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「集団的自衛権」は国連憲章を食い破る鬼子だ

 孫引きで申し訳ないが、後にポジションを変えてしまうことになった国際法学者横田喜三郎が、1956年7月、法哲学者尾高朝雄と共著で刊行した『国際連合と日本』(有斐閣)において、以下のように述べられているということだ。

 「集団的自衛権に関する(国連)憲章第51条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」

 「自己に対しては、まだ直接に(武力攻撃が)発生していないばかりではなく、近い将来にかならず発生するという急迫性もない。それにもかかわらず、これに対して自衛権を行使し、武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」

 同書は、さらに国連憲章を改正して、同51条から「集団的自衛の固有の権利」(一般に集団的自衛権と呼称されることになった。)を削除し、国際慣習法上の自衛権(=個別的自衛の固有の権利。一般に個別的自衛権と呼称されることになった)のみを認めることとした上で、これとは別に国連総会の3分の2以上賛成により武力行使が許可されるようにすることを提案している。

 しかも、同書は、横田、尾高の見解を示したにとどまらず、国際法学者や有識者らが1953年~1956年にかけて行った研究会の議論を反映したものであり、その中には後の最高裁長官田中耕太郎も参加していたとのことである。

(以上は上丸洋一『新聞と9条』・朝日新聞夕刊連載第88回の記述による)

 私も、同書を精査するために、早速、図書館に予約を入れた。閲読・精査した上で、改めて書くこととするが、正直、少し昂揚感を覚えている。というのは、私は、当ブログで何度も集団的自衛権に対する疑問と合理的な解釈論を呈示していたところであるが、1950年代中葉において、著名な国際法学者らが参加する研究会のまとめともいうべき著書で、私と相通ずる疑問が示され、立法的解決論が呈示されていたことを知り得たからである。

 私は、たとえば近いところでは、本年7月8日当ブログ記事『フルスペックの集団的自衛権も限定的な集団的自衛権も単なる言葉の綾である』において、以下のように述べた。

 「パリ不戦条約で、例外として認められた自衛権による武力行使とは、『武力攻撃を受けた当該国が、他に適当な方法がないとき、これを排除するために必要最小限度』のものであり、これが国際法(一般国際法もしくは国際慣習法と言われるもの)上の自衛権として確立したのであった。国際法の視点で大きく見れば、第二次世界大戦は、侵略諸国による違法な侵略戦争、被害諸国による自衛権行使の正当な戦争であったと言うことができる。

 違法な侵略戦争が敗退し、正当な自衛権行使による戦争の勝利で終わることが明白となった第二次世界大戦末期から、戦後世界の平和と安全は、包括的国際機構(国連)を設立し、個別国家による一切の武力行使を禁止し、国連がこれを確保するという集団的安全保障が模索された。しかし、1945年6月、連合国によって開催された国連憲章の制定のためのサンフランシスコ会議において、次第に対立を深める米ソの思惑とこれに起因する小国の不安が交錯する中で、集団的安全保障とはあい矛盾する国連憲章51条が採択されてしまった。

 国連憲章51条は、集団的安全保障の例外として、加盟国の自衛権行使を『個別的又は集団的自衛の固有の権利』として認めた。しかし、国連憲章制定過程ではこの『個別的又は集団的自衛の固有の権利』の定義、意義、目的、要件については何ら議論もなされてはいないし、規定もなされていない。これは、いわばさまざまな思惑の妥協の産物だったのである。

 戦後の国際法学者は、『個別的自衛の固有の権利』を従来の国際慣習法上の自衛権(今では個別的自衛権と呼ばれることが多い。)、『集団的自衛の固有の権利』を国連憲章が新たに認めた集団的自衛権と解し、諸国家及び国連もその趣旨で国際政治、外交、国際紛争に対処することになっていった。」
 
 こうした認識に立って、私は、たとえば本年6月25日当ブログ記事『戦争立法を骨太に解読し、批判するための講演要旨』において、以下の私見を呈示した。

 「国連憲章制定過程において「集団的自衛の固有の権利」とは何かとの議論はなされておらず、国連憲章においても、その意義、目的、根拠、定義、要件について何も書かれていない。そうすると、国連憲章51条は、従来の『自衛権』概念を何ら変更していない筈であり、従来どおりの『自衛権』を確認したに過ぎない。
国際法上認められるのは、自衛権しか存在しない。しかし、そのような自衛権を行使し得るに足る軍備を保有しない国も当然あるだろう。そのような国は、本来であれば、自ら加盟する国連に侵略を排除してもらうことを期待するのであるが、国連の現状では、国連はその負託に必ずしも応えられない。そこで、そのような国は、一定の関係国の支援により、自国に対する侵略を排除してもらうことが認められる。その趣旨で『集団的自衛の固有の権利』を書かれたのである。
つまり、非武装もしくは軽武装の国が、他国に守ってもらう権利である。侵略排除のために支援し、武力行使をする国は、反射的利益で受動的に違法性を阻却されるに過ぎない。しかも、これは暫定的なものだ。」

 さて、上記の各ブログ記事をお読みいただければ了解して頂けると思うが、「集団的自衛権」は、国連のレーゾンデートルともいうべき、個別国家による武力行使禁止と国連の手による集団的安全保障の下での国際平和の確保の仕組みと目標に背馳するものである。従って、各国の国際法学者、国際司法裁判所も、これをいかに限定するかに意を用いてきた。いわば「集団的自衛権」の限定行使は、法理的には、当たり前のことだったのである。しかるに実際にはそれは超大国によって濫用され、侵略と戦争、干渉と支配の道具と化してきたことは戦後の歴史が示すところである。

 このことを1950年代に明確に認識し、国連憲章の改正提言をしていた横田喜三郎・尾高朝雄『国際連合と日本』は、今、あらためて読む価値がある。

 今回の安保法案(武力攻撃事態法改正法案)では、「限定的な集団的自衛権を認めるに過ぎない」とか「個別的自衛権に毛が生えた程度」(山口那津男公明党代表)などと吹聴する人たちも、「集団的自衛権」の法理と歴史を、少しは勉強してもらいたいものだ。

                              (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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