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それぞれの「対米平等」志向と現実・・・岸信介の場合

 鳩山一郎の「対米平等」志向は空回りに終わったとはいえ、日ソ国交回復と国連加盟をやり遂げたことにより、花道を飾ることができたと見てよいだろう。

 1956年12月、鳩山内閣総辞職のあとの自民党次期総裁選挙では一波乱があった。総裁選挙立候補者は、岸信介、石橋湛山、石井光次郎の3人であったが、おおかたのところ岸が総裁に選出されるものと考えられていた。だが、第1回投票で、岸はトップであったが過半数の得票を得ることができず、第2回投票においては、2位の石橋と3位の石井の2・3位連合が成立したために、石橋が当選してしまったのである。

 石橋は、戦前、東洋経済新報に拠って、植民地放棄・小日本主義を唱えたことで広く知られている。満州事変を経て、わが国がファシズムに突入した1930年代以後も、石橋はリベラルな姿勢を貫き、しばしば軍部・政府批判を繰り返した。戦後、第一次吉田内閣に大蔵大臣に入閣して以後、リベラル保守の立場で政治活動を開始、鳩山政権では通産大臣をつとめた。石橋の持論は、対米自主独立であり、社会主義国のソ連、中国を含む全方位外交を唱えた。しかし、政権についた後まもなく軽い脳梗塞と肺炎を患い、病の床につき、1957年2月末、就任後2ヶ月余りで、持論を花開かせることなく、石橋は退陣を余儀なくされた。

 石橋のあとを襲ったのは、外相であり石橋療養中首相代理をつとめた岸である。

 岸は、戦前、農商務省(商工省)生え抜きの官僚であり、超国家主義を推進する革新官僚として鳴らした。1932年3月、満州国建国後は、満州国の産業振興に辣腕をふるい、満州国の実力者としとしてその名を高めた。誰が言い出したのかは知らないが、満州国で実権をふるった日本人5人、星野直樹、岸信介、東条英機、松岡洋右、鮎川義介をさして「二キ三スケ」と言うそうである。おもしろいことを思いつく人がいるものだ。

 星野直樹は、大蔵省出身で岸より1年年長であるが、岸と同じく革新官僚として鳴らし、岸と同じようなコースを歩き、東条内閣の閣僚になったのも同じである。また同じくA級戦犯として巣鴨プリズン送りとなった。だが星野は極東軍事裁判の被告に選定され、終身刑を宣告されたのに対し、米国の占領政策の転換により、岸は、東条ら7名のA級戦犯に対する死刑が執行された翌日、1948年12月24日、不起訴・釈放となった。

 岸は、不起訴・釈放をかちとっただけではなく、その後わずか9年にして内閣総理大臣のイスまで奪取したのであるから、これほど強運の持ち主はいないだろう。

 さてその岸に対し、現実主義者の国際政治学者・故高坂正堯氏は、次のように、辛口の論評をしている(中公クラシックス「宰相吉田茂」所収の「吉田茂以後」)。

 「岸はなんと言っても伝統的なナショナリストであった。だから内乱条項があったり、期限が定まっていない安保条約の存在は、彼にとっては快いものではなかったのである。彼が、米国との交渉の席で、『それではまるで満州国だ』と口走ったのは、彼の本心を案外よく表現しているのである。(中略)
しかし、彼は日本と米国との間の平等性は、安保条約の条項を変えることによって左右されるようなものではないことを認識することができなかった。もちろん、純技術的には、日米安保条約の条文を変更することは好ましいことであったが、それは基本的な相違をもたらすものではなかったのである。だいたい、米国との協力に安全保障を依存することが、すでに独立についての異なった考え方に立脚することであった。そうした体制において日本の独立性を増すためには、安保条約の条文を変更するだけではなく、外交のあり方全体を問題にしなければならなかったのである。」

 岸は、戦後民主主義のもとで、超国家主義の残り香をふんぷんと漂わせつつ、「対米平等」を志向し、強権的手法で安保条約を改定した。しかし、その安保条約改定とは、決して「対米平等」をかちとったものではない。

 安保条約改定後も、わが国は、米国が望む時期に、望む場所に、望む限りの基地を提供する義務を負い続け、在日米軍はわが国土を思うままに使用し続け、在日米軍人・軍属及びその家族らは特権的地位を保持し続けている。このことは安保条約とともに「日米安保条約第6条にもとづく基地ならびに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」(日米地位協定)を検討すれば、誰しも理解できることである。
 一方米国は、改訂後の安保条約においても、どこまで実効性を伴うか不明の単なる額面上のわが国防衛義務をうたっているに過ぎない(安保条約第5条)。信ぜよ、さらば与えられる!

 鳴り物入りの改訂にもかかわらず、安保条約は、圧倒的に米国本位の不平等・従属条約のままなのである。かくてさすがの岸も、米国の手のひらの中で踊らされに過ぎなかったことが明らかとなった。 (了)
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それぞれの「対米平等」志向と現実・・・鳩山一郎の場合

 吉田茂は、1946年5月から1947年5月までと、短い中断をはさんで1948年3月から1954年12月まで、占領下と独立後の長期にわたってわが国の舵取りをしてきた。これを吉田時代というとすれば、わが国戦後政治体制は、吉田時代に祖型ががっしりと固められたといってよいだろう。
 わが国戦後政治体制とは、対米従属の下での経済復興を追求し、大国化を進めるための政策体系と政治システムである。
 「臣茂」を標榜する吉田は、若い頃から対英米協調主義を極端な米国依存主義に転換させた昭和天皇と共鳴しつつズブズブの対米追随路線をひた走ったのであった。

 吉田時代以後、幾人かの政治家が、対米「平等」を掲げて政権運営に当たった。そのトップバッターは鳩山一郎であった。

 鳩山は、1946年4月に実施された戦後はじめての総選挙を、自由党を率いて戦い、勝利をおさめた。当選者数の状況は次のとおりである。

自由党   140   無所属    81
進歩党    94   諸 派    38
社会党    92   協同党    14
共産党     5

 この結果を受けて、幣原内閣が総辞職をし、次の政権は、社会党の閣外協力の合意を得た自由党に渡ることが明らかな情勢となった。つまり鳩山内閣成立は目前のところまで進んでいた。ところが、ここで突如としてGHQから鳩山に対する公職追放令が発布されたのである。同年5月、そのため鳩山のかわりに、急遽、吉田・自由党政権が誕生することになった。
 鳩山には、当然、公職追放解除・政界復帰時には吉田は政権返上するだろうとの期待があったであろうが、吉田は、磐石の政権基盤のもと長期政権を維持し続けた。1951年8月、追放解除、しかし同年6月に患った脳梗塞のため、政界完全復帰は遅れてしまった。苦節8年、ようやくにして首相の座を射止めたのは、吉田政権が熟した柿の如くに落ちた1954年12月のことであった。翌年2月までの短い期間であるが第一次鳩山政権と呼ばれている。

 鳩山には、裏切り者・吉田に対するルサンチマンはひとしおだったことだろう。さらには「理不尽」な公職追放を行わせた米国に対する反感も人間であれば当然あったであろう。それに戦前、ロンドン軍縮条約を締結した若槻・幣原及び海軍条約派に対し、統帥権干犯を声高に叫び、対英米協調路線を痛撃した彼には、対米追随をいさぎよしとはしない素地がもともとあったと言える。

 鳩山は、翌1955年2月の総選挙で、「鳩山ブーム」を巻き起こし、民主党を第一党に躍進させた。鳩山は、これを追い風として、より安定した第二次鳩山政権をつくる。第二次鳩山政権は、日ソ国交回復や国連加盟を具体的な目標に掲げ、いわゆる自主外交を展開しようとした。また改憲、自主憲法制定により軍備を増強し、米軍の撤退を求めていくことを安全保障政策の重要課題とした。これらあいまって第二次鳩山政権においては、「対米平等」と「独立の完成」をやり遂げることが究極の課題であった。

 その「対米平等」と「独立の完成」はどの程度成功したのであろうか。

 1955年8月、鳩山政権の外相重光葵が訪米し、ダレス国務長官と会談した。重光は、「現在の一方的安保条約に代わる相互的基礎に立つ新防衛条約を両国間に締結する」ことを果敢に訴えた。「日本国民は何故日本が不平等でなければならないか了解しかねている。われわれは国民に対し、日本が再び平等になったということが言いたいのである」とも哀願した。しかしダレスに、「日本は本当に米国を援助することができるのか。未だ日本は相互防衛の能力がない」、「自衛力が完備し、憲法が改正されればはじめて新事態ということができる。現憲法下において相互防衛条約が可能であるか」などと軽くいなされてしまったのであった。

 では日ソ問題ではどうか。鳩山政権は、ソ連との間で領土問題の解決と平和条約締結に向けて積極的に交渉をした。これに対し、米国は猛然と介入してくる。1955年4月9日に採択された「米国の対日政策」(NSC5516/1)は、「ハボマイ、シコタンに対する日本の主張を支持する。クリル諸島と南サハリンに対するソ連の主権主張には同意しない」と宣言した。自ら取り交わしたヤルタ密約を反故にし、サンフランシスコ講和条約にも抵触する宣言を敢えて行い、日ソのデス・マッチをけしかけているのである。

注1 1945年2月のヤルタ密約は、南サハリンはソ連に返還され、クリル諸島はソ連に引き渡されることを確認していた。
注2 サンフランシスコ講和条約第2条c項は、日本は、千島列島並びにポーツマス条約で取得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄することを確認した。

 こうした介入にもかかわらず、鳩山政権は総力をあげて日ソ交渉を進めた。その結果、国益重視の立場から譲歩もやむなしとして、以下の合意を含む日ソ平和条約を締結することを米国におうかがいを立てた。

・わが国の国連加入に対する拒否権不行使
・戦犯を含む抑留邦人全部の釈放・送還
・領土問題では、ハボマイ、シコタンの返還

 しかし、これに対して、わが国の対ソ協調を危惧する米国が猛反対する。1956年8月19日、重光外相とダレス国務長官の会談が行われたが、そこでダレスは、「日本がクナシリ、エトロフ両島をソ連領と認めることはサンフランシスコ条約以上のことをソ連に認めることであり、もしそのような場合には米国としては条約26条により沖縄を領有する立場に立つものである」と言い放った。要するにソ連とハボマイ、シコタン二島返還で平和条約締結に至れば、沖縄は分捕るぞと恫喝を加えたのである。世にこれを「ダレスの恫喝」という。

注 サンフランシスコ講和条約第26条には、「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。」とある。

 さすがにこれには鳩山もお手上げであった。自民党内は揺れる。外務省の抵抗も増幅される。日ソ平和条約締結は暗礁に乗り上げた。鳩山は、ここで日ソ共同宣言にハボマイ、シコタン二島返還を盛り込み、その他の領土問題は継続協議として、領土問題解決時に平和条約を締結するとの考えをソ連側に伝える。しかし、ソ連側はこれに応じず、結局、1956年10月19日に公表された日ソ共同宣言では、国交回復を確認したが、領土問題では、ソ連はハボマイ、シコタン二島を日本に引き渡すことに同意し平和条約締結後に現実に引き渡されるとまどろっこしい表現となってしまった。

 米国は、日ソ間の領土紛争継続を望み、その目論見は達成された。北方領土返還運動は、日ソ間の喉の奥に刺さった骨であり続け、今も日ロ間の喉の奥に刺さっている。

 鳩山政権は、改憲、自主憲法制定により軍備を増強し、米軍を撤退させるという政策でも何らの前進もできなかった。もっともこれは政策自体が悪すぎた。

 かくして鳩山の「対米平等」志向は、空回りして終わったのである。 (了)

再び考える在日朝鮮人・韓国人差別

 韓国併合後の朝鮮からの渡航者第一波(1922年まで)の状況については、昨日の記事に示しておいた。渡航朝鮮人は、第一次世界大戦後の反動不況の中で、内地国民、中でも底辺労働者、職人層、雑業層から、鬱積する不満の捌け口として、敵視、蔑視、危険視され、差別、偏見の対象とされていく。やがて、それは暴発する。1923年9月、関東大震災後の朝鮮人大量虐殺がそれである。それは、軍・警当局者の誘導はあったにせよ、暴発する下地は既に準備されていたのだ。

 しかし、1920年代後半になると朝鮮からの渡航者は、第一波よりも一層大きな波となって押し寄せる。1920年代、わが国政府と朝鮮総督府は、内地の食料不足を解消するために、朝鮮を内地の食糧庫と位置づけ、米の増産計画を実施する。それは小規模農地を耕地整理によって大規模化し、生産性をあげることにより米の産出量を増大させるというもので、ここでも再び農民は土地から分離される。それだけではなく、収穫された米は内地へ移出され、朝鮮では、人びとは「外米」と「満州栗」を主食とすることになる。かくして朝鮮では人びとがあぶれ、半ば難民のようにして内地へ押し寄せてくる。1920年代後半には年間ほぼ十万人から十数万人を数えたとのことだ(成田龍一『大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④』岩波新書)。

 内地へ渡航してきた朝鮮人は、多くは低賃金・3K労働に従事する最下層労働者として、都市周縁部に集団をつくって居住していた。そして苦しい、厳しい生活を、同胞たちの助け合いにより、なんとかしのいでいたのだ。

 そうした人たちも、1925年3月に成立した衆議院議員選挙法改正法(いわゆる普通選挙法。「25歳以上の帝国臣民男子」は選挙権を有し、「30歳以上の帝国臣民」は被選挙権を有することになった。)によって、選挙権・被選挙権を得ることになったと聞くと驚く人が多いかもしれない。

 内地に居住する外地籍臣民の選挙権・被選挙権については、以前から議論されてきたが、結論が得られていなかった。しかし普通選挙法において、内地で同一住居に1年以上居住していたとの居住要件を満たす外地籍臣民については、内地籍臣民と等しく選挙権・被選挙権が付与されることになったのであった。

 1928年2月20日、普通選挙法に基づく最初の選挙が実施された。このとき選挙権を認められた外地籍臣民は、朝鮮人が8府県で9983人(うち東京で1085人)、台湾人が約150人(東京)であったとのことである(成田・前掲)。

 内地に居住する朝鮮人、台湾人の選挙権・被選挙権は、社会においては大きな議論となることはなく、なんの葛藤ももたらすこともなく受け入れられていった。そのことは次の実例に見るとおり、立候補者が朝鮮人有権者に秋波を送っていた事実に端的に見ることができる(有馬学『帝国の昭和 日本の歴史23』講談社学術文庫)。

 福岡県田川郡を地盤とする社会民衆党・社会大衆党の亀井貫一郎は、4回、衆議院議員に当選している。彼の選挙用名刺には、ハングルのルビがふってあった。同地域にまとまって居住する朝鮮人有権者の票獲得のためである。

 東京都知事枡添要一氏の父君は、福岡県若松市の市会議員をしていた。彼が1930年の市会議員選挙に立候補したときの選挙ポスターが残されている。それには氏名にハングルのルビがふられている。ことほどさように朝鮮人有権者の票が欲しかったのであろう(地方議員の選挙にも普通選挙法は準用された)。

 普通選挙法では、女性の選挙権・被選挙権は認められていない。そのことだけを捉えるならば、内地に居住する朝鮮人、台湾人(男性)は、内地籍女性よりも一歩ぬきん出ていたということがいえるかもしれない。だが、やはりそれは決して朝鮮人に対する敵視、蔑視、危険視が消え去り、彼らに対する差別、偏見がなくなったことを意味するものではなかったことは、その後の歴史が証明している。

 たとえば、ずっと後、戦後のことになるが、吉田茂首相は、ダレスとの講和条約に関する交渉に際し、ダレスから、講和条約の当事者として韓国を加えるかどうか打診されたとき、「在日朝鮮人は非合法活動をしており、日本政府はこれを憂慮していること」、「日本政府は在日朝鮮人を本国へ送還することをマッカーサーに申し出たがマッカーサーが反対したこと」、「下山事件の犯人は朝鮮人だと確信していること」など、まるで見当違いの理由をあげて、これに反対をした。日本のトップであった吉田首相にして、これだけ非合理的、エモーショナルな差別の虜になっていたのである(古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波現代文庫)。
 一般国民が、根深い差別と偏見を表出した事件やそれが原因となった事件は、星の数ほどあることは周知のとおりである。

 現代のヘイト・スピーチは、差別と偏見の居直りバージョンである。  (了)

在日朝鮮人・韓国人差別・偏見のルーツ

 子どものころには、私も在日朝鮮人・韓国人に対する差別意識を知らず知らずのうちに身につけてしまっていた。

 わが家は7人兄弟、私は上からいっても下からもいっても4番目だった。たかだか13年ほどの間に、7人の子どもを産み、しかも戦中、戦後の食糧不足がたたって、母は、結核を病み、私が小学校に上がる前、1952年に死んでしまった。まだ36歳であった。
 父も、16歳を頭に、一番下が2歳までの7人もの子どもを抱えて大変だっただろうと思う。いや、そういう一般的な言い方は正しくないだろう。昔は、それが分からなかった。わかるようになったのは最近のことであると言うべきだろう。貧乏人の子沢山とはよく言ったもので、まさにわが家はそれであったから。
 あれは私が小学校1年生のころのことだったと思う。当時、貧困のどん底にあって、その日食べるものもない状態で、ひたすら父が食べ物を持って帰宅するのを待つ日々が続いていた。それを見て可愛そうに思ったのか、近くに住む朝鮮人(もしくは韓国人)のお母さんが、「ボク、これ食べ」と言ってコッペパンをくれたことがあった。だが、私は、それがどうしても食べられなかった。空腹がつのって喉から唾が出るほどであったのに食べられなかったのだ。

 わが国が韓国に併合条約を押し付けたのは1910年8月のことであった。以来1945年8月14日、わが国がポツダム宣言を受諾するまでの間、朝鮮半島は、わが国の領土の一部とされ、朝鮮半島の住民は、日本国民とされ、戸籍上は、内地国民の内地籍とは別個の外地籍(朝鮮籍)に登載されていた。

 井上寿一『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書)によると、朝鮮半島から内地への渡航者数として、以下のようなデータが記されている。しかし、これは氷山の一角であろう。

1913年       3635人
1918年     2万2411人
1919年     2万6605人
1920年     3万0189人
1921年     3万8651人
1922年     5万9722人

 これらの渡航者の大半は、わが国において、今でいう低賃金の3K労働に従事したのである。何故、そのように多数の人びとが故国を離れ、過酷な労働に従事するために敢えて内地に渡航してきたのだろうか。彼らは、決して好き好んで渡航してきたのではない。
 その原因の多くは、朝鮮総督府の実施した土地政策にある。1912年8月、朝鮮総督府は、土地調査令を公布した。同令に基づいて行われた調査事業は、「地税」の公平負担、土地所有権の保護、生産性の向上などをうたい文句としていた。しかし、実際には、土地所有権の保護は申告によって行い、申告のない土地は「国有」という名目で、総督府が取り上げてしまうというあこぎなものであった。これと並行して内地国民や内地資本による土地買収が進行する。伝統社会で私所有権の確立していないところに近代的制度を持ち込まれ農民が土地から分離された。土地を失った農民が大量に輩出した。彼らは、山間部に追いやられて焼畑農耕を行う火田民となり、あるいは沿海州やハワイへ移り、あるいは糊口を凌ぐために内地へ渡航してきた(成田龍一『大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④』(岩波新書)。上記の数字は、それを示している。

 彼らは、第一次世界大戦時の好況時には、低賃金・3K職場に吸収され、内地労働者とは棲み分けができていた。しかし、戦後の反動不況で、内地労働者の失業問題が顕現するとともに、彼らは、内地労働者にとって排斥の対象となり、また危険視されるようになる。彼らと、内地労働者とは必ずしも従事する労働において競合関係にたっていたわけではないにもかかわらず、そういう対象とされてしまったのである。

 差別や偏見は、空から降ってくるわけではない。この時期の大量の渡航者らが、内地において低賃金、3K職場で、文字通り汗と泥にまみれた暮らしを余儀なくされ、わが内地国民に蔑まれ、時が移り、わが内地国民も不況に呻吟するようになると非征服民族ないしは不潔な低級民族としてその不満の捌け口とされ、さらには食い扶持を奪いあう競争相手と錯覚される。こうしたことが積もり積もって差別・偏見が定着して行ったのである。

 それがエスタブリッシュメントにとっては支配の有効な手段でもあるのであろう。

 今も在日朝鮮人・韓国人の差別を平然と行っている人たちは、ある意味では犠牲者でもある。彼らは真に対決するべき相手が見えなくされているのだ。   (了)

公職選挙法・戸別訪問を解禁するべきだ

 公職選挙法は、138条1項、2項により、家ごとに訪問して、選挙の投票を依頼することや、演説会や候補者の氏名の宣伝をすることを禁止し、239条第1項3号により、これに違反した場合には1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処することとしている。

 これを憲法論としてみれば、21条1項の表現の自由を侵害し、違憲ではないかということが問題になる。具体的事案で検討してみよう。

 事案は、「被告人A某は、昭和51年12月5日施行の衆議院議員総選挙に際し、島根県選挙区から立候補した○○○○に投票を得させる目的で、同年12月3日ころ、同選挙区の選挙人である△△市○○町××番地B某ほか4名を戸々に訪問し、同候補者のため投票を依頼し、もって戸別訪問をしたものである。」というものである。

 これに対し、一審松江地裁出雲支部は、以下のような理由から個別訪問禁止規定は、憲法21条1項に反し違憲であるとして無罪を言い渡した。
 
・ 戸別訪問は、選挙運動の基本的手段であり、現に西欧型民主国では、すべてそうなっている。
・ 選挙制度審議会における戸別訪問に関する議論についてみると、選挙運動の自由化の観点から、戸別訪問を自由化すべしとの意見が、圧倒的多数を占めている。
・ 戸別訪問の弊害として指摘されているのは(1)選挙の自由、公正をくつがえす買収、利益誘導、威迫などの不正行為の温床となる(不正行為温床論)、(2)情緒、義理、人情に訴える傾向を助長し、理性的公正な判断を害する(感情支配論)、(3)候補者に無限の競争を強い、煩に堪えなくする(煩瑣論)、(4)選挙人の生活の平穏を害し、選挙人が迷惑至極である(迷惑論)、(5)候補者が競って戸別訪問をするため、費用がかかる(多額経費論)、(6)次期立候補予定者が、当選議員の留守中に地盤荒しをする(当選議員不利論)などである。しかし、これらはいずれもそういう主張がなされるだけで、具体的に検討するといずれも正当なものとは認めがたい。
  逆に戸別訪問を禁止することにより、(1)選挙や政治は、国民から縁遠い存在となり、国民の代表と国民とのつながりは、稀薄化している、(2)身近で手数と金のかからない基礎的な選挙運動を奪うことは、政治に関するフェイス・ツー・フェイス、マン・ツー・マンの日常的な対話の場を剥奪し、国民の政治に対する無関心、無気力化を進める、などの弊害が認められる。
・ 憲法21条1項の表現の自由は、基本的人権の中でも、最も優越的地位を占めるものであるから、選挙運動においてこれを制限するには、選挙の自由と公正を確保するうえに必要かつ最小限度の範囲内においてのみ認められるところ、公職選挙法の戸別訪問禁止規定は、必要かつ最小限度の範囲内の制限とは言えない。

  この事件の控訴審である広島高裁松枝支部も、戸別訪問禁止の目的とされる事項を逐一検討し、その目的自体が表現の自由を制約すべき根拠となり得なかったり、あるいは戸別訪問禁止によりその目的を達成しうるとは必ずしもいえなかったり、あるいは選択された戸別訪問禁止がその目的を達成するうえで行きすぎていたりしているというほかはなく、戸別訪問の禁止が憲法上許される合理的でかつ必要やむを得ない限度の規制であると考えることはできないとして、公職選挙法が一律に戸別訪問を禁止しているのは憲法21条1項違反と断じ、一審判決を維持した。

 しかしながら、上告審たる最高裁は、以下の理由で原判決を破棄した。

・ 戸別訪問の禁止は、意見表明そのものの制約を目的とするものではなく、意見表明の手段方法のもたらす弊害、すなわち、戸別訪問が買収、利害誘導等の温床になり易く、選挙人の生活の平穏を害するほか、これが放任されれば、候補者側も訪問回数等を競う煩に耐えられなくなるうえに多額の出費を余儀なくされ、投票も情実に支配され易くなるなどの弊害を防止し、もつて選挙の自由と公正を確保することを目的としているのであり、その目的は正当である。
・ 上記の弊害を総体としてみると、戸別訪問を一律に禁止することは合理的である。
・ 戸別訪問という手段方法による意見表明の自由が制約されるが、それは、もとより戸別訪問以外の手段方法による意見表明の自由を制約するものではなく、間接的、付随的な制約にすぎない。その反面、戸別訪問禁止により得られる利益は、戸別訪問という手段方法のもたらす弊害を防止することによる選挙の自由と公正の確保である。よって得られる利益は失われる利益に比してはるかに大きい。
・ 以上によれば、戸別訪問を一律に禁止している公職選挙法138条1項の規定は、合理的で必要やむをえない限度を超えるものとは認められず、憲法21条1項に違反するものではない。

 一審判決及び控訴審判決と上告審判決とでは、一審判決が列挙している戸別訪問の弊害なるものをどう評価するかということと、戸別訪問の禁止が、意見表明の手段・方法の規制に過ぎず、意見表明そのものを禁止するのではないから比較的軽いものである(上告審判決は「間接的、付随的制約に過ぎない」と言っている。)のかどうか、という対立点がある。

 前者について簡潔に述べよう。戸別訪問禁止がなされたのは、1925年3月の衆議院議員選挙法改正法においてであった。いわゆる普通選挙法である。このとき戸別訪問を禁止する理由としてあげられたのは①情実、感情支配論、②選挙の品位低下論、③選挙の私事化論、④買収等不正行為冗長論であった。しかし、それ以前、戸別訪問は自由になされていたのに、具体的にこうしたう弊害が問題化していたわけではなく、なんら実証的根拠を持つものではない。むしろ、同年2月に、普通選挙法制定に先立ち、治安維持法が制定されていることを考えると、いずれも無産大衆対策であり、普通選挙法の実施により無産大衆が大量進出することは何としても抑えたいという支配者側の願望がこめられていると考えるべきだろう。要するにこれらは無産大衆の選挙運動として最も有効で費用のかからない戸別訪問を禁止するために支配者側が頭をひねって考え出した屁理屈であり、到底、戸別訪問を禁止すべき理由とはなりえない。

 後者について。戸別訪問という手段・方法を禁止したからといって、他の表現手段は奪われず、表現の自由を制限するわけではないというのは、実のない形式論理、言葉の遊びである。戸別訪問という手段・方法は、選挙において、一般国民にとって最も基本的な手段・方法であり、これを奪うことにより一般国民が選挙運動に参加すること防止するに等しい。上記一審判決のいうとおりである。

 結局、日本国憲法施行後は、戸別訪問禁止は許されなくなったというべきである。しかるにわが国会は、衆議院議員選挙法・参議院議員選挙法において、これをそのまま存置し、また1950年制定の公職選挙法においても漫然とこれを存置し、わが国最高裁は、無批判にこれに追随しているのである。国民の選挙離れが指摘されて久しく、特に最近の各種選挙での投票率の低下は甚だしい。がんじがらめ選挙、べからず選挙も、それをもたらしている一つの要因である。昨年のネット選挙解禁は一つの進歩であった。しかし、ネットを使いこなす層はまだ限られており、古来存する最もアナログな手段・方法である戸別訪問の方がはるかに多くの層に選挙に参加する道を開くだろう。今こそ、選挙運動が自由闊達に行われるための方策を取り入れなければならない。諸外国にならい、戸別訪問解禁にまず手をつけるべきではなかろうか。 (了)

大企業の空前の利益がやがて賃金上昇をもたらす?


 安倍首相はこんなことを言っている。
 
 「企業の活力を維持することによって、必ず賃金に反映され、消費の増大につながり、また企業の収益が増え、賃金に回っていく。こういう循環に入ることにより、広く国民に景気回復の恩恵が行き渡るようにすべきだ。」

 こういう物語をトリクルダウン神話という。先に結論を言ってしまったが、それが神話であることを論証した本が、ベストセラーになっている。服部茂幸『アベノミクスの終焉』(岩波新書)である。著者は、理論経済学(マクロ経済学、金融政策)専攻で、現在、福井県立大学経済学部教授を務めておられる。

 本書では、まず2002年から2008年の間持続した好況局面たるいざなみ景気の実績を検討している。

 この時期、製造業における、とくに資本金10億円以上の大企業においては、従業員一人当たり営業利益は急伸し、2002年度を100とすると2007年度には180に達した。これに対し、従業員一人当たり賃金は上昇しなかった。正確にいうと製造業大企業では微増であったが、製造業全体及び非製造業では減少したのである。いざなみ景気は、戦後最長の好景気であったとされているが、このように賃金が低下するというわが国が過去経験したことのない異常な事態であった。しかし、アメリカでは、レーガノミクス以来、これは既に普通の状態になっており、好景気の時期に恩恵をこうむるのは1%のスーパー・リッチであり、一般国民は何らの恩恵に浴していない。

 本書が書かれたのは本年2月から4月だが、あとがきの日付である本年6月時点までに公表されたデータは、アップデートしているとのことである。そのデータによって、果たしてトリクルダウンの芽が生じているか検証がなされている。

 2012年度上半期、2012年度下半期、2013年度上半期、2013年度下半期の4つの時期区分をして、①全産業/全規模、②全産業/資本金10億円以上、③全産業/資本金1000万円以上1億円未満、④製造業/全規模、⑤製造業/資本金10億円以上、⑤製造業/資本金1000万円以上1億円未満、⑥非製造業/全規模、⑦非製造業/資本金10億円以上、⑧非製造業/資本金1000万円以上1億円未満の八つのカテゴリー(企業類型)に区分し、一人当たり営業利益と一人当たり賃金(給与、賞与の合計額。従って名目額である。以下同じ。)の増加額(前年同期比)がグラフで比較対照されているが、これを見ると一目瞭然で以下のことが言える。

 資本金10億円以上の各カテゴリー、とりわけ⑤製造業/資本金10億円以上のカテゴリーでは、2013年度上半期、2013年度下半期の各一人当たり営業利益は急増している。資本金1000万円以上1億円未満の各カテゴリーでは、それは多少増加しているものの、ごくわずかである。
 2012年度上半期、2012年度下半期には、各カテゴリーとも微増もしくは微減、要するに停滞であった。

 これに対し、2013年度上半期、2013年度下半期の一人当たり賃金を見ると、各カテゴリーのほとんどで下がっている。例外は⑤製造業/資本金10億円以上のカテゴリーだけで、2013年度下半期においてわずかながら上昇している。
逆に2012年度上半期、下半期には、各カテゴリーほとんどで、上昇している。

 つまりアベノミクスは、大企業、とりわけそのうち製造業において利益を急増させたにもかかわらず、賃金上昇をもたらしておらず、アベノミクス以前には企業利益は停滞していたが、賃金はむしろ上昇している。

 アメリカのレーガノミクスは企業利益を増大させたが、賃金は低下させた。アベノミクス以前には企業利益は増大していないが賃金は上昇していた。アベノミクス1年間の実績は、大企業の利益を急増させたが、賃金は下がっている。この事実から、今後のアベノミクスを予測することはたやすいことである。

 トリクルダウンの物語は確かに美しい。だが、それは神話に過ぎないのだ。 (了)

安倍首相の賃上げ要請から垣間見えるもの

 11月20日付「朝日新聞」朝刊は、以下のように報じている。

 安倍晋三首相は19日の政労使会議で、昨年に続き異例の賃上げを要請した。だが、景気の先行きに不透明感が漂い、再び始まる「官製春闘」に労使には戸惑いも広がる。首相の要請は、賃上げに「追い風」になるのか。
 「今年末にも賃金が上がっていく展望を示せれば、好循環の2巡目は大きく前進する」。19日、政府や経済界、労働界の代表がそろった政労使会議で、安倍首相は訴えた。
 異例の賃上げ要請は2年連続だ。昨年は政労使で合意文書をまとめ、今春闘での賃上げに弾みをつけた。首相のねらいは「2匹目のドジョウ」だ。今回も12月中の合意をめざす。

 この報道には二つの問題点がある。一つは、昨年の賃上げ要請が成果をおさめたかのように無批判に述べていること。もう一つはこうした政労使会議での安倍首相の要請がクローズアップされてしまうほどに労働組合の存在感が薄れてしまっていること。

 第一の点から見ておこう。昨年、安倍首相が政労使会議で賃上げを要請したことが2%を上回る賃上げにつながったと言われている。本記事はこれをまに受けているようだ。しかし果たしてこれは本当だろうか。

 労働者個人の受け取り賃金を示すデータには、厚労省の「毎月勤労統計」がある。これによると、本年4月度の実質賃金(名目賃金から物価上昇分を調整した後の賃金。以下同じ。)は、前年度同月比で3.1%落ち込んでいる(消費税増税による物価上昇は非課税品目もあるので2%程度と見られており、その影響分を差し引いても1%は落ち込んでいることになる。)。さらにその後も落ち込みは続いており、8月度の実質賃金は3・1%の落ち込み、9月度は3.0%の落ち込みとなっている。

 この事実は、2%を上回る賃上げと喧伝されていることとどう符合するのだろうか。まず、これは名目賃上げ率に過ぎないことを看過してはならない。それに、2%を上回るといわれているのは定昇を含んでいるし、労働組合が組織されておらず賃上げ実績の集計対象とならない非正規労働者、中小零細企業労働者の実情は反映されていない。前者の点について、定昇というのは、正規労働者に関してのみ勤続加算により賃金が上昇する部分であり、これは当該企業の労働者全員の平均を見れば賃金は上昇したことにはならず、実質賃金を押し上げる要因にはならない。また後者の点については、むしろ名目賃金さえも切り下げが進んでいると言えるのである。

 昨年、安倍首相が口先介入したことは、実質上は、何らの賃上げ成果を生んでいない。みせかけの賃上げ、賃上げの幻想を作り出したに過ぎないのである。このことは、今回の二度目の口先介入も同様であることを示すものだと言ってよく、選挙向けのパフォーマンスであると断言してよいだろう。

 二つ目は、もっと深刻な問題である。厚生労働省の調査によると2013年6月時点の労働組合組織率は17.7%であった。かつては50%を超えていたのに、長期低落が続いている。その大きな原因は、非正規雇用が急激に増大しているにもかかわらず、その組織化が一向に進んでいないということにある。大手企業の労働組合といえば、正規雇用労働者の排外的組織であり、それが連合の主力を担っているのが現状であり、労働運動は、大手企業の正規雇用労働者の利益を墨守するものとなってしまっている。そのことがいまや圧倒的多数を占めるに至っている中小零細企業の労働者や非正規雇用労働者の怨嗟の的になってしまっている。勿論、中小零細企業や非正規労働者にもウイングを広げた労働運動も粘り強く追求されてはいるが、未だ状況を変えるには道とおしである。
 そうなると労働組合の無力さは覆いがたい。憲法28条が保障している「団結する権利及び団体行動をする権利」を有効に行使して、使用者と対抗し、労働条件、とりわけ賃金アップを勝ち取る力を喪失してしまっているのである。
 そのことの行き着いた姿が、政労使会議である。これは、労働組合が、使用者から独立し、労働者の側に立って闘うことにより勝ち取ったものではない。その逆であり、力を喪失してしまっているが故に、政府・使用者にあてがわれたものである。

 労働組合は基本にかえって、非正規労働者、中小零細企業の労働者を含む労働者全体の利益の代弁者にならなければならない。このことを国民全体が後押しすることが必要である。緊張感のないところに進歩はない。
 政治的立場やイデオロギーはどうであれ、労働組合は、労働者全体の利益に徹することが何よりも肝要である。(了)

命のせんたく

 11月21日絶好の日和に誘われて、一日、命のせんたくをしてきた。

 この日午後、衆議院解散となり、いよいよ安倍政権・悪政の2年間を問う選挙戦が始まった。いつ見てもぶざまで、没知性のきわみともいうべき万歳三唱が行われているころ、私は、高雄・神護寺に向かう山中に居た。

 嵐山の雑踏を抜け出し、北嵯峨野のはずれ、竹林の中にたたずむ直指庵の東に流れる沢に沿って山道に分け入る。行けども行けども、人一人いない険しい山道、40分ほど登り、ようやくへばりかけた頃に、急に視界が開けた。そこが急峻な登り道の終わるところであった。なんとそこに、昼食弁当中の中年女性二人組がいるではないか。人一人いない、まるで山賊にでもでくわしはしないかというような場所で、思いがけず人に出会ったものだから、つい多弁になり、45年前に一度来たことがあるのですが、全く道を覚えていなくて四苦八苦しました、とつい余分なことまでしゃべってしまった。あとで思い出して赤面の至りだ。
 聞くとそこは京見峠と言うそうだ。こちらで見るときれいですよと親切な誘いに図々しくも素直に応じて、行ってみると、確かにきれいだった。晩秋の嵯峨野一帯、そこからさらに南の方に京の町が遠望できた。
 礼を言いつつ先を急いだ。あとは下り坂、30分ほどで菖蒲谷に到着。池畔に一軒だけあった食堂で遅い昼食をとる。夫婦で店を切り盛りしているのだが、行楽シーズンにもかかわらず、閑古鳥が鳴いているようだった。そんなわけでここでもひとしきり話し込む。やはり人間は、コミュニケーションなしではやっていけないようだ。45年前に来たときのことを思い出し、丁度目の前を走っている嵐山高雄パークウェイは、その頃工事中だったと話すと、奥さんが、感慨深そうに、そのころ私は中学生でしたとおっしゃる。歳はバレバレである。
 さらに先を急ぐ。また30分余り山の中を歩いて、ようやく高雄に到着。このころになると流石の健脚も、かなり悲鳴をあげていた。神護寺に行ったことがある人ならおわかりだろうが、そこから神護寺境内までは、心臓破りの石段がある。余力がなくなった足には、これがこたえた。紅葉を見るふりして何度も立ち止まった。勿論、紅葉はきれいではあったが、それよりも足の痛みがきつくて、とてもそれを愛でている状態ではなかった。

 神護寺は、和気清麻呂が創建した高雄山寺に始まり、源平末期、寿永3年(1184年)、荒れ放題であったのをあの文覚上人が再興したということである。平家物語をひもとくと、次のような一節がある。

 「後には高雄といふ山の奥に、おこなひすましてぞいたりける。かの高雄に神護寺といふ山寺あり。昔称徳天皇の御時、和気の清丸が建てたりし伽藍也。久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧にまじはり、扉は風にたふれて落葉の下にくち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれにさし入る物とては、月日の光ばかりなり。文覚是をいかにもして、修造せんといふ大願をおこし、勧進帳をささげて、十万旦那をすすめありきける程に・・・」

 これが治承3年(1179年)の清盛のクーデタのころのこと。やがて文覚は、捕らえられ、伊豆に流される。勧進にかこつけて、平家政権に対する不穏な風説を流す怪しからん悪僧だというわけである。

 「『あっぱれこの世の中は、只今乱れ、君も臣もみなほろび失せんとする物を』なんど、おそろしき事をのみぞ申しありくあひだ、『この法師、都にをひてかぬうまじ、遠流せよ』とて、伊豆の国へぞ流されける」

 その伊豆で、頼朝と出会い、懐から布に包んだ頼朝の父義朝の髑髏だというものを取り出し、頼朝に、これを見せて、決起を促したのは余りにも有名な話である。

 「さる程に兵衛佐殿へ常は参って昔今の物がたりども申してなぐさむ程に、或時、文覚申けるは、『平家には小松の大殿こそ、心もこうに、はかり事すぐれておはせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞの8月薨ぜられぬ。今は源平のなかに、わとの程将軍の相持ったる人はなし、はやはや謀反おこして日本国従へ給へ』
 「文覚重ねて申けるは「『天の与ふるをとらされば、かへって其のとがをうく。時いたっておこなはざれば、かへってそのわざわいをうく』という本文あり。かう申せば、御辺の心をみんとて申なんど思ひ給ふか。御辺に心ざしのふかい色を見給へかし」とて、ふところよりしろいぬのにつつんだる髑髏を一つとり出す」
 「『これこそわとのの父、故左馬頭殿のこうべよ。・・・・・』」

 文覚上人のような激越な決起の呼びかけは、今の時代、受け入れられないだろう。しかし、必要なときに立ち上がらないと、「天の与ふるをとらされば、かへって其のとがをうく。時いたっておこなはざれば、かへってそのわざわいをうく」は、今もあてはまる。もって銘すべしである。  (了)

共感を覚える鳩山さんの話

 2009年8月の総選挙の結果に日本はわいた。民主党のマニフェストには、不十分さ、不徹底さはあるものの、官僚にコントロールされる政治、米国にコントロールされる政治から脱却することを目指し、普通の国民の生活を大切にするという方向性が確かに感じられた。国民はそれを支持したのである。マニフェストには入っていなかったが、鳩山さんが、民主党の機関決定を経て、「普天間基地移設は、国外、最低でも県外」と訴えたこともおおいに受けた。それは発足当初の民主党・鳩山政権に対する支持率が、各世論調査で70%前後、歴代政権の中でもトップクラスであったことに表れている。

 その普天間移設問題、外務・防衛官僚のサボタージュと外圧を利用した妨害工作、それにまんまと乗せられた外務・防衛大臣と党内一部有力者の画策で、頓挫し、鳩山さんは県外移設を断念することを余儀なくされた。鳩山さんの相続税問題、小沢さんの土地購入資金疑惑などイレギュラーな問題を利用した自民党やマスコミの総攻撃を受けて、民主党・鳩山政権は、錐もみ状態となり、発足後わずか9ヶ月で、あえなく退陣に追い込まれてしまった。

 民主党に託した国民の淡い期待は裏切られ、そのしっぺ返しに民主党をいまだに恨む国民も多い。しかし、私は、今、あらためてあの鳩山退陣劇を降り返り、問題の本質を再度考えて見る必要があるように思う。それには当の鳩山さんのお話を聞いてみるのが一番いいであろう。

 退陣して3年近く経過した2013年2月20日、鳩山さんは、沖縄・宜野湾市で、「今語る『県外移設』の真実」と題する講演をしている。以下は、少し長いが、そのときの講演記録から抜粋したものである。

 一国の領土のなかに他国の軍隊が存在し続けることは、世界の歴史のなかできわめて異常なことです。日本は、これがどうも当たり前のようになっているかもしれません。
 しかし、この「当たり前」が依存につながっています。むしろこれは、アメリカが悪いのではなく、こうした依存を強める日本政治に大きな問題があると思います。
 (中略)
 「常時駐留なき安保」は、「有事のときだけアメリカは日本の基地を使っていい。しかし、それ以外のときはわれわれが自分たちでやります」という考え方です。「常時駐留なき安保」という考え方があり、そこに向かう一つのステップとして、普天間の移設問題を捉えています。だから「最低でも県外」という発想が生まれてきたと、理解を頂きたい。
 事実を少し言うと、1996年に私が新党しきがけを離党して、旧民主党を立ち上げたときの党の理念文書にはこうあります。
  「外交の場面では、憲法の平和的理念にと事実にもとづいた歴史認識を基本に、これまでの過剰な対米依存を脱して日米関係を新しい次元で深化させていくと同時に、アジア・太平洋の多国間外交を重視し、北東アジアの一角にしっかりと位置を占めて信頼を集めるような国になっていかなければならない」と。
 まさに憲法の平和的理念、そして歴史認識も大事、そのなかで過剰な対米依存を脱却する、そこには新しい日米関係があるということです。そして重要なのは、よりアジアにシフトさせた考え方を転回し、その先に東アジア共同体構想が生まれるわけです。
 さらに基本政策のなかで、「沖縄に過度に集中している米軍の施設・区域の整理、縮小に精力的に取り組む。在日米軍(基地)の存在を永遠不変のものと考えるのではなく、国際情勢の変化に伴い、『常時駐留なき安保』をも選択肢の一つとした平和の配当を追求していく」と言っています。
 (中略)
 旧民主党に属していた前原誠司議員や玄葉光一郎議員などは当然、少なくとも当時はこの政策を納得していたはずです。いまは納得しているかどうかはわかりませんが。
 さらに新しい民主党になって、民主党が沖縄の21世紀を決めるビジョンを発表しました。改訂が2度ありましたが、政権交代の前年の2008年に改定した沖縄ビジョンで、日米安保を日本の安全保障政策の基礎としつつ、「日米の役割分担の見地から米軍再編の中で在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化を踏まえて、国外への移設を目指す」と明記しました。
 すなわち、私たちはまず県外、できれば国外ということを党の政策として決めたわけです。私が、「最低でも県外」と言ったのは、まさにここから来ています。すなわち、党としての政策だったからです。しかし、この認識が党内でもマスメディアでもきわめて薄く、「最低でも県外」とは、あたかも私一人が勝手に言い出した言葉のように錯覚され、誤解されています。
 (中略 一部の関係閣僚の非協力を示唆し、防衛省、外務省の妨害を指摘し、オバマ大統領の好意的対応に触れた後)
 いわゆるジャパン・ハンドラーの方がた、日米関係で今まで、まさに安保で生きていたような方がたからすると、決めたことを破った鳩山は憎かったかもしれませんが、それ以外のところでおかしくしたとは思っておりません。

 鳩山さんは、「普天間移設問題」に、はじめてまともに向き合った総理大臣であったと言っていいだろう。 残念ながら、今の民主党は、この立場を継承していない。「コンクリートから人へ」も継承していない。今度の選挙、民主党政権の3年間、安倍政権の2年間、しっかり検証したい。安倍政権の悪政に反対する政党は、確かな明日を指し示して欲しいものだ。 (了)

「特定秘密保護法」はテロリストやスパイを相手にしている?

 共同通信(19日0時44分配信)によると、安倍首相は、18日夜のTBS番組で、特定秘密保護法について「テロリストやスパイを相手にしている。国民は基本的には全く関係ない。これは施行してみれば分かる」と指摘し、同法施行によって映画の製作活動が制約されるとの批判が一部で出ている点にも触れ「映画が作れなくなったら、私はすぐ首相を辞めてもいい」と強調したとのことである。

 安倍首相の解散表明の記者会見における発言やその後の一連のテレビ番組で発言は、何かに怯えて吠え立てているような虚ろな響きが感じられるようであった。こういうのはデマゴーグ、とてもまともな検討に堪えるものではない。

 たとえば、消費税率再引き上げ時期を1年半先送りすることを解散・総選挙の理由としたことを、「税制こそ議会制民主主義と言ってもよい。その税制において大きな変更を行う以上、国民に信を問うべきであると考えた」と述べたが、「社会保障の安定財源の確保等を図る税制の抜本的な改革を行うための消費税法の一部を改正する等の法律」第18条3項は、次のように定めている。

 「この法律の公布後、消費税率の引上げに当たっての経済状況の判断を行うとともに、経済財政状況の激変にも柔軟に対応する観点から、第二条及び第三条に規定する消費税率の引上げに係る改正規定のそれぞれの施行前に、経済状況の好転について、名目及び実質の経済成長率、物価動向等、種々の経済指標を確認し、前二項の措置を踏まえつつ、経済状況等を総合的に勘案した上で、その施行の停止を含め所要の措置を講ずる。」

 これに基づいて、安部内閣は「その施行の停止を含め所要の措置」を講ずることを負託されているのであって、それは安倍内閣の責務でこそあれ、あらためて解散・総選挙により国民の信を問うべき問題ではない。もし、解散・総選挙をするとすれば、その責務を怠り、誤った判断をしたため国民的糾弾の声が高まり、収拾がつかなくなったときであろう。

 安倍首相の言は、虚空に拡散するばかりである。

 またたとえばアベノミクスの成果として、「われわれが政権を獲ってから、(国民総所得は)プラスになっています。マクロにでは明らかにプラス」、「事実、6割の企業が賃上げしてるんですから」(以上18日の「NEWS23」)、「労働者の賃金はあがっている」、「雇用は増えた」「企業の利益が増えている。これからその成果が表れてくる」(以上18日のNHKニュースウォッチ9)などとも述べている。

 しかし、GDPが、今年度1Q、2Qと6ヶ月間連続して前年度を下回り、いまや景気後退局面に入っていると見るべきであろうし、18日発表された厚労省・毎月勤労統計調査(確報)では、実質賃金指数の前年割れは実に2013年7月以来直近の2014年9月まで連続15ヶ月続いており、雇用も、最新の総務省・労働力調査によれば2012年7月~9月期に比べて2014年7月~9月は、非正規雇用123万人増に対し正規雇用22万人減で、むしろワーキング・プアを拡大しているだけという結果となっている。企業の利益は、資本金10億円以上の大企業は驚くほどの利益をあげ、満腹状態にあるのに一向に吐き出す気配はなく、肥満の度は加速するばかりである。

 安倍首相の言は掃き溜めに吸い取られるばかりである。

 さて頭書の「特定秘密保護法」に関する安倍首相の発言であるが、私は、これを見て、1937年8月制定・改正軍機保護法の、第70帝国議会・衆議院における審議に際し、政府委員として出席して行った陸軍省阿南惟幾兵務局長の次の発言を思い出した。

 「狙いどころは他から来るところのスパイ、極めて稀に本邦人が彼らから唆されてそういうことをやる、ある極めてごく少数の一部、この一、二の欲望のために犯す、こういうのでございまして、他の国民全部は、この味方であり、全力を挙げて国家の不利なることは防ぐという日本国民の特性を十分信頼しての案でございます」

 なんと安倍首相の発言と似通っていることだろうか。

 その軍機保護法は、1937年10月に施行されるや一般の善良な国民に襲いかかったことを、砂川事件伊達判決の裁判長であった伊達秋雄氏が最高裁調査官を務めていた当時に書かれた論文が明らかにしている(伊達秋雄「軍機保護法の運用を顧みて」ジュリスト1954年6月)。

 それによると施行後2年間余りで、受理件数159件、人数280人、うち起訴されたのは31件44人、不起訴127件235人であった。

 これは特高警察や憲兵による軍機保護法濫用の事実を雄弁に物語っていると考えていいだろう。通常、統計データにあがるのは実際に発生した事件の一部であり、氷山の一角であると言っても言い過ぎではない。そのことも加味して推測するに、特高警察や憲兵は、日頃から国民監視の網を広げ、挙動不審者、自己主張をするもの、思想や宗教的に問題があると思うもの、動員や配給不足に不満を漏らす者、とりわけ外国人と接触のある者などを、憶測に基づいて引っ張ってくる、たいしたこともなく純朴に頭を下げればそれで終わる、しかし少しでも反抗的であれば徹底的に絞り上げる、みせしめとして事件をデッチあげる、こういうことがまかりとおっていたと考えられるのである。

 その典型は、北大生宮澤弘幸、ハロルド・レーン、ポーリン・レーンに係る軍機保護法違反事件であった。この件については、当ブログの11月5日欄に紹介したのでご一読願いたい。

 かくて戦前、我が国民が、ただひたすら大本営発表を信じるばかりの卑屈な精神構造を植え付けられたのは、このようにして強権的に耳も口もふさがれたことも一つの原因をなしていたと言えるのである。

 私たちは安倍首相の発言を決して信じてはならない。(了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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