スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

立憲君主制と象徴天皇制の間 (26)

(今回は少し幣原喜重郎という人物に思い入れをして書きました。本シリーズのクライマックスです。長い文章になってしまいましたが・・・。)

 幣原喜重郎とはどんな人物であろうか。1946年1月24日のマッカーサーとの会談に入る前に少し整理しておこう。

 幣原は、1872年生まれ、1895年東京帝国大学卒業、病気のため1年遅れて1896年10月外務省入省、朝鮮・仁川領事館領事を皮切りに外交官生活に入った。岩崎弥太郎の四女と結婚し、同じ岩崎の長女と結婚していた先輩の加藤高明とは義理の兄弟の関係にあたる。1914年12月、義兄加藤が、第二次大隈重信内閣の外相であったとき、中国に突きつけた「対支21か条の要求」に対し、オランダ公使の任にあった幣原は、これを公然と批判する意見書電文を加藤外相に送っている。1915年10月、43歳で外務次官に就任、寺内正毅内閣のもとで、1917年、南満州における外交権限が軍部移管されようとしたとき、幣原は、辞表を懐にしのばせてこれに抗議したという。

 1918年9月、米騒動による混乱の責任をとって寺内内閣総辞職、かわって政友会・原敬がはじめて本格的な政党内閣を組閣した。原首相からは、当初は、憲政会総裁加藤高明の義弟であり同人の薫陶を受けているのではないかと警戒されたが、寺内内閣の外相の意に反してシベリア出兵に反対していることや協調外交姿勢を評価されて、更迭されず、外務次官に据え置かれた。

 幣原は、まもなく駐米大使に転じた。
 1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議(米国大統領ウォーレン・ハーディングが、1921年7月、日、英、仏、伊、中などに呼びかけ、開催された。会議期間は11月12日から1922年2月6日。原が、1921年11月4日、暗殺されたため、政友会・高橋是清内閣となっていた。)で、海相加藤友三郎とともに、協調外交を展開した。海軍主力艦の削減を主とする軍縮条約、中国の主権・独立・領土保全、中国市場の門戸開放・機会均等などを確認した9カ国条約、太平洋地域における現状維持と紛争の話し合いによる解決を確認した4カ国条約の調印にこぎつけた。これにより幣原の平和・協調外交は、一躍、国内外に知られ、高く評価されるところとなった。

 幣原は、憲政会・加藤高明内閣(1924年6月成立)で、外相就任。加藤没後にあとを継いだ第一次若槻礼次郎内閣(1926年1月成立)が、1927年4月、金融恐慌の拡大処理に失敗して総辞職するまで、その任にあった。この間、米国の排日移民法、中国における北伐開始、排日・民族運動の激化という困難な国際情勢の中で、平和・協調外交を一貫して進め、中国への内政不干渉の姿勢を貫いた。

 第一次若槻内閣のあと中国干渉・武断外交を展開した政友会・田中義一内閣が、張作霖爆殺事件の処理をめぐり天皇から問責発言を受け総辞職、そのあとに成立した民政党(この間に憲政会と政友会から分裂した政友本党が合同して民政党となった)・浜口雄幸内閣(1929年6月成立)で再び外相就任。浜口首相が暗殺未遂事件により療養中は首相代理を務めた。その後も1930年4月、浜口首相の症状悪化、総辞職のあとを受けた第二次若槻内閣にも外相として入閣。1931年12月に総辞職に至るまで、平和・協調外交を貫いた。この間1930年4月にロンドン軍縮条約を調印・批准させ、1931年9月、柳条湖事件に際しても閣議で事件は関東軍出先の謀略であるというニュアンスの外務省情報を明かし、朝鮮軍を越境させ、関東軍へ増援部隊を無断派遣した現地司令官林銑十郎中将の処置について厳正な意見を述べている。

 満州事変勃発、5.15事件、2.26事件と世は狂気の支配する時代となる。日中戦争、そして太平洋戦争へと、非常時、戦時と移り行く。わが多くの国民も、偏狭なナショナリズムと戦争熱にとりつかれる。幣原平和・協調外交は、いまや軟弱外交、腰抜け外交、国辱外交、売国外交とまでののしられる。千駄ヶ谷の私邸の塀には「国賊」、「売国奴」の落書きが書きなぐられ、私邸内には石を投げ込まれる日々が続いた。幣原は、こういう無法にじっと耐え、ひっそりと邸内にとじこもり、やがて嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 それから14年後の幣原。戦災で自邸を失い、二子玉川の三菱系の農園内に仮住まいの生活を送っていた。日本降伏の2ヶ月ほど前に、吉田茂が和平工作のキーマンとして幣原を担ぎ出そうとして外務省の後輩市川泰次郎を訪ねさせたときには、「非常に痩せて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるえ、まことに老齢そのものであった。このようなご老体を和平運動にかつぎ上げて、果してどうかとさえ怪しんだ」(幣原平和財団編・刊「幣原喜重郎」)ほどに、老け込み、社会から完全に忘れ去られ、歴史の底に沈みこんでいた。

 1945年10月6日、東久邇宮内閣総辞職、吉田外相の推挙で、木戸内大臣(当時)が次期総理として天皇に奏上したとき、天皇も驚いたそうだが、この人事を聞いた古手の新聞記者からも「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚きの声があがったそうである。天皇からの呼び出しの急ぎの使者が来たときには、ちょうど厨子に確保した別宅にて隠居生活を送るべく引越しのトラックを待っていたところで、幣原にしてみれば青天の霹靂であった。

 1949年1月の衆院選で初当選し、民自党の幣原派に属し、幣原衆議院議長の秘書官を務め、後に岐阜県知事に転じた平野三郎によれば、幣原は、若いころ朝鮮の併合に反対し、「朝鮮とは平和条約を結び、善隣友好国としてつきあうべきだ」との考えだったとも語っていたとのことである。経歴からすると幣原は正真正銘の保守主義者であるが、マルクス主義哲学者古在由重とも姻戚関係にあり、批判的にではあれマルクス主義の洗礼も受けているようで、とりわけ他国への侵略、干渉には断固として反対する平和主義者であったことも間違いなさそうである。

 さてその幣原が、九死に一生を得て、肺炎の特効薬ペニシリンを提供してもらったお礼の名目で、マッカーサーを訪問し、面談したのは1946年1月24日のこと、面談時間は正午から午後3時過ぎまで、3時間余り。ペニシリンのお礼にしては長すぎる。どんな話がなされたのであろうか。

 まずマッカーサーの証言。1951年5月5日・上院軍事・外交合同委員会における証言、1957年憲法調査会渡米調査団高柳賢三会長宛書簡、1964年・マッカーサー回想録などがある。いずれもこの会談で、幣原から日本は戦争放棄と戦力不保持を世界に先駆けて宣言するとの話がなされたことを共通して伝えている。このうちマッカーサー回想録の一節を引用すると以下の如くである。

幣原男爵は1月24日の正午に、私の事務所をおとずれ、私にペニシリンの礼を述べたが、そのあと・・・私は男爵に何を気にしているのか、とたずね、それが苦情であれ何かの提議であれ、首相として自分の意見を述べるのに遠慮する必要はないといってやった。(中略)

首相はそこで、新憲法を書き上げる際に、いわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。


 一方、幣原の直接証言は存在しない。しかし幣原の話を聞いた人が書いたものはある。幣原は、大阪中学校(途中で学制改革で第三高等学校となる)、東京帝国大学を通じて同級で、親友中の親友大平駒槌(おおだいらこまつち)に、会談当日に、会談内容を語っている。それを大平から聞いて筆記したという同人の娘羽室ミチ子のメモがある。それと幣原を師とも仰ぐ前出の秘書官平野が、生前、幣原から詳しく聞いていたことを、憲法調査会会長高柳賢三の求めに応じて、整理し、文章化して、1964年2月、憲法調査会に提出した文書がある。
 葉室メモは簡潔ではあるが、平野文書と内容は一致している。ここでは長くなるが平野文書から一部抜粋してみよう。

私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和26年2月下旬のことである。同年3月10日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡本町の幣原邸であり、時間は2時間ぐらいであった。(略)
 
問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第9条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。
答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。
答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問 死中に活といいますと・・・・・。
答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰して終うことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。
そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。
(略)

問 お話の通りやがて世界はそうなると思いますが、それは遠い将来のことでしょう。しかしその日が来るまではどうする訳ですか。目下のところは差当りは問題ないとしても、他日、独立した場合、敵が口実をつけて侵略したらです。
答 その場合でもこの精神を貫くべきだと僕は信じている。そうでなければ今までの戦争の歴史を繰り返すだけである。しかも次の戦争は今までとはわけが違う。僕は第9条を堅持することが日本の安全のためにも必要だと思う。
(略)

問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。
もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。
答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、(略)
豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。
(略)
この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。

この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。
松本君(憲法問題調査委員会委員長)にさえも打ち明けることのできないことである。
(略)

問 元帥は簡単に承知されたのですか。
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第9条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
(略)
 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。


 これ以上何ら付け加えることはないほどに明快ではなかろうか。

 マッカーサーとしては、占領目的を早期に達成し、成功裡に終えるためには天皇と天皇制は利用しなければならない。副官フェラーズは、得意の心理戦で、本国をはじめ連合国連諸国の政府や国民世論を抑えるための布石を着々と打ち、それらの石が生き始めてきた。ただ、まだ決定打にはなっていない。そこへ当の日本の首相から、戦争の放棄と戦力不保持の申し出がなされた。しかも、彼は、天皇に政治的実権は不要だとも考えている。これを憲法に書き込めば、きっと本国をはじめ連合国連諸国の政府や国民世論も承知するだろう。よし、これで決まった、とマッカーサーは小躍りして喜んだに違いない。早速、翌1月25日に、やかましく言ってきていたJCS(統合参謀本部)への回答として、陸軍参謀総長アイゼンハワーに対し、以下の返電を送った。

・・・指令を受けてから、天皇に対してとりうる刑事上の措置につき、与えられた条件の下で調査がなされてきた。過去10年間に日本帝国の政治決定と天皇を多少なりとも結びつける明確な活動に関する具体的かつ重要な証拠は何ら発見されていない。
・・・天皇を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起すことであろうし、その反響は計り知れないものがある。
まず占領軍を大幅に増大することが絶対に必要となってくる。それには最小限100万の軍隊が必要となろうし、その軍隊を無期限に駐屯させなければならないような事態も十分ありうる。


 いやなんとも大胆な開き直りである。何の調査もしないまま、フェラーズのかの覚書をさらに最大限活用、誇張したこの恫喝的文書からはマッカーサーの勝鬨が聞こえてくるようだ。ついに天皇と天皇制利用の心理戦は成功した。

 次回は日本側の動向、米国本国政府の方針との整合性を整理し、次いで昭和天皇独白録の顛末と東京裁判に触れる。まとめも必要だ。長々と書いてきた「立憲君主制と天皇制の間」第一部(序説)もようやく終わりに近づいた。あと数回お付き合いのほどを。
スポンサーサイト
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。