米国に見る平和主義の実践

 9.11事件の直後、米国は、アフガニスタンのタリバン政権に対し、ウサマ・ビン・ラーディンらアル・カーイダのメンバー引渡しを要求したが、同政権はこれに応じなかった。そこで、2001年10月7日、米国を中心とした有志連合諸国は、アフガニスタン空爆を開始した。NATOは、集団自衛権を発動し、この空爆を支援した。こうした中、同年11月13日、米軍の支援を受けた北部同盟軍が首都カブールを制圧し、タリバン政権は崩壊した。

 この時期、報復戦争熱に沸き立つ米国にあって、同年10月16日、米国・カリフォルニア州バークリー市議会は、アフガニスタンへの空爆を停止することを求める下記決議を、採択した。

(バークリー市議会決議)

 2001年9月11日の数千人の大量殺害を糾弾する。この悲劇によりニューヨーク・ワシントン・ペンシルバニアで罪のない多数の人が殺害されたことことに深く追悼の意を表し、警察・消防署・市・州・連邦の勇敢な救命の努力に、敬意を表し、支援する。
 我々の代表者が、ただちに空爆を停止し、アフガニスタンの罪のない人々の命を危うくすることをやめ、米国の兵士への生命リスクをなくし、暴力の連鎖を断ち切ることを求める。
 我々の代表者が、国際社会とともに、先月のテロを共謀した人々を処罰するために、あらゆる努力をすることを求める。
 我々の代表者が、あらゆる国々の政府と協力して、テロリズムの温床となる貧困・飢餓・疫病・圧政・隷属といった状況を克服するために、最大限の努力をすることを求める。
 5年以内に、中東の石油への依存を減らし、太陽パワーや燃料電池などの持続可能なエネルギーへの転換をめざすキャンペーンに、国全体で取り組むことを要請する。

 バークリー市議会は、日本国憲法前文及び9条から導かれる武力によらない平和、平和主義を実践しようとしたと云える。テロに対して武力をもって対抗する道を進むのではなく、国際社会の一致した協力により、法の支配を確立し、テロの温床となる貧困・飢餓・疫病・圧政・隷属を克服しよう、また中東の石油への過度な依存は、中東への合理的かつ公正な対応を不可能にしてしまう、だから再生可能エネルギーへの転換をめざそう、こう云っているのである。。

 一方、中東からの石油輸送のシー・レーン確保を数ある目的のうちの一つに数え上げて、集団的自衛権を行使する道を切り開こうとするわが国政府の志向は、これとは逆に武力による「平和」を求めることによって日本国憲法前文と9条をないがしろにするものである。

 「軍事的安全保障を平和の前提と信じ込む“思考の惰性”は、政治的安全を平和の内容の一部にとりいれる健康な思考様式にきりかえられなければならない。憲法の平和主義が原理として主張しているのは、このような健康な思考様式である。・・・・憲法の平和主義は、軍備のもたらす自殺過程のほうに賭けるよりも、政治的安全のもたらしかねない危険過程のほうに賭けている。軍備のもたらす自殺過程は証明済みであると判断し、政治的安全のもたらしかねない危険過程は、未来にむかっての自己実験であると判断するのである。政治的指導者はもちろん、われわれ国民も、このパスカル的賭けの意味を充分深くほりさげて、自覚する必要があるであろう。」(久野収『平和の論理と戦争の論理』岩波書店)

 わが国は、「攻められたらどうするのだ」、「攻められないためには抑止力を持たねばならない」と声高に叫ぶ「現実主義者」たちに振り回されてきたし、現在も、振り回されている。だが、それは証明済みの「自殺過程」なのだ。
 憲法前文と9条は、法の支配の貫徹と構造的暴力の根絶のための国際協力という政治による安全保障をこそ、「抑止力論」のオルタナティブとして提示している。これは魅力ある実験であり、そこに人類の未来がある。 (了)
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「外務省と法制局の攻防」なる虚構

 10月26日付「朝日新聞」の『検証 集団的自衛権』なる記事は、7.1閣議決定における「武力行使三要件」の策定について、公明党と内閣法制局がチェック機能を果たし、現にその拡大解釈に歯止めをかけているかのように描き出している。この記事は、人びとに幻想を抱かせ、「集団的自衛権を認めた7.1閣議決定は憲法違反」との抗議の叫びを沈静化させる役割を果たしかねないことを、私は、危惧する。
                         
1 7月1日閣議決定第3項に定める「武力行使3要件」とは以下のとおりである。

 従来、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合 に限られると考えてきたが、わが国を取り巻く安全保障環境の変化をふまえ、以下のように考えられるべきである(「武力行使3要件」)。

 ①わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
 ②これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
 ③必要最小限度の実力を行使する。

2 一方、従来の政府見解であった「自衛権行使三要件」は以下のとおりである。

 ①わが国に対する武力攻撃が発生したこと
 ②これを排除するために他に適当な手段がないこと
 ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

(注:政府見解中には①を「わが国に対する急迫不正の侵害が存在すること」としているものも散見されるが、現時点では、国連憲章51条に準拠し、「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」とすることに落ち着いている。)

 従来政府は、7.1閣議決定でも援用された1972年10月14日田中角栄内閣統一見解も含めて、集団的自衛権は、この「自衛権行使3要件」の①の要件、即ち「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」に該当しないから憲法9条の下では認められない、との見解を繰り返し示してきた。

3 ところで「武力行使3要件」と「自衛権行使3要件」を比較対照すると、次の3要件(これを「集団的自衛権行使3要件」と呼ぶことにする。)+「自衛権行使3要件」=武力行使3要件という等式が成り立つことがわかるだろう。

 ①わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
 ②これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
 ③必要最小限度の実力を行使する

 つまり、「武力行使と3要件」とは、「自衛権行使3要件」に上記「集団的自衛権行使3要件」を無理やりくっつけたものなのである。

4 さて、頭書の「朝日新聞」記事は、北側一雄公明党副代表と横畠祐介内閣法制局長官がタッグを組んで、高村正彦自民党副総裁、外務省の意向を汲む兼金信克官房副長官補、防衛省の意向を汲む高見沢将林官房副長官補に対抗し、従来の政府見解との整合性を図ったという筋立てである。

 具体的には、上記のごとく無理やりくっつけられた「集団的自衛権行使3要件」①の「これ(他国の武力攻撃)によりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」とする部分について、政府案では「他国の武力攻撃により国民の生命や権利を守るために不可欠なわが国の存立が脅かされる」となっていたが、北側氏と横畠氏ががんばって、これを成文のごとく修正させたことにより、従来の政府見解との整合性を確保したという次第である。

 しかし、これはこじつけ、ごまかしというほかはない。何故なら、従来の政府見解との整合性の確保というなら「自衛権行使3要件」と比べなければならないのであるが、「集団的自衛権3要件」①は、そもそも「自衛権行使3要件」①の「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」に背反すること明らかであるからだ。

5 さらに言えば「集団的自衛権行使3要件」①の「これ(他国の武力攻撃)によりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」と書き改められたことは、そもそも政府案の「他国の武力攻撃により国民の生命や権利を守るために不可欠なわが国の存立が脅かされる」をより限定するという意味での修正にさえなっていない。その理由は下記のとおりである。

 7.1閣議決定に先立ち、国家安全保障局は「閣議決定案に関連する想定問答集」を作成した(2014年6月28日付「朝日新聞」朝刊に全文掲載)。これによると、「わが国の存立が脅かされ」と「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」とは、「国家と国民は表裏一体のものであり、我が国の存立が脅かされるということの実質を、国民に着目して記述したもの(加重要件ではない)」とされている。なんのことはない。後者の部分は全くの駄文、意味のないレトリックといことになるのである。
 そうすると結局「集団的自衛権行使3要件」①は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合」なる政府案と何も変わらず、堂々めぐりをしただけなのだ。

 こういうことを前提において考えると、7月14日の衆議院集中審議において、岡田克也議員の質問に対し岸田文雄外相が「日米同盟は日本の平和と安全を維持するうえで死活的に重要だ。米国への攻撃は新3要件も該当する可能性が高い。」との答弁をしたことはごく自然であることがわかる。

 かくして7.1閣議決定の「武力行使3要件」(そのうちの「集団的自衛権行使3要件」)を維持する限り、横畠氏や公明党が、今、いかにとりつくろっても、集団的自衛権の行使を限定させることはできない。

 誤りを正すに遅すぎるということはない。公明党も、横畠氏も、7.1閣議決定撤回を求めるべきだ。「朝日新聞」にもそれを後押しする記事を書いてほしいものだ。 (了) 

日本国憲法制定史のひとこま


 朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意志ニ依リ決定セラルベキモノナルニ鑑ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享受シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シ誼ヲ邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念(おも)ヒ乃(すなわ)チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メンコトヲ庶幾(こいねが)フ政府当局其レ克(よ)ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成センコトヲ期セヨ
   ※括弧内は筆者

 いきなり読みにくい文章を掲げてしまったが、これは、1946年3月6日発表された「憲法改正草案要綱」に付された昭和天皇の勅語である。いかにも翻訳調のぎこちない文章である。しかも「人格ノ基本的権利スルノ主義」とか「憲法ニ根本的ノ改正」など、日本語の常用語とは異なる訳語があてられている。GHQ民政局との間で、大あわてで打ち合わせをし、英語で作成された原文を、大急ぎで訳したものであろう。

 大急ぎといえば、「憲法改正草案要綱」の作成自体も、そうであった。

 外務大臣公邸で、吉田茂外務大臣らが、ホイットニーGHQ民政局長らからいわゆるGHQ草案を手交されたのが、2月13日のことであった。1月24日のマッカーサーとの面会で、絶対的平和主義・国民主権下での象徴天皇制という二点nおいて意思一致をみていた幣原喜重郎首相は、断固拒絶を声だかに叫ぶ松本蒸治国務大臣をはじめ各閣僚の蜂の巣をつついたような騒ぎをなだめ、すかしつつ、日本政府としてGHQ草案を受け入れ、これに基づいて日本政府草案を作成することに落着させた。それが2月26日。命を受けた松本は、ただちに、法制局の入江俊郎と佐藤達夫とを助手にして、日本政府草案を作成しはじめた。

 日本側は、日本政府草案の完成予定日を3月11日とした。しかしGHQ側は、執拗に短縮を求め、有無をいわせず3月2日を期限と定めた。泣く子も黙るマッカーサーの仰せである。やむを得ず松本らは捻じり鉢巻で仕上げた。GHQ草案原文を忠実に訳さず、敢えて変更を加えたところもあったのは、せめてもの抵抗なのだろうか。

 3月4日、松本、佐藤が、日本政府草案をGHQに持参、ホイットニーに手渡した。同席したケーディス民政局次長は、その場で読み始め、GHQ草案との食い違いや意図的な変更を発見、松本に厳しい口調で問題点を指摘する。松本も負けじとばかりに反論する。激しいやりとりが続く。ついにプライドの高い松本は、怒って、帰ってしまい、あとには佐藤が残された。

 佐藤は、けなげで、粘り強い人だ。それからケーディスらとともに、逐条審議を進め、一睡もしないで30時間後の3月5日午後4時に、全文書きなおした草案を完成させ、ようやくGHQ側の同意も得られたので、精根尽き果てた姿で松本のもとに完成草稿を持ち帰った。その後閣議で承認を得て、これを「日本国憲法草案要綱」として、3月6日に発表することになったのであった。

 そのどん詰まりの一幕が、上記の勅語作成の「すったもんだ」であった。

 このドタバタ劇は、単なるきまぐれや物好きのなせる業ではない。マッカーサーは、昭和天皇が、国民主権・絶対的平和主義・基本的人権尊重を定める民主憲法を起草したことを天下に知らしめ、当時、進行し始めた東京裁判における天皇戦犯論のくすぶり、三笠宮の発言報道によって高まり始めた天皇退位論、活動開始をした連合国・極東委員会における論議をけん制し、昭和天皇をめぐる論議に最終決着をはかり、これを温存させるとの決意を内外に明らかにしたかったのである。

 そのためには一国も早く、しかも昭和天皇の勅語を付して、「日本国憲法草案要綱」を発表する必要があったのだ。後世、『昭和天皇独白録』として出版された、昭和天皇の畢生の弁明書の作成開始が3月18日であった。情勢はそれほど切迫していたのだ。

 だからといって日本国憲法の価値が下がるというわけではない。いや、これは産みの苦しみを示す一エピソード、むしろ愛おしむべきであろう。 (了)

そんな姑息な改訂で「日米地位協定」の欠陥は是正されない

  「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約第6条にもとづく施設および区域並びに日本国における合衆国の軍隊の地位に関する協定」という大変長ったらしいタイトルが付された、日米間の協定がある。略して「日米地位協定」と呼んでいる。安保条約にもとづいてわが国に駐留する米軍の活動、基地と訓練区域の自由使用、及び米軍構成員、軍属ならびにそれらの家族の権利・地位を保障するもので、「協定」なる用語が使われているが、国会で承認を得た条約である。

 元「琉球新報」論説委員長・現在沖縄国際大学大学院教授前泊博盛氏編著の『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)によると、「日米地位協定」には以下の5点にわたる問題点があると指摘されている。

① 米軍や米兵が優位にあつかわれる「法の下の不平等」
② 環境保護規定がなく、いくら有害物質をたれ流しても罰せられない協定の不備など「法の空白」
③ 米軍の勝手な運用を可能にする「恣意的運用」
④ 協定で決められていることも守られない「免法特権」
⑤ 米軍には日本の法律が適用されない「治外法権」

 ここに指摘されたようなことは、「日米地位協定」の条文を読むだけでは決してわからない。実は、これを米国側に全て都合よく解釈してあげた逐条解釈書が存在しており、それを読んではじめてわかるのである。この逐条解釈書は、外務省作成にかかる「日米地位協定の考え方(増補版)」という大部の冊子である。しかし、門外不出、機密文書なのである(「琉球新報」により、2004年1月に、スクープされ、事実上全文が新聞紙上に載ったが、外務省は、これを認めていない。)。

 10月21日付「朝日新聞」朝刊は、この「日米地位協定」に関し、以下のとおり報道した。

 日米両政府は20日、日米安保条約に基づいて米軍による施設、土地の利用などを定めている「日米地位協定」を補足する新たな協定(環境補足協定)を結ぶことで大筋合意した、と発表した。基地内により厳しい環境基準を適用し、土壌汚染などの事故が起きた際、自治体が立ち入り調査するルールなどを今後定める。

 1960年の地位協定には環境保護の規定がなく、仲井真弘多知事ら沖縄県側は、土壌や水質の汚染が指摘されてきた米軍基地内の環境調査を可能にする補足協定をつくるよう求めていた。11月の沖縄県知事選を控え、安倍政権側には、米側との合意を通じて、3選をめざす仲井真氏を後押しする狙いもある。

 新協定には、日米双方の環境基準のうち厳しい方を採用した「日本環境管理基準」(JEGS)の適用を明記。在日米軍は95年からJEGSを自主的な規制としてきたが、運用実態は不透明だった。日本側には、明文化によって米側に順守を義務づける狙いがある。

 (以下略)

 なんのことはない。仲井真弘多知事ら沖縄県側は、上記の問題点のうち②の一部のみのみなおしを求め、政府がこれを容れて、日米交渉により大筋合意に達したというわけである。しかも、これを見ると立ち入り調査を認めるというに過ぎず、環境基準に違反した場合の強制措置や罰則など一切検討されていないようである。

 仲井真知事は「難しいものを頑張られて、高く評価する」と大はしゃぎをしているそうだ。来る知事選に向けての大きな支援、大きなプレゼントだと感謝しているのである。昨年末の辺野古埋め立て承認のときと同様に相変わらずのパペットモンスターぶりだ。

 本質的欠陥をかかえている商品を売ろうとする悪質業者は、表面の傷を丁寧に修整し、その痕跡をわざと残しておく。消費者は、それによって念入りにチェックされた商品であるかのように錯覚し、購入してしまうものだ。だが、表面を糊塗したものほどその内部に致命的な欠陥があることが多い。賢明な沖縄県民は、きっとこのことを見抜き、県民を裏切った仲井真知事にノーを突きつけるだろう。         (了)

当世マルクス事情

 私が学生時代を送ったのは1965年から1969年。個人的なことだが、あの大学闘争の影響で、卒業は6月末にずれ込み、採用が内定していた某鉄鋼メーカーに実際に入社した日付は、他の同期生より遅れて、7月1日付であった。
 
 あの時代は、活動家は勿論、ノンポリでも多くの人は、マルクスの著作を読んでいたものだ。私も、ドイツ・イデオロギー、哲学の貧困、経哲草稿等々や資本論をかじったりした。マルクスの主張をどこまで理解できたかはクェスチョンマークであるが、構想力、透徹した論理と独特の思考のひらめき、皮肉や適確な比喩・引用などを交えた表現の冴えには感動を覚えたものである。おそらく法律実務家になった後も、事案の検討、構成、書面書きや尋問などにおいて、マルクスを読んでいたことがなにがしかの役に立ったのではないかと思っている。

 ところがその後どうもマルクスは学生には不人気だったようである。わが国における左翼の退潮、「社会主義国」の崩壊、残った「社会主義国」で発生している貧富の格差、環境汚染、腐敗現象、中には万世一系のカリカチュアとなった「社会主義国」もある。こんな状況では、マルクスが見捨てられるのはあたりまえかもしれない。

 しかし、これは湯水とともに赤子も流してしまうという類、なんとももったいないことである。マルクスは、やっぱり読み継がれるべきだ。なんせ英国BBC放送が、「過去1000年間で最も偉大な思想家は誰だと思うか」というアンケートをとったら、断トツでマルクスだったと言うのであるから。

 そんなふうに思っていたら、昨日、書店でおもしろい本を見つけた。「若者よマルクスを読もうⅡ 蘇るマルクス」(かもがわ出版)という本である。神戸女学院大学名誉教授で思想家を名乗る内田樹氏と、かっての同僚・神戸女学院大学教授の石川康宏氏との、対談、長めの往復書簡により構成されている。当然、高校生とか大学生など若者向けに書かれたものであるが、もう若くはない私も読んでみた。もっとも私は、区民センター内の青少年向けの勉強スポットに出向き、高校生や大学生にまじって、一日中読書をする日々を送る今日このごろであるから、若者のような気分に浸っているのであるが・・・。

 マルクス経済学者である石川氏は直球勝負、フランス現代思想が専門の内田氏は変化球、それぞれの持ち味を生かし、マルクスを論じ合うという趣向である。お二人のマルクスとの距離感、マルクスへの興味・関心のもちどころ、現実政治の見方やかかわり具合には大きな違いがある。しかし、大きな意味では調和の取れたほどよい仕上がり具合になっているところが、実におもしろい。

 内田氏の話の中で、マルクシストとマルクシアンの区別に触れているところある。マルクシストは「マルクスの思想をマルクスの用語を使って語る人」、マルクシアンは「マルクスの思想をマルクスの用語ではなく、自分の言葉を使って語る人」だと。これは内田氏の師であるエマニュエル・レヴィナス所伝の話だとのことだ。まぁ教条主義、訓詁学と独創的で発展的なマルクス応用という区別であろうか。
 日本のマルクス主義をバックボーンとする政党も、これからはマルクシアンを目指して欲しいものだ。

 もう一つ、内田氏は、フランスの文化人類学者レヴィ・ストロースが『悲しき熱帯』の中で述べている次の言葉を紹介している。

 「マルクスは私を熱狂させた。この偉大な思想を通じて、私はカントからヘーゲルに至る哲学の流れにはじめて触れた。一つの世界がまるごと私の前に開示されたのである。そのことが私のマルクスへの傾倒をさらに亢進させた。以来、この熱が衰えたことはない。社会学的あるいは民族誌的な問題に立ち向かうとき、私はまず『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』か『経哲草稿』の何頁かを開いて、私の思考力に生気を吹き込んでから問題に取り組んだものである。」

 そうか、マルクスの読み方にはこういうのもあるのだ、一度真似してみよう。

 石川氏の『賃金、価格および利潤』を解説した長い書簡は、『資本論』への格好の手引きである。本格的にマルクスを読んでみようという人向けだ。

 新自由主義の修羅場と化したわが国において、格差・貧困、非正規雇用、ワーキング・プア、ブラック企業、過労自殺が大きな社会問題となって久しい。今ようやく、マルクスが再評価されつつあるようだ。

 出でよ、マルクシアン、マルクシスト。     (了)

何のための面談だったのだろうか



 10月20日、大阪市役所内で、橋下徹大阪市長と朝鮮人・韓国人にヘイトスピーチを伴う街頭行動を繰り返している在特会の桜井誠会長との面談が行われた。この面談の内容と評価を述べる前に、面談に至る経緯を整理してみよう。

  7月8日、大阪高裁において、京都朝鮮第一初級学校事件控訴審判決の言い渡しがあった。この判決において、大阪高裁は、在特会らのヘイトスピーチは人種差別撤廃条約1条にいう「人種差別」に該当する人権侵害であり、また名誉毀損にあたると認定、表現の自由によって保護されるべき範囲を超えたものであり、不法行為を構成すると判断し、一審・京都地裁判決に対する在特会らの控訴を棄却した。

 これを受けて、7月10日の定例記者会見において、橋下市長は、ヘイトスピーチについて「ひどすぎる。大阪市内ではヘイトスピーチは認めない。」と述べた。その後、被害者側関係団体から、ヘイトスピーチ規制に関する申し入れが、在特会側からはそれに反発する申し入れが、それぞれ大阪市に対してなされていた。それらをめぐる具体的な動きは、新聞報道もされていないのでよくわからないが、どうも橋下市長は、9月に入ってから、在特会との面談の肚を固めたようである。

 はっきりしたのは9月25日のことである。同日の定例記者会見で、橋下市長は、ヘイトスピーチについて「特別永住者制度がおかしいと言うなら日本政府に言うべきだ。公権力を持たない人たちを攻撃するのは、ひきょうで格好悪い」と批判するとともに、10月中にも在特会と面談するので、その際に、こうした意見を伝える考えであると述べた。

 これに対し、被害者サイドにおいては、ヘイトスピーチを規制するためなら、市の担当者らも現場に出ており、またネット上で動画が出回っているから、在特会側から直接話を聞く必要はないなどと、橋下市長が在特会との面談することには批判的な意見が多く出されていた。橋下市長に対し、「会うべきは被害を受ける当事者である」、「市長が在特会と面談することにより『人種主義集団』を承認するかのような印象を与えるのは避けるべきだ」との申し入れもがなされていた。
 
 しかし、橋下市長は、こうした声も無視し、司法において厳しく指弾された在特会の会長桜井誠氏と面談するに至ったのである。

 面談の模様については、次のように報じられている。

 ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)の対策を検討している大阪市の橋下徹市長は20日、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の桜井誠会長と市役所で意見交換をした。両者は怒号を飛ばして激しく応酬。主張は平行線のまま、30分の予定が10分弱で終わった。

 橋下氏は7月の記者面談で「ヘイトスピーチはやり過ぎだ。僕が直接対応する」と表明。これを受けて、在特会側が面談を申し入れていた。面談は報道陣に公開で行われ、会場となった市役所の会議室には100人ほどの報道関係者らが詰めかけた。

 橋下氏は「民族とか国籍をひとくくりにして評価するような発言はやめろ」と批判。そのうえで「参政権を持っていない在日韓国人に言ってもしょうがない。在日の永住制度に文句があるなら、それをつくった国会議員に言え」と求めた。

 これに対し、桜井氏は「あんたの友だちの国会議員に言っている」と返答。ヘイトスピーチを行ったという具体的な事実関係を示すよう求めたうえで、「民主主義のルールに基づいてデモ行進をやっている。言論の自由を否定するのはやめろ」と反論した。

  (朝日デジタル 10月20日21時45分配信)

 この報道では具体的な言葉のやりとりがつかみとれない。生のやりとりは、ネット上で一部始終が動画で視聴できるので、関心のある方には、見て頂くことにしよう。以下には、産経新聞(デジタル版 10月20日18時53分配信)により、紹介しておこう。

 桜井氏「あんた」
 橋下市長「『あんた』じゃねぇだろ」
 桜井氏「『お前』でいいのか?」
 橋下市長「お前なぁ」
 桜井氏「『お前』って言うなよ」
 橋下市長「うるせぇな、お前」

 数メートル離れて着席し、向き合った2人は冒頭から呼び方をめぐりヒートアップした。激高した様子の桜井氏が突然、立ち上がって橋下市長に近づき、周囲で警戒にあたっていた警護の警察官たちが一斉に制止に動く。面談は終始、険悪な雰囲気で行われた。

 (中略)

 「(在日韓国・朝鮮人に関する)制度に文句があるなら国会議員に言え。参政権を持たない人に言っても仕方ない」。橋下市長は桜井氏に対してこう主張し、「お前みたいな差別主義者は大阪にはいらない」と不快感をあらわにした。

 桜井氏も「国会議員には言っている」「誰が差別主義者だ」「(韓国側が)日本人をひとくくりにして誹謗(ひぼう)中傷をやるから闘っている」と応酬。

 双方が怒気をはらんだ声で言い合いを続けたが、橋下市長が10分弱で事務方に「もう終わりに」と言って打ち切った。

 ところで、普通、こういうやりとりというのは面談とは言わないだろう。これは単なる口げんかである。それも、とびきりひどい言葉の応酬で、まともに視聴できない類のものである。

 この面談において、橋下市長と在特会桜井会長が一対一で対面し、対等にわたりあう場面が演出され、動画で広く流された。在特会は鼻高々であろう。しかし、桜井氏の言葉遣いの荒さと激すると暴力にも及びかねない行動を示したことにより、やっぱり在特会とはそういう団体なのだということをあらためて認識させることになった。
 一方、橋下市長は、ヘイトスピーチが許されないことを、理を尽くして説明できず、桜井氏と同様に激情に走り、断片的な荒っぽい言葉を投げつけるだけで、大阪市民を預かる市長の器ではないことをはっきり示した。

 ともあれこの面談は何のために行われたのか、さっぱりわからない、あと味の悪い結果に終わったことは確かである。       (了)

琉球処分

 

 前回、戦後のわが国政府の沖縄の施政権放棄と沖縄県民切捨てを「第二の琉球処分」だと述べたが、今回は、元祖・琉球処分を顧みておくこととする。

 琉球王国は、明治維新まで、清国から冊封を受けるとともに、薩摩藩の事実上の支配を受けていた。維新政府は、これを曖昧な法的状態であると見なし、廃藩置県を断行した1871年8月ころから、その処置を検討し始めた。

 1872年5月、大蔵太輔(次官)井上馨は、琉球王国の処置に関する建議書を正院に提出した。見られるとおり琉球国王・尚泰を酋長と呼び、天皇の前に招致して譴責するなどと粗暴な言辞を弄し、露骨な皇権と版図の拡張、併合を建議している。

 「……従前曖昧ノ陋轍(ロウテツ)ヲ一掃シテ、改テ皇国ノ規模御拡張ノ御措置有之度(アリタク)……彼ノ酋長ヲ近ク闕下(ケッカ)ニ招致シ、其不臣ノ罪ヲ譴責……速ニ版籍ヲ収メ明ニ我所属ニ帰シ……」

注:当時の統治機構の中枢部は、正院、右院、左院から成っていた。正院は天皇臨席のもとに政務を統括する機関で、太政大臣と若干名の納言、参議により構成され、このもとに行政(司法を含む)を司る各省が分属した。左院は、参議が兼任する議長と正院が任命する議員によって構成され、正院の諮問に応じ、または左院自身の発議で「諸立法ノ事ヲ議スル」という立法機関である。右院は、行政部各省の長官及び次官の合議体で、正院の諮問もしくは各省の発議で法案を検討し、調整する機関である。

 正院は、上記建議を受けて、直ちに左院に諮問した。翌月である同年6月、左院は以下のように回答した。要するに、上記の建議書の文言を用いるなら従前どおりの「曖昧ノ陋轍」を、わが国の国家意思を明示しつつ維持するという姑息な考え方である。

・ 琉球国は、日本と清に両属しているが、清へは名目的服属、日本へは実体的服属である。
・ このような両属状態やめさせ、日本だけに服属させようとすると清との間に紛争をもたらすことになり、無益なことである。清には名を与え、日本は実をとればよい。
・ 琉球国王を琉球藩王とか華族にするのは異議がある。
・ 日本があらためて琉球王に封じ、かつ清からも冊封を受けることを許可すべきである。

 維新政府は、同年9月、左院の回答とは異なり、琉球王国を琉球藩とし、国王・尚泰を琉球藩王とし、華族に列せしめた。維新政府は、1874年7月、琉球藩を外務省管轄から内務省(時の内務卿は大久保利通であった。)管轄に移した。
大久保利通は、太政大臣三条実美にあてて、琉球藩に清との関係の廃絶を強制し、維新政府の包摂する意見書をやつぎばやに提出し、強引に維新政府の琉球政策を誘導して行った。

 維新政府は、1875年1月、琉球藩に対し、清との関係断絶、明治年号の使用などを命じ、大久保利通の腹心・松田道之を派遣して、次々と維新政府の意向に沿って改革を断行させようとした。しかし琉球藩支配層はこれに抵抗、藩王・尚泰はその後も清への朝貢を続けた。
 維新政府は、1876年7月、熊本鎮台分遣隊と警官を派遣、清への朝貢を実力阻止の挙に出たため、清からの強硬な抗議を受け、清との関係も悪化、松田を帰京させた。
 しかし、1879年1月、維新政府は、再度松田を送り込み、強硬措置に及ぼうとしたが、またも琉球藩支配層は抵抗、松田は、いったん引き揚げ、同年3月、軍隊380人余り、警官160人を率いて渡琉し、武力をもって琉球支配層の抵抗を抑え込み、藩王・尚泰を東京へ連行し、同年4月、琉球藩の廃止と沖縄県設置を強行した。

 この一連の維新政府の処置を、琉球処分と称するのであるが、ことの本質は、維新政府による琉球王国への不当な介入と力ずくの併合であった。今、私たちが沖縄問題を考えるとき、この厳然たる歴史的事実を看過してはならない。 (了)

余りに理不尽なこと ― 第二の琉球処分

 戦後、日本の領土(戦争や武力で取得し、もしくは併合した領土は除く。)は、三分割され、それぞれ異なった主体と態様の占領がなされた。一つは、いうまでもなく日本列島本体に対する連合国最高司令官兼米国太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による間接占領、二つは琉球列島・小笠原諸島に対する米国太平洋方面海軍司令官ニミッツ提督による直接占領、三つは千島列島に対するソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥による直接占領である。

 日本列島本体は、日本の統治機構がそのまま温存され、ポツダム宣言に基づく占領政策が、日本の統治機構を通して、日本政府の意思に基づくとの形をとって実施された。統治の根本規範たる憲法について、万世一系の天皇主権と天皇大権を定めた大日本帝国憲法の改正手続をとって国民主権、恒久平和主義、基本的人権尊重の日本国憲法が制定されたのもその一環であった。
 琉球列島・小笠原諸島については、日本の管轄権から切り離され、その戦略的重要性に着目して米軍のアジアにおける拠点と位置づけられ、米軍(当初は海軍であったが、その後陸軍→海軍→陸軍とめまぐるしく変わった。)の軍政下に置かれた。
 千島列島については、実際には占領ではなく、ソ連領土への編入であり、強奪であった。

 このような状況のもとで、戦後最初の衆議院議員総選挙が、1945年12月に実施されたのであるが、沖縄県、小笠原諸島及び北方領土住民の選挙権・被選挙権を停止され、国政に参加する道を断たれたのであった。
実は、この選挙に先立つ第89帝国議会において、女性に参政権を認める画期的な改正が行われる一方で、沖縄県、小笠原諸島及び北方領土住民の選挙権・被選挙権を停止するとの付則をもうけてしまったのである。

 この第89帝国議会の時点では、沖縄県選出の衆議院議員が5名いた。その一人漢那憲和は、最後の衆議院本会議で、同僚議員に向かって次のように訴えた。

 「帝国議会における県民の代表を失うことは、その福利擁護の上からも、又帝国臣民としての誇りと感情の上からも、洵に言語に絶する痛恨事であります。此の度の戦争において六十万県民は出でて軍隊に召された者も、止まって郷土に耕す者も、各々その職域に応じて奉公の誠を尽くしました。沖縄作戦においては、男子は殆どが陣地の構築は勿論のこと、或いは義勇隊を編成し或いは徴収せられて戦列に加わり、郷土防衛に全く軍隊同様奮闘し、師範学校及び県立一中の生徒の如き全部玉砕しております。又婦女子も衛生隊、給食隊として挺身し、国民学校の児童たちまでも手榴弾を持って敵陣に斬り込んでおるのであります。・・・凡そ此の度の戦争において沖縄県の払いました犠牲は、その質において恐らく全国一ではありますまいか。此の県民の忠誠に対して、政府は県民の代表が帝国議会において失われんとするに当たりまして、あらゆる手段を尽くし、これを防ぎ止めねばならぬと存じます。」

 忠君愛国的な古風な言いまわしではあるが、無念の思いとともに沖縄県民の怒りをぶちまけた漢那議員の追及に対し、時の内務大臣堀切善次郎は、「連合軍司令部の方の同意が得られません。」と、冷淡に突き放しただけであった。

 かくして沖縄県の代表不在のもとで日本国憲法の制定が審議され、可決を見たのであるが、施行直後の1947年6月、沖縄県民は、マッカーサーが外国人記者に対して行った次の発言により、再び煮え湯を飲まされることになった。

 「沖縄諸島は、われわれの天然の国境である。米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって重大な意義があり、明らかに日本の安全に対する保障となろう。」

 余りに理不尽ではなかろうか。本土政府は第二の琉球処分をしたのだ。

 沖縄県民は、日本政府と米国に対し、基地の整理・縮小、普天間基地の辺野古移設撤回と県外移設を求めている。わが本土在住の国民は、今、このような理不尽な目にあわせた沖縄県民に対し、心からの贖罪として、このささやかな要求を支持し、その実現のために声をあげるべきである。                            (了)

 本記事は、竹前栄治『戦後占領史』(岩波書店・同時代ライブラリー)及び古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波現代文庫)に依拠した。

日本人は果たして本当に戦争に懲りたのだろうか?

 清沢洌の暗黒日記(清沢洌著・山本義彦編『暗黒日記 1942- 1945』岩波文庫)の1945年1月1日(月)の項に、以下の記述がある。

 昨夜から今晩にかけ3回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない。
 配給のお餅を食って、お目出とうをいうとやはり新年らしくなる。曇天。
 日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、百年戦争だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争はそんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、僕らは味わっているのだ。だが、それでも彼らが、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼らは第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼らは戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼らに国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
 当分は戦争を嫌う気持ちが起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
 日本の最大の不自由は、国際問題において、あいての立場を説明できない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。すべての問題はここから出発しなくてはならぬ。

 清沢洌は、1920年代から1940年代初頭まで、自由主義的外交評論家として華々しく活躍した人である。彼は、満州事変と日中戦争の拡大に反対し、日米戦争開戦にも反対した。彼は、戦争をまっしぐらに推進する軍部・政府にとっては人心をかく乱する危険極まりない人物だった。

 1941年2月、内閣情報局は、総合雑誌編集者に対し、意見の発表を禁止すべき人物として、清沢洌もリストアップした。言論弾圧である。事実上最後の評論になったのは、『改造』1940年12月号に掲載された、『三選ルーズヴェルトの肚」と題する日独伊三国同盟批判であった。そこで彼は、不気味な終末を予測して、次のように論じた。

 日独伊同盟は極東と欧州を一つにした最も画期的な国際事件であった。従来、必ずしも一つでのものではなかった日支事変と、欧州戦争は、これにより一貫不離のものとなった。満州事変によって国際連盟と断って、東亜建設に邁進してきた日本は、不思議にも東亜建設の必要から、再び違った内容と形式ではあるが、欧州と緊密な―以前よりは遥かに強固な連関を持つことになった。

 こうして彼は、評論活動の場を失い、日本外交史の研究に専心、戦前における日本外交史に関する最良の書と評されている『外交史』、『日本外交史』を書き上げるとともに、1942年12月、表紙に「戦争日記」と書きなぐったノートに、詳細に記録を書き始めた。これが、後に、『暗黒日記』として世に知られることになったのである。

 さて『暗黒日記』の1945年1月1日(月)の記述に戻ろう。

 「戦争は文化の母」とは、1934年10月に陸軍省新聞班が、総力戦・総動員体制を国民にアピールするために作成した陸軍パンフレットの標語「戦争は創造の父、文化の母」からの引用である。百年戦争というのは、1945年6月8日の御前会議で「ソ連を日本の側につけてでも対米英百年戦争を企図する」という勇ましい発言があったように、当時、日米戦争をペリー来航以来の百年戦争の最終局面とみなす見方が喧伝されていたことを示している。最近も、この語句をもてはやす、懲りない人びとがいることは、周知のとおりである。

 清沢洌は、これを書いてから5ヶ月余り後の1945年5月21日、肺炎をこじらし、急逝した。享年55歳。彼が、「ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ」といった我が日本国民は、再び戦争への道を歩み始めているようである。残念ながら、「日本の最大の不自由なのは、国際問題において、あいての立場を説明できない一事だ。日本には自分の立場しかない。」というのも図星であった。慰安婦問題、領土問題、歴史認識、対中国、朝鮮・韓国観、朝鮮人・中国人蔑視と言葉の暴力であるヘイトスピーチ。

 ただ救いなのは、これに同調しない国民も未だ多数いることだ。    (了)

戦後憲法9条論争・「自衛隊違憲・合法論」

 1983年12月の総選挙を前にして、社会党委員長に就任して間もない石橋正嗣氏は、「自衛隊は違憲だが、手続的には合法的に作られた存在だ」と、いわゆる「自衛隊違憲・合法論」をぶち上げた。社会党機関誌「月刊社会党」1月号の、憲法学者・小林直樹東大名誉教授(以下単に「小林教授」という。)との誌上対談の中でのことであった。

 石橋委員長のこうした異例の形の提起を受けて、翌1984年1月、社会党の運動方針起草小委員会は、それまでの自衛隊違憲・非武装中立論を改め、「『違憲』の自衛隊が『合法』的に存在している」として現状の自衛隊を肯定する内容に変更する運動方針原案を作成した。しかし、党内において、主として平和運動・基地闘争に取り組む活動家層からの激しい批判の声に曝された。石橋執行部は、1984年度運動方針原案にあった上記記述を「違憲の自衛隊が法的に存在している」とトーン・ダウンすることにより、なんとか混乱を収拾し、乗り切ることができた。

 表現においてはやや譲ったものの、石橋執行部は、社会党を自衛隊違憲・非武装中立論から「自衛隊違憲・合法論」に転進させたことにより、自衛隊を合憲とする公明、民社との歩調を合わせることができ、以後、社公民路線の推進に拍車をかけた。
 社会党は、社公民路線を推進することにより、「自衛隊違憲・合法論」というよりも「違憲」を置き去りにして、単なる「合法論」に軸足を移して行った。そして、ついには自衛隊合憲論に行き着いてしまったのであった。自社さ政権の首班となった村山富市首相村山首相が、1994年7月20日、衆議院本会議で、自衛隊は「自衛のための必要最小限度の実力組織」であり「憲法の認めるものであると認識する」と発言、同年9月の社会党大会は、これを追認し、歴代保守政権と歩調を合わせるに至ったことは、まだ記憶に新しいところである。実に、「自衛隊違憲・合法論」採用から10年後のことであった。
 こうして、戦後史に大きな足跡を残してきた社会党は、自ら、現実的政治を動かす舞台から去る道を用意したのである。

 ところで石橋委員長がぶち上げた「自衛隊違憲・合法論」とは、対談相手の小林教授が『ジュリスト』1975年5月1日号に掲載された論文「防衛問題の新状況」で示した問題提起に依拠したものであった。だが、石橋委員長は、小林教授の問題提起の表面をなぞっただけで、その大切な魂をしっかりと受け止めることはできなかった。

 小林教授の問題提起の大切な魂とは何か。

 小林教授は、この論文を含む3本の論文を、短期間のうちに書いている。相関連する論文である。最初の論文は、法律時報1973年7月臨時増刊号の『憲法9条の総合的検討-新段階における平和憲法の況位』である。2番目の論文は、同じく法律時報1975年5月臨時増刊号の『憲法9条の政策論-平和憲法下の安全と防衛』、そして3番目に書かれたのが上記論文である。

 第一論文は、実に法律時報の誌面で42ページに及ぶ長大なものである。小林教授は、文理的解釈、憲法全体の構造連関、基本的人権規定との立体的・総合的関連を考察し、自衛隊の機能と性格、核時代における軍備の無効性を解き明かし、憲法9条を一切の戦争と戦力を否認するものとの解釈をあらためて確認している。そして、そのように解釈される憲法9条は、現代においてこそ現実的な規範価値を持つものと再評価する。その上で、小林教授は、自衛隊は違憲であるが、それは国民の圧倒的な支持を得た野党連合政権の樹立により、縮小・解体(もしくは平和的再編)をする道をとるしかなく、それによって漸進的に憲法9条を実現していくほかはないとの展望を語っている。

 第二論文は、第一論文では書ききれなかった憲法9条の下での安全保障の方式に焦点をあてたもので、軍縮、平和のための運動と教育、外交・経済・文化等の平和的手段を用い、これらと組み合わせた非暴力的な日本独自の市民防衛論などを提起している。

 小林教授は、第三論文において、これらを踏まえて「自衛隊違憲・合法論」を問題提起したのである。自衛隊は違憲であり、縮小・解体(平和的再編)されるべきことが大前提であるが、それでは現に保守政権の下で、整備されてきた自衛隊を法的に統制することも同時に大切な課題であると言うのである。自衛隊は肥大化するばかりである。内部では民主的に成立した政府をクーデタで転覆させることを構想・研究する幹部が野放しになっている。自衛隊員の思想・表現の自由、団結権が保障されていない。自衛隊当局は、一方で自衛官のみならず国民を直接対象にした情報活動をし、他方で軍事秘密の聖域を作り上げている。単に自衛隊は違憲だと言って、これらを放置しているのは一種の自己欺瞞ではないか。自衛隊を法的に規制するためには、一歩踏み込み、自衛隊は違憲だが、手続き的には合法的に存在する実体である。そのことを直視して、民主的コントロールの枠をはめる必要がある。

 私は、小林教授の問題提起の魂は、「自衛隊違憲論」の活性化にあると見た。だから今も私たちを鼓舞し続けているのである。
 石橋委員長は間違いを犯したのか、それとも小林教授の問題提起を利用したに過ぎないのか、残念ながら、それは私にはわからない。        (了)
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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