。股肱たる軍人から武器を取り上げ、また戦争責任者として引き渡すのは忍びがたい。しかし大局上、明治天皇の三国干渉の際にならい、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために、こう決心したのである。」

昭和天皇独白録によれば、天皇は、第一にこのままでは日本民族は滅びてしまう、私は赤子を保護することができない、第二には、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保に見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った、と述べている。

午前3時に閣議再開、天皇の聖断を追認し、直ちに中立国のスイスとスウェーデンに向けて、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾す旨打電された。11日正午、連合国を代表してバーンズ米国務長官名の返電がスイスに向けて発信された。それが東京に届く前、12日午前2時ころには、サンフランシスコ放送を傍受して、日本政府はその内容を確知した。

それには「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認める措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとする」「日本国の最終的な日本の政府の形態はポツダム宣言に従い日本国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとする」などとあって、日本側が附した条件に正面から答えたものとはなっていなかった。ここに「制限の下に置かれる」と訳された英文は「subject to」、「最終的な政府の形態」と訳された英文は「The ultimate form of Government of Japan」であった。外務省条約局長が頭をひねって刺激的な表現を避けるように訳したのである。

さてこの回答をめぐって、阿南陸相が猛然と巻き返し、平沼枢密院議長も同調した。「帝国の属国化」だ、政治形態を国民の自由意思により決定するのは「国体」にもとる等々。最後まで物の道理がわからない人たちだ。

13日午前9時から最高戦争指導会議が開かれたが、はてしなく議論が紛糾し、合意に至らず、翌14日午前10時50分から、最高戦争指導会議と閣議合同の御前会議となった。再び聖断を求められた天皇は以下のように述べたという。

「私の考えはこの前申したことに変わりはない。・・・国体問題についていろいろ疑義があるとのおとであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意をもっているものと解釈する。・・・要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えてもらいたい」。

再び昭和天皇独白録によると、「私はこの席上最後の引導を渡した訳である」とのことである。とまれようやく狂気の戦争は終結を迎えることができたのであった。

ここで少し戦前最後の駐ソ大使であった佐藤尚武のことに触れておきたい。佐藤は、1982年10月30日生まれ、1905年、東京商業学校(現一橋大学)専攻部領事科を出て外務省入省。ロシア勤務が長く、1914年に芦田均と一緒になったことがあるとのことである。芦田均は、そこでロシア革命を目撃し、若き心をいたく揺さぶられたようで「怪傑レーニン」なる小説もどきの文章を書いてもいるが、佐藤のそのときの消息はわからない。
1937年2月から6月まで林銑十郎内閣で外相を務めている。1942年、東郷外相に請われて駐ソ大使に就任。

さてこの佐藤の1945年4月以後敗戦に至るまでの行いは、当時の日本政府当局者の中にあって、唯一、ものごとの筋を見据え、ぶざまな姿態をさらけることがなかったという点で特筆するべきものであった。佐藤は、7月20日、東郷外相宛電文において「すでに抵抗力を失いたる将兵および我が国民全部戦死を遂げたりとも、社稷は救わるべくもあらず。七千万の民草枯れて上御一人御安泰なるを得べきや」と日本政府の対応をたしなめている。またポツダム宣言が発せられた後もなおソ連の仲介を求めて申し送ってくる東郷外相の訓令に対し、「ポツダムにて発せられたる米英支三国首脳者の対日共同最後的宣言は我が方に対し威嚇の巨騨を放ちたる観あり この三国攻勢を前にして果たしてソ連が斡旋を受諾すべきや頗る疑問視せらるるに至れり」と公然と東郷外相批判を展開している。

このような人士があの時代に政府当局者の中にいた事実は一服の清涼剤である。

※今回は少し長くなってしまった。次回から米国以外の連合国が敗戦直前の時点で、日本の天皇制をどうのようにしようと考えていたか述べて行きたいと思う。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (10)

米英ソ三カ国首脳は、1945年7月17日から8月2日まで、ソ連赤軍が占領しているベルリン郊外ポツダムに集い、会談した。これが世にいうポツダム会談である。

ポツダム会談の主たる議題は、ヨーロッパにおける戦後処理、特にポーランドをはじめ東欧問題とドイツにおける戦後処理であり、対日問題は主たる議題ではなかった。以下の論述では、ヨーロッパ戦後処理問題は私のテーマから外れるので、副次的な議題である対日問題に絞ることとする。

