公明党よ、どこへ行く

1 読売新聞紙上での公明党・北側一雄副代表の発言

北側副代表は、4月29日付読売新聞朝刊の「憲法考」2に登場し、記者の問いに答えて以下のとおり発言をしている。

①公海上の米艦船への攻撃などの問題は集団的自衛権の問題だろうか、というのが率直な印象です。日米安保条約の下で米軍は日本防衛の義務を負っており、朝鮮半島有事のような事態になれば自衛隊と緊密に連携して共同作戦をとります。そういう中で米艦が攻撃されれば、我が国に対する武力攻撃の開始だと評価できる場合が十分あると思っています。自衛隊の艦船と米艦が離れていても、日本防衛の役割を担っていて、なおかつ自衛隊との連携がある場合には、(個別的自衛権の行使)として防護するべきでしょう。

②シーレーン(海上交通路)が機雷で封鎖された場合も、頻繁に航行する日本船への危険物になっているわけだから、機雷除去は一種の警察権に関わる話しだと思います。

③米国に向かうミサイルの迎撃も、事前に日米間で、危険物が飛来した場合に日本がそれを破壊していくことについて同意しているならば、警察権の行使としてできると思います。

④集団的自衛権は日本への武力攻撃がないにもかかわらず、ある基準を設けて武力行使をするわけだから、基準はよほど明確でなければなりません。「放置すれば日本の安全に大きな影響が出る場合」といった「限定容認論」の基準は、非常に不明確で、国会論戦に堪えられないと思います。

⑤現時点では首相官邸と我々の考えは少し差があります。しかしこれまでの経験からは一致点は見出せると思います。

2 北側副代表の発言の問題点

(1)政府・自民党とその露払い役の安保法制懇は、自衛隊の出動、武力行使ができる範囲を三つ方向において拡大しようとしている。

第一、集団的自衛権の行使、即ち日米同盟を名実ともに攻守同盟とするため、米国もしくは米軍に対する攻撃に共同して戦うことができるようにすること

第二、国連による平和維持活動(その擬似的タイプを含む)へのコミットメントすること

第三、マイナー自衛権などグレーゾーン事態への自衛隊の投入

第一については限定行使容認論(①密接な関係にある国が攻撃を受けたこと、②放置すれば日本の安全に大きな影響が出るおそれがあること、③攻撃された国から行使を求める明らかな要請があったこと、④首相が総合的に判断し、国会の承認を受けること、⑤攻撃を受けた国とは別の国の領土・領海を自衛隊が通る場合、その国の許可を得ること、を要件として認めるというもの)が有力に唱えられている。これを集団的自衛権という言葉を用いない方向で検討しているようである。いずれにしても、「必要最小限度の自衛権」の行使として憲法9条の下でも認められるという理屈付けをしようとしているのであろう。

第二については、憲法9条は我が国が国際紛争の当事国となる場合のことを規定しているのであり、そうでない場合には何らの制約もない、国連平和維持活動等では我が国は国際紛争の当事国ではない、という珍妙かつ乱暴な理屈が考えられているようだ。

第三については、①領海に潜没航行する外国潜水艦が退去命令に従わない場合に自衛艦を出動させること、②海上保安庁が速やかに対応できない海域や離島等において船舶や民間人に対し武装集団が不法行動を行う場合に自衛隊を出動させること、③自衛隊による在外邦人救出活動などが検討対象となっている。

(2)北側副代表は、第一について、限定行使容認論の基準が不明確だと批判しつつも一致点は見出せると前向きの姿勢を示し、①公海上の米艦船への攻撃対処、②シーレーン機雷封鎖時の対処、③米国へ向かうミサイル迎撃について、一定の条件のもとで認めることを打ち出している。

しかし、北側副代表の発言には以下の問題がある。

まず①が個別的自衛権というためには我が国への攻撃と認定できる場合できるケースでなければならず、政府・自民党、安保法制懇が検討しているものとは大きなズレガある。
次に②だが、北側副代表は、停戦後に浮遊物として残った機雷の撤去を想定しているのではなかろうか。政府・自民党、安保法制懇が検討しているのはそんなケースではなく、A国が、B国、C国等との交戦中に、もしくは報復措置として、軍事的な手段として機雷封鎖をした場合に、B国、C国等の要請でそれを解除することである。そのような作戦行動を警察権の行使だなどと言う人はいないだろう。
最後に③についても北側副代表の発言は問題のすり替えをしている。我が国の領空上を飛ぶミサイルを打ち落とすのなら、可能かどうかはともかくとして、大騒ぎする問題ではない。これは政府・自民党、安保法制懇が想定しているケースとは明らかに異なる。

さて北側副代表は、このような議論をしつつ、一致点は見出せるなどと言うのであるが、さて一致点はどのように作られるのであろうか。それは想定ケースを玉虫色にし、いくらでも広げていけるような条件設定をし、それらのケースに自衛隊が出動、参加し、武力行使をすることは憲法9条の下でも認められる「必要最小限度の自衛権」行使であるという内容で手打ちすることであろう。

(3)北側副代表は、第二、第三については発言していない。しかし、北側副代表が、この3日前、4月26日付公明新聞インタビューで「『「集団的自衛権の是非』という抽象論に走りすぎていると思います。議論の順序としては、まず、安全保障上の環境が大きく変わったのかどうか、今の安全保障政策ではどうしても対応できない分野があるのかどうかを考えるべきでしょう。もし、問題があるのなら、周辺事態法など個別の法律のどこが不十分かを判断することになります。その中で、『集団的自衛権の行使はできない』とした政府の憲法解釈に問題があれば、さらに議論を深めればいい。集団的自衛権だけを観念的に議論しても、とても国民の理解は得られないと思います。例えば、尖閣諸島を侵攻された場合、これは日本への武力攻撃であり、自衛隊の個別的自衛権の行使の問題です。また、停戦後に派遣される国連平和維持活動(PKO)に伴う自衛隊の武器使用は、そもそも自衛権とは無関係です。」と述べているところからすると、集団的自衛権の問題ではなく、憲法9条の問題は生じないとの考え方のようにも思われる。そうであるならそれは極めて乱暴な意見である。

(4)北側副代表の発言の一番の問題点は、第1項④中で「集団的自衛権は日本への武力攻撃がないにもかかわらず、ある基準を設けて武力行使をするわけだから、基準はよほど明確でなければなりません。」と述べていることである。これは、そもそも憲法9条の下では集団的自衛権は許されないとの政府見解をすでに踏みにじっている。同じことは公明新聞でのインタビュー中の『「集団的自衛権の是非』という抽象論に走りすぎていると思います。」との発言にも当てはまる。

3 歌を忘れたカナリア

第一に、憲法9条の下で認められる自衛権は、集団的自衛権行使三要件によって制約されたものである。
第二に、憲法9条の下で保持することができる自衛力(自衛隊)は、そのような制約ある自衛権を行使するために必要最小限度の実力である。

これらが再軍備日本が、憲法9条との折り合いをつけたギリギリの憲法解釈であり、歴代政府はこれを繰り返し確認して二本柱の政府見解である。

今、政府・自民党、安保法制懇が検討している自衛隊の自衛隊の出動、武力行使の範囲拡大戦略は、この二本柱の政府見解に即して判断されなければならない。答えは「いずれも認められない」である。

今、北側副代表はこれを政府・自民党、安保法制懇とともに蔑ろにしようとしている。公明党は庶民の党、平和の党、それが立党の理念ではないか。

歌を忘れたカナリアは、後ろの山に捨てられる運命にある。

                                    (了)
スポンサーサイト

「必要最小限度の自衛権」論は危険な陥穽

1 はじめに

4月26日付公明新聞に北側副代表のインタビュー記事が載っている。北側氏の発言の中に次のような箇所がある。

「集団的自衛権とは、自国と密接な関係がある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないにもかかわらず、実力で阻止する権利です。いわば「他国防衛の権利」です。これに対し、自国に対する武力攻撃を自力で排除する権利が個別的自衛権で「自国防衛の権利」です。
集団的、個別的自衛権を初めて明文で認めたのは国連憲章第51条です。日本も国連加盟国ですから、国際法上、集団的、個別的自衛権を保有しています。
しかし、日本国憲法は『戦争の放棄』『戦力の不保持』『交戦権の否認』を定めた第9条があるため、自衛権行使は自国防衛のための必要最小限度の範囲でしかできないと政府は解釈してきました。そのため、憲法上、集団的自衛権は必要最小限度を超えるため行使できないとの憲法解釈を固め、すでに40年以上も変えていません。」

以上の北側発言には、重大な問題点が孕まれている。

2 自衛権にかかわる政府見解は二本柱

わが国政府は、米国の指示もしくは強い要求のもとに再軍備に踏み切り、軍備増強を図ってきた。しかし、憲法9条は厳然として存在するわけであるから、歴代政府は、憲法9条の下で合憲と判断され得るための論理を政府見解として打ち立て、それに従うことで合憲性を確保できているとしてきたのであった。それは以下の二本柱から成る。

(1)「自衛権行使三要件」論

1954年4月、政府は、憲法9条の下も自衛権は認められるが、それは以下の厳格なる要件に適合しなければならないとの見解を示した(衆院内閣委佐藤達夫法制局長官答弁)。これは、わが国が憲法9条の下で保有する自衛権を定義したものと見てよい。

①わが国に対する急迫不正の侵害があること
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

①は、わが国に対する攻撃が急迫もしくは現在していなければならないということであって、単に攻撃のおそれがあるというだけでは駄目だということ、他国や他国部隊への攻撃は含まれないこと、および海外邦人が危険にさらされている場合は含まれないことを意味している。
②は、たとえば外交交渉、第三国の仲介、国際機関への提訴など相手国からの攻撃回避のために考慮できる非軍事的措置を尽くしても攻撃を避けられず、軍事的措置をとる以外に方法がないという場合にはじめて認められることを示している。
③は、軍事的措置は必要最小限度でなければならず、過剰反撃は認められないこと、端的にいえば侵入部隊を領土、領海、領空から撃退することがその限度であるということを示している。

(2)「自衛のために必要最小限度の実力」論

1954年12月、政府は、自衛隊創設の合憲性に関して次の見解を示した。

「憲法9条は独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のための必要相当な実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。」(1954年12月22日衆議院予算委員会における鳩山内閣統一見解)

この見解において前提となる自衛権とは、言うまでもなく、「自衛権行使三要件」論で定義されたものである。

3 わが国の防衛政策の問題点

再軍備後におけるわが国における防衛政策は、これら二本柱の政府見解に基づいて展開されてきた。防衛政策にかかわる憲法論議で示されたその余の政府の解釈・見解は、全てこれら二本柱の系であり、具体的展開であった。

もっとも、わが国は、現在、事実上、「自衛権行使三要件」で定義される自衛権、即ち専守防衛の範囲を逸脱する世界有数の巨大な軍備を保持するに至っているが、それは歴代自民党政府が、「自衛のための最小限度の実力」論を「自衛権行使三要件」論から意識的に分離して、防衛力整備計画を立て、遂行してきた結果である。
そのことは、たとえば以下の説明に端的に表明されている。

「憲法第9条は、我が国が主権国家として有する固有の自衛権を否定しておらず、この自衛権の行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、同条第2項によって禁じられてはいないというのがかねてからの政府の見解であり、この自衛のための必要最小限度の実力、すなわち自衛力の具体的な限度については、その時々の国際情勢、軍事技術の水準等により変わり得る相対的な面を有することは否定し得ないものであるということも、従来から一貫して政府が申し述べてきたところである。」(1981年5月衆議院内閣委員会における塩田防衛局長答弁)

4 集団的自衛権

(1)1972年10月14日に示された集団的自衛権に関する政府見解

「憲法は…自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」が、それは無制限に認められるものではなく、一定の要件を満たす必要がある。すなわち、「国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」
それゆえ、「わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。」(田中角栄内閣が社会党・水口宏三議員の質問に応じて参議院決算委員会に提出した資料)

これは単純明快である。「自衛権行使三要件」論に従い、集団的自衛権は認められないと述べているのである。

(2)1981年5月29日に示された集団的自衛権に関する政府見解

「国際法上、国家は集団的自衛権すなわち自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃をされていないのにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。わが国が、国際法上このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第9条の下において、許容される自衛権の行使はわが国を防衛するための必要最低限度の範囲にとどめるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」(鈴木善幸内閣の社会党・稲葉誠一議員の質問対する答弁書)

この政府見解は、「自衛権行使三要件」論との関係が不明瞭であり、「必要最小限度の範囲」にとどまる限り、集団的自衛権行使も認められると解する余地がある。はたせるかな、集団的自衛権否定の立場に立つ公明党二見伸明衆議院議員が、1986年3月5日衆議院予算委員会において、「必要最小限度であれば集団的自衛権の行使も可能というようなひっくり返した解釈は将来できるのか」と質問したのであった。
これに対する茂串俊内閣法制局長官の答弁は、「自衛権行使三要件」論を再確認し、「従ってその論理的な帰結といたしまして、他国へ加えられた武力攻撃を実力で阻止するということを内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。」と答え、二見議員が問いただした「ひっくり返した解釈」はできないことを明らかにしたのである。

5 北側議員の発言は一つのアイロニー

そこで冒頭の北側発言を検討してみよう。これは、折角大先輩の二見議員が、「必要最小限度であれば集団的自衛権の行使も可能というようなひっくり返した解釈は将来できるのか」とまさにポイントを押さえた質問をし、集団的自衛権は「必要最小限度の自衛権」の範囲に含まれるかどうかという抽象論を排し、「自衛権行使三要件」論の当然の帰結として認められないことを明らかにした経過を踏まえないもの、一つのアイロニーと言ってよい。

今、政府・自民党は以下の三つのうちいずれかの回路を通って「集団的自衛事態」に自衛隊を出動、参加させることを可能とするシナリオを描いているように思われる。

(1)第一の想定―集団的自衛権の概念を用いる場合・その1

①従来の自衛権に関する政府見解によれば、憲法9条の下でも「必要最小限度の自衛権」行使を認めるとしている。
②自衛権には個別的自衛権も集団的自衛権も含まれる。
③従って「必要最小限度の自衛権」の範囲内であれば集団的自衛権行使も認められる。
④従来の政府見解である「自衛権行使三要件」論は、「必要最小限度の自衛権」行使の範囲を示したものである。これは安全保障環境の変化によって変わるものであり、不動のものではないから、現在の安全保障環境にふさわしい内容に変えるべきである。

