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戦後憲法9条論争・第三代最高裁長官・横田喜三郎氏

 当ブログで、9月8日から17日までの間、「戦後憲法9条論争・米国に尻尾をふった最高裁長官」を5回にわけて連載した。

 そこでは第2代最高裁長官田中耕太郎氏が、憲法9条に関し、1946年当時には、あらゆる戦争、武力による威嚇もしくは武力の行使を放棄する絶対的平和主義だと説いたにもかかわらず、砂川事件の審理過程において、司法の独立と裁判官の良心を、米国に、売り渡してしまった顛末を明らかにした。また彼が、最高裁長官を定年退官した後に、国際司法裁判所判事に就任することになったのは、米国の推挙の賜物であり、私は、これを論功行賞人事であったと評したところである。

 ところで田中耕太郎氏はクリスチャンとして知られており、その世界観に基づいて、若いころから世界平和を熱心に説いていたようである。

 田中耕太郎氏は、1932年から1933年にかけて、岩波書店から「世界法の理論」全三巻を出版している。その中で、軍事優先の風潮に対する厳しい批判を展開しつつ、国際協調と世界統一法の進展により、世界平和を展望している。次の一節をご覧頂きたい。

 「今や世界大戦終結より茲に十年、各国民は其の物質的及び精神的の破壊作用を自覚し、反動的なる民族主義、狭隘なる愛国主義より徐々に人類相互依存の事実及び全人類の形成するGemeinshaft(注:共同体)の理想に目醒め、此の基礎の上に存するユートピアにあらざる国際主義的世界主義的精神に赴かんとしつつある。国際連盟の徐々ではるが、しかし確実なる此の精神の具体的実現の為の努力、殊に最近において困難を排して実現せられんと企図せられつつある国際法の法典化事業の如きは、此の事実の最も適当な例証である。」

 田中耕太郎氏は、この著作により、軍部・右翼から激しい攻撃を受けたのであった。

 田中耕太郎氏ほどに、歳をとり、功なり、名を上げるとかくも変わってしまうのは、学者としては、比較的珍しいのではないかと思っていたら、田中耕太郎氏の後をついで、第三代最高裁長官に就任した横田喜三郎氏も同類であった。なんと司法のトップである最高裁長官が、二代続けて、みごとに変節を遂げた人たちだったのだ。

横田喜三郎氏の略歴

 1986年8月6日生まれ
 1922年3月 東京大学法学部法律学科卒業
 1930年3月 東京大学法学部教授(国際法)
 1948年12月 東京大学法学部長に就任
 1960年10月 第3代最高裁判所長官に就任。

 横田喜三郎氏は、国際法の権威であり、戦前、社会主義に関心を寄せ、軍部に睨まれたこともあった。戦後もリベラルな立場を堅持した。専門分野以外でも、たとえば1949年に出版された著作『天皇制』などにおいて、「天皇制は封建的な遺制で、民主化が始まった日本とは相容れない。いずれ廃止すべきである」と天皇制廃止論を提唱している。
 横田喜三郎氏は、日本国憲法に関しても、小説「路傍の石」の作者・山本有三とともに、GHQ草案にもとづく政府草案を、口語体に書き改め、今の格調高い文章のもとを作成したほか、憲法公布後の1946年12月、帝国議会内に組織された「憲法普及会」評議員に就任し、憲法普及活動に従事した。その憲法普及会による東京地区の第1回公務員憲法研修会では、「戦争放棄論」を講義し、憲法9条は自衛のための戦争、武力による威嚇及び武力行使を放棄したことを熱心に説いたのであった。
 横田喜三郎氏は、1950年に出版した著書「日本の講和問題」(勁草書房)において、「形式的に見れば、外国の軍隊や基地をおくことは、憲法に違反しないといえるかもしれない。しかし、実質的に見れば、つまり精神からいえば、すくなくとも適当ではないといわなくてはならない。軍隊も戦力も、いっさい廃止した精神は、あきらかに、戦争の手段となるものをまったく存在させないということにある。たとえ外国の軍隊や戦力であっても、戦争の手段となるようなものを存在させることは右の精神に反するといわなくてはならない。」と主張した。

 ところが、その後、横田喜三郎氏は、微妙に説を変じ始め、砂川事件最高裁判決が出ると、著書や論文で、これを積極的に支持する見解を書きまくった。その甲斐あってか、1960年10月、横田喜三郎氏は第三代最高裁長官に就任することとなった。

 田中耕太郎氏の退官に際し、横田喜三郎氏が「貴殿の勇気と信念は今日の世界が直面する基本的問題に立ち向かう自由な国民の精神の源泉になってきた」と持ち上げると、田中耕太郎氏も「後任の横田喜三郎に「(米国が)私が最高裁にいたときと同様の援助を与えてくれるように」とエールを返した。全くこれはなんだろう。歯の浮くようなやりとり、吐き気を覚えるのは私だけだろうか。

                                                (了)
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大杉栄虐殺後の甘粕正彦大尉

 以下は戦前史のこぼれ話である。

 関東大震災後の混乱の中、信じ難いような血なまぐさい事件が発生した。一つは、デマ情報に踊らされた自警団と一部軍人の手で多数の朝鮮人・中国人が相次いで殺された事件、二つには、陸軍憲兵隊らの手で、労働組合活動家や社会主義者が虐殺された事件。アナーキスト大杉栄が妻・伊藤野枝および甥・橘宗一(6歳)とともに麹町憲兵隊司令部で虐殺された事件はそのうちの一つである。時に1923年9月16日。首謀者でかつ実行行為の重要部分を自ら行ったのは分隊長甘粕正彦大尉であった。

 大杉は、名古屋陸軍幼年学校在学中に男色をとがめられ退学処分、軍人への道を断たれた経歴を有している。犯人の甘粕も、実は、6年ほど後輩だが、同じ陸軍幼年学校を卒業している。奇妙な因縁話である。

 甘粕は、軍法会議にかけられ、懲役10年の刑を宣告された。これはとても3人もの人を殺害した者に対する刑とは考えられないほどに寛大な判決である。しかも実際にはその刑期も、2年間服役しただけで仮釈放され出獄という超特典付であった。さらに出獄後、甘粕は、1927年7月、皆があこがれるフランスに渡り、1929年2月、帰国までの1年半ほどの間滞在した。もっともフランスでの生活は決して優雅でも華やかでもなく、人との交際を殆ど断った暗いものだったようだ。

 甘粕は、帰国後ほどなく、1929年7月には満州に渡り、1945年8月20日、同地で服毒自殺を遂げるまでの生涯をそこで過ごした。享年54歳。

 満州で甘粕がしたことは、一つは、関東軍の特務機関として働き、満州事変の拡大に一役も二役を買ったこと、もう一つは満州映画協会(満映)の理事長として手腕を発揮、「五族協和」なる満州国建国の「理想」を、映画づくりを通じて、満州国の人達に浸透させようとしたこと、であった。

 甘粕が理事長を勤めた満映は、実に不思議な空間であった。内地で表現の場を失い、偽装を含む転向左翼演劇人をその経歴を知りつつ受け入れたばかりか、内地では考えられないほどに自由に映画を作らせているのである。それはちょうど南満州鉄道(満鉄)調査部が、偽装も含む転向左翼知識人を相当数雇い入れ、彼らがその能力を発揮する場を与えられていたのと同様であったと言える。

 山口淑子・藤原作弥「李香蘭―私の生涯」(新潮社・1987年)によると、「有為な人材登用も甘粕さんの功績だった。名監督といわれた進歩派の鈴木重吉氏、内田吐夢氏、科学映画畑の加藤泰氏。シナリオ作家の八木保太郎氏、松浦健郎氏。戦後、数々の受賞に輝く世界的カメラマンの杉山公平氏。変り種では六大学野球の慶応ピッチャーの浜崎真二氏(のちに阪急ブレーブス監督)がいるが、浜崎さんは満映社員のスポーツ振興のために招かれたのだった。大陸という土地は、甘粕さんのような右翼軍国主義体制からはみだした“満州浪人”を受け入れる新天地だったが、満鉄調査部とならび満映も、イデオロギーをこえた度量の広さで左翼陣営の芸術家を厚遇した。前記のほかに脚本家の原健一郎氏、巡回映画を担当した大塚有章氏。大塚氏は、共産党大森ギャング事件(銀行襲撃事件)に加わり10年の刑期を終えてから甘粕さんに庇護された。そして進歩的映画評論家の岩崎昶氏。」といった具合である。
 大塚有章氏は、あの河上肇博士の義弟。戦後、共産党に復帰したが、中国の文革時に離党した毛沢東主義者として知られている。

 甘粕の中にある絶対主義的天皇制を信奉する右翼思想と、弾圧された左翼を庇護し、彼らに自由を認めたこととがどう折り合いをつけられていたのであろうか。また彼の中で、大杉らの虐殺はどう位置づけられていたのであろうか。是非とも聞いてみたいところである。

                                     (了)

朝日新聞/本当に誤報なのか

 朝日新聞は、誤報問題に関して、社長自ら謝罪会見をし、編集・報道幹部の解任、更迭人事を行った。しかし、産経新聞や読売新聞、さらには週刊誌による朝日新聞バッシングは一向におさまる気配がない。自民党や維新の一部議員などもこれに唱和している。
 現場では、新聞販売店の人たちまでも、読者からの「お叱り」を受けて平身低頭の体で、気の毒なほど身を小さくしている。
 朝日新聞社内で、社長引責辞任にともない関係記者らに対する処分の追い討ちがかけられたりしないか心配でもある。もしそんなことにでもなれば、取材と報道現場に自重、自粛、自己規制が浸透し、一層、朝日新聞への信頼を失うことになるだろう。決してそのようなことが起こらないことを祈るばかりだ。

 ところで吉田調書問題。26日には、弁護士グループが、朝日新聞本社と同社の第三者機関「報道と人権委員会」に不当な処分がなされてはならないことを申し入れた。「命令違反で撤退したかどうかは解釈、評価の問題」で、記事の内容は調書の記載と「外形的事実において大枠で一致している」と。