ポツダム会談における対日問題、それは微妙な綾を含む問題であった。米国は、できればソ連をこの問題に引っ張り込みたくはない、かといってヤルタ密約の手前、ソ連を完全にシャットアウトするわけにもいかない。ソ連はヤルタ密約の獲物を確実に手にしたい。米国を率いるのは就任後まだ3ヶ月余りしかたっておらず、経験と実績に乏しいトルーマン、頼みの英国も、会談最中に選挙を戦っており、老練かつ剛毅なチャーチルも精彩がなく、やがて選挙に敗北して7月27日からは労働党のアトリーに交代した。これに比べ、ソ連を率いるのは大祖国防衛戦争に勝利し、日の出の勢いの絶対的権力者スターリン。地の利も加わって、スターリンは自信満々である。

しかし、そこにトルーマンへの百万の援軍が現れた。7月16日、随行したスティムソン陸軍長官のもとに「今朝手術終了。診断未完了だが、結果は良好のようであり、すでに予想された以上である」との暗号電文が届いたのである。同日、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠において「トリニティ」と命名されたプルトニウム型原爆実験が行われ、成功したとのニュースである。これで震えがおさまったトルーマンは、17日、スターリンとの会談に臨む。トルーマンの日記には、「彼(スターリン)は、説明したが、それはまさにダイナマイトであった。しかし私のほうも今爆発させることはしないが、ダイナマイトを持っている。・・・・彼は8月15日にジャップトの戦争に入る(と言った)。ジャップもこれがきたら、もうおしまいだ」とある。つまり、トルーマンは、スターリンから8月15日にソ連が対日参戦をするとの言明を引き出したことで得意満面なのだ。

7月17日、夕方、再びスティムソン陸軍長官のもとに「医者は小さな男の子が大きな兄と同様に元気であることを熱狂的に確信し帰ってきた。男の子の目の光はここからハイホールドまで識別することができ、男の子の泣き声はここから私の農場まで聞くことができた」との奇妙な暗号電文が届いた。いつでも投下できる原爆が用意されているという意味だ。

さらに21日、スティムソンのもとに原爆開発の責任者グローヴスから原爆実験成功の詳報が届いた。グローヴスの報告には「爆発の瞬間に放出されたエネルギーはTNT換算15キロトンから20キロトンに達し、爆発台となった70フィートの鉄骨の塔を一瞬にして気化させてしまうほどであった」とある。さらに追いかけてホワイトハウスからトップシークレットの電文が届く。「貴下のすべての軍事アドバイザーたちは貴下のお気に入りのあの都市を好み、その準備をしている。そしてもし乗務員が現地の条件にかんがみ、四都市の中からこの都市を選ぶならばこの都市を選択する自由が与えられるべきであると考える」。この四都市とは、京都、広島、新潟、小倉。さすがにスティムソンは、トルーマンの承諾を得てグローヴスに京都を除外することを指示した。かわって入れられたのが長崎であった。さらにさらに22日、23日と続けざま、8月1日以後いつでも投下可能であるとの連絡が入る。

トルーマンは、原爆の完成と実戦使用可能となったことに大いなる高揚感を覚えた。既にソ連の対日参戦スケジュールを確認したので、あとはそれにあわせて、ソ連の参戦を招かない対日戦の終結スケジュールを組み立てればよいと考えたに違いない。しかも日本に対してもただでさえ強硬な態度をなお強硬にする。

トルーマンは、スティムソン陸軍長官が起草した対日降伏勧告文草案第12条にあった「これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする」との一文を削除し、英国代表団が要望した「天皇の退位あるいは天皇制の廃止を要求するものではない」との文言挿入も拒否し、対日降伏勧告成文を完成させた。

トルーマンは、ソ連は対日戦当事国ではないとの建前論に徹してソ連を排除して動く。24日、トルーマンはスターリンに「我々は尋常ならざる破壊力を有する新兵器を持っている。」と殺し文句。スターリンは平然と受け流したが、実験成功の情報は入手しておらなかったようで、内心は動揺し、トルーマンのなすがままに見守るほかなかった。スターリンは、後にべリヤを怒鳴りつけたということである。

こうして26日、ポツダムの地より上記の対日降伏勧告成文を世界に発した。これがポツダム宣言である。ちなみにポツダム宣言成文の第12条を見てみよう。「連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。」とあるだけだ。

