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憲法9条のアルケオロジー

 憲法9条は、無謀な戦争により悲惨な末路をたどったことをふまえ、わが国自身が、平和国家への再生の誓いのもとに、主体的に選び取った絶対的平和主義を世界に公約し、宣言したものでありました(たとえば幣原喜重郎『外交50年』中公文庫参照。当時の日本政府の指導層には天皇を象徴的存在として存続させることに連合国諸国の承認を得るとためにはその誓いが不可欠であったという特殊事情があったことは、その誓い意義をなんら減じるものではありません。)。
 以下では、そのように絶対的平和主義をうたう9条が、日本国民に、受容され、法的確信に支えられるようになったことを見ておきたいと思います。

1 絶対的平和主義を意味する9条は、第90帝国議会における衆議院憲法改正委員会、同小委員会、及び本会議における議論を通じて、吉田茂首相をはじめ政府関係者及び芦田均衆議院憲法改正委員会委員長らは、繰り返し、絶対的平和主義の理想を強調し、衆院。貴族院各議院において圧倒的な支持を受け、受容された。
 またそれは、広く国民に支持され、受容された。そのことは、既に1946年3月7日、日本政府の「憲法改正草案要綱」が新聞発表され、更には同年4月17日には口語体の「憲法改正草案」も発表され、国民に日本国憲法の条項が広く周知された後に行われた毎日新聞世論調査の結果(同年5月27日、同紙発表)において、「戦争放棄の条項を必要と答えた者」の割合は70パーセント、「不要と答えた者」28パーセントであったことに端的に示されている。なお「不要と答えた者」の実数568人のうち、「侵略戦争は無論放棄するべきだが、自衛権まで捨てる必要はない者」が101人あったことは興味深い結果である。当時、国民の中では、自衛権の行使まで否定することについて議論がなされ、危惧する者もいたのであるが、それは圧倒的に少数で、大多数はそれをのりこえ、積極的に自衛権の行使までも捨てる絶対的平和主義を支持し、これを受容したのである。

2 日本国憲法は、1946年8月24日、賛成428、反対8の圧倒的多数で衆議院で可決、貴族院送付され、同年10月6日、貴族院で一部修正のうえ可決、衆議院に回付、同月7日、衆議院で可決し、枢密院の議を経て、同年11月3日、公布された。
 上記公布後、同年12月1日には、帝国議会内に芦田均を会長として「憲法普及会」が組織され、政・官・学を総動員して、日本国憲法普及の運動が展開された。広く国民を対象とする啓蒙のための講演会の開催、公務員を対象とする研修会の実施、日本国憲法の解説書の刊行、「新しい憲法 明るい生活」と題する手帳大の小冊子を全世帯に行き渡るように2000万部発行、文部省による中学1年生用の社会科教科書「あたらしい憲法のはなし」の刊行、各新聞社の協力による日本国憲法に関する懸賞論文募集・発表、はては日本国憲法啓蒙のための映画、「憲法音頭」までありとあらゆる手段で、日本国憲法を国民に普及し、定着させる運動により、絶対的平和条項は、空気や水のごとく、国民に浸透して行った。

3 一方、連合国極東委員会は、GHQの憲法改正への係り方に疑念を抱き、GHQの介入による憲法改正手続は、ポツダム宣言の「日本国民の自由に表明する意思」に反するとの一部の国の主張に配慮し、同年10月17日、日本国憲法施行後1年以上2年以内(1948年5月3日から1949年5月2日の間)に再検討をすることを決定し、マッカーサーに伝達した。
 マッカーサーは、遅ればせながら、これに基づいて、1947年1月3日付吉田茂首相宛書簡で、「(前略)。施行後の初年度と第2年度の間で、憲法は日本人民ならびに国会の正式な審査に再度付されるべきであることを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考えている。(後略)。」と勧告した。
 これに対し、吉田首相は、同月6日付で、マッカーサーに対し、「1月3日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留めました。敬具  吉田茂」との返書を送っただけで、黙殺した。善解すれば、日本国憲法は国民の圧倒的支持を得ているので再検討には及ばないということであろう。
 吉田内閣から片山哲内閣、そし芦田均内閣へと、めまぐるしく政治は転変するが、1948年8月、芦田内閣のもとで、上記マッカーサー勧告に従い、ようやく日本国憲法改正の要否が論じられるようになった。その議論を通じて、憲法9条を改正せよという見解は皆無で、いくつか技術的な問題点が提起されたにとどまり、そのような問題で国民投票までして改正するようなことは疑問であるとの意見が大勢を占め、憲法改正論議は収束した。こうした経過から言えることは、日本政府は、自らの判断で、憲法を改正する必要なしと判断したということである。勿論、これに対して、国民の間から、積極的な反対意見が提起されることはなかった。

 かくして日本国憲法、なかんずく絶対的平和主義条項たる9条は、おそくとも1948年の終わりころまでには、わが国に定着し、国民の間に不動の地位を占め、法的確信によって支えられるに至ったのである。

※ 東アジアにおける冷戦構造の形成は、ドイツ、東欧の戦後体制をめぐって米ソが激突したヨーロッパよりも少し遅れました。それでも米国の対日占領政策は、1948年に入ると転換の兆しが次第に見られるようになります。民主化と非軍事化というポツダム宣言の掲げる占領目的は達成されたとして、わが国の経済復興に重点を置くということが占領政策転換の第一歩でした。特に、国家安全保障会議(NSC)が、1948年10月、ソ連問題専門の外交官・ジョージ・ケナンの日本視察報告に基づき、「①日本の防衛力について、講和成立まで戦術的目的をもつ兵力を駐留させるが、兵力量は限定し、日本への経費負担は最小限に抑える。②講和後に軍隊・基地・軍事施設を確保するかどうかは将来の決定に委ねる。しかし沖縄における長期駐留は決意すべきである。したがって沖縄島民の経済的安定、正常な政治的状態回復には米国が全責任を負うべきである。日本の警察機構の強化、沿岸警備隊、海上警備隊の設置。 ③GHQの日本政府に対する支配機能の限定と日本政府の権限と責任の強化。④経済復興の最優先とそのための経済援助、海外貿易の振興措置、占領費の縮減、賠償の原則的停止。 ⑤新たな改革の停止と実施段階にある改革の修正。経済力の集中排除や公職追放の調節、減速、終了等。」との文書(NSC13/2)を採択してからは、これまで本国にたてつきてこずらせてきたマッカーサーも次第に押さえこまれるようになっていきます。さらに1949年に入り、中国の内戦が中国共産党の勝利で終結する見通しがはっきりすることとなると、それが決定的な転換の潮目となり、米国は、民主化と非軍事化の獲得物を掘り崩し、わが国を共産主義に対する防壁として、軍事的、政治的、経済的に利用するという方向にはっきりとシフトして行きました。

 日本国憲法が定着し、9条が輝きを発揮し始めたまさにその瞬間、逆向きのベクトルが働き始めたのです。その後、9条のたどった道は、要約すると以下のようになります。

 米国への卑屈なまでの従属と、そのことに蓋をして戦後レジームを米国からの押しつけられた日本国憲法体制としてそこからの脱却を声高に叫ぶアンシャンレジーム願望とが奇妙な同棲生活を続ける保守党政権下の「永続敗戦」レジームの小宇宙で、9条の絶対的平和主義が、変質させられる一方、それが国民の側からの抵抗で、踏みとどまるという綱引きが行われてきました。それは、今なお保守反動と国民との闘いの緊迫したフロンティアを形作っているのです。(了)
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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