ここにもいた安倍政権ベッタリの高坂門下生 (下)

(「安全保障環境の変化」その3)

 米国が、解決を迫られている国防戦略上の重要な問題は、財政収支と貿易収支の恒常的悪化、経済の慢性的停滞によって米国の力が減退する中で、軍事的プレゼンスを量的には再編、縮小しつつも、質と能力を落とさず、強靭性と状況をコントロールする対応力を持ち続けることにより、覇権を維持することである。
 2012年1月、オバマ政権が発表した新「国防戦略方針」の正式名称は、「Sustaining U.S. Global Leadership:Priorities for 21st Century Defense」であった。まさに覇権を維持するための国防戦略であることをタイトル自体が物語っている。その覇権維持の目的であるが、戦後史の地平に立って考察すれば、決して世界平和の実現にあるのではない。それは、米国本位の生産と投資、金融、通商・貿易、資源確保の秩序と市場ルールを形成し、かつ守りぬくことにあるのである。

 米国政府は、この困難な問題をクリアするための方策の一つとして、同盟国、とりわけ、わが国の軍事面における肩代わりと役割分担を拡大することにより補完することを企図しきた。そのことは米国政府の国防政策に係る文書において臆面もなく語られている。

 たとえば、米国国防総省発表する重要な国防政策文書であるQDR(4年ごとの国防政策見直し。Quadrennial Defense Review)の2005年バージョン(2005年2月3日発表)―そう、あのアフガン、イラク戦争をふまえて策定されたものであるが―は、過去4年間、NATO、オーストラリア、日本、韓国、その他の二国間同盟について、新しい脅威に直面して、強靭にかつ妥当に機能してきたと評価しつつも、英国との同盟が世界における同盟や友好関係の範囲や深さにおいてモデルになるものである、と別格の評価を与えていた。これはとりもなおさず、相互性のないわが国との同盟を、英国のように集団的自衛権を行使して戦闘に参加する相互同盟に改編することを希望し、わが国政府に自覚を促そうとするものであった。

 冷戦終結後、米国は、ブッシュ・シニア政権期とクリントン政権初期において、軍事力の世界展開を大幅に縮小し、同盟諸国も冷戦下で課されてきた厳しい軍事負担を削減し、平和の配当を享受した。わが国でも、細川政権下において、多角的外交が模索され、「同盟漂流」と呼ばれ、一部の自衛隊制服組幹部やタカ派政治家に危機意識が深まる時期があった。

 そのつかの間のまどろみを破ったのは、湾岸戦争、第一次朝鮮危機、台湾危機、ユーゴ内戦とコソボ紛争など冷戦下には抑えられていた地域における紛争の勃発であった。それは9.11を経て、ブッシュ・ジュニアの対テロ戦争宣言とアフガン侵略、イラク侵略、そしてそれに引き続いてパンドラの箱のふたをあけたようにテロ集団による暴力、殺戮とこれを鎮圧しようとする国家群との非対称的な戦闘が各所で展開される時代が始まり、今に続いている。

 わが国では、これに並走するように、冷戦下においてさえ想定できなかったような日米同盟強化と軍事・安保法制の制定が一挙に進行する。その要因を挙げれば、国内的には日本社会党の右傾化、政権入り、その後の実質消滅と、小選挙区制の下での日本共産党をはじめとする少数異論派の停滞、国民の政治離れと保守政治家の国民からの遊離、小泉純一郎、安倍晋三というようなポピュリズム政治家による巧妙な世論操作、それらを通じた国民主権と立憲主義の後退などを拾い上げることができるだろう。また対外的には、鳴り物入りの米国筋からの圧力(たとえばあからさまに集団的自衛権に踏み込むことを求めた第一次~第三次アーミテージ・レポートなど)と、外交・防衛官僚、とりわけ日米制服組官僚のフォーマルもしくはインフォーマルな連携、共同演習の日常化を通じた米軍と自衛隊との一体感の醸成、などがあるだろう。

日米同盟強化と軍事・安保法制の制定をざっと概観してみよう。

・1992年 6月 PKO協力法成立
・1996年 4月 日米安保共同宣言による安保再定義(日本防衛+極東の安全ための在日米軍⇒日本防衛+アジア・太平洋地域の安全のための在日米軍及び自衛隊への転換、さらには「地球的規模の問題についての日米協力」も謳われた。)
・1997年 9月 第二次ガイドライン(日米安保共同宣言の実施要項と見てよい。)
・1998年 5月 周辺事態法成立(アジア太平洋地域で、米軍のために行う自衛隊の兵站活動の法制化)
・2001年11月 テロ特措法成立。アフガン侵略多国籍軍への兵站活動。
・2003年 6月 武力攻撃事態法成立(日本防衛の基本法制)。これに引き続き一連の有事法制定。
・2003年 7月 イラク特措法成立。イラク人道復興支援の名目でのイラク侵略多国籍軍の支援活動。
・2005年10月 日米安全保障協議委員会(2+2。以下「SCC」という。)で「日米同盟:未来のための変革と再編」を合意。冒頭、「日米安全保障体制を中核とする日米同盟は、日本の安全とアジア太平洋地域の平和と安定のために不可欠な基礎である。同盟に基づいた緊密かつ協力的な関係は、世界における課題に効果的に対処する上で重要な役割を果たしており、安全保障環境の変化に応じて発展しなければならない。」と確認。日米同盟は、極東はおろかアジア太平洋地域の枠も取り払い、世界的な課題に共同対処するものと、その意義、目的の転換がより鮮明になる。
・2007年 5月 SCCで、「同盟の変革:日米の安全保障及び防衛協力の進展に関する構想」を合意。上記「日米同盟:未来のための変革と再編」を確認し、これに沿った役割・任務・能力の進展を確認したとある。

 小泉退陣のあとを受けて、2006年9月、第一次安倍政権が発足した。安倍は、2005年10月のSCC合意「日米同盟:未来のための変革と再編」に基づき、集団的自衛権を容認し、米国からの要請あるところ世界のいずこにでも自衛隊を派兵し、米軍の肩代わりし、あるいは役割分担をして行くための法制の整備を目論んだ。安倍は、安保法制懇を立ち上げ、検討を急がせた。しかし第一次安倍政権は2007年8月までの短命政権に終わり、安倍の目論見は挫折を余儀なくされた。

 5年後、民主党の失政により、はからずも安倍は政権に返り咲ことができた。その安倍が満を持して取り組み、一気呵成に仕上げたのが今回の安保法制である。

 繰り返して言うが、これは、米国の軍事的プレゼンスと威嚇、そしてその威嚇が奏功しなかった場合の武力行使に参加し、部分的に肩代わりし、役割分担をしていくことにお墨付きを与えるものである。

 国際政治学者が説く同盟のジレンマの一方―見捨てられの不安―などという古典的同盟の政治哲学に基づき、わが方が貢ぐ姿勢と努力を示せば、かのお国もそれ相応の見返りをしてくれるであろうから抑止力が高まり、わが国の安全に寄与するなどとのご高説に耳を傾けている場合ではない。 米国は、戦後、絶え間なく戦争をしてきた国であるから、威嚇が奏功しない場合に武力行使を踏み切ることに何の躊躇もないであろう。最新のQDR2014年バージョンでも「戦力の投射と決定的な勝利」として、「大規模かつ多面にわたる第一の地域的な敵を打破するとともに、他の地域における第二の敵の目的を挫き、あるいは敵に受容できないコストを課すことが可能」と誇らかに宣言している。中国の軍事作戦を「接近阻止・領域拒否」(A2/AD)などと分析し、これを打ち破るためエア・シー・バトルなる作戦概念まで打ち出すマニアックな戦争のプロがウジャウジャうごめく国、それが米国である。
 そんな米国の軍隊と協力・共同の体制を整備することは、古典的同盟の政治哲学が説く同盟のジレンマの片割れ―巻き込まれの不安―が現実化してしまうことをこそ、正視しなければならない。

(憲法解釈は五次方程式か)

 中西氏のインタビューに戻ろう。話は次のように続く。

 「合憲か違憲かに話が集中してしまったのは残念でした。憲法、特に9条は、法律学だけで解ける問題ではありません。5次方程式が2次方程式で解けないように、通常の法律学では解釈できず、国際政治的な判断、すなわち、安全保障、国際法といったものを組み合わせて判断せざるを得ないと思います。」
 「憲法9条は50年代、日本が独立したとき、あるいは自衛隊が正式に発足したときに改正するのがスジだったのでしょう。しかし、国内の政治的対立や国民の間に軍事への反感があり、できなかった。『個別的自衛権は行使する』という解釈に落ち着いたのは、当時の政治家の知恵です。今回のように、環境が変わったら別の解釈に移るということは、十分にあり得ることです。」

 中西氏は、憲法のなんたるかを全くご存じないようである。憲法は、国の根本規範であり、政治は憲法に従わなければならない。外交、安全保障の分野をカバーする国際政治とて同じである。憲法はこの趣旨を「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と簡潔に表現している。これが立憲主義であり、国民主権を謳う民主国家においては、原理中の原理である。

 憲法9条の解釈は何も5次方程式などという難解なものではない。憲法9条の解釈は、おそらく圧倒的多数の国民、9割を超える憲法学者、圧倒的多数の法曹(裁判官、弁護士、そして検事も)は、少なくとも以下の2点において一致するであろう。

① 憲法9条1項においてもし自衛権の行使を否定していないとしても、認められる自衛権行使は、わが国が攻撃を受けた場合に、ほかに適切な方法がなく、その攻撃を排除するために必要最小限度の武力行使にとどめなければならない。

② 自衛隊は、①の自衛権行使のための必要最小限度の実力組織である限りにおいて、憲法9条2項において保持することを禁止された戦力とは言えない。

 従って、集団的自衛権の行使、武力行使と一体化する態様での兵站活動を目的としして自衛隊を出動させることは憲法9条1項、2項に反し、許されない。もし、それをどうしてもやりたいならば、憲法改正をするしかないのである。
 中西氏も学者・研究者である以上、厳密な論理を重んじなければならない。自ら信じる国際政治学の立場からのご高説を通したいならば、憲法改正を提起するべきだ。私は、反対するが、その提案は尊重するし、それでこそ学者・研究者だとその潔さに拍手を送るだろう。しかし、「環境が変わったら別の解釈に移る」などと政治家の如き駄弁を吐く姿は見苦しいばかりである。

(おわりに)

 中西氏のインタビュアーを務めた朝日新聞記者有田哲文氏は、「どこか気持ちの落ち着かない取材だった。歴史や国際政治の現実から語り起こす中西さんの話に、引き込まれる。同時に反発も覚えた。」との感想をしたためている。反発を覚えたのは結構なことだ。しかし、こんな話に引き込まれてもらっては困る。痩せても枯れても朝日新聞の記者だ。こんな与太話、論破してやるぞというくらいの心意気と、勉強をして立ち向かって欲しいものだ。事は、国民の命、暮らしに関わってくる問題だから。

 少し、背伸びして中西氏に反論をしてみた。一太刀くらいは浴びせることができたのではなかろうかと思うがいかかであろうか。
                          (了)
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ここにもいた安倍政権ベッタリの高坂門下生 (中)

(「安全保障環境の変化」その2)

 「安全保障環境の変化」論は、結局は、米国の力が減退する中での世界展開する軍事力の再編、縮小に応じてわが国が肩代わりをすることによって米国の覇権を維持するということ、この一点に収斂するのである。このことをもう少し歴史的にみてみよう。今回はその前篇である。

 世界の憲兵として存立し続けること、それは米国が戦後引き受けた使命であった。米国の世界戦略は、その使命を果たすために構築され、世界情勢の変化に応じて調整されてはきたが、軍事力を世界展開し、他国を牽制し、時には抑圧するということを骨格とするものであったことは一貫している。

 しかし、そうは言っても米国もいわゆる「世界帝国」ではなく、あくまでも国民国家である。だから自国の経済を無視し、財政の健全化と国民生活の向上を図らずに、無制限に、軍事費を垂れ流すわけにはいかないし、自国民のみに血を流し続けさせるわけにはいかないことは当然のことである。だから、米国は、戦後初期から、その負担を単独で引き受けるのではなく、同盟諸国にも軍事面での応分の負担を担わせようとしてきた。

 各国に応分の負担を担わせるための拠り所となったのはヴァンデンバーグ決議であった。米国は第二次大戦までは、伝統的に孤立主義・モンロー主義を国是としてきた。戦後、その伝統的国是を投げ打ち、軍事同盟を通じて世界に介入するには、それなりの国内的合意が必要であった。それがヴァンデンバーグ決議である。
 ヴァンデンバーグ決議は、1948年6月、可決された米上院決議で、その要諦は、「継続的で効果的な自助及び相互援助」を同盟国の義務として課するというものであった。

 わが国が、1951年9月、サンフランシスコ講和条約とともに締結した旧安保条約は、米国に、日本国内に、望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間駐留させる駐兵と基地確保の権利を設定し、日本防衛の義務を課さない片務的条約で、占領体制に条約の衣を着せただけであったが、それは、日本国憲法による制約と軍事的能力の欠如のために、ヴァンデンバーグ決議に謳う「継続的で効果的な自助及び相互援助」の義務を果たすことでできないからだとされた。当時、外務省条約局局長だった西村熊雄は、「日本が米国軍に駐屯してもらいたいというのが真理であると同じく米国が日本に駐兵したいと考えるのも真理」であり、「五分と五分」の関係だったのに上記の如き片務条約締結を余儀なくされたことを「汗顔の至り」と述懐しているが、その述懐は、ヴァンデンバーグ決議の壁にぶちあたり、無残に敗北した敗者の弁、もっと言えば引かれ者の小唄のようである。

 米国は、既に1950年7月1日、マッカーサー書簡という形式のわが国政府に対する命令により、朝鮮戦争勃発に伴い米駐留軍を朝鮮半島に動員する穴埋めとして、7万5000人の警察予備隊を発足させ、かつ海上保安庁の8000人増員を実現させ、わが国の再軍備に着手していた。米国は、サンフランシスコ講和条約と旧安保条約締結過程においても、ダレス特使を通じて、わが国に再軍備の明確な目標呈示を迫り、吉田政権から、現有の警察予備隊と海上保安庁要員とは別に5万人の保安隊をつくり、仮称国家治安省に仮称自衛企画本部を設置して、将来日本の民主的軍隊の参謀本部の中核とするとの案を引き出した。吉田政権の示した案は、後に保安庁・保安隊を経て、防衛庁・自衛隊として現実化されることとなった。

 サンフランシスコ講和条約と旧安保条約が発効した後も、米国は、ヴァンデンバーグ決議を拠り所としてわが国への軍備増強と憲法改正の圧力を強めた。

 その点からすると、現行安保条約は少しはずれているように見える。第5条で、わが国施政権の及ぶ領域内における武力攻撃に対する共同防衛を謳うことにより双務性を有するかのごとき体裁をとっているが、その本旨は第6条、極東の「平和と安全」のための米軍への基地供与と駐兵承認にあり、本質的には相互防衛条約ではなく、旧安保条約となんら変わりはない。ただ、それでも在日米軍はわが国防衛の義務を負うことを確認したのは、ヴァンデンバーグ決議からの逸脱ではある。しかし、その逸脱も、1950年代末の、原水爆反対運動、基地反対闘争、沖縄における反米闘争などかってない高まりと広がりが、わが国を米国から自立する国家へと導くことをおそれた米国の巧妙な迂回作戦と理解すべきだろう。

 米国の最終目標は、ヴァンデンバーグ決議の貫徹であり、わが国が、NATO諸国、西太平洋諸国、東南アジア諸国及び韓国と同様に、ソ連、中国封じ込めのフロンティアとして、米国とともに戦闘に参加できるだけの軍備を持ち、そのような戦闘に参戦することを不可とする日本国憲法を改正させることにあった。

 ところが、1960年代末頃から、同盟各国に応分の負担を担わせるという既往の路線に新たな要素が付け加わることになった。それはベトナム戦争が泥沼化し、敗色濃厚となったことである。膨張する戦費負担と国内経済の悪化による財政赤字が深刻化したことに伴い、米国にとって、従来のように軍事負担を続けることは次第に困難となった。米国政府は、重荷となってきた軍事負担をできる限り同盟諸国に肩代わりさせるという要請をく前面に押し出すこととなった。

 米国の力の減退を補うための同盟諸国に対する肩代わり要求が形をとってあらわれたのがニクソン・ドクトリンである。ニクソン・ドクトリンとは、1969年7月、グァムで非公式に発表された新戦略であり、「(イ)米国は太平洋国家として今後もアジアにかかわりをもつ、(ロ)米国は従来の条約上の約束は今後も守る、(ハ)しかし米国は新しい約束はしない。アジアの安全保障はアジアの自主性を促がす範囲で米国は援助するに止める、(ニ)アジア地域が核の脅威をうけた場合を除き、米国は紛争に介入しないということであって、米国のアジアヘの過剰介入の整理とアジアの互助と自立を骨子としたものである。」とされていた。

 その中でも資本主義世界において米国に次ぐ経済大国になったわが国に対する期待と要求、圧力は大なるものがあった。わが国に関して言えば、米国の力の減退に伴う変化、応分な負担の要求から肩代わり要求への移行の分岐点になったのは、沖縄返還協定をめぐる交渉であった。

 この交渉において、米国はなりふりかまわず、銭ゲバに終始したのであった。

 沖縄返還協定は1971年6月に調印されたが、この協定をめぐっては、財政問題での密約が、早くから浮上しており、毎日新聞・西山太吉が早くからこの問題を追跡した。西山が解明しようとした疑惑は同協定第7条に書かれた日本側が支払いを約した3億2000万ドルは、実際には、日本側財政負担の一部しか書かれておいないのではないかということであった。としていた。その取材活動で、入手した協定第4条3項に基づき米側負担とされた基地用地の原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりする密約がなされたことを示す外務省公電の写しを入手、これに基づく記事を書いた。しかし、政府がこれを否定したことから、国会で取り上げてもらうことを望んでいた彼の手元から、社会党横路孝弘衆議院議員らがその写しを入手した。ここから西山記者外務省公電秘密漏えい事件が始まる。

 外務省公電秘密漏洩事件は、沖縄返還協定の財政密約問題において占める位置は、実際には副次的であるに過ぎない。我部政明の研究によると、日本側の財政負担の約束額は6億8000万ドル余り、協定書第7条に書かれている3億2000万ドルは、半分以下であったという(我部政明『沖縄返還とは何であったか 日米戦後交渉史の中で』NHKブックス)。
 当時のレートでの単純換算でも、実際には2448億円余り、それに対して額面1152億円であったに過ぎない。因みに、当時のわが国の一般会計予算は10兆円足らずであった。すさまじいぶったくりである。

 この沖縄返還協定により甘い汁を吸った米国は、わが国へ軍事費の肩代わりを求めるようになる。1978年度から始まる基地改善・維持費の定常的な負担、いわゆる「思いやり予算」である。その推移は以下のとおりで、巨額に及んでいる。

1978年 62億円、1979年 280億円、1980年 374億円、1985年 807億円、1990年 1680億円、1995年 2714億円、2000年 2567億円、2001年 2573億円、2002年 2500億円、2003年 2460億円、2004年 2441億円、2005年 2378億円、2006年 2326億円、2007年 2173億円、2008年 2083億円、2009年 1928億円、2010年 1881億円、2011年 1858億円、2012年 1867億円、2013年 1860億円、2014年 1848億円、2015年度1899億円(予算案ベース)

 さらに軍事費の肩代わりにとどまらず、事態はさらに進行する。ニクソンが二期目中途、ウォーターゲート事件の発覚で、退任に追い込まれ、1976年の大統領選で、カーターが、副大統領から昇格して大統領職を務めていた共和党のフォードを破り当選したのであるが、1977年1月、カーター新大統領は、ニクソン・ドクトリンの延長線上において在韓米軍撤退を打ち出した。これに驚愕したわが国政府・外務省は、米国にこれを思いとどまらせるために、総力をあげて説得にあいつとめたのであった。時の福田赳夫首相も、カーターに対し直接談判に及んでいる(中島敏次郎『外交証言録 日米安保・沖縄返還・天安門事件』岩波書店)。
 このようなことをすれば、わが国は、肩代わり押しつけようと虎視眈眈の米国側の要求を断ることができなくなるのは理の当然である。否、当時の福田政権は、むしろ好んで火の中に飛び込んだと言うべきだろうか。

 第一次日米ガイドラインが策定されたのは1978年。カーター民主党大統領が1期で終わり、レーガン共和党大統領の時代になると、「日米同盟」を謳歌する時代の幕開けとなった。日米防衛協力が動き出し、共同演習が頻繁に行われるようになる。
 その端緒は、このあたりに求めることができるのかもしれない。因みに日米同盟なる用語が、公式に用いられたのは鈴木善幸首相が1981年5月に訪米したときのこと、このときに初めて日米共同声明に盛り込まれた。シーレーン防衛が盛り込まれたのもこのときだ。
 中曽根康弘首相の日本列島不沈空母発言が飛び出したのは1983年、同年には前出の首相の私的諮問機関「平和問題研究会」の報告書が出された。中曽根政権ではシーレーン防衛構想も一層明確に打ち出されている。わが国領域及びその周辺においてわが国に対する武力攻撃に対し、ほかに方法がないとき必要最小限度の実力行使をするという専守防衛から明らかに一歩も二歩も踏み出そうとしているようだ。

 それでも米国にとって、わが国に対し、軍事面での肩代わりをさせるという要求を貫徹することは思うに任せぬ難行であった。日本国憲法9条が難攻不落の城だったのである。それをゆさぶるのは冷戦終結後の課題となった。

                           (続く)

※上下2回の予定でしたが、上中下の3回に変更し、次回完結します。

ここにもいた安倍政権ベッタリの高坂門下生 (上)

(はじめに)

  9月22日付朝日新聞に国際政治学者の中西寛氏(京都大学法学部教授)のインタビュー記事が掲載された。タイトルには『国の安全を守るには』とある。
 私は、安保法は、国会(国家)レベルでは成立したが、国民(市民社会)で成立していない、市民社会と国家が乖離したときには国家は市民社会に回収され、矛盾の解消に向かうと考える。市民社会はこれを実践しなければならない。その意味で、日本共産党が、脱皮し、市民社会の実践の有力な一翼を担うことを宣言したことを歓迎するものである。
 その立場から見ると、中西氏のインタビュー記事は、市民社会の実践に冷水を浴びせかけようとするものであり黙過できない。そこで、以下反論を加えることとする。少し長くなるので、2回に分けて載せることとする。

(中西氏の立ち位置)

 中西氏は、直前2回にわたって当ブログにご登壇頂いた坂元一哉氏と同じく故高坂正堯氏に師事した高坂門下生である。中西氏は、坂元氏より6歳ほど年下であるが、1991年、博士課程在学中に師に認められ、中途で退学、京都大学法学部助教授となり、その後、師の後釜におさまっているところを見ると、高坂門下生のエースと言ってよいだろう。

 周知のとおり、高坂氏は現実主義者をもって任じていた。現実主義者というのは、転変する政治的現実に応じて時の政権の政策をもっともらしく説明することを得意技とする人たちのことだと私は理解している。

 高坂氏は、1964年に書いた論文『海洋国家日本の構想』において、以下のように論じていた。

日本独自の軍備について

① 現在保有している程度のかなり強力な空軍を持つ。
② 陸軍については、強力な師団は二個師程度にとどめ、それは国連軍に転用するものとする。
③ 海軍については、日本の周囲の海において行われる可能性のあるゲリラ活動を鎮圧しうる程度のものでよい。

米国との関係について

① 日本本土の米軍基地はすべて引き揚げてもらう。
② 海軍基地は必要であるがそれは日本本土に置く必要がなく、またそうでないほうがよい。
③ 日米条約は安保条約のようなものではなく、ソ連とフィンランドの条約、即ちソ連はフィンランドの中立を認めてその地位を保障する、必要に応じて軍事協議を行う、を参考にするべきである。

 この論文は池田政権末期に書かれたものであるが、安保体制を、対米従属でかつ米国の戦争に巻き込まれる危険な体制と批判する強固な非武装中立勢力と、安保・防衛問題を奥座敷に丁重にまつり上げつつ経済を重視し、アジア、とりわけ中国との関係を見据えた自主外交にかじ取りをしていた池田政権期において、危なげない安全保障政策論を説いたものとみてよいだろう。

 その後、高坂氏は、1983年、中曽根首相の私的諮問機関「平和問題研究会」で座長に就任し、防衛費1%枠見直しと、当時の防衛力整備の理論的根拠とされ、専守防衛論の拠り所となっていた基盤的防衛力の見直しの提言をとりまとめている。この報告書においては、日米防衛協力の強化、水際撃滅思想から洋上撃滅思想への転換、有事法制の研究の推進、三自衛隊の統合的運用なども提唱されている。論文『海洋国家日本の構想』に見られた高坂氏の姿は、もはや影も形も見られない。

 坂元氏も中西氏も、かの安倍首相の私的諮問機関「安保法制懇」の有力メンバーとして、政権にコミットすることにより、おおいに師の薫陶に応えようとしている。現実主義者の系譜は脈打ち、健在であった。

(「安全保障環境の変化」その1)

 さて、冒頭のインタビュー記事に戻ろう。中西氏は、わが国はこれまで50年間隔くらいで「安全保障環境の変化」に直面してきたと言う。西洋列強がわが国に開国と通商をせまってきた幕末期。19世紀末の帝国主義の時代に西洋列強に伍して植民地帝国を建設した戦前期。敗戦後、米国に安全保障を依存して平和を享受した戦後期。そして現在。

 複雑な国際政治の諸事象を、「安全保障環境の変化」などという切り口で整理するのは、いささか単純化のし過ぎのように思われるが、現実主義者とはこういう割り切りをするものなのだろう。

 中西氏は、現在の安全保障環境の変化について、次のように説明する。

 「二つの変化が同時に起きています。」
 「一つは、米国が圧倒的な力で秩序をつくっていた時代が終わりつつあるということ。世界は多極化し、グローバル化しています。日米同盟の軸は変わらないとしても、どう役割分担をするか模索していく必要があります。」
 「もう一つは、中国の台頭。むしろ再台頭といったほうがいいかもしれません。いまの中国の態度を見ると、『我々はかつてアジアの指導国であった。朝貢を受ける国であった』という自己イメージが反映しているように見えます。」
 「この二つにどう折り合いをつけるか、そんな模索がこれから20~30年にわたって続くのではないでしょうか。今回の安全保障関連法制も、そうした大きな流れのなかで見る必要があります。・・・個別にみるといろいろ議論すべき点はあったと思いますが、大枠としては正しい方向です。」

 中西氏は、現在わが国が直面する「安全保障環境の変化」とは、米国の力の減退と中国の台頭だと言うのである。

 ところで中西氏も参画した2014年5月15日付安保法制懇報告書は、現在の「安全保障環境の変化」として、以下の項目をあげていた。

① 技術の進歩と脅威やリスクの変化
② 国家間のパワーバランスの変化
③ 日米関係の深化と拡大
④ 地域における多国間安全保障協力等の枠組みの動き
⑤ 国際社会全体が対応しなければならない深刻な事案の発生が増えていること
⑥ 自衛隊の国際社会における活動実績とその役割の増大

 これらについて、私は以前、当ブログで以下のように批判した。
 
 「①に関して言えば、戦後69年間、これらは一貫して激しく変化し続けてきた。その中でも、核兵器の大量保持と運搬手段の飛躍的発達、核拡散、正面衝突を回避しつつ展開された米ソの覇権争いと地域紛争への積極的介入、通常兵器の精度・性能と破壊力の向上させる開発競争、熾烈な諜報・情報戦争、宇宙空間の軍事的利用の研究・開発、ありとあらゆる点において冷戦時代にこそ、これらは際立っていた。
 ②について、パワーバランスの変化の担い手は、中国、インド、ロシア等だと報告書は述べている。ただ具体的な説明がされているのは中国だけであるから、中国こそパワーバランスの変化に主たるアクターだと言うのであろう。確かに、中国の軍事的膨張主義は、わが国にとっては重要な課題である。しかし、米国に一切触れないのは片手落ちだろう。米国の動向こそ、依然として世界の緊張の原動力である。それにしても米ソの冷戦構造の時代は米ソのパワーバランスの変化に世界が振り回された。それと比べると個別国家のパワーバランスよりも、国連や地域的機構の安全保障、平和維持の役割が格段と重要視されるようになっていることは、④、⑤で取り上げられているとおりである。
 ③は、わが国歴代自民党政権がとってきた米国一辺倒の外交政策の結果であって、多角的、東アジア重視の外交姿勢に転ずれば、日米軍事同盟体制は相対的に重要性を減ずることになる。
 ④は、安全保障環境の厳しさを緩和する要因となる。
 ⑤について。冷戦終結後、地域紛争は、冷戦時代とは異なる形をとり、異なる原因で発生するようになった。そのため冷戦時代には無力であった国連が、その本来の役割を果たせる機会が増えたということである。
 ⑥について。これは、9条に関する政府見解二本柱によって、海外派兵、海外での武力行使に歯止めがかけられてきたから言えること。その歯止めがあったればこそ、自衛隊は、海外で武力行使をせず、戦闘により一人も殺されず、一人も殺してこなかった。非武装の自衛隊が、海外で平和維持活動、災害救助活動、民生活動をすることにより自衛隊は一層高く評価されることになる。」

 (「安保法制懇報告書を読む(6)」 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-89.htmlより引用)

 これにより「安全保障環境の変化」論を十分に論駁できているだろう。

 中西氏は、安保法制懇報告書で、現在の「安全保障環境の変化」としてあげられた①から⑥のうち、②のみを切り分け、それを、一方では中国の台頭をカリカチュア化し、他方では同報告書で一言も触れられていなかった米国の力の減退をクローズアップしてみせて、脚色している。だが、そのことにより「安全保障環境の変化」論は、極めて恣意的・主観的なものであり、結局は、米国の肩代わりの推進という一点に収斂するものであることが明白なものとなった。
                  (続く)

集団的自衛権は、戦前から自衛権の一種として認められていたとの謬論 ―チェンバレン・ドクトリンに関して―

(はじめに)

 私は、当ブログ上で、幾度となく集団的自衛権は、国連憲章制定過程において、諸国の思惑による妥協の産物として第51条に規定されるに至ったものであり、国際慣習法上の自衛権とは異なり、定義、目的、要件など不明確で怪しげな「権利」であること、これは国連のレーゾンデートルである個別国家の武力行使禁止と集団的安全保障体制を根底から覆すもので、国際法学においても例外かつ暫定的なものとして限定的解釈がなされ、もしくは立法論としてこれを廃止する提言がなされてきたこと、それにもかかわらず戦後国際紛争の数々において大国が自国の国益を守り、そのヘゲモニー、イデオロギーを強制するために、侵略と干渉の道具として濫用してきたことを縷々述べてきた。

 ところがこれに反する見解を述べる人もいる。たとえば本年9月15日参議院平安特別の中央公聴会で公述人として招致された坂元一哉氏である。彼は、次のように述べた。

 「集団的自衛権という言葉は、個別的自衛権という言葉と同じく、70年前、1945年にできた、国連憲章の中で初めて使われた言葉です。しかし、その考え方自体は、これも個別的自衛権と同じく、それ以前から存在しておりました。
 時間の関係で詳しくは申しませんが、たとえばイギリスは1928年、国際紛争解決の手段としての戦争を禁じた〔不戦条約〕を結ぶ際に、自衛権に関して留保をつけ、「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明確に述べております。
 国連憲章第51条が、『集団的自衛権も個別的自衛権も、どちらも国家固有の自衛権だ』という書きぶりになっておりますのも、この権利が、国連憲章ができる前から存在する、〔自衛のための権利〕だと認めているからではないでしょうか。」

 しかし、これは誤りである。以下、その理由を順次のべていくこととする。

(国際法上の自衛権前史)

 国際法上の自衛権の歴史は、実は意外と新しい。国際紛争の場で、自衛権をめぐるやりとりがはじめて取り交わされたのは、1837年に発生した有名なカロライン号事件においてである。カロライン号事件の概略を見とおこう。

 米国と英領カナダの境にあるナイアガラ川のカナダ領内にネイヴィ島というキナ臭い名前の島があった。1837年当時、そこを拠点として、カナダの独立を目指す独立派が武器をとって英国と戦っていた。その独立派に対し、米国人所有の船カロライン号が、ナイアガラ川の米国岸とネイヴィ島との間を往復し、人員、武器、物資を輸送していた。英国は、米国にその取り締まりを要求したが、はかばかしい効果がない。そこでカナダ提督指揮下の英軍は、米国ニューヨーク州シュロッサー港に停泊中のカロライン号を急襲し、火を放った上、ナイアガラの滝から落下させてしまった。
 当然、この事件は、英国と米国との間で、重要な外交案件となり、厳しい交渉が行われた。その過程で、米国務長官ウェブスターは、駐米英国公使フォスターに宛てた書簡で、「英国政府は、差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったことを示す必要がある」、「たとえ仮に米国領域への侵入がそのときの必要性よって容認されるとしても」、「非合理な、もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があり、それは、自衛の必要によって正当化される行為が、かかる必要性によって限界づけられ、明白にその範囲内にとどまるものでなければならないからである」と主張し、英国政府に、カロライン号急襲と米国領侵犯につき、自衛権の行使としての正当性の論証を求めた。

 ところでカロライン号事件は、現在の通念では、自衛権の行使と目されるような事案ではなく、また当時は無差別戦争観が支配していた時代あったから、英国の武力行使が自衛権として国際法に照らし正当なものかどうかが問われたわけではない。言ってみれば、外交上自衛権なる問題が取り上げられ、英国、米国の外交上の非難・応酬の対象となったに過ぎず、結局は、英国、米国とも、落としどころを得て、無事、落着をみた。
 しかし、上記ウェブスター書簡で述べられた「差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったこと」という定式は、後に国際法上の自衛権が確立する時代において、国際法学者によって、ウェブスター・フォーミュラと命名され、自衛権の要件として注目されることとなる。わが国における従来の政府見解である「自衛権行使三要件」の源流でもある。

(国際法上の自衛権の確立)

 19世紀に勃興した帝国主義的領土分割の時代は、やがて20世紀における二度にわたる世界大戦という疾風怒濤期を経て終息期に向かう。さしずめ今はその最後の時期にさしかかっていると言ってよいのかもしれない。その大きな時代の移り変わりの中で、戦争と平和という人類史的テーマも様変わりした。かつて例をみない惨害をもたらした第一次世界大戦がエポックを画した。全世界を覆う平和運動の波とロシア革命を先頭とする変革の嵐。やがて国際連盟が設立され、国際社会あげて、軍縮の実現をめざし、無差別戦争観・戦争自由の思想にピリオドを打ち、戦争と武力行使を違法とし、禁止し、それに反する行動をとった国には国際連盟による制裁を科すという道が模索された。ヨーロッパの英、仏、伯、伊、独5カ国間のロカルノ条約を経て、1928年、とにもかくにも戦争と武力行使を違法とし、禁止するパリ不戦条約が締結された。

 こうして国際社会において戦争と武力行使を違法とし、禁止することが公認されるようになる反面、その例外として許容されるべき戦争と武力行使が浮上する。それが自衛権の行使としての戦争と武力行使である。
 国際法学者らは、上述したように百年も昔のカロライン号事件におけるウェブスター書簡中で示されたウェブスター・フォーミュラに息を吹き込み、次