我が国政府がこれを確認したのは27日であった。東郷外相は、「無条件降伏を求めたるものにあらざることは明瞭」、「占領も地点の占領」であり「保障占領であって広範なる行政を意味していない点は、ドイツ降伏後の取り扱いとは非常なる懸隔がある」と評価し、慎重かつ前向きに検討することを求めた。鈴木首相も一旦はこれに賛同したが、陸海軍内に強硬な反対意見が噴出、28日、記者会見の場で「何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。我々は断固戦争完遂に邁進するだけである。」と述べてしまった。

我が国政府は、御前会議まで行い、つまるところ「天皇と皇室の存続」だけを要求してソ連を仲介者として米英と和平をする方針を決定していたのであるから、ポツダム宣言第12条がスティムソン草案のままであったなら或いは受諾の方向に傾いたかもしれない。いやその可能性は高い。しかし、成文であっても降伏後の政治体制は「日本人民の自由なる意思に従う」のであるから、天皇と皇室が日本人民の支持を得られるならば存続すると読めるだろう。まことに頑迷固陋にして柔軟性を欠いた人たちである。それとも支持を得る自信がなかったのであろうか。

鈴木首相の発言が、拒絶宣言と受け取られたのは当然である。トルーマンの描いた筋書き通りに進んだ。トルーマンは欣喜として原爆投下命令を出し、8月6日の広島、8月9日の長崎に人類史上かってない大虐殺を引き起こしたのである。

象徴天皇制を現実政治に引き直し、まずは我が国が何を望んでいたか「敗戦直前篇」を綴ってきたのであるが、あと少し。2回の聖断に触れるとともに、日本政府当局者にあって、私が一番しっかりした考えを持って対処したと評価する佐藤尚武駐ソ大使の動きを次回に述べて、ひと段落としたい。

※野暮用のため二日間中断することを余儀なくされました。お読み頂いている方には申し訳ありませんがご容赦のほどお願い致します。。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (9)

1945年6月8日の御前会議で、徹底抗戦路線に一決したのであったが、その見直しの動きは水面下から公の場に移された。18日、最高戦争指導会議で、9月までに戦争終結するように7月末までにソ連の斡旋を要請することが決定された。
さらに20日、天皇は東郷外相に「最近受け取った報告によって、統帥部の言っていることとは違って、日本内地の本土決戦の準備がまったく不十分であることが明らかとなった。なるべく速やかに戦争を終結せしめることに取り運ぶよう希望する」と申し述べ、22日には、天皇自ら御前会議を招集した。これらは木戸内大臣の根回しによるものだった。招集に応じて出席したのは、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田副武軍令部総長であった。

会議は、先般の御前会議決定によりあくまでも戦争を継続することはもっともであるが、また一面時局収拾につき考慮することも必要であろう、右に関する所見はどうかとの天皇の問いかけによって始まった。沈黙が支配する中、天皇の指名で鈴木首相が口火を切り、次いで米内海相が、さらに東郷外相が、和平により戦争終結をめざすことをこもごも申し述べた。東郷外相は「連合国は、ベルリン郊外のポツダムで7月半ばに会議を開くと発表しています。その前に、なんとか7月はじめまでにはソ連との協定に達したいと考えます」と方法と時期も明示した。これに対し、沈黙していた他の3名の出席者を代表して阿南陸相は、「特に申し上げることはありません」と述べ、事実上同意した。こうして東郷外相案が承認された。和平によって確保すべきものは、国体の護持、実質的には皇室の存続であることは暗黙の了解事項であった。このかん僅か35分。

当日、沖縄戦は終結。日本軍は殲滅され、戦死者約10万9000人、県民の死者約10万人。米軍の戦死者も多数いただろう。上記のような、いとやんごとなき目的を達するための敗戦の仕方を僅か35分の会議で決めたこととの不均衡・不条理をなんと表現したらいいだろうか。

早速、23日、東郷外相は、広田元首相と会い、ソ連のマリク駐日大使と至急会談を持つように要請、24日、箱根にて広田・マリク会談が実現する。広田元首相は、ソ連との関係強化のために、満州、中国、東南アジアで、ソ連に譲歩する用意があると述べるにとどめ、戦争終結のためソ連の斡旋を求めるとの申し出さえしない、マリクは、「二国間の関係は日ソ中立条約を基礎にして正常に発展しているように思われる。ソ連は条約を破棄する決定を行ったが、ソ連政府は条約を破ったわけではない」と辛抱強く応答、交渉継続を拒まない、即ち本国からの交渉引き延ばしの訓令に忠実に従っている。

