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それぞれの「対米平等」志向と現実・・・池田勇人の場合

 岸信介は、米国の手のひらの上で踊り、対米従属の軍事同盟を安定的に維持し、世界戦略展開の拠点を米軍に提供し続けるべく、安保条約の装いを新たにしようとした。そのために国会議事堂内に警官隊を導入し、暴力的に野党議員の抵抗を抑え込み、自民党単独強行採決を重ねた。岸はわが国憲政史にに武闘派の伝説を残したのである。

 しかし岸の強権的な手法は、安保改定に反対し、民主主義擁護の運動を燃え上がらせたことも確かである。樺美智子の死をもって今も語り継がれている60年安保闘争は、わが国大衆運動史上空前の規模に達し、さすがの岸も縮み上がったようで、その余燼のくすぶる中、退陣を決断することとなった。

 岸退陣のあと、自民党総裁の座を射止めたのが池田勇人である。池田は、鳩山や岸のように、戦前軍国主義華やかなりし頃の政治にコミットした経験はなく、政治家としてのデビューは戦後のことであった。大蔵官僚ではあるが、病気のため苦労した分、さばけた正確の持ち主で、なかなかの頑固者、堂々と持論を論ずる論争家でもある。「貧乏人は麦を食え」との迷言は、誰もが記憶しているだろう。

 池田が内閣総理大臣に指名されたのは、1960年7月のことであった。その後、池田政権は、池田が咽頭ガンのため1964年10月、東京オリンピックの閉会を見届けて退陣するまでの4年余り継続した安定政権であった。

 ところで池田政権といえば、政策としては高度経済成長と所得倍増計画、政治姿勢としては「寛容と忍耐」、「低姿勢」を誰しも思い浮かべるだろう。岸の安保・防衛・外交問題重視、高飛車で強権的な政治姿勢とのコントラストはまばゆいばかりである。それは折からのケネディ・ライシャワー路線といわれる米国の対日微笑外交とコラボし、政治的に尖鋭化し、左右対立と米国離れが強まった国民意識を、経済的豊かさの重視、政治的安定、米国回帰へと導くこととなった。
 しかし、4年余りの池田政権をふりかえってみると、意外ではあるが、「自由主義陣営」の大国として、米国とのイコール・パートナーを志向し、米国・ヨーロッパ・日本の三本柱を強調し、アジアの盟主を自認する安保・外交路線を静かに、だが強力に推進していたことに気付かされる。

 池田は、在任中、わが国は自由主義陣営の大国だと、度々発言している。野党やメディアから、それを「むなしい大国意識」とか「日本帝国主義の復活」などと揶揄されると、「日本をどうして大国といって悪いのか。日本人は劣等感を捨てるべきであり、日本の本当の実力は他の大国と比べて優るとも、劣っていない」とムキになって反論したものである。

 1961年6月、訪米してケネディとの会談に臨んだとき、ヨーロッパでは東西ベルリンの自由往来問題をめぐって緊張が走っていた。池田は、ケネディに対し、「西方は断固として西ベルリンを守るべきで、これに屈服すれば自由陣営の統一が破壊され由々しいことになる。共産主義に対しては決して弱みを見せるべきではない」と強硬意見を述べた。その一方で、中国国連加盟について、「日本人の中国人に対する気持ちは地理的、歴史的関係もあり、戦争によって迷惑をかけたことも加わって米国と異なり親近感を有している。6億の住民が国連に代表されていないことは非現実的だと思う」と述べて、わが国は、これを阻止する構えの米国とは異なる考えであることを明言した。

 池田政権は、西ヨーロッパとの関係を重視し、西ヨーロッパ諸国を訪問、各国首脳とひ膝詰め談判をして、GATT(関税および貿易に関する一般協定)35条による適用排除(西ヨーロッパ諸国は、日本商品をダンピングとしてGATTの適用を排除し、日本商品に関税障壁をもうけた)の撤廃と、なかなか受け入れてもらえなかったOECD加盟に向けて、大きな歩みを進めた。
 池田が、ヨーロッパ諸国の首脳に繰り返し訴えたのは、反共体制・自由主義陣営結束のための、米・欧・日三本柱論であった。

 その三本柱論は、アジアにも向けられる。池田政権は、高度経済成長政策の成功により強化された経済力をバックに、アジア諸国への中国、ソ連の影響を排除するため、ビルマ、タイ、インドネシア、マレーシア、ベトナム、ラオスなどへ、積極的に経済援助を推し進めた。

 以上は池田政権の「対米平等」志向を示すものである。しかし、それは米国から見れば、日本をイコール・パートナーとして扱うことにより安保改定問題で傷ついた日米関係を修復させ、さらには日本の経済力を米国の世界戦略にガッチリと組み込み、「自由主義陣営」の防衛と強化のためにその役割と責任を分担させようという対日政策に沿うものであったということになる。

 池田も、やはり米国の手のひらの上で踊っていたようである。

 なお、池田政権は、対中国問題についても個性を発揮した。中国封じ込め政策をとる米国をしり目に、日中貿易の拡大にゴーサインを出し、非公式ながら中国にも門戸を開いた。しかし、これは中ソ対立のしたたかな読みに裏付けられたものであり、中ソの離間を策したものともいえる。政治は、表と裏をよく見る必要がある。 (了)

※この記事は吉次公介『日米同盟はいかにして作られたか 「安保体制」の転換点1951-1964』(講談社選書メチエ)を参考にした。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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