スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (16)

米国が、戦後に天皇及び天皇制をどうするべきかを検討した始めた時期は1942年夏以後、本格的になされるようになったのは1943年3月以後、その検討結果が形を示すようになったのは1944年4月~5月であること、いずれも国務省関係諸関によるものであること、それはあくまでも対日占領政策策定の一環としてなされたものだというのが、永らく我が国において信じられてきたストーリーであった。

もっとも米国政府部内において、1945年4月以後、「知日派」の国務次官グルーが、日本に対する無条件降伏路線を修正し、「天皇と天皇制の存続」の余地を残す降伏条件を明示するためのさまざまな試みがなされた。しかし、それの主たる目的・意図は、我が国の壊滅的打撃を少しでも減じようという「知日派」の我が国に対する「善意」に発するものであって、決して米国が戦争に勝利するため実利的・軍事的意図・目的によるものではなかった。

考えてみれば、永らく我が国において信じられてきた国務省関係諸機関による検討ストーリーも、太平洋戦争を含む第二次大戦を戦った連合国諸国の侵略的なファシズム・軍国主義諸国家を打ち倒し、平和・民主・安定の国際秩序を回復させ、その制度的保証を確保しようとの共通意思―それは大きな意味での「善意」である―に発するものであったと言ってよいかもしれない。

しかし、加藤哲郎一橋大学名誉教授(以下「加藤氏」という。)は「象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦『日本計画」」(平凡社新書)において、米国内におけるもう一つの「天皇と天皇制」の研究・検討作業があったことを、明らかにしておられる。ただし、加藤氏は、これを先行研究と結びつけ、先行研究のパースペクティブを遡上させるものだと自己限定をしておられるようにみえる。これは学者としての謙抑性のしからしめるところであろう。私は、アマチュアの強みで、もっと大胆に話を飛躍させようと思う。

それでは、加藤氏の述べるところを紹介することとする(もっとも以下の記述は他の文献により補充した部分もあり、また多分に私の判断、解釈を交えた部分も多く、加藤氏の記述を正確に伝えるものではない。従って記述内容に関する責任は全て私が負うべきものである。)。

まずは、理解をするために、頻繁で出てくる用語と関係諸機関を加藤氏に従い整理することから始める。

「情報戦」について

今日では、国家間の戦争において、情報戦が大きな位置を占めている。第二次大戦時にはこれを、米国では「心理戦」、英国では「政治戦」、ソ連ではコミンテルンを通じた「プロパガンダとアジテーション」であった。ナチス・ドイツはゲッペルスの宣伝省がこれを担いっていた。日本にも情報局があったが、国内治安対策が主要な任務であった。

米国の「心理戦」を戦う組織編制

米国で国家安全保障(National Security)という言葉が誕生したのは1941年7月の大統領令で大統領の直轄機関として情報調整局(COI)を設置したときに始まる。情報調整局(COI)は、上記大統領令発令と同時に辣腕弁護士ウイリアム・ドノヴァンがその責任者として発足した。発足時の当初予算は45万ドル、スタッフは92人に過ぎなかったが、僅か4ヵ月後の同年12月には予算1300万ドル、スタッフ600人、1942年3月には、スタッフは1852人になった。

情報調整局(COI)には、対外情報部(FIS)と調査分析部(R&A)がおかれていた。調査分析部(R&A)は、頭脳であり、米国内の最高の研究者が集められた。対外情報部(FIS)は、「心理戦」として策定されたプロパガンダの実行部門であった。

しかし、枢軸国と近い関係にある在米スペイン大使館への仕掛けた秘密工作をめぐって、ドノヴァン長官と連邦捜査局(FBI)フーバー長官とのトラブル、対立問題が発生し、1942年6月3日、統合参謀本部(JCS)の決定により、統合参謀本部(JCS)傘下の戦略情報局(OSS)と、大統領直轄の戦時情報局(OWI)に改組された。

まず対外情報部(FIS)のホワイト・プロパガンダ部門は、大統領直轄の戦時情報局(OWI後国務省のForeign Informationを経てアメリカ情報局USIAとなる。)に移行した。

上記以外の部門は全て戦略情報局(OSS)に移行。戦略情報局(OSS)は、第一にJCSのための戦略情報の収集と分析、第二にJCSの要求する特殊作戦を任務とすることとなり、従来の情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)はそのまま頭脳部門として残され、実行部門の対外情報部(FIS)の残留組は秘密情報部(SI)と特殊工作部(SO)として編成された。ドノヴァン長官は続投である。

改組後、戦略情報局(OSS)は、予算は1億1554万ドル、スタッフは1万2718人に急膨張している。
戦略情報局(OSS)は、1945年9月、一旦解散、陸軍戦略情報局(SSU)に縮小改組され、1947年9月国家安全保障法により中央情報局(CIA)となった。

以上の基礎的事項を横に見ながら、加藤氏の説明を敷衍していくこととする。
話は、加藤氏が、2004年夏、その3年前に機密指定が解除され、米国国立公文書館で開示されることになった戦略情報局(OSS)関係資料の山の中から、1942年6月3日日付米国陸軍省軍事情報部心理戦争課「日本計画(最終草稿)」なる奇妙な文書を発見したことから始まる。これは、実に、象徴天皇を利用した「心理戦」の企画書ともいうべき文書である。

この文書の内容、その来歴、起草者、その射程などもろもろの顛末は次回以後に順次紹介することとする。

ここでは加藤氏の説明を読んで米国の機密書類の管理・保存及び公開システムは、我が国のはるかに及ばない素晴らしさがあると思ったので、秘密保護法や公文書管理法、情報公開法が問題となっている折からぜひ一言触れておきたいと思う。

戦略情報局(OSS)関係資料は、1945年9月の解散縮小時に調査分析部(R&A)の資料を中心に1800万立方フィートが国務省に移管され、残りの6300万立方フィートは陸軍戦略情報局(SSU)を経て、1947年9月に発足した中央情報局(CIA)に移され、機密のまま保管されてきた。その後、国務省保管資料は、1975年、76年に公開、中央情報局(CIA)保管資料は80年代以降に逐次公開されている(21世紀に入ってなお300万立方フィート75万頁分が未公開)。これらはいずれも最高機密(トップシークレット)、機密(シークレット)、秘密(コンフィデンシャル)のいずれかに指定されていた。

米国では、クリントン政権下で秘密指定期間が30年から25年に短縮されことによる情報公開法による秘密指定解除がされるのと並行して、1998年10月に成立した「ナチス戦争犯罪情報公開法」、2000年12月に成立した「日本帝国政府情報公開法」によって、機密指定解除勧告がなされ、秘密指定解除がなされている。これによって戦時の個人ファイルにもアクセスできるようになった。

スポンサーサイト
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。