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「伝家の宝刀」の由来

 解散権は、内閣総理大臣の「伝家の宝刀」だと言われている。今回の安倍首相の場合には、早い段階から18日解散表明が既定のことのように取り沙汰されているので、どうも大分錆びついて切れ味が悪くなっているようではあるが、まぁ一応「伝家の宝刀」なのだろう。
 ところで内閣総理大臣が「伝家の宝刀」を確保するまでには若干の経緯があった。今となっては歴史のくずかごに埋もれてしまったことではあるが、掘り出してみることにしよう。

 憲法には解散の根拠となる条文が2箇条置かれている。第7条第3号と第69条である。

 第7条は「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。」となっており、その第3号に「衆議院を解散すること。」とされている。
 第69条は「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に解散されない限り、総辞職をしなければならない。

 上記の2箇条をめぐって、どのような場合に解散ができるのかについて争いがあった。

 1948年7月、芦田均首相の率いる芦田連立内閣(民主党・社会党・国民協同党)は、昭和電工疑獄事件のあおりで断末魔の時を迎えていた。「朝日新聞」の世論調査では、内閣支持率は16%、不支持率は52%と、惨憺たるものであった。さすがにGHQ民政局のテコ入れもきかず、同年10月、芦田内閣は総辞職した。GHQ民政局は中道政権に未練を見せ、第二次芦田内閣樹立を画策したが奏功せず、民主党からの大量離脱、連立瓦解により、政権は、第一党・民主自由党を率いる吉田茂に転がり込んだ。ここに、第一党とはいえ少数与党の吉田民自党内閣が誕生した。

 吉田民自党内閣は国民に歓迎された。同年11月の「読売新聞」世論調査では、内閣支持率は47%、不支持率は20%と、上げ潮状況と見られた。そこで同年12月、吉田首相は、政権基盤を固めるために、早期の総選挙を実施するべく日本国憲法施行後初めての解散にうって出ようとした。

 このとき吉田首相は、憲法7条第3号により、内閣、即ち内閣総理大臣が解散を決定する権限があると考え、それに基づいて解散をしようとした。ところがこれに対し、GHQ民政局から横やりが入った。憲法の解釈として、解散は憲法69条によって衆議院において内閣不信任案が可決された場合もしくかは内閣信任案が否決された場合だけであるとのお達しが出たのである。

 そこで吉田首相は、わざわざ衆議院で不信任案を可決させ、それをまって解散を行わざるを得なかった。かくして1948年12月の解散は、世に「馴れ合い解散」と言われることになる。それに基づき実施された1949年1月の総選挙は、次の当選者数が示す如く、民自党の圧勝であった。

民自党  264名(解散時比112名増。定数466名の過半数を大幅に超える。)
民主党   69名
社会党   48名
共産党   35名
その他   50名

 政権基盤を固めた第三次吉田内閣は、再軍備の開始、講和条約と旧安保条約の締結、朝鮮戦争の特需の下での経済復興など、戦後政治の骨格を形成していくことになる。

 この第三次吉田内閣の時代、晴れて「独立」を達成した後の1952年8月、吉田首相は、今度は、自ら解散権を行使し、憲法第7条3号に基づいて衆議院を解散した。これを世に「抜き打ち解散」という。おそらくは「伝家の宝刀」なる政界用語が使われるようになったのはこのことが機縁となったようだ。

 しかし、これにはクレームがついた。苫米地義三民主党衆議院議員が、解散できるのは憲法69条の場合に限られ、憲法7条3号に基づいてなされた本件解散は、憲法の条項に違反し無効であるとの論拠で、国に対し、衆議院議員としての歳費等の支払いを請求する訴訟を提起したのである。

 簡単に裁判経過を述べておこう。

 一審・東京地裁は、1953年10月19日、憲法69条の場合以外に解散は認められないとの苫米地氏の主張は排斥したが、憲法7条3号に基づく本件解散は、内閣の助言と承認を欠いているとして、結論において違憲無効とし、国に対し、過去の歳費等の支払いを命じた。

 二審・東京高裁は、解散が出来る場合は憲法69条に限定されず、憲法7条3号に基づく解散も認められるという点は一審と同じ判断、憲法7条の内閣の助言と承認は、本件解散においては閣議決定がなされたことが認められるので、これにより満たされると判断、一審判決を取り消し、請求棄却とする逆転判決であった。

 上告審・最高裁は、1960年6月8日、大法廷判決により「現実に行われた衆議院の解散が、その依拠する憲法の条章について適用を誤つたが故に、法律上無効であるかどうか、これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に瑕疵があつたが故に無効であるかどうかのごときことは裁判所の審査権に服しないものと解すべきである。」として、いわゆる統治行為論によりつつ、上告を棄却した。
 なお本判決には多数意見として、付加的に、解散は憲法69条の場合に限定されないこと、本件においては憲法7条所定の内閣の助言と承認があったと認定している。

 「抜き打ち解散」によって行われた総選挙では、吉田首相の率いる自由党吉田派は199議席得て第一党を維持し、第四次吉田内閣を組閣したものの、左派社会党、右派社会党が大きく伸び、政権基盤は弱まった。

 解散にはいろいろ面白い呼び名がつけられている。第四次吉田内閣が行った解散は「バカヤロー解散」、第二次中曽根内閣は「死んだふり解散」、最近では第一次森内閣の「神の国解散」、小泉内閣の「郵政解散」があった。今では内閣総理大臣の「伝家の宝刀」に憲法上疑義が出されることはないだろうが、政治的には濫用だとして争われ得ることは当然だ。今回の解散は「安倍自己チュー解散」と呼ぶ報道もある。これは濫用のケースであろうが、国民にとっては安倍政権にノンを突きつける絶好の機会でもある。(了)

