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それぞれの「対米平等」志向と現実・・・鳩山一郎の場合

 吉田茂は、1946年5月から1947年5月までと、短い中断をはさんで1948年3月から1954年12月まで、占領下と独立後の長期にわたってわが国の舵取りをしてきた。これを吉田時代というとすれば、わが国戦後政治体制は、吉田時代に祖型ががっしりと固められたといってよいだろう。
 わが国戦後政治体制とは、対米従属の下での経済復興を追求し、大国化を進めるための政策体系と政治システムである。
 「臣茂」を標榜する吉田は、若い頃から対英米協調主義を極端な米国依存主義に転換させた昭和天皇と共鳴しつつズブズブの対米追随路線をひた走ったのであった。

 吉田時代以後、幾人かの政治家が、対米「平等」を掲げて政権運営に当たった。そのトップバッターは鳩山一郎であった。

 鳩山は、1946年4月に実施された戦後はじめての総選挙を、自由党を率いて戦い、勝利をおさめた。当選者数の状況は次のとおりである。

自由党   140   無所属    81
進歩党    94   諸 派    38
社会党    92   協同党    14
共産党     5

 この結果を受けて、幣原内閣が総辞職をし、次の政権は、社会党の閣外協力の合意を得た自由党に渡ることが明らかな情勢となった。つまり鳩山内閣成立は目前のところまで進んでいた。ところが、ここで突如としてGHQから鳩山に対する公職追放令が発布されたのである。同年5月、そのため鳩山のかわりに、急遽、吉田・自由党政権が誕生することになった。
 鳩山には、当然、公職追放解除・政界復帰時には吉田は政権返上するだろうとの期待があったであろうが、吉田は、磐石の政権基盤のもと長期政権を維持し続けた。1951年8月、追放解除、しかし同年6月に患った脳梗塞のため、政界完全復帰は遅れてしまった。苦節8年、ようやくにして首相の座を射止めたのは、吉田政権が熟した柿の如くに落ちた1954年12月のことであった。翌年2月までの短い期間であるが第一次鳩山政権と呼ばれている。

 鳩山には、裏切り者・吉田に対するルサンチマンはひとしおだったことだろう。さらには「理不尽」な公職追放を行わせた米国に対する反感も人間であれば当然あったであろう。それに戦前、ロンドン軍縮条約を締結した若槻・幣原及び海軍条約派に対し、統帥権干犯を声高に叫び、対英米協調路線を痛撃した彼には、対米追随をいさぎよしとはしない素地がもともとあったと言える。

 鳩山は、翌1955年2月の総選挙で、「鳩山ブーム」を巻き起こし、民主党を第一党に躍進させた。鳩山は、これを追い風として、より安定した第二次鳩山政権をつくる。第二次鳩山政権は、日ソ国交回復や国連加盟を具体的な目標に掲げ、いわゆる自主外交を展開しようとした。また改憲、自主憲法制定により軍備を増強し、米軍の撤退を求めていくことを安全保障政策の重要課題とした。これらあいまって第二次鳩山政権においては、「対米平等」と「独立の完成」をやり遂げることが究極の課題であった。

 その「対米平等」と「独立の完成」はどの程度成功したのであろうか。

 1955年8月、鳩山政権の外相重光葵が訪米し、ダレス国務長官と会談した。重光は、「現在の一方的安保条約に代わる相互的基礎に立つ新防衛条約を両国間に締結する」ことを果敢に訴えた。「日本国民は何故日本が不平等でなければならないか了解しかねている。われわれは国民に対し、日本が再び平等になったということが言いたいのである」とも哀願した。しかしダレスに、「日本は本当に米国を援助することができるのか。未だ日本は相互防衛の能力がない」、「自衛力が完備し、憲法が改正されればはじめて新事態ということができる。現憲法下において相互防衛条約が可能であるか」などと軽くいなされてしまったのであった。

 では日ソ問題ではどうか。鳩山政権は、ソ連との間で領土問題の解決と平和条約締結に向けて積極的に交渉をした。これに対し、米国は猛然と介入してくる。1955年4月9日に採択された「米国の対日政策」(NSC5516/1)は、「ハボマイ、シコタンに対する日本の主張を支持する。クリル諸島と南サハリンに対するソ連の主権主張には同意しない」と宣言した。自ら取り交わしたヤルタ密約を反故にし、サンフランシスコ講和条約にも抵触する宣言を敢えて行い、日ソのデス・マッチをけしかけているのである。

注1 1945年2月のヤルタ密約は、南サハリンはソ連に返還され、クリル諸島はソ連に引き渡されることを確認していた。
注2 サンフランシスコ講和条約第2条c項は、日本は、千島列島並びにポーツマス条約で取得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄することを確認した。

 こうした介入にもかかわらず、鳩山政権は総力をあげて日ソ交渉を進めた。その結果、国益重視の立場から譲歩もやむなしとして、以下の合意を含む日ソ平和条約を締結することを米国におうかがいを立てた。

・わが国の国連加入に対する拒否権不行使
・戦犯を含む抑留邦人全部の釈放・送還
・領土問題では、ハボマイ、シコタンの返還

 しかし、これに対して、わが国の対ソ協調を危惧する米国が猛反対する。1956年8月19日、重光外相とダレス国務長官の会談が行われたが、そこでダレスは、「日本がクナシリ、エトロフ両島をソ連領と認めることはサンフランシスコ条約以上のことをソ連に認めることであり、もしそのような場合には米国としては条約26条により沖縄を領有する立場に立つものである」と言い放った。要するにソ連とハボマイ、シコタン二島返還で平和条約締結に至れば、沖縄は分捕るぞと恫喝を加えたのである。世にこれを「ダレスの恫喝」という。

注 サンフランシスコ講和条約第26条には、「日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。」とある。

 さすがにこれには鳩山もお手上げであった。自民党内は揺れる。外務省の抵抗も増幅される。日ソ平和条約締結は暗礁に乗り上げた。鳩山は、ここで日ソ共同宣言にハボマイ、シコタン二島返還を盛り込み、その他の領土問題は継続協議として、領土問題解決時に平和条約を締結するとの考えをソ連側に伝える。しかし、ソ連側はこれに応じず、結局、1956年10月19日に公表された日ソ共同宣言では、国交回復を確認したが、領土問題では、ソ連はハボマイ、シコタン二島を日本に引き渡すことに同意し平和条約締結後に現実に引き渡されるとまどろっこしい表現となってしまった。

 米国は、日ソ間の領土紛争継続を望み、その目論見は達成された。北方領土返還運動は、日ソ間の喉の奥に刺さった骨であり続け、今も日ロ間の喉の奥に刺さっている。

 鳩山政権は、改憲、自主憲法制定により軍備を増強し、米軍を撤退させるという政策でも何らの前進もできなかった。もっともこれは政策自体が悪すぎた。

 かくして鳩山の「対米平等」志向は、空回りして終わったのである。 (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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