国際法事始め その4

 1944年10月といえば、ヨーロッパでは未だドイツと連合国との戦闘が続いていたし、アジア・西太平洋では日本と連合国との戦闘が続いていが、いずれも既に山を越え、連合国の勝利の見通しがはっきりと見えてきたときである。その時、連合国が主体となって永久平和を志向する国際連合を組織し、加盟諸国家に対し武力不行使の原則を承認させることにより、国際紛争を国連の安保理の下で一元的に、かつ国連軍の強力を背景に解決するという集団安全保障措置の制度・仕組みの原案、ダンバートン・オークス提案が公表されたのである。これは、どれだけ多くの人びとに、希望と勇気を与えたことであろうか。

 しかるにそれから4ヵ月後、早くも逆流現象が生じることとなってしまった。1945年2月4日から11日までソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。世にいうヤルタ会談である。

 ヤルタ会談ではヨーロッパにおける戦後処理の問題が話し合われ、何とか合意に至ったものの、大きなしこりを残すこととなった。対日戦についてもヤルタ密約と言われる、不明朗な密約が取り交わされた。これはソ連は、ドイツ降伏後2ヶ月から3ヶ月のうちに対日戦争に参加することし、その見返りに英米は、①南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させる、②千島列島をソ連に引き渡させること密かに確認しあったものであり、大西洋憲章、カイロ宣言、モスクワ宣言で重ねて確認された、領土不拡大の原則なる今次大戦における連合国の国際公約に違背すること明らかであった。

 それにもまして重大なことは、ヤルタ会談で、国連の運営に大きな桎梏となる合意がなされたことである。米国は長らくモンロー主義の伝統があったから国連によって行動の自由が制約されることには強い懸念を抱いていた。そこで米国がまず、安保理の決定には5大国(米英ソ仏中が想定されていた。)の一致の原則を求めた。これをソ連は支持してした。ソ連は、多数を占める資本主義国が安保理を牛耳り、ソ連の国益に反する決定を押し付けてくることを危惧していたのである。米ソの同床異夢の思惑が、5大国一致の原則を採択させたのである。なお、この安保理の決定に5大国一致を要するとの規定は、国連憲章第5章第27条3項として成文化されている。

 ダンバートン・オークス提案によると、強制措置をとる場合、安保理の下に組織される国連軍によって実行する方法と、ある一定地域内の諸国が、国連の目的に適合する集団安全保障のための地域機構を作っている場合には、これを利用し、もしくはその地域機構の強制措置発動を許可するという道も用意されていた。現在の国連憲章でいうと第8章第52条、第53条である。

 ヤルタ会談から1ヵ月後の1945年3月、メキシコシティ郊外のチャプルテペック城で開催された中南米諸国のチャプルテペック会議において、この集団的安全保障のための地域機構を組織するためのチャプルテペック協定が成立を見た。
 同年4月、国連憲章作成のために開催されたサンフランシスコ会議では、チャプルテペック協定に拠った中南米諸国から、このままでは5大国の対立が生じたときには、自分たちのチャプルテペック協定が無効となってしまうおそれがあると猛然と異議申し立てがなされ、このままでは脱退するとの動きになって行った(「ラテン・アメリカの危機」といわれた。)。そこに、1945年3月、アラブ連盟を結成し、地域的結束を深めていたアラブ諸国が中南米諸国の異議申し立てを支持た。さらに米ソの微妙な駆け引きがその上に展開される。

 ダンバートン・オークス提案から国連憲章調印に至る歴史的顛末をざっと見た。次回には、もう少しこれを補足した上で、先送りになっている課題、国連憲章51条をどう読むかを、私なりに解決したい。

                                  (続く)
スポンサーサイト
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR