立憲君主制と象徴天皇制の間 (21)

米国本国政府の迷走と不決断を尻目に、マッカーサーは、天皇と天皇制を巧みに利用しつつ占領行政を順調に進めていく。さすがは米陸軍の歴戦のつわものである。

8月15日の玉音放送は独特の抑揚と難しい言葉が散りばめられていたので理解しにくかったであろう。それでも何とかポツダム宣言受諾と降伏の事実は、日本国内天下万民の承知するところとなったであろう。しかし、国内外には約700万人に及ぶ武装した陸海軍将兵が依然として存在していた。おそらく疲弊し、これからさらに一戦交えるなどという勢いはかなり削がれていたであろう。だが現に、この日も、近衛師団を含む陸軍一部将兵が決起して皇居内に侵入、放送局を占拠するなど玉音放送と降伏の妨害行動に打って出ている。またこの日から海軍・厚木飛行隊の一部将兵が、厚木飛行場を占拠し、東京上空に盛んに飛行機を飛ばして徹底抗戦のビラをまくなど、降伏に反対する行動を繰り返していた。

マニラにとどまっていたマッカーサーも、これはそれなりに脅威と感じつつ、ここで日本軍将兵の武装解除の行方をじっくりと見守っていた。そのマッカーサーは、天皇と皇族の威力に目をみはることになったのである。顛末は以下の
とおりである。

16日、天皇は、朝香宮鳩彦親王を支那総軍に、竹田宮恒徳親王を関東軍と朝鮮軍に、閑院宮春仁親王を南方総軍にそれぞれ名代として派遣、それぞれ「終戦の詔書」を伝達するとともに戦闘停止と武装解除・武器引渡しの説得に当たらせることにした。彼らは命に応じて直ちに飛行機で現地に飛んで、これを遂行した。

閑院宮の「私の自叙伝」によると、彼は、19日、サイゴンに到着、南方軍総司令官寺内寿一以下全将校に「今回のことは、まったく陛下独自の御信念に基づく真の聖断であります・・・穏忍善処するよう御沙汰を賜った・・・総司令官以下一兵に至るまで詔承必謹、万斛の涙をのんで皇国永遠の慮に基づき、ひたすら聖旨を体し善処せられんことを陛下は切に望ませられるものであります」と述べ、粛々と武装解除に応じさせたとのことである。

また竹田恒徳の自伝「私の肖像画」によると、関東軍司令部と朝鮮軍司令部で大任を果して帰国すると、再び天皇に呼ばれ、宇品の陸軍船舶司令部、福岡の第6航空軍司令部に派遣され、軽挙妄動を戒める言葉を伝達したとのこと。いずれも抵抗なく武装解除を進めることができたのであった。

17日には、東久邇宮稔彦親王に占領軍受け入れと敗戦処理のため初の皇族内閣を組閣させた。東久邇宮は、陸軍大将でもあったので陸軍大臣も兼摂させた。この人事は、軍のおさえとしての意味もあったであろうし、若いころフランスに留学し、サン・シール陸軍士官学校を卒業、エコール・ポリティクでも学び、当地で社会主義者とも交流があったという皇族唯一の国際派、進歩派でもあったので、占領軍に柔軟に対応する含みもあったであろう。

同日、天皇は「戦争終結に際し陸海軍人に賜りたる勅語」を発出し、「身命を挺して勇敢奮闘」した陸海軍人をたたえ、「汝等軍人よく朕が意を体し鞏固なる団結を堅持し出処進退を厳明に千辛万苦に克ち忍び難きを忍び国家永年の礎を残さむことを期せよ」などと、大元帥として陸海軍人に対し、慎重に行動し、暴発しないように戒めた。

マッカーサーの来日場所は厚木飛行場と定められていた。しかし、厚木飛行場における海軍・厚木飛行隊に所属する一部将兵はあいかわらず徹底抗戦を叫び、連日、東京上空を示威飛行していた。これに対しては高松宮が派遣され、帰順を説得した。その結果、24日までには無事おさまった。

25日、大元帥として帝国陸海軍人に対し、復員と武装解除にあたり「一糸紊れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し以て皇軍有終の美を済すは朕の深く庶幾する所なり」とし、今後は「忠良なる臣民」として民業に就き、この難局にうち勝って戦後復興のため働くよう諭す勅諭を発した。

さらに天皇は、9月3にも「敵対行為を直ちに止め武器を措く」ことを命じる詔書を発し、9月4日の第88帝国議会開院式勅語でも平和国家を確立して人類文化に寄与することを願い、国民は「沈着穏忍自重」して諸外国との「盟約」を守るよう求めた。

かくして8月28日には、占領軍先遣隊が無事厚木飛行場に降り立つことができた。それに引き続いて30日、最高司令官マッカーサーも無事厚飛行場に到着した。マッカーサーが、丸腰でタラップ上に立って、コーンパイプを口にして眼下の状況を一瞥し、タラップを悠然と威厳を保って降りるという、小憎らしいばかりの演出ができたのは、既に安全が確保されていたからである。

あらかじめ決められたスケジュールどおり、9月3日には東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上にて、日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長が、降伏文書に調印した。占領軍司令部は一旦横浜税関の建物に置かれたが、9月8日には宮城前広場で東京進駐式が大々的に行われ、米国大使館には星条旗が掲げられた。9月17日には、お濠端の第一生命ビルが接収され、この日、正式に占領軍司令部が横浜からここに移転した。マッカーサーも横浜のニューグランドホテルから東京の米国大使館に居を移し、これを公邸とすることになった。

なお、厳密を期しておくと、日本占領は、実は、三つの占領があった(竹前栄治「占領戦後史」岩波現代ライブラリー)。第一は連合国軍最高司令官兼米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による北海道、本州、四国、九州の占領。第二は米太平洋方面海軍総司令官ミニッツ提督による琉球列島、小笠原諸島の占領。第三にソ連極東軍総司令官ワシレフスキー将軍による北方領土(樺太、千島)の占領。このうちマッカーサーによる占領のみが、無血占領であった。これまでの叙述で占領軍という表現を用いたのは、北海道、本州、四国、九州の占領をした連合国軍最高司令官兼米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥の率いる軍隊のことである。その司令部がGHQである。1945年10月2日からは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の組織体制が明確化されたが、以下GHQ、マッカーサーと単純に呼ぶこととする。

さてマッカーサーにとっては、天皇と天皇制の威力を目の当たりして、随分思うところ大であったであろう。マッカーサーは、9月27日には天皇と初めて会見をし、10月16日には「歴史上、戦時平時を通じこれほど敏速かつ円滑に復員が行われた例を私は知らない。約700万人の兵士の投降という史上類のない困難かつ危険な仕事は、一発の銃声も響かず、一人の連合軍兵士の地も流さずに、ここに完了した」と声明したのであった。リップサービスもあるだろうがこれを見る限り、手放しの礼賛ぶりである。

次期大統領選挙に出馬し、米国大統領になろうという野心を持ち、そのためにも日本占領を成功裡にできるだけ早く終結させたいと考えていたマッカーサーにとっては、天皇と天皇制を占領政策に利用することによってその目論見を達成できるのではないかとの期待をおおいに高めていたことであろう。ただし、天皇と天皇制を温存するとの結論に至るにはまだまだいくつかの段階が経なければならない。

それを順次追っていくこととするが、その前に9月27日の天皇とマッカーサーとの第1回会見の模様とそれにまつわるさまざまな謎解きを次回に試みることとする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (20)

さてストーリーは進んで、日本降伏後のことに移る。

我が国の戦後の出発点に据えられるべきは何をおいてもポツダム宣言である。天皇および天皇制に関連する条項は下記のとおりである。

第10条 われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。

第12条 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。

既に述べたポツダム宣言起草の経過と受諾の経緯および上記条項から言えることは明治憲法体制の君主主権、天皇大権および万世一系の神聖にして犯すべきらざる天皇制は当然否定されるが、民意にもとづく天皇および天皇制は否定されてはおらず、それは「日本人民の自由なる意志に従って」決定されるということになるということだ。また天皇が戦争犯罪人として処罰される可能性も否定されていない。

では米国は、日本降伏後の占領政策として、天皇及び天皇制をどう取り扱うことにしたのであろうか。SWINCC150文書シリーズがそれを明らかにしたものとされるのが通例であるようだ。これは「降伏時におけるアメリカの初期対日方針」と銘打たれた一連の文書である。
第一稿は、1945年6月11日、起草にかかるもの(SWINCC150-1)で、この時点では占領形態は直接軍政が想定されていたので、それを前提としたものであった。その後、ポツダム宣言受諾を経て、占領形態は間接統治方式に変更されたので、それと整合性を持たせるため改訂された。その第三稿(SWINCC150-3)が、同年8月29日、非公式にマッカーサーに伝達されている。その後、これは同年9月6日、大統領承認を得て、同月22日、正式にマッカーサーに通達された(SWINCC150-4)。

この文書においては、第一に、天皇および日本政府の権威は、マッカーサー総司令官に従属すること、第二に、総司令官は、天皇を含む政府機関を通して、その権威を行使すること、第三に、日本政府当局がポツダム宣言に定める降伏条件を達成しようとする総司令官の要求を充分に満たすものではない場合、政府機関、人員の変更を要求し、或いは直接統治を行う権限を総司令官に付与すること、第四に、この政策は日本の現存の政府を利用しようとするものであって、それを支持するものではないこと、第五に、日本政府の封建的・権威主義的傾向を修正する方向に、政府の形態を変更しようとする動きが、日本国民、あるいは政府によって率先して始められる場合、その変化は許されるべきことであり、好意をもって支持されることなどが謳われている。

この文書から読み取れることは、天皇および天皇制の存続、廃止いずれについても明確な意思表示がなされていないということである。否、読みようによっては、むしろ天皇および天皇制の廃止を含む変革の動きも許され、好意をもって支持されるとさえ読み取れる。

そもそも当時、米国は、簡単に天皇制存続を打ち出せる状況にはなかった。米国国民の世論とマスメディアの論調は、圧倒的に天皇および天皇制に反対していた。1945年9月10日には、「天皇を戦犯裁判にかけることを米国の方針とする」との上院合同決議までなされている。既に述べたごとく連合国諸国においてもオーストラリア、中国など、天皇および天皇制の存続に反対する意見が強かった。ソ連については特に触れなかったが、原則論としては、日本共産党32年テーゼの示す考え方にたっていたであろう。また米国国務省においては、「親日派」のグルーが退任し、ジェームス・バーンズ長官、ディーン・アチソン次官、カーター・ヴィンセント極東地域委員会委員長など親中派が優勢となっていた。占領開始まもなく、マッカーサーからバーンズに、日本問題の専門家を顧問として派遣して欲しいと要請したところ、バーンズは「知日派」を排して、中国問題専門家である親中派ジョージ・アチソンを派遣したほどであったのである。

そのジョージ・アチソンから、1945年10月4日、バーンズに対して、日本における憲法改正の考え方を示して欲しいとの要請があった。同月16日、折り返しバーンズがこれに回答した。その中で、バーンズは、天皇制が保持された場合と保持されない場合とに分けて、天皇制が保持されない場合には、財政、予算に関する問題は選挙による国会が管理すること、日本人に限定せず、すべての人間に基本的市民権が保障されることなどを論じていたことも当時の米国政府当局者の考え方を示す有力な例証である。当時の米国政府当局者は、天皇制廃止に傾く可能性さえもその視野におさめていたのであった。

従って、この文書(SWNCC150-4)によって、米国の占領政策が「天皇制は支持しないが利用する」との方針に決まっていたと断ずるのは大きな誤りである。

国務省内に有力な「知日派」を抱えていた日本降伏前に、天皇および天皇制について米国が打ち出した政策は、既に述べたように「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)および「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55文書)の各文書に明らかにされている。それらは要するに結論先送りであった。しかし、不思議なことに、日本降伏後においても、米政府関係機関において、これらの問題について包括的・根本的に論議・検討された形跡は見られず、当面する問題をその都度議論・検討してその場しのぎをしたに過ぎないように思われる。

日本降伏後に、最初に検討されたのは、1945年9月、上記の上院合同決議がなされてからのことであった。SWNCCの極東小委員会(SFE)において、天皇を戦争犯罪者として処罰の対象とするかどうかが検討された。その結果をまとめたのが、9月26日付SFE126文書である。この文書は、「最高司令官は、JCSと相談なしに、あるいは助言されることなくして、天皇を退位させるようないかなる措置もとってはならない」、「もし天皇が退位し、国際軍事裁判所の検察官が天皇を戦犯とする証拠を提出したときは、天皇は逮捕され、戦犯として裁判にかけられるべし」としている。

9月26日付文書は、海軍代表から強硬な反対意見が出て、改訂される。それが10月1日付「日本国天皇ヒロヒト個人の処遇について」(SFE126-2)である。

この文書は、①天皇ヒロヒトは戦犯として逮捕され、戦犯裁判にかけられるべし、②そのために日本が国際法に違反したすべての証拠を収集すること、③収集の責任者は最高司令官とし、収集された証拠は、戦争裁判への手続きを進めるべきかどうかについての勧告を付して、JCSに提出されるべし、④天皇ヒロヒトの戦犯裁判への逮捕は、占領目的達成に支障なきとき、天皇が退位したとき、日本国民が逮捕させたときのいずれかのときにのみなされるべし、⑤天皇制存続から得られる占領政策上の便宜だけでは天皇を戦犯裁判から免れさせる正当な理由とはならない、⑥最高司令官はJCSと相談することなく、またJCSからの助言なしに天皇を退位させてはならない、⑦これらすべての方針は非公開とするなどとしている。

その後10月1日付文書は、10月6日に、SFEの会議の議論で、一部修正の上、「日本国天皇ヒロヒト個人の処遇について」(SWNCC55-3)としてSWNCCに提案された。しかし、そこでは激しい議論の末、同文書をSFEに差し戻すこと、JCSでの検討を中止すること、天皇制についての新しい別の政策案を作成することが決定された。

これらの議論の経過からは、天皇を戦犯裁判にかけることに消極的ないしその決定を時期尚早とする陸軍(穏健派)と、天皇を戦犯裁判にかけることに積極的な海軍および国務省(強硬派)の対立が顕著に認められる。

差し戻しを受けたSFEでは、①天皇戦犯問題は、天皇制廃止、政治改革などの占領目的全体と切り離すことはできないので、天皇制の方針が固まるまで天皇戦犯問題に関する最終決定は延期する、②最終決定は留保しつつ、当面、天皇の戦犯容疑についての証拠を可及的速やかに、かつ秘密裏に収集する、③最高司令官は、収集された証拠に、天皇戦犯裁判の手続きを開始するべきか否かについての自己の勧告を付してJCSに提出することなどが確認され、その旨をまとめた10月16日付SFE126-5文書が作成された。

それが10月19日付のほぼ同趣旨のSWNCC55-6となり、この文書とともに「現在のところ情報不足で最終決定はできない。貴官は直ちにヒロヒトが日本の国際法違反に関与した責任があるかどうか、証拠を収集されたい。収集された証拠は貴官の意見を付してJCSに送付されたい」とのマッカーサーへの照会文書案がSWNCCに提案され、10月22日にSWNCCの会議で採択された。またしても棚上げである。勿論、これらの文書は、マッカーサーへも送付されているであろう。

JCSからは、同年11月29日付で、以下のとおりマッカーサーに指示された。

「(前略) 貴官も承知のとおり、最終的にヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すべきか否かの問題は、米国にとっても重大な関心事である。ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。 (中略) 従って、いずれにせよ、われわれは、常にしかるべき秘密保持の手配をして作業を進めながらも、遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる」。