(2)第二の想定―集団的自衛権の概念を用いる場合・その2

①従来の自衛権に関する政府見解によれば、憲法9条の下でも「必要最小限度の自衛権」行使を認めるとしている。
②自衛権には個別的自衛権も集団的自衛権も含まれる。
③従って「必要最小限度の自衛権」の範囲内であれば集団的自衛権行使も認められる。
④従来の政府見解である「自衛権行使三要件」論は個別的自衛権行使に関する要件であり、集団的自衛権行使についてはこれとは異なる要件が考えられるべきだ。

(3)第三の想定・集団的自衛権の概念を用いない場合

①従来の自衛権に関する政府見解によれば、憲法9条の下でも「必要最小限度の自衛権」行使を認めるとしている。
②従来の政府見解である「自衛権行使三要件」論は「必要最小限度の自衛権」行使の範囲を示したものである。これは安全保障環境の変化によって変わるものであり、不動のものではないから、現在の安全保障環境にふさわしい内容に変えるべきである。

私は、現時点では、このうち(3)のシナリオが有力ではないかと思うのであるが、いずれにしても、肝心なことは、政府・自民党、それに安保法制懇の仕掛けてきた「必要最小限度の自衛権」の行使なる陥穽にはまってはならないということである。それは、「自衛のために必要最小限度の自衛力」論が何らの規範的効力を持たず、際限なく自衛隊の装備、編成が拡大したのと同様、際限なく自衛隊の出動、戦闘参加、武力行使が拡大することにつながる道である。

今、これに対置すべきなのは「自衛権行使三要件」論である。

                                  (了)

「必要最小限度の自衛権行使」論が市民権を得つつある現状を憂う

1 はじめに

最近のマスコミ報道を見ていると、安倍首相、高村自民党副総裁、石破自民党幹事長、北岡安保法制懇座長代理らの口をついて出てくる「必要最小限度の自衛権行使」の範囲内であるかどうかによって自衛隊の出動、戦闘参加を認めるどうかを決するとの見解が、無批判に垂れ流されている。
これは憂慮すべき事態である。

2 憲法9条2項の下で自衛隊を保持するための論理として考案された「自衛のために必要最小限度の実力」なる政府解釈の意味

自衛隊創設後の1954年12月、時の鳩山内閣は「9条は独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のための必要相当な実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。」との統一見解を示したことを思い起こして欲しい。
これが自衛隊を「自衛のために必要最小限度の実力」として合憲だとする政府解釈として「定着」したのである。

もっとも政府は上記統一見解に先立って「いわゆる自衛権の限界は・・・急迫不正の侵害、即ち現実的な侵害があること、それを排除するために他に手段がないこと、さらに必要最小限度それを防御するために必要な方法をとるという三つの原則を厳格なる自衛権行使の要件と考える」(1954年4月、衆院内閣委佐藤達夫法制局長官答弁)と自衛権について厳格な枠をはめたのであった。

これは「自衛権行使三要件」と言われているが、重要なことは憲法9条の下で認められる自衛権は、この限りのものだということである。権利があるがその行使は認められないというのはおかしいではないかとは、安倍首相が使うレトリックである。その意図するところのいかがわしさはともかくとして、自衛権に関する政府見解は、憲法9条の下では上記の制約ある自衛権しか認められていないと言っているのであり、権利はあるがその行使は認めないと言っているのではない。

そこで「自衛のために必要最小限度の実力」とは、「自衛権行使三要件」により制限された自衛権を行使するための必要最小限度の実力であると読み込まなければならないことは容易に理解できるところであろう。

3 「自衛のために必要最小限度の実力」はどうなったか

「自衛権行使三要件」を箇条書きしてみると以下のとおりである。

①わが国に対する急迫不正の侵害があること 
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

①は、わが国に対する攻撃のおそれだけがあるということだかではだめであり、まさに攻撃が急迫もしくは現在していなければならないこと、他国や他国部隊への攻撃に反撃すること、あるいは海外の日本国民が危険にさらされているとして自国民救出のために出動しもしくは武力行使することは認められないことを意味している。

②は、たとえば外交交渉、第三国の仲介、国際機関への提訴など相手国からの攻撃回避のためのありとあらゆる手段を尽くしても攻撃を避けられず、もはやほかに方法がないという場合にはじめて認められることを意味している。

③は、攻撃部隊を領土、領海、領空から撃退することが武力行使の限界であり、過剰防衛は許されないことを意味している。

ところで故高坂正堯氏は、1964年に中央公論誌上に発表された「海洋国家日本の構想」(現在は中公クラシックスとして同名の論文集が刊行されている。)において「われわれは軍備を持つことの恐ろしさをつねに注意しなくてはならないし、今後数十年の間にそれが、まったく無意味になるように努力しなくてはならない。そのためにはつねに軍備を最小限度にとどめるよう努力すると同時に、それを他の目的に転換できるような形で持たなければならない。またそうすることは経済的にも有利である。」として、次のようなイメージを提示している。

①航空自衛隊は1964年程度の装備、陣容(因みに当時は、戦闘機部隊はF104Jの4飛行隊のみであった。)

②陸上自衛隊は、強力な師団は2個師程度にととめ、それは国連軍に転用しうるものとする。他の師団は国土建設隊的性格を強める。

③海上自衛隊は日本の周囲の海において行われる可能性のあるゲリラ活動を鎮圧しうる程度のもの。

「自衛権行使三要件」により制約された自衛権を行使する「自衛のために必要最小限度の実力」のイメージはこの程度ではなかろうか。

ところが歴代自民党政府は、「自衛のために必要最小限度の実力」なる解釈論を「自衛権行使三要件」と切り離し、これを一人歩きさせ、さらに1981年5月、「憲法第9条は、我が国が主権国家として有する固有の自衛権を否定しておらず、この自衛権の行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、同条第2項によって禁じられてはいないというのがかねてからの政府の見解であり、この自衛のための必要最小限度の実力、すなわち自衛力の具体的な限度については、その時々の国際情勢、軍事技術の水準等により変わり得る相対的な面を有することは否定し得ないものであるということも、従来から一貫して政府が申し述べてきたところである。この解釈は、今日においても全く変わりはない。なお、いかなる場合においても、この自衛のための必要最小限度という限界を超えて防衛力を増強することが許されないことはいうまでもない。」との注釈も付け加え(衆議院内閣委員会における塩田防衛局長答弁)、自衛隊の装備、編成は、どんどん拡大、強化されて行った。

自衛隊の装備・編成は、際限なく拡大、強化された結果、2012年度には、兵員数ではフランス、イギリスを上回る世界22位、戦闘用飛行機保有数では世界11位、艦艇保有数では世界3位、軍事費支出額では世界6位という強大な軍事力を擁することになってしまい(同年度国際戦略研究所IISS調査)、さらに2013年12月に策定された新防衛大綱のもとで、いっそう強化されようとしているのが現状である。

4 「自衛権行使三要件」を食い破る構え
  
さてこのように自衛隊の現状は、世界有数の戦力となったが、その自衛隊の活動は、現在も「自衛権行使三要件」により拘束を受けている。その「自衛権行使三要件」によって拘束を受ける自衛権を行使するために必要な自衛隊の装備、編成が、上記イメージ程度のものであるとすれば、現実の自衛隊は、それをはるかに凌駕する装備、編成を擁しているのである。だからあり余っている自衛隊の戦力を日米関係の強化のために自由に使えるようにしたいと安倍首相が考え、米国がこれを利用したいと考えるのも、ある意味では当然のことかもしれない。