続いて29日、東京のソ連大使館にて、広田・マリク会談。広田元首相は、日本の譲歩案として、ソ連の満州国への内政不干渉と領土保全の保障と引き換えに満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連からの石油供給と引き換えに日本のソ連領海での漁業権の放棄、その他ソ連が関心を持つあらゆる問題をあげた。マリクにとっては、ヤルタ密約で得られる獲物と比べてあまりにもみみっちいものであったが「この提案はソ連政府の上層部において真剣に考慮されるであろう」と答えた。心憎いばかりの冷静な対応である。

広田元首相はさらに粘った。しかし、最後は7月11日、ソ連大使館への要請電話にも、マリクは病気と称して会おうとしなかった。広田元首相をたてたソ連との交渉は完全に失敗した。否、誰が行っても失敗に帰する定めにあったのだ。なぜなら既にスターリンは、ヤルタ密約に従い、の対日参戦を決定、その成果を手中にすることにあらゆる努力を傾注していたのだから。

既に7月17日を期して、ベルリン郊外のポツダムに、米英ソ3カ国首脳をはじめ連合国首脳が集い、ヨーロッパ戦後処理策及び対日戦争当事国による対日戦争終結とその後の方策が話し合われることが決まっていた。
それでも東郷外相は、ソ連に天皇の特使を派遣して一挙に打開しようと思いを巡らす。ここで急浮上したのが近衛文麿元首相の名前であった。

7月8日、東郷外相は近衛元首相の意向打診。近衛元首相も乗り気になり、降伏条件は無条件降伏に近いものでもやむを得ないという東郷外相に対し、白紙で臨みたいと申し述べた。10日、最高戦争指導会議で特使派遣を決定、12日、天皇が近衛元首相を特使に任命。事態はめまぐるしく動く。

近衛が携えて行くことになった和平案「和平に関する要綱」は以下のような内容で、相当思い切ったものではあった。
第一に、国体の護持。国体とは皇統を確保し、天皇政治を行うことを主眼とするが、我が国古来の伝統たる天皇を戴く民本主義に復帰することを約束する。
第二に、領土は我が国固有の本土に制限されること、行政が若干の期間監督を受けること、戦争責任者の処分を認めること、一時的な完全武装解除を認めること、軍事占領は回避に努めるが一時的に若干の駐屯を認めることなど。

こうして日本側では天皇特使派遣の舞台回しが進んで行ったが、肝心のソ連は動かない。東郷外相から佐藤大使に訓令を発し、佐藤大使は不承不承にモロトフ外相との会見を申し出るが、ソ連側は外交的体裁を取り繕うだけで、ソ連政府としての責任ある対応をしなかった。近衛文麿天皇特使派遣は幻に終わった。それもそのはずであることは今さらいうまでもない。
なお、これも当然のことながら、米国には、この日本の動きは手にとるように把握されていた。

ポツダム会談では、スターリン対トルーマンの火花飛び交うような駆け引きが始まった。トルーマンもここで磨きあげられた。一方、米英中三国によるポツダム宣言は、米国が用意し、まもなく発出されることになる。

その内容と我が国のぶざまな対応は次回まわしとする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (8)

1945年5月末、陸軍首脳は、沖縄戦の敗勢を見据えつつ、いよいよ本土決戦の決意を固めつつあった。これに対し、軍部との関係に苦慮し、いまだ煮え切らない態度の鈴木首相や米内海相に業を煮やしつつ、東郷外相は盛んにソ連へラブコールを送り続ける。

まず佐藤駐ソ大使に、モロトフと会見し、ソ連の対日政策の動向を確認するように訓令。これを受けて同月29日、佐藤・モロトフ会見が実現した。モロトフは、既にスターリンが対日参戦を決定し、その準備を急いで進めていることを秘し、「ソ連は、ヨーロッパの戦争を終えるのに精一杯であり、国内の問題に緊急に最大の注意を払わなければならない」と述べ、佐藤大使を安心させた。まんまと一杯食わされた佐藤大使は、モロトフの言葉をそのまま東郷外相に報告した。

さらに東郷外相は、広田弘毅元首相に、ソ連の中立を維持させるだけではなく、ソ連との関係を改善することは我が国にとって緊急の課題である旨説明し、マリク駐日大使と会談を持つことを依頼した。その結果、6月3日、4日と、箱根強羅ホテルにて、広田元首相とマリクとの会談が実現した。この会談は、広田元首相がソ連賞賛のお世辞と一般的な日ソ関係改善の意向表明をするばかりなんの具体的な話もなかったが、マリクには、日本側は、戦争終結のためにソ連を通じて連合国側と和平交渉を実現することをする必至に追求していると理解するに十分な情報とはなったようである。
マリクは、この時点では、スターリンが対日参戦を決定したことをまだ知らない。そこでモロトフにこの会談の顛末を報告し、南サハリン、クリル北部、ソ連領海における日本の漁業権放棄はかちとれるが、満州、朝鮮、遼東半島における日本の権益についての譲歩は現時点では難しいだろうとし、外交交渉継続の含みで、今後、どう対応するべきか訓令を求めた。

6月6日、最高戦争指導会議では、こうした経過には全く無頓着に、陸軍が作成した「今後とるべき戦争指導の基本大綱」が採択された。「大綱」は、主敵米に対する戦争遂行をあくまでも唱え、そのために対ソ外交を積極化させることを提唱するものであった。もっともこれに付属する「国力の現状」と題する文書は、年度末には船舶は皆無に至り、鉄道輸送力も半減する、燃料不足の危機、軍需生産の麻痺、食料危機とあいまって、近代的物的戦力の総合発揮は極めて至難となったと、徹底抗戦の方針とは裏腹な報告をしていた。

6月8日、御前会議。東郷外相の情勢分析が楽観的に過ぎるとの発言があったものの、鈴木首相も米内海相も沈黙、反対意見なしでこれがそのまま決定された。鈴木首相と米内海相はこの段階で陸軍と衝突するのは得策ではないと判断したものと言われているが果たしてどうだろうか。

翌9日、第87帝国議会の秘密会で、東郷首相は、日本の外交について、大要以下の報告をしている。

ドイツ崩壊後、米英ソ三国の間には利害の相違が表面化する場面も生じているが、大局的には、「大東亜戦争」終結に至るまで協調関係が続くと見なければならない。ソ連は、スターリンが我が国を侵略国と呼び、4月5日には日ソ中立条約を破棄通告しており、対日参戦の危険も生じているが、条約自体はまだ10ヶ月間の有効期間があり、最悪の事態を防ぐために対ソ交渉に全力を注がなければならない。

さらにこの秘密会に外務省政務局が提供した資料には、米国の対日戦略を分析し、特に皇室の取り扱いについて、米国内部で二つの相反する見解、即ち、日本の侵略的行為の根源は皇室を中心とする国体自体に求められるという論と、天皇は軍閥の侵略主義に反対の立場をとっており、日本国民の皇室に対する崇敬の念はこれを抹殺するより日本統治上利用すべきだという論があることが正確に指摘されていた。

東郷外相と外務当局は、このような冷静で正確な情勢分析をもとに日本の外交方針を立っていたのであるから、あらゆる非公式チャンネルを利用して、米国への働きかけをすることにこそ全力を傾注すべきであった。ところが現実になされた外交は、あいもかわらず、ソ連との交渉を通じ、ソ連の仲介による和平交渉一本やり、アリ地獄に陥ったも同然であった。

そしてそれを見透かしたかのようにソ連は、日ソ交渉の引き延ばしにかかる。6月15日、モロトフからマリクへの訓令には「もし広田が再度の会見を要請してくるならば、貴下は広田と会見し、意見を聞くことにする。もし、広田がまた一般的な問題しか提起しないならば、貴下は、ただ、この会談の内容を最初の可能な機会に(ただし外交クーリエで)モスクワに報告するだけにとどめること」としたためられていた。要するに単に聞き置き、引き伸ばせということだ。

そのアリ地獄の中で日本はもがく。

木戸内大臣は、6月8日の御前会議の結果を天皇から聞いて、和平に動き出した政府外の有力者、政府内の東郷外相及び米内海相らと連絡をとりあい、和平に向けた試案を作成した。
これは時期を失すれば「遂に独乙の運命と同一の轍を踏み、皇室の御安泰、国体の護持てふ至上の目的すら達しざるを悲境に落つること必定」とし、「皇室の安泰と国体の護持」を含む「名誉ある講和」を求めることを訴えるものであった。
木戸内大臣は、翌6月9日、これを天皇に奏上した。天皇も、前述の「大綱」と「国力の現状」と題する文書の矛盾を確かめるべく、満州視察から帰国したばかりの梅津参謀長に満州の状況を説明させ、また国内各軍管区の状況視察を終えた長谷川清海軍大将に説明させるなど、御前会議の決定見直しに動き始めていた。