ここまでは日本降伏後における天皇と天皇制の問題をめぐる米国本国の動きを追ってみた。次は、GHQ、あるいはマッカーサーがどう動いたかを見ていくことにしよう。そこには実に興味深いエピソードがある。キーマンはやはりボナー・フェラーズである。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (19)

「日本計画(最終草稿)」は、心理作戦共同委員会での検討過程で、当時、米国極東陸軍最高司令官・連合国軍南西太平洋方面総司令官であったダグラス・マッカーサー将軍に、意見照会がなされている。

マッカーサーからは、「プロパガンダ、対抗プロパガンダ、破壊活動、ゲリラ活動を含む日本に対する心理戦の計画は、明らかに最近イギリス政府からオーストラリア政府へと提案された共同政治戦計画に対応するものである」と評価し、連合国軍全体での調整の必要、現地文民政府の了解、経済戦や戦後計画との関連、軍事作戦との接合を説く回答が寄せられている。従って、マッカーサーも「日本計画(最終草稿)」の概略程度は知っていただろう。

さらに注目するべきことがある。一つは日本占領開始直後、その独自の人脈で、天皇側近と接触を持ち、あの昭和天皇独白録の仕掛け人となったボナー・フェラーズ准将によるマッカーサーに対する「日本計画(最終草稿)」の注入である。それは戦中に始まり、戦後にも引き継がれる。もう一つは、コールグローブその人とマッカーサーとの関わりであるが、これは戦後の問題である。

フェラーズに関してはジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」(岩波書店)において、占領軍の天皇制政策について「なかでも最重要人物は、マッカーサーの軍事秘書官であり、心理作戦の責任者でもあったボナー・フェラーズである」(下巻7ページ)と指摘されている。

フェラーズは、1896年生まれ、クエーカー教徒で、教団設立のリッチモンドにあるアーラム大学に入学。そこで日本から留学していた女性と親しくなり、ラフカディオ・ハーンを紹介されて、貪り読むようになった。同大学を中退して陸軍士官学校に入学し、1918年卒業後は、軍人として日本人の精神構造、心理など日本研究に打ちこみ、1935年には「日本兵の心理」なる論文を書いている。1936年、フィリピンに派遣され、フィリピン国軍創設のため軍事顧問を任じられていたマッカーサーのもとで働くことになった。このころ、マッカーサーは、フェラーズが書いた論文「日本兵の心理」を読んだようである。

1939年、陸軍大学を卒業、1940年、陸軍武官としてエジプトに駐在。エジプトはこのころ、ヨーロッパ戦線にあって、あの戦略情報局(OSS)長官ドノヴァンが最も力を入れていた北アフリカ上陸作戦の米国側拠点であり、心理作戦の専門家として腕を磨いたことであろう。その後、1942年7月から1943年9月までドノヴァン直近の戦略情報局(OSS)の心臓部である心理作戦計画本部に勤務した。ここでは当然「日本計画(最終草稿)」に精通したものと思われる。

フェラーズはその任についていた1943年2月2日付フェラーズのドノヴァン宛手紙によると「ほとんどの軍事的な努力がヨーロッパに傾注されるため、当面アメリカが極東で持つ唯一の武器は心理作戦である」としたためている。
フェラーズは、准将に昇進、1943年9月、オーストラリアのブリスベーンにあった連合国軍南西太平洋方面軍総司令部に統合計画本部本部長として赴任、司令官マッカーサーより「軍事秘書」としてその側近に起用され、期をおかずマッカーサーの命令で、司令部内に心理作戦部(PWB)という機関を創設、その部長となった。

日本軍と戦う南西太平洋方面軍にとって、ラジオやビラなどで対敵宣伝を行い、敵の士気を落として投降を促す心理戦は重要な戦術であった。マッカーサーはフェラーズの研究、経歴・実績を尊重して心理戦の責任者に据えたのである。

フェラーズは、心理戦を実戦の中に生かすについて、天皇をどう位置づけ、どう利用するかということを考え続けた。そして、以下のように定式化した。ここに、「日本計画(最終草稿)」の成果が生かされていることは明瞭に読み取ることができるであろうし、少し、後になるがフェラーズが友人の新聞記者に差し出した1945年7月21日付の手紙には「天皇を日本の精神的象徴と見なし、軍国主義者を一掃して、リベラルな政治を日本に要求してはどうだろうか。・・・戦争が終われば、日本は最もコントロールしやすい国になるだろう」と種明かしをしているのである。

・東条を首相として承認した以上、天皇には戦争責任がある。
・しかし、天皇の戦争責任を追及すれば日本人から猛反発を招く。日本人は天皇を絶対に疑わないからである。
・ 軍部が天皇をだましたという認識を広め、軍国主義者を一掃するのが最も賢明である
・天皇および国民と、軍国主義者との間にくさびを打ち込む心理作戦を行うべきである
・ 天皇に関しては攻撃を避け無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目標達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない。
  
