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立憲君主制と象徴天皇制の間 (21)

米国本国政府の迷走と不決断を尻目に、マッカーサーは、天皇と天皇制を巧みに利用しつつ占領行政を順調に進めていく。さすがは米陸軍の歴戦のつわものである。

8月15日の玉音放送は独特の抑揚と難しい言葉が散りばめられていたので理解しにくかったであろう。それでも何とかポツダム宣言受諾と降伏の事実は、日本国内天下万民の承知するところとなったであろう。しかし、国内外には約700万人に及ぶ武装した陸海軍将兵が依然として存在していた。おそらく疲弊し、これからさらに一戦交えるなどという勢いはかなり削がれていたであろう。だが現に、この日も、近衛師団を含む陸軍一部将兵が決起して皇居内に侵入、放送局を占拠するなど玉音放送と降伏の妨害行動に打って出ている。またこの日から海軍・厚木飛行隊の一部将兵が、厚木飛行場を占拠し、東京上空に盛んに飛行機を飛ばして徹底抗戦のビラをまくなど、降伏に反対する行動を繰り返していた。

マニラにとどまっていたマッカーサーも、これはそれなりに脅威と感じつつ、ここで日本軍将兵の武装解除の行方をじっくりと見守っていた。そのマッカーサーは、天皇と皇族の威力に目をみはることになったのである。顛末は以下の
とおりである。

16日、天皇は、朝香宮鳩彦親王を支那総軍に、竹田宮恒徳親王を関東軍と朝鮮軍に、閑院宮春仁親王を南方総軍にそれぞれ名代として派遣、それぞれ「終戦の詔書」を伝達するとともに戦闘停止と武装解除・武器引渡しの説得に当たらせることにした。彼らは命に応じて直ちに飛行機で現地に飛んで、これを遂行した。

閑院宮の「私の自叙伝」によると、彼は、19日、サイゴンに到着、南方軍総司令官寺内寿一以下全将校に「今回のことは、まったく陛下独自の御信念に基づく真の聖断であります・・・穏忍善処するよう御沙汰を賜った・・・総司令官以下一兵に至るまで詔承必謹、万斛の涙をのんで皇国永遠の慮に基づき、ひたすら聖旨を体し善処せられんことを陛下は切に望ませられるものであります」と述べ、粛々と武装解除に応じさせたとのことである。

また竹田恒徳の自伝「私の肖像画」によると、関東軍司令部と朝鮮軍司令部で大任を果して帰国すると、再び天皇に呼ばれ、宇品の陸軍船舶司令部、福岡の第6航空軍司令部に派遣され、軽挙妄動を戒める言葉を伝達したとのこと。いずれも抵抗なく武装解除を進めることができたのであった。

17日には、東久邇宮稔彦親王に占領軍受け入れと敗戦処理のため初の皇族内閣を組閣させた。東久邇宮は、陸軍大将でもあったので陸軍大臣も兼摂させた。この人事は、軍のおさえとしての意味もあったであろうし、若いころフランスに留学し、サン・シール陸軍士官学校を卒業、エコール・ポリティクでも学び、当地で社会主義者とも交流があったという皇族唯一の国際派、進歩派でもあったので、占領軍に柔軟に対応する含みもあったであろう。

同日、天皇は「戦争終結に際し陸海軍人に賜りたる勅語」を発出し、「身命を挺して勇敢奮闘」した陸海軍人をたたえ、「汝等軍人よく朕が意を体し鞏固なる団結を堅持し出処進退を厳明に千辛万苦に克ち忍び難きを忍び国家永年の礎を残さむことを期せよ」などと、大元帥として陸海軍人に対し、慎重に行動し、暴発しないように戒めた。

マッカーサーの来日場所は厚木飛行場と定められていた。しかし、厚木飛行場における海軍・厚木飛行隊に所属する一部将兵はあいかわらず徹底抗戦を叫び、連日、東京上空を示威飛行していた。これに対しては高松宮が派遣され、帰順を説得した。その結果、24日までには無事おさまった。

25日、大元帥として帝国陸海軍人に対し、復員と武装解除にあたり「一糸紊れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し以て皇軍有終の美を済すは朕の深く庶幾する所なり」とし、今後は「忠良なる臣民」として民業に就き、この難局にうち勝って戦後復興のため働くよう諭す勅諭を発した。

さらに天皇は、9月3にも「敵対行為を直ちに止め武器を措く」ことを命じる詔書を発し、9月4日の第88帝国議会開院式勅語でも平和国家を確立して人類文化に寄与することを願い、国民は「沈着穏忍自重」して諸外国との「盟約」を守るよう求めた。

かくして8月28日には、占領軍先遣隊が無事厚木飛行場に降り立つことができた。それに引き続いて30日、最高司令官マッカーサーも無事厚飛行場に到着した。マッカーサーが、丸腰でタラップ上に立って、コーンパイプを口にして眼下の状況を一瞥し、タラップを悠然と威厳を保って降りるという、小憎らしいばかりの演出ができたのは、既に安全が確保されていたからである。

あらかじめ決められたスケジュールどおり、9月3日には東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上にて、日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長が、降伏文書に調印した。占領軍司令部は一旦横浜税関の建物に置かれたが、9月8日には宮城前広場で東京進駐式が大々的に行われ、米国大使館には星条旗が掲げられた。9月17日には、お濠端の第一生命ビルが接収され、この日、正式に占領軍司令部が横浜からここに移転した。マッカーサーも横浜のニューグランドホテルから東京の米国大使館に居を移し、これを公邸とすることになった。

なお、厳密を期しておくと、日本占領は、実は、三つの占領があった(竹前栄治「占領戦後史」岩波現代ライブラリー)。第一は連合国軍最高司令官兼米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による北海道、本州、四国、九州の占領。第二は米太平洋方面海軍総司令官ミニッツ提督による琉球列島、小笠原諸島の占領。第三にソ連極東軍総司令官ワシレフスキー将軍による北方領土(樺太、千島)の占領。このうちマッカーサーによる占領のみが、無血占領であった。これまでの叙述で占領軍という表現を用いたのは、北海道、本州、四国、九州の占領をした連合国軍最高司令官兼米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥の率いる軍隊のことである。その司令部がGHQである。1945年10月2日からは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の組織体制が明確化されたが、以下GHQ、マッカーサーと単純に呼ぶこととする。

さてマッカーサーにとっては、天皇と天皇制の威力を目の当たりして、随分思うところ大であったであろう。マッカーサーは、9月27日には天皇と初めて会見をし、10月16日には「歴史上、戦時平時を通じこれほど敏速かつ円滑に復員が行われた例を私は知らない。約700万人の兵士の投降という史上類のない困難かつ危険な仕事は、一発の銃声も響かず、一人の連合軍兵士の地も流さずに、ここに完了した」と声明したのであった。リップサービスもあるだろうがこれを見る限り、手放しの礼賛ぶりである。

次期大統領選挙に出馬し、米国大統領になろうという野心を持ち、そのためにも日本占領を成功裡にできるだけ早く終結させたいと考えていたマッカーサーにとっては、天皇と天皇制を占領政策に利用することによってその目論見を達成できるのではないかとの期待をおおいに高めていたことであろう。ただし、天皇と天皇制を温存するとの結論に至るにはまだまだいくつかの段階が経なければならない。

それを順次追っていくこととするが、その前に9月27日の天皇とマッカーサーとの第1回会見の模様とそれにまつわるさまざまな謎解きを次回に試みることとする。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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