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立憲君主制と象徴天皇制の間 (30)

本小論の冒頭で、独白録の結論部分、昭和天皇が最も力を入れた太平洋戦争開戦にかかわる弁明を引用したが、最後にもう一度独白録に迫ってみよう。

独白録によると、昭和天皇からの聞き取りの日時、状況、および記録作成状況は以下のとおりである。年次は、いずれも1946年である。

1回目 3月18日 午前10時15分より午後0時45分まで
2回目 同月20日 午後3時より5時10分まで
3回目 同月22日 午後2時20分より3時30分まで
4回目 4月 8日 午後4時30分より6時まで
5回目 同月 同日 午後8時より9時まで

聞き取りに立会いをしたのは、宮内大臣松平慶民(旧福井藩主松平春嶽の三男)、侍従次長木下道雄(侍従長藤田尚徳は病気のため)、宗秩寮総裁松平康昌(旧福井藩主松平春嶽の孫)、稲田周一内記部長および寺崎英成御用係の5名であった。このうち1回目から3回目までは、昭和天皇は、風邪のためベッドを政務室に持ち出し、横臥したまま語っている。4回目と5回目は、葉山御用邸に休養中の昭和天皇を5名が訪ね、聞き取りをしている。記録は稲田が作成し、不明瞭なところは木下が逐次昭和天皇に聞き、添削を加えたということである。

御用掛寺崎は外務省の高官、太平洋戦争開戦時には在米国日本大使館にあって一等書記官をしていた。彼の妻、グェンドレン・ハロルドは米国人で、フェラーズとは遠い親戚であった。寺崎は、戦後、GHQとの関係を司る外務省の外局・中央連絡会議に在職していたが、フェラーズから吉田外相にGHQと宮中のパイプ役をつくることの要望があり、1946年2月から、宮内省御用掛として天皇の側に仕えることになったのであった。
フェラーズにとっては願ってもない人事であったであろう。

その寺崎は、そのようにして作成された正式記録に基づいて、6月1日、今、独白録と読んでいる冊子を書き上げたのである。おそらく正式記録は、今も、宮内庁に保管されていることであろう。

ところで、この昭和天皇の回想を語る場面、私は、鬼気迫るものを感じるがどうだろう。風邪で寝込んでいるところ、あるいは休養中のところをおして、昭和天皇が、5名の側近の者らに、第一次大戦後の米国における排日差別に遡る「大東亜戦争の遠因」からポツダム宣言受諾の「聖断」に至るまで約20年に及ぶ回想談を語り、それを記録させたというのは異様ではないか。その異様性と、記録作成者が、詔書、詔勅などの天皇の正規の文書を作成する任にある内記部長の稲田であったことを考えると、これは戦争犯罪者として訴追されることを防ぐための弁明書づくりであったことは、容易に推認できる。

しかるに「文藝春秋」・1991年1月号に載った伊藤隆(東京大学教授)、児島襄(作家)、秦郁彦(拓殖大学教授)、半藤一利(昭和史研究家)の座談会において、まさにそのような弁明書づくりであり、寺崎が独白録を作成したのはGHQへ提出するためであろうと主張する秦に対し、伊藤、児島の両名は、昭和天皇の私的な内輪話に過ぎないとして、次のように放言をし、嘲笑しているのである。

伊藤 これは、秦さんのいう英文が出てきたらカブトを脱ぎますがね(笑)。
児島 せいぜい秦さんにお探しいただきましょう(笑)。

一橋大学教授吉田裕は、早くも、1992年12月21日第1刷発行の「昭和天皇と終戦史」〈岩波新書〉の中で、GHQ参謀2部(G2)部長チャールズ・ウィロビー少将の回想録、「知られざる日本占領」(番町書房)の中の次の一節を捉えて、昭和天皇のこの回想談の記録の英訳文の存在を指摘していた。

「東京の私の情報部は、公的に圧力をかけるという手段ではなしに、私的ルートを通じて天皇側近のある最高官吏から機密書類を入手し、さらに彼の考えを述べさせて、文書化することに成功した。(中略)これらの文書はきわめて重要な歴史文書だといえる。大日本帝国が崩壊に瀕しているまぎわにおける、天皇の奇妙なまでに生々しい姿や、降伏時における天皇の役割がくっきりと浮き彫りにされているのである」