心理作戦部(PWB)が作成し、ジャングルに潜む日本兵に向けて飛行機からまかれたビラは実に2億2200万枚に及んでいる。その一例をあげると以下如くである。

「今日4月29日は御目出度い天長節であります。(中略) 戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生の日に戦捷の御報告申しあげる事も出来ず、むしろ自身の無能の暴露を恐れているでせう。軍首脳部は果して何時まで陛下を欺き奉ることができるでせうか。」

これらのビラの効験あらたかであったことは、フィリピン戦で投降した約12,800人の日本兵のうち、4分の3が、ビラを読んで降伏を決断したという調査結果に如実に示されている。

さて1945年8月30日、マッカーサーが厚木に降り立ったとき、フェラーズもひっそりとその後ろから付き従った。マッカーサーは連合国軍最高司令官(GHQ・SCAP)であり、その司令部GHQを率いて、勇躍、日本占領の第一歩を踏み出したのであった。そしてかの心理作戦部(PWB)は、GHQ・民間情報教育局(CIE)へと改組され、フェラーズの部下であったケン・ダイクが局長に就任した(以上のフェラーズに関する叙述は、多くは、東野真「昭和天皇二つの『独白録』」NHK出版に依拠している。)。

いよいよ、心理戦における天皇利用の幻のバイブル、否、脈々と実戦において生かされてきた天皇の利用という劇薬の処方箋「日本計画(最終草稿)」が占領政策の中に貫徹して行くことになる。その顛末を次に述べることとする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (18)

「日本計画(最終草稿)」の公式起草者ソルバート大佐は、本当に自らこれを起草したのであろうか。その真の起草者をさぐり、そこに至る系譜を少したどって見ることにしよう。

ここで浮かび上がってくるのは戦前、日本に留学し、東大で美濃部達吉博士の天皇機関説を学び、政治学者蝋山政道東大教授とも交流のあったノースウエスタン大政治学部長(1942年当時)ケネス・コールグローブの愛弟子、チャールズ・ファーズである。

ファーズは、1908年生まれ、コールグローブのもとで、日本政治を学び、1934年~36年、ボートン、ライシャワーとともに日本に留学、蝋山政道教授のもとで日本の選挙制度と急進派社会運動を学んだ。彼は、この留学中に2・26事件を目撃している。帰国後、パモナ大学助教授となり、1940年に「日本の政治」という本を太平洋問題調査会から出版している。

ファーズは、その後、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)にスカウトされ、極東課に在籍、分離改組後は、戦略情報局(OSS)の極東課長補佐、1943年に極東課長に就任している。

「象徴としての天皇」を対日心理戦に利用しようという発想の起源は、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)極東課における研究成果に遡ると思われる。同課の、初期の調査・分析は、1942年2月、「日本の戦略的概観」に結実した。これは膨大な日本研究の百科全書ともいうべき研究報告書である。これも全て対日心理作戦を立てるため、敵国日本の全容を知るという目的から発したものであった。残っているものは「第三部 人口と社会状態 第15章」から始まる部分で、タイプ印刷で全文378頁だけである。

この百科全書「日本の戦略的概観」が作られたころ、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)極東課では、個別の問題でも、以下のとおり、さまざまなレポートがまとめられている。

1942年2月5日付「エタ―日本における被圧迫集団」
同月16日付「ビルマ概観」
同年3月15日付「日本における社会関係」(その参考文献として「日本の閥」報告書、人類学者エンブリーの「須恵村」、イギリスが外交官・歴史家サムソン卿の「日本文化小史」)

ファーズらは、カリフォルニアの日本人収容者からの日本書籍を買い叩き、資料集めをしている事実が明らかにされている。彼の専攻、実績から見て、彼が百科全書「日本の戦略的概観」をはじめ、上記個別問題のレポート作成の中心にいたことは間違いないだろう。

「日本計画(最終草稿)」は、これらを基礎にファーズが起草したものと推定されるが、まだその間にまだいくつかの工程がある。

1942年4月15日付情報調整局(COI)対外情報部(FIS)の日本へのプロパガンダのための基本計画・第一(COI草案ないし42年テーゼ)

この文書中には対日プロパガンダの目的と論題としてAからHまで8項目あって、そのC項、F項には「天皇を平和の象徴」として活用することにつながる以下の記述がある。
日本人に、軍部指導者たちは、現在の天皇の望みに反して、破局的な戦争に導いたことを確信させ、これまでの詔勅 ― 日本人にとってはキリスト教徒にとっての神法よりも重きが置かれる ― に直接的に違反することを指摘すること」
「昭和天皇の和歌には敬虔な平和への希望が表現されていること、『昭和』という元号自体輝く平和を意味すること、軍部は1931年以来『天皇の述べた希望』に反して日本民衆を戦争に道微意がこと、等々を具体的事例をあげて指摘すること」
「(2.26事件以降は)天皇は、軍部及び民間の過激主義者のヴァーチャルな囚人となった」
「日本人に、米国は、日本本土への何らの領土的野心も、戦争が終わったあとの内政干渉の意図も持たず、天皇は立憲君主制の元首として正当な地位に復帰し、国民は隣人たちと平和的に共存することを、確信させること」
「アメリカ合衆国は、天皇が日本民衆の正しい指導者であり、彼が実際に王権を回復して彼が権力にあるならば、日本は再び隣人たちと平和的に共存し、再び繁栄するであろうことを承認する」
「西欧には、国家元首であるとともに国家そのものである天皇と比すべきものはない」

「日本計画(最終草稿)」につながる1942年5月13日付第1草稿「日本帝国にむけた詳細なプロパガンダ計画のための準備」、5月23日付第2草稿「日本計画」の発見

第1草稿では、「天皇は天皇崇拝の焦点であるから、彼は政治的軍事的活動を正当化し得るシンボルである。過去において、日本軍部指導者は、天皇の象徴的側面を彼らの軍事的たくらみに利用してきた。にもかかわらず、天皇シンボルは(彼の名前ではなく)、軍部への批判の正当化と平和への復帰を促し強化するために利用することが可能である」などの記述がなされている。

第二草稿は、名称が「日本計画」となり、構成は最終草稿と同じで、最終草稿の骨格はすでに形成されている。

さらに「日本計画(最終草稿)」の源流をたどると、もう一つ、1941年12月の真珠湾攻撃直後から英国情報機関「政治戦争本部(PWE)」との共同作業の一環として始まり、1942年5月に形を見た「日本と日本地域占領のための英米共同計画アウトライン」がある。その3ページ梗概中に、「皇室にたいするすべての攻撃は避けられなければならない」、「日本の民衆の間に、現在のレジームが権力を簒奪し、皇統から逸脱したことに注意を喚起して、不信感をつくりだす」などと明記されていた。

実に、「天皇」を利用した心理戦計画の検討は、日米開戦直後にまで遡ることになる。

さてこのようにして作成された「日本計画(草稿)」は、ソルバート大佐より、米国心理戦共同委員会に提案された。
彼は、陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課に所属していたが、情報調整局(COI)分割改組後の1942年8月、部下で極東班長の政治学者ポール・ラインバーガーらとともに戦時情報局(OWI)に移籍した。ラインバーカーはデューク大学助教授(政治学)で、1942年2月陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課に配属されていた。ソルバートは、ラインバーカーを引き連れて戦時情報局(OWI)に移籍し、自ら「日本計画」を完成させようとしたのであろう。

しかし、戦略情報局(COI)の最後の時期から、ドノヴァンが、ソルバート大佐主導で「日本計画」作成作業が進行し始めたことに反発、分割改組後は、戦時情報局(OWI)と戦略情報局(OSS)との間で完成に向けて主導権争いが続いた。結局、1942年8月18日、心理作戦共同委員会小委員会で、ドノヴァン主導のもとに「日本計画」は未完成のままで、「日本計画(最終草稿)」は棚上げとすることが決まってしまった。
もっとも戦時情報局(OWI)では、太平洋戦争末期、1944年6月に「天皇を攻撃することは対敵宣伝としては重大な誤りである」という指令を出し、海外戦意分析課(FMAD)という部門において天皇に関する多くの報告書が作成されている。戦後、ベストセラーになったルース・ベネディクトの「菊と刀」もここから生まれたものである。

「日本計画(最終草稿)」は、脈々といき続けたのである。では占領政策にはどう流れ込んだのであろうか。そこに至るにはもう一段の過程がある。次回にそれを述べる。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (17)

加藤氏が、戦略情報局(OSS)関係資料の山の中から発見した1942年6月3日付陸軍省軍事情報部心理戦争課「日本計画(最終草稿)」の公式の起草者は、同課長で、当時、米国心理戦共同委員会議長のオスカー・ソルバート大佐であった。
なお、米国心理戦共同委員会とは、おそらく情報調整局(COI)が戦略情報局(OSS)と戦時情報局(OWI)とに分割改組された1942年6月3日の前後ころに、情報調整局(COI)もしくは戦略情報局(OSS)及び戦時情報局(OWI)と、国務省、陸・海軍省、連邦捜査局(FBI)やなどの米国情報機関各部署の連絡調整を行うために設置された協議機関であろう。

さて「日本計画(最終草稿)」はダイジェスト版3ページ、本文32ページからなり、その内容は、連合軍の軍事戦略の一環であり、対日戦争に軍事的勝利をおさめるため、敵の内部に矛盾を作り出し、勝ち抜くための、日本に対するプロパガンダ戦略の提言と具体的立案である。概要は以下の如くである。

ダイジェスト版

「日本の軍事作戦を妨害し日本軍の士気を傷つける」、「日本の戦争努力を弱め、スローダウンさせる」、「日本軍当局の信頼をおとしめ、打倒する」、「日本とその同盟者及び中立国を分裂させる」などと4項目の政策目標が掲げられる。
その政策目標達成のため「日本人に、彼らの政府や日本国内のその他合法的情報源の公式の言明への不信を増大させること」「日本と米国との間に、戦争行動の文明的基準を保持すること」など8項目の宣伝目的と一般的心理戦略をあげる。
これにもとづいてより個別的な11項目の宣伝目的が明記されている。

例示すると、
・日本の天皇を、慎重に名前をあげずに平和のシンボルとして利用すること
・「今日の軍部政権の正当性の欠如と独断性、この政府が、天皇と皇室を含む日本全体をきまぐれに危険にさらした事実を、指摘すること
・日本に対して、われわれが勝利した場合の、戦後の繁栄と幸福を約束すること
などである。

そして末尾に「特別に慎重に扱うべき提案」として「現時点では、神道、宗教について、天皇崇拝についても、すべて言及は避けるべきである」、「天皇については、慎重で粘り強い(しかし名前を挙げない)言及が、推奨される」、「日本の皇室についても同様な扱いがとられる」など5項目の提案がなされている。

