日本国憲法制定史のひとこま


 朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意志ニ依リ決定セラルベキモノナルニ鑑ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享受シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シ誼ヲ邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念(おも)ヒ乃(すなわ)チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メンコトヲ庶幾(こいねが)フ政府当局其レ克(よ)ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成センコトヲ期セヨ
   ※括弧内は筆者

 いきなり読みにくい文章を掲げてしまったが、これは、1946年3月6日発表された「憲法改正草案要綱」に付された昭和天皇の勅語である。いかにも翻訳調のぎこちない文章である。しかも「人格ノ基本的権利スルノ主義」とか「憲法ニ根本的ノ改正」など、日本語の常用語とは異なる訳語があてられている。GHQ民政局との間で、大あわてで打ち合わせをし、英語で作成された原文を、大急ぎで訳したものであろう。

 大急ぎといえば、「憲法改正草案要綱」の作成自体も、そうであった。

 外務大臣公邸で、吉田茂外務大臣らが、ホイットニーGHQ民政局長らからいわゆるGHQ草案を手交されたのが、2月13日のことであった。1月24日のマッカーサーとの面会で、絶対的平和主義・国民主権下での象徴天皇制という二点nおいて意思一致をみていた幣原喜重郎首相は、断固拒絶を声だかに叫ぶ松本蒸治国務大臣をはじめ各閣僚の蜂の巣をつついたような騒ぎをなだめ、すかしつつ、日本政府としてGHQ草案を受け入れ、これに基づいて日本政府草案を作成することに落着させた。それが2月26日。命を受けた松本は、ただちに、法制局の入江俊郎と佐藤達夫とを助手にして、日本政府草案を作成しはじめた。

 日本側は、日本政府草案の完成予定日を3月11日とした。しかしGHQ側は、執拗に短縮を求め、有無をいわせず3月2日を期限と定めた。泣く子も黙るマッカーサーの仰せである。やむを得ず松本らは捻じり鉢巻で仕上げた。GHQ草案原文を忠実に訳さず、敢えて変更を加えたところもあったのは、せめてもの抵抗なのだろうか。

 3月4日、松本、佐藤が、日本政府草案をGHQに持参、ホイットニーに手渡した。同席したケーディス民政局次長は、その場で読み始め、GHQ草案との食い違いや意図的な変更を発見、松本に厳しい口調で問題点を指摘する。松本も負けじとばかりに反論する。激しいやりとりが続く。ついにプライドの高い松本は、怒って、帰ってしまい、あとには佐藤が残された。

 佐藤は、けなげで、粘り強い人だ。それからケーディスらとともに、逐条審議を進め、一睡もしないで30時間後の3月5日午後4時に、全文書きなおした草案を完成させ、ようやくGHQ側の同意も得られたので、精根尽き果てた姿で松本のもとに完成草稿を持ち帰った。その後閣議で承認を得て、これを「日本国憲法草案要綱」として、3月6日に発表することになったのであった。

 そのどん詰まりの一幕が、上記の勅語作成の「すったもんだ」であった。

 このドタバタ劇は、単なるきまぐれや物好きのなせる業ではない。マッカーサーは、昭和天皇が、国民主権・絶対的平和主義・基本的人権尊重を定める民主憲法を起草したことを天下に知らしめ、当時、進行し始めた東京裁判における天皇戦犯論のくすぶり、三笠宮の発言報道によって高まり始めた天皇退位論、活動開始をした連合国・極東委員会における論議をけん制し、昭和天皇をめぐる論議に最終決着をはかり、これを温存させるとの決意を内外に明らかにしたかったのである。

 そのためには一国も早く、しかも昭和天皇の勅語を付して、「日本国憲法草案要綱」を発表する必要があったのだ。後世、『昭和天皇独白録』として出版された、昭和天皇の畢生の弁明書の作成開始が3月18日であった。情勢はそれほど切迫していたのだ。

 だからといって日本国憲法の価値が下がるというわけではない。いや、これは産みの苦しみを示す一エピソード、むしろ愛おしむべきであろう。 (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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