子供は手にあるおもちゃを使い、遊びたがるものだ。

集団的自衛権行使を容認するべき根拠として、安倍首相らは、国際的な安全保障環境の変化への対応、日米同盟の対等化、積極的平和主義等、さまざまなもっともらしい説明をしているが、あり余る戦力を持つ自衛隊を有効に活用すること、これこそがことの真相を解き明かすものである。

しかし、安倍首相と自民党は、ここまで集団的自衛権の行使容認で中央突破を図ってきたが、集団的自衛権行使に反対する世論は強い、与党の一角である公明党も説得しきれないという大きなデッドロックに乗り上げてしまった。そこで彼らは事態を打開するための高等戦術をあみ出した。それは集団的自衛権なる概念を用いず、「必要最小限度の自衛権行使」なる要件で「自衛権行使三要件」を食い破り、集団的自衛事態における自衛隊の出動、武力行使も「必要最小限度の自衛権行使」の範囲内であると言いつくろおうというものだ。

5 今こそ「自衛権行使三要件」を

だましの手口を見破らなければならない。だましの手口を暴露しなければならない。そして今こそ「自衛権行使三要件」を再確認する必要がある。
マスコミは、政府側、自民党側、或いは安保法制懇のスポークスマン・北岡氏から「必要最小限度の自衛権行使」なる言い回しがなされたときには必ず「自衛権行使三要件」を対置し、説明するべきである。それを怠ることは彼らのだましの手口に手を貸すことになる。これからがせめぎ合い本番である。
                                   (了)

「集団的自衛権限定行使」容認論を撃て!

1 「集団的自衛権限定行使」容認論

安保法制懇の北岡伸一座長代理は、2月21日、日本記者クラブにおける記者会見で、同懇談会報告書に、集団的自衛権を次の5条件のもとに限定して認めるという方向で検討していことを、明らかにした(「朝日」2月22日朝刊。なお④を前段と後段に分割し、6条件として紹介する報道もある。たとえば、4月13日付しんぶん「赤旗」)。

①密接な関係にある国が攻撃を受けた場合
②放置すれば日本の安全に大きな影響が出る場合
③攻撃された国から行使を求める明らかな要請があった場合
④首相が総合的に判断し、国会の承認を受けること
⑤攻撃を受けた国とは別の国の領土・領海を自衛隊が通る場合、その国の許可を得ること

これに呼応するかのように内閣法制局も新たな動きを始めているようだ。「時事通信」によれば、

「安倍晋三首相が目指す集団的自衛権の行使容認をめぐり、内閣法制局が行使要件を「放置すれば日本が侵攻される場合」などに厳格に限定した素案をまとめたことが12日、分かった。」

とのことである(時事通信4月13日(日)5時32分配信)。

2 「集団的自衛権限定行使」容認論の論理構造

「集団的自衛権限定行使」容認論を導き出す論理は、現時点では、その全貌が明らかにされているわけではないが、第一次安倍政権以来の安倍首相の発言、「有識者」として安倍首相の発言に平仄を合わせている北岡氏の言説などから、おおむね以下のようなものではないかと考えられる。

(1)第一の想定―集団的自衛権の概念を用いる場合・その1

①従来の自衛権に関する政府見解は、憲法9条の下で、「必要最小限度」の自衛権を認めるとしている。②自衛権には個別的自衛権も集団的自衛権も含まれる。③従って「必要最小限度」の自衛権の範囲内であれば集団的自衛権行使も認められる。また④従来の政府見解である自衛権行使三要件は、「必要最小限度」の自衛権行使の範囲を示したものである。これは時代と国際環境によって変化するものであり、不動のものではないから、現在の国際環境にふさわしい内容に変えるべきである。

(2)第二の想定―集団的自衛権の概念を用いる場合・その2

①から③までは上記と同じ。また④従来の政府見解である自衛権行使三要件は個別的自衛権行使に関する要件であり、集団的自衛権行使についてはこれとは異なる要件が考えられるべきだ。

(3)第三の想定・集団的自衛権の概念を用いない場合

①従来の自衛権に関する政府見解は、憲法9条の下で、「必要最小限度」の自衛権及びそのための自衛力を認めるとしている。②従来の政府見解である自衛権行使三要件は「必要最小限度の自衛権行使の範囲」を示したものである。これは時代と国際環境によって変化するものであり、不動のものではないから、現在の国際環境にふさわしい内容に変えるべきである。

3 「集団的自衛権限定行使」容認論の堪えられない誤謬

上記の「集団的自衛権限定行使」容認論の論理構造には重大な欠陥がある。それは、そもそも自衛権に関する政府見解がどのような政治状況において、どういう経緯で形成されたのかを無視し、正確に理解をしないで、没歴史的で平板かつ陳腐な論理を弄んでいるに過ぎないということである。

政府は憲法制定過程において自衛権に関する基本的見解を示し、1950年8月・警察予備隊創設、1952年7月・保安隊及び警備隊創設、並びに1954年6月自衛隊創設、とこれらに反対する国民運動及び国会における論戦の中で、上記基本的見解との整合性をはかりつつ、現在にも維持される二つの見解―自衛権行使三要件及び自衛のための必要最小限度の実力もしくは自衛力は認められるとの見解―を練り上げたのであった。その後は、時々の政策課題との関連で、その二つの見解から論理的に導き出される見解を示してきたのであった。


(1)憲法制定過程における自衛権に関する政府見解

憲法9条は、主権国家固有の自衛権は認めるが、自衛のための戦争、武力行使、交戦権をも放棄したものであるという基本的見解をぶちあげ、吉田茂首相をはじめ、政府側委員は一貫してその高邁な理想を説いた。

(2)警察予備隊創設後の政府見解

警察予備隊の目的は全く治安維持にある。(中略)再軍備の目的とかはすべて当たらない。日本の治安をいかにして維持するかというところにその目的があるのであり、従ってそれは軍隊ではない。(1950年7月30日衆議院本会議における吉田首相発言)
この見解は、自衛権に関する従来の基本的見解を何ら変更するものではなかった。

(3)保安隊創設後の政府見解

①憲法9条2項は、侵略の目的たると自衛の目的たるとを問わず「戦力」の保持を禁止している。②右にいう戦力とは、近代戦争に役立つ程度の装備、編成を備えるものをいう。 ③陸海軍とは、戦争目的のために装備編成された組織体であり、「戦力」とは人的、物的に組織化された総合力で、兵器そのものは戦力ではない ④保安隊は組織目的と装備編成から判断して、近代戦争遂行の能力がないから戦力にはあたらない。⑤憲法9条2項にいう「保持」とは、わが国が保持の主体たることを示す。米国駐留軍は、わが国を守るために米国の保持する軍隊であるから憲法9条の関するところではない。(1952年11月25日衆議院予算委員会で示された第4次吉田内閣統一見解)
ここでも実態的にはともかく形式的には従来の自衛権に関する基本的見解との整合性が図られている。

(4)自衛隊創設前後の政府見解

(自衛権行使三要件の明示)

いわゆる自衛権の限界は・・・たびたび述べておりますように急迫不正の侵害、即ち現実的な侵害があること、それを排除するために他に手段がないこと、さらに必要最小限度それを防御するために必要な方法をとるという三つの原則を厳格なる自衛権行使の要件と考える。(1954年4月6日衆議院内閣委員会・佐藤達夫法制局長官答弁)

上記見解は、1969年3月10日参議院予算委員会における高辻正巳内閣法制局長官答弁「・・・自衛権の行使については厳密な要件がある。・・・要するに、わが国に急迫不正の侵害がある。そして他に全くこれを防衛する手段がないという場合には、防衛する。ただし、それは必要な限度にとどめなければならない。これがいわゆる3要件であると思います。その3要件に適合しないものは、わが憲法といえどもむろん許さない。」、1972年10月14日衆議院内閣委員会における吉国一郎内閣法制局長官の答弁「この三要件というのは、わが国に対して急迫不正な侵害があったこと、この場合に、これを排除するために他に適当な手段がないこと、更に第三に、その急迫不正な侵害を排除するために必要最小限度の力の行使にとどまるべきこと。この三つの要件を従来自衛権発動の三要件と言っている。」など、度々確認されている。

(自衛のための必要最小限度の実力もしくは自衛力は認められるとの見解明示)

憲法9条は独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のための必要相当な実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。(1954年12月22日衆議院予算委員会における鳩山内閣統一見解)。
この見解は、「戦力とは、広く考えますと戦う力ということでございます。そのようなことばの意味だけから申せば、一切の実力組織が戦力に当たるといってよいでございましょうが、憲法9条2項が保持を禁じております戦力は、右のことばの意味どおりの戦力のうちでも、自衛のための必要最小限度を越えるものでございます。それ以下の実力の保持は、同条項によって禁じられていないということでございまして、この見解は年来政府のとっているところでございます。」と敷衍されている(1979年11月13日日参議院予算委員会における吉国内閣法制局長官答弁)。

(5)集団的自衛権否定に関する政府見解

1972年10月14日田中角栄内閣は、社会党・水口宏三議員の質問に応じて、集団的自衛権に関する政府見解を示す資料を参議院決算委員会に提出した。それによると以下のとおりである。

集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止すること」と定義される。「わが国が、国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。」
しかし、日本は「国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない」とされる。「憲法は…自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」が、それは無制限に認められるものではなく、一定の要件を満たす必要がある。すなわち、「国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置として、はじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」
それゆえ、「わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。」

さらに1981年5月29日鈴木善幸内閣は、社会党・稲葉誠一議員の質問対する答弁書で次のような見解を示した。

「国際法上、国家は集団的自衛権すなわち自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃をされていないのにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているものとされている。わが国が、国際法上このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然であるが、憲法第九条の下において、許容される自衛権の行使はわが国を防衛するための必要最低限度の範囲にとどめるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」

前者が自衛権行使三原則により集団的自衛権は認められないとの趣旨であることは容易に理解できるが、後者については不明瞭である。しかし、その後1986年3月5日衆議院予算委員会において、公明党・二見伸明議員が、そのあいまいさを突いて「必要最小限度であれば集団的自衛権の行使も可能というようなひっくり返した解釈は将来できるのか」と質問し、茂串俊内閣法制局長官が、自衛権行使三要件を再確認しつつ「従ってその論理的な帰結といたしまして、他国へ加えられた武力攻撃を実力で阻止するということを内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と答えて、二見議員が問いただした「ひっくり返した解釈」はできないことを明らかにし、不明瞭さを解消している。

(5)小括

以上により「集団的自衛権限定行使」容認論の誤謬は明白となったであろう。「集団的自衛権限定行使」容認論は、従来の政府見解は、憲法9条の下で、必要最小限度の自衛権が認められる⇒必要最小限度の自衛権行使が認められる⇒自衛権行使三要件は必要最小限度の自衛行使の要件を定めたものだという理解に立っている。その上でスキマさがしをしているのである。それは全く違うのだ。従来の政府見解は、憲法9条は自衛権を認めている、しかしその自衛権は、自衛権行使三要件に従い行使されるということを述べ、その当然の論理的帰結として集団的自衛権行使は認められないとしているのであり、集団的自衛権は、必要最小限度の自衛権、必要最小限度の自衛権の行使の範囲内かどうかを論じているのではない。スキマはどこにもないのだ。
よって「集団的自衛権限定行使」容認論の誤謬は堪えられないほどに重大である。

4 まとめ

ところで新聞、テレビ等の報道について一言したい。
これらの中にはせっかく集団的自衛権に批判的な立場をとっているにもかかわらず、仔細に見ると、従来の憲法9条の下では集団的自衛権は認められないとの政府見解の根拠について不正確な理解、もっと言えば「集団的自衛権限定行使」容認論と五十歩百歩の理解しかしていないものが多々見受けられる。

社名を出して恐縮だが、たとえば朝日新聞3月3日朝刊にのった「集団的自衛権 読み解く 一からわかる集団的自衛権」なる大型解説記事で、「個別的自衛権とは何か?」の中で、自衛権行使三要件は個別的自衛権の行使要件に区分けされ、集団的自衛権は必要最小限度の自衛権の範囲を越えるから認められないのだとの誤解を生むような記述がなされているし、同3月7日朝刊で「(81年政府見解は)歴代政権による集団的自衛権の答弁を整理し、憲法9条で許される自衛権の行使を『わが国を防衛するため必要最小限度の範囲』とした。その上で『集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるもので、憲法上許されない』とした。」と上記「ひっくり返した解釈」の余地ある政府見解を何らのコメントもなく紹介しているのも、誤解を招く。

こんなことでは、「集団的自衛権限定行使」容認論に足元をすくわれるし、読者に「集団的自衛権限定行使」容認論を受容するバックグラウンドを形成することにつながる。

ジャーナリストは、事象の表面をなぞっているだけではだめである。奥深く掘り下げて、国民の知的抵抗力を培養する心意気を持って欲しいものだ。

「集団的自衛権限定行使」容認論がしだいに形をあらわしつつある。どうも上述の「第三の想定・集団的自衛権の概念を用いない場合」を志向しているようだ。それこそ麻生副総理のご推奨の道のようである。私たちは静かに知らぬ間に自衛隊が集団的自衛事態に対処できるようになってしまわないよう、「集団的自衛権限定行使」容認論を撃たねばならない。
                                                (了)

法解釈についていけない人たち

政府は、第一に、憲法9条のもとでも自衛権は認められる、第二に、自衛隊は自衛権を行使するための必要最小限度の実力組織であり、憲法9条2項の戦力にあたらない、第三に、憲法9条のもとで自衛権の行使は、①わが国に対する急迫不正の侵害があること、②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきことの三要件のもとに認められる、第四に、憲法9条のもとでは集団的自衛権は認められない、以上の四点を、政府見解として提示し、国会等の場で繰り返し確認してきた。

これらの政府見解のうち、第三の自衛権行使三要件は、周辺事態法、PKO協力法、テロ特措法、イラク特措法等、過去幾たびも、自衛隊の活動の限界を画する実効性ある規範として機能してきたことは記憶に新しいところであり、また三要件中①の要件を充たさないことが第四の集団的自衛権を認めない政府見解を導き出す根拠にもなっているのである。

自衛権行使三要件の意味するところは極めて重要であるから、繰り返しになるが確認をしておきたい。

①は、わが国に対する攻撃が急迫もしくは現在していなければならないこと明らかにしている。
②は、考えられる全ての手段を尽くしたが、反撃する以外に方法がないという場合にはじめて認められることを示している。
③は、反撃の程度が必要最小限度という意味であり、過剰反撃は認められないこと、端的にいえば侵入部隊を領土、領海、領空から撃退することがその限度であるということを示している。

これらは政府部内において、憲法・諸法令に最も通暁した専門家集団からなる内閣法制局(内閣法制局設置法第3条により、「閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること」、「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること」などが所掌事務として定められている。これらの規定から内閣法制局は政府の法律顧問に相当する役割を果たすものといっていい。)の厳密な法解釈をもとに確定されたものである。

安倍首相や自民党高村副総裁は、この厳密な法解釈についていけない人たちであることは、彼らが根っからの「政治家」であることからまだ諦めもつく。しかし、民主党野田政権の防衛大臣を務めた「学者」出身の森本敏氏(現拓殖大学特任教授)までもが、以下のような見解を披露しているのは、大目に見るわけにはいかない。

以下は2013年8月29日朝日新聞朝刊に載った森本氏へのインタビュー記事である。

問い 行使を認めない現在の憲法解釈はおかしいと。

森本 集団的自衛権を『国際法で認められているが、必要最小限度の自衛力の範囲を超えるから使えない』という解釈は主権国家として無理がある。自衛隊を違憲だとする世論に対して『必要最小限度の実力組織』と合憲性を強調。集団的自衛権を行使しないという論法で周辺国の懸念を払拭(ふっしょく)する政治的な判断でしょう。条文解釈や法理解釈ではない。政治的な解釈だから、変えられないという意見を私はとらない。

森本氏は、自衛権行使三要件もご存知ではないし、集団的自衛権が認められないという論拠についてもおぼつかないようである。しかも、「周辺国の懸念を払拭するための政治的判断であって、条文解釈や法理解釈ではない」など手前勝手な忖度までしている。憲法?そんなもの関係ない、必要性が全てを決めるのだとうそぶくアウトローの論理。このような人物を防衛大臣に据えた民主党政権が、国民にそっぽを向かれたのもむべなるかな、というべきか。

「必要最小限度」なら集団的自衛権は認められる??

「安倍晋三首相は8日のBSフジの番組で「必要最小限の中に含まれる集団的自衛権もあるのではないか」と述べ、自民党の高村正彦副総裁の「限定容認論」に同調する考えを示した。
安倍首相は1959年の「砂川事件」最高裁判決について、「集団的自衛権を判決の中で否定しない、ということははっきりしている」と指摘し、集団的自衛権の行使容認の根拠の一つとなる考えを示した。
 一方、集団的自衛権の行使について、「日本は9条によって個別的自衛権も限定されている。集団的自衛権が限定されていないはずがない、と考えるのが当然だと思う」と表明。自衛隊の活動範囲については「地理的な限定は、政策的手段として取っていくうえでは当然、入ってくると思う」と述べ、政策判断ごとに制限を設ける考えを示した。」
(4月9日付朝日新聞朝刊)

安倍首相は、(ⅰ)憲法9条は、自衛権を認めている、(ⅱ)自衛権の中には個別的自衛権だけではなく集団的自衛権も含まれる、(ⅲ)よって憲法9条は「必要最小限」の範囲内において(即ち限定的に)集団的自衛権の行使を認めている、と述べているのである。
しかし、(ⅰ)はともかく(ⅱ)、(ⅲ)はでたらめである。

この問題に関する政府見解は以下のとおり、防衛省・自衛隊のホームページに掲げられている(原文のまま引用)。政府は、これが憲法9条の正しい解釈であるとして、国会その他で繰り返し表明してきたのである。

(自衛権発動の要件)
憲法第9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、政府は、従来から、

①わが国に対する急迫不正の侵害があること
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

という三要件に該当する場合に限られると解しています。

(集団的自衛権)
国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているとされています。わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています。

少し、もってまわった言い方だが、補足説明すると次のようなことになる。

①は、まさにわが国に対する攻撃が急迫もしくは現在していなければならないこと、わが国に対する攻撃のおそれがあるという場合は含まれないこと、他国や他国部隊への攻撃は含まれないこと、あるいは海外の日本国民が危険にさらされている場合も含まれないことを示している。

②は、たとえば外交交渉、第三国の仲介、国際機関への提訴など相手国からの攻撃回避のためのありとあらゆる手段を尽くしても攻撃を避けられず、反撃する以外に方法がないという場合にはじめて認められることを示している。

③は、反撃の程度が必要最小限度という意味で、過剰反撃は認められないこと、端的にいえば侵入部隊を領土、領海、領空から撃退することがその限度であるということを示している。

以上のことから「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である集団的自衛権は、憲法9条のもとでは論理必然的に認められないことになる。

安倍首相は、この政府見解の三要件を無視し、とりわけ「必要最小限度」の意味を理解できないのか、あるいは理解しようとしないのか、全く異なる意味、即ち「限定的」という意味で「必要最小限」なる言葉を用いているのだ。

安倍首相は「必要最小限度」のたしなみも欠いているようだ。

「立憲主義」の深層

「立憲主義」なる概念は、一義的に明確ではない。たとえば、明治憲法下においても次の二様の考え方の対立があった(樋口陽一「憲法 知の復権へ」(平凡社ライブラリー104頁以下)。

一つは美濃部達吉博士の考え方。美濃部博士は、明治憲法のもとにおいて、天皇は国家の一機関であり、その権能は、憲法の定める条項により制約を受ける、とりわけ国民の代表者で構成する議会の多数派が内閣を組織し、内閣の決定にもとづいて行使されるべきであると説いた。
もう一つは穂積八束博士の考え方。穂積博士は、明治憲法のもとにおいて、天皇は統治の中心にあり、憲法の条項に従うほかは何らの制約も受けないと説いた。

表面的には、どちらも、天皇といえども憲法に従う義務があるという点では共通性がある。しかし、その意味するところは全く異なる。美濃部博士は、近代ヨーロッパの憲法原理に近い考え方で、天皇を、議会(国民の意思)による他律的拘束のもとに置こうとしているのに対し、穂積博士は、天皇自らが制定した憲法に自己抑制として従うというに過ぎず、議会による他律的拘束は問題外である。

近代ヨーロッパの憲法原理は、フランス革命下の憲法制定国民議会において1789年8月26日採択されたフランス人権宣言(人及び市民の権利宣言)に定める天賦人権、国民主権及び第16条「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」との規定に示されているところである。
そこで近代「立憲主義」とは、国家権力は、このような近代ヨーロッパの憲法原理を体現した憲法によって厳格に拘束され、立法、行政、司法の三権に分立して、その行使がなされるということを意味することになる。

わが国においては、日本国憲法の制定により状況は劇的に転換を遂げた。日本国憲法は、近代ヨーロッパの憲法原理を具現し、さらには生存権条項など社会権規定や平和主義条項により一層発展させ、美濃部博士の所説をはるかに追い抜いてしまった。

日本国憲法の下では、国家権力は、基本的人権、平和主義などの憲法諸条項によって厳格に縛られ、立法、行政、司法の三権に分立して、その行使にあたることとなる。

これがわが国における現代の「立憲主義」の意味である。

安倍首相は、本年2月3日、衆議院予算委員会において、立憲主義について、「憲法についてですね、考え方のひとつとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それは嘗て王権が絶対権力を持っていた 時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのはですね、日本という国のかたち、そして、理想と未来を語るものではないかと、ま、このように思います。」とその所見を述べた。こういう考え方が現代に通用する「立憲主義」でないことは明白であろうし、これでは集団的自衛権行使を容認する解釈改憲に前のめりになるのも当然である。

さてまだその先がある。現代の「立憲主義」によれば、憲法の名宛人は国家権力であり、その担い手であり、個々の国民は名宛人ではない。従って、国民は、日常的生活や活動の場面で、憲法を守る義務を負うものではない。しかし、国民主権のもとでは、国家権力の最終的担い手は国民である。その国家権力の最終担い手としての国民には憲法尊重擁護の義務があると考えるべきであろう。

憲法12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定め、97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と定めている。これらは、国民主権の担い手たる国民に基本的人権を保持する義務を負わせたものである。

また憲法96条1項は、憲法改正に関し、国民投票を実施することを定めている。これは、国民主権の担い手である国民に対し、国民投票を通じて憲法を守る義務を履行すべきことを求めているのである。

さらに付け加えれば、憲法を勝手に変えようとする政府を、批判し、退陣に追い込むために政治行動を起すことも国民主権の担い手たる国民の憲法擁護義務の一つである。

砂川事件最高裁判決によって集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す (4)

自衛権に関する政府見解

ではわが国政府は、憲法9条のもとで自衛権をどう位置づけてきたのであろうか。その経過をざっと見ておこう。

(自衛のための実力もしくは自衛力)

政府は、1946年6月25日に始まる第90帝国議会(憲法制定議会)における憲法改正に関わる論戦において、9条第1項は直接的には自衛権を放棄していないが、第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果自衛権の発動としての戦争も放棄したとの見解に基づき、論戦を乗り切り、日本国憲法を成立させた。

この政府見解のもとで、1950年8月・警察予備隊創設、1952年7月・保安隊及び警備隊創設と、これに反対する国民運動が展開され、国会でも論戦が繰り広げられた。そういう状況で、時の吉田内閣は、同年11月、「①9条2項の戦力とは、近代戦争に役立つ程度の装備、編成を備えるもの、②陸海軍とは、戦争目的のために装備編成された組織体、③戦力とは人的、物的に組織化された総合力で、兵器そのものは戦力ではない、④保安隊は組織目的と装備編成から判断して、近代戦争遂行の能力がないから戦力にはあたらない」とする統一見解を示し、既成事実を追認した。

さらに、1954年6月、自衛隊が創設されると、同年12月、「9条は独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のための必要相当な実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」との鳩山内閣統一見解によって、自衛のための実力部隊保持を認めるに至った。

なお、この延長線上で、「を憲法第9条は、我が国が主権国家として有する固有の自衛権を否定しておらず、この自衛権の行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、同条第2項によって禁じられてはいないというのがかねてからの政府の見解であり、この自衛のための必要最小限度の実力、すなわち自衛力の具体的な限度については、その時々の国際情勢、軍事技術の水準等により変わり得る相対的な面を有することは否定し得ないものであるということも、従来から一貫して政府が申し述べてきたところである。この解釈は、今日においても全く変わりはない。なお、いかなる場合においても、この自衛のための必要最小限度という限界を超えて防衛力を増強することが許されないことはいうまでもない。」と敷衍されることもあった(1981年5月・日衆議院内閣委員会 塩田防衛局長答弁)。

(自衛権行使の限界)

政府は、その一方で、「いわゆる自衛権の限界は・・・急迫不正の侵害、即ち現実的な侵害があること、それを排除するために他に手段がないこと、さらに必要最小限度それを防御するために必要な方法をとるという三つの原則を厳格なる自衛権行使の要件と考える」(1954年4月、衆院内閣委佐藤達夫法制局長官答弁)と自衛権について厳格な枠をはめたのであった。その後、度々、これを補強し、あるいはこれを繰り返す見解が示されている。
これが自衛権行使に関する三要件である。わかりやすくするために箇条書きしてみよう。

①わが国に対する急迫不正の侵害があること
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

①からは、わが国に対する攻撃のおそれだけがあるということだかではだめであり、まさに攻撃が急迫もしくは現在していなければならないこと、他国や他国部隊への攻撃に関しては認められないこと、あるいは海外の日本国民が危険にさらされているとして自国民救出のために攻撃することは認められないことなどが導きだされる。
②からは、たとえば外交交渉、第三国の仲介、国際機関への提訴など相手国からの攻撃回避のためのありとあらゆる手段を尽くしても攻撃を避けられず、反撃する以外に方法がないという場合にはじめて認められることとなる。
③からは、過剰反撃は認められないこと、端的にいえば領土、領海、領空から撃退することがその限度であるということが導かれる。

(「必要最小限度」という言葉の二義性)

おわかりのように「必要最小限度」という言葉が、自衛のための実力もしくは自衛力を画するための量的・質的限度の意味にも使われているし、自衛権行使の限度、即ち反撃の限度画するためにも使われている。つまり政府見解は、「必要最小限度」という言葉を、異なる次元において使い分けをしているのである。前者の意味であれば、自衛のための実力もしくは自衛力の量的・質的限度は「その時々の国際情勢、軍事技術の水準等により変わり得る相対的な面を有する」ということになる。しかし、後者の意味であれば、自衛権行使の三要件の一つとしての反撃の限度は、一義的に定まっている。

集団的自衛権は認められないとの政府見解は確立しているが、それは自衛権行使三要件から論理的に導かれる結論であり、「必要最小限度」であれば集団的自衛権の行使も認められるというのは論理矛盾である。

一方、高村氏は「必要最小限度」の自衛権行使とか、「必要最小限度」の範囲内なら集団的自衛権も認められるという言い回しをしているが、そこでいう「必要最小限度」とは、自衛のための実力もしくは自衛力の量的・質的能力の限度を画するために用いられて来た相対的な概念であり、これを次元のことなる自衛権行使の限界の場面に、三要件と切り離して単独使用し、従来の政府見解との整合性を取り繕おうとしているのである。このデマゴギー的手法をよくよく理解していただきたい。

最後に

「朝日新聞」は4月6日付社説で、高村氏の発言、論理を牽強付会と批判した。これは正しい。しかし砂川判決は個別的自衛権を認めた判決であるとの公明党・山口委員長のコメントを肯定していること、国連憲章51条への言及がないのは掘り下げ不足である。

批判的に考察するとは、全面的かつ言葉の本来の意味でラディカルでなければならない。高村氏の発言、論理は、これまで集団的自衛権に慎重だった自民党の有力者らをコロッとまいらせてしまったようである。中途半端はだめなのだ。徹底的な批判が望まれる。
                                    (了)

砂川事件最高裁判決によって集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す (3)

国連憲章51条

安保法制懇の「有識者」なる人たちも、高村氏も、砂川判決と並んでもうひとつ、国連憲章51条に言及している。彼らは大発見をしたかのような顔をしている。しかし、人は、ものごとを論理的に説明できないときには、なにやら権威ありそうなものを持ち出して他者を従わせようとするものだ。「これが目に入らぬか」とばかりに印籠をつきつける、あの水戸黄門の手口だ。だが、こういう手合いは、たいがいはペテン師、ハッタリ屋の類と見てよさそうだ。

砂川判決はもう十分だろう。次は国連憲章51条だ。早速条文を読んでみよう。

「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」

確かに、「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と書かれている。しかし、よく読むと無条件ではなく、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」とこれを限定する条件が付されている。どうも単純なことではなさそうだ。ここまでは読み取って欲しいものだ。そこでほかに手がかりはないかと、国連憲章を順番に読んでいくと、重要な条文が目に入ってくる。第2条の第4だ。

「すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」

これが原則なのだ。そうすると51条は例外であるということになる。しかし、それにしても、51条は、集団的自衛権を固有の権利と言っているではないか。その点どう理解したらいいのだろうか。

まず大前提としてこの51条の規定がなされる前には、国際法上、集団的自衛権なる概念は存在していなかったということを確認しておこう。

世界にはじめて、戦争と平和に関する包括的な国際法秩序が成立したのは、欧州諸国を疲弊させた30年戦争がようやく終了した1648年のことだ。欧州諸国間で取り交わされたウェストファリア条約がそれだ。その当時、国際法上の通念として妥当していたのは無差別戦争観であった。

人類は、そこから一歩一歩前進し、第一次世界大戦後の国際連盟規約、1928年のパリ条約により、侵略戦争違法観がようやく国際社会において市民権を得るに至り、侵略戦争は違法である、しかし自衛権行使のための戦争は適法であるということになった。ここでいう自衛権とは、個別的自衛権だったのである。

それでも第二次世界大戦を防ぐことができなかった。そこで連合国主要国は、そのことの痛切な反省の上に立って、戦後の国際社会に、国際連盟よりも強力な普遍的国際組織(以下「国連」という。)を組織し、個別主権国家による戦争、武力行使を禁止し、国連の規制のもとに置く集団的安全保障体制を構築することを構想した。

この構想がハッキリ打ち出されたのは、早くも1943年10月に開催された、米・英・中・ソ四大国によるモスクワ会議であった。次いで1944年10月、米・英・中・ソ四大国によるダンバートン・オークス会議(ワシントン郊外ダンバートン・オークスで開催されたことからこう呼ばれる。)で、国連憲章の基礎となった「一般的国際機構設立に関する提案」(ダンバートン・オークス提案)が採択された。

このダンバートン・オークス提案では、武力行使の一般的禁止と地域的紛争の解決のために武力行使をするには国連・安全保障理事会(以下「安保理」という。)の許可を要することとされていただけで、現在の51条に相当する例外規定はなかった。

現在の51条に、集団的自衛権と個別的自衛権が取り入れられるに至るには紆余曲折があった。そのきっかけとなったのは1945年2月、米・英・ソ三国によるヤルタ会談である。ヤルタ会談では、千島・樺太をソ連に帰属させることを見返りにソ連が対日参戦することを内容とする不当な密約など、それまでの民主主義・国際協調を旨とする戦後構想とは異質な不純要素が持ち込まれた。安保理の大国間一致の原則もその一つである。

米国は長らくモンロー主義の伝統があったから国連によって行動の自由が制約されることを嫌い、安保理の決議には自己を含む大国間の一致の原則を求めた。これを米国とは異なる思惑からソ連が支持し、採用されたのであった。その後の米ソ対立の進行は、このような大国一致の原則を決めたことにより安保理が適時、適切な措置を決め、行動できない懸念を生じさせることになった。

同年3月、中南米諸国による米州会議(メキシコシティ郊外のチャプルテペックで開催されたので「チャプルテペック会議」と呼ばれる。)において、米州諸国のいずれか一国に対する攻撃は全ての加盟国に対する侵略行為とみなされ、一致して軍事力の行使を含む対抗措置をとることが確認された。これをチャプルテペック決議というのであるが、この決議はダンバートン・オークス提案とは抵触するものであった。

同年4月、国連憲章作成のために開催されたサンフランシスコ会議では、チャプルテペック決議に拠った中南米諸国への対応、ヤルタ会談で確認された安全保障理事における大国一致の原則に関わって、米、英、仏の駆け引きの結果、ダンバートン・オークス提案からは大きく後退した内容で妥協が成立したのであった。それが51条である。

ただ、そこでの議論を通じて、個別的自衛権については「固有の(inherent)権利」という議論はなされていたが集団的自衛権についてはそのような議論はなされていないにもかかわらず、成文において突如として集団的自衛権も「固有の(inherent)権利」であるかの如き文章とされてしまったものであること、個別的自衛権にしても集団的自衛権にしても、あくまでも51条の要件を満たす場合に、例外的・暫定的に認められるに過ぎず、その行使は安保理のコントロールのもとに置かれるとの確認がなされたことが明らかとなっている。

これらを通じて突如浮上した集団的自衛権とは、諸国家が同盟関係を結び、仮想敵国を想定して、個別に対抗しあうという勢力均衡論、パワーポリティックス的国際関係観に立つものである。一方、51条を含む国連憲章第7章「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に対する行動」国連がめざす集団的安全保障体制は、そのような国際関係観の否定の上に立った普遍的平和の実現を目指すものである。集団的自衛権の野放図な容認は集団的安全保障体制の自己否定となる。集団的自衛権が暫定的・例外的な権利であると論ずる所以はここにある。

よって国連憲章51条の文言に基づいて、集団的自衛権を国家固有の権利であるなどと積極的に賞揚することは国連の墓堀人のすることであって許すべからざることである。

                                    (続く)

砂川事件最高裁判決によって集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す (2)

砂川判決の傍論部分

しかるに安保法制懇の「有識者」なる者たちや高村氏は、判例としての意義、価値を全く認められない砂川判決の傍論に飛びついた。まずそのこと自体、彼らのいかがわしさを示して余りあると言ってよい。
だが問題はそれだけにとどまらない。彼らは、その傍論さえも自己の歪んだ鏡に映しこんで誤読をし、マスコミに流し、世論を誤導しようとしていことである。長くなるが砂川判決の判決理由第1項に判示された傍論部分を引用してみよう。

「先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである

人のことばかり言えないが法律家の書く文章はやたら長くてくどい。これも長くてくどくどしい文章が続くが、結論は太字部分である。即ち、上記傍論部分は、9条2項の解釈論であり、結論は、外国の駐留軍は戦力に該当しない、というにある。それをいわんがために長々と冗舌の限りを尽くしているのである。しかもその冗舌たるや、最後には「同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものであるか否かは別として」とわざわざ断わっている。冗舌の結末は、憲法9条が「国家固有の権利として自衛権」の行使のための戦力保持を認めたかどうかの判断を留保したのだ。

最後は脱兎の如く、とはいかなかったようである。

憲法9条の解釈として、大きく分類すると三説がある。第一説は、そもそも9条1項自体があらゆる戦争・武力行使等を放棄しており、自衛のための戦争・武力行使も認められないと説く。第二説は、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」との文言を重視し、1項で放棄したのは侵略のための戦争・武力行使等であって自衛のための戦争・武力行使等は留保している、しかし2項は戦力・交戦権を無条件に否定しているとして、結局、9条全体では一切の戦争・武力行使等が禁止されると説く。第三説は、9条1項を第二説と同じに解し、かつ2項の「前項の目的を達するため」は1項の「国際紛争を解決する手段としては」を受けるのであるから、9条の解釈としては自衛のための戦争・武力の行使等を放棄していないと説く。

芦部信喜は、第一説を有力説、第二説を通説とし、第三説については「説もある」と紹介している(「憲法新版補訂版」岩波書店)。

このような学説の状況を予備知識として仕入れて、もう一度砂川判決の上記傍論部分を読み直してみよう。「国家固有の権利としての自衛権」を認めるのは従来から通説である。しかし、その通説も、自衛のための戦争・武力行使等を否定しているのである。そうすると上記傍論部分は結局これと折り合いをつけたのだということがわかるだろう。

よって砂川判決は、傍論いおいてさえも「国家固有の権利としての自衛権」の行使のための戦力保持を認めた、あるいは「国家固有の権利としての自衛権」の行使としての戦争・武力行使等を認めたわけではないのだ。                                                          (続く)
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR