立憲君主制と象徴天皇制の間 (3)

平沼赳夫氏の父、故平沼騏一郎氏は、大正年間に、検事総長、大審院院長、司法大臣を歴任し、司法界において重きをなした。騏一郎氏は、国粋団体・国本社の総裁も務め、ファシズムを推進、枢密院議長を経て、1939年1月、大命降下を受けて首相となり平沼内閣を組閣した。これは近衛文麿が日中戦争を泥沼化させて解決の目処のないまま投げ出した第一次近衛内閣の後を受けてのことだった。

平沼内閣は、日独伊三国同盟締結を求めて漂流し、同年8月、独ソ不可侵条約締結によって日独伊三国同盟への道が頓挫すると、「欧州情勢は複雑怪奇なり」との平沼声明を発し、さしたる成果もないままに内閣総辞職により退陣した。

騏一郎氏は、1940年7月に組閣された第二次近衛内閣において、内務大臣の任についた。その騏一郎氏が、1941年2月11日、紀元節において、小学校の教員らを前にして次のように演説した。

日本の国体は世界でも唯一無比のものであります。天照大神はニニギノミコトを、子々孫々、万世にわたり日本を統治せよとのみ言葉とともに、大和の橿原(ママ)に天降りさせたのであります。初代の神武天皇が即位されたのは2601年前のこのよき日に当たります。外国王朝は人が始めたものに過ぎません。外国の王や皇帝、大統領などはすべて人がつくったものですが、日本には皇祖から連綿と続く聖上があらせられます。したがって、天皇の統治は天から継続したものです。人のつくった王朝ならいつかは途絶するかもしれませんが、天のつくった皇位は人の力を超えているのであります。(ケネス・ルオフ「国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制」・岩波現代文庫から引用)

明快に万世一系の天皇制を解き明かしている。なんと単純でファナテッィクナ考え方であろうか。まさに狂気の時代である。

この年11月、津田左右吉博士は、そのファナテッィクな思想の虚構性にほんのわずかな光をあてたばかりに、公判に付された。1940年に、津田博士の主著「神代史の研究」、「古事記及び日本書紀の研究」、「日本上代史研究」及び「上代日本の社会及び思想」の4冊が発禁となり、これらの著作は皇室の尊厳を冒涜するもので出版法違反にあたるとして起訴されたのであった。1942年5月に宣告された判決では禁固3月(執行猶予付き)とされたが、検事控訴中に時効完成したため1944年に免訴となった。

津田博士がこのファナティックな神話にあてた光とは、古事記、日本書紀に厳密かつ合理的な史料批判を加え第14代仲哀天皇以前の記述は歴史的事実ではないということを論証したことであった。このようなことが犯罪として特高警察と思想検事の厳しい取り調べを受け、公判に付される時代があったことを私たちは決して忘れてはならない。

津田博士は、戦後まもなく早稲田大学総長に選ばれたが、自分はその任にあらずとこれを固辞し、一学究の徒としての生涯を終えた。まことに尊敬すべき人だ。一方、かの演説を行った騏一郎氏は、A級戦犯として東京裁判の被告人とされ、終身刑の宣告を受け、獄中で死去した。

その津田博士が、新憲法制定論議の一つイッシューとなった天皇制問題について、創刊間もない雑誌「世界」の編集部から、天皇制批判の論陣を張ることを期待されて執筆依頼されて書いたのが「建国の事情と万世一系の思想」であった。

尊敬する津田博士の説くところだからきちんと整理しておこう。

古事記や日本書紀の記述は、歴史家自らが史料批判を行い、歴史に構成しなおす必要がある。それはいまだ確定したものはないが、私案を提示する。これは私案ではあるが一般世間に提示するだけの自信はある。
日本国家の形成は、日本民族によってなされた。それは長い歴史的過程を経て徐々になされたものである。
先史時代には多くの小国家が分立し、それぞれに宗教的権威をもつ君主がそれぞれの小国家を統べていた。それら小国家の一つがいくつかを小国家を統御する形態のものもあったようだ。
日本民族の存在が世界的意義を持つようになったのは、九州西北部の小国家に属する者が、朝鮮半島西北部に進出していた漢人と接触したことが始まりだった。彼らは漢人から絹や青銅器などの出種々の工芸品や知識を得、漢の文物を学ぶようになった。紀元前1世紀末ころことだ。九州西北部の小国家群は、1世紀、2世紀と漢人との交流を深め、やがて鉄器の使用、製作をするようになり、3世紀になると、邪馬台国が九州西北部の諸小国家を統御する力を持つに至った。
九州西北部の小国家群が得た文物、知識、技術は瀬戸内海を通じて近畿地方にも伝えられ、1~2世紀頃には近畿地方に文化の一つの中心がつくられ、そこを領有する政治的勢力が存在するに至ったと理解できる。その政治的勢力こそ皇室の祖先を君主とするものであった。豊かな平野、地勢と交通の要衝を押さえていたことからその政治勢力が近隣の小国家を統合し、西に東にその勢力を広げ、3世紀になると出雲の勢力も服属させた。九州西北部の邪馬台国などを服属させたのは、4世紀に入って、中国大陸東北部で遊牧民族の活動が活発化し、政治的混乱が起こってこれら九州西北部の諸国家が弱体化した機に乗じてことであった。九州西北部を服属させるや、大和の勢力は朝鮮半島に進出して文物、知識、技術を採り入れ、より優勢となって5世紀には九州全部、中国・山陰地方、近畿地方から関東地方に至る大和国家と大和朝廷(以下単に「大和国家」という。)が形成された。
このように日本の建国は際立った事件によって特徴づけられるわけではない。敢えて言えば皇室の祖先が、近畿地方にあった一小国の君主となったときであるが、その時期を特定することはできない。だからいわゆる神武東征の物語は歴史的事実ではない。大和国家形成過程においては、武力を用いることは稀で、その君主に伴う宗教的権威や地方小国の君主を国造・県主として包摂する政策によって服属させていったものと考えられる。さらに大和国家の勢威が増大するにつれて、諸小国の君主は自らの勢力を温存するために服属することも多かったと考えられる。
大和国家の皇室が5世紀には不動の地位を得るに至ったのは以下の事情が考えられる。

①皇室が日本民族から起こり、次第に周囲の小国家を主として武力によらない方法で服属させていき、これら小国家の君主を国造、県主として包摂したこと。
②異民族との戦争がなかったこと。
③上代には政治らしい政治、君主の事業らしい事業がなかった。後にこれは変化が生じるが、その場合も天皇は政治の局にはあたらず、朝廷の重臣たちが相諮って処理したこと。
④天皇に宗教的の任務と権威があったこと。天皇は普通の人だが、日常の生活が呪術や祭祀によって支配されていた当時においては、呪術を行う人、祭祀を行う人として精神的権威を獲得した。
⑤朝鮮半島を経て流入した文物、知識、技術を最も多く利用できたのは朝廷であったから、おのずから文化上も卓越した威厳を獲得し、そこを中心に文化的生活の位階が生じ、また朝鮮半島への進出に伴い、朝廷周辺の権力者に民族的感情を呼び起こし、その感情の象徴として皇室を仰ぎ見る態度が生じてきたこと。

このようにして皇室が不動の地位を固め、長く存続してきたことにより、未来に向けて皇室を永続させようという欲求と義務感が朝廷周辺の権力者に生じてくる。それが起源説話を生み出す機縁であり、皇室の権威を高めるために、6世紀のはじめ頃、大和国家の起源説話がつくられた。
6世紀以後においても、天皇は、原則として政治に局にはあたらず、いわゆる親政が行われたのは例外的事象であった。摂関、幕府などの権家の威勢は永続せず、やがて没落しても、政治の局には立たない皇室は永続してきた。皇室は権家に対して精神的権威を持ち、家長である天皇の保有する皇位の永久性を確立した。承久、建武の覇権獲得の動きは例外かつ一時のできごとであった。
時代が下り、皇室が不動の地位を得た事情のいくつかは消滅し、天皇は、実際政治から遠ざかり、権家との関係ではむしろ弱者の位置に置かれることになったが、精神的権威として崇敬は、民衆の間でむしろ高まった。明治維新は、幕府から政治的権力を奪い、天皇に権力を移し、天皇親政を目指した運動であった。幕府と封建諸侯が消滅すると、立憲政体により天皇親政をむしろ抑制しようという考え方も生じたが、藩閥は、逆に天皇を国民の上に君臨する絶対的権力者とし、かつこれまで権家が保持していた軍事の権を、一般国務に優越するものとして天皇に帰属せしめた。国民は、天皇に親愛の情を抱くよりは、その権力と威厳に服従するように仕向けられた。学校教育の場でも、万世一系の天皇を戴く国体の尊厳が教え込まれた。しかし、国民の間には、なおも天皇を精神的権威として見、天皇に対する崇敬の念、親愛の情の表出が見られた。昭和に至り、軍部及びそれに追随する官僚がそれをも押さえ込み、現代人の知性に適合しない極端な思想を強制した。
敗戦により、戦争の艱難辛苦を天皇に帰せしめ、天皇制廃止を主張する者が生じている。天皇の存在は民主主義と相反するとの主張もある。しかし、天皇は国民的結合の中心であり、国民的精神の生きた象徴である。

これを読むと、なんと主観的・観念的・空想的な主張であるかと思うであろう。私もそう思う。世界編集部もそう思ったのであろう。世界編集部は、津田博士への手紙で「彼ら(国体護持を唱える国粋主義者たち)は、先生のような国史のご研究から皇室擁護の結論が出るとは夢にも考えておらないにちがいありません。」と書いている。編集部とのやりとりで津田博士は明治時代の産物である天皇制を支持するものではないことを釈明したが、上記整理した津田博士の主張からそれは当然のことである。

それにしても精神的権威・国民統合の象徴としての天皇なる国民意識は、果たして万古不易、日本国民に共通する心情であろうか。確かに津田博士の上記主張の行間には津田博士の、古事記、日本書紀の豊富な研究と歴史研究の成果が凝縮されており、重みがある。しかし、私は、納得がいかない。
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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