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続・日本と朝鮮の関係

 日本と朝鮮とは、徳川政権期には、「朝鮮通信使」来訪と、対馬藩宗氏による特許交易という形で、互いに鎖国政策をとりながらも細々と交流を平穏に続けていた。

 「朝鮮通信使」は、儒学者、絵師、楽団も加わる500名もの大人数の使節団で、幕府側も第一級の知識人からなる接待役をたててもてなしをした。あの新井白石も通信使接待役として手腕を発揮したとか。江戸への行列は、衝撃のショーで、唐人行列、唐人踊り、馬上才(曲馬)などに道中の日本人は目をみはった。ひと頃はやった還流ブームどころの騒ぎではなかったようだ(寺島実郎氏による。)。
 対馬藩宗氏は、朝鮮王家に臣下の礼をとり、特許状を得て、朝鮮との交易を独占した。宗氏は、釜山近くの草粱に倭館を設け、藩士を常駐させていた。丁度、長崎の出島、あるいは唐人屋敷のようなものである。
 少なくとも日本側には、朝鮮に対する蔑視や敵視はなかったと言ってよい。

 日本政府高官、あるいは日本国民の中に、朝鮮に対する蔑視や敵視が芽生えたのは明治元年12月(1869年1月)の国書不受理事件後のことである。維新政府は、維新変革を通告し、天皇の名で国交を求める国書を送ったのであるが、そこに「皇」と「勅」の文字が使用されていたために、そのような文言の文書は、清国皇帝に臣従する朝鮮としては受け入れがたいというのが受理拒絶の公式の理由であった。しかし、攘夷政策をとる朝鮮にとっては、西洋化を進める隣国日本を警戒したという面もあったのであろうし、徳川政権を打ち倒した維新政権に対する警戒もあったのであろう。朝鮮の立場も理解できるところであり、普通に考えれば、穏やかに、粘り強く交渉すればよいことではなかろうか。

 ところが強烈な攘夷主義から、欧米列強の実力を目の当たりにして、にわかじたてに開国論者に転向した西国雄藩の下層武士と1000年の安穏を貪ってきた中下級公家からなる維新政権高官は、屈折した思いを朝鮮にぶつけることになってしまった。攘夷主義の当て返しである。

 明治2年12月(1970年1月)、政府は、対朝鮮政策を検討するために、久留米藩の強烈な攘夷主義者佐田白茅(さだはくぼう)らに、13項目からなる調査項目を与え、訪朝し、調査することを指示した。その13項目の調査項目の一部を以下に摘記する。

 ①皇使派遣の際に軍艦が入れる港の有無、②朝鮮の軍備、③朝鮮内治の状況、④朝鮮がロシアに誼を通じているとの情報の真偽、⑤草粱から内地への旅行の可否、⑥竹島・松島が朝鮮付属となった理由、等々。ここに松島とあるのは、現在、問題になっている竹島のことである。なんと維新政権は、竹島は朝鮮の領土であるとの認識だったことになる。

 まさにこれは朝鮮に武力で攻め込むための調査であると言ってよいだろう。

 一行は、明治3年2月(1970年3月)、草粱着。約2週間の現地調査をして、佐田から政府に送られた手紙には、次のように書かれていた。

 朝鮮が国書を受理しないのは皇国に恥辱を与えるもの。その罪を問い、大使を送って一挙に攻めれば50日を出ずに国王を捕虜にできる。清国が兵を出して朝鮮を援助すればこれも討つべし。そうすればルソン、台湾も唾して取ることができる。朝鮮征服の費用は樺太開拓をやめてその費用をあてる。ひとたび朝鮮を取れば、朝鮮は金穴であり、米麦も豊かであるから、日本の富強のもととなる。現在、皇国は兵が過剰となっている。諸藩の兵は、強く乱を願っているから、これを外征にむけて内乱を外に転ずれば一挙両得である。

 征韓論は、このような品性下劣な輩がうごめき、政府の現実の対外政策になる。露骨なアジア侵略の妄想となっていく。政府は、帝国臣民の選良意識をくすぐり、アジアの同胞への蔑視感を生み、増殖させながら、台湾、琉球、朝鮮、中国へ食指を伸ばして行ったのであった。

 私たちの心に巣くうアジア同胞への敵視、蔑視は、いままた蠢いている。

                              (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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