立憲君主制と象徴天皇制の間 (15)

頭痛もおさまり、そろりと再開します。通説的な説明を今回も続けます。それに対して天皇制存続論のリアリズムと戦後占領下でのその貫徹は次回以後述べることとします。

1944年5月9日、米国務省・戦後計画委員会(PWC)が戦後対日占領政策のために採択した勧告文書「日本―政治―天皇」(PWC116d)は、三つの選択肢をあげただけで結論を出さない文書であった。なお、この原案起草に関わった国務省・戦後対外政策諮問委員会領土小委員会は、1943年10月には国務省・国/地域委員会(CAC)の一つである部局間極東地域委員会(FEAC)として再編成された。従ってそれ以後は、戦後対外政策諮問委員会領土小委員会の活動は、部局間極東地域委員会(FEAC)に引き継がれている。これまでの記述をその範囲で訂正する。

1944年11月21日、ハル国務長官の病気辞任、次官のエドワード・スティティニアスが昇格。彼は外交官経験が浅いということで、外交官として生涯を過ごし、日米開戦までの10年間、駐日大使を務め、「知日派」の巨頭と目されていたグルーを次官に抜擢した。

しかし、うずまくヒロヒトを戦争犯罪者として処罰せよとの世論がある。「フィラデルフィア・レコード」紙の社説では「グルーはヒロヒトと取引している」とまで非難される。こうした世論を背景に天皇制に批判的な議員が天皇制擁護に傾いていると見られるグルーの就任に噛み付く。上院外交委員会でもねっちりと適性審査が行われる。

こうした中、グルーは、同年12月12日、上院外交委員会の聴聞会で以下のように陳述した。

「日本は、近代においていまだかって戦争に負けたことがありません。従って我々は破壊と敗北による激変が日本国民にあたえる最終的影響をはかる基準をもっていません。我々は、降伏後、日本にいかなる権力を登場させるにせよ、その権力が協力的で、安定し、信頼にたるものであることを示すよう、その証拠を要求する権利をもっています。(中略)天皇制は日本の安定要素です。ここで比喩を用いるなら、天皇は大勢の働き蜂が仕え、敬愛する女王蜂のような存在です。もしも蜂の群れから女王蜂を取り除いたならば、その巣は崩壊するでありましょう。」

グルーが行ったこの「女王蜂」演説は、今の我が国の国民水準からすれば、さしずめ天皇制のカリカチュアであり、高みに立つ文明国家の目から未開の日本を見下したとでも言うべき暴論というところであろう。米国の「知日派」の巨頭といっても一皮向けばこのように日本人蔑視の意識を濃厚に帯びていたのである。おそらく米上院外交委員会においても多くの議員が「愚かなジャップども!」と溜飲を下げたことであろう。その甲斐あって攻撃の矛先も鈍り、なんとか審査をパスしたのであった。

1944年12月には、病身のルーズベルト大統領の指導力の衰えを補うために国務省・陸軍省・海軍省三長官からなる三人委員会が組織され、戦時内閣のような役割を果たすようになった。グルーは、スティテイニアスが戦後処理のための国際会議に忙殺されていたため事実上の国務長官代理として、三人委員会に出席することが多くなった。
さらに、この三人委員会の下部機構といて各省次官補レベルの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設けられ、まもなく対日占領政策の検討機関として極東小委員会(SFE)が活動を始める。SFEの議長は、グルーの駐日大使時代からの腹心ユージン・ドウマンが就任した。さらにSFEの下部作業部会には、やはりグルーの息のかかった「知日派」のブレイクスリーとボートンが加わった。国務省極東部長にはこれまでの親中派ホーンベックを更迭し、「知日派」のバランタインを就任させた。

これからヤルタ会談、ポツダム会談という時期に、国務省も、対日占領政策の検討機関も、相当「知日派」が要路を押さえた格好だ。やがて1945年4月24日、グルーに正式に国務長官代理が発令され、同年ら7月3日、バーンズ新長官が任命されるまでグルーは米国務省の実質ナンバーワンとしてその手腕を発揮することになったのである。