その後、伊藤、児島の「予言」どおり、実際に独白録の英訳文が出てきたのであった。もっとも探したのは秦ではなく、東野真をチーフとする、NHK取材班であった。彼らは、1996年5月、同年6月23日放映されたNHKスペシャル「秘録 高松宮日記の昭和史」の番組作りで、あのフェラーズの一人娘ナンシー・フェラーズ・ギレスビーを訪ね、裏づけのためフェラーズの残した文書資料に目を通させてもらっていたときに、A4紙8枚にタイプされた不思議な文書を発見したのであった。それが独白録の英訳文だったのである。文書の余白には、フェラーズの筆跡で「BY Hidenari Terasaki」と鉛筆書きされていた。伊藤、児島の面目丸つぶれである。

東野は、この英訳文は、独白録の作成日付となっている1946年6月1日よりも前、同年4月23日ころにフェラーズにわたったであろうと推認している。その決め手になったのは木下の「側近日誌」(文藝春秋)と寺崎の「御用掛日記」(文藝春秋)である。

弁明書づくりが終わった4月8日以後の「側近日誌」と「御用掛日記」を追っていくとそれはわかる。昭和天皇および木下は、寺崎を通じ、フェラーズにマッカーサー・天皇の第2回会見の設定を交渉し、一旦は4月23日午前10時30分と決まったが、それが政局の関係で、延期になってしまった。その会見に向けての「御会話資料」が何回も「側近日誌」、「御用掛日記」に出てくる。それは、独白録であり、またその英訳文であるとの推理は、初級者レベルでもできる。4月23日の夜、寺崎はフェラーズと会う。その前に寺崎は、木下から寺崎の裁量で「機密話してよし」と許可を得たことを日記に書いている。

同月3日、連合国・極東委員会、天皇を戦争犯罪者から除外することを決定、その通知が東京に届いたのは同月23日であった。
一方、極東軍事裁判の国際検察局は、ソ連検察陣が着任しないまま、4月5日、暫定的に26名の被告を選定した。ソ連検察陣が来日したのは13日であった。彼らは、17日に行われた参与検察官会議で既に決定していた26名に、5人追加することを要求した。しかし、その中に天皇は入っていなかった。かくして4月29日、国際検察局が公表した起訴状には、28名の被告の名前が記載されていたが、勿論天皇は入っていない。

ところで昭和天皇の弁明書づくりは、既に述べたように、1945年12月4日以来、事実上始まっていた。木下の「側近日誌」から拾うと以下のとおりである。

12月4日
 尚、戦争責任者について色々御話あり。右は非常に重要なる事項にしてかつ外界の知らざる事あり。御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可と思い、右お許しを得たり。
12月7日
 午前、侍従長室に侍従長、内記部長と三人、木戸侯の文書の事につき協議。兎角松平君相手に側近の時局に関する文書を纏める事とす。
1946年2月25日
 とにかく側近としても、陛下の御行動につき、手記的のものを用意する必要なきやにつき御下問あり。これは発表の有無は別として、内記部長を専らこれにあたらしむべきことを申上ぐ。

3月18日からの作業は、その延長線上にある。しかし、上述の如く、いきなり異様な状況、異様なほどの切迫感がもたらされるようになってしまった。一体何があったのであろうか。

寺崎が正式に御用掛に任じられたのは2月20日、天皇とはじめて対面できたのは3月9日であった。寺崎は、フェラーズに早速報告した。このころ、フェラーズは、日本の関係者に、3月2日の極東軍事裁判国際検察局の執行委員会で、被告選定作業が開始されたこと、オーストラリアのマンスフィールド検事が、天皇を含む戦争犯罪者のリストを提出し、天皇の訴追を強く主張したことを伝え、天皇自身の開戦責任に関する弁明書をつくることを要求していた。当然、寺崎にも伝えたであろう。その要求が、寺崎を通じて、天皇および側近に届いたのである。

もっともフェラーズにとっては「マッカーサーの協力者として占領を円滑ならしめつつある天皇が裁判に出されることは本国におけるマッカーサーの立場を非常に不利にする。これが私のお願いの理由だ。」というわけで、独自の心理戦を戦っているのであった。

さて長い連載になってしまったが次回にまとめをし、「立憲君主制と象徴天皇制の間」第一部を終えることとする。
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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