木戸内大臣は、天皇への奏上を行った後、米内海相、鈴木首相の同意をとりつけ、政府内に鈴木首相、東郷外相、米内海相の和平ブロックが形成された。その共通項は、「皇室の安泰と国体の護持」であったが、実際には「皇室の護持」に絞られたことは、木戸内大臣が、阿南陸相と説得した際に、阿南陸相が国体を護持するためには本土で最後の決戦をすることが最善の方法だと述べたのに対し、木戸内大臣が、もし米軍が本土上陸して三種の神器を奪われたり、伊勢神宮が占拠されたりしたらどうするのかと反論したことに端的に表現されている。さすがに阿南陸相も、これには抵抗できず、木戸試案に反対はしないことを約束したとのことである。

当時の日本のトップを構成した人々には、日々死者を累積させる戦況において、戦地や占領地で日々繰り返される残虐行為は勿論、具体的な飢えと死に直面している国民の悲惨な姿は全く見えていない、ただ三種の神器、伊勢神宮、皇室の存続しか見えていなかったようだ。

アリ地獄の中でのおろかな狂騒は続く。

それはまた次に述べることとする。

注1 外交クーリエとは、外交上の文書を送る手段。モロトフは電文で報告することを禁止したのである。
注2 内大臣は内閣の一員ではなく、天皇に常待して輔弼する。天皇の相談役である。
注3 最高戦争指導会議とは1944年8月に、従来の大本営政府連絡会議を改称して設置された会議であり、 首相、外相、陸相、海相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で構成され、必要に応じ、その他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長を列席させることができた。重要事項は、天皇臨席のもとで決定する。これが御前会議である。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (7)

敗戦処理の任務を帯びた鈴木内閣の外相となったのは、「北方領土交渉秘録 失われた五度の機会」(新潮文庫)などの著者として知られる元外務省欧亜局長東郷和彦氏の祖父・東郷茂徳氏であった。茂徳氏は、日米開戦時の東条英機内閣の外相であったが、入閣にあたって東条首相に和平交渉による開戦回避努力を約束させ、開戦に向かって驀進する軍部に対抗して最後まで和平交渉を説いた人、手堅く実直な外交官であった。彼は、鈴木首相から外相就任を要請されたときも、一日も早く戦争終結をさせなければならないと考えていた。そこで、彼は、鈴木首相の考えを質したところ、2、3年は大丈夫だという返事を受けて失望し、いったんは辞退した。しかし、周囲の強い要請と外交は一任するとの約束で、ようやく就任を承諾したのであった。彼は、東条内閣の外相就任時と同様、鈴木内閣の外相就任時にも内々に和平交渉のため腕を振るうことを認められていたのである。開戦回避には失敗したが、今度こそは早期戦争終結を成功させよう。東郷外相はきっと勢い込んだことだろう。

かくして誕生した東郷外相は、米内光政海相と木戸幸一内大臣とともにその後の戦争終結への工作の中心を担うことになるのである。

当時陸軍中枢部は、ソ連の参戦を強く危惧し、関係安定のための対ソ政策を望んでいた。たとえば参謀本部第12課課長代行種村佐孝大佐は、1945年4月29日、「今後の対『ソ』施策に対する意見」なる意見書を作成し、陸軍上層部に配布した。

それによると、ソ連の対日動向が「大東亜戦争」遂行において致命的影響を及ぼすとし、ソ連に言いなり放題となって、満州、遼東半島、南樺太、台湾、「琉球」、北千島、朝鮮をかなぐり捨て、東清鉄道の譲与、漁業条約の破棄をして日清戦争前の状態に戻すことを提言、さらには「支那における交渉の対象は延安政権とするも差し支えなきこと」、そのためには「国民政府を解消せしむ」とまで言い切っている。勿論、これはソ連を味方に引き入れ、英米との戦争を貫徹するための方策を述べたものであった。
今、読めば、これは極論であるが、当時の陸軍首脳部には、違和感なく受け入れられて行ったようである。ことほど左様に当時においてはソ連が日本の命運を握る決定的ファクターと考えられていたのである。

