スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (5)

津田博士や石井博士は、戦前、天皇制国家から排斥され、もしくは天皇制国家と距離を置いていた。このお二人に対して、東京大学で倫理学を講じていた和辻哲郎氏は、1937年、文部省が発行した国民教化のための文書「国体の本義」の編纂に関与するなど、神格化された天皇・天皇制国家の国体を推進した立場であった。その文書では、個人主義を排撃し、国体の尊厳、天皇への絶対服従が説かれていた。それは全国の学校や官庁に配布され、国民を精神的・思想的に戦争に動員する武器となったのである。

その和辻氏が、戦後いちはやく変身を遂げ、大要以下のように説いて、日本国憲法における象徴天皇制を擁護した(和辻哲郎「国民統合の象徴」勁草書房 1948年)。

明治以前の天皇は久しく統治権の総覧者ではなかった。このことは明治維新の頃人々が単純に認めていたことであって、それを示すのが「王政復古」という標語である。
天皇の元来の呼称である「スメラミコト」という言葉は、天皇の伝労的な権能である「統一する」ことを表していた。日本国憲法に用いられる「日本国民統合の象徴」という言葉と同一である。
その統一とは、政治的な統一ではなく文化的な統一である。日本のピープルは言語や歴史や風習やその他一切の文化的活動において一つの文化共同体を形成してきた。日本のピープルは、その中から統一意識をはぐくみ、統一のシンボルとして尊皇の伝統を築いてきた。日本国憲法は、その伝統を明記したに過ぎない。
 
学者の言説の自由は断固として守らなければならない。しかし、変説をしたのであれば、その理由を開示するとともに、自己の従前の言説によって影響された歴史の顛末になにがしかの釈明が必要ではないか。読み手は、それを欠く学者の言説に重きを置かない自由を持つこともまた当然である。和辻氏に比べると、戦前、絶対主義的天皇制を基礎付ける憲法学説を講じ、その立場から日本国憲法に定める象徴天皇制を批判した憲法学者佐々木惣一氏は、それなりに一貫しており、まだ信を置けると言えようか。

戦前、天皇制国家の最もラジカルな批判者であり、これに果敢に挑み、壊滅を喫したのは、日本共産党であった。日本共産党のいわゆる32年テーゼは次のように述べていた。

日本において1868年以後に成立した絶対君主制は、その政策は幾多の変化を見たにもかかわらず、無制限の権力をその掌中に維持し、勤労階級に対する抑圧及び専横支配のための官僚機構を間断なく造り上げて来た。日本の天皇制は、一方では主として地主という寄生的封建階級に立脚し、他方ではまた急速に進みつつあった強欲なブルジョアジーにも立脚し、これらの階級の頭部ときわめて緊密な永続的ブロックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級の利益を代表してきたが、それと同時に、日本の天皇制は、その独自の、相対的に大なる役割と、えせ立憲的形態で軽く粉飾されているに過ぎないその絶対的性質とを、保持している。自己の権力と自己の収入とを貪欲に守護している天皇制官僚は、国内に最も反動的な警察支配をしき、国の経済および政治的生活においてなお存在するありとあらゆる野蛮なるものを維持するために、その全力を傾けている。天皇制は、国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓の主要支柱である。天皇制国家機構は、搾取階級の現存の独裁の強固な背骨となっている。その粉砕は日本における主要なる革命的任務中の第一のものとみなされねばならならぬ。

なんと辛辣に戦前天皇制国家の特質を言い当てていることだろうか。私は、あの時代にかくも優れた知性と論理をもった集団が、この日本にいたことを誇りに思う。しかし、戦後、日本国憲法が存置した象徴天皇制は、もはやこのような批判が妥当する余地はなくなった。ただ、それではそのまま肯定していいだろうか。
私は、肯定できない。その理由を、以下の行論において、順次、述べていきたい。
スポンサーサイト
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。