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立憲君主制と象徴天皇制の間 (8)

1945年5月末、陸軍首脳は、沖縄戦の敗勢を見据えつつ、いよいよ本土決戦の決意を固めつつあった。これに対し、軍部との関係に苦慮し、いまだ煮え切らない態度の鈴木首相や米内海相に業を煮やしつつ、東郷外相は盛んにソ連へラブコールを送り続ける。

まず佐藤駐ソ大使に、モロトフと会見し、ソ連の対日政策の動向を確認するように訓令。これを受けて同月29日、佐藤・モロトフ会見が実現した。モロトフは、既にスターリンが対日参戦を決定し、その準備を急いで進めていることを秘し、「ソ連は、ヨーロッパの戦争を終えるのに精一杯であり、国内の問題に緊急に最大の注意を払わなければならない」と述べ、佐藤大使を安心させた。まんまと一杯食わされた佐藤大使は、モロトフの言葉をそのまま東郷外相に報告した。

さらに東郷外相は、広田弘毅元首相に、ソ連の中立を維持させるだけではなく、ソ連との関係を改善することは我が国にとって緊急の課題である旨説明し、マリク駐日大使と会談を持つことを依頼した。その結果、6月3日、4日と、箱根強羅ホテルにて、広田元首相とマリクとの会談が実現した。この会談は、広田元首相がソ連賞賛のお世辞と一般的な日ソ関係改善の意向表明をするばかりなんの具体的な話もなかったが、マリクには、日本側は、戦争終結のためにソ連を通じて連合国側と和平交渉を実現することをする必至に追求していると理解するに十分な情報とはなったようである。
マリクは、この時点では、スターリンが対日参戦を決定したことをまだ知らない。そこでモロトフにこの会談の顛末を報告し、南サハリン、クリル北部、ソ連領海における日本の漁業権放棄はかちとれるが、満州、朝鮮、遼東半島における日本の権益についての譲歩は現時点では難しいだろうとし、外交交渉継続の含みで、今後、どう対応するべきか訓令を求めた。

6月6日、最高戦争指導会議では、こうした経過には全く無頓着に、陸軍が作成した「今後とるべき戦争指導の基本大綱」が採択された。「大綱」は、主敵米に対する戦争遂行をあくまでも唱え、そのために対ソ外交を積極化させることを提唱するものであった。もっともこれに付属する「国力の現状」と題する文書は、年度末には船舶は皆無に至り、鉄道輸送力も半減する、燃料不足の危機、軍需生産の麻痺、食料危機とあいまって、近代的物的戦力の総合発揮は極めて至難となったと、徹底抗戦の方針とは裏腹な報告をしていた。

6月8日、御前会議。東郷外相の情勢分析が楽観的に過ぎるとの発言があったものの、鈴木首相も米内海相も沈黙、反対意見なしでこれがそのまま決定された。鈴木首相と米内海相はこの段階で陸軍と衝突するのは得策ではないと判断したものと言われているが果たしてどうだろうか。

翌9日、第87帝国議会の秘密会で、東郷首相は、日本の外交について、大要以下の報告をしている。

ドイツ崩壊後、米英ソ三国の間には利害の相違が表面化する場面も生じているが、大局的には、「大東亜戦争」終結に至るまで協調関係が続くと見なければならない。ソ連は、スターリンが我が国を侵略国と呼び、4月5日には日ソ中立条約を破棄通告しており、対日参戦の危険も生じているが、条約自体はまだ10ヶ月間の有効期間があり、最悪の事態を防ぐために対ソ交渉に全力を注がなければならない。

さらにこの秘密会に外務省政務局が提供した資料には、米国の対日戦略を分析し、特に皇室の取り扱いについて、米国内部で二つの相反する見解、即ち、日本の侵略的行為の根源は皇室を中心とする国体自体に求められるという論と、天皇は軍閥の侵略主義に反対の立場をとっており、日本国民の皇室に対する崇敬の念はこれを抹殺するより日本統治上利用すべきだという論があることが正確に指摘されていた。

東郷外相と外務当局は、このような冷静で正確な情勢分析をもとに日本の外交方針を立っていたのであるから、あらゆる非公式チャンネルを利用して、米国への働きかけをすることにこそ全力を傾注すべきであった。ところが現実になされた外交は、あいもかわらず、ソ連との交渉を通じ、ソ連の仲介による和平交渉一本やり、アリ地獄に陥ったも同然であった。

そしてそれを見透かしたかのようにソ連は、日ソ交渉の引き延ばしにかかる。6月15日、モロトフからマリクへの訓令には「もし広田が再度の会見を要請してくるならば、貴下は広田と会見し、意見を聞くことにする。もし、広田がまた一般的な問題しか提起しないならば、貴下は、ただ、この会談の内容を最初の可能な機会に(ただし外交クーリエで)モスクワに報告するだけにとどめること」としたためられていた。要するに単に聞き置き、引き伸ばせということだ。

そのアリ地獄の中で日本はもがく。

木戸内大臣は、6月8日の御前会議の結果を天皇から聞いて、和平に動き出した政府外の有力者、政府内の東郷外相及び米内海相らと連絡をとりあい、和平に向けた試案を作成した。
これは時期を失すれば「遂に独乙の運命と同一の轍を踏み、皇室の御安泰、国体の護持てふ至上の目的すら達しざるを悲境に落つること必定」とし、「皇室の安泰と国体の護持」を含む「名誉ある講和」を求めることを訴えるものであった。
木戸内大臣は、翌6月9日、これを天皇に奏上した。天皇も、前述の「大綱」と「国力の現状」と題する文書の矛盾を確かめるべく、満州視察から帰国したばかりの梅津参謀長に満州の状況を説明させ、また国内各軍管区の状況視察を終えた長谷川清海軍大将に説明させるなど、御前会議の決定見直しに動き始めていた。

木戸内大臣は、天皇への奏上を行った後、米内海相、鈴木首相の同意をとりつけ、政府内に鈴木首相、東郷外相、米内海相の和平ブロックが形成された。その共通項は、「皇室の安泰と国体の護持」であったが、実際には「皇室の護持」に絞られたことは、木戸内大臣が、阿南陸相と説得した際に、阿南陸相が国体を護持するためには本土で最後の決戦をすることが最善の方法だと述べたのに対し、木戸内大臣が、もし米軍が本土上陸して三種の神器を奪われたり、伊勢神宮が占拠されたりしたらどうするのかと反論したことに端的に表現されている。さすがに阿南陸相も、これには抵抗できず、木戸試案に反対はしないことを約束したとのことである。

当時の日本のトップを構成した人々には、日々死者を累積させる戦況において、戦地や占領地で日々繰り返される残虐行為は勿論、具体的な飢えと死に直面している国民の悲惨な姿は全く見えていない、ただ三種の神器、伊勢神宮、皇室の存続しか見えていなかったようだ。

アリ地獄の中でのおろかな狂騒は続く。

それはまた次に述べることとする。

注1 外交クーリエとは、外交上の文書を送る手段。モロトフは電文で報告することを禁止したのである。
注2 内大臣は内閣の一員ではなく、天皇に常待して輔弼する。天皇の相談役である。
注3 最高戦争指導会議とは1944年8月に、従来の大本営政府連絡会議を改称して設置された会議であり、 首相、外相、陸相、海相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で構成され、必要に応じ、その他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長を列席させることができた。重要事項は、天皇臨席のもとで決定する。これが御前会議である。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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