スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「集団的自衛権行使容認閣議決定」は立憲主義に反する その5

 「集団的自衛権」について検討を行うこととする。

 最初に確認しておきたいことがある。それは、「集団的自衛権」なるものが国際法の舞台に登場したのは、国際連合憲章が発効した1945年10月24日以後のことだということである。
 それまでは国際法において、自衛権とは、①自国に対する武力攻撃がなされ、②当該武力攻撃を排除するために他の適当な手段がない場合に、③当該武力攻撃を排除するために必要最小限度の範囲においてなされる実力行使を意味していたことは既述のとおりである。つまり、現在の用語法によるならば、国際法上、自衛権とは、「個別的自衛権」を意味したのであり、憲法9条の下でも自衛権の行使は認められるというわが国の政府見解もこの前提に立っていたのである。

 さて、「集団的自衛権」とは何か。勿論、検討の対象となるのは国連憲章51条である。ややこしいが関連条文を以下に抄録しておこう。

****************************************
第2条4項〔武力行使禁止〕
 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

第39条〔安全保障理事会の一般的権能〕
 安全保障理事会は、平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告をし、又は第41条及び第42条に従っていかなる措置をとるかを決定する。

第41条〔非軍事的措置〕
 安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。

第42条〔軍事的措置〕
 安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。
   
第51条〔自衛権〕
 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
****************************************

 思い切って上記の各条文を単純化してしまうと、国連は、これらにより武力行使を禁止原則のもとで、その例外として安保理の決定に基づく平和の破壊者に対する措置として実行される武力行使、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」=「自衛権」に基づく暫定的な武力行使のみを認めているのである。

 戦後国際法学は、国連憲章51条の「・・・個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って」とあることを捉えて、国際慣習法上も確立していた従来の自衛権(即ち「個別的自衛権」)とは別に、新たに国際条約法上「の集団的自衛権」なる概念が認められることとなったと理解した。

 それは、実は、おおいなる誤りであったと私は解するのであるが、そのことは次回に述べることとする。

※ 注:国際慣習法とは、一般的に諸国家を拘束する規範的効力を認められる法原則、国際条約法とは文字通り条約上の定めそのものをいい、本来は、締約国のみを拘束するが、これが国際社会に定着し、締約国以外にも拘束力を及ぼすほどに法的確信に裏打ちされるようになれば、国際慣習法となる。
(つづく)
スポンサーサイト

「集団的自衛権行使容認閣議決定」は立憲主義に反する その4

 わが国歴代政府の9条解釈をさらに詳しく見ておきたい。もちろん、これらは、「各府・省が立案する法律案、政令案及び条約案を審査して所要の修正を行う審査事務と、種々の法律問題について内閣や内閣総理大臣等に意見を具申する意見事務」を主な所掌事務とする内閣法制局(阪田雅裕『政府の憲法解釈』有斐閣)が、政府の諸施策の憲法適合性をチェックしたり、政府の要請にこたえて一般的見解を明示したりすることを通じて形成されたものであり、内閣法制局の9条解釈と言い換えてもよい。

(1)政府見解は、当初の変遷を経て、1954年7月に創設された自衛隊の合憲性に関すし激しい論争を通じて、①9条1項は国家固有の権能としての自衛権を認めている、②9条2項では戦力の保持は禁止されるが、自衛のための最小限度の実力の保持は認められるとのいわゆる自衛隊合憲説に収斂した。最初に、明確なかたちでこの見解が打ち出されたのは1954年12月22日衆議院予算委員会における鳩山内閣統一見解であった。以下のとおりである。

 「憲法9条は独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のための必要相当な実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。」

(2)この見解は、当時、野党、労働組合その他国民各層から激しい反発をもって迎えられ、憲法学者からは9条の解釈改憲であって憲法を蹂躙するものだとの手厳しい指弾を受けた。しかし、冷静な目で見るならば、これは、一面では解釈改憲ではあるが、他面ではその限界を設定するという二重の意味を持っていたということができる。すなわち、この見解は、自衛隊の整備・拡充及び運用の根拠となるとともに、その歯止めとしての役割も果たし得るものであったと評価できるのである。それは以下に述べる理由による。
   
 実は、政府が上記自衛隊合憲説を打ち出した1954年12月22日に先立つこと8ヶ月余り、同年4月6日に、自衛権に関する政府見解が示されている。以下のとおりである。
  
 「いわゆる自衛権の限界は・・・たびたび述べておりますように急迫不正の侵害、即ち現実的な侵害があること、それを排除するために他に手段がないこと、さらに必要最小限度それを防御するために必要な方法をとるという三つの原則を厳格なる自衛権行使の要件と考える。」(1954年4月6日衆議院内閣委員会・佐藤達夫法制局長官答弁)

 上記自衛権に関する政府見解は、その後幾度となく、国会において、また政府実践において確認されることになる「自衛権行使3要件」である。

 「自衛権行使3要件」を整理すると以下のとおりである。

①わが国に対する武力攻撃があること
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

 ①の要件は、わが国に対する武力攻撃が現在していなければならないということであって、単に武力攻撃のおそれがあるというだけでは駄目だということ、他国や他国部隊への武力攻撃は含まれないこと、および海外邦人が危険にさらされているというような場合は含まれないことを意味している。
 ②の要件は、たとえば外交交渉、第三国の仲介、国際機関への提訴など相手国からの武力攻撃を回避するために考慮できる平和的・非軍事的措置を尽くしても攻撃を避けられず、軍事的対抗措置をとる以外に方法がないという場合にはじめて認められることを示している。
 ③の要件は、自衛のための武力の行使は必要最小限度でなければならず、過剰反撃は認められないこと、端的にいえば侵入部隊を領土、領海、領空から撃退することがその限度であるということを示している。

 わが政府見解によると、自衛権とはこのような外延と内包によって定義されたものであるが、それはまさしく前回確認した国際法上の自衛権であり、わが国政府のオリジナルな見解ではない。

 さて自衛隊は、自衛のための最小限度の実力であるというのが政府見解であった。そうすると自衛隊は、上記「自衛権行使3要件」によって定義される自衛権の担い手であり、その自衛権のためにのみ武力行使が認められた存在であって、それ以外には一切武力行使をすることが認められないのである。今、これが自衛隊の整備・拡充及びの歯止めになっているのは歴史の皮肉というべきか。集団的自衛権行使容認は、これに直截に違背し、9条違反のそしりを免れないことになるのである。
 その詳細は次回に述べる。
  (つづく)

「集団的自衛権行使容認閣議決定」は立憲主義に反する その3

 国際法上の自衛権を概観してみよう。

 近代国際法の成立・展開は、17世紀ヨーロッパにおける主権国家群の成立及び国際関係の展開と軌を一にしていた。30年にわたって繰り広げられた宗教戦争後のヨーロッパ国際秩序を定めたウェストファリア条約(1648年)と、「国際法の父」と後世に呼ばれることになったフーゴ・グロティウスの著作『戦争と平和の法』(1625年)の刊行は、そのことを象徴的に示す出来事であった。

 グロティウスは、「法なくして存在しうる社会はないとするならば、すべての人類よりなる社会においても法は無視されない」と中世神学から解放された人類普遍法思想に基づく国際法を説く一方で、「君主ならびに君主と同等の権利をもつものは、自己またはその臣下に対して加えられた危害に対するだけではなく、直接彼らに関係はしないが、いかなる者に関しても、甚だしく自然法または国際法を破ってなされた危害に対して、処罰を要求する権利をもっている。」と、主権国家が戦争にうったえる権利、すなわち「正戦論」も説いている。中世神学の影響のもとに神学者が唱えた「聖戦論」からは決別しているものの、グロテゥスもまた覇権を握った絶対王政国家の論理を濃厚にまとっていたようである。

 18世紀後半になると、ヨーロッパにおいて、絶対王政の退行と国民的基盤をもった国民国家への編成が進行する。それは、一方で主権国家間の自由と平等の観念を生成させるとともに、他方で、戦争の自由、すなわち無差別戦争観を確立させる。戦争には正しい戦争も邪悪な戦争もない。主権国家の政策として行われるすべての戦争は正しい。・・・
 今では想像もつかないことではあろうが、国際法においては、このようにヨーロッパ主権国家は、激烈な世界市場の争奪戦のアクターとして、互いに戦争をすることを権利として認められていたのである。そこには、アジア、アフリカ、中南米の領域国家はいまだアクターとして登場しておらず、その適用対象でさえなかった。

 やがてそのような阿鼻叫喚の世界の底から、理性と人間性の覚醒が始まる。第一の動きは、戦争における人道主義の貫徹をめざすもの、第二の動きは戦争ものをできるだけ制限しようとするものであった。第一のものは、戦時国際法(jus in bello)といわれる一群の国際条約と国際慣習法、第二のものは戦争制限法(jus ad bellum)と呼ばれる一群の国際条約と国際慣習法として、次第に確立されていくことになる。この小文でとりあげるのは第二のものであり、具体的には戦争を違法化し、自衛権の行使としての戦争のみが認められるとする国際条約と国際慣習法である。

 国際法学において語り伝えられるカロライン号事件は、そのはしりともいうべき出来事であった。

 米国と英領カナダの境にあるナイアガラ川のカナダ領内にネイヴィ島というきな臭い名前の島があった。1837年当時、そこを拠点として、カナダの独立を目指す独立派が武器をとって英国と戦っていた。その独立派に対し、米国人所有の船カロライン号が、米国側とネイヴィ島との間を往復し、人員、武器、物資を輸送していた。英国は、米国にその取り締まりを要求したが、はかばかしい効果がない。そこでカナダ提督指揮下の英軍は、米国ニューヨーク州シュロッサー港に停泊中のカロライン号を急襲し、火を放った上、ナイアガラの滝から落下させてしまった。
 当然、この事件は、英国と米国との間で、重要な外交案件となり、厳しい交渉が行われた。その過程で、米国務長官ウェブスターは、駐米英国公使フォスターに宛てた書簡で、「英国政府は、差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったことを示す必要がある」、「たとえ仮に米国領域への侵入がそのときの必要性よって容認されるとしても」、「非合理な、もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があり、それは、自衛の必要によって正当化される行為が、かかる必要性によって限界づけられ、明白にその範囲内にとどまるものでなければならないからである」と主張し、英国政府に、カロライン号急襲と米国領侵犯につき、自衛権の行使としての正当性の論証を求めた。

 カロライン号事件は、現在の通念では、自衛権の行使と目されるような事案ではなく、また無差別戦争観が支配していた時代のものであったから、英国の武力行使が自衛権として正当なものかどうかがシビアーなテーマとなったわけではない。また事件自体も、英国、米国の外交上の非難・応酬の対象となったが、英国、米国とも、落としどころを得て、無事、落着をみた。

 しかし、第一次世界大戦後、平和主義台頭の時代を迎え、国際連盟の創設と国際連盟規約、国際連盟のもとでの連盟と加盟国における平和の実践、ロカルノ条約、不戦条約と、戦争(次第に宣戦布告をする戦争にとどまらず、宣戦布告のなされない武力行使も含まれるようになった。従って以下の記述では戦争には武力行使も含むものとする。)を違法とする動きが顕著になった。
 かくして1930年代ころには、戦争を違法とする国際条約法と国際慣習法が確立するに至ったもの解される。しかし、それは戦争を世界から駆逐する力となりえなかったことは現代史の証明するところである。そこにおいては自衛のための戦争は許されるとの重大な例外が認められていたのである。第二次世界大戦に至る過程をつぶさにたどるとき、自衛のための戦争論こそ、戦争違法化の土台を蝕み、戦争を頻発させる元凶となったことが明らかとなる。自衛のための戦争とは、何とおぞましい概念であることか。

 とはいえ、善意の国際法学者らは、そのようなこととは無関係に、自衛権の概念の定義に腐心した。彼らが注目したのは、百年も昔のカロライン号事件におけるウェブスター書簡中で示されたウェブスターの主張であった。

 ウェブスターの主張は、自衛権の行使として正当性を認められるためには、①急迫不正の侵害の存在、②他に取り得る方法がないこと(必要性)、③必要最小限度の範囲にとどまる措置であること(均衡性)の3点に集約・整理することができ、ウェブスター・フォーミュラとして、自衛権の定義、自衛権行使の要件として定着することになる。

 わが国でも、横田喜三郎博士は、戦前において、その著「国際法」上巻において、「自衛権は、国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為でなくてはならない。」として、具体的に「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。(以下略)」と説いていた。

 国際法上、自衛権とはこのように厳密な要件のもとに認められた概念である。
(つづく)

「集団的自衛権行使容認閣議決定」は立憲主義に反する その2

                   
  憲法第9条は、素直に読めば、全ての戦争を放棄し、一切の戦力不保持を定めている。

  この9条の解釈について、憲法学者の間でどのような論争がなされてきたか(なされているか)、簡単に整理しておきたい。

(1)9条は次のように定めている。

1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力  の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

(2)まず1項について、憲法学の代表的テキストの一つである芦部信喜『憲法 新版補訂版』(岩波書店)はどのように記述しているか見てみよう(同書57頁、58頁)。

 「・・・従来の国際法上の通常の用語例(たとえば不戦条約1条参照)によると『国際紛争を解決する手段としての戦争』とは、『国家の政策手段としての戦争』と同じ意味であり、具体的には、侵略戦争を意味する。このような国際法上の用例を尊重するならば、9条1項で放棄されているのは侵略戦争であり、自衛戦争は放棄されていないと解されることになる(甲説)。これに対して、従来の国際法上の解釈にとらわれずに、およそ戦争はすべて国際紛争を解決する手段としてなされるのであるから、1項において自衛戦争も含めてすべての戦争が放棄されていると解すべきであると説く見解(乙説)も有力である。・・・」

(3)続いて2項をめぐる憲法学者の論争の状況を整理すると以下のとおりである。

 第一説は、1項について、甲説をとって、2項の「前項の目的を達するため」とは「国際紛争を解決手段としては、永久にこれを放棄する」を受けていると解することにより、自衛のための戦力は保持できるとする。
 第二説は、同じく1項について甲説をとりつつ、2項の「前項の目的を達するため」とは「国際平和を誠実に希求する」という趣旨を受けていると解することにより、戦力一切を保持できないとする。
 第三説は、1項で乙説をとる立場で、2項についても、当然、一切の戦力を保持できないとする。

 憲法学者の間では、第二説が多数説、第三説は少数有力説、第一説は少数説であるが、近時においては、9条は、平和主義の原理を定めたもので、そこにどのような具体的内容を盛るかは民主主義的政治過程において決められるべきことだという相対的な見解をとる考え方、いわば第四説も唱えられている。

 政府は、当初、第三説に近いニュアンスの見解を唱えたが、その後は第二説をとるに至り、自衛隊創設後には、建前としては、第二説をとりつつも、1項は主権国家の固有の権利である自衛権を否定していない、従って2項においても自衛のための最小限度の実力を保持することは認められるとするに至った。これは第一説に右足を踏み込み、左足を第二説の上に残した状態、または第一説と第二説の中間説と言ってよいだろう。

(4)私は、次のように解するのが正しいと考える。

 芦部教授のテキストでも触れられている1928年に成立した不戦条約は、次のように定めている。

1条 締約国は国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、かつ締約国相互の関係において、国家政策  の手段としての戦争を放棄することを、各々の人民の名で厳粛に宣言する。
2条 締約国は、締約国相互の間に起こる全ての争議または紛争は、その性質又は原因の如何を問わず、平和的手段 以外の方法で処理または解決を求めないことを約束する。

 1条を見ると、「国家間の紛争の解決のための戦争」、「国家政策の手段としての戦争」の禁止、もしくは放棄となっており、全ての戦争の禁止、放棄ではないように読める。しかし、そうではない。2条により、そのことが明らかとなる。「その性質又は原因の如何を問わず」国家間の争議または紛争は、平和的手段をもって解決することを定めているのである。不戦条約は全ての戦争の禁止、放棄を定めているのだ。

 にもかかわらず、実際問題として、不戦条約では、自衛戦争は容認されているものとし運用され、諸国家のプラクティスもそのようになされている。それはどうしてだろうか。実は、実は、各締約国は、不戦条約批准に際し、「自衛戦争を放棄しない」との趣旨を明示した交換公文を取り交わしていたのである。つまり各国は、「自衛戦争を放棄しない」との条件で批准をしていたのである。さらに不戦条約前文第3項には次のように定めが置かれていた。

 「どの締約国も、今後その国家的利益を押し進めるために戦争に訴えるものは、本条約の利益は拒否されねばならぬ」

 即ち、ある締約国が不戦条約に違反して戦争を開始したときは、他の締約国はその国に対して戦争をすることができるというのである。

 不戦条約においては、禁止、放棄されたのは侵略戦争だけであり、自衛戦争は禁止、放棄されていないというのはこういうことなのである。

 このことをやや一般化していうと、国際法上、戦争の禁止、放棄を定めると、全ての戦争が禁止、放棄されることを意味し、むしろ自衛戦争を禁止、放棄しないというならば、そのことを明示しなければならないということになるのである。国際法上の用例に従うとそういうことになる。

 そうするとはじめにあげた9条1項に関する、甲説は誤り、乙説は、結論は正しいが前提に誤りである。9条1項は、ストレートに(無前提に)全ての戦争の放棄を謳っていることになる。9条2項は、そのことを、戦力(軍事にかかる人的・物的組織)を保持しないことにより、担保しているのである。従って、結果的には上記の第三説が正しい。

 なお、第四説については、後に述べる。
(つづく)

「集団的自衛権行使容認閣議決定」は立憲主義に反する その1

 立憲主義とは、最広義に定義すると、国家機関を構成する諸機関は、憲法の諸条項に拘束され、これに違反することは許されないという原則である。この意味の立憲主義を否定する人はまずいないであろう。日本国憲法は、この意味の立憲主義を実効あらしめるために、第一に、第98条1項で憲法を最高法規として「その条規に反する法律、命令、詔勅その他国務に関するその他の行為の全部又は一部はその効力を有しない」と定め、第二に、第81条で裁判所(最終的には最高裁判所)の違憲立法審査権を定め、第三にどうしても現実の必要に応じて憲法を改正しなければならないときのために第96条に憲法改正の手続規定を置いている。

 安倍政権が昨年7月1日に行った「集団的自衛権行使容認閣議決定」は、どこから見ても憲法9条に反しており、第98条により、無効となる。従って、今後、同閣議決定に基づいて検討し、立案する有事関連法案十数件(※)も違憲の法令となり、無効である。

※ 朝日新聞の2月14日朝刊は、以下のように整理している。

<グレーゾーン事態>(同閣議決定第1項)

 自衛隊法(米軍の武器等防護)/米軍以外の軍隊の武器等防護の必要性

<国際社会の平和と安定への貢献>(同閣議決定第2項)

 自衛隊法/在外邦人の救出・米軍やその他の軍隊に対する物品などの提供
 周辺事態法/米軍以外の軍隊への支援活動の必要性
 船舶検査活動法/船舶検査の実施要件の見直し
 国連平和維持活動(PKO)協力法/PKOで可能となる活動の拡大や武器使用権限の見直し
 旧テロ対策特措法・旧イラク特措法/恒久法化

 <集団的自衛権>(同閣議決定第3項)

 自衛隊法/新3要件にもとづく自衛隊の任務の位置づけ、権限、手続きなど
 武力攻撃事態法/新3要件で武力行使が可能な事態、手続きの整備
 米軍行動円滑化法/米軍以外の軍隊への支援活動の必要性
 外国軍用品等海上輸送規制法/-
 捕虜等取り扱い法/武力行使ができる場合の手続き

 <その他>

 国家安全保障会議設置法/法改正に伴う新たな役割の追加


 安倍政権は、どうしても「集団的自衛権行使」を認めなければならないと考えたならば、憲法改正手続を踏むしか道はなかったのである。

 その理由を、これから論じていくことにする。以下の論述の基礎的な部分は、2月14日(土曜日)に行った私の講演のレジュメに加筆をしたものである。レジュメを読み返し、加筆しながら、思ったが、私は、緩い話をするのが嫌いで、どうしても窮屈で堅苦しい話になってしまう。もっとわかり易い話をしなければならないと反省することしきりである。

 しかし、講演レジュメの加筆だけではあまり能がないので、今回、新たにその展開部分を追加することにした。

 その展開部分というのは、実は、岩波書店から刊行されている「シリーズ日本の安全保障3『立憲的ダイナミズム』」第3章『九条論を開く―〈平和主義と立憲主義の交錯〉をめぐる一考察』において、執筆者の山本元慶応大学大学院教授が、「安倍政権の『集団的自衛権・憲法解釈容認化』に対して、一躍舞台の中心に躍り上がることになった対抗言説は〈集団的自衛権の行使を違憲だとする、長年にわたって確立されてきた内閣法制局による憲法九条に関する憲法解釈を、憲法改正の手続を経ることなくして変更することは、立憲主義をふみにじる〉というものである。」(山本教授は、これをテーゼAと命名されている。)とした上で、従来の憲法学説の多数説は、内閣法制局の九条解釈をにせ解釈と批判をし、現在テーゼAを主張している憲法学者の多くもこれまで同様の批判をしてきた筈であるが、今、これをどう整合化することができるのかとの学者らしい鋭い問題提起をされた上で、あり得る見解を並べ、それらを批判している。

 山本教授も、少し違った論拠からではあるが、現在進行中の安倍政権による集団的自衛権行使容認とその関連法制の整備に反対だと明言されているので、同じフロントにおいてともに安倍政権に対峙しているお方だとは理解できる。しかし、山本教授の問題提起と批判は、そのフロントで、安倍政権に打撃を与えるよりも、味方に打撃を与えるような意地悪さを感じさせるものがある。いわば後ろから鉄砲を撃たれているような錯覚を覚えるのである。

 そこで、私なりにこの問題提起に挨拶をしたいと思った次第である。今回は、この程度にして次回から、まずは講演レジュメに加筆したもの2回程度にわけて載せることにする。
(つづく)

「慰安婦」問題の記事に藉口した言論抑圧を弾劾する

 雑誌『世界』2月号に掲載された元朝日新聞記者植村隆氏の手記『私は闘う』を読んだ。サブタイトルに「不当なバッシングには屈しない」との決意がしたためてあるが、心底から激励と連帯の声をかけたくなった。植村氏に浴びせられた一連の攻撃は、単なるバッシングではなく、明白な犯罪行為にあたる。
 その中心に位置していたのは『週刊文春』の記者某であった。彼の取材にかこつけてした行為はわが法治国家においては許されるべきことではないし、彼が書いた『週刊文春』記事の内容も誹謗中傷の類で、侮辱、名誉毀損以外のなにものでもない。

 「この記事をめぐっては現在までにさまざまな研究者やメディアによって重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」。昨年1月27日、『週刊文春』記者某が神戸の松蔭女子大学に送りつけた質問状からの抜粋だ。

 ここに、この記事とあるのは、植村氏が書いた1991年8月11日付朝日新聞大阪本社版の社会面トップに載った記事をさしている。これは、匿名の韓国人元「慰安婦」の証言を報じたものであった。これが報道された後、その匿名の元「慰安婦」は実名で記者会見し、これに勇気をもらった韓国人元「慰安婦」らから次々と証言が寄せられるようになり、韓国において「慰安婦」問題は大きくクローズアップされることになったのであった。
 この記事は今から振り返れば若干の不正確さを指摘できるかもしれないが、大筋において間違いはなく、捏造などという非難は到底あたらない。むしろ先のアジア太平洋戦争にまつわる史実を掘り起こし、わが国の戦後処理の問題点を明らかにするとともに、植民地や占領地域における戦争犠牲者の声を闇から拾い上げ、戦争責任を今に問うというジャーナリズムの本道をいく記事であったといえるのである。

 この記事が報じられた1991年8月以後、「慰安婦」問題は、国内外において、政治・外交の場面で、あるいは裁判の場面で、多くの証拠資料がつきあわされ、その実相が浮き彫りにされてきた。「慰安婦」とは、いまや、植民地や占領地において、甘言、欺罔、強迫、人身売買その他一部には有形力の行使により駆り出され、日本軍の強制下において、日本軍兵士らの性欲処理の道具として使役された性奴隷であったことが明らかになっている。
 「慰安婦」問題は、河野談話を産み、一定の解決への筋道も用意されたが、わが国の真摯な謝罪と慰謝の措置があいまいにされた状態での解決には応じられないとの元「慰安婦」の対応や韓国世論の突き上げの中で、いまも日韓の重要な懸案事項となっている。
 その長い「慰安婦」問題史において、植村氏の書いた記事は、一つの過去のエピソードとして名残を止めているに過ぎなかった。状況はずっと先に進んでいたのであり、特定の意図をもった人たち以外には、これを掘り返すようなことはしないであろう。特定の意思を持った人たちとは、「慰安婦」問題を打ち消し、日韓の緊張と対立を煽ることに存在意義と利益を見出そうとする右派政治家、右派政治集団及び右派ジャーナリズムである。

 植村氏の書いた記事に、『週刊文春』記者某は、執拗にくらいついた。あろうことか植村氏を教授として採用したことが間違いであることを示唆する上記の質問状を松蔭女子大学に送りつける一方で、そのころ既に『週刊文春』誌上に載せる記事を書いていた。
 昨年1月末発売の『週刊文春』2月6日号は嫌韓特集を組んでいた。その中の一つの記事が彼が書いたものである。そこで彼は、「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との見だしで、植村氏の書いた記事を「捏造」と決め付け、「本人は『ライフワークである慰安婦問題に取り組みたい』と言っているようです」と、全く事実無根のことを書いたのである。ネット上では、植村氏バッシングが広がった。その火付け役となったのは「チャンネル桜」に流された「逃げるな!朝日新聞・植村隆記者よ」という番組であった。なんとそこに登場したのは、植村氏を朝日新聞函館支局に訪ねて『週刊文春』記者某と行動をともにした女性ジャーナリストだったという。なんと周到な仕掛けをしくんだものだろう。

 植村氏は既に松蔭女子大学の教授となることが決まっていた。『週刊文春』記者某は、植村氏の採用を取り消させることを意図したとしか考えられない。実際、同大学に抗議の電話や、採用を取り消すように要求するメールが殺到する。中には「街宣活動」をするとの脅しさえあったという。
 そのような渦中に巻き込まれた松蔭女子大学側は、そのような攻撃と闘う道をとらず、植村氏に採用辞退、即ち雇用契約の任意解除を求めてきた。これに対し、植村氏は、大学側も被害者と考え、やむなくこれを受け入れたのであった。

 しかし、それでことは終わらなかった。今度は、植村氏が非常勤講師をしている北海学園大学に鉾先が向かったのである。植村氏を切れといういやがらせの電話、メールが殺到した。北海学園大学に脅迫状を送った男が検挙されたことも昨秋報道されている。だが驚くべきが、植村氏の手記で明かされた。かの『週刊文春』記者某は、昨年8月1日、「(植村氏につき慰安婦問題記事で重大な誤りが指摘されているとして)大学教員として適性に問題はないとお考えでしょうか」という質問状を送っていたのである。これは松蔭女子抱く学への質問状と同じく植村氏をやめさせることを意図したものとしか考えられない。

 幸い植村氏への支援の輪が広がり、大学側は、一時動揺したものの今は不当な嫌がらせに屈しないとの態度を固めているとのことである。また植村氏に対する法的なサポート体制も中山武敏弁護士を筆頭に多数の弁護士が結集して弁護団体制が組まれているとのことである。
 植村氏とご家族の平穏を祈ってやまない。そのためには不当な攻撃を跳ね返す多くの人々の励ましと、言論抑圧は許さないとの世論の盛り上がりが必要である。

 『週刊文春』記者某の一連の行為は、取材の自由、表現の自由の範疇におさまるものではなく、偽計による業務妨害、名誉毀損に該当する犯罪行為として適正な法的制裁を受けるべきである。このようなことを決して許してはならない。
同時に、最近の一部週刊誌は、売れれば何でも書く。明らかにジャーナリズムの一線を越えている。恥を知れと言いたい。(了)

「再度、『朝日新聞』の吉田調書「誤報」問題を考える」

 私は、当ブログ上で、昨年11月14日、15日の2回、「『朝日新聞』の吉田調書「誤報」問題を考える」と題する記事を書いた。以下に再掲しておくので本記事をお読みいただく参考として頂きたい。

前篇 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

後篇 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-category-4.html

 上記記事において、私は、吉田調書に見られる3月15日朝の吉田所長の指示、所員の行動、それをかばう吉田所長の述懐の錯綜した矛盾を、以下のように解明してみたのであった。

****************************************

 「朝日新聞」の担当記者と担当デスクは、「構内の線量の低いエリアで退避すること。その後本部で異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう」との「変更」後の指示を真実の指示とする立場から、前篇③、④で摘示された吉田調書の記載は、2Fへ退避してしまった所員らの行動が、菅首相をはじめ官邸側が弾劾・拒絶していた撤退を、しかも所長の指示に反してやってしまったと受けとめられ、その責任が問われることになるのを防ぐべく、部下をかばう心遣いからなされた弁明であり、信用できないと考え、当該記事を書いたと考えられる。

 これは一つの合理的解釈として許容できるのではなかろうか。

 しかし、私は、これを非難するつもりはないが、この解釈は誤りであったと考える。ではどう解釈するべきか。

 同日3時過ぎ頃には、東電本店から1Fに「2Fへの退避手順書」が送付されていること(門田隆将『「吉田調書」を読み解く 朝日誤報と現場の真実』PHP研究所。なお、東電事故調査委員会報告書は、この退避手順書の作成履歴により、最終更新は3時13分であったとしている。)、6時32分に、1F対策本部が保安院などに「6時0分~6時10分ごろに大きな衝撃音がしました。準備ができ次第、念のため、対策本部を福島第二原発に移すこととし、避難いたします」と通報していること、7時00分に、東電側は、監視、作業に必要な要因を除き、2Fに一時避難することを関係官庁に連絡していることなどが、客観的事実として認められる。
 そうすると吉田所長の指示は、自己を含む必要要員を除く9割方の所員らは2Fへの退避することというもので一貫していたものと認めるのが相当ではなかろうか。

 そうなると前篇③、④に摘示された調書の記載内容はどう考えたらよいのだろうか。

 一つのヒントとして、海水注入問題についての吉田氏の言動を考えてみたらいいのではないかと思う。本店側が官邸の意向だと言って海水注入にストップをかけてきたとき、吉田氏は、テレビ会議のマイクに乗らないように部下に表向きの指示に従わないで海水注入を続けるように内々の指示をしつつ、マイクに乗る声で、本店側の指示を承諾していた。

 吉田氏はご自身が正しいと思ったことは、自己が責任をひっかぶるようにしてでも、それを貫く人なのである。東電の既定の方針は2Fへの退避である。しかし、額面どおりそのような指示をすれば官邸や世論の袋叩きになるおそれがある。そこで表向きは1F構内の安全な場所への退避を指示したことにし、混乱の中で、これまでの流れに沿って所員らは2Fに退避した。後にこの行動が正しく合理的であったと評価することにより命令違反のそしりを防ぐ。見事ではないか。

****************************************

 私は、矛盾した調書の記載内容を、吉田氏に最大限好意的に解釈してみたのである。これは亡くなられた吉田氏の名誉に配慮するという極めて日本人的な情緒のなせるわざであった。今、若干の反省をしているところである。

 率直に云って、このとき逆の筋書きも頭をよぎったが、それは書くべきではないと抑制したのである。

 そのとき頭をよぎった逆の筋書きとは、東電ぐるみの批判封じの策謀と吉田所長のそれへの加担というものであった。どういうことかと云うと、東電は、1F現地対策本部を2Fに移し、全員2Fへ退避させることを一旦決定したが、菅首相自らが東電本社に乗り込み、激をとばすなどこの撤退方針を官邸側が厳しく難詰したことにより、そのまま実行しづらくなり、一芝居打ったのではないかという推測である。
 所員の大部分を2Fへ退避させ、吉田所長はじめ一部は1F所内でも最も安全な重要免震棟にひきこもる。つまり大筋において既定の方針のとおり実行したのである。しかし、官邸側や世論の批判を招かないように工夫をしなければならなかった。それが、吉田調書にみられる吉田氏の弁明であった。吉田氏は、「2Fに行けとは言っていないんです」、だが伝言ゲームの行き違いで皆2Fへ行ってしまった、「よく考えてみれば2Fに行った方がはるかに正しいと思った」とすっとぼけてみせたのではなかろうか、と。

 残念なら、確証がない。そこで書くことはやめたのである。しかし、雑誌『世界』が、『解題「吉田調書」』の連載を開始し、2015年2月号に重要なことが書かれている。これらは確証ではないが、傍証にはなり得る。

 第一に、海渡雄一弁護士が、吉田所長が原子力安全保安院などに送信した「異常事態連絡様式」と標記されたFAX送信書3通を記者会見で提示したが、1通目は「準備ができ次第、念のため対策本部を福島第二へ移すこととし、避難します」というもの、2通目は「訂正あり」と手書きされ、「対策本部を福島第二へ移すこと」が抹消され、「作業に必要な要員を残し、対策要員の一部が一時避難します」と書きかえられたもの、3通目は「念のため監視、作業に必要な要員を除き、一時退避」との指示に訂正されたものであったということである。これらは、吉田所長が、「撤退」との批判を受けないように2F避難の決定の実行の仕方、官公署への届出の仕方に苦慮していたことを示すもののように思える。

 第二に、元日本原子力研究所研究主幹・田辺文也氏が、吉田調書の問題の記述の直前に「中央操作室も一応、引き上げさせましたので、しばらくはそのパラメーターを見られていない状況です」とある部分に注目し、15日朝7時過ぎから十数時間、中央操作室には要員不在となり、原子炉の水位も圧力も計測されないまま放置されていたことを解明した。そうであれば残留した69人は、中央操作室から直線距離にして400m離れた重要免震棟に退避し、なすすべなく時間を過ごしたことになる。

 これらのことから、私は、確証はないが、かつて頭をよぎった逆の筋書きも書いておくべきだと考えるに至った。これもあり得る、と。もしこちらであれば「現代の英雄」の影はややうすくなる。はたしてどうであろうか。(了)

おそまつな外務省のテレビ朝日への抗議、訂正申し入れ

 2月3日、外務省ホームページに、妙な文章が掲載された。外務報道官及び中東局長の連名で、テレビ朝日に対し、文書及び口頭で申し入れを行ったとのコメントが付されている。短い文章だから全文を掲載しておこう。

****************************************

貴社は,平成27年2月2日放送の「報道ステーション」において,シリアにおける邦人人質殺害事件につき報じる中で,総理の中東訪問に関し,「そもそも外務省関係者によれば,パリのテロ事件もあり,外務省は総理官邸に対し中東訪問自体を見直すよう進言していた」旨報じ,また,エジプトで行われた総理の政策スピーチに関し,「外務省幹部によると,この内容についても総理官邸が主導して作成されたという」と報じるなど,あたかも外務省の意に反して,中東訪問が行われ,スピーチの当該部分が作成されたかのような報道がありました。

 この報道内容は事実と全く異なるものです。

 総理の中東訪問については,同2日の参議院予算委員会で総理も述べられているとおり,様々な観点を総合的に判断して決めたものであり,貴社のように社会的に影響力の大きい報道機関が,このように事実に反する報道を行うことは,国民に無用の誤解を与えるのみならず,テロリストを利することにもつながりかねないものであり,極めて遺憾と言わざるを得ません。

 当該報道に関し強く抗議するとともに,本日の番組の中で速やかに訂正されるよう強く求めます。

 なお,同番組のその他の部分については,申し入れの対象としておりませんが,外務省としてそれらの内容について確認したものではありませんので,念のため申し添えます。

****************************************

 今回の中東訪問とそのスケジュール、安倍首相のスピーチの内容、イスラエル国旗の前でスピーチしたというパフォーマンスなどをめぐっては様々に取り沙汰され、安倍首相への批判は根強い。とりわけイスラム国側が、直接に殺害予告と身代金要求の根拠としてあげたカイロでのスピーチの次のくだりは、イスラム国側に犯行の口実を与えたものであり、不用意かつ挑発的な発言ではなかったのかと指摘する意見が多く、安倍首相の責任問題に発展しかねないものであった。

 報道ステーションは、外務省関係者、外務省幹部への取材で、これらは官邸サイドが主導したものと報じたのである。報道ステーションの視聴者の多くは、この報道から、これらのことには、安倍首相の意向が強く働いていたのであろうと推測した筈である。それは、安倍首相にとっては、穏やかならざることだ。ただちに官邸サイドから、外務省へ指示がとんだことは見え見えである。「善処せよ」と。

 外務省は、あわてふためいて、上記のとおりのテレビ朝日への抗議、訂正の申し入れとあいなった次第である。あわれなるかな、ストレイ・シープではないか。しかしながら、真実は自ずからあらわになる。上記の文章を読むと、報道ステーションの報道内容がほぼ間違いないことを認める結果に終わってしまっているのである。

 まず「外務省は総理官邸に対し中東訪問自体を見直すよう進言していた」との報道に対しては、「総理の中東訪問については、同2日の参議院予算委員会で総理も述べられているとおり、様々な観点を総合的に判断して決めたものであ(る)」と、一見、事実と異なる点を具体的に指摘しているように見えるが、よく読むと、そうではない。様々な「観点を総合して決めた」というのはおそらくそうだろう。しかし、それは最終的な決定の態様を述べているに過ぎず、その過程で、外務省は見直しを進言したが、官邸サイドが強く主張し、決まったとの報道内容と排斥するものではないのである。

 次に総理のスピーチの内容が「総理官邸が主導して作成された」との報道に関しては、何らの具体的指摘もしておらず、報道内容を自認したに等しいのである。もっともこれは、直後の4日の衆議院予算委で、安倍首相本人が、「私の責任でスピーチを決定した」と認めてしまった。外務省の面目丸つぶれであろう。

 かくして、「国民に無用の誤解を与えるのみならず,テロリストを利することにもつながりかねない」ことをしているのは、このようなへんてこりんな抗議、訂正申し入れをした外務省であり、さらにはその背後にいると思われる某高官であることは、一目瞭然となった。

 蛇足になるかもしれないが、安倍首相のカイロでのスピーチの問題部分は以下とおりである。ここには人道支援などという文言は入っていない。

 「地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺諸国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します。」
 (了)

安倍首相の下での安保法制整備の検討はやめよう!

 安倍首相は、2日の参議院予算委において、今回の日本人拘束事件に関して、救出のために自衛隊を用いることは、(領域国である)シリアの同意を得られないこと、拘束場所の特定ができないなど自衛隊のオペレーション(任務遂行)ができるかという基本的な大問題もあるとして、困難であるとの見方を示しつつ、今後、救出を可能にする議論を行って行きたいと、未練たっぷりの答弁をした。
 安倍首相は、さらに3日の参議院予算委では、「警察権の行使として、受け入れ国の了承があり、『国に準ずる組織』がいない中で可能にするための法改正を準備している」と述べ、今回の事件で自衛隊を救出作戦に投入する法改正に前のめりの姿勢を示した。同時に、そのようなオペレーションにおいては武器使用基準を緩和する考えも明らかにした。

 安倍首相のこのような答弁の基礎にあるのは、昨年7月1日の「集団的自衛権行使容認閣議決定」である。

 「集団的自衛権行使容認閣議決定」には、第2項(2)ウにおいて、領域国の同意のもとで、武器使用を伴う邦人救出活動ができるように法整備をすることが明記されている。そのような救出活動は、単なる警察活動であって、「武力の行使」にはあたらず、憲法9条に抵触しないというのである。何故なら、領域国の同意が及ぶ範囲では、邦人に危害を及ぼしている当の相手方は、国家でないことは勿論、「国家に準ずる組織」でもないことを意味し、単なる犯罪集団に過ぎないからであると。

 しかし、このような論理は、いかにも単細胞的であり、複雑な現実の事象を思い切り単純化した机上の論理である。

 まずこの論理の前提には、憲法9条によって禁じられている「武力の行使」とは、「国家もしくは国家に準ずる組織」を対象としており、単なる犯罪集団に対する武器使用はこれにあたらないとの割り切りがある。しかし、現実の事象は、このような単純な割り切りはできない。たとえば今回のイスラム国であるが、これは「国家」を名乗っている。仮にそれが虚構であるとして、武力で一定の地域を支配していることは間違いないから「国家に準ずる組織」となると考えられる。しかるに政府はこれを単なるテロ集団、つまり犯罪集団だと言い切っている。政府の言い分では、自衛隊がこれと武器をもって銃火を交えても「武力の行使」ではないことになる。そのようなことが果たして妥当なのか。
 私は、自衛隊なる重装備の軍事組織が、武装した集団を相手として出動すること自体が既にして「武力の行使」である、それに対して、軽装備の警察組織が、自己もしくは第三者の生命・身体を守るために必要な最低限度の武器使用をすることは「武力の行使」にはあたらない、このような明快な基準によって区分をするべきだと考える。「国家もしくは国家に準ずる組織」論は、自衛隊を海外派兵するために小ざかしい外務・防衛官僚やそれに追随する学者がひねくり出したマジックである。

 次に、百歩譲って、「国家もしくは国家に準ずる組織」論に立ったとしても、領域国の同意によって、当該領域国の支配の及ぶ範囲では、全ての武装集団を「国家もしくは国家に準ずる組織」にあたらず、単なる犯罪集団に過ぎないと論にも重大な疑義がある。当該領域国が、自衛隊の救出作戦に同意する場合というのは、相手方武装集団を自力では制圧できない場合であることが一般的であると考えられるからである。いかなる主権国家も、外国の軍事組織は勿論、警察組織であっても、外国の暴力装置たる組織に、自国領域を蹂躙されることを拒絶するものだ。そのようなことを受け入れて何の痛痒も感じていない国は、世界広しといえどもそんなにあるものではない。わが国は、例外的な国なのだ。その例外国の卑屈な自己意識をもって他国のビヘイビアを推断してはいけない。大多数の国は、自国の力で措置できることは全てやる筈、外国の暴力装置たる組織の介入に委ねるのは、それができない場合であろう。即ち、領域国が同意するときは、当該武装集団が、「国家もしくは国家に準ずる組織」に匹敵するほどの強力な敵である場合であると考えられるのである。

 さらに過去、軍事組織が、不法に拘束された自国民の救出作戦を敢行したケースは、多くの失敗に帰し、かえって多くは犠牲者を出し、むしろ紛争を激化、拡大しているのである。逆に無事救出できたケースは、どんなに極悪な集団であっても、安倍首相のごとく一切接触も交渉もしないなどというお山の大将のような態度をとるのではなく、苦渋と汚辱にまみれた交渉を続けた場合が大半である。こうした経験知をこそ、わが国は大切にしなければならない。

 自衛隊を速やかに救出作戦に投じることができるようにしなければならない。そのためには憲法改正してもいいではないかとけしかける愚かな議員もいる。衝撃的な悲劇的事件が発生したあとには、こうした勇ましい、鉄火場の兄さんもどきの言動が支持を受ける。安倍首相にも、そのような鉄火場の兄さんもどきのエートスがあるようだ。

 こんなときには、安保法制整備の検討は差し控えるべきである。

 少なくとも彼の下での安保法制整備の検討はやめようではないか。立ち止まり、熟慮して、危険な道に踏み込むことを回避したいものだ。世界の平和と国際秩序の安定に貢献する道は、自衛隊の活用以外にいくらでもある。日本の世界におけるレーゾンデートルは、憲法9条にある。今こそ、わが国民は、理性を失わず、叡智を結集するべきときである。(了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。