本文

膨大な本文は以下の六部構成からなる。

1.プロパガンダの政策目標 ― プロパガンダで工作すべき直接的目標
2.プロパガンダの目的 ― 敵の心に届けられ定着するプロパガンダの要点
3.プロパガンダの論題 ― プロパガンダ目的を達成するために用いられる主張
4.作戦とテクニックについての一般的注意
5.いくつかの日本人の性格
6.特別の慎重に扱うべき提案

このうち過半を占める「3プロパガンダの論題―プロパガンダ目的を達成するために用いられる主張」において、ダイジェイスト版に見られる心理戦略の基調を根拠付ける、日本社会と日本人の要約的分析がなされている。一部抜粋すると、以下の如くである。


「日本の政府と普通の民衆との間に分裂をつくりだす」ために

明治日本のアジア侵略=拡張主義に目をつむり、明治天皇とのリーダーシップと立憲主義を強調せよと述べる。
具体的に「日本人に対して、彼らの現在の軍事的指導者たちが、明治天皇が道を拓いた行程から大きく逸脱し、現在の天皇の望むところとは正反対の道に迷い込んだことを指摘すること。明治天皇の誇り、彼の拡張主義ではなく、彼の疑似立憲主義、彼の親英感情に基づく諸政策等々が、強調されなければならない」との指針を示す。

さらに以下の諸点が利用するべきだという。

第1に天皇は満州事変に反対だったが排外主義者による暗殺が広がるのを恐れてしぶしぶ認めたこと、第2に国際連盟総会において、天皇は松岡洋右に民主大国と決裂しないよう命じていたにもかかわらず、松岡が軍部の意向に従ったこと、第3に天皇は、日独伊三国同盟に反対で、それを防げなかった後も平和を望んでいたこと。

要するに「天皇は平和のシンボル」であることを強調せよと言うのである。さらに「天皇は現在でも軍部指導者の犠牲になっていると述べること」により「シンボル=象徴」の意味が一層明らかになるとされ、「天皇は西洋の国旗のような名誉あるシンボル」であり、「軍当局の批判の正当化に用いることは可能であり、和平への復帰の状況を強めるために用いることもできるだろう」とされている。

以上のとおり、「日本計画(最終草稿)」は、冷徹な「天皇の象徴的側面」の利用価値が繰り返し強調し、それを心理戦の武器とすることを賞揚しているのである。

これは「天皇のページェント」(NHKブックス)の筆者で知られるタカシ・フジタニカリフォルニア大学サンディエゴ校教授が「新資料発見 ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」(「世界」2000年3月号)で紹介した、1942年9月14日付エドウィン・ライシャワーの陸軍省次官らへ提案した傀儡政権構想(puppet regime)メモランダムよりも3ヶ月以上も遡る象徴天皇の心理戦利用のための企画書である。

ライシャワーのメモランダムには、日米戦争勝利後にヒロヒトを中心とした傀儡政権(puppet regime)を陸軍省次官らに提言するとともに、日系アメリカ人部隊をもうけ連合国が人種差別的だと宣伝する日本のプロパガンダに対抗することも提案されていた。

その冷徹かつプラグマティックな思考に、多くの我が国国民は眉をひそめるに違いない。

しかし、「日本計画(最終草稿)」は、さらにその上を行く、荘厳な天皇と天皇制の軍事的利用作戦計画だったのである。しかも、驚かされるのはその作成日付である。1942年6月3日と言えば、我が国が誇る連合艦隊の正規空母6隻のうち4隻を失い、一気に戦局が転換することになった同月5日のミッドウェー海戦の前のことではないか。

我が国は、なんという懐の深い、巨大な国を敵としてしまったものであろうか。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (16)

米国が、戦後に天皇及び天皇制をどうするべきかを検討した始めた時期は1942年夏以後、本格的になされるようになったのは1943年3月以後、その検討結果が形を示すようになったのは1944年4月~5月であること、いずれも国務省関係諸関によるものであること、それはあくまでも対日占領政策策定の一環としてなされたものだというのが、永らく我が国において信じられてきたストーリーであった。

もっとも米国政府部内において、1945年4月以後、「知日派」の国務次官グルーが、日本に対する無条件降伏路線を修正し、「天皇と天皇制の存続」の余地を残す降伏条件を明示するためのさまざまな試みがなされた。しかし、それの主たる目的・意図は、我が国の壊滅的打撃を少しでも減じようという「知日派」の我が国に対する「善意」に発するものであって、決して米国が戦争に勝利するため実利的・軍事的意図・目的によるものではなかった。

考えてみれば、永らく我が国において信じられてきた国務省関係諸機関による検討ストーリーも、太平洋戦争を含む第二次大戦を戦った連合国諸国の侵略的なファシズム・軍国主義諸国家を打ち倒し、平和・民主・安定の国際秩序を回復させ、その制度的保証を確保しようとの共通意思―それは大きな意味での「善意」である―に発するものであったと言ってよいかもしれない。

しかし、加藤哲郎一橋大学名誉教授(以下「加藤氏」という。)は「象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦『日本計画」」(平凡社新書)において、米国内におけるもう一つの「天皇と天皇制」の研究・検討作業があったことを、明らかにしておられる。ただし、加藤氏は、これを先行研究と結びつけ、先行研究のパースペクティブを遡上させるものだと自己限定をしておられるようにみえる。これは学者としての謙抑性のしからしめるところであろう。私は、アマチュアの強みで、もっと大胆に話を飛躍させようと思う。

それでは、加藤氏の述べるところを紹介することとする(もっとも以下の記述は他の文献により補充した部分もあり、また多分に私の判断、解釈を交えた部分も多く、加藤氏の記述を正確に伝えるものではない。従って記述内容に関する責任は全て私が負うべきものである。)。

まずは、理解をするために、頻繁で出てくる用語と関係諸機関を加藤氏に従い整理することから始める。

「情報戦」について

今日では、国家間の戦争において、情報戦が大きな位置を占めている。第二次大戦時にはこれを、米国では「心理戦」、英国では「政治戦」、ソ連ではコミンテルンを通じた「プロパガンダとアジテーション」であった。ナチス・ドイツはゲッペルスの宣伝省がこれを担いっていた。日本にも情報局があったが、国内治安対策が主要な任務であった。

米国の「心理戦」を戦う組織編制

米国で国家安全保障(National Security)という言葉が誕生したのは1941年7月の大統領令で大統領の直轄機関として情報調整局(COI)を設置したときに始まる。情報調整局(COI)は、上記大統領令発令と同時に辣腕弁護士ウイリアム・ドノヴァンがその責任者として発足した。発足時の当初予算は45万ドル、スタッフは92人に過ぎなかったが、僅か4ヵ月後の同年12月には予算1300万ドル、スタッフ600人、1942年3月には、スタッフは1852人になった。

情報調整局(COI)には、対外情報部(FIS)と調査分析部(R&A)がおかれていた。調査分析部(R&A)は、頭脳であり、米国内の最高の研究者が集められた。対外情報部(FIS)は、「心理戦」として策定されたプロパガンダの実行部門であった。

しかし、枢軸国と近い関係にある在米スペイン大使館への仕掛けた秘密工作をめぐって、ドノヴァン長官と連邦捜査局(FBI)フーバー長官とのトラブル、対立問題が発生し、1942年6月3日、統合参謀本部(JCS)の決定により、統合参謀本部(JCS)傘下の戦略情報局(OSS)と、大統領直轄の戦時情報局(OWI)に改組された。

まず対外情報部(FIS)のホワイト・プロパガンダ部門は、大統領直轄の戦時情報局(OWI後国務省のForeign Informationを経てアメリカ情報局USIAとなる。)に移行した。

上記以外の部門は全て戦略情報局(OSS)に移行。戦略情報局(OSS)は、第一にJCSのための戦略情報の収集と分析、第二にJCSの要求する特殊作戦を任務とすることとなり、従来の情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)はそのまま頭脳部門として残され、実行部門の対外情報部(FIS)の残留組は秘密情報部(SI)と特殊工作部(SO)として編成された。ドノヴァン長官は続投である。

改組後、戦略情報局(OSS)は、予算は1億1554万ドル、スタッフは1万2718人に急膨張している。
戦略情報局(OSS)は、1945年9月、一旦解散、陸軍戦略情報局(SSU)に縮小改組され、1947年9月国家安全保障法により中央情報局(CIA)となった。

以上の基礎的事項を横に見ながら、加藤氏の説明を敷衍していくこととする。
話は、加藤氏が、2004年夏、その3年前に機密指定が解除され、米国国立公文書館で開示されることになった戦略情報局(OSS)関係資料の山の中から、1942年6月3日日付米国陸軍省軍事情報部心理戦争課「日本計画(最終草稿)」なる奇妙な文書を発見したことから始まる。これは、実に、象徴天皇を利用した「心理戦」の企画書ともいうべき文書である。

この文書の内容、その来歴、起草者、その射程などもろもろの顛末は次回以後に順次紹介することとする。

ここでは加藤氏の説明を読んで米国の機密書類の管理・保存及び公開システムは、我が国のはるかに及ばない素晴らしさがあると思ったので、秘密保護法や公文書管理法、情報公開法が問題となっている折からぜひ一言触れておきたいと思う。

戦略情報局(OSS)関係資料は、1945年9月の解散縮小時に調査分析部(R&A)の資料を中心に1800万立方フィートが国務省に移管され、残りの6300万立方フィートは陸軍戦略情報局(SSU)を経て、1947年9月に発足した中央情報局(CIA)に移され、機密のまま保管されてきた。その後、国務省保管資料は、1975年、76年に公開、中央情報局(CIA)保管資料は80年代以降に逐次公開されている(21世紀に入ってなお300万立方フィート75万頁分が未公開)。これらはいずれも最高機密(トップシークレット)、機密(シークレット)、秘密(コンフィデンシャル)のいずれかに指定されていた。

米国では、クリントン政権下で秘密指定期間が30年から25年に短縮されことによる情報公開法による秘密指定解除がされるのと並行して、1998年10月に成立した「ナチス戦争犯罪情報公開法」、2000年12月に成立した「日本帝国政府情報公開法」によって、機密指定解除勧告がなされ、秘密指定解除がなされている。これによって戦時の個人ファイルにもアクセスできるようになった。

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR