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立憲君主制と象徴天皇制の間 (終章)

「立憲君主制と象徴天皇制の間」と題して、30回にわたって書いてきたが、このあたりでひとまずのまとめをしておくこととする。

 天皇および天皇制の取り扱いは、GHQ/SCAP・マッカーサーが主導して決定したのであり、米国本国政府や連合国諸国政府は、それを追認したに過ぎないことが明らかになった。マッカーサーの千軍万馬の働きである。ではマッカーサーにそのように推し進めさせたものは何であろうか。

マッカーサーは、米国陸軍トップの地位にある高官として権威への親和性を持ち、自己にsubject toすることになった昭和天皇に対し個人的にも感慨をもったことであろう。しかし、マッカーサーを突き動かしたものはそのような個人的感慨ではなく、占領政策を効率的かつ平穏に遂行するために昭和天皇を利用できるという昭和天皇の利用価値こそがはるかに大きな意味を持ったのである。マッカーサーにとっては、武器をもった戦時下の戦いから権力をもった平時における戦いに局面が移動したに過ぎず、昭和天皇の利用は戦時下における戦いの一側面である心理戦の延長であった。

それと同時にマッカーサーが本国政府や連合国諸国政府を自己の決定に従わせ、日本政府をそれに協力させるためにとった戦略・戦術もまさに戦時下の心理戦の延長線上のものであった。そしてそれを支えたのは、民政局をはじめ有能なGHQスタッフの実務的働きも勿論であるが、それ以上に心理戦のプロ、フェラーズの存在と働きが大きくものを言ったのである。

私は、日本国憲法に規定する象徴天皇制はこのような由来をもち激戦のあとをとどめているものとして把握しておく必要があることを強調しておきたい。

「立憲君主制と象徴天皇制の間」を書き始めたときには、包括的に天皇制を論じてみようと思ったのであるが、論じることができたのは、戦後「象徴天皇制」を生み出した力とその本質の分析だけに終わってしまった。これまで論じたところは、多少、デフォルメをされ過ぎとの感もあろうが、それは、通説的に論じられていることを意識し、これを疑うという姿勢がしからしめたもの、寛容に願いたいものである。

ところで、「立憲君主制と象徴天皇制の間」の続編として今後展開していくべき課題は以下のとおりである。

第一に昭和天皇の戦争責任論
丸山真男は、戦争責任を、①誰に対しての責任か、②どのような性質の行為が責任対象となるか―過失、怠慢、不作為責任、③どういう範疇の責任か―刑事上の責任、道徳上の責任、政治的な責任、形而学的責任、④行為主体の地位および職能の4つに区分して論じる必要があると提起している。適切な提言である。
昭和天皇の戦争責任についてもこの区分に従い、論じていく必要がある。
もっともそれに先行して、近代天皇制とその昭和戦前の特殊態を研究しておくことが必要である。私は、この問題について、政治過程を詳細に検討し、立憲君主制であったかどうかを論じるのは事の一部を捉えて全体を論じるに等しく、政治過程に現われない宗教・精神・思想における天皇と天皇制を考察する必要があると考えるものである。政治史、思想史を渉猟する必要があるだろう。

第二に近代以前の天皇制の歴史
不親政の伝統、刀に血塗らざるの伝統を説く大家の説を紹介した。が、果してそれはどうであろうか。大家の説くところでも疑ってかかる必要がある。
大王の時代の戦乱史、律令制導入前後における古代内乱史、律令制の円熟期および中世における天皇による権力闘争の歴史、近世の天皇の実態等々、研究し、論ずることは膨大である。

第三に戦後象徴天皇制の実像と将来
戦後象徴天皇制下においても、昭和天皇が政治に深く関わっていた事実、戦後においても首相をはじめ国務各大臣の内奏が実施されている事実がある。憲法の諸規定との乖離を明らかにする。
そして象徴天皇制の国民への定着状況、病理と生理、さらには将来を展望することも必要だろう。

以上について私なりに研究していきたいと思いつつ、つたない小論を終えることにする。
                                                    (了)
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立憲君主制と象徴天皇制の間 (30)

本小論の冒頭で、独白録の結論部分、昭和天皇が最も力を入れた太平洋戦争開戦にかかわる弁明を引用したが、最後にもう一度独白録に迫ってみよう。

独白録によると、昭和天皇からの聞き取りの日時、状況、および記録作成状況は以下のとおりである。年次は、いずれも1946年である。

1回目 3月18日 午前10時15分より午後0時45分まで
2回目 同月20日 午後3時より5時10分まで
3回目 同月22日 午後2時20分より3時30分まで
4回目 4月 8日 午後4時30分より6時まで
5回目 同月 同日 午後8時より9時まで

聞き取りに立会いをしたのは、宮内大臣松平慶民(旧福井藩主松平春嶽の三男)、侍従次長木下道雄(侍従長藤田尚徳は病気のため)、宗秩寮総裁松平康昌(旧福井藩主松平春嶽の孫)、稲田周一内記部長および寺崎英成御用係の5名であった。このうち1回目から3回目までは、昭和天皇は、風邪のためベッドを政務室に持ち出し、横臥したまま語っている。4回目と5回目は、葉山御用邸に休養中の昭和天皇を5名が訪ね、聞き取りをしている。記録は稲田が作成し、不明瞭なところは木下が逐次昭和天皇に聞き、添削を加えたということである。

御用掛寺崎は外務省の高官、太平洋戦争開戦時には在米国日本大使館にあって一等書記官をしていた。彼の妻、グェンドレン・ハロルドは米国人で、フェラーズとは遠い親戚であった。寺崎は、戦後、GHQとの関係を司る外務省の外局・中央連絡会議に在職していたが、フェラーズから吉田外相にGHQと宮中のパイプ役をつくることの要望があり、1946年2月から、宮内省御用掛として天皇の側に仕えることになったのであった。
フェラーズにとっては願ってもない人事であったであろう。

その寺崎は、そのようにして作成された正式記録に基づいて、6月1日、今、独白録と読んでいる冊子を書き上げたのである。おそらく正式記録は、今も、宮内庁に保管されていることであろう。

ところで、この昭和天皇の回想を語る場面、私は、鬼気迫るものを感じるがどうだろう。風邪で寝込んでいるところ、あるいは休養中のところをおして、昭和天皇が、5名の側近の者らに、第一次大戦後の米国における排日差別に遡る「大東亜戦争の遠因」からポツダム宣言受諾の「聖断」に至るまで約20年に及ぶ回想談を語り、それを記録させたというのは異様ではないか。その異様性と、記録作成者が、詔書、詔勅などの天皇の正規の文書を作成する任にある内記部長の稲田であったことを考えると、これは戦争犯罪者として訴追されることを防ぐための弁明書づくりであったことは、容易に推認できる。

しかるに「文藝春秋」・1991年1月号に載った伊藤隆(東京大学教授)、児島襄(作家)、秦郁彦(拓殖大学教授)、半藤一利(昭和史研究家)の座談会において、まさにそのような弁明書づくりであり、寺崎が独白録を作成したのはGHQへ提出するためであろうと主張する秦に対し、伊藤、児島の両名は、昭和天皇の私的な内輪話に過ぎないとして、次のように放言をし、嘲笑しているのである。

伊藤 これは、秦さんのいう英文が出てきたらカブトを脱ぎますがね(笑)。
児島 せいぜい秦さんにお探しいただきましょう(笑)。

一橋大学教授吉田裕は、早くも、1992年12月21日第1刷発行の「昭和天皇と終戦史」〈岩波新書〉の中で、GHQ参謀2部(G2)部長チャールズ・ウィロビー少将の回想録、「知られざる日本占領」(番町書房)の中の次の一節を捉えて、昭和天皇のこの回想談の記録の英訳文の存在を指摘していた。

「東京の私の情報部は、公的に圧力をかけるという手段ではなしに、私的ルートを通じて天皇側近のある最高官吏から機密書類を入手し、さらに彼の考えを述べさせて、文書化することに成功した。(中略)これらの文書はきわめて重要な歴史文書だといえる。大日本帝国が崩壊に瀕しているまぎわにおける、天皇の奇妙なまでに生々しい姿や、降伏時における天皇の役割がくっきりと浮き彫りにされているのである」

その後、伊藤、児島の「予言」どおり、実際に独白録の英訳文が出てきたのであった。もっとも探したのは秦ではなく、東野真をチーフとする、NHK取材班であった。彼らは、1996年5月、同年6月23日放映されたNHKスペシャル「秘録 高松宮日記の昭和史」の番組作りで、あのフェラーズの一人娘ナンシー・フェラーズ・ギレスビーを訪ね、裏づけのためフェラーズの残した文書資料に目を通させてもらっていたときに、A4紙8枚にタイプされた不思議な文書を発見したのであった。それが独白録の英訳文だったのである。文書の余白には、フェラーズの筆跡で「BY Hidenari Terasaki」と鉛筆書きされていた。伊藤、児島の面目丸つぶれである。

東野は、この英訳文は、独白録の作成日付となっている1946年6月1日よりも前、同年4月23日ころにフェラーズにわたったであろうと推認している。その決め手になったのは木下の「側近日誌」(文藝春秋)と寺崎の「御用掛日記」(文藝春秋)である。

弁明書づくりが終わった4月8日以後の「側近日誌」と「御用掛日記」を追っていくとそれはわかる。昭和天皇および木下は、寺崎を通じ、フェラーズにマッカーサー・天皇の第2回会見の設定を交渉し、一旦は4月23日午前10時30分と決まったが、それが政局の関係で、延期になってしまった。その会見に向けての「御会話資料」が何回も「側近日誌」、「御用掛日記」に出てくる。それは、独白録であり、またその英訳文であるとの推理は、初級者レベルでもできる。4月23日の夜、寺崎はフェラーズと会う。その前に寺崎は、木下から寺崎の裁量で「機密話してよし」と許可を得たことを日記に書いている。