象徴天皇制のもとで天皇が国政に関与した事例

 当ブログ11月11日欄に、旧安保条約締結に向けて、日本側から米国側に米軍駐留を願い出た経緯を書いた。それは昭和天皇による外交が勝利したことを意味していた。

 1951年9月8日、吉田茂首相は、サンフランシスコ・シティの豪華なオペラハウスに代表団の他の団員たちを従えて臨み、各国代表の列席する晴れの場で、得意満面の顔に笑みを浮かべて講和条約に調印した。その5時間後、米側の通告で、吉田首相は、単身、サンフランシスコ・シティの場末にある米陸軍施設に臨み、ひっそりと苦虫を噛み潰したような仏頂面をして、旧安保条約に調印した。

 このとき日本国憲法が施行されてから既に4年余り経過していた。その第4条第1項には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能は有しない」と定められ、第7条には「内閣の助言と承認」により執り行う8項目の「国事に関する行為」が定められている。しかるに、昭和天皇は、濃厚に国政に関与していたのである。

 昭和天皇の国政への関与は、その後も続く。それは1955年8月のことである。

 1954年12月、造船疑獄事件によって自由党・吉田内閣が総辞職すると、第二党である日本民主党の鳩山一郎が首班となり第一次鳩山内閣が成立、続いて1955年2月、解散・総選挙で日本民主党が大勝、第一党に躍進、第二次鳩山内閣が成立した。第二次鳩山内閣は、改憲・軍備増強・米軍撤退・国連加盟と安保条約の対等化を基本政策として掲げた。

 1955年8月末、重光葵外相が訪米、ダレス国務長官と会談。重光外相は、旧安保条約の対等・平等化のため、改定を強く求めた。しかし、ダレスは、頭から相手にせず、「充分な自衛力が出来た時に考慮すればよい」と冷たくあしらった。このときのやりとりを摘記すると以下の如くである。

 ダレス「もしグァムが攻撃されたら、日本はグァムつまり米国防衛のために派兵するのか」
 重 光「現憲法下でも派兵できる。日本の軍隊は自衛のためではあるが、米国との協議でもって派兵できる」
 ダレス「それは全く新しい話である。日本が協議に依って海外派兵出来るという事はしらなかった」

 重光外相は執拗に食い下がったが結局何の言質も得られなかった。

 この訪米に先立ち重光外相は、同年8月20日、那須の御用邸に滞在していた昭和天皇に訪米の「内奏」(実に明治憲法下の天皇主権の時代と同じである。当時もその後も内奏を続いていた。)に及んだ。重光外相の手記を見てみよう。

8月20日 土曜 晴れ 暑気強し
 午前9時、上野発、那須に向ふ。
 駅より宮内省(ママ)自動車に迎へられ、御用邸に行く。控室にて入浴、更衣。昼食を賜はり、1時参入、拝謁す。渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり、又、自分の知人に何れも懇篤な伝言を命ぜらる。

 言葉使いといい、天皇に「拝謁」する前に入浴して、着替えまでしていることといい、まるで戦前の絶対君主である天皇に対面しているのではないかという錯覚を覚えるが、それはさておき、昭和天皇の話の内容は、要するに、鳩山内閣は、駐留米軍の撤退要求を掲げているので、それを牽制し、やめさせようとしているのである。昭和天皇の前に這いつくばる忠臣重光葵は、結局、ダレス国務長官との会談では、自らの口から駐留米軍撤退問題を持ち出すことは差し控えてしまったのである。

 それでも不安はぬぐえず、昭和天皇は、1956年2月17日、ワシントンに赴任する前に面会に訪れた谷正之駐米大使に、「アメリカの軍事的・経済的援助が戦後日本の生存に重要な役割を果たしてきたことについて深く感謝し、この援助が継続されることを希望する」、「日米関係が緊密であることを望み、それが両国にとって持つ意義を十分認識している」とのメッセージを、ダレス国務長官ほか米国の政府要人に伝えることを命じたのであった。谷駐米大使が、これに従ったことは言うまでもない。

 昭和天皇は、旧安保条約の成立、その維持に外交力を発揮し、重大な影響を与えたのである。これらは、たとえ象徴天皇制であっても、時と場合によっては、天皇が主権者の如く君臨することが起こり得ることを示す事例といえるだろう。

 日本人の心の奥底に天皇崇拝の残滓がへばりついていることを決して軽視してはならない。(了)

「朝日新聞」の吉田調書「誤報」問題を考える(後篇)

 前篇で述べた吉田氏の指示「変更」問題について検討するには、3月14日から15日未明の1F撤退をめぐる東電本社と官邸との間のすったもんだがあったことを背景事情として考えなければならない。時系列を追ってみていこう。

 3月12日15時36分、1号機建屋爆発、3月14日11時01分3号機建屋爆発にと次々と発生する緊急事態に引き続き、同日午後、2号機の炉圧、ドライウェルの圧力が急激に上昇、現場ではベントの実行と注水に悪戦苦闘、夕刻頃より悲観的な空気が支配的となる。
同日19時28分、テレビ会議で、東電本店の武藤栄副社長が「(2号機について)2時間でメルト(メルトダウン)、(さらに)2時間でRPW(圧力容器)損傷の可能性あり。いいですね?」と尋ね、吉田所長が「はい」と返事。

 その直後の19時30分前後に2号機の状態に関連して本店とF1間で退避基準について議論され、同45分頃、武藤原子力・立地本部長が「退避の手順」を検討するように部下に指示している(東電事故調査委員会報告書)。その後も、テレビ会議で、避難に関する話が度々かわされる。バスや運転手の手配状況、避難先の話題、F1現在人員の確認など。また避難と言ったり、退避と言ったり、撤退と言ったり、用語も一定していない。2Fに1Fの事故対応の司令塔である緊急対策室を設ける計画と受けとめられるような発言もある。

 3月15日0時頃、官邸では、枝野官房長官が東電清水社長からの撤退申し出の電話を受け、「そんな簡単に『はい』といえる話じゃありません」と答える。そのあと総理応接室で、枝野官房長官、海江田経産相、福山官房副長官、細野、寺田両首相補佐官ら鳩首会談、細野首相秘書官が吉田所長に携帯電話で、「まだやれますね」と念押し。3時前、福山官房副長官の発意で菅首相の判断を仰ぐことになり、全員で総理執務室に入り、仮眠中の菅総理を起し、東電側の1F撤退申し出の話をした。菅総理「撤退したらどうなるか分かってんのか。そんなのあり得ないだろう」と述べる。
続いて3時20分に、総理執務室で菅首相と上記メンバー外数名で会議。撤退すべきではないということで一致、清水社長を官邸に呼ぶことになる。4時17分、清水社長、官邸に到着。上記メンバーら同席のもとで菅首相が清水社長に「撤退などあり得ませんから」と告げ、清水社長「はい、わかりました」と答える。

 5時35分、菅首相、海江田経産相らとともに東電本店に到着。5時40分、菅首相、東電本店対策本部で「撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる」と激を飛ばす。

 上記のすったもんだのあと6時12分、4号機建屋爆発、その前後ころ2号機においても爆発音。6時24分、東電内部記録メモに「1号機『メルトの可能性』(所長)」記載。

 このような経過を背景事情として、吉田所長の突然の指示「変更」を置いてみるとどうなるであろうか。

 「朝日新聞」の担当記者と担当デスクは、「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」との「変更」後の指示を真実の指示とする立場から、前篇③、④で摘示された吉田調書の記載は、2Fへ退避してしまった所員らの行動が、菅首相をはじめ官邸側が弾劾・拒絶していた撤退を、しかも所長の指示に反してやってしまったと受けとめられ、その責任が問われることになるのを防ぐべく、部下をかばう心遣いからなされた弁明であり、信用できないと考え、当該記事を書いたと考えられる。
 これは一つの合理的解釈として許容できるのではなかろうか。

 しかし、私は、これを非難するつもりはないが、この解釈は誤りであったと考える。ではどう解釈するべきか。

 同日3時過ぎ頃には、東電本店から1Fに「2Fへの退避手順書」が送付されていること(門田隆将『「吉田調書」を読み解く 朝日誤報と現場の真実』PHP研究所。なお、東電事故調査委員会報告書は、この退避手順書の作成履歴により、、最終更新は3時13分であったとしている。)、6時32分に、1F対策本部が保安院などに「6時0分~6時10分ごろに大きな衝撃音がしました。準備ができ次第、念のため、対策本部を福島第二原発に移すこととし、避難いたします」と通報していること、7時00分に、東電側は、監視、作業に必要な要因を除き、2Fに一時避難することを関係官庁に連絡していることなどが、客観的事実として認められる。
 そうすると吉田所長の指示は、自己を含む必要要員を除く9割方の所員らは2Fへの退避することというもので一貫していたものと認めるのが相当ではなかろうか。

 そうなると前篇③、④に摘示された調書の記載内容はどう考えたらよいのだろうか。

 一つのヒントとして、海水注入問題についての吉田氏の言動を考えてみたらいいのではないかと思う。本店側が官邸の意向だと言って海水注入にストップをかけてきたとき、吉田氏は、テレビ会議のマイクに乗らないように部下に表向きの指示に従わないで海水注入を続けるように内々の指示をしつつ、マイクに乗る声で、本店側の指示を承諾していた。

 吉田氏はご自身が正しいと思ったことは、自己が責任をひっかぶるようにしてでも、それを貫く人なのである。東電の既定の方針は2Fへの退避である。しかし、額面どおりそのような指示をすれば官邸や世論の袋叩きになるおそれがある。。そこで表向きは1F構内の安全な場所への退避を指示したことにし、混乱の中で、これまでの流れに沿って所員らはF2退避した。後にこの行動が正しく合理的であったと評価することにより命令違反のそしりを防ぐ。見事ではないか。

 今のような軽佻浮薄な世の中でも、現場を預かる者には、こういうつわものはいるものだ。  (了)

「朝日新聞」の吉田調書「誤報」問題を考える(前篇)

  「朝日新聞」は、11月13日付朝刊で、1F元所長故吉田昌郎氏にかかる政府事故調作成の聞き取り調書(以下「吉田調書」)の誤報問題について、朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」がまとめた見解全文(以下「本見解」)を公表した。本見解の内容及び結論は、朝日新聞社にとって極めて厳しいものである。とりわけそれは担当記者や担当デスクにとっては耐え難い屈辱であるとともに、具体的不利益と打撃を与え、ひいては「朝日新聞」の取材現場、編集部門を萎縮させる結果をもたらすことにつながる恐れが大きい。私は、「朝日新聞」が官製報道や一部報道機関のデマゴーグ報道に転落することがないよう祈るばかりだ。

 ところで、私は、以下述べるように、本見解には、十分な説得力がないように思う。朝日新聞社が、この見解をタテにとり、担当記者や担当デスクに対する処分を強行しないように求めるとともに、私が指摘した疑問点を、「朝日新聞」が総力をあげて解明することを強く願うものである。

 本見解のエッセンスは、当該記事の根幹をなす1Fの所員の9割が所長命令に違反して2Fに撤退したとの認定部分を、所長命令に違反したと評価できる事実は存在しないし、撤退したと評価するべき行動もなくかったと、全面的に否定したことにある。

 この根拠となった部分は次のように要約できる。

 ①3月12日の1号機建屋爆発、14日の3号機爆発、それに引き続く14日夜からの2号機格納器の圧力以上上昇。吉田氏はチャイナシンドロームのような状況も想定、同日夜には最低限必要な人員を残し、2Fに退避することを考え、準備を指示した。

 ②15日AM6時12分頃、後に4号機建屋爆発と判明する衝撃音と振動、同時に2号機圧力低下の報が入り、吉田氏は2号機格納器の破損を疑い、かつ「メルト(炉心溶融)の可能性」と発言。6時27分には退避準備に入り、6時32分には本社清水社長から「最低限の人間を除き、同33分には吉田氏が「必要な人間は班長が指名する」と発言。

 ③同6時42分、吉田氏は、これまでと異なる指示をテレビ会議でした(この指示内容は記述されていないが、前後の記述及び東電内部記録メモから「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」ということであったと認められる。)。しかし既に退避行動は始まっており、騒然とした状況にあったし、吉田氏はこれまでの命令を撤回し、新たな指示に従うようにとの言動をした形跡は認められない。吉田氏も、調書で「本当は私、2Fに行けといってないんですよ」とのべつつも「ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。」と話しをしており、吉田氏の上記指示が所員の多くにうまく伝わっていなかったことが認められる。

 ④吉田氏は、調書で、「2号機が一番危ないわけですね。放射能というか、放射線量。免震重要棟はその近くですから、ここかから外れて、南側でも北側でも、線量が落ち着いているところで一回退避してくれというつもりで言ったんですが、確かに考えてみれば、みんな全面マスクをしているわけです。それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」と述べ、③の指示は適切ではなかったことを認めている。そもそも多くの所員は免震重要棟に退避していたのであり、1F内には免震重要棟より安全な場所はなく、合理性の乏しい指示であった。それまでの経緯と状況を考えると所員らは、2Fへの退避の指示だと理解するのが自然である。

 ⑤さらに「退避」は退いて危険を避けるという意味で戻る可能性もあるが、そこを撤去して退くという意味に受け止められる。約650人が2Fに移ったといっても、吉田氏ら69名が1Fに残っており、本部機能はまだ1Fにあったし、実際に2Fに移った相当数の所員らが同日正午以降に1Fに戻っている。多くの所員らが2Fへ移ったのは退避と認められる。

 本見解は、上記③、④に引用した吉田調書の部分をそのままなぞっているのであるが、私はこの部分に強い違和感をもつのである。即ち、ずっと2F退避ということで進んでいるのに、多くの所員が詰めており、1F内の最も安全な場所である免震重要棟内を出て、「1F構内の線量の低いエリアで退避すること」なる指示を、突如として吉田所長が出したのは何故か、あるいは本当に吉田所長はそんな指示を出したのかという点がどうしてもひっかかるのである。

 ここにはどうも背景事情がありそうである。本見解は、その背景事情にまでは立ち入らず、形式的に判断をしてしまった。しかし、当該記事を書いた担当記者ら及び担当デスクは、背景事情にまで考えをめぐらし、吉田調書の上記③、④で引用された部分を合理的に解釈をした上で、9割の所員が所長の指示に反して2Fへ撤退したと一つの考えうるストーリーを描いたのではないだろうか。

 当該記事は、吉田調書の合理的解釈の範囲内ではあるが、結果的には誤りである。しかし、私は、「誤報」ないしは「虚報」として非難されるようなものではないと考えるのである。

 その理由は後篇で述べることとする。    (前篇 了)

わが国が輝くにはどうするべきか

 APEC閉幕後、オバマ米大統領と習近平中国国家主席は、10時間に及ぶ長い会談を終え、これまで温室効果ガス削減を目指す国際的取り組みに大きく立ちはだかっていた二大排出国たる米中が、温室効果ガス削減目標で合意し、今後、国際的取り組みにおいて大きな役割を果たすことを確認したことなどを盛り込んだ共同声明を発表した。

 今回の中国側の異例の歓待ぶり、米国側のこれへの応接ぶり、異例の長時間にわたる実のある会談などは、米・中新時代の到来をうかがわせるに足るものであった。勿論、両国間には、米国は、国内の人権問題や東シナ海や南シナ海での行動をめぐって中国に対して強い警戒と批判を持ち、かつ公然と表明する、中国は主権の問題・内政問題としてこれに強く反論するという対立は現に存在し、蜜月関係とはいかないであろうが、その大異を残しつつ、新たな段階の戦略的パートナーシップを示したといえる。習主席は、これを「新型大国関係」と表現し、オバマ大統領は「両国関係の新たなモデル」と表現しているとのことであるが、これまでの米中関係を一歩も二歩も進展させたものである。

 両国は、この強力な関係を通じて、アジア・太平洋地域のみならず、世界全体に対して、基本的方向性を与えることになるだろう。

 そこへいくと米中についで世界第三位の経済大国たるわが国は、APEC外交において間違いなく脇役であったし、影の薄い存在であった。辛うじて実現した安倍首相と習主席の会談は、安倍首相自らの発意で、日中間の懸案事項を整理し、課題を設定し、それを解決するために主体的に取り組んだものではなく、おそらくは米国筋からネジを巻かれて、重い腰を上げたのであろう。それでも何もなかったよりはあった方がよかっとことは確かである。たとえ会談時間が僅か25分であっても、会談後の握手がぎこちなく苦虫をかみつぶしたような表情であったとしても。

 11月11日付「朝日新聞」朝刊は、安倍・習会談の内容を要領よく整理している。それは以下のとおりである。

①海上連絡メカニズムについて事務協議を実施することで一致
②戦略的互恵関係に基づく日中関係の発展を確認
③習主席は「歴史認識は13億人の国民の感情の問題」
④安倍首相「安倍内閣も歴代内閣の歴史認識の立場を引き継いでいる」

 ①は偶発的な海上における艦艇の衝突を防ぐためのシステム構築のため、双方軍事・防衛当局者の協議を進めることを確認したということである。この確認に基づいて、今、両国間で最も懸念されるリスク要因を除去するための具体的措置を早急に練り上げるべきだ。

 ②は第一安倍政権における日中関係の基本に立ち返ることを確認したものである。中身はない単なるスローガンのようでもあるが、外交関係では、こういうものが大きな力を発揮することも往々にしてあるものだ。

 ③は日本の侵略による被害国たる中国の国民にとっては当然のことであり、これに対して④は村山内閣の立場を承継すると述べたのであるが、いかにも形式的である。同じ言葉になったとしても安倍首相自ら、中身をきちんと述べるべきであろう。

 次は朴槿恵韓国大統領との会談を早急に持つべきである。

 安倍首相は、APECのあとASEAN首脳との会談を行い、またまたこれら諸国と中国との緊張関係を利用して、自らの信念である「積極的平和主義」なる軍事力に基づく抑止力論を売り込んでいるようである。しかし、ASEAN諸国は、東南アジア友好協力条約(TAC)、東南アジア非核地帯条約(SEANWZFG)、ASRAN地域フォーラム(ARF)、南シナ海行動宣言(DOC)、東アジアサミット(EAS)、ASEAN共同体など、軍事力による抑止論を卒業した平和の体制をつくりつつある。そこに安倍首相が、喧嘩太郎のごとく闖入しては迷惑であろうし、わが国の地位を貶めることになるだけだ。

 わが国は、このASEAN諸国の長い時間をかけた地道な取り組みに学び、これを最も紛争の火種の大きい東アジアにおいて応用した平和外交を展開し、この地域に軍事力によらない集団的な安全保障の体制を構築する努力をするべきである。それは憲法9条を生かす道であり、それによってはじめて世界第三位の経済大国としての真価を発揮することができると私は確信する。  (了)

徴兵制を心配するのは単なる杞憂か

 手元にある憲法の教科書には、徴兵制は、憲法9条に反するのは勿論のこと憲法18条にも反し、認められないと書いてある。たとえば浦部法穂『全訂 憲法学教室』(日本評論社)の273頁には以下のように説明されている。

 「徴兵制が憲法18条に違反するかどうかで、かつておかしな議論が自民党筋からなされたことがある。徴兵制は、憲法9条違反であるのはもちろんだが、それが各人の意思に反して強制しうることを認める制度である以上、18条に違反することは当然である。」

 しかし「自民党憲法改正草案」のように憲法9条を変えて国防軍創設規定を置けばもちろんのこと、集団的自衛権行使を容認する7.1閣議決定の実体化が進み、憲法9条が死文化するようなことになってくると、徴兵制を認めない最後のよりどころは憲法18条だけになる。そこでこの重責を担う憲法18条を確認しておこう。

憲法18条

 「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、其の意に反する苦役に服せられない。」

 確かに、これならたとえ憲法9条が変えられたり、死文化したりしても、徴兵制は許されないように思われる。実際、政府や防衛庁長官も、以下のとおり、そのような見解を示しているではないか。

「1980年8月15日稲葉誠一衆議院議員提出徴兵制問題に関する質問に対する答弁書」

 一般に、徴兵制度とは、国民をして兵役に服する義務を強制的に負わせる国民皆兵制度であって、軍隊を常設し、これに要する兵員を毎年徴集し、一定期間訓練して、新陳交代させ、戦時編制の要員として備えるものをいうと理解している。
このような徴兵制度は、我が憲法の秩序の下では、社会の構成員が社会生活を営むについて、公共の福祉に照らし当然に負担すべきものとして社会に認められるようなものでないのに、兵役といわれる役務の提供を義務として課されるという点にその本質があり、平時であると有事であるとを問わず、憲法第13条、第18条などの規定の趣旨からみて、許容されるものではないと考える。

「2002年10月10日参議院外交防衛委員会における石破茂防衛庁長官答弁」

 一般に徴兵制度とは何かということを言えば、国民をして兵役に服する義務を強制的に負わせる国民皆兵制度である、軍隊を常設し、これに要する兵員を毎年徴集し、一定期間訓練し、新陳交代させ、戦時編制の要員として備えるものをいう。これは、徴兵制の定義としてこのように定義付けるのは私は正しいだろうというふうに考えております。このような徴兵制度は、現行憲法の秩序の下では、社会の構成員が社会生活を営むについて、公共の福祉に照らし当然に負担すべきものとして社会的に認められるようなものではないのに、兵役と言われる役務の提供を義務として課されるという点にその本質があると。したがって、このような徴兵制度については、平時であると有事であるとを問わず、憲法13条、18条などの規定の趣旨から見て許容されるものではないというのが政府の見解であります。

 しかし、私の天邪鬼根性は、政府や防衛庁長官が、憲法13条まで援用して徴兵制は認められないなどと熱弁を振るっていると、どうも素直に信じることを許さないのである。憲法13条は、人権総則といわれる規定で、14条以下に規定されている人権のカタログにあてはまらない新しい人権をこれに基づいて認める根拠規定となる。そのかわり、解釈の幅は広く、徴兵制がこれにより禁止されるという解釈は、確固不動のものではなく、時代と状況の変化により揺らぐ可能性が大きいのである。なにせこの国の政府は、憲法9条を解釈で死文化させようとする離れ業をやってのけるのだから。

 では、憲法18条はどうか。これもそんなに安心できるものではない。

 まず国際人権規約規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)でわが憲法18条に相当する第8条を見てみよう。

国際人権規約規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)

1 何人も、奴隷の状態に置かれない。あらゆる形態の奴隷制度及び奴隷取引は、禁止する。
2 何人も、隷属状態に置かれない。
3(a) 何人も、強制労働に服することを要求されない。
(b) (a)の規定は、犯罪に対する刑罰として強制労働を伴う拘禁刑を科することができる国において、権限のある裁判所による刑罰の言渡しにより強制労働をさせることを禁止するものと解してはならない。
(c) この3の規定の適用上、「強制労働」には、次のものを含まない。
(ⅰ) 作業又は役務であつて、(b)の規定において言及されておらず、かつ、裁判所の合法的な命令によつて抑留されている者又はその抑留を条件付きで免除されている者に通常要求されるもの
(ⅱ) 軍事的性質の役務及び、良心的兵役拒否が認められている国においては、良心的兵役拒否者が法律によつて要求される国民的役務
(ⅲ) 社会の存立又は福祉を脅かす緊急事態又は災害の場合に要求される役務
(ⅳ) 市民としての通常の義務とされる作業又は役務

 これによると徴兵制そのものは容認されていることがわかるだろう。

 ついでわが憲法18条のもとになったアメリカ合衆国憲法修正13条をみてみよう。

アメリカ合衆国憲法修正13条(1865年)

 奴隷またはその意に反する苦役は、当事者が適法に有罪判決を受けた犯罪に対する処罰の場合を除いては、合衆国またはその権限の及ぶいかなる場所においても存在してはならない。

 米国では、ベトナム戦争終結後の1973年までは徴兵制が実施されていた。その後は停止され、志願兵制になったが、1975年までは選抜徴兵登録制度に基づく名簿の作成事務は続けられた。それは一旦停止されたものの1980年に選抜徴兵法が制定され、選抜徴兵登録制度が復活している(つまり現在は志願兵制となっているが、徴兵制の基盤は存在している。)。

 その米国では、1916年2月に合衆国連邦最高裁判所で、徴兵制は憲法修正13条に違反せず、合憲との判決がなされ、確定している。

 どうもわが国でなされている、徴兵制は憲法18条に違反するとの解釈は、安泰ではないようだ。

 だから私は、声を大にして叫びたい。憲法9条こそ命の綱だと。 (了)

「日本が、アメリカ軍に駐留して欲しいと頼み込んだ」

 当ブログの10月23日欄に、安保条約に基づく「日米地位協定」のことを少し書いたので、以下はその続きとしてお読み頂きたい。

 「日米地位協定」は安保条約に基づきわが国に駐留する米軍の活動の自由と特権及び基地と訓練区域の完全自由使用権、並びに米軍構成員、軍属及びそれらの家族の特権を保障するもので、安保条約の不平等性を一層際立たせ、具体化する内容となっている。
 「日米地位協定」は旧安保条約下における「日米行政協定」と比べると、国会で承認を得た点が違うだけのことで、その他はほとんど何もかわっていない。鰹節と「のし」をつけた鰹節の違いだ。つまり「日米地位協定」の不平等条項は、「日米行政協定」由来のものといってよい。

 旧安保条約の前文には、「・・・日本国はその防衛のための暫定措置として、日本国に対する攻撃を阻止するため日本国内及びその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」という一文が入っている。

 この一文こそ旧安保条約と行政協定に始まり、現在の安保条約と地位協定に至る不平等性を見事に示しているのである。ひらたく言うと日本が駐留して欲しいと頼み込んだのだから、米軍及び米軍構成員・軍属・その家族の特権が保障されて当然だというのである。

 条約の文言上のことはともかく、日本が、アメリカ軍に駐留して欲しいと頼み込んだという事実は、歴史的事実として、本当にあったことなのだろうか。残念ながら本当にあったことなのだ。

 1947年5月6日、昭和天皇とマッカーサーとの第4回目の会見において、昭和天皇は次のように発言をしたのである。

 「国連が極東委員会の如きものあることは困ると思います」(極東委員会は連合国の対日占領政策を調整・決定する機関であるが、ソ連も加わっていたので機能不全の状態であった。昭和天皇は国連も同様になることを懸念したのだろう。)
「日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である米国が其のイニシアティブを執ることを要するのでありまして、此のため元帥のご支援を期待しております」

 この発言がどのような回路を経てそうなったのかは、解明されていないが、戦後日本人閣僚としては最初に米国を訪問した池田勇人蔵相が、1950年4月25日、米国の地を踏んだとき、吉田茂首相から託された一通の書簡を所持していた。

 「日本政府はできるだけ早い機会に講和条約を結ぶことを希望する。そしてこのような講和条約ができても、おそらくはそれ以後の日本及びアジア地域の安全を保障するために、アメリカの軍隊を日本に駐留させる必要があるであろうが、もしアメリカ側からそのような希望を申し出にくいならば、日本政府としては、日本側からそれをオファするような持ち出し方をしてもよい」

 この書簡は会談相手のジョセフ・ドッジに手渡された。勿論、米国国務省にも回覧されたであろう。

 しかし、その後、吉田首相の方針はゆらぐ。国連の決議に基づいた国連軍の派遣もしくは米軍駐留という国連の枠をかませる方式案や日本・朝鮮の非武装などを基礎とした北太平洋安全保障条約案(これは非武装中立構想である)などを外務省条約局に検討させるのである。

 1951年1月、講和条約とその後の日米関係取り決めの交渉のために来日したジョン・F・ダレスとの会談が始まると、吉田首相は、上記の案は持ち出さず、「国の安全は、その国民自らによって守られねばならないものである。敗戦後の日本は、不幸にして、自己のみに依存することはできない状態にある」、「日本は、対外的には国際連合あるいは米国との協力(駐兵のごとき)によって国の安全を確保したい」との見解を示すに至ったのであった。

 これは、外交交渉用語の「エレガントな修飾」をひっぱがせば、日本が、アメリカ軍に駐留して欲しいと頼み込んだことを意味している。当時の西村熊雄外務省条約局長は、米国が日本の基地を必要としていることも事実であるから、「五分の論理」だと述べたが、この正論は消し飛んでしまった。

 一体、吉田首相のこのような卑屈な態度はどこから来たのであろうか。当時、昭和天皇が、ダレスへの直接の働きかけをしていたことが指摘されている。昭和天皇は、自ら、米軍駐留を望んでいたことも上記のとおりである。吉田首相は、昭和天皇を崇拝し、自らを「臣・茂」と呼称したほどである。

 昭和天皇の影がちらついている。沖縄には、その影がひときわ強く、長く尾を引いているようだ。  (了)

※参照 豊下楢彦『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交―』(岩波新書)
     古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波現代文庫) 

ツワネ原則にはこういうことまで書かれている

1 国家安全保障と情報への権利に関する国際原則(「ツワネ原則」)は、安倍首相に、「民間の団体の作成したもの」の一言で切り捨てられてしまった。だが、彼は、ツワネ原則を全く読んでもおらず、その普遍妥当性を理解する資質に欠けていた。無知ほど、人を大胆にするものはない。

 ツワネ原則は、70カ国以上の500人を超える専門家との協議を経て、世界各国の22の組織ないしは学術センターによって起草され、オープン・ソサエティ・ジャスティス・イニシアティブ(アメリカのオープン・ソサエティ財団の一部門)の主宰のもとに、世界各地で行われた14回にわたる会議の議論、「言論と表現の自由に関する国連特別報告者」、「テロ対策と人権に関する国連特別報告者」、「表現の自由と情報へのアクセスに関する人及び人民に関するアフリカ委員会特別報告者」、「表現の自由に関する米州機構特別報告者」及び「メディアの自由に関する欧州安全保障協力機構(OSCE)代表」の意見に基づき、確定されたものである。

 ツワネ原則は、世界人権宣言、国際人権規約(自由権規約)、その他国連もしくは地域的国家連合、国際人権団体その他の国際団体どの人権に関わる取り決め、宣言、決議、採択された原則や提言に基づいて、しばしば対立する国家安全保障と国民の知る権利の調整及び情報の公開と非公開との適切な基準を設けるなどして、国家機関や市民団体などこれらの実務の携わる人びとに適切な指針を提供しようとするものである。

 ツワネ原則については、海渡雄一弁護士が、雑誌「世界」誌上で、詳細な紹介をされているので是非お読み頂きたい(2014年1月号「ツワネ原則は何を要請しているか」、同年2月号「もう隷従しないと決意せよ」)。

2 私は、ツワネ原則21に「遺失した情報を回復又は再構築する義務」として以下の2項目が定められていることに注目した。

(a)公的機関が、請求者に回答する情報の所在を示すことができず、かつその情報を含む記録が保管され、収集され、あるいは作られている筈である場合、当該公的機関は、請求者に対する開示を可能とするために、遺失した情報を回復又は再構築するための合理的な努力をしなければならない。

(b)公的機関の代表者は、その手順が司法の審理の対象となり得るような方法で、情報を回復又は再構築するために行われている手続のすべてを、誓約の上で、合理的かつ法で定められた時間内に示すことが義務付けられるべきである。

 要するに行政機関の長は、廃棄してしまった公文書でも、適正になされるためのルールに基づき回復又は再構築をしてでも、開示請求に対応しなければならないというのである。こういうことになれば、開示請求者が、ある公文書が過去の時点で存在したことを証明した場合、もしくは行政機関の長が、過去作成されたことを認めたものの廃棄して存在しないと弁明した場合、現時点では当該文書は存在しないので開示できないとの主張は認められないことになる。
 
3 そこで、西山太吉氏らが、1972年の沖縄返還で日米両政府が交わした「密約」文書の開示を求めた情報公開訴訟で、本年7月14日、最高裁第二小法廷(千葉勝美裁判長)が下した判決を見てみよう。

 判決は、「開示請求の対象とされた行政文書を行政機関が保有していないことを理由とする不開示決定の取消訴訟においては、その取消を求める者が、当該不開示決定時に当該行政機関が当該行政文書を保有していたことについて主張立証責任を負うものと解するのが相当である」との理由で、国の不開示決定を適法と判断した。
 しかし、当該文書は、1972年の沖縄返還当時には確かに作成され、外務省その他の政府機関が保管をしていたことまでは証明されている。そうすると上記のツワネ原則に従えば、外務省その他の政府機関は、当該文書が現在本当に存在しないならば「回復又は再構築」しなければならないことになるのだから、開示請求者側で、当該文書が現在も存在することを立証する必要などさらさらなく、裁判所は安心して開示請求を認容する判決をすればよいということなる。

 これは国民の常識にかなうであろうし、逆に上記最高裁判決は非常識といわざるを得ない。ツワネ原則には、こういうことまで書かれている。おおいに参考にしなければならない。  (了)

政府・与党は「特定秘密保護法」を詐取したのではないか


 2000円の飲食をして5000円札を渡したところ、店の主人が、勘違いして8000円のおつりを差し出した。これ幸いとばかりに黙ってこれを受け取って店を出た。これは俗につり銭詐欺と称する事例で、詐欺罪が成立すると解するのが多数説である。客は、店の主人が1万円札を受け取ったと勘違いし、錯誤に陥っているが分かったのに、黙っていた。本当は、客は、そのことを告げ、店主の勘違いを正さなければならない。それをしなかったのは、不作為による偽罔行為であったと認められ、詐欺罪が成立するのである。
 もっとも客には店主の勘違いを正す義務はないとすると不作為による偽罔行為があったとは認められず、詐欺ではなく、占有離脱物横領に問われるに過ぎないと説く少数説もある。しかし、これは少し社会常識に反するように思われる。

 こんなくだらないことを書いたのは、政府・与党による特定秘密保護法(以下「本法」という。)の制定強行は、このつり銭詐欺に似た構造を持っているからだ。

 政府は、本法の法案策定過程を秘匿したまま、これを国会に提出し、情を通じた与党と一体になって、ろくろく審議時間もとらず、一瀉千里に本法を成立させてしまった。ところがその後、以下の事実が判明した。

 一つは、本年8月17日付「毎日新聞」が報じた本法案作成過程に関わる一連の公文書により判明した事実である。

 毎日新聞社は、情報公開法に基づき法案作成過程にかかわる行政文書の開示請求をして、大量の文書を入手した。それらの文書の中に、2011年10月にできあがった本法案素案に基づき内閣情報調査室が関係各省庁から意見聴取をした際のメモがある。内閣情報調査室は、内閣法制局からも4回にわたって意見聴取しており、「内閣法制局との検討メモ」なる文書が残っている。それらによると内閣法制局は、「立法事実が弱いように思われる。防衛秘密制度をもうけた後の漏えい事件が少なく、あっても起訴猶予のため、重罰化の論拠になりにくい」、(「ネットという新たな漏えい形態に対応する必要がある」と内閣情報調査室が食い下がったが)「ネット(経由の漏えいの危険)と重罰化のリンク(つながり)が弱いのではないか」と述べたのをはじめ、否定的意見、疑問などを多々提起していたのである。

 もう一つは、本年2月11日付及び同月25日付「赤旗」が報じた事実である。

 本法の基礎となったのは秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議が作成した報告書(2011年8月8日付「秘密保全のための法制の在り方について(報告書)」)である。その中には、罰則に関する基本的な考え方として「罰則を設けることにより、特別秘密を取り扱う者に緊張感を与え、その保全意識をより高める効果が期待できるものと考えられる」との記述及び秘密取扱業務に従事する者及び業務により秘密を知得した者の過失漏えい罪を処罰するべき旨の記述がある。これらの点について、同報告書案に対し意見を求められた法務省が異議を述べていたのである。これは同紙には、法務省が内閣情報調査室に提出した2011年6月20日付「秘密保全法制に係る有識者会議報告案について」外1点の文書のコピーが掲載されおり(残念ながら外1点の日付部分が欠落しているが、本文には2011年5月とある。)、それに明記されている。

 このように政府の法律顧問ともいうべき内閣法制局、及び法令の適用の現場を指揮する専門の行政機関である法務省から、異例ともいうべき否定的意見乃至疑問が、本法案作成過程において提起されていたことは、本法の成否を左右するまことに重要な事実である。

 政府・与党は、これらの重要な事実を国民に秘匿し、野党の追及を予防して、本法を掠め取ったといわれてもしようがないであろう。

 これは、おつりをちょろまかしたという、出来心のたぐいの「かわいらしい」話と比べて、レベルのちがう話ではなかろうか。私は、政府・与党のやったことは非道・悪質さにおいて、決して目をつむるわけにはいかないと思う。

 政府・与党は不作為による偽罔行為に基づき「特定秘密保護法」を詐取したのではないか。 (了)

外務省では偏りのあるミスター「安全保障」が「出世」する

 兼原信克氏は、第二次安倍政権発足とともに、外務省国際法局長から内閣官房副長官補に異例の抜擢をされ、本年1月以後は新たに内閣官房に設置された国家安全保障局の次長も兼任している。兼原氏の先輩を押しのけての「出世」ぶりは、外務省内にも波紋を呼んだほどである。

 さてその兼原氏、2011年4月に『戦略外交原論』という本(日本経済新聞出版社)を著わしている。これは、2009年秋、早稲田大学法学部からの依頼で、栗山尚一元駐米大使・外務事務次官が担当していた「外交政策の形成過程」という講座を引き継ぐこととなり、非常勤講師を務めた際の講義記録をまとめたものだそうである。

 500頁に及ぶ大著であるから、全部を紹介することはできないが、兼原氏の立場、安全保障に関するスタンスが、明瞭に読み取れるところを要約して紹介してみよう。

「積極的平和主義への道(1)―湾岸戦争の衝撃とPKOへの参画」

 湾岸戦争では1兆円を超える資金援助をした。莫大財政的貢献をしたにもかかわらず、国際社会から受けた冷笑と侮辱は屈辱的でさえあった。その後、日本はPKOへの参加をして、自衛隊は高い評価を得た。積極的平和主義への胎動であった。そのPKOへの参加は、厳しい武器使用制限を伴うものである。これを改め正当かつ十分な武器使用権を認めるべきである。それは政治の責任である。

「積極的平和主義への道(2)―第一次北朝鮮核危機とガイドライン法」

 90年代半ば、北朝鮮がNPT体制から離脱して核兵器開発に乗り出そうとしたとき、米国クリントン政権は戦争も辞さずとの態度をとり、第二次朝鮮戦争勃発の危機的状況に立ち至った。このとき自衛隊が、朝鮮半島有事に際し、何らの対応もできない状態であることが明らかになった。このことから97年新ガイドライン策定、99年周辺事態法制定と発展し、これによりわが国は、自国周辺の平和と安全に責任を果たせるようになった。

「積極的平和主義への道(3)―9.11同時多発テロと海上自衛隊のインド洋派遣、陸上自衛隊のイラク派遣」

 9.11同時多発テロに対する米国の対応(アフガニスタン戦争とイラク戦争)を無条件で肯定した上で、「小泉総理は、ワシントンやニューヨークで無差別テロにより数千人が虐殺されたことに際して、傷ついた米国の支援のために、勇断をもって新規に立法までして海上自衛隊を派遣した。これがブッシュ・小泉の黄金時代を築くことになる。日米同盟が一瞬、対等な同盟に見えた時代であった」、「陸上自衛隊は、サダム・フセイン政権が崩壊し戦争が終結した後、新生イラクの復興支援のために派遣された。戦後初めて、陸上自衛隊が第三国の土を踏んだのである」などと小泉政権の、米国追随、自衛隊の海外派遣を手放しで賛美している。

「積極的平和主義への道(4)―アデン湾での海賊対策」

 2009年にアデン湾での海賊対策に海上自衛隊が投入された。アデン湾は東アジアと応酬を結ぶシーレーン上にあり、マラッカ海峡と同様に戦略的に重要な場所である。海上自衛隊の艦船が日本の商船隊を守り始めた。

 自衛隊にわが国企業の海外躍進をサポートする役割担わせるという新帝国主義の立場を鮮明にしている。

 さらに日米同盟を対等に近づけるためには、①「防衛費を削り続けて『対等』は難しい」、②「『集団的自衛権行使禁止』は憲法のどきにも書かれていないから、集団的自衛権を認めるのが論理的である」、③「武器輸出は国際標準に従うべきで、佐藤政権時代のように限定的な禁止に戻すべきだ」などと述べ立てている。
第二次安倍政権は、これに追随しているだけのようだ。

 兼原氏のように、外務事務官の身分を保持したまま、これほどに一党一派に偏した安全保障政策を、大学で講義し、かつ出版する例は稀であろう。外務省というところは、こういう偏りのあるミスター「安全保障」が「出世」する不思議な役所である。  (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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