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「共産革命」の危機を訴えた近衛上奏文

 今日は12月8日。昨日に続いて戦争の話題をもう一つ。

 1943年2月・ガダルカナル撤退以後、わが日本軍は全戦全敗を重ね、1944年6月・マリアナ諸島失陥、翌7月・東条内閣退陣、同年12月~1月・レイテ決戦敗北とフィリピン放棄と続く。日本列島には、米軍の誇るB29爆撃機から雨あられのように爆弾や焼夷弾が降り注ぐ。

 かくして日本の敗北がもはや時間の問題となった。そのことを確認したかのように、1945年2月4日から11日まで、ソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。これがヤルタ会談である。

 ヤルタ会談では、ヨーロッパにおける戦後処理の問題が主に話し合われたのであるが、日本問題についても話し合われ、重大な密約が取り交わされた。それは、ドイツ降伏後3ヶ月をメドとしてソ連が対日参戦すること、その見返りとして南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させること及び千島列島をソ連に引き渡させることなどというものであった。

 丁度そのころ、わが国においても、昭和天皇が、首相経験者や元内大臣といった7名の重臣たちを一人ずつ宮中に呼んで、戦局に関する意見を聴取していた。7名のうち、戦争の終結に踏み切るべきだという意見を述べたのは近衛文麿ただ一人であった。

 その近衛が、戦争を早期に終結させるためのはかりごとを開始したのは同年1月下旬のことであった。京都・宇多野の別邸・虎山荘に、元首相岡田啓介、元首相で現海相米内光政、仁和寺門跡岡本慈光らを招き、あるいは別途、高松宮の訪問を受けて、和平工作の密議をこらしたのであった。その中で、昭和天皇は退位、仁和寺に隠遁させるなどとする構想も練られた。ウーン、さすがは五摂家筆頭の当主だ、高貴なお方の考えることは違うなとうならされる。

 近衛は、同年2月14日、昭和天皇に呼ばれて拝謁し、練りに練って書き上げた上奏文を読み上げた。以下はその抜粋である。

 「敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。
つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。即ち国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。我国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存侯。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧洲諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座侯。」

 今、国内外の情勢は、「共産革命」に急速に進行しており、座視して敗戦をさきのばしすれば、ソ連の支援でわが国も「共産化」する。だから英、米国に早期に降伏してしまった方がよい。そうれば国体を守ることはできる。近衛は、このように迫ったのであるが、昭和天皇は「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べて、これを採用しなかった。

 昭和天皇は、本当は平和主義者であったと信じられているようであるが、開戦を決断して以後は、人が変わったように、勝利の報に喜び、敗勢になってからは一大打撃を与えて有利な情況を作り出して和平をするという持論に固執を続けていた。昭和天皇が、軟化したのは、沖縄戦の見通しとヨーロッパでのドイツ敗北がはっきりしてきた同年5月初旬のことであった。このことは正しく見ておく必要がある。

 ところで近衛上奏文にいうように、当時、わが国は、「共産革命」が進むような情勢があったのであろうか。私は、かつては、これは近衛の妄想ではないかと思っていたが、必ずしもそうとはいいきれないように思えてきた。

 実は、当時の状況を見ると、長期にわたる総動員・総力戦の結果、わが国の産業構造が重化学工業と軍需産業重用へとシフトし、そこに働く労働者が増大し、商店主・小経営者などの中間層の没落し、かつ全体的に窮乏化することにより、「共産革命」の主体となる分厚いプロレタリアートが形成されつつあった。また国民意識の面でも、闇取引の日常化、空襲による破壊と死・戦病死者の急増などで、軍や官、国家と法秩序に対する不信と、状況によってはそれらに抵抗し、反逆する不遜な意識が広がりつつあった。確かに、「共産革命」の客観的な条件はできつつあったのである。これにイデオロギーと戦略・戦術を備えた部隊があれば「共産革命」に転ずる芽はあったということはできる。近衛は、若い頃、河上肇に師事したことがある。マルクスの著作も読んでいただろう。「共産革命」の危機は、決してウソやデマ、デタラメの放言ではない。近時の近現代史家は、戦時総動員体制と総力戦による社会と民衆の変化を重視するが、近衛は、眼前に進行する変化を適確に見ていたのである。(了)

日中戦争はこうして始まった・・・盧溝橋事件

 12月8日を前に戦争の話題を一つ。

 盧溝橋事件の直前、中国・華北方面における日中両国の軍隊の配置状況は、次のとおりであった。

 まず中国側。わが関東軍は、満州事変後の塘沽停戦協定(1933年6月)後、しばらくおとなしくしていたが、1935年以後、再び動き出した。いわゆる華北分離作戦である。これによって察洽薾(チャハル)省を追われた抗日の意気高い第29軍が、北京の防備を固めていた。

 次に日本側。中国・天津に支那駐屯軍という部隊が置かれていた。1901年の義和団事件の際に、清国政府に認めさせたものである。もともとの将兵の数1771名という小規模な部隊であったが、1936年、陸軍は、防共と在留邦人保護を名目にして、中国側とは何らの協議もしないまま、これを5774名に増強した。

 これら二つの軍隊の間に発生した小競り合いのような武力衝突が盧溝橋事件である。

 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近において、支那駐屯軍第1連隊第3大隊に属する第8中隊の将兵が演習をしていた。丁度そのころ、同じように近くで中国側の第29軍に所属する一部の部隊も演習をしていた。そこに銃声が鳴り響き、日本側の主張では、最初は数発、続いて十数発の弾丸が撃ち込まれたとのこと。兵士1名が行方不明になったといって大騒ぎとなる。15分もたつと何のことはない、その兵士は小用をたしていたと言って戻ってきた。しかし、連絡が徹底せず、捜索を続けているところへ、これまた日本側の主張では、またまた銃弾が撃ち込まれたと言う。何だか謎めいてよくわからないが、この偶発事件をきっかけに、いきり立った第1連隊・連隊長牟田口廉也大佐が、独断で攻撃命令を出した。
 その結果、両軍の間で武力衝突が発生した。しかし、この武力衝突は、上部機関の外交的折衝によって、翌々9日には停戦協定が成立し、一旦、戦闘は終わったのであった。ところが、かの牟田口大佐の独断専行は続く。なんと停戦協定を無視して部隊を進軍させたのである。驚いてかけつけた旅団長河辺正三少将が止めようとしたところ、牟田口大佐はこれを睨みつけ、強引に攻撃を黙認させてしまった。以下は目撃談である。

 「旅団長は顔面蒼白、今にも一喝するかと思われる相貌となった。両者相対する距離わずかに3メートル。恐ろしい剣幕に私は圧倒され、・・・中略・・・。両者睨み合うことわずか2、3分ではあったが、私には長い時間があった。旅団長は遂に一言も発せず踵を返して旅団司令部に引き返された。」

 かくして戦闘が、再び始まり、拡大して行った。

 11日には、陸軍は、内地から3個師団、朝鮮から1個師団、満州から2個旅団派遣を決定、時の近衛文麿内閣(同年6月、林銑十郎内閣の総辞職を受けて、組閣したばかりであった。)もこれを承認。近衛首相は、中国国民政府に対し、19日までに謝罪をすることと現地付近の中国軍の撤退を強硬に要求し、これが受け入れられない限り「武力膺懲」を行うことを通告したのであった。そして早くも同月13日、我が国内では、新聞各紙が一斉に「暴支膺懲」を煽るキャンペーンを開始し、国民は、これに熱狂的に応え、「暴支膺懲」の叫びは全国津々浦々に響き渡った。

 このようにして泥沼の日中戦争は始まった。盧溝橋事件をめぐってはさまざまな陰謀・謀略論があるが、決定的な証拠はない。しかし、牟田口大佐の独断専行が、一つの推進力になったことは間違いないだろう。

 牟田口大佐は、後に、こんなことを云っている。

 「盧溝橋事件の際、私の連隊が独断で敵を攻撃したが、当時の河辺旅団長は私の独断を許され、旅団命令で攻撃したようにとりつくろっていただいた。私は当時、旅団長の処置に非常に感激した」

 この牟田口大佐は、その後も順調に出世をして中将に昇進、1944年当時にはビルマ駐屯第15軍の司令官となっていた。だが、思い込みと強引さは歳をとり、将軍の地位に上り詰めても変わらないようだ。彼、牟田口中将は、アジア・太平洋戦争史上、最悪の作戦といわれるインパール作戦を、幕僚たちの強い反対を押し切り、強行させたのであった。この無謀な作戦により、参加人員10万名の将兵のうち実に3万名が戦死、2万名が戦病死したとされる。無為に山中を彷徨し、散って行った人びとの無念はいかばかりであろう。しかし、牟田口中将は、撤退を決断した部下を「無能」、意気地なし」などと罵るばかりであった。

 牟田口中将は、戦後、A級戦犯容疑で逮捕され、シンガポールに移送されて裁判を受けたが、無罪放免され、1966年まで生きながらえた。晩年まで、インパール作戦の正当性を弁明し続けたという。

 上意下達の軍隊組織においては、自信過剰と独断専行の人物が輩出しやすい。そして彼らが指導的地位につくと、国の進路を誤らせることになる。牟田口廉也氏はその一例である。(了)

蛸が自分の足を食らうような倒錯した構造

 私は経済・財政の素人であるから大きな誤りがあるかもしれないが、敢えて日頃抱いている問題意識を披瀝してみることとする。間違いがあれば是非ご教示願いたい。

 雑誌『世界』12月号の高橋伸彰氏(立命館大学教授)が『アベノミクスに対する尽きない疑問』と題する短い論文を書いておられる。その論文中において、私の漠然と考えていた事実をきれいに整理してくれている。それは以下の事実である。専門家にとっては当たり前のことかもしれないが、おそらく多くの人は、私同様きちんと整理できていなかったのではないかと思うがいかがであろうか。
 とまれこれらは、日本経済の現状を考えるにあたって、極めて重要な事実であると思う。

第一の事実・・・税収の激変
 1991年度と2012年度は、名目GDPは470兆円台でほぼ同水準であるのに、所得税収は26兆円から14兆円に、法人税収は18.4兆円から8.6兆円に激減している。(なお、これは上記論文中では指摘されていないが、同じ年度比較で、消費税収は5兆円から10.4兆円に増大している。)
 名目GDPが同一水準なのに、何故、所得税収と法人税収がかくも大幅に減ったのか。その理由としては、前者については累進税率の緩和(1991年度は課税所得2000万円超に対し50%であったが、2012年度は課税所得1800万超に対し40%)や不動産譲渡益に対する軽減税率の適用、後者については法人税率の大幅引き下げ(1991年度は40%、2012年度は25.5%。各種特別措置を受けやすい大企業においては、実質税率はさらに低くなる。)が、指摘できる。

第二の事実・・・財政赤字の大幅な増大
 財政赤字は、1991年度末で172兆円であったのに対し、2012年度末には705兆円に増大、安倍政権発足後も更に増勢を続け、2014年度末には780兆円となる見通しである。

 さて以下では上記論文とは離れて、私の考えを述べることとする。私は、これら二つの事実は、わが国経済・財政に大きな歪をもたらしているのではないかと思うのである。

 まず税収構造が、大きな利益をあげた者、大きな所得があった者の担税力に着目し、その担税力の大きさに応じて税を負担させるというものから、商取引から生存確保のための消費取引に至るまで、広くくまなく、等しい税率で負担させるというものに、変わってしまった。これは税思想の根本的転換、即ち税による富、所得の再分配を行うという思想から誰もが等しく負担するという大衆課税、形式的平等主義への転換でもある。

 同時に、それは、富裕層から厚く税をとり、それを低所得者の生活向上の原資にまわすという福祉国家の理念との訣別であり、レッセフェール、自己責任原則が跋扈する新自由主義への移行でもある。

 これによって企業や個人の思考や行動も抜本的に変化していく。大きな収益をあげた企業においては、収益のうち企業内にストックされる部分が確実に増大する。また高額所得層は所得の大部分をため込むことになる。それらはどこに行くか。債権市場や株式市場に流入することになることは言わずもがなである。利益を得るためのショートカットであり、ここにわが国経済の寄生的構造の変質の第一歩が始まる。
 やがてその規模は無限に拡大していく。企業や高額所得層のため込んだ富は、各種債権への投資や株式への投資に特化し、設備投資や消費にまわされない。わが国経済の成長はとまることになる。

 債券市場に流れ込んだ潤沢な資金によって、国債は安定的に買い支えられる。政府は安心して赤字国債を発行し、財政赤字が定常化し、拡大する。その繰り返しにより、上記の天文学的財政赤字が生み出されたのである。そうなると政府は、財政赤字がはじけてしまわないように、大企業や高額所得層の優遇をし続けなければならない事態に至る。わが国財政も、経済の寄生的構造の上にさらに寄生をすることになる。

 一方、その対極にある一般国民においては、窮乏化が進行する。厚生労働省が本年7月にまとめた「国民生活基礎調査」によると、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得)の中央値の半分の額に当たる「貧困線」(2012年は122万円)に満たない世帯の割合を示す「相対的貧困率」は、16.1%にものぼっている。

 経済・財政の寄生性とそこから吐き出される膨大な貧困層、これが現在の日本の経済・財政の特質である。アベノミクスは、そこにメスを入れるのではなく、さらに輪をかけて進めて行こうというものであり、破綻は最初から宿命づけられている。 (了)

それぞれの「対米平等」志向と現実・・・安倍晋三の場合

 以下は2009年2月11日に行われた「建国記念の日奉祝中央式典」における安倍晋三の講演からの抜粋である。

  わたくしは残念ながら、この占領下にあって、日本はその姿かたちを占領軍の手によってつくりかえられたのだろうと、このように思うわけでございます。憲法ができ、そして、教育基本法ができたわけでございます。
この憲法、そして、教育基本法といった、この時に出来上がった戦後の仕組みをもう一度、根本から見直しをしていって、21世紀にふさわしい日本をわたしたちの手で作っていこうというのが「戦後レジームからの脱却」でございます。
(中略)  
 まあ、総理時代には大変批判も浴びましたし、必ずしも、「わかりにくいじゃないか」と言われて評判も良くなかったわけでございますが、しかし、一年間の短い期間ではありましたが、なんとか、国民投票法、そして教育基本法の改正を成し得たことは、わたくしの誇りとするところでございます。   
まあしかし、まだまだこれからですね。この憲法でございますが、まさに戦後レジームの要であろうと、わたくしは思います。
(中略)
 その中では、当然、今後さらに世界で貢献を果たしていくためには、憲法の改正が必要であろうと思いますし、また、憲法を改正しなくても、たとえば、集団的自衛権の行使の問題がありますね。この集団的自衛権の行使等々の問題について、解決をしなければならないと思います。

 これはアジテーションのたぐいである。安倍は、占領下で作られた日本国憲法とこれに基づく統治体制を「戦後レジーム」と総称し、占領軍に押し付けられた「戦後レジーム」からわが国を脱却させ、その呪縛から解き放つと、声をはりあげ、聴衆の伝統的ナショナリズムをくすぐっている。おそらく、この「建国記念の日奉祝中央式典」に出席している人たちは、国家主義ないしは民族主義に親和的な層であろうから、安倍も心を許して話したのであろうし、きっと出席者らもおおいに溜飲を下げたことであろう。

 だが安倍のこの話は、前提省略、論証省略、結論ありきのまことにしまりのないものなのである。

 安部の話で省略された前提とは、わが国の占領は、何によってもたらされ、占領目的は何であったかということである。いうまでもないことだが、わが国の占領は、軍国主義と絶対主義的天皇制国家であったわが国が、無謀な企てをし、近隣諸国と世界に未曾有の被害をもたらした侵略戦争に敗北したこと、この侵略戦争と戦った連合国に無条件降伏したことにより、開始されたものである。わが国は、ポツダム宣言を受諾し、連合国がその目的を実施するためにわが国を占領することを受け入れた。このポツダム宣言こそわが国戦後改革の羅針盤である。

 ポツダム宣言には次の条項がある。

・ 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。

・ そのような新秩序が確立せらるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。

・ 日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。

・ 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。

 ポツダム宣言受諾によって、わが国政府は、連合国に対し、ぬきさしならない約束をしたことになる。わが国政府は、平和、民主主義、基本的人権を尊重する国づくり、そのための憲法を制定し、新しい憲法のもとで国家再建に取り組む義務を負うことになったのである。しかるに、旧態依然たる政治思想の持ち主が多数を占める政府は、それをサボタージュし続けた。GHQ側から憲法草案を呈示されることになったのはそれが原因であった。
 その後、わが国政府も、立法府も、また国民も、GHQ草案を積極的に受け入れ、これに基づいて自主的に憲法を制定し、平和と民主主義、基本的人権尊重の戦後憲法体制を作り上げて行ったのである。

 安倍はこのことを省略してしまった。そして戦後憲法体制を「戦後レジーム」などと侮蔑をこめて呼び、それから脱却し、その呪縛を解き放つなどと言う。しかし、何故に脱却し、解き放つのか、論証を省略している。論証すると、結局、米国をはじめ国際社会から指弾され、国際的孤立を招くことになるからであろう。

 その論証とは、結局、ポツダム宣言受諾を誤りとし、無条件降伏を誤りとし、さらにはアジア・太平洋戦争を正当とすることに行き着かざるを得ない。これでは近隣諸国や米国は勿論、世界の世論が沸騰する。
 
 安倍は勇ましいことを言う。しかし、真の姿は、核心部分を省略し、隠してしまう卑怯者である。だから、最後は、米国の許容する範囲にとどまることになる。

 彼は、これまで述べた鳩山、岸、池田の二番煎じ、出がらしに過ぎない。(了)

「満蒙の特殊権益」なる幻想に発した満洲事変

 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ シリーズ日本近現代史⑤』(岩波新書)を読んだ。本書は、通史のシリーズもの歴史書としては極めてユニークな本である。概してこのシリーズのものは力作ぞろいであるが中でも本書はピカイチである。是非ご一読をお薦めしたい。

 満州事変のキーワードは、「満蒙の特殊権益」であった。関東軍を前衛に押し立てた軍部は、「満蒙の特殊権益」を死守せよとのプロパガンダを大々的に展開し、中国への侵略と干渉を正当化した。「満蒙の特殊権益」なる特殊観念は、情緒的な響きをともなって国民各層に浸透していった。本書は、この「満蒙の特殊権益」論にこだわりぬいている。実に、その三分の一ほどが「満蒙の特殊権益」論である。

 「満蒙」とは何か。それは南満洲及びこれに隣接する内蒙古の東部地方という地域を指している。しかし、それは状況に応じて空間的に拡大する変幻自在性をもっている。「特殊権益」とは何か。それは、わが国の専有や優先権の認められた権利と、これらに基づいてわが国が実施し、発展させた経済的・政治的な諸利益ということを意味する。

 両者連結して「満蒙の特殊権益」という。何だ、それでは全然展開がないではないかと思うであろう。確かにそうだ。「満蒙の特殊権益」とは、もともと結論ありきのトートロジーになるべき宿命をもった中国への干渉と侵略のための道具概念だから。

 「満蒙の特殊権益」を主張する基礎となっているものは、①日露戦争後のポーツマス条約による山東半島と南満洲鉄道に係るロシア権益の譲渡条項、②この譲渡を承諾させた日清条約、③その後狼に変じた日露帝国主義が接近して取り交わした満洲、内蒙古に関する相互の影響力を及ぼし得る範囲を画定した日露間の秘密協定、さらには④中華民国に対し対華21か条の要求をつきつけ、武力を背景にその受諾を迫った締結された「南満洲及び東部内蒙古に関する条約」(1915年5月25日調印)などの諸条約であった。

 「満蒙の特殊権益」を広義にとると、満蒙の地そのものがわが国の勢力範囲(支配圏)であるということを主張となる。だが狭義にとれば上記①、②及び④の諸条約で個別に特定される具体的な権利、利益である。前者を概括主義、後者を列挙主義という。
 勿論、これは単なる事実もしくは状態ではなく、国際法上の概念であるから、国際社会の主要アクターたる列強諸国の承認が前提となる。

 軍部がプロパガンダで用いたのは、概括主義にもとづく「満蒙の特殊権益」であった。これは満蒙の地は、わが国において切り取り自由であり、あるいはまたわが国の生命線であるという身勝手な主張につながる。

 しかし、果たしてそのようなものが列強諸国に承認されたものと言えるだろうか。本書は、列強諸国に承認されたものだとされる論拠を一つずつ検討し、論駁する。そもそもこれは昭和初期まで実権を保持していた伊東巳代治によってさえ否定されたしろものである。
 結局、そのような概括主義に基づく「満蒙の特殊権益」なるものは、列強諸国に承認されたものではなく、独断、牽強付会によって生み出された幻想に過ぎないのであった。

 では限定列挙主義に基づく「満蒙の特殊権益」とはなんだろうか。それは第一に旅順・大連の租借権とこれに附帯する権利と利益であり、第二に南満洲鉄道及びこれに附帯する権利、その沿線炭鉱の経営権と鉄道の自主警備の権利(鉄道1名kmにつき15名を超えない守備隊の配置は条約の拡大解釈である。)であり、第三に南満洲における日本国臣民の自由往来、商業、工業、農業の自由とそのための土地・建物の所有の権利、第四に東部内蒙古における日本国臣民の現地民との合弁による農業・工業の経営の権利である。
 これらのうち、第四のものは必ずしも列強諸国により承認されたものとはいえない。

 このような限定列挙主義に基づく「満蒙の特殊権益」論でも批判はあるだろうが、これならば少なくとも満洲事変の引き金になることはなかっただろう。

 第一次世界大戦後は、帝国主義諸国間の領土切り取りの自由は否定され、戦争違法化、民族自決と領土保全、国際法遵守の流れが主流となり、わが国も、五大国の一員となり、国際連盟の常任理事国として、この主流に掉さしていた。しかるに軍部と超国家主義者によってふりまかれた概括主義に基づく「満蒙の特殊権益」の幻想により、わが国は、途方もない侵略戦争への道をひた走ってしまった。

 領土問題をはじめ、諸外国との懸案事項は、事実に基づき冷静に検証すること、権利と利益の争いごとをナショナリズムの梃子にしたり、ぬきさしならない国家間の紛争にしたりしてしまわないこと、これが「満蒙の特殊権益」論からくみ出すべき現代への教訓である。  (了)

それぞれの「対米平等」志向と現実・・・池田勇人の場合

 岸信介は、米国の手のひらの上で踊り、対米従属の軍事同盟を安定的に維持し、世界戦略展開の拠点を米軍に提供し続けるべく、安保条約の装いを新たにしようとした。そのために国会議事堂内に警官隊を導入し、暴力的に野党議員の抵抗を抑え込み、自民党単独強行採決を重ねた。岸はわが国憲政史にに武闘派の伝説を残したのである。

 しかし岸の強権的な手法は、安保改定に反対し、民主主義擁護の運動を燃え上がらせたことも確かである。樺美智子の死をもって今も語り継がれている60年安保闘争は、わが国大衆運動史上空前の規模に達し、さすがの岸も縮み上がったようで、その余燼のくすぶる中、退陣を決断することとなった。

 岸退陣のあと、自民党総裁の座を射止めたのが池田勇人である。池田は、鳩山や岸のように、戦前軍国主義華やかなりし頃の政治にコミットした経験はなく、政治家としてのデビューは戦後のことであった。大蔵官僚ではあるが、病気のため苦労した分、さばけた正確の持ち主で、なかなかの頑固者、堂々と持論を論ずる論争家でもある。「貧乏人は麦を食え」との迷言は、誰もが記憶しているだろう。

 池田が内閣総理大臣に指名されたのは、1960年7月のことであった。その後、池田政権は、池田が咽頭ガンのため1964年10月、東京オリンピックの閉会を見届けて退陣するまでの4年余り継続した安定政権であった。

 ところで池田政権といえば、政策としては高度経済成長と所得倍増計画、政治姿勢としては「寛容と忍耐」、「低姿勢」を誰しも思い浮かべるだろう。岸の安保・防衛・外交問題重視、高飛車で強権的な政治姿勢とのコントラストはまばゆいばかりである。それは折からのケネディ・ライシャワー路線といわれる米国の対日微笑外交とコラボし、政治的に尖鋭化し、左右対立と米国離れが強まった国民意識を、経済的豊かさの重視、政治的安定、米国回帰へと導くこととなった。
 しかし、4年余りの池田政権をふりかえってみると、意外ではあるが、「自由主義陣営」の大国として、米国とのイコール・パートナーを志向し、米国・ヨーロッパ・日本の三本柱を強調し、アジアの盟主を自認する安保・外交路線を静かに、だが強力に推進していたことに気付かされる。

 池田は、在任中、わが国は自由主義陣営の大国だと、度々発言している。野党やメディアから、それを「むなしい大国意識」とか「日本帝国主義の復活」などと揶揄されると、「日本をどうして大国といって悪いのか。日本人は劣等感を捨てるべきであり、日本の本当の実力は他の大国と比べて優るとも、劣っていない」とムキになって反論したものである。

 1961年6月、訪米してケネディとの会談に臨んだとき、ヨーロッパでは東西ベルリンの自由往来問題をめぐって緊張が走っていた。池田は、ケネディに対し、「西方は断固として西ベルリンを守るべきで、これに屈服すれば自由陣営の統一が破壊され由々しいことになる。共産主義に対しては決して弱みを見せるべきではない」と強硬意見を述べた。その一方で、中国国連加盟について、「日本人の中国人に対する気持ちは地理的、歴史的関係もあり、戦争によって迷惑をかけたことも加わって米国と異なり親近感を有している。6億の住民が国連に代表されていないことは非現実的だと思う」と述べて、わが国は、これを阻止する構えの米国とは異なる考えであることを明言した。

 池田政権は、西ヨーロッパとの関係を重視し、西ヨーロッパ諸国を訪問、各国首脳とひ膝詰め談判をして、GATT(関税および貿易に関する一般協定)35条による適用排除(西ヨーロッパ諸国は、日本商品をダンピングとしてGATTの適用を排除し、日本商品に関税障壁をもうけた)の撤廃と、なかなか受け入れてもらえなかったOECD加盟に向けて、大きな歩みを進めた。
 池田が、ヨーロッパ諸国の首脳に繰り返し訴えたのは、反共体制・自由主義陣営結束のための、米・欧・日三本柱論であった。

 その三本柱論は、アジアにも向けられる。池田政権は、高度経済成長政策の成功により強化された経済力をバックに、アジア諸国への中国、ソ連の影響を排除するため、ビルマ、タイ、インドネシア、マレーシア、ベトナム、ラオスなどへ、積極的に経済援助を推し進めた。

 以上は池田政権の「対米平等」志向を示すものである。しかし、それは米国から見れば、日本をイコール・パートナーとして扱うことにより安保改定問題で傷ついた日米関係を修復させ、さらには日本の経済力を米国の世界戦略にガッチリと組み込み、「自由主義陣営」の防衛と強化のためにその役割と責任を分担させようという対日政策に沿うものであったということになる。

 池田も、やはり米国の手のひらの上で踊っていたようである。

 なお、池田政権は、対中国問題についても個性を発揮した。中国封じ込め政策をとる米国をしり目に、日中貿易の拡大にゴーサインを出し、非公式ながら中国にも門戸を開いた。しかし、これは中ソ対立のしたたかな読みに裏付けられたものであり、中ソの離間を策したものともいえる。政治は、表と裏をよく見る必要がある。 (了)

※この記事は吉次公介『日米同盟はいかにして作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』(講談社選書メチエ)を参考にした。
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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