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立憲君主制と象徴天皇制の間 (25)

フェラーズの心理戦、第三弾は、日本側に天皇が戦争責任を負わない論拠を提示させること、迫り来る戦犯裁判において日本側に天皇を守り抜く決意と確信を固めさせることであった。

フェラーズは、天皇を免責する論拠の核心を、開戦責任を否定できるかどうかに絞り込み、部下のジョン・アンダーソン少佐に天皇を無罪とする論拠を検討させた。彼は、軍歴に入る前は弁護士である。アンダーソンは宣戦の詔書に天皇自らが自発的に署名したかどうかが重要であり、「詐欺、威嚇あるいは強迫によって不本意な行動をとらざるを得なかったという事実を天皇が立証できれば、民主的裁判所で有罪判決が下されることはない」という結論であった。

フェラーズは、まずはその点について日本政府に明確な見解を出させなければならないと考えて、非公式にこれを日本政府に伝えた。新たに組閣されて間もない幣原喜重郎内閣の内閣書記官長次田大三郎の日記によると、1945年10月26日の項で、同日、来訪した陸軍中将原口初太郎が、フェラーズとの会見談として、大要次のようなことを語ったとのことである。

・真珠湾攻撃に対する天皇の責任が米側では最も重要かつ決定的な問題である。
・マッカーサーもフェラーズも、何れも天皇に対しては極めて好い感情を持っており、どうにかしてこの問題を天皇に迷惑がかからないように解決したいと考えている。
・本国の世論はなかなか厳しく、ソ連の申し入れもあって、マッカーサーも思うようにならない。
・ひととおりの弁明を準備しておかねばならない。

幣原内閣は、そこでひととおりの弁明を考えた。それが11月5日になされた「戦争責任に関する件」と題する閣議決定である。上述した核心部分に関する政府見解は次のとおりである。

・大東亜戦争は、帝国が四囲の情勢に鑑みやむを得ざるに出でたるものと信じいること。
・天皇陛下におかせられてはあくまで対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御軫念あらせられたること。
・ 天皇陛下におかせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられおる慣例に従わせられ、大本営、政府の決定したる事項を却下あそばされざりしこと。

さすがに東条に騙されたとは言えないので、上品に立憲君主制の原理をたって、天皇免責論を打ち出したものである。これに説得力があるかどうかは、戦前天皇制の綿密な検討が必要である。また天皇の戦争責任を対米戦争の開戦責任に限定したのは、フェラーズの示唆によるものではあるが、政府見解を出す以上は、それでよいのかどうかは独自に検討するべきではないか。

フェラーズは、日本政府に工作の手を打っただけではなく、天皇周辺にも周到に働きかける。最初に接触をもったのは、1921年から12年間宮内次官を務め、フェラーズと同じクェーカー教徒でもあった関谷貞三郎であった。同じくクェーカー教徒であった河合道が、フェラーズの「天皇が真珠湾奇襲を承知していたかどうかを確かめることが最も重要であり、天皇には責任がないという根拠を明らかにするべきだ」との意見を関谷に伝えたのは10月2日のことであった。同月16日、関谷は河合とともにフェラーズを訪問し、この問題について協議した。

フェラーズは、それと並行して近衛周辺に対しても同様の工作をしている。

やがて天皇および側近グループに大きな不安がおおいかぶさってくる。GHQから、12月2日には皇族中の長老・梨本宮守正、同月6日には近衛文麿に続いて側近中の側近で11月24日内大臣府廃止に至るまで内大臣を務めていた木戸幸一、その他続々と、要人の戦犯指名と逮捕令が出されたのである。

天皇も心を痛めたようである。このころになるとフェラーズの話が天皇や側近の耳にも届いていたのであろう。12月4日には、侍従次長に就任したばかりの側近の木下道雄が万一の場合に備えて潔白の証明を作っておいてはどうかと勧めると、天皇もその気になり、少しずつ語るようになった。木下の「側近日誌」によると、「非常に重要なる事項にしてかつ外界の知らざる事あり。御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり。」とある。天皇と木下による弁明書作成の共同作業は、これ以後続いていく。天皇は立憲君主としての務めを忠実に果たしたに過ぎない、天皇も皇室も平和を求め祈ってきたという趣旨の弁明が延々と続く。この作業が、「昭和天皇独白録」へと結実していくことになるのであろうが、それはまだ先の話である。

フェラーズは、マッカーサー・天皇第1回会見で、前に認定したとおり天皇が述べたと認められる二つの発言、①東条に騙されたという趣旨もしくは軍部の責任を強調する趣旨の発言と、②全ての責任は自分にあるという趣旨の発言を活用した。

①については主として米国本国やその他の連合国政府および諸国民の天皇追及の姿勢をけん制のためである。これは既に9月25日のクルックホーン単独会見において米国向けには発信済みである。しかし、さらに日本政府や天皇および側近らが頑張るべきである。フェラーズはそのために日本政府や天皇およびその側近らを誘導した。これは以上みてきたとおりである。

②は、天皇のかっての「股肱の重臣」に、天皇の潔さをアピールして、天皇への忠誠心を高め、天皇を守る決意を固めさせるために使われた。これは事柄の性格上公然と発信することはできない。従って、具体的な証拠はない。しかし、巣鴨プリズンに勾留された戦犯被疑者たちには、天皇側近らの働きかけで、非公式に伝えられて行ったこと、その天皇側近グループは、フェラーズと親密に交流をしていたことは事実である。

さてマッカーサーは、10月16日に、700万人の兵士の投降と武装解除が整然となされたことで天皇を賛嘆する声明を発した後、沈黙を守っていた。
一方、本国政府からは、前に見たとおり、JCSの11月29日付電文で「ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。」、「遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる」と、天皇の戦犯裁判のための証拠収集を督促してきている。
フェラーズが、着々と心理戦を進め、それなりに効果が出ている、あるいは将来の効果が見込まれる状況にはなってきた。国務省が送り込んできたお目付け役ジョージ・アチソンも「1946年1月4日付のトルーマン大統領宛の報告書で、日本民主化のためには天皇制廃止が必要との見解は維持するとしつつも「日本を統治し、諸改革を実行するため、引きつづき日本政府を利用しなければならず、したがって天皇が最も有用であることは疑問の余地がありません。」と書くほどに変化を示している。

しかし、まだ決定打がない。そのマッカーサーにとって、願ってもない決め手となる申し出をしてきた人物がいた。それが誰あろう、幣原首相自身であった。幣原首相は、得意の英語力を生かし、「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)を、下案を一生懸命ブラッシュアップし、素晴らしい英文の文章を完成させた。それは1945年12月25日のことであった。彼は、当年とって73歳、半日かけて精魂傾けて作業したために疲労困憊して就寝した。翌日、発熱と激しい頭痛に襲われた。診察の結果、急性肺炎と診断された。そこで吉田外相がマッカーサーと交渉し、特効薬ペニシリンをわけてもらい、九死に一生を得たのであった。ようやく病が癒えて、ペニシリンのお礼かたがた、マッカーサーを訪問したのが1946年1月24日であった。ここで、マッカーサーの悩みの特効薬となる話を持ち出したのである。
その話はやや長く、解釈を要するので次回とする。


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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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