東郷外相は、そこを逆手にとって、ソ連へのアプローチをはかり、その仲介のもとに英米との和平、戦争終結に利用しようと図る。
それを決定付けたのは、5月11、12、14日に行われた最高戦争指導会議であった。そこにおいて、「現下日本が英米との間に国力を賭して戦いつつある間において、ソ連の参戦を見る如きことあるにおいては帝国の死命を制せらるべきを以って、対英米戦争が如何なる様相を呈するにせよ帝国としては極力その参戦防止に努むる必要あり」と決議されたのであった。さらに、その具体的な内容として、①ソ連参戦防止、②ソ連の中立確保、③戦争終結の三つの目的を図るために、対ソ交渉を進めること、その際、ポーツマス条約と日ソ基本条約を破棄し、南樺太の返還、北千島の譲渡、ソ連領海内での日本の漁業権の解消、津軽海峡の開放、東清鉄道の譲与、内蒙古におけるソ連の勢力範囲承認、遼東半島の租借権返還など、思い切った譲歩をすることをいったんは確認したのであるが、後に阿南惟幾陸相が翻意したため、上記③の目的を保留し、①、②の目的で、東郷外相は対ソ交渉をすることになった。

この会議においては、米内海相が阿南陸相に対し、「われわれは皇室の擁護ができさえすればよい。本土だけになっても我慢しなければならぬのではないか」と発言、「対ソ工作も結局するところ米英との仲介の労を取らせて大東亜戦争を終結することに最後はなると思う」とダメ押しし、梅津美治郎参謀総長も「そのとおりだ」と応じるというやり取りが記録されている。当事者がどこまで自覚的であったかはわからないが、後の進行を予告しているような一コマであった。

いずれにせよこの結果、東郷外相は対ソ交渉によって和平工作を図る路線にのめりこんでいくことになった。しかし、このことは日本政府内において和平への動きが公然と始まることになった点では特筆されるが、反面、我が国の戦時外交が硬直的で柔軟性に欠けるものとなてしまったという一面を持つことになってしまったことも否定できない。そのため米国内でのいわゆる「知日派」らが画策し、無条件降伏によらない早期戦争終結に日本を誘導しようという動きに一切着目せず、ひたすらソ連を仲介者とする和平路線に単線化してしまい、いたずらに時日を費やし、甚大な犠牲を上積みさせてしまう一因ともなってしまったのであった。

ソ連の駐日大使マリクは、日本外務省筋から働きかけを受け、それを正確に本国に報告している。上記の方針も既に本国に報告されている。たとえば5月25日には、日本外務省が日米の斡旋をソ連に依頼する試みを行っており、このために、日本はソ連領海における漁業権を放棄し、南サハリンとクリール諸島をソ連に譲渡する用意があるとしていると報告している。その報告の中で、マリクは、中国から日本軍を撤退させ、満州と朝鮮に独立を与えるだろう、そうなれば東清鉄道の帰属は日本の問題ではなくなるだろうと分析、指摘している。

しかし、ソ連はヤルタ密約に従い、着々と対日参戦の準備進める。5月28日には、モスクワを訪問した米国特使ハリー・ホプキンス(元商務長官。ルーズベルトの外交顧問の役に任じた。)との会談で、スターリンは、「ソ連軍は8月8日までに十分に対日参戦の準備を完了する、8月9日には攻撃を開始する」と豪語し、「イギリスと日本が条件付降伏に関する交渉をしているという噂を耳にしたが、日本の軍事力の完全な破壊を目差す無条件降伏が好ましい」と言明さえしたのである。つまりスターリンにとっては、ソ連参戦前の日本降伏を阻止することが至上命題であった。このようなソ連にとって、上記の如き我が国の方針は、一考にさえ価しないものであったことは確かであろう。

どうやら東郷外相と我が国は、最も頼れない国に思い入れをし、対米英和平への口利きをたのんでしまったようである。

我が国の和平条件は、本土の確保と、米内海相が予告したように、国体の護持、それも皇室の擁護に収斂していく。いよいよ6月から8月にかけての敗戦処理のヤマ場を迎えることになる。そこで示される当時の日本のトップを構成した人々の醜悪さは目をおおうばかりであった。

それはまた次回とする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (6)

高尚な学理の世界の話から、下世話な現実の話に目を向けてみよう。
日本国憲法において象徴天皇制が採用されることになった事情、天皇の日本国憲法上の地位・権限と現実に果たしている役割の問題である。

まずはその第一話、日本側が何を欲したかということから始めよう。

アジア・太平洋戦争における日本の敗北がもはや時間の問題となった1945年2月4日から11日までソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。ヤルタ会談である。そこではヨーロッパにおける戦後処理の問題が話し合われ、合意を見るとともに、対日戦についても重大な密約が取り交わされた。
世にヤルタ密約と言われるもので、米英ソ三国は、ドイツ降伏後2ヶ月から3ヶ月のうちにソ連が連合国の側に立って対日戦争に参加すること、その条件として、南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させる、②千島列島をソ連に引き渡させることなどを確認しあったのであった。

日本国内においてもようやく、重臣の中から決定的な敗北を避けて和平に向かうべきことを唱える動きが表面化してきた。それが天皇の耳まで達したのは、同年2月14日、近衛文麿の上奏であった。
近衛は、敗戦はもはや必至として、「敗戦はわが国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ国体の変革とまでは進みおらず・・・したがって敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存じそうろう。国体の護持の建前より憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に御座そうろう」との長文でしたためた上奏文を天皇の前で読み上げた。

しかし、天皇は「もう一度戦果を上げてから出ないとなかなか話は難しいと思う」と述べて採用しなかった。内大臣木戸幸一によると、木戸自身も敗戦は不可避であり、皇室を救うためには和平が必要であるとの点では近衛と同意見であったが、それには軍部を巻き込んで進めなければならない、そのためには時期尚早と考えていたようである。

ソ連は、ヤルタ密約及び対日参戦意図を秘しつつ、ヤルタ密約に沿って着々と手を打って行く。
2月12日、佐藤尚武駐ソ大使(1937年2月から6月まで林銑十郎内閣で外相を務めた大物外交官)は、ヤルタ会談からモスクワに帰ってきたモロトフ外相と会見し、ヤルタ会談で極東問題が話し合われたかどうか問いただしたが、モロトフは「日ソ関係は、日本と英米との関係とは根本的に異なる性質のものである。英米は日本と戦争関係にあるが、ソ連は日本と中立条約を結んでおり、日ソ関係は、日ソの二国間の問題であると考える。これまでもそうであったし、これからもそうであろう。」と巧みに身をかわした。さらに佐藤大使が、日ソ中立条約の5年の期限が満了した後も、日本政府としてはさらに5年延長する方針であると水を向けると、モロトフは、日本政府の方針を聞いて満足した、これをソ連政府に伝えることを約束するとその場を取り繕った。

それから2ヶ月もたたない4月5日、ソ連は日ソ中立条約の破棄通告をした。同日、モロトフは佐藤大使を呼んで、「(条約締結後)ドイツはソ連を攻撃した。ドイツの同盟国である日本は、ソ連との戦争を遂行しているドイツを支援している。また、日本はソ連の同盟国であるアメリカ、イギリスと戦争をしている」「このような状況のなかで中立条約はその意味を失い、これを継続することは不可能である」「これにかんがみソ連政府は、中立条約第3条にもとづき中立条約を破棄することを声明する」との声明文を読み上げたのである。もっとも日ソ中立条約第3条によれば、破棄通告後も条約の満期が到来するまで(発効日から5年の1946年4月24日満了まで)は存続することが定められている。そこで佐藤大使は、この通告は何を意味するのかと説明を求めた。これに対してモロトフは「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と回答した。なにやら怪しげな回答であるが、形式的には日ソ中立条約はあと1年存続するものの、その締結の基盤・前提を失い、実質的にはその効力を失ったに等しい状態になったと見てよいであろう。

同日、小磯内閣総辞職。天皇は、固辞する元海軍大将にして侍従長・鈴木貫太郎を「もうお前しかいない。頼む。」と言って説き伏せ、内閣組織の大命降下をした。鈴木は、かって英米協調派の君側の奸の一人と目され、2.26事件で、決起将兵に襲われた際に、ひるまず「お撃ちなさい」と言って銃弾3発を浴びせられたと言われている。だが奇跡的に一命をとりとめ、以来、隠遁生活を送っていた。齢76歳の老人。誰がどう見ようと、同月7日に組閣された鈴木内閣は、敗戦処理内閣であることは明らかであった。

米国にあっては、同月12日、ルーズベルトが死去。副大統領のトルーマンが第33代大統領に就任した。米国内にあっても、鈴木内閣の成立を和平への秋波と受け止め、日本を条件付降伏に引き出そうとする「知日派」の動きも起きた。

日本の敗戦の舞台は整えられて行く。ところが日本は、やがてソ連を仲介者と頼んで、国体護持の一点を条件として、連合国と和平をしようという泥沼にはまりこんで行く。まさに悪女の深情けというべきか。

その過程の話は次回とする。
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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