「なぜ沖縄は分離されてしまったのか」 戦後政治外交史こぼれなし―その3

 「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

 これは1952年4月28日発効したサンフランシスコ講和条約の第3条の条文である。これより前、沖縄は、米国の占領下にあって、当初は米国軍政府、1950年12月15日以後は米国民政府の統治に服していたが、これにより、1952年4月28日以後も、米軍の占領と米国民政府の統治は、継続することになった。わが国本土が、連合国の占領とGHQの間接統治を脱して、法的には独立を回復したにもかかわらず、わが国の一部であった沖縄が、わが国本土から切り離され、米国の統治を受け続けることになったのは、どうしてなのだろうか。その要因をアトランダムに列挙してみよう。

①太平洋戦争末期における米国(連合国)側の指揮命令系統の相違により、占領が別々に進行した。
②沖縄はポツダム宣言受諾前に全島制圧され、本土が連合国の間接統治に移行する前に、米国の軍政が施行され、直接統治が開始されていた。
③1946年1月29日付連合国最高司令官覚書(「日本政府の権限の及ぶ範囲に関する覚書」)で、日本政府の管轄から除外された。
④日本の非武装化を徹底することによる防衛上の空白を、沖縄を一大空軍基地とすることにより穴埋めするというマッカーサー構想(1947年6月、記者会見で、マッカーサーは「沖縄を米軍が支配し、空軍の要塞化すれば、非武装国家日本が軍事的真空地帯になることはない。」と述べた。)
⑤米軍部の強い意向(戦略的要衝論、あるいは多数の米国人の若者が血を流して得た土地を手放すことはできないという戦前の日本軍部に相通ずる考え。)
⑥1947年9月19日、寺崎英成からGHQ外交顧問シーボルトを通じ、マーシャル国務長官に伝えられた昭和天皇メッセージ「アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の―25年から50年ないしそれ以上の―貸与(リース)をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである。」の影響。同じく1948年3月初旬、寺崎の意見として表明され、同ルートで伝えられた「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請するメッセージの影響。
⑦米国務省内での対日政策の大転換
 米国務省は、大西洋憲章、カイロ宣言の定める領土不拡大の原則を守ろうとするニュ-ディーラーたち(対ソ協調派、国際協調派)が戦後しばらくは実権を握っていた。彼らは極東局を拠点にしていた。
 これに対抗してソ連問題の専門家ジョージ・ケナンが、1947年5月国務省に新設された政策企画部の部長に就任、極東政策も対ソ対決、ソ連封じ込め路線に転換する。決定的のターニングポイントは、1947年8月9日。このとき極東局の対日政策(全面講和・非武装体制化案)は、ケナンの具申により、不採択となり、ケナンの説く片面講和・武装体制化案がマーシャル長官及び軍部の支持によりが有力となるに至った。同年9月の国務省内の機構改革で、ニュ-ディーラーたちが後退、ケナンの息がかかった対ソ対決派が台頭。
 GHQ外交顧問として国務省が派遣したニュ-ディーラーの一人ジョージ・アチソンも同年8月17日飛行機事故で死亡、対ソ対決派のシーボルトが引き継いだ。
 こういう流れに掉さし、ディーン・アチソン国務長官は、1950 年1 月12日ナショナルプレスクラブでの演説で、アリューシャンから日本列島、琉球諸島、フィリピンに至る島嶼ラインの重要性を指摘するとともに、「琉球の住民の利益のために我々は適当な時期に琉球諸島を国連の信託統治のもとに置くことを提案する。だが琉球諸島は太平洋の防衛線の一部であり、我々はこれを保持しなければならない」と述べた。
⑧国際情勢の変化・・・冷戦体制の進行と朝鮮戦争の勃発
1947年 6月 5日「マーシャル・プラン」・ソ連拒否
1948年 4月 1日ベルリン封鎖(陸上輸送規制の強化)
1948年 7月17日大韓民国樹立宣言
1948年 9月 9日朝鮮民主主義人民共和国樹立宣言
1949年 4月 4日NATO調印
1949年 5月 6日ドイツ連邦共和国成立
1949年10月 1日中華人民共和国成立
1949年10月 7日ドイツ民主共和国成立
1950年 6月25日朝鮮戦争勃発