天皇と天皇制をどう取り扱うべきかに関する対日占領政策の検討は、その後日本降伏に至るまでわずかに、同年3月16日、SWNCCで採択された「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55文書)に見られるだけである。それによると、①天皇個人およびその家族をどう処遇するか、②天皇制に対する軍政府の対応(注:この段階では日本にもドイツ同様に無条件降伏、全面占領と軍政を敷くことが考えられていた。1945年3月段階の沖縄関係SWNCC52シリーズ文書から同年6月11日採択されたSWNCC150文書「日本打倒後の初期対日方針」も、またヤルタ会談もこの考え方をベースとしていた。同年4月16日、トルーマン新大統領は上下両院合同議会の就任演説で「われわれの要求は過去においても現在においても無条件降伏である。」と述べて拍手喝采を浴びている。)、③天皇が逃亡した場合どうするかの三項目について検討すること、統合参謀本部(JCS)に検討委員会を設置すること、民間人の意見も聞くこと、国務省がその検討内容を起草することとあっただけで、中身は空白であった。これに実質的内容が盛り込まれたのは日本降伏後の同年9月26日の「SFE126」文書まで待たねばならなかった。

さてこうした布陣と地位に立ってグルーは、壊滅的打撃という最悪事態を防ぐために、無条件降伏路線を修正し、日本に早期に名誉ある降伏を選択させる道を探求しようとする。同年4月12日に、トルーマン新大統領が誕生している。グルーはこれまでの政策変更の可能性があると見たのかもしれない。しかし、おそらくグルーは、原爆の開発と使用が近づいていることを知って、10年も過ごした日本のことを原爆による破壊から救いたいと考えたのであろう。そう思いたい。

グルーは、同年4月14日、トルーマンに対して次のような書簡を送った。

「無条件降伏とは、もし日本の国民が望むのでれば、現行の皇室の下での君主制の廃止を意味するものではないことを大統領が公的な声明で明らかにしないならば、たとえ軍事的に敗北しても、日本の降伏はありえない。」

グルーが次に打った手は、同年5月31日に行われるトルーマン大統領の対独戦勝記念声明において、無条件降伏を修正した文言を盛り込ませることであった。5月26日土曜日、ドウーマンを呼びつけ、週末を返上して、声明文草稿を作成することを指示した。ドウーマンの用意した草稿には以下のように書かれていた。

「連合国の占領軍は、これらの目的が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、いち早く日本から撤退するであろう。もし平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植えつけられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする。」

5月28日、国務省幹部会では、上記声明文草稿に対する激しい反対が噴出し、国務省案としてこれを使用することはできなかったが、同日、グルーは、直接、トルーマン大統領に会い、早期終戦を可能にする対日条件を示すこの草案に基づいて大統領声明を発するべきだと談判した。これに対して、トルーマンは、「軍の指導者が同意するなら」との条件付きでこれを承諾したのであった。グルーは、勇気を得て、陸軍、海軍首脳と面談、同様、説得を試みた。最長老の陸軍長官スティムソンは明確に同意し、立憲君主制の存続をもっと明確にするべきだとさえ述べた。スティムソンにならい、他の軍首脳も誰も正面きって反対しなかった。しかし、そのタイミングだけが問題で、マーシャル陸軍参謀総長が「ここでは明かすことができないある軍事的理由によって」時期尚早だと述べ、これに他の軍首脳も同意した。
ここにいう「ここでは明かすことができないある軍事的理由」とは原爆開発を意味することは明らかであろう。かくして、5月31日の皇室の存続と立憲君主制の温存を認める対日大統領声明は不発に終わった。しかし、このときのグルーの努力は、スティムソンのポツダム宣言草稿に生かされることになった。

スティムソンが起草したポツダム宣言草案第12条は以下のとおりであった。

「われわれの目的が達成され、あきらかに平和的傾向を有し、また日本国民を代表する責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は日本から撤退する。これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」
これが書き換えられた経緯は、以前に述べたので繰り返さない。
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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