 私も、11年3月15日の状況を復習してみた。

 同月12日15時36分、1号機建屋で水素爆発発生、14日11時01分、3号機建屋で水素爆発発生、15日6時00分、2号機で爆発音、4号機建屋で水素爆発発生。その後6時50分には、正門付近で線量583μSV/hを測定。
 同日7時00分、作業・監視要員を除き、福島第2原発へ一時退避することを官庁等へ連絡。
(以上木村英昭『官邸の100時間』岩波書店2012年8月7日発行より)

 こういう流れをふまえて、吉田調書を読むと、上記の、15日7時00分福島第2原発への一時退避なる官庁等への通知は偽りの通知であったことになる。吉田調書にあるように、所長の指示は、福島第1原発近辺で退避ということだったのだ。朝日新聞の記事が、命令に反して第2原発に退避したと評価したのは、おそらくこの官庁などへの通知が偽りであったことを鮮明にしたかったのであろう。これを誤報だというのは、一方的な決めつけのように思われる。

 そもそも吉田所長が、政府事故調の調査段階で、伝言ゲームでうまく伝わらなかった」とか、「よく考えれば2Fに行った方がずっとよかった」と供述したのは、対外的には福島第2原発への退避なる通知がなされていたことや部下への配慮などのバイアスがかかった「現実追随」もしくは「言葉の綾」とも考えられる。

 朝日新聞の記事は、突っ込み不足の感はあるが、これをもって朝日新聞バッシングの材料とするのは、あまりにも目くそを笑う類のことのように思われる。吉田所長も、自分の調書がこんなことに使われているのを決して喜ばないだろう。彼の調書は、東日本が吹っ飛ぶとまで考えられた凄まじい事故状況、何の手がかりもない状態での死を覚悟した現場の苦闘、コントロールすることが不可能な過酷事故の実情、政府、東電幹部の無為無策ぶりを読み取り、原発再稼働、原発をベースロード電源と位置づけている現政府を批判する資料として読み込んで欲しいと言っているように私には思える。

 ややこしいがもう一人の吉田氏、吉田清治氏の虚偽証言問題は、私は、慰安婦問題の争点からはずれたもので、何をいまさらという感想を持っている。昨年の橋下大阪市長の低次元な発言で、まるで拉致のごとき「強制連行」の有無が無理やり争点化され、それを否定することにより、それとは次元の異なる河野談話を否定し去ろうと一部の政治勢力が蠢きだした。朝日新聞の8月5日、6日検証記事は、それに恰好の材料を与えてしまったようである。朝日新聞は、もっと掘り下げ、読者にわかりやすく説明し、また過去に吉田証言を持ち上げたことを率直に謝罪するべきであった。おそらくは、読者はあの検証記事で理解してくれるだろうという安易な思い込みがあったのだろう。しかし、日本人の心的風景は、80年代、90年代と確実に変わってしまっている。慰安婦問題は、現代日本人を覆っている意識下のナショナリズム、排外的感情に触れる問題となってしまっていることに気付くべきであった。
 
 私の古くからの友人も最近、慰安婦問題による、韓国、中国、アメリカの対日包囲網などという民族右派ばりの主張を始めているようだ。根が深い。

 今、私が一番心配しているのは、朝日新聞が、読売新聞のようになってしまうことだ。そうなれば憲法改正、自衛隊の国防軍化は一瀉千里だろう。所詮、新聞社は営利企業、企業存立のためにはどうにでもなる。そうならないように朝日新聞読者として、押しかけサポーターを買って出ている次第である。

                                   (了)

戦後憲法9条解釈論争・米国に尻尾をふった最高裁長官(その5)

 1959年11月初旬、田中長官が、「非公式の会談」(「内密の接触」というべきであろう。)で、マッカーサー大使に語ったことは、「評議の秘密」の漏えいであるばかりか、その中身においてもとんでもないことが含まれている。

 「評議の秘密」とは一般に「合議の秘密」と言われるが、裁判所法75条で、これを漏らしてはならないことが定められている。合議を主宰するのは裁判長である。このケースでは田中長官が裁判長を務めている。その裁判長自らが合議の秘密を洩らした、それも外国に、という前代未聞の事件が起きていた。田中長官は、発覚すれば懲戒処分(裁判所法49条)の対象になるし、訴追されれば弾劾裁判に対象にもなる筈であった。

 そもそも「合議の秘密」は、裁判官の職業倫理となっており、通常の裁判官はこれの保持に細心の神経を用いるもので、これを漏らすなどということはあり得ないことである。田中長官は、学者であり、また政治家であったが、既に最高裁での裁判官のキャリアを10年近く積んでいるのであるから、「合議の秘密」は絶対であることは当然理解し、身に染み着いていたことだろう。それでも漏らしたのは、確信犯というほかはない。
 
 田中長官が話したり仄めかしたりしたことの中身は驚くべきものである。手続き上の観点から判断をしようとする立場、法律上の観点から判断しようとする立場、憲法上の観点から判断しようとする立場に分かれているという合議の状況を明らかにし、憲法上の観点から判断で、できるだけまとめていく方針であることを仄めかしているのである。法服をまとった米国のエージェントとでも言うべきか。

 「裁判所はその超党派的な性格上、政府のような与党はもっていない。単に精神的要素だけに依存しているのである。一党一派の後援でなく、国民全体の支持を求めなければならぬ。一方、われわれ裁判官としては、裁判所の威信が法の支配の基礎条件であること、(中略)ためらうことなく裁判所の威信を擁護しなければならぬ。」

 これは、上記のマッカーサー大使との「内密の接触」のほぼ1ヶ月前のこと、全国の高裁長官、地・家裁所長を一同に集めた会議(裁判官会同)で、田中長官が垂れた訓示である。裁判所の威信を落とす行為を平然と行っていた本人の言葉とはとても考えられない。厚顔無恥も極まれり、ではないか。

 さてかくして、1959年12月16日、判決言い渡しの日を迎えた。これが、「安保法制懇」や高村自民党副総裁が持ち上げた砂川事件最高裁大法廷判決である。要約すると以下の理由で、伊達判決を取り消し、東京地裁に差し戻したのであった。

1 憲法9条は、戦争放棄、戦力不保持を謳っているが、主権国としての固有の自衛権を否定したものとは解されない。
2 この趣旨から、同条2項を考えると、いわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、その戦力とはわが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、わが国に駐留する外国軍隊は、これに該当しない。
3 日米安全保障条約は、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものであり、その内容が違憲かどうかの判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断に委ねるべきで、裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものである。
従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものである。
4 日米安保条約に基づくアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。

 これは田中長官が、マッカーサー大使に示唆したように15人裁判官全員一致の判決である。そのかわり、非常にわかりづらい判決となっている。それは田中長官が苦労して行った工作の痕跡といってよいだろう。いわゆる統治行為論を唱えているようであるが、それであれば憲法判断回避となる。これが本筋だったように思われる。しかし、憲法判断はどうしても入れたい田中長官は猛然と奮闘したのであろう。典型的な統治行為論ではなく、特殊な行政・立法裁量論のようにして、「一見極めて明白に違憲無効」といえるかどうかの検討をする道をとって憲法判断に分け入っている。こうまでして憲法判断への執念を示す田中長官、もはや常人の域を超越しているというべきか。「安保法制懇」や高村自民党副総裁は、その常人の域を超えたレトリックに飛びついたのである。

 安保条約改訂への援護射撃をした田中長官。米国からその功績を高く評価されたことはいうまでもない。最高裁長官を定年退官した田中前長官は、1960年8月19日、ワシントンの国務省を訪問し、ディロン国務長官代理に挨拶のあとパースンズ国務次官補に会って国際司法裁判所判事への立候補を表明した。パースンズは、「あらゆる考慮を払う」と応じた。田中前長官が国際司法裁判所判事に当選したのは同年11月16日。米国の影響力によるものであったことは言うまでもない。
 これがこの連載のはじめに保留しておいた論功行賞である。なんと田中氏は、商魂たくましき商売人でもあったようだ。あな、あさましや。
                                     (了)

戦後憲法9条解釈論争・米国に尻尾をふった最高裁長官(その4)

 1959年6月11日、砂川事件は、最高裁第一小法廷から大法廷へ回付され、田中長官を裁判長とする15人の裁判官の合議体で審理されることになった。
 大法廷回付後も、田中長官、斎藤裁判官による居丈高な迅速審理の押し付けが執拗になされた。斎藤裁判官に至っては「上告趣意の論点はすでに新聞雑誌等で論じつくされており、当裁判所にも明らかであるから、弁護人らの答弁書はできるだけ簡単なものに止めてほしい。検察官にも、上告趣旨書は箇条書き程度のものでよいから早急に提出するように言っておいた。」などと事前交渉に赴いた弁護団にうそぶき、既に結論は決まっているのだと言わんばかりの態度であった。
 しかし、全国から馳せ参じた約300名の弁護士から成る弁護団は、毅然と対応し、田中裁判長、斎藤裁判官に対し、忌避申立てをするなど法的に認められる権利行使を敢然と行使し、弁護人数の制限を取り消し、答弁書提出期限を8月5日へと変更、弁論期日を9月中に6開廷確保など、彼らの当初の目論見を押し返したのである。

 第1回弁論期日は9月7日(月)の午後であった。弁護側トップバッターに、海野晋吉主任弁護人(弁護団長)が立ち、「われわれは何を主張せんとするのか」と題して、総括的な弁論を行った。その後18日(金)の午前に、大阪弁護士会所属の弁護士毛利与一弁護人が「公平な裁判所」と題する弁論で締めくくるまで、26名の弁護人が弁論を行った。これらの弁護人の名前を見ると、いずれも法曹として名を成した一流の人物ばかりである。
 因みに弁護人真野毅は、9月16日(水)の午後に、「政治的、行政的裁判を排す」と題する弁論を行っている。

 9月18日、弁論終結後、記者会見に応じた田中長官は、判決時期の見通しについて「これからの合議のスケジュールについては、ひといき入れてから予定を立てたいと考えているが、判決言い渡しがいつごろになるかは合議の進行状況にもよることであり、いまのところ予測できない。(中略)なお合議は速やかに集中的にやりたいと思う。」と語ったとのことである(9月19日付「朝日新聞」朝刊)。判決予定日など口が裂けても言えないことなのである。だが彼はそれを在日米国大使館主席公使レンハートにべらべらしゃべっていたことは既に述べたとおりである。

 その記者会見から約1ヵ月半経過した11月初旬、おそらく合議も最終盤を迎えていたころに、田中長官は、またもやマッカーサー大使と密談をした。11月5日、米国大使館から国務長官に送付された「極秘」公用書簡には以下のように記されている。

 「田中最高裁長官との最近の非公式の会談のなかで、砂川事件について短時間話し合った。長官は、時期はまだ決まっていないが来年のはじめまでには判決を出せるようにしたいと言った。彼は、15人の裁判官についてもっとも重要な問題は、この事件に取り組む際の共通の土俵をつくることだと見ていた。できれば15人の裁判官全員が一致して適切で現実的な基盤に立って事件に取り組むことが重要だと、田中長官は述べた。裁判官の幾人かは『手続き上』の観点から事件に接近しているが、他の裁判官は『法律上』の観点から見ており、また他の裁判官は『憲法上の観点から問題を考えている、ということを長官は示唆した。
 (裁判官のうち何人かは、伊達判事を裁判長とする第一審の東京地裁には、合衆国軍隊駐留の合憲性について裁定する権限はなく、自己の権限と、もともと基地への不法侵入という事件について、地裁に提起された特有の争点を逸脱しているという、狭い手続き上の理由に結論を求めようとしていることが私にはわかった。
他の裁判官は、最高裁はさらに進んで、米軍駐留により提起されている法律問題それ自体に取り組むべきだと思っているようである。
 また、他の裁判官は、日本国憲法のもとで、条約は憲法より優位にあるかどうかという大きな憲法上の問題に取り組むことを望んでいるかもしれない。)
 田中最高裁長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。反対に彼は、それは覆されるだろうが、重要なのは15人のうちできるだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えている印象だった。こうした憲法もんだいに下級審の伊達判事が判決を下すのはまったく間違っているのだと、彼は述べた。」

 まったく、よくもここまでペラペラしゃべるものだ。
                                (続く)

戦後憲法9条解釈論争・米国に尻尾をふった最高裁長官(その3)

田中耕太郎の略歴
 1915年東京大学法学部「首席」で卒業、内務省入省。すぐに大学に戻り、研究生活に入る。専攻は商法学。幣原内閣において東大教授(商法学)から国務大臣に就任し、憲法問題調査委員会の委員長をつとめた松本蒸治の愛弟子であり、娘婿でもある。1923年、教授となる。
 戦後、第一次吉田内閣において文部大臣に就任。第90帝国議会・帝国憲法改正特別委員会において、政府案を支持の立場から、憲法9条について、戦争放棄、戦力放棄及び絶対的平和主義の意義を熱心に説いた。
 その後参議院議員(緑風会所属)在任中の1950年2月、第三次吉田内閣により最高裁判事に任命され、さらに同年3月、同内閣の指名により最高裁長官に任命された。
 戦前天皇制の下で軍国主義に手を貸した司法官僚が手付かずで温存された司法部ではあったが、新憲法のもと片山哲内閣で最高裁判事に任命され、初代長官となった三淵忠彦最高裁長官の手により国民に身近な裁判所への内部改革も一定程度は進められた。その三淵路線を引き継ぐべく期待された第二代長官にはリベラルな真野毅判事が有力であったが、これを押しのけての任命であった。吉田首相の強い意向を反映した人事であり、これも戦後の逆コースを象徴するできごとであった。
 なお、最高裁判事を1958年に定年退官した後、真野は弁護士となり、砂川事件弁護団に加わり、大法廷で、田中長官を前にして、かつて田中長官も絶対的平和主義の条項と説明した憲法9条厳守を鋭く迫った。もし良心のかけらが残っていれば耳の痛いことであったであろうが、そんなものとはとうに縁切りしている田中長官は、馬耳東風とばかりに聞き流したことであろう。

 マッカーサー大使と田中長官とが「内密の話し合い」をした(おそらく1959年4月22日)後、8月3日アメリカ大使館発国務長官宛「秘」航空書簡に、再び田中長官の名前が出てくる。レンハート駐日主席公使と田中長官が、7月末に密談をしたというのである。

 「共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は在日アメリカ大使館主席公使に対し砂川事件の判決は、おそらく12月であろうと今考えていると語った。弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手段を試みているが、裁判長は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。
 こうした考えのうえに立ち、彼は、口頭弁論は9月初旬に始まる週の一週につき二回、いずれも午後と午前に開廷すれば、およそ三週間で終えることができると確信している。問題は、そのあとで生じるかもしれない。というのも、彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。裁判長は、結審後の審理は実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した。」

 要するに田中長官は、争点を法律問題に絞り早期結審をめざすこと、最高裁での審理に要する期間の見通し、判決時期、判決には社会的影響を考えて少数意見を回避する方針であることなど、米国国務省にむけて「特定開示」をしているのである。

 実は、この「特定開示」の2ヶ月余り前の5月8日付け「朝日新聞」朝刊に、次のような記事が載っている。

 「砂川弁護団の海野主任弁護人ら8人は7日、さきに最高裁第一小法廷が決定した駐留軍違憲判決上告審の弁護人数制限の問題について、同法廷斎藤悠輔裁判長と面会したが、その際同裁判長は、①この事件は国内、国外に大きな影響を与えるものなので、他の事件に優先して審理を行う。このため全裁判官は夏休みを返上して、できれば7月中に口頭弁論を終わり、8月中にも判決を出したい、②弁護人数の制限は、あくまでも審理のスピードアップのためで、弁護団もこれに協力して欲しい、と述べ、同事件の上告審のスケジュールについての最高裁の意向をはじめて明らかにした。」

 この記事によると、砂川事件飛躍上告審は、当初、第一小法廷に係属したことがわかる。その第一小法廷の裁判長は、ウルトラ反動裁判官として歴史に名をとどめている斎藤悠輔判事であった。その斎藤判事と田中長官が協議して、大法廷に回付することを決め、砂川上告審判決を、日米安保条約改定に有利に作用させるような大きな枠組みを設定したのであった。
 
 在日米国大使館主席公使レンハートに、赫々たる戦果を語っている「政治家」田中長官の得意満面の顔が目に浮かぶようである。

 田中長官の話は、まだ続く。辟易とするばかりであるが、もう少しご辛抱願いたい。

                                   (続く)

戦後憲法9条解釈論争・米国に尻尾をふった最高裁長官(その2)

 昨日は、読みながら、かつ書きながら、次第に血圧があがっていくのが感じられたので、適当なところでやめてしまった。今日も、おそらくそうなるだろうと思いつつ、続きを書くことにする。自己流判断によってドクターストップするまでの間、しばしお付き合い願いたい。

 伊達判決から、まだ二日しかたっていない。4月1日のマッカーサー大使と藤山外務大臣の密談の記録は、外務省側にも「極秘」文書として保存されていた。砂川事件の元被告らが、2010年7月に秘密指定解除されたことを知って開示を求め、入手している。それには以下のとおり記載されている。

日 時 昭和34年4月1日午後3時半―5時50分
    於帝国ホテル第1255号室
出席者 藤山大臣、山田時間 森米局長、東郷文彦米保長(※米局安全保障課長)
    マッカーサー大使、レンハート公使、ハーツ書記官
大 臣 (冒頭部分省略)目下最高裁に直接提訴するや否や検討中で、検事総長の帰京を待って決定する。
大 使 最高裁に行った場合その時期の見通し、うけたまわりたし。
大 臣 最高裁でも優先的にあつかうと聞いているが、自分にははっきりしたことはいえない。まず3、4ヶ月はかかるべし。(以下略)

 米側の「秘」電文の内容は、これにより裏づけられる。密談の場所となった帝国ホテルの客室は、安保改訂の秘密交渉にも使われていた。秘密交渉では、その都度客室を変え、出席者は一人ずつ人目を避けて入室していたとのこと。新橋、日比谷公園界隈の雑踏を利用し、ひとり、またひとりと客を装い、日本を代表する高級ホテルの客室に入り、会議が終わると、ひとり、またひとりと去ってゆく。まるでスパイ映画の世界のようなことが、外務省高級官僚らと米国大使館のお偉方らによって演じられていたことを、さしものどの新聞社の猛者もかぎつけることはできなかったようである。

 1日おいて4月3日、政府は、飛躍上告することを決定した。マッカーサー大使に、この第一報をもたらしたのは当時の与党自民党幹事長福田赳夫であった。同日、マッカーサー大使は国務長官に対し、次のように、「秘」公電で報告した。

 「自民党の福田幹事長は、内閣と自民党が今朝、政府は日本における米軍基地とべ軍駐留に関する東京地裁判決を直接上告することを決定した、と私に語った。」

 この「秘」公電の7時間後、午後9時発の「秘」公電で、マッカーサー大使は国務長官に対し、さらに詳細な報告をした。次のとおりである。

 「法務省は本日、砂川事件に関する東京地裁伊達判決を、東京高裁を飛び越して直接最高裁に上告することに決めたと発表した。外務省当局者がわれわれに語ったところによると、法務省は近く最高裁に提出予定の上告趣意書を準備中だという。最高裁が本件をどのくらいの早さで再審理するかを予測するのは不可能である。判決の時期をめぐる観測者たちの推測は、数週間から数ヶ月もしくはそれ以上まで広範囲に及んでいる。
 政府幹部は伊達判決がくつがえされることを確信しており、案件の迅速な処理に向けて圧力をかけようとしている。」

 外務省の官僚たちの忠勤ぶりが目に浮かぶようだ。それにしても「圧力をかけようとしている」とは聞き捨てならない言葉であるが、田中耕太郎が長官をつとめる最高裁は別に圧力をかけなくとも、十分に政治的であり、自ら日米両国政府の意を汲んで動き出した。

 ながらくお待たせしたが、ようやく田中長官が登場する。彼の名前が、マッカーサー大使の国務長官報告宛にはじめて現われるのである。4月24日午後4時発の「秘」公電である。そこには次のように書かれている。

 「最高裁は4月22日、最高検察庁による砂川事件の東京地裁判決上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに対し、被告側は答弁書を提出することになる。
 外務省当局者がわれわれに知らせてきたところによると、上訴についての大法廷での審理はおそらく7月半ばに開始されるだろう。とはいえ、現段階では判決の時期を推測するのは無理である。
 内密の話し合いで田中最高裁長官は大使に、本件は優先権が与えられているが、日本の手続では審理が始まったあと判決に到達するまでに、少なくとも数ヶ月かかると語った。」

 なんとマッカーサー大使と田中長官は、「内密の話し合い」していたのである。おそらくこの公電が発信された当日のことであろう。短い文章であるが、「内密の話し合い」では、田中長官は、司法部内の秘密をベラベラしゃべり、さかんに売り込んでいるような印象を受ける(彼は、大きな論功行賞を受けたことは、後に述べる。)。 

 当時、私は、中学1年生になったばかり、4月10日の皇太子成婚パレードを、アルバイト先の豆腐屋さんのテレビに釘付けになって見ていた。その年の9月26日には伊勢湾台風の直撃を受けて、避難生活を始めた。そんなことは話のすじとは何の関係もないことだが、何故か情けなく、感傷的になってしまった。この話は、人を物悲しい思いに沈ませるようである。

 そのころわが国行政と司法のトップ、まぁ国家の首脳と言っていいだろう、彼らは、セッセと米国に媚を売っていたのである。ネトウヨ的に言えば、売国奴どもだ。失礼。

                                  (続く)

戦後憲法9条解釈論争・米国に尻尾をふった最高裁長官(その1)

 れっきとした独立国であるわが国の裁判史上に、米国から、極めて重大かつ悪質な裁判干渉が行われ、時の政府はおろか、最高裁長官までもがこれに追随したというありうべからざる汚点が印されている。その事実経過と顛末は、一部の好事家の関心事にとどめてはならず、現代を生きる私たち一般国民が、「日米同盟」を考える上で、是非とも必要な基礎的資料として共有しなければならない。
 しかし、この歴史的事実は、限られたごく一部の人にはよく知られていることではあっても、未だ国民に広く、また詳しく知られてはいない。まず知ることが肝要である。
 そこで、吉田敏浩外『検証 法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』(創元社)に基づき、私見を交えながら、この経過と顛末を、整理してみようと思う。

 1959年3月30日に下された伊達判決は、わが国政府が安保条約を締結し、わが国に米国軍隊を駐留させていることは憲法9条2項に違反すると断じた。折あたかも旧安保条約改定にむけての交渉を進めていた日米両国政府首脳は、この判決に驚愕し、かつ困惑した。
 旧安保条約は米国の望むとおりにわが国土を米軍基地に提供し、かつ極東有事の際、米軍がこれらの基地を自由使用することを認めるというだけの条約で、あからさまな一方的・不平等・従属条約であった。このため1952年4月、旧安保条約が発効した後、全国各地で反基地闘争が闘われ、国民の反米感情は著しく悪化して行った。
 そこで1957年6月、首相に就任した岸信介は、国民の反米感情をおさえ、独立国の対面を保つために、米軍にわが国を防衛する責任を負わせるかのごとき条項を入れ、かつ条約正文とは別に、米軍の日本への配備における重要な変更、核兵器の持ち込みなどを事前協議の対象とする事前協議の交換公文を取り交わすという方向での詰めを急いでいた。しかし、実際には米軍のわが国防衛の責任も、合衆国憲法による議会の承認を条件とするもので実効性に疑問符のつくものであったことはまだ許されるとしても、日米政府は、上記交換公文に、艦船や航空機が核を搭載したままわが国に入ることや朝鮮半島有事の際の米軍出撃については事前協議を不要とする尻抜け密約をして国民をたばかろうとのはかりごとが進められていた。

 このようなときに下された伊達判決は、日米両国政府にとってはまさに青天の霹靂、これを速やかに葬り去らなければ、安保改訂交渉の行く手に大きな障害をもたらすことになる。日米両国政府は、きっとそのように考えたのであろう、すばやく動き始める。

 判決翌日の3月31日午前8時、マッカーサー駐日大使(あのマッカーサーの甥である)と藤山外務大臣が、某所で密談。マッカーサー大使が本国国務省に送った同日午後2時発の「極秘」電文で、彼は次のように報告している。

「私は、日本政府が迅速な行動をとり、東京地裁判決を正すことの重要性を強調した。
(さらに安保改訂交渉への影響や目前に迫っていた統一地方選挙への影響に触れた後)
 私は、もし自分の理解が正しいなら、日本政府が直接最高裁に上告することが非常に重要だと個人的には感じている。(中略)藤山は全面的に同意すると述べた。完全に確実とは言えないが、藤山は、日本政府当局が最高裁に跳躍上告することはできるはずだ、との考えであった。藤山は、今朝9時に開かれる閣議でこの上告を承認するように促したいと語った。」

 藤山外務大臣は、同日午前9時からの閣議に出席、飛躍上告の必要性を提起したが、即決はできなかった。同日午後10時29分米国大使館発本国国務省宛の「秘」電文にそのことが書かれている。

「今夕、外務省当局者は、日本政府が東京地裁判決を最高裁に跳躍上告するか、それともまず東京高裁に控訴するかをめぐって、いまだ結論に到達していないと知らせてきた。(以下略)」

 わが国外務省は、米国の手となり足となり動いている。

 翌4月1日、マッカーサー大使は、再び藤山外務大臣と密談をこらした。なんと密なことだろう。マッカーサー大使は本国国務省に、同日午後8時発の「秘」電文で、次のように報告している。

「藤山が、本日内密に会いたいと言ってきた。藤山は、これまで数多くの判決によって支持されてきた(政府の)憲法解釈が、砂川事件の上訴審でも維持されるであろうことに、日本政府は完全な確信をもっていることを、アメリカ政府に知ってもらいたいと述べた。
 法務省は目下、高裁を飛びこして最高裁に跳躍上告すること方法を検討中である。最高裁は300件をこえる係争中の案件がかかっているが、最高裁は本事件に優先権をあたえるであろうことを政府は信じている。
とはいえ、藤山が述べたところによると、現在の推測では、最高裁が優先的考慮を払ったとしても、最終判決を下すまでにはやはい3ヶ月ないし4ヶ月を要するであろうということである。」

 なにやらうさんくさい話になってきた。米国側の日本政府への単純な要望ではなく、執拗な工作と、それに嬉々として応じている日本政府、さらにはどうも最高裁側の情報までも流されているではないか。

 これでは、わが国外務省は、さしずめ米国国務省日本局といってもよさそうだ。

                                       (続く)

戦後憲法9条論争・伊達判決


 東京都北多摩郡砂川町(1954年までは砂川村、1963年に立川市に編入)は、1955年当時、戸数3000戸弱、人口12000名、桑畑の広がる農村であった。この平和な農村の町に、同年5月、突如として、米軍立川基地拡張計画の話が降ってわいた。基地拡張用地として、農地等約18万㎡の強制買収もしくは強制借り上げをするとの通告が町長に対してなされた。
 その通告があった直後から、地元農民らは基地拡張に反対の声をあげ、町議会も全会一致で反対決議するなど町ぐるみの反対運動が始まった。このため政府は、安保条約に基づく駐留軍用地特別措置法によって強制収用をすることを決めた。
 政府の強行突破策が決定されるや、支援の労働組合員、学生、市民らが駆けつけ、平和な農村の町で、労働者、農民、学生、市民の連帯の輪が広がって行った。 私よりも10年ほど先輩の人達には、懐かしい思い出となっている人も多いであろう。
 調達庁による強制収用のための現地測量には、度々、警察官が大量動員され、測量阻止のために座り込みをして抗議をする人達に襲いかかり、棍棒で殴りかかる流血の惨劇が繰り返された。

 この闘争の現場で、1957年7月8日、調達庁の強制測量に抗議していたデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち23名が逮捕され、うち7名が、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」(以下単に「刑事特別法」という。)違反で起訴された。
通常、このような立ち入りを処罰しようとすれば、軽犯罪法第1条第32号(入ることを禁じた場所に正当な理由がなく立ち入った者)違反として拘留又は科料に問うほかはないが、刑事特別法によって、米軍基地用地内への立ち入りは1年以下の懲役に問うことができることになっているのである。

 この事件について、1959年3月30日・東京地裁刑事第13部(伊達秋雄裁判長、清水春三裁判官、松本一郎裁判官)は、大要以下のような判決を下した。

① 憲法9条は、戦争を放棄し、戦力をもつことを禁じている。
 安保条約(旧)では、日本に駐留する米軍は、米国が、極東における平和と安全のため必要と判断したら日本国外に出動することができることになっており、日本は米軍の軍事行動により戦争にまきこまれるおそれもある。
従って、安保条約によりこのような米軍駐留を許した政府の行為は、「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起きないようにすることを決意」した憲法の精神にもとるのではないかとのする疑念も生じる。
② そのような合衆国軍隊の駐留は一面わが国政府の行為によるものといえる。
 このようなことを実質的に考えると、わが国外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で合衆国軍隊の駐留を許容していることは、指揮権の有無にかかわらず、憲法9条2項前段により禁止される戦力の保持に該当する。
③ わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものであり、刑事特別法は憲法9条2項に違反 し、無効である。
  よって被告人らは無罪。

 これは、憲法9条を燦然輝かした名判決である。伊達秋雄裁判長の名を冠して伊達判決として歴史に名を留めている。

 しかし、この伊達判決、今からは想像もつかないことだろうが、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞などの中央紙の社説では、きわめて冷淡に、いやむしろ政府よりの立場からの攻撃を受けた。曰く、「条約を、締結後数年たってから違憲とするのでは国際的信用が地に落ちる。」、駐留米軍は憲法の規定によってしばることはできないし、日本の戦力と解釈するべきではない」等々。これに対し、多くの地方紙は、伊達判決を、画期的意義を有するものと高く評価していた。
 マスコミと政治との位置関係を示す歴史のひとコマとして興味深い。

 伊達判決は、政府、米国からも敵視され、葬り去る計画がめぐらされる。その顛末は、またの機会に書くことにする。

                                                    (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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