同月3日、連合国・極東委員会、天皇を戦争犯罪者から除外することを決定、その通知が東京に届いたのは同月23日であった。
一方、極東軍事裁判の国際検察局は、ソ連検察陣が着任しないまま、4月5日、暫定的に26名の被告を選定した。ソ連検察陣が来日したのは13日であった。彼らは、17日に行われた参与検察官会議で既に決定していた26名に、5人追加することを要求した。しかし、その中に天皇は入っていなかった。かくして4月29日、国際検察局が公表した起訴状には、28名の被告の名前が記載されていたが、勿論天皇は入っていない。

ところで昭和天皇の弁明書づくりは、既に述べたように、1945年12月4日以来、事実上始まっていた。木下の「側近日誌」から拾うと以下のとおりである。

12月4日
 尚、戦争責任者について色々御話あり。右は非常に重要なる事項にしてかつ外界の知らざる事あり。御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり。
12月7日
 午前、侍従長室に侍従長、内記部長と三人、木戸侯の文書の事につき協議。兎角松平君相手に側近の時局に関する文書を纏める事とす。
1946年2月25日
 とにかく側近としても、陛下の御行動につき、手記的のものを用意する必要なきやにつき御下問あり。これは発表の有無は別として、内記部長を専らこれにあたらしむべきことを申上ぐ。

3月18日からの作業は、その延長線上にある。しかし、上述の如く、いきなり異様な状況、異様なほどの切迫感がもたらされるようになってしまった。一体何があったのであろうか。

寺崎が正式に御用掛に任じられたのは2月20日、天皇とはじめて対面できたのは3月9日であった。寺崎は、フェラーズに早速報告した。このころ、フェラーズは、日本の関係者に、3月2日の極東軍事裁判国際検察局の執行委員会で、被告選定作業が開始されたこと、オーストラリアのマンスフィールド検事が、天皇を含む戦争犯罪者のリストを提出し、天皇の訴追を強く主張したことを伝え、天皇自身の開戦責任に関する弁明書をつくることを要求していた。当然、寺崎にも伝えたであろう。その要求が、寺崎を通じて、天皇および側近に届いたのである。

もっともフェラーズにとっては「マッカーサーの協力者として占領を円滑ならしめつつある天皇が裁判に出されることは本国におけるマッカーサーの立場を非常に不利にする。これが私のお願いの理由だ。」というわけで、独自の心理戦を戦っているのであった。

さて長い連載になってしまったが次回にまとめをし、「立憲君主制と象徴天皇制の間」第一部を終えることとする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (29)

重要なことを忘れていた。日本国憲法の象徴天皇制規定の由来を述べておく必要があった。話がバックするが、ここで述べておきたい。

GHQ民政局のスタッフが、憲法草案を起草するにあたり直接のガイドラインとしたのは、通称マッカーサー3原則、私のいうマッカーサー・幣原3原則であるが、その第1原則を原文で引用してみよう。

(原文)
The Emperor is at the head of the State.
His succession is dynastic.
His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsible to the basic will of the people as provided therein.
(訳文)
 天皇は、国の最高位にある。
 皇位は世襲される。
 天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする。

 このほかにポツダム宣言、「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)、日本側のいくつかの憲法改正案などしか手元にはなかった。しかし彼らは研究意欲旺盛であった。2月4日、起草作業を統括するケーディスを責任者とする運営委員会(ケーディスを責任者とする3名で構成される)のもとに、立法権に関する小委員会、行政権に関する小委員会、人権に関する小委員会、司法権に関する小委員会、地方行政に関する小委員会、財政に関する小委員会、天皇・条約・授権規定に関する小委員会に組織編成がなされるや、各自、担当分野に関する文献を収集し、研究に没頭した。人権に関する小委員会の一員となった22歳のベアテ・シロタはすぐジープを走らせ、いくつかの図書館をめぐって大量の書籍を借り出してきた。行政権に関する委員会に配置された26歳の行政学の研究者でもあるミルトン・エスマン中尉は東京大学の蝋山政道教授を訪ね、世界各国の憲法の英文の資料を大量に借り出してきた。会議室の机の上に山と詰まれた資料と彼らは格闘した。 

3月13日、日本政府に交付されたGHQ草案では、天皇に関する規定は、上記に対応して以下のように成文化された。

(原文)
article i.
The emperor shall be the symbol of the state and the unity of the people, deriving his position from the sovereign will of the people, and from no other source.
article ii.
Succession to the imperial throne shall be dynastic and in accordance with such imperial house law as the diet may enact.
article iii.
  The advice and consent of the cabinet shall be required for all acts of the emperor in matters of state, and the cabinet shall be responsible therefor.
The emperor shall perform only such state functions as are provided for in this constitution. he shall have no governmental powers, nor shall he assume nor be granted such powers.
 The emperor may delegate his functions in such manner as may be provided by law.
(訳文)
第1条
天皇は日本国の象徴であって、日本国民統合の象徴である。その地位は主権者である国民の意思に基づくものであり、他の如何なる源泉にも基づかない。
第2条
皇位の継承は世襲であり、国会の制定する皇室典範に従う。
第3条
国事に関する天皇の一切の行為には内閣の輔弼及協賛を要し、内閣がその責任を負う。
天皇はこの憲法の規定する国家の機能をのみ行い、政治上の権限を有せず又これを把握し又は賦与せられることはない。
天皇はその機能を法律の定めるところに従い委任することを得。

マッカーサー3原則と対照して、すぐ気付くことは、ここには「天皇は日本国の象徴であって日本国民統合の象徴」であること、即ち象徴天皇制が明確に規定されていることである。どのような経緯によってこのように規定されるに至ったのであろうか。

まず、あの天皇および天皇制を利用する心理戦のバイブル「日本計画(最終草稿)」には、「天皇の象徴的側面」の利用価値を繰り返し強調し、それを心理戦の武器とすることを賞揚していた。フェラーズが、1945年10月2日付の覚書の中で、「彼ら(日本国民)の天皇は、祖先の儀徳を伝える民族に生ける象徴である。」、「日本国民は、かりに彼らがそのような機会を与えられるとすれば、象徴的国家元首として天皇を選ぶであろう。」と述べているのも、さらにマッカーサーが1946年1月25日、米国陸軍参謀総長アイゼンハワーに送った回答電文中で、「天皇はすべての日本人を統合するシンボルである。彼を滅ぼすことは国を崩壊させることになる」と述べているのもこれを敷衍したものである。

心理戦の系譜とは別に、グルーが1942年12月14日、ホーンベックに送った手紙の中で、「象徴として、天皇制はかって軍国主義崇拝に役立ったと同様に、健全かつ平和的な内部成長にとっての礎石としても役立っている」と述べ、天皇を象徴とみなす考えを披露している。おさらいをしておくと、これは米国務省内に設置された戦後対外政策諮問委員会の領土小委員会が活動を開始する1943年3月の少し前のことで、この委員会には、ボートン、ブレークスリー、バランタインらとともにホーンベックも加わっていた。

しかし、GHQ草案起草を統括する運営委員会の責任者・ケーディスは、自己を含む運営委員会のメンバーと、天皇・条約・授権規定に関する小委員会を担当したリチャード・プール少尉、ジョージ・ネルソンらが、草案作成過程で発案したものであることを強調し、これらとは全く無関係であると断言している。

ケーディス自身は、英連邦の「ウェストミンスター憲章」とそれの基礎になったパルフォア報告書(1926年、パルフォア伯爵が英国議会に提出し報告書)を貪り読んだ記憶があると述べている。その「ウェストミンスター憲章前文」には「王位(クラウン)はイギリス連邦構成国の自由な連合の象徴であり、構成国は、王位(クラウン)に対する共通の忠誠によって結合されている」と定められている(中村政則「象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺―」岩波新書)。

プールは、「象徴」は「ウェストミンスター憲章」からとったことを明言した上、「〈シンボル〉という言葉は、旗とか紋章とかの物質を連想しやすいのですが、英語では、精神的な意味も強く含んだ言葉です。日本の憲法学者は、現行憲法第1条の〈シンボル〉という表現がどこから来たか非常にこだわっているようですが、アメリカ人ならば十人が十人とも精神的な要素も含んだ高い地位という意味を、すぐ理解する言葉です。〈シンボル〉というのはよい表現だと思いました」と述べている。

なお日本国憲法制定史の研究者であるメリーランド大学名誉教授セオドア・マクネリーは、マッカーサーの示した「The Emperor is at the head of the State.」の訳文として、「天皇は国の元首の地位にある」(たとえば高柳賢三ほか「日本国憲法制定の過程」有斐閣)というのは間違いである、天皇は国の元首の地位にある」の英文は「The Emperor is the head of State.」である、「The Emperor is at the head of the State.」は「天皇は国のトップ(最高位)にある」と訳すべきだとも述べている(鈴木明典「日本国憲法を生んだ密室の九日間」創元社)。
天皇を元首と改正せよという改憲論の一つの論拠も、もろくも崩れ去ったと言うべきである。

いずれにせよ、GHQ民政局の憲法草案起草チームには、象徴天皇制を生み出す知的バックグラウンドが存在していたのであり、彼らの真摯な討議の中から象徴天皇制の規定が生み出されることになったことは間違いない。それは彼らが、天皇および天皇制利用の心理戦に加わったことを意味するものではなく、それとは別の次元で、置かれた条件のもとで彼らの持てる力を最大限発揮し、日本国民へ大きなプレゼントを残したものと評価するべきことではなかろうか。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (28)

1946年1月24日に行われたマッカーサーと幣原の3時間を超える二人だけの会談は決定的な転機となった。このあとのマッカーサーの動きは、大胆であり、かつ素早い。それもその筈だ。マッカーサーがここでモタモタしていては、フェラーズが着々と進めている天皇と天皇制の維持・利用のための心理戦も頓挫してしまう。

なぜなら天皇と天皇制を維持するなら、それは現行憲法とは異なるものであることを明確にし、改正憲法もしくは新憲法に書き込まれなければならないのであるが、そのためには二つの難関を突破しなければならない。一つは、憲法改正もしくは新憲法の制定は「日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択すること」とされた本国政府の設定したルールをクリアすることである。またもう一つは、前年12月27日に設置が決まった連合国極東委員会活動を開始すると、マッカーサーの権限は、その監督下に置かれ、いかなマッカーサーでも勝手なことはできなくなるので、その本格的な活動前に決着しなければならないということである。

1月17日以来、その前哨戦が始まった。
同日、来日中の極東諮問委員会(連合国の対日占領政策に関する諮問機関で、これが後に決定機関たる極東委員会に改組される。)のメンバーと会談した民政局次長チャールス・ケーディスは、憲法改正に向けて民政局が研究をしているのではないかと質問をしたフィリピン代表トーマス・コンフェソールに対し、「していません。民政局は、憲法改正は日本の統治構造の根本的変更に関する長期的問題であり、貴委員会の権限の範囲に属するものと考えております」と答えた。

同月29日、マッカーサーは、同委員会メンバーとの会見で、「憲法改正問題は、モスクワ協定によって、私の手を離れてしまった。今後の作業がどのようにすすめられるのか全くわからない。私が日本で最初の指令を出した時には、この問題の権限は私にあった。私は示唆を与え、日本人は私の示唆にもとづいて作業を始めた。ある委員会が憲法改正を行う目的でつくられたが、この作業へのGHQの関与につき、最高司令官は、いかなる行動をとることもやめている。私はなんらの命令も指示も発しておらず、指示だけに限定している。(中略)憲法の内容がいかに立派で、よく書かれていても、武力によって日本に押し付けらた憲法は、武力が存在する限り続くであろうが、軍隊が撤退し、日本人が自由になるとともに、日本人はその憲法を廃止してしまうだろう。・・・私はこのことを信じて疑わない」と述べた。

ケーディスもマッカーサーも相当の狸である。きっと極東諮問委員会のメンバーは、満足して帰国して行っただろう。マッカーサーは、極東委員会を油断させた。

ここにおもしろい資料がある。GHQ民政局長コートニー・ホイットニーのマッカアーサーに宛てた2月1日付の長文のメモである。以下のように述べている。

「日本の統治機構について憲法上の改革を行うという問題は、急速にクライマックスに近づきつつある。日本の憲法の改正案が、政府の委員会や私的な委員会によっていくつか起草された。次の選挙の際に憲法改正問題が重要な争点になるといいうことは、大いにありうることである。
 このような情況のもとで、私は、閣下が最高司令官として、日本の憲法構造に対する根本的改革の問題を処理するに当たってどの範囲の権限をもつか、日本政府によってなされる提案の承認または拒否をなしうるか、あるいはまた日本政府に対して命令または指令を発しうるか、という問題について考察した。私の意見では、この問題についての極東委員会の政策決定がない限り―いうまでもなく同委員会の決定があればわれわれは拘束されるが―閣下は、憲法改正についての占領と管理に関する他の重要事項の場合と同様の権限を有されるものである。」

ホイットニーは、1897年生まれ、マッカーサーより17歳の年下であるが、軍務の傍ら、コロンビア・ナショナル・ロー・スクールの夜間部に学び、弁護士資格を有し、戦間期に約13年間、フィリッピンで弁護士業務に従事した経験がある。さすがに法令の機微をわきまえ、その隙間さがしには長けている。おそらくこのようなメモが作成されるにはこれよりも少し前に、マッカーサーから下問があった筈だ。

マッカーサーは、上記の二つの難関を切り抜けるために、日本政府の憲法改正案の提出をまたずに可及的速やかにGHQ側においてモデル案を作成し、日本政府に提示すること、日本政府にはこれに準拠して「自主的」に憲法改正案を作成させる、このような妙手を考案した。いや、この妙手は、マッカーサー・幣原会談で話し合われ、合意に達した新憲法制定シナリオだったのであろう。これが単なる憶測なのか合理的推認なのかは以下に摘記するエピソードでご判断戴きたい。

既述のとおり2月1日、毎日新聞は、憲法問題調査委員会で検討されていた憲法改正試案をスクープした。これは同委員会で検討されていたいくつかの案のうちでは一番ましだといわれる宮沢甲案といわれるものであったが、「第1条 日本国は君主国とす」「第2条 天皇は君主にしてこの憲法の条規に依り統治権を行う」などとあり、毎日新聞記者も「あまりにも保守的、現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少ないと思う」と厳しい批判のコメントを加えていた。

「誰もいない首相官邸1階の憲法問題調査委員会の事務室の机の上に放置された草案の冊子を社に持ち帰って大急ぎで手分けして筆写したうえ、約2時間後に誰もいない事務所に戻り、元の机に返した。」
この特ダネをとった毎日新聞記者西山柳造は、ことの顛末をこのように手記にしたためている。

このとおりであるなら元祖・西山事件である。しかし、この憲法改正試案漏えい事件が問題にされた痕跡はない。別に想像をたくましくする必要はないが、彼が記事を書き、掲載されたのは1946年2月1日の朝の新聞であるから、これはその前日、午後のできごとであろう。その日は木曜日、このようなことを誰にも見咎められずにできるなどとは到底考えられないだろう。従ってこの裏には、憲法問題調査委員会の事務局担当者らの黙認があったとしか考えられない。幸いなことに当時の官吏服務規律(明治20年勅令39号)には、秘密漏えいを処罰する規定は置かれていなかった。上層部の指示があれば、憲法問題調査委員会の事務局担当者が情報を漏らしても、誰も傷つかずに済んだのである。因みに国家公務員守秘義務違反処罰規定が置かれた1948年改正国家公務員法からである。

私は、西山記者の大殊勲も、ご本人には気の毒だが、官製スクープであったに過ぎないと思うのである。それは単に、1月24日の会談において合意されたマッカーサー・幣原合作の新憲法制定シナリオの存在を裏付けるエピソードに過ぎないのである。

既出の平野文書中には、実は、「憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。」との幣原の打ち明け話が載せられていた。マッカーサー・幣原合作の新憲法制定シナリオなる私の推測は決して突拍子もないことではないことを了解していただけるのではなかろうか。

マッカーサーは、2月3日(この日は日曜日だ!)朝早く、ホイットニーといつものように話し合い、2月12日までに民政局スタッフが憲法改正原案を作成し、13日に日本政府に提示し、それに従い日本政府に「自主的」に憲法改正案させることを指示した。マッカーサーがこのとき示した憲法改正案原案作成作業を方向付ける3項目の要点を手書きしたメモランダムをホイットニーに交付した。これがマッカーサー3原則と呼ばれるものである。しかし、私は、マッカーサー・幣原3原則というべきだろうと考えている。それは以下のとおりである。

① 天皇は、国の最高位にある。
  皇位は世襲される。
  天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする。
② 国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための予防手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための戦争をも放棄する。日本のは、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
 日本が陸空海軍をもつ権能は、将来も与えられることなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
③ 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。
  華族の地位は、今後はどのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。
  予算の型はイギリスの制度にならうこと。
 
これに基づき、有能かつ理想的憲法をつくることに情熱を燃やした25人の民政局のメンバーが9日間、密室にとじこもり文字通り精魂傾けて、期日どおり12日に憲法改正案原案を完成させた。天皇の地位を国民の意思に基づくものとし、日本国および日本国民の統合の象徴とする象徴天皇制が、ようやくにして公然たる形をとって提示された。実に長い道のりであった。

あとは多少の紆余曲折はあったが、マッカーサー・幣原合作のシナリオどおり進行したに過ぎない。なお、その過程で、前に保留しておいたノースウエスタン大学教授コールグローブ隠然たる働きをしていることを記しておきたい。コールグローブといえば、あのフェラーズも学んだ天皇および天皇制利用の心理戦のバイブル「日本計画(最終草稿)」の真の起草者ファーズの師であり、戦前期日本の憲法および政治学の研究者である。コールグローブは3月初旬、6日に日本政府から憲法改正草案要綱が発表される前に来日、国務省とGHQ・マッカーサーとの対立、極東委員会の米国代表フランク・マッコイらとGHQ・マッカーサーとの緊張関係をほぐし、GHQ・マッカーサーへの支持を固める役割を果たしたのである。ここにも「日本計画(最終草稿)」は貫徹しているのであった。

GHQは何を押し付け、何を押し付けなかったのかよく吟味しなければならないと思うがどうであろうか。

さて天皇制の取り扱いの結末はついた。しかし現天皇の取り扱いについてはもう少し見ておく必要がある。それは次回とする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (27)

マッカーサーは秒読みに入っても着手は乱れません。勝負手も打てるし、寄せも正確、井山六冠のようです。

これまで述べたところでは、幣原を除いては、日本側の動きはあまり見えてこないが、日本政府当局者の主流は、当然のことながら天皇制にはできるだけ手をつけず、そのまま残したいと考えていた。また天皇側近グループも思いは同じであった。ここでは政府当局者主流の動きを憲法改正作業に関連して見ていくこととする。

憲法改正作業に最初に取り組んだのは、東久邇宮内閣の副首相格の無所任国務大臣近衛文麿であった。近衛は、1945年10月4日、GHQにマッカーサーを訪ね、面談した。この日、面談外で東久邇宮内閣に対し、マッカーサーは政治犯釈放命令を発した。面談では、マッカーサーは近衛に対し、日本は憲法改正をして自由主義的要素を充分取り入れる必要がある、と指摘した。

これは指示ではなく、一般論を述べたに過ぎないということのようだが、近衛はこれを自分に対する指示と受け止めたようで、内大臣木戸幸一と諮って憲法改正作業に着手することになる。近衛は、大学時代の恩師、佐々木惣一博士を内大臣府御用掛に任命してもらい、佐々木博士とともに憲法改正案の起草を始めた。

近衛と佐々木博士の憲法改正案起草作業は、5日、東久邇宮内閣総辞職、9日、幣原内閣成立、10日、日本共産党幹部ら16名を皮切りとした政治犯の釈放、11月1日、マッカーサーのよる近衛の憲法改正作業否認声明と、荒波に浮かぶ小舟のようにもみしだかれながらも進められ、11月下旬には、近衛自身作成の「要綱」と、佐々木博士作成の「憲法案」とができあがる。しかし、いずれも天皇の統治権、天皇大権を残そうとするものであった。

10月11日、新首相幣原はマッカーサーと面談。そこでマッカーサーは幣原に対し、①婦人解放、②労働組合結成の助長・促進、③教育の自由化・民主化、④秘密的弾圧機構の廃止、⑤経済機構の民主化の五大改革を指令が発出したが、憲法改正問題については、直接の言及はなかった模様である。しかし、水面下ではGHQ筋から新内閣に対する憲法改正の検討要請があったことは間違いないようで、ここでもあのフェラーズが動いているようである。

幣原内閣は、25日、政府に憲法問題調査委員会が設置し、松本蒸治国務相(東大教授で商法学の権威とされる。)を委員長とした。しかし、松本委員長は、すぐに憲法改正作業を進めていく意思はなく、「(憲法問題調査委員会の目的は)必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要ありとすればその諸点を明らかにすることである」と記者会見で語っていた。

近衛の憲法改正作業といい、松本委員長の発言としい、ここまではまるでポツダム宣言にこめられた根本的変革の必要性に関する認識が全くないかのように事態が進んでいる。

しかし、11月1日、近衛の憲法改正作業がマッカーサーによって否認されるに及んで、ようやく憲法問題調査委員会も、のんびり構えていることはできないことを悟る。11月10日の第2回総会で、松本委員長は「日本をめぐる内外の情勢はまことに切実であり、政治的に何事もなしにはすまされないように思われる。したがって、憲法改正問題がきわめて近い将来に具体化されることも当然予想しなければならない。」、「憲法改正の必要は、内はともかく外から要請があった場合、いつでもこれに応じうるように、さし当たって大きな問題を研究するにとどめ、切実にやむをえないと思われる条項をふかく掘りさげてゆかなければならない」などと少し、気持ちを引き締めている。

12月8日、憲法問題調査委員会の議を経て、松本委員長は、はじめて憲法改正の方向を4項目にまとめて公表した。これを後に松本四原則と呼ぶこととなったが、この松本四原則の第一原則には「天皇が統治権を総攬せられるという大原則にはなんら変更を加えないこと」とされていた。
この原則に基づく改正案作りの結果、どういうものができるかは予測の範囲内であろう。実際、後に1946年2月8日GHQに提出された甲案、同月1日、毎日新聞にスクープされた宮沢甲案、後に公表された乙案なるもののもいずれも天皇を統治権の総覧者とし、天皇大権を規定しようとするものであった。

一方、民間の憲法改正案には、天皇は国政に関与せず国家的儀礼のみを行うとする憲法研究会の憲法草案要綱(12月27日作成、GHQへ提出)、人民主権・天皇廃止とする日本共産党・新憲法の骨子(11月11日作成)、天皇は統治権の主体であり、総覧者であるとする日本自由党・憲法改正要綱、主権は国家にあり、統治権の主要部は議会に、一部を天皇に帰属させるとする日本社会党・新憲法要綱(1946年2月24日作成)など種々のものが発表された。

ところで、米国政府の動向は既に見たとおり、1945年10月22日までに発出されたSWNCC150-4、SWNCC55-6においては、天皇および天皇制の取り扱いは、未定、棚上げであり、マッカーサーに照会しつつ、決めていこうということであった。

そのような状況は、天皇制廃止、天皇戦犯追及の考え方の強い国務省および海軍省と、天皇を占領政策の忠実な遂行者として利用しようという陸軍省の考え方の対立によってもたらされたものであった。私は、「日本計画(最終草稿)」の名目上の起草者ソルバート大佐、これを戦場において心理戦に活用し、占領下での心理戦においても活用したフェラーズ、その進言を受け入れたマッカーサーらが、いずれも陸軍であることに注目しておきたい。日本占領の主要実務を担ったのが陸軍であったから、この対立は、結局、陸軍優位に解消していくことになるのであった。

米国政府のその後の動向を確認しておこう。

まず1946年1月7日付「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)によって憲法改正を含む統治体制の改革に関するマッカーサーへの指針が、与えられた。これは、日本国憲法の原案となったGHQ草案(マッカーサー草案)の指針となった重要な文書であるが、この中から、憲法改正に関する一般的指針と天皇および天皇制に関する指針をピックアップすると以下のとおりである。

(憲法改正に関する一般的指針)
日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択すること

(天皇および天皇制に関する指針の骨子)
・ 日本における最終的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思によって決定されるが、天皇制を現在の形態で維持することは不可
・ 日本国民が天皇制は維持されるべきではないと決定したとき
  国民を代表する議会優位、国務大臣は文官であることを要する。
・ 日本国民が天皇制を維持すると決定したとき
  国民を代表する議会が選任した国務大臣は議会に連帯責任を負う内閣を構成する。
  天皇は一切の重要事項について内閣の助言に基づき行動する。
  天皇は、旧憲法に規定する軍事的権能をすべて剥奪される。
  内閣は天皇に助言を与え、天皇を補佐する。

ここでは天皇および天皇制の取り扱いは、まだ日本国民の意思によるとの建前が依然としてとられている。しかし、いよいよこれもマッカーサーの決断に従ってすり合わせがなされていくことになる。
1945年10月18日には、SWNCCは「天皇制の取り扱い」と題するドラフト文書(SWNCC209-D)を起草、具体的取り扱いの検討の指針を提起した上で、傘下の極東小委員会(SFE)に具体的検討を指示した。これに基づいてエドウィン・ライシャワーが中心となって作業が進められ、憲法改正にかかるGHQ草案(マッカーサー草案)に遅れること二週間、1946年2月28日、「天皇制の取り扱いについて」と題する案文(SFE141)が作成された。これがSWNCCの討議を経て、最終的に、4月11日、一部訂正のうえ承認されて「天皇制の取り扱い」と題する確定文書(SWNCC209-1)となった。

これらは次のように述べている。

・ 1946年1月7日付「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)ですでに実行されている政治改革との関連で、とくに天皇制改革として留意する点は次のとおりである。
(イ)大日本帝国憲法第1条、3条および4条を精神・文言両面で改正し、天皇は神聖、不可侵であるのではなく、憲法に従わねばならないことを明記すべきである。
(ロ)天皇の神聖と天皇への盲目的献身の意識を吹きこむために公立学校を利用してはならない。皇位の由来が神にあり、天皇が神であるといういかなる叙述も教科書から排除され、公立学校内にある奉安殿の御真影も撤去される。また天皇および御真影への強制的服従(敬礼)は禁止され、教育勅語を読む儀式は一切許されない。
(ハ)天皇を神秘のベールで包み普通の人間から隔離し、畏敬の念を起させる人にする極端な手段は許されない。
・ 天皇の神格を否定した1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」はたいへん結構である。天皇はもっと一般の日本人や外国人と自由に平等の立場で接触をはかり、「天皇の意思」が真にどの辺にあるかを示すべきである。しかし、最高司令官は、これらの天皇の行為が全く自発的になされていると日本の国民にとられるような影響力を行使すべきである。云々。

これらにより、日本国民が自由なる意思により天皇制を維持すると決定したとの条件に絞り込み、上記「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)に基づいてなされたGHQ、マッカーサーの措置をすべてオーソライズしているのである。

少し先走ったようだ。その前に触れておくべきことがあった。マッカーサーは、既に見たように一気に勝負に出た。それは勝利を見越した確信に満ちた一手であった。いまやマッカーサーにとって残る問題は連合国極東委員会に介入をさせないことだけである。

連合国極東委員会とは、1945年12月27日、モスクワで行われた米・英・ソ三カ国外相会議において、対日占領に関するGHQ、マッカーサーを監督するために連合国の合議制機関として、ワシントンに設置されることが決まったものであった。その第1回会議は、1946年2月26日、ワシントンで開催されることになっていた。
マッカーサーは、極東委員会が本格的に動き出し、マッカーサーに容喙しはじめる前に天皇および天皇制の取り扱いに決着をつけ、新憲法制定に道筋をつけてしまうという筋書きを描いた。それは秒読みとの少し神経質な戦いだけである。

次回は、どのように秒読みを制したかの顛末と東京裁判の関係について述べることとする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (26)

(今回は少し幣原喜重郎という人物に思い入れをして書きました。本シリーズのクライマックスです。長い文章になってしまいましたが・・・。)

 幣原喜重郎とはどんな人物であろうか。1946年1月24日のマッカーサーとの会談に入る前に少し整理しておこう。

 幣原は、1872年生まれ、1895年東京帝国大学卒業、病気のため1年遅れて1896年10月外務省入省、朝鮮・仁川領事館領事を皮切りに外交官生活に入った。岩崎弥太郎の四女と結婚し、同じ岩崎の長女と結婚していた先輩の加藤高明とは義理の兄弟の関係にあたる。1914年12月、義兄加藤が、第二次大隈重信内閣の外相であったとき、中国に突きつけた「対支21か条の要求」に対し、オランダ公使の任にあった幣原は、これを公然と批判する意見書電文を加藤外相に送っている。1915年10月、43歳で外務次官に就任、寺内正毅内閣のもとで、1917年、南満州における外交権限が軍部移管されようとしたとき、幣原は、辞表を懐にしのばせてこれに抗議したという。

 1918年9月、米騒動による混乱の責任をとって寺内内閣総辞職、かわって政友会・原敬がはじめて本格的な政党内閣を組閣した。原首相からは、当初は、憲政会総裁加藤高明の義弟であり同人の薫陶を受けているのではないかと警戒されたが、寺内内閣の外相の意に反してシベリア出兵に反対していることや協調外交姿勢を評価されて、更迭されず、外務次官に据え置かれた。

 幣原は、まもなく駐米大使に転じた。
 1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議(米国大統領ウォーレン・ハーディングが、1921年7月、日、英、仏、伊、中などに呼びかけ、開催された。会議期間は11月12日から1922年2月6日。原が、1921年11月4日、暗殺されたため、政友会・高橋是清内閣となっていた。)で、海相加藤友三郎とともに、協調外交を展開した。海軍主力艦の削減を主とする軍縮条約、中国の主権・独立・領土保全、中国市場の門戸開放・機会均等などを確認した9カ国条約、太平洋地域における現状維持と紛争の話し合いによる解決を確認した4カ国条約の調印にこぎつけた。これにより幣原の平和・協調外交は、一躍、国内外に知られ、高く評価されるところとなった。

 幣原は、憲政会・加藤高明内閣(1924年6月成立)で、外相就任。加藤没後にあとを継いだ第一次若槻礼次郎内閣(1926年1月成立)が、1927年4月、金融恐慌の拡大処理に失敗して総辞職するまで、その任にあった。この間、米国の排日移民法、中国における北伐開始、排日・民族運動の激化という困難な国際情勢の中で、平和・協調外交を一貫して進め、中国への内政不干渉の姿勢を貫いた。

 第一次若槻内閣のあと中国干渉・武断外交を展開した政友会・田中義一内閣が、張作霖爆殺事件の処理をめぐり天皇から問責発言を受け総辞職、そのあとに成立した民政党(この間に憲政会と政友会から分裂した政友本党が合同して民政党となった)・浜口雄幸内閣(1929年6月成立)で再び外相就任。浜口首相が暗殺未遂事件により療養中は首相代理を務めた。その後も1930年4月、浜口首相の症状悪化、総辞職のあとを受けた第二次若槻内閣にも外相として入閣。1931年12月に総辞職に至るまで、平和・協調外交を貫いた。この間1930年4月にロンドン軍縮条約を調印・批准させ、1931年9月、柳条湖事件に際しても閣議で事件は関東軍出先の謀略であるというニュアンスの外務省情報を明かし、朝鮮軍を越境させ、関東軍へ増援部隊を無断派遣した現地司令官林銑十郎中将の処置について厳正な意見を述べている。

 満州事変勃発、5.15事件、2.26事件と世は狂気の支配する時代となる。日中戦争、そして太平洋戦争へと、非常時、戦時と移り行く。わが多くの国民も、偏狭なナショナリズムと戦争熱にとりつかれる。幣原平和・協調外交は、いまや軟弱外交、腰抜け外交、国辱外交、売国外交とまでののしられる。千駄ヶ谷の私邸の塀には「国賊」、「売国奴」の落書きが書きなぐられ、私邸内には石を投げ込まれる日々が続いた。幣原は、こういう無法にじっと耐え、ひっそりと邸内にとじこもり、やがて嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 それから14年後の幣原。戦災で自邸を失い、二子玉川の三菱系の農園内に仮住まいの生活を送っていた。日本降伏の2ヶ月ほど前に、吉田茂が和平工作のキーマンとして幣原を担ぎ出そうとして外務省の後輩市川泰次郎を訪ねさせたときには、「非常に痩せて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるえ、まことに老齢そのものであった。このようなご老体を和平運動にかつぎ上げて、果してどうかとさえ怪しんだ」(幣原平和財団編・刊「幣原喜重郎」)ほどに、老け込み、社会から完全に忘れ去られ、歴史の底に沈みこんでいた。

 1945年10月6日、東久邇宮内閣総辞職、吉田外相の推挙で、木戸内大臣(当時)が次期総理として天皇に奏上したとき、天皇も驚いたそうだが、この人事を聞いた古手の新聞記者からも「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚きの声があがったそうである。天皇からの呼び出しの急ぎの使者が来たときには、ちょうど厨子に確保した別宅にて隠居生活を送るべく引越しのトラックを待っていたところで、幣原にしてみれば青天の霹靂であった。

 1949年1月の衆院選で初当選し、民自党の幣原派に属し、幣原衆議院議長の秘書官を務め、後に岐阜県知事に転じた平野三郎によれば、幣原は、若いころ朝鮮の併合に反対し、「朝鮮とは平和条約を結び、善隣友好国としてつきあうべきだ」との考えだったとも語っていたとのことである。経歴からすると幣原は正真正銘の保守主義者であるが、マルクス主義哲学者古在由重とも姻戚関係にあり、批判的にではあれマルクス主義の洗礼も受けているようで、とりわけ他国への侵略、干渉には断固として反対する平和主義者であったことも間違いなさそうである。

 さてその幣原が、九死に一生を得て、肺炎の特効薬ペニシリンを提供してもらったお礼の名目で、マッカーサーを訪問し、面談したのは1946年1月24日のこと、面談時間は正午から午後3時過ぎまで、3時間余り。ペニシリンのお礼にしては長すぎる。どんな話がなされたのであろうか。

 まずマッカーサーの証言。1951年5月5日・上院軍事・外交合同委員会における証言、1957年憲法調査会渡米調査団高柳賢三会長宛書簡、1964年・マッカーサー回想録などがある。いずれもこの会談で、幣原から日本は戦争放棄と戦力不保持を世界に先駆けて宣言するとの話がなされたことを共通して伝えている。このうちマッカーサー回想録の一節を引用すると以下の如くである。

幣原男爵は1月24日の正午に、私の事務所をおとずれ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと・・・私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに遠慮する必要はないといってやった。(中略)

首相はそこで、新憲法を書き上げる際に、いわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。


 一方、幣原の直接証言は存在しない。しかし幣原の話を聞いた人が書いたものはある。幣原は、大阪中学校(途中で学制改革で第三高等学校となる)、東京帝国大学を通じて同級で、親友中の親友大平駒槌(おおだいらこまつち)に、会談当日に、会談内容を語っている。それを大平から聞いて筆記したという同人の娘羽室ミチ子のメモがある。それと幣原を師とも仰ぐ前出の秘書官平野が、生前、幣原から詳しく聞いていたことを、憲法調査会会長高柳賢三の求めに応じて、整理し、文章化して、1964年2月、憲法調査会に提出した文書がある。
 葉室メモは簡潔ではあるが、平野文書と内容は一致している。ここでは長くなるが平野文書から一部抜粋してみよう。

私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和26年2月下旬のことである。同年3月10日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は2時間ぐらいであった。(略)
 
問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第9条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。
答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。
答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問 死中に活といいますと・・・・・。
答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。
そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。
(略)

問 お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下のところは差当りは問題ないとしても、他日、独立した場合、敵が口実をつけて侵略したらです。
答 その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。しかも次の戦争は今までとはわけが違う。僕は第9条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。
(略)

問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。
もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。
答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、(略)
豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。
(略)
この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。

この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君(憲法問題調査委員会委員長)にさえも打ち明けることのできないことである。
(略)

問 元帥は簡単に承知されたのですか。
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第9条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
(略)
 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。


 これ以上何ら付け加えることはないほどに明快ではなかろうか。

 マッカーサーとしては、占領目的を早期に達成し、成功裡に終えるためには天皇と天皇制は利用しなければならない。副官フェラーズは、得意の心理戦で、本国をはじめ連合国連諸国の政府や国民世論を抑えるための布石を着々と打ち、それらの石が生き始めてきた。ただ、まだ決定打にはなっていない。そこへ当の日本の首相から、戦争の放棄と戦力不保持の申し出がなされた。しかも、彼は、天皇に政治的実権は不要だとも考えている。これを憲法に書き込めば、きっと本国をはじめ連合国連諸国の政府や国民世論も承知するだろう。よし、これで決まった、とマッカーサーは小躍りして喜んだに違いない。早速、翌1月25日に、やかましく言ってきていたJCS(統合参謀本部)への回答として、陸軍参謀総長アイゼンハワーに対し、以下の返電を送った。

・・・指令を受けてから、天皇に対してとりうる刑事上の措置につき、与えられた条件の下で調査がなされてきた。過去10年間に日本帝国の政治決定と天皇を多少なりとも結びつける明確な活動に関する具体的かつ重要な証拠は何ら発見されていない。
・・・天皇を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起すことであろうし、その反響は計り知れないものがある。
まず占領軍を大幅に増大することが絶対に必要となってくる。それには最小限100万の軍隊が必要となろうし、その軍隊を無期限に駐屯させなければならないような事態も十分ありうる。


 いやなんとも大胆な開き直りである。何の調査もしないまま、フェラーズのかの覚書をさらに最大限活用、誇張したこの恫喝的文書からはマッカーサーの勝鬨が聞こえてくるようだ。ついに天皇と天皇制利用の心理戦は成功した。

 次回は日本側の動向、米国本国政府の方針との整合性を整理し、次いで昭和天皇独白録の顛末と東京裁判に触れる。まとめも必要だ。長々と書いてきた「立憲君主制と天皇制の間」第一部(序説)もようやく終わりに近づいた。あと数回お付き合いのほどを。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (25)

フェラーズの心理戦、第三弾は、日本側に天皇が戦争責任を負わない論拠を提示させること、迫り来る戦犯裁判において日本側に天皇を守り抜く決意と確信を固めさせることであった。

フェラーズは、天皇を免責する論拠の核心を、開戦責任を否定できるかどうかに絞り込み、部下のジョン・アンダーソン少佐に天皇を無罪とする論拠を検討させた。彼は、軍歴に入る前は弁護士である。アンダーソンは宣戦の詔書に天皇自らが自発的に署名したかどうかが重要であり、「詐欺、威嚇あるいは強迫によって不本意な行動をとらざるを得なかったという事実を天皇が立証できれば、民主的裁判所で有罪判決が下されることはない」という結論であった。

フェラーズは、まずはその点について日本政府に明確な見解を出させなければならないと考えて、非公式にこれを日本政府に伝えた。新たに組閣されて間もない幣原喜重郎内閣の内閣書記官長次田大三郎の日記によると、1945年10月26日の項で、同日、来訪した陸軍中将原口初太郎が、フェラーズとの会見談として、大要次のようなことを語ったとのことである。

・真珠湾攻撃に対する天皇の責任が米側では最も重要かつ決定的な問題である。
・マッカーサーもフェラーズも、何れも天皇に対しては極めて好い感情を持っており、どうにかしてこの問題を天皇に迷惑がかからないように解決したいと考えている。
・本国の世論はなかなか厳しく、ソ連の申し入れもあって、マッカーサーも思うようにならない。
・ひととおりの弁明を準備しておかねばならない。

幣原内閣は、そこでひととおりの弁明を考えた。それが11月5日になされた「戦争責任に関する件」と題する閣議決定である。上述した核心部分に関する政府見解は次のとおりである。

・大東亜戦争は、帝国が四囲の情勢に鑑みやむを得ざるに出でたるものと信じいること。
・天皇陛下におかせられてはあくまで対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念あらせられたること。
・ 天皇陛下におかせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられおる慣例に従わせられ、大本営、政府の決定したる事項を却下あそばされざりしこと。

さすがに東条に騙されたとは言えないので、上品に立憲君主制の原理をたって、天皇免責論を打ち出したものである。これに説得力があるかどうかは、戦前天皇制の綿密な検討が必要である。また天皇の戦争責任を対米戦争の開戦責任に限定したのは、フェラーズの示唆によるものではあるが、政府見解を出す以上は、それでよいのかどうかは独自に検討するべきではないか。

フェラーズは、日本政府に工作の手を打っただけではなく、天皇周辺にも周到に働きかける。最初に接触をもったのは、1921年から12年間宮内次官を務め、フェラーズと同じクェーカー教徒でもあった関谷貞三郎であった。同じくクェーカー教徒であった河合道が、フェラーズの「天皇が真珠湾奇襲を承知していたかどうかを確かめることが最も重要であり、天皇には責任がないという根拠を明らかにするべきだ」との意見を関谷に伝えたのは10月2日のことであった。同月16日、関谷は河合とともにフェラーズを訪問し、この問題について協議した。

フェラーズは、それと並行して近衛周辺に対しても同様の工作をしている。

やがて天皇および側近グループに大きな不安がおおいかぶさってくる。GHQから、12月2日には皇族中の長老・梨本宮守正、同月6日には近衛文麿に続いて側近中の側近で11月24日内大臣府廃止に至るまで内大臣を務めていた木戸幸一、その他続々と、要人の戦犯指名と逮捕令が出されたのである。

天皇も心を痛めたようである。このころになるとフェラーズの話が天皇や側近の耳にも届いていたのであろう。12月4日には、侍従次長に就任したばかりの側近の木下道雄が万一の場合に備えて潔白の証明を作っておいてはどうかと勧めると、天皇もその気になり、少しずつ語るようになった。木下の「側近日誌」によると、「非常に重要なる事項にしてかつ外界の知らざる事あり。御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり。」とある。天皇と木下による弁明書作成の共同作業は、これ以後続いていく。天皇は立憲君主としての務めを忠実に果たしたに過ぎない、天皇も皇室も平和を求め祈ってきたという趣旨の弁明が延々と続く。この作業が、「昭和天皇独白録」へと結実していくことになるのであろうが、それはまだ先の話である。

フェラーズは、マッカーサー・天皇第1回会見で、前に認定したとおり天皇が述べたと認められる二つの発言、①東条に騙されたという趣旨もしくは軍部の責任を強調する趣旨の発言と、②全ての責任は自分にあるという趣旨の発言を活用した。

①については主として米国本国やその他の連合国政府および諸国民の天皇追及の姿勢をけん制のためである。これは既に9月25日のクルックホーン単独会見において米国向けには発信済みである。しかし、さらに日本政府や天皇および側近らが頑張るべきである。フェラーズはそのために日本政府や天皇およびその側近らを誘導した。これは以上みてきたとおりである。

②は、天皇のかっての「股肱の重臣」に、天皇の潔さをアピールして、天皇への忠誠心を高め、天皇を守る決意を固めさせるために使われた。これは事柄の性格上公然と発信することはできない。従って、具体的な証拠はない。しかし、巣鴨プリズンに勾留された戦犯被疑者たちには、天皇側近らの働きかけで、非公式に伝えられて行ったこと、その天皇側近グループは、フェラーズと親密に交流をしていたことは事実である。

さてマッカーサーは、10月16日に、700万人の兵士の投降と武装解除が整然となされたことで天皇を賛嘆する声明を発した後、沈黙を守っていた。
一方、本国政府からは、前に見たとおり、JCSの11月29日付電文で「ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。」、「遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる」と、天皇の戦犯裁判のための証拠収集を督促してきている。
フェラーズが、着々と心理戦を進め、それなりに効果が出ている、あるいは将来の効果が見込まれる状況にはなってきた。国務省が送り込んできたお目付け役ジョージ・アチソンも「1946年1月4日付のトルーマン大統領宛の報告書で、日本民主化のためには天皇制廃止が必要との見解は維持するとしつつも「日本を統治し、諸改革を実行するため、引きつづき日本政府を利用しなければならず、したがって天皇が最も有用であることは疑問の余地がありません。」と書くほどに変化を示している。

しかし、まだ決定打がない。そのマッカーサーにとって、願ってもない決め手となる申し出をしてきた人物がいた。それが誰あろう、幣原首相自身であった。幣原首相は、得意の英語力を生かし、「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)を、下案を一生懸命ブラッシュアップし、素晴らしい英文の文章を完成させた。それは1945年12月25日のことであった。彼は、当年とって73歳、半日かけて精魂傾けて作業したために疲労困憊して就寝した。翌日、発熱と激しい頭痛に襲われた。診察の結果、急性肺炎と診断された。そこで吉田外相がマッカーサーと交渉し、特効薬ペニシリンをわけてもらい、九死に一生を得たのであった。ようやく病が癒えて、ペニシリンのお礼かたがた、マッカーサーを訪問したのが1946年1月24日であった。ここで、マッカーサーの悩みの特効薬となる話を持ち出したのである。
その話はやや長く、解釈を要するので次回とする。


立憲君主制と象徴天皇制の間 (24)

マッカーサーは、いまや日本における最高権力者である。しかし、その権力基盤は、日本側が考えているほどには強固ではなかった。

占領政策については、本国政府から「降伏時におけるアメリカの初期対日方針」(SWINCC150-4)に縛られる。天皇および天皇制についても、本国政府で検討が進められており、容易ならざるものがある。9月10日には厳しい上院合同決議がなされている。本国の世論も沸騰している。日本降伏直前の6月に行われたギャラップ調査では、「死刑にする」が全体の33%、「裁判で決定」17%、「終身刑」11%、「追放」9%、傀儡として利用する」は僅かに3%に過ぎなかった。また8月に行われた全国世論調査(NORC)では、「天皇制廃止」が66%だった。それに連合国諸国もやかましい。本国政府も牽制をしてきた。政治顧問として「知日派」を送って欲しいと要請したのに、国務省は、なんと親中派のジョージ・アチソンを派遣してきた。これではお目付け役ではないか。等々。

だからマッカーサーが、天皇との第1回会見において、「私より上の権威(オーソリティ) があって、私はそれに使われる出先(エージェンシー)に過ぎないのであります。」と述べた(奥村作成の正式記録)のは、本音でもあり、また愚痴でもあったのである。

天皇と天皇制を利用することによって占領目的を成功裡に早期に達成できる。それはマッカーサーの側近フェラーズ准将の考えでもあった。彼は、未だ戦争中の1945年7月21日に友人の新聞記者にあてた手紙で「戦争が終われば、日本は最もコントロールしやすい国になるだろう」と書いていた。それは米国太平洋軍心理作戦部(PWB)部長として、あの「日本計画(最終草稿)」を実戦に活用した彼の持論であったのだ。ボスが、同じ考え方に立っているのに、それを大胆に打ち出せないでいることにあせりを感じた。

フェラーズは、ボスに心酔していた。これはマッカーサーのもとに配属された1943年9月の初対面以来のことである。1946年7月に帰国した後、1948年6月に、ボスが在職のまま日本から共和党大統領候補の予備選に名乗りを上げたとき、不在のボスにかわって選挙運動を取り仕切ったほどである。

ちなみにマッカーサーは緒戦のウィスコンシン州の選挙で、圧勝するだろうとの下馬評を裏切り、惨敗してしまった。本人不在が響いたのであろう。以後も態勢立て直しができず、共和党の候補者になることができなかった。この選挙に勝って大統領になったのは民主党のトルーマンであった。

何とかしなければならない。フェラーズは、天皇および天皇制度利用を、本国政府や本国国民の世論、連合国諸国の反対を押し切ってでもやり抜くための工作を進めることを決意した。いわば占領下における心理戦を戦い抜くことにしたのである。勿論、かっての心理作戦部(PWB)を改組したGHQの民間情報局(CIE)も手足としてフル稼働させた。

フェラーズがとった作戦は、三つ、一つは天皇および天皇制の利用を確信もって主張できるテーゼを起草すること、二つにはソフトで平和的で国民に慕われる天皇のイメージを作り上げること、三つには日本側に天皇が戦争責任を負わない論拠を提示させ、戦犯容疑者に天皇を矢面に立たせないように根回しすること、であった。
これらは「日本計画(最終草稿)」の描いた天皇および天皇制利用の心理戦であると同時に米国政府、米国国民、連合国諸国に対する心理戦でもあった。

まず、フェラーズは、天皇および天皇制の利用を確信もって主張できるテーゼを起草した。それが第1回マッカーサー・天皇会見の6日後、10月2日付の「覚書」である。この作成経緯については、フェラーズと同じクェーカー教徒の日本人、河合道や一色(旧姓渡辺)ゆりらの嘆願とかフェラーズ自身の天皇への思いなど麗しき話で飾られているが、私は、それは単なるエピソードとして読ませてもらうことにしよう。

「覚書」の中から一部を抜粋すると以下のとおりである。

「天皇に対する日本国民の態度は概して理解されていない。キリスト教徒とは異なり、日本国民は、魂を通わせる神をもっていない。彼らの天皇は、祖先の儀徳を伝える民族に生ける象徴である。天皇は、過ちも不正も犯すはずのない国家精神の化身である。天皇に対する忠誠は絶対的なものである。」

「天皇は、開戦の結果について、東条が利用したような形でそれを利用するつもりはなかったとみずからの口で述べた。」

 「いかなる国の国民であろうと、その政府をみずから選択する固有の権利をもっているということは、米国人の基本的観念である。日本国民は、かりに彼らがそのような機会を与えられるとすれば、象徴的国家元首として天皇を選ぶであろう。」

 「天皇の命令により、700万の兵士が武器を放棄し、すみやかに動員解除されつつある。天皇の措置によって何万何十万もの米国人の死傷が避けられ、戦争は予定より早く終結した。したがって、天皇を大いに利用したにもかかわらず、戦争犯罪のかどにより彼を裁くならば、それは日本国民の目には背信に等しいものであろう。」

 「もし天皇が戦争犯罪のかどにより裁判に付されるならば、統治機構は崩壊し、全国的反乱が避けられないだろう。(中略)何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍を必要とするであろう。占領期間は延長され、そうなれば日本国民を疎隔してしまうことになろう。」等々。

なかなか説得力がある。マッカーサーは、この「覚書」にいたく感銘を受けたようで、机の上の引き出しの一番上に入れ、しばしば取り出し読んでいたとは後にフェラーズが家族に語った話である。やがてマッカーサーは、この「覚書」を下敷きにして、本国政府に強烈なアッパーカットを炸裂させることは後にみるとおりだ。

次いでフェラーズは、民間情報局(CIE)を通じて、天皇の神性を剥ぎ取り、国民に親しまれる天皇をアピールする工作をした。それらは、1945年12月15日の神道指令、1946年1月1日の天皇の人間宣言及び天皇の地方行幸の勧めである。ケン・ダイク、ハロルド・ヘンーダーソンその他のかって心理作戦部(PWB)で部下だった者たちは、実戦で学んだことを生かし、彼の意をくんで、よく働き、いい仕事をした。

神道指令は、学校現場から「教育勅語」や「ご真影」をなくし、天皇を現人神とする思想を否定することになった。また人間宣言は神道指令の延長線上に位置するもので、正式には「新日本建設に関する詔書」と命名された。

「朕と爾ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とにより結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神として、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにあらず」

なかなかの名文ではないか。天皇自ら国民、否、米国をはじめ連合国諸国の国民に発したこのメッセージは、期待どおりの効果を発揮した。

天皇の地方行幸の勧めも、天皇も宮内省側も肯定的に受け止め、すみやかに具体化していく。やがて、1946年2月19、20日の神奈川視察を皮切りに順次進んで行くことになった。白馬にまたがり軍服姿の天皇は、今は、背広姿で、歓呼する国民の列の中を歩き、親しく語りかけている。この様子を報ずるメディアの報道は、わが国は勿論、連合国諸国の人びとの天皇に対するイメージを一新させることになった。

ここまで、フェラーズの心理戦は大成功だ。フェラーズが実行した三つ目の策はどうか。これについては次回に述べることとする。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (23)

1945年9月27日に行われたマッカーサー・天皇第1回会見の正式記録は、「朝日新聞」記者が情報公開法に基づき外務省に対して行った行政文書開示請求によって開示されることになった。

外務省は不存在を理由に不開示と決定をしたのであるが、2002年9月20日、不服申立てを受けた情報公開審査会が、不開示決定を取り消すとの答申をしたため、ようやく10月17日、開示した。
実は、朝日新聞の記者は宮内庁にも行政文書開示請求を行っており、こちらも不存在を理由に不開示としていたのであるが、一週間後、これに追随して開示した。存在しないものが突如として現われる摩訶不思議である。どちらが正本でどちらが副本かはわからないが、さすがは外務事務官、推測どおり、奥村は、公式記録を作成し、外務省と宮内省(当時)に提出していたのであった。

ところがである。開示された公式記録は、既に、作家児島襄が、文藝春秋1975年11月号に、入手経路を秘匿して掲載した「奥村勝蔵が手記した会見記録」と細かな相違が数箇所認められるもののほぼ同じものであった。
挨拶や雑談を除いて実質的意味のある部分のみを周辺のみ摘記してみよう。

(マッカーサーの滔滔たる20分に及ぶ陳述に続いて)
天 皇 この戦争については、自分としては極力之を避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とするところであります。

マ元帥 陛下が平和の方向に持って行くため御軫念あらせられた胸中は、自分の十分諒察申上げるところであります。只、一般の空気が治々として或方向に向いつつあるときは、別の方向に向って之を導くことは、一人のカを以てしては為し難いことであります。 恐らく最後の判断は、陛下も自分も世を去った後、後輩の歴史家及世論によって下されるを俟つほかないでありましょう。

天 皇 私も日本国民も敗戦の現実を十分認識して居ることは申す迄もありません。今後は平和の基礎の上に新日本を建設する為、私としても出来る限りを尽したいと思います。

マ元帥 それは崇高な御心持であります。私も同じ気持であります。

天 皇 ポツダム宣言を正確に履行したいと考へて居りますことは、先日、侍従長を通じ閣下にお話した通りであります。

マ元帥 終戦後、陛下の政府は誠に多忙の中にかかわらず、あらゆる命令を一々忠実に実行して余すところがないこと、又幾多の有能な官吏が着々任務を遂行して居ることは、賞賛に値するところであります。又聖断一度下って日本の軍隊も日本の国民も全て整然と之に従って見事な有様は、是即ち御稜威のしからしむるところでありまして、世界の何れの国の元首と雖も及ばざるところであります。之は今後の事態に処するに当り、陛下のお気持を強く力づけて然るべきことかと存じます。申上げる迄もなく、陛下程日本を知り日本国民を知る者は他に御座居ませぬ。従って今後睦下に於かれ、何等御意見乃至御気付の点(opinion and advice)も部座居ますれば、侍従長其の地然るべき人を通じ御申聞け下さる様御願い致します。それは私の参考として特に有難く存ずるところで御座居ます。勿論全て私限りの心得として他に洩らす如きことは御産居ませんから、何時たりとも又如何なる事であろうと、随時御申聞け願いたいと存じます。

天 皇 閣下の使命は東亜の復興即ちその安定及び繁栄をもたらし以て世界平和に寄与しりに在りことと思いますが、この重大なる使命達成の御成功を折ります。

マ元帥 それ(東亜の復興云々)はまさに私の念願とするところであります。只私より上の権威(オーソリティ) があって、私はそれに使われる出先(エージェンシー)に過ぎないのであります。私自身がその権威であればという気持が致します。

天 皇 閣下の指揮下の部隊による日本の占領が何等の不祥事なく行われたことを、満足に存じて居ります。この点においても、今後とも、閣下の御尽力に侯ツところ大なるものがあると存じます。

マ元帥 私の部下には苛烈な戦闘を経て来た兵士が多勢居りまして、戦争直後の例として上官の指示に背き事件を惹起する者が間々居りますが、この種の事件を最小限にする為には十分努力するつもりであります。

天皇は、この会見内容について「マッカーサー司令官とはっきりとこれはどこにも言わないと約束を交わしたことですから、男子の一言のごときは、守らなければならない」と述べたことがある(1977年8月3日記者会見における発言)。

ところがいろいろなルートで話は漏れるものである。その最たるものが当の相手方であるマッカーサーの回想記である。1964年朝日新聞社から刊行されたマッカーサー回想記(下)には、次のように記述されている。
「この会見にはどこか気が進まなかった。天皇は命乞いに来るのではないか。天皇が平和を望み、戦争開始を避けようとしていたことは自分も知っている。それだけに弁明する天皇への応答は厄介な仕事と思われた。ところが会ってみると、天皇は『私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためにお訪ねした』と語った。」

しかし、上記のとおり正式記録にはそのような記載はなされていない。では他の非公式な資料ではどうだろうか。いくつか見てみよう。

① 高松宮日記(1945年9月27日の項)

「(前略)約15分間、MCは一人で語る(戦争の破壊力は極めて大となれり。今後の戦争は勝敗何れとも甚だしき損害をうくべし。陛下は実によい時機に戦を止められた・・・)。陛下は「戦争にならぬよう努めたが及ばなかった」、MC「一人の力ではどうともならぬことがある」、陛下「自分も国民も十分に戦敗を認め知っておる」、MC「陛下は一番日本国、国民をご存知の方である。今お考えのこと、重大なるご心配あれば極秘裏に伝えられたい。MCは一人で十分考えて協力する」、陛下「進駐軍の平穏なることを喜ぶ」、MC「はじめに来た部隊は歴戦者で荒かったが、今後益々よくなるであろう」、陛下「今後かかる機会を度々持ちたい」

② 内務省スポークスマン談として1945年10月2日付「ニューヨークタイムズ」記事(10月1日東京発ロイター電)

「マッカーサー最高司令官と裕仁天皇とは、もし武力侵攻が実行されたなら、日米双方に多くの人命が失われ、日本の完全な破滅に終わったであろうという点で、完全ん意見が一致した。天皇はマッカーサー元帥が誰に戦争責任があるかについてまったく言及しなかったことに、とりわけ感動した。天皇は個人的見解として、最終的な判断は後世の史家に委ねなければならぬだろう、と言ったが、マッカーサーは何の意見も述べなかった。」

③ フェラーズの1945年9月27日付家族への手紙 

(会見を終えて)天皇がアメリカ大使館を出発したとき、マッカーサーは感動の面持ちでこう言った。「私は自由主義者であり、民主主義国で育った。しかし、惨めな立場に立たされた天皇の姿を見ると、私の心は痛む。」
オフィスに向かう途中で、マッカーサーは、天皇は困惑した様子だったが言葉を選んでしっかりと話をした、と語った。「天皇は英語がわかり、私の言ったことはすべて直ちに理解した。」
私は言った。「天皇はあなたから処罰を受けるのではないかと恐れているのですよ。」
マッカアーサーは答えた。「そうだな。彼はその覚悟ができている。処刑されてもしかたがないと考えている。」

④ 1945年10月27日付ジョージ・アチソンのメモランダム(9月27日当日にマッカーサーが天皇の発言として語ったことをまとめ、米国務省に送った極秘電文。歴史家秦郁彦が米国務省公開文書から発見)

「天皇は握手が終わると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条首相のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民のリーダーとして、国民のとったあらゆる行動に責任をもつつもりだ、と述べた」

⑤ 皇太子の家庭教師を務めたエリザベス・バイニングの日記
1946年12月7日の項に、第1回会見におけるやりとりについて、マッカーサーから聞いた話として以下の記述がある(1987年10月3日付東京新聞)。

マ元帥 戦争の責任をおとりになるか
天 皇 その質問に答える前に、私のほうから話をしたい。
マ元帥 どうぞ。お話なさい。
天 皇 あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない。しかし、私は戦争を望んだことはなかった。なぜならば、私は戦争に勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感をもっていた。そして私は戦争にならないように出来る限りのことをした。
 
さて以上を通覧してどのように受け止めるか。それぞれの天皇観、世界観によって相違が生じるところであろう。

まず事実の客観的指摘をしておこう。日本側の公式記録、あるいは当局筋に近い資料では、天皇の戦争責任に触れるやりとりはなかったことになる。しかし米側の資料は、いずれも天皇の戦争責任に触れるやりとりがあったことになっている。

