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日中戦争はこうして始まった・・・盧溝橋事件

 12月8日を前に戦争の話題を一つ。

 盧溝橋事件の直前、中国・華北方面における日中両国の軍隊の配置状況は、次のとおりであった。

 まず中国側。わが関東軍は、満州事変後の塘沽停戦協定(1933年6月)後、しばらくおとなしくしていたが、1935年以後、再び動き出した。いわゆる華北分離作戦である。これによって察洽薾(チャハル)省を追われた抗日の意気高い第29軍が、北京の防備を固めていた。

 次に日本側。中国・天津に支那駐屯軍という部隊が置かれていた。1901年の義和団事件の際に、清国政府に認めさせたものである。もともとの将兵の数1771名という小規模な部隊であったが、1936年、陸軍は、防共と在留邦人保護を名目にして、中国側とは何らの協議もしないまま、これを5774名に増強した。

 これら二つの軍隊の間に発生した小競り合いのような武力衝突が盧溝橋事件である。

 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近において、支那駐屯軍第1連隊第3大隊に属する第8中隊の将兵が演習をしていた。丁度そのころ、同じように近くで中国側の第29軍に所属する一部の部隊も演習をしていた。そこに銃声が鳴り響き、日本側の主張では、最初は数発、続いて十数発の弾丸が撃ち込まれたとのこと。兵士1名が行方不明になったといって大騒ぎとなる。15分もたつと何のことはない、その兵士は小用をたしていたと言って戻ってきた。しかし、連絡が徹底せず、捜索を続けているところへ、これまた日本側の主張では、またまた銃弾が撃ち込まれたと言う。何だか謎めいてよくわからないが、この偶発事件をきっかけに、いきり立った第1連隊・連隊長牟田口廉也大佐が、独断で攻撃命令を出した。
 その結果、両軍の間で武力衝突が発生した。しかし、この武力衝突は、上部機関の外交的折衝によって、翌々9日には停戦協定が成立し、一旦、戦闘は終わったのであった。ところが、かの牟田口大佐の独断専行は続く。なんと停戦協定を無視して部隊を進軍させたのである。驚いてかけつけた旅団長河辺正三少将が止めようとしたところ、牟田口大佐はこれを睨みつけ、強引に攻撃を黙認させてしまった。以下は目撃談である。

 「旅団長は顔面蒼白、今にも一喝するかと思われる相貌となった。両者相対する距離わずかに3メートル。恐ろしい剣幕に私は圧倒され、・・・中略・・・。両者睨み合うことわずか2、3分ではあったが、私には長い時間があった。旅団長は遂に一言も発せず踵を返して旅団司令部に引き返された。」

 かくして戦闘が、再び始まり、拡大して行った。

 11日には、陸軍は、内地から3個師団、朝鮮から1個師団、満州から2個旅団派遣を決定、時の近衛文麿内閣(同年6月、林銑十郎内閣の総辞職を受けて、組閣したばかりであった。)もこれを承認。近衛首相は、中国国民政府に対し、19日までに謝罪をすることと現地付近の中国軍の撤退を強硬に要求し、これが受け入れられない限り「武力膺懲」を行うことを通告したのであった。そして早くも同月13日、我が国内では、新聞各紙が一斉に「暴支膺懲」を煽るキャンペーンを開始し、国民は、これに熱狂的に応え、「暴支膺懲」の叫びは全国津々浦々に響き渡った。

 このようにして泥沼の日中戦争は始まった。盧溝橋事件をめぐってはさまざまな陰謀・謀略論があるが、決定的な証拠はない。しかし、牟田口大佐の独断専行が、一つの推進力になったことは間違いないだろう。

 牟田口大佐は、後に、こんなことを云っている。

 「盧溝橋事件の際、私の連隊が独断で敵を攻撃したが、当時の河辺旅団長は私の独断を許され、旅団命令で攻撃したようにとりつくろっていただいた。私は当時、旅団長の処置に非常に感激した」

 この牟田口大佐は、その後も順調に出世をして中将に昇進、1944年当時にはビルマ駐屯第15軍の司令官となっていた。だが、思い込みと強引さは歳をとり、将軍の地位に上り詰めても変わらないようだ。彼、牟田口中将は、アジア・太平洋戦争史上、最悪の作戦といわれるインパール作戦を、幕僚たちの強い反対を押し切り、強行させたのであった。この無謀な作戦により、参加人員10万名の将兵のうち実に3万名が戦死、2万名が戦病死したとされる。無為に山中を彷徨し、散って行った人びとの無念はいかばかりであろう。しかし、牟田口中将は、撤退を決断した部下を「無能」、意気地なし」などと罵るばかりであった。

 牟田口中将は、戦後、A級戦犯容疑で逮捕され、シンガポールに移送されて裁判を受けたが、無罪放免され、1966年まで生きながらえた。晩年まで、インパール作戦の正当性を弁明し続けたという。

 上意下達の軍隊組織においては、自信過剰と独断専行の人物が輩出しやすい。そして彼らが指導的地位につくと、国の進路を誤らせることになる。牟田口廉也氏はその一例である。(了)
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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