 これらが相互に因となり果となり、米国の対日政策は、片面講和、日米二国間の条約により、日本本土には望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間は駐留させる、沖縄の米国統治を確保し、米軍基地として最大限活用する、これらを通してソ連封じ込めの戦略的拠点として日本と沖縄を利用するというところに収斂し、わが国の吉田政権もこれを受け入れるということになって行ったものと考えられる。
 ただこれらの中で、最も重要なものは何かと問われれば、私は、米国側にとっては朝鮮戦争の勃発、わが吉田政府にとっては天皇メッセージであったと答えることとしたい。

                           (了)
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戦後政治外交史こぼれなし―その2

対米自立の気概など微塵も見られなかった岸信介氏

 安倍晋三氏は、おじいちゃん子であったようである。おじいちゃんとは、言わずと知れた岸信介氏のことだ。

 朝日新聞連載の『70年目の首相』の2回目、『改憲へ、祖父の背中追う 「日米対等」求め安保改定―集団的自衛権』に、安倍氏が岸氏に心酔していたことを示す以下のエピソードを紹介されている。安倍氏は、不平等・片務・従属的な旧安保条約の改定に力を注ぎ、「平等・双務・対等」の新安保条約を締結した岸氏を仰ぎ見て、その背中を追い続けてきたのであろう。

 官房副長官を務めていたころのある日、安倍氏は、かつて岸氏もいたことがある旧首相官邸の窓から外の景色を眺めながら、「昔、おじいちゃんが安保闘争のとき、デモ隊にあんなに囲まれたのによくやったよなあ。たぶんいまの支持率だったらゼロ%だろう。やっぱりすごいよな。」とつぶやいたとのこと。これは秘書官だった井上義行氏(現参院議員)の証言である。
 この4月29日、安倍氏は、米議会上下両院合同会議での演説において、安保法案を8月までには成立させるとただならぬ誓約をしてしまったが、その前に、「1957年6月、私の祖父、岸信介はまさにここに立ち、日本の首相として演説を始めました。」と58年前の岸氏の演説を引用しながら語っている。

 
 しかし、安倍氏が仰ぎ見て、背中を追ってきた「平等・双務・対等」の新安保条約締結の推進者としての岸氏の姿は、果たして、真実ありのままのものであっただろうか。

 現実主義者の国際政治学者・故高坂正堯氏は、以下のように論評をしている(中公クラシックス「宰相吉田茂」所収の「吉田茂以後」)。

 「岸はなんと言っても伝統的なナショナリストであった。だから内乱条項があったり、期限が定まっていない安保条約の存在は、彼にとっては快いものではなかったのである。彼が、米国との交渉の席で、『それではまるで満州国だ』と口走ったのは、彼の本心を案外よく表現しているのである。(中略)
 しかし、彼は日本と米国との間の平等性は、安保条約の条項を変えることによって左右されるようなものではないことを認識することができなかった。もちろん、純技術的には、日米安保条約の条文を変更することは好ましいことであったが、それは基本的な相違をもたらすものではなかったのである。だいたい、米国との協力に安全保障を依存することが、すでに独立についての異なった考え方に立脚することであった。そうした体制において日本の独立性を増すためには、安保条約の条文を変更するだけではなく、外交のあり方全体を問題にしなければならなかったのである。」

 高坂氏は、岸氏が「平等・双務・対等」の新安保条約締結の推進者であったこと自体は否定していない。これが前半部分で述べられている。しかし、後半部分では、岸氏は、外交のあり方自体を問題にし、日本の独立性を増すための努力はしなかったと批判をしているのである。

 だが、私は、岸氏が「平等・双務・対等」の新安保条約締結の推進者であったこと自体も疑わしいと考えるのである。それは以下に述べるとおりである。

 前回述べた重光外相、ダレス国務長官の会談に、岸氏は、民主党幹事長として同席し、鳩山・重光外交の失敗を目の当たりにした。このことは岸氏にとって「偉大な米国」への姿勢をかえさせるに余りあるできごとであった。岸氏は、1957年2月、満を持して首相に就任したのであるが、旧安保条約の抜本的改定を打ち出すことはできなかったのである。岸氏が実際に持ち出したのは、旧安保条約の微修正、即ち、在日米軍の基地使用について事前協議制をもうけること、なんらかの期限をもうけることだけだった。

 当時わが国では、第五福竜丸被ばく以後燎原の火のごとく燃え広がった原水爆禁止運動、内灘、砂川を頂点とする基地反対闘争、さらにはジラード事件の発生を契機に急速に対米自立を求める広範な国民運動の展開など、保守政権の足もとを揺るがし、非武装・中立の政権の成立さえ展望される情勢となっていた。
 これに危機感を抱いたのは、岸新内閣発足と時を同じくして駐日大使として着任してきたダグラス・マッカーサー2世であった。マッカーサー大使は、岸内閣に先んじて、本国政府に「日本に親共産主義、中立主義の道をとらせないためには、安保条約を改定して、他の同盟国と同じように、完全かつ平等なパートナーとして扱う必要がある。」と意見具申をし、微修正要求しかしない岸内閣の鼻先をとらえて、「平等・双務・対等」の新安保条約締結に誘導したのであった。勿論、米国の国益を守るために。

 さすがは独立独歩の超大国、米国の辣腕大使である。
 それに比べ、鼻先をとられてそのあとをおずおずとつき従った岸氏に、対米自立の気概など微塵も見られない。高坂氏の論ずる前半部分は正しくない。むしろ、それとは反対に後半の見立てを裏付けているとさえ言っていい体たらくであったのである。

                           (了)

戦後政治外交史こぼれなし―その1

ダレスが説いた「日本国憲法9条は『集団的自衛権』を認めていない」との正論

 しばらくお休みしていたが、この間、戦後日本の政治外交史の勉強をしてきた。沖縄密約問題を、総合的に検討してみたいと思ったからだ。そんなわけで、前回の記事で予告したように、横田喜三郎・尾高朝雄『国際連合と日本』(有斐閣)をまだ読んで続稿を書くところまでには至っていない。そのかわり、少し面白いことに気付いたので、忘れないうちに書いておきたい。

 旧安保条約は、米国がわが国全土に、望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させるという一方的かつ片務的な「駐軍協定」であった。それだけではなく、本文わずか5カ条の条文には、以下のようなわが国が独立国家であることを疑わせるような定めがなされていた。

・大規模な内乱及び騒擾を鎮圧するために駐留米軍を出動させ得ること
・米国の同意なしに第三国に基地・駐兵・通過などの軍事的権利を認めないこと
・駐留米軍及び軍人・軍属などの地位と権利を行政協定で定めること
・期限の定めなし(米国が認めない限りは失効しない)

 サンフランシスコと講和条約と旧安保条約を締結した当時、外務省条約局長として、事務方を取り仕切った西村熊雄氏は、交渉過程でズルズルと後退をし、このような結果になってしまったことに切歯扼腕し、これを「国連憲章にいう地域的取り決め、そして恒久的取り決めとして、憲章の原則に従った」新条約に置きかえることを願った。

 一方、政治家のドンたちは、そうした本質論的考察よりも、対等性の回復という目に見える成果が欲しかったようだ。その点において、さしずめドンキホーテとでもいうべく敵陣突破を試みたのは保守合同前の民主党・鳩山政権であった。
 1955年8月、鳩山政権の重光葵外相は、訪米し、ダレス国務長官に以下のように激しく迫った。

 「日米間の現在の共同防衛組織は、当時の事情によって日本が自衛のためにも武装兵力をもち得ないという独立否認に等しい誤った憲法解釈によってつくられたために、全く不平等の関係にできている。(中略)国防問題に関する日米不平等の位置は日本が自衛能力を欠くことからくるところであってもとより米国の責任ではない。しかし、この点が日本の米国への隷属関係であるといって左翼勢力の反米思想鼓吹の根源をなしている。」
 「(日米間の新たな関係を創始するため)安保条約及び行政協定の如きは相互主義を基礎とする対等者間の同盟に置き換えられなければならぬ。(中略)米華又は米比もしくは米韓間のそれと同様の形式の相互防衛条約に改められるべきである。」

 私は、この重光外相の発言を読んで、1945年2月の近衛上奏文のことを思い出してしまった。近衛文麿は、昭和天皇に、共産革命の危機を煽って早期戦争終結の決断を促した。しかし、昭和天皇は、一撃を与えた上ででなければ難しいと近衛の憂国の情を軽くいなしたのであった。歴史は繰り返す。二度目は喜劇として。重光外相は、共産党の勢力増大に対抗する武器として旧安保条約を相互防衛条約に置き換えることを強く迫ったが、ダレスから次のように諌められた。まるで子供を諭すように。

ダレス「現憲法下において相互防衛条約が可能であるか。(中略)日本は米国を守ることができるか。たとえばグァムが攻撃された場合はどうか。」
重光「そのような場合は協議すればよい。」
ダレス「憲法がこれを許さなければ意味がないと思うが如何。」
重光「自衛である限り協議できるとの我々の解釈である。」
ダレス「それは全く新しい話である。日本が協議によって海外出兵出来るという事は知らなかった。」

 かくしてダレス国務長官は、「集団的自衛権」は日本国憲法9条の下では認められないとの正しい見解のもとに旧安保条約を相互防衛条約に置き換えることを求めた重光外相を一蹴したのであった。

                              (了)

「集団的自衛権」は国連憲章を食い破る鬼子だ

 孫引きで申し訳ないが、後にポジションを変えてしまうことになった国際法学者横田喜三郎が、1956年7月、法哲学者尾高朝雄と共著で刊行した『国際連合と日本』(有斐閣)において、以下のように述べられているということだ。

 「集団的自衛権に関する(国連)憲章第51条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」

 「自己に対しては、まだ直接に(武力攻撃が)発生していないばかりではなく、近い将来にかならず発生するという急迫性もない。それにもかかわらず、これに対して自衛権を行使し、武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」

 同書は、さらに国連憲章を改正して、同51条から「集団的自衛の固有の権利」(一般に集団的自衛権と呼称されることになった。)を削除し、国際慣習法上の自衛権(=個別的自衛の固有の権利。一般に個別的自衛権と呼称されることになった)のみを認めることとした上で、これとは別に国連総会の3分の2以上賛成により武力行使が許可されるようにすることを提案している。

 しかも、同書は、横田、尾高の見解を示したにとどまらず、国際法学者や有識者らが1953年~1956年にかけて行った研究会の議論を反映したものであり、その中には後の最高裁長官田中耕太郎も参加していたとのことである。

(以上は上丸洋一『新聞と9条』・朝日新聞夕刊連載第88回の記述による)

 私も、同書を精査するために、早速、図書館に予約を入れた。閲読・精査した上で、改めて書くこととするが、正直、少し昂揚感を覚えている。というのは、私は、当ブログで何度も集団的自衛権に対する疑問と合理的な解釈論を呈示していたところであるが、1950年代中葉において、著名な国際法学者らが参加する研究会のまとめともいうべき著書で、私と相通ずる疑問が示され、立法的解決論が呈示されていたことを知り得たからである。

 私は、たとえば近いところでは、本年7月8日当ブログ記事『フルスペックの集団的自衛権も限定的な集団的自衛権も単なる言葉の綾である』において、以下のように述べた。

 「パリ不戦条約で、例外として認められた自衛権による武力行使とは、『武力攻撃を受けた当該国が、他に適当な方法がないとき、これを排除するために必要最小限度』のものであり、これが国際法(一般国際法もしくは国際慣習法と言われるもの)上の自衛権として確立したのであった。国際法の視点で大きく見れば、第二次世界大戦は、侵略諸国による違法な侵略戦争、被害諸国による自衛権行使の正当な戦争であったと言うことができる。

 違法な侵略戦争が敗退し、正当な自衛権行使による戦争の勝利で終わることが明白となった第二次世界大戦末期から、戦後世界の平和と安全は、包括的国際機構(国連)を設立し、個別国家による一切の武力行使を禁止し、国連がこれを確保するという集団的安全保障が模索された。しかし、1945年6月、連合国によって開催された国連憲章の制定のためのサンフランシスコ会議において、次第に対立を深める米ソの思惑とこれに起因する小国の不安が交錯する中で、集団的安全保障とはあい矛盾する国連憲章51条が採択されてしまった。

 国連憲章51条は、集団的安全保障の例外として、加盟国の自衛権行使を『個別的又は集団的自衛の固有の権利』として認めた。しかし、国連憲章制定過程ではこの『個別的又は集団的自衛の固有の権利』の定義、意義、目的、要件については何ら議論もなされてはいないし、規定もなされていない。これは、いわばさまざまな思惑の妥協の産物だったのである。

 戦後の国際法学者は、『個別的自衛の固有の権利』を従来の国際慣習法上の自衛権(今では個別的自衛権と呼ばれることが多い。)、『集団的自衛の固有の権利』を国連憲章が新たに認めた集団的自衛権と解し、諸国家及び国連もその趣旨で国際政治、外交、国際紛争に対処することになっていった。」
 
 こうした認識に立って、私は、たとえば本年6月25日当ブログ記事『戦争立法を骨太に解読し、批判するための講演要旨』において、以下の私見を呈示した。

 「国連憲章制定過程において「集団的自衛の固有の権利」とは何かとの議論はなされておらず、国連憲章においても、その意義、目的、根拠、定義、要件について何も書かれていない。そうすると、国連憲章51条は、従来の『自衛権』概念を何ら変更していない筈であり、従来どおりの『自衛権』を確認したに過ぎない。
国際法上認められるのは、自衛権しか存在しない。しかし、そのような自衛権を行使し得るに足る軍備を保有しない国も当然あるだろう。そのような国は、本来であれば、自ら加盟する国連に侵略を排除してもらうことを期待するのであるが、国連の現状では、国連はその負託に必ずしも応えられない。そこで、そのような国は、一定の関係国の支援により、自国に対する侵略を排除してもらうことが認められる。その趣旨で『集団的自衛の固有の権利』を書かれたのである。
つまり、非武装もしくは軽武装の国が、他国に守ってもらう権利である。侵略排除のために支援し、武力行使をする国は、反射的利益で受動的に違法性を阻却されるに過ぎない。しかも、これは暫定的なものだ。」

 さて、上記の各ブログ記事をお読みいただければ了解して頂けると思うが、「集団的自衛権」は、国連のレーゾンデートルともいうべき、個別国家による武力行使禁止と国連の手による集団的安全保障の下での国際平和の確保の仕組みと目標に背馳するものである。従って、各国の国際法学者、国際司法裁判所も、これをいかに限定するかに意を用いてきた。いわば「集団的自衛権」の限定行使は、法理的には、当たり前のことだったのである。しかるに実際にはそれは超大国によって濫用され、侵略と戦争、干渉と支配の道具と化してきたことは戦後の歴史が示すところである。

 このことを1950年代に明確に認識し、国連憲章の改正提言をしていた横田喜三郎・尾高朝雄『国際連合と日本』は、今、あらためて読む価値がある。

 今回の安保法案(武力攻撃事態法改正法案)では、「限定的な集団的自衛権を認めるに過ぎない」とか「個別的自衛権に毛が生えた程度」(山口那津男公明党代表)などと吹聴する人たちも、「集団的自衛権」の法理と歴史を、少しは勉強してもらいたいものだ。

                              (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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