立憲君主制と象徴天皇制の間 (18)

「日本計画(最終草稿)」の公式起草者ソルバート大佐は、本当に自らこれを起草したのであろうか。その真の起草者をさぐり、そこに至る系譜を少したどって見ることにしよう。

ここで浮かび上がってくるのは戦前、日本に留学し、東大で美濃部達吉博士の天皇機関説を学び、政治学者蝋山政道東大教授とも交流のあったノースウエスタン大政治学部長(1942年当時)ケネス・コールグローブの愛弟子、チャールズ・ファーズである。

ファーズは、1908年生まれ、コールグローブのもとで、日本政治を学び、1934年~36年、ボートン、ライシャワーとともに日本に留学、蝋山政道教授のもとで日本の選挙制度と急進派社会運動を学んだ。彼は、この留学中に2・26事件を目撃している。帰国後、パモナ大学助教授となり、1940年に「日本の政治」という本を太平洋問題調査会から出版している。

ファーズは、その後、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)にスカウトされ、極東課に在籍、分離改組後は、戦略情報局(OSS)の極東課長補佐、1943年に極東課長に就任している。

「象徴としての天皇」を対日心理戦に利用しようという発想の起源は、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)極東課における研究成果に遡ると思われる。同課の、初期の調査・分析は、1942年2月、「日本の戦略的概観」に結実した。これは膨大な日本研究の百科全書ともいうべき研究報告書である。これも全て対日心理作戦を立てるため、敵国日本の全容を知るという目的から発したものであった。残っているものは「第三部 人口と社会状態 第15章」から始まる部分で、タイプ印刷で全文378頁だけである。

この百科全書「日本の戦略的概観」が作られたころ、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)極東課では、個別の問題でも、以下のとおり、さまざまなレポートがまとめられている。

1942年2月5日付「エタ―日本における被圧迫集団」
同月16日付「ビルマ概観」
同年3月15日付「日本における社会関係」(その参考文献として「日本の閥」報告書、人類学者エンブリーの「須恵村」、イギリスが外交官・歴史家サムソン卿の「日本文化小史」)

ファーズらは、カリフォルニアの日本人収容者からの日本書籍を買い叩き、資料集めをしている事実が明らかにされている。彼の専攻、実績から見て、彼が百科全書「日本の戦略的概観」をはじめ、上記個別問題のレポート作成の中心にいたことは間違いないだろう。

「日本計画(最終草稿)」は、これらを基礎にファーズが起草したものと推定されるが、まだその間にまだいくつかの工程がある。

1942年4月15日付情報調整局(COI)対外情報部(FIS)の日本へのプロパガンダのための基本計画・第一(COI草案ないし42年テーゼ)

この文書中には対日プロパガンダの目的と論題としてAからHまで8項目あって、そのC項、F項には「天皇を平和の象徴」として活用することにつながる以下の記述がある。
日本人に、軍部指導者たちは、現在の天皇の望みに反して、破局的な戦争に導いたことを確信させ、これまでの詔勅 ― 日本人にとってはキリスト教徒にとっての神法よりも重きが置かれる ― に直接的に違反することを指摘すること」
「昭和天皇の和歌には敬虔な平和への希望が表現されていること、『昭和』という元号自体輝く平和を意味すること、軍部は1931年以来『天皇の述べた希望』に反して日本民衆を戦争に道微意がこと、等々を具体的事例をあげて指摘すること」
「(2.26事件以降は)天皇は、軍部及び民間の過激主義者のヴァーチャルな囚人となった」
「日本人に、米国は、日本本土への何らの領土的野心も、戦争が終わったあとの内政干渉の意図も持たず、天皇は立憲君主制の元首として正当な地位に復帰し、国民は隣人たちと平和的に共存することを、確信させること」
「アメリカ合衆国は、天皇が日本民衆の正しい指導者であり、彼が実際に王権を回復して彼が権力にあるならば、日本は再び隣人たちと平和的に共存し、再び繁栄するであろうことを承認する」
「西欧には、国家元首であるとともに国家そのものである天皇と比すべきものはない」

「日本計画(最終草稿)」につながる1942年5月13日付第1草稿「日本帝国にむけた詳細なプロパガンダ計画のための準備」、5月23日付第2草稿「日本計画」の発見

第1草稿では、「天皇は天皇崇拝の焦点であるから、彼は政治的軍事的活動を正当化し得るシンボルである。過去において、日本軍部指導者は、天皇の象徴的側面を彼らの軍事的たくらみに利用してきた。にもかかわらず、天皇シンボルは(彼の名前ではなく)、軍部への批判の正当化と平和への復帰を促し強化するために利用することが可能である」などの記述がなされている。

第二草稿は、名称が「日本計画」となり、構成は最終草稿と同じで、最終草稿の骨格はすでに形成されている。

さらに「日本計画(最終草稿)」の源流をたどると、もう一つ、1941年12月の真珠湾攻撃直後から英国情報機関「政治戦争本部(PWE)」との共同作業の一環として始まり、1942年5月に形を見た「日本と日本地域占領のための英米共同計画アウトライン」がある。その3ページ梗概中に、「皇室にたいするすべての攻撃は避けられなければならない」、「日本の民衆の間に、現在のレジームが権力を簒奪し、皇統から逸脱したことに注意を喚起して、不信感をつくりだす」などと明記されていた。

実に、「天皇」を利用した心理戦計画の検討は、日米開戦直後にまで遡ることになる。

さてこのようにして作成された「日本計画(草稿)」は、ソルバート大佐より、米国心理戦共同委員会に提案された。
彼は、陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課に所属していたが、情報調整局(COI)分割改組後の1942年8月、部下で極東班長の政治学者ポール・ラインバーガーらとともに戦時情報局(OWI)に移籍した。ラインバーカーはデューク大学助教授(政治学)で、1942年2月陸軍省軍事情報部(MIS)心理戦争課に配属されていた。ソルバートは、ラインバーカーを引き連れて戦時情報局(OWI)に移籍し、自ら「日本計画」を完成させようとしたのであろう。

しかし、戦略情報局(COI)の最後の時期から、ドノヴァンが、ソルバート大佐主導で「日本計画」作成作業が進行し始めたことに反発、分割改組後は、戦時情報局(OWI)と戦略情報局(OSS)との間で完成に向けて主導権争いが続いた。結局、1942年8月18日、心理作戦共同委員会小委員会で、ドノヴァン主導のもとに「日本計画」は未完成のままで、「日本計画(最終草稿)」は棚上げとすることが決まってしまった。
もっとも戦時情報局(OWI)では、太平洋戦争末期、1944年6月に「天皇を攻撃することは対敵宣伝としては重大な誤りである」という指令を出し、海外戦意分析課(FMAD)という部門において天皇に関する多くの報告書が作成されている。戦後、ベストセラーになったルース・ベネディクトの「菊と刀」もここから生まれたものである。

「日本計画(最終草稿)」は、脈々といき続けたのである。では占領政策にはどう流れ込んだのであろうか。そこに至るにはもう一段の過程がある。次回にそれを述べる。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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