次に解釈を示したい。

米側の資料のうち、マッカーサー回想記では、天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためにお訪ねした」と、天皇の潔さを賛美している。もっともこれは1960年代前半に書かれたものであり、時代背景を考えると額面どおりには受け取れないだろう。

この点に関し、ジョージ・アチソンのメモランダムとバイニングの日記は、天皇の戦争責任に関する発言として①東条に騙されたという趣旨もしくは軍部の責任を強調する趣旨の発言と、②全ての責任は自分にあるという趣旨の発言の双方があったことを示している。

米側の資料が一致して記す以上②の発言があったことは認めてよいだろう。
第8回目の会見から通訳を担当した外務事務官松井明作成のメモ(松井文書)の概要(2002年8月5日付「朝日」)によると奥村が余りの重大さから記録を控えたと聞いたことが明かされていることも補強材料だ。

しかし、近衛の東条に全ての責任を負わせようとの画策、これには東久邇宮をはじめ当時の政府高官も同調していたこと、天皇自身、クルックホーン単独会見での真珠湾奇襲攻撃の東条の意図を知らず、宣戦布告の詔書が意図せざる使い方がされたとの回答書などから推して①の発言もあったと認めるべきである。

この第1回の天皇との会見を終えて、天皇を占領政策の道具として利用しようとの決意と確信を益々深めたマッカーサーにとっては、この①、②二つの発言は、極めて重要な意味を持つことになるのである。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (22)

1945年8月28日、首相・東久邇宮は、日本人記者に対するはじめての記者会見に臨んだ。そこで、東久邇宮は、敗戦を招いた原因について問われ、「余りにも多くの規則、法令が発せられ、またわが国に適しない統制が行われた結果、国民は全く縛られて、何も出来なかったことも、戦敗の大きな原因」、「お国のためにしていると思いながら、実はわが国は動脈硬化に陥ってしまった」などとなかなか核心には迫らぬ抽象論を長々と述べ、最後に「ことここに至ったのはもちろん政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は、軍・官・民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民的総懺悔をすることがわが国再建の第一歩と信ずる」と結論づけた(8月30日付「朝日」)。
この3日前に緒方竹虎内閣書記官長がラジオ放送で用いた「一億総懺悔」なる言葉がこの東久邇宮発言に転用され、東久邇宮の「一億総懺悔論」と揶揄され、天皇をはじめ真の戦争責任者を擁護するものとして批判を受けることになった。
パリのエコール・ポリティクで学び、社会主義者とも交流があったという東久邇宮にしては、余りにも浅薄皮相な戦敗原因論ではないか。皇族のエースを起用した天皇の秘策も、早くもここに暗雲がたちこめたようだ。

9月18日は、これもはじめての試みであるが、首相の外国人記者会見が行われた。東久邇宮は、フランス人記者と流暢なフランス語で会話をかわし、さすがは国際通だと注目を浴びていた。しかし、オーストラリアやニュージーランドなどの記者から、紙や鉛筆を突きつけるようにして、「天皇陛下その他責任者等は真珠湾の奇襲に関して事前に知っていたか」、「民主主義国の一部では天皇陛下も犯罪者の一部と見ているが所見如何」、「日本の制度としては天皇陛下が知ることなくして戦争を始めることが出来るか」などと追及されるや、突然、調子が狂った。

問われているのは、天皇の「開戦責任」である。これに対し、東久邇宮は、混乱、矛盾した回答を続けた。「詳細は自分にはわからない」、「研究してお答えする」、「天皇陛下は責任者ではないと確信する」等々。記者らは「コンプリートリー・フール」と騒いだ。会見に密かに潜り込んだ警視庁係官も、「大部にありては、今次会見は記者団側においてわが国の急所とも称すべき所を大胆に質問せるに対し、総理宮殿下の御答弁は確信と自信に満ちたものとは解せられずとし、失望の念を表明しおれる状況」と率直に報告をしているところをみると余程珍妙だったのであろう(粟屋憲太郎編「資料日本現代史2」大月書店)。

国内外に展開する約700万人の武装将兵の整然たる武装解除、軍の解体と復員の進行は、確かに天皇と天皇制の大きな威信なくしては進められなかったかもしれない。それは目をみはるものであった。天皇と天皇制を利用することによって占領目的を早期に成功裡に達成することができる可能性は高い。いや間違いない。しかし、天皇の名のもとになされた日本軍の真珠湾奇襲をはじめとする数々の忌まわしい蛮行、バターン死の行進などの捕虜虐待、特攻攻撃などに直面してきた。本国政府においても天皇と天皇制の取り扱いに関して慎重な検討がなされており、指示がされている。アジア・太平洋戦争において天皇と天皇制の果たした役割は、重大である。決して無罪放免というわけにはいかないところがある。またその責任を厳しく問う連合国諸国政府およびその諸国の国民世論もある。だから軽々に結論を下すわけにはいかない。日本進駐以来の事態の推移、既に会見した東久邇宮や外務大臣の挙措・態度等から、日本のキーマンはやはり天皇である。いよいよ直接天皇に会ってみるべきだ。マッカーサーは、きっとこう考えたに違いない。

わが国の指導者の中にも、東久邇宮のこれら一連の対応に危機感を抱く者がいた。東久邇宮内閣に副首相格国務大臣として入っていた近衛文麿である。近衛は、「真珠湾攻撃は東条の独断であって、陛下は知らなかった」という主張をアメリカ国民にアピールすることを目論んでいた。東条へ全責任を押し付ければ、天皇および天皇制への影響を和らげることができる。これは近衛の確信であり、早くも1944年4月12日に、この考えを吐露している(細川護貞「細川日記 上」中央公論社)。

その近衛の深い関与のもとに、1945年9月25日、「ニューヨークタイムズ」記者、フランク・クルックホーンの天皇への単独記者会見が実現した。会見といってもわずか5分間のこと、実際には、事前に質問書を提出し、それに外務省や宮内省の関係者が回答文を起草し、天皇が裁可し、書面で回答するという方式であった。その一問一答の一部は次のとおりであった。

問 「陛下は東条大将が宣戦の詔書をしようとせる如くこれを使用せらるる御意向を有せられたりや否や」
答 「陛下は東条大将が宣戦の詔書を使用せる如く之が使用せらるることは予想して居られませんでした」

要するに真珠湾奇襲のあとで、宣戦の詔書が発表されたことは、天皇は知らなかったし、その意図するところでもなかったというのであり、東条への責任押し付け論である。1941年11月5日、軍令部総長から上奏された「対米英蘭戦争帝国軍事作戦計画」には真珠湾奇襲攻撃が明記されており、これを天皇が裁可したのであったから、これは奇妙な言い訳である。

なお、この会見記は、1945年9月25日付「ニューヨークタイムズ」一面トップで「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条に押し付ける」との大見出しのもとに報じられた。それが同月29日に日本の新聞各紙に転載されるという事態になってしまった。内閣情報局は、その直前、「このままでは天皇自身が東条大将を非難したかのように思われる」と横やりを入れ、日本の新聞各紙が掲載することを止めようとした。しかし、新聞社側が抗議、GHQも日本政府の措置を制止したので、そのまま掲載された。

以上の経過から、天皇の開戦責任、特に真珠湾奇襲攻撃への天皇の関与の程度が、極めてシリアスな問題であったことは容易に理解することができる。

9月27日のマッカ-サー・天皇の第1回会見は、9月20日に行われた吉田茂外相とマッカーサーの会談で話題に上り具体化したようであるが、どちらから持ち出したのかは正確なところはわからず、その後どういう経過で実現に至ったのか明確ではない。

ただ上述の線の上に位置づけられるものであり、勝者と敗者のけじめをつけるため、天皇にマッカーサーを訪問させる形で会見をすること、そしてかのシリアスな問題について天皇に語らせること、さらには天皇と天皇制の利用価値の値踏みをすること、それらがマッカーサーの求めるところであったと推認することは許されるだろう。
る。

9月27日午前10時過ぎ、天皇は、シルクハットにフロックコートのいでたちで、米国大使館に到着した。玄関先では、あのフェラーズ准将が、敬礼で出迎えた。天皇は、シルクハットを取り、彼に握手の手を差し出した。フェラーズは奥の応接間にいるマッカーサーのもとに天皇と通訳の奥村勝蔵を案内した。
そこで両手を腰にあて、ゆったりと構えた大柄なマッカーサーの横に緊張しきって直立不動の姿勢をとり、小柄で貧弱そうにさえ見える天皇が並び、ツーショットの写真が撮影された。この勝者と敗者のコントラストを際立たせた写真は全世界に発信されたが、とりわけ日本国民にとっては感慨ひとしおだったことであろう。忖度するに神格化された天皇の実像を見て覚醒させられた国民も少なからずいたのではなかろうか。
マッカーサーにしてみれば、天皇を従えた一瞬であり、巧みな演出にきっと満足したことであろう。フェラーズも席をはずし、約40分にわたってマッカーサー・天皇の会談が行われた。いつにもましてマッカーサーは雄弁に語ったようだ。会談が終わると、今度は、マッカーサーは手のひらを返すように、天皇に寄り添うように、玄関まで見送りに出た。

この会見の内容は、実にさまざまに憶測されてきた。それは既に述べた真珠湾奇襲の責任を東条に負わせる内容の回答をしたクルックホーンによる単独記者会見の直後になされたものであること、クルックホーンが報じた「ニューヨークタイムズ」の記事が国内で報道されないように内閣情報局が介入しようとした、およびこの会見がマッカーサーによる天皇および天皇制温存・利用の出発点となったようであることなどから、大きな関心を呼んだのである。

通訳の奥村は外務官僚であり、当然正式記録をとり、宮内省および外務省に提出していると思われたが、永らく公表されていなかったのである。ついに外務省は2002年10月17日、これを公表し、1週間後宮内庁も公開した。両者は当然のことながら同文であった。

次回には正式記録公開までにオープンにされていた非公式間接資料を整理し、正式記録との異同、その解釈をしてみよう。それを経て、フェラーズが勲二等瑞宝章を授与される直接の理由となった1945年10月2日付マッカーサーへの覚書に入って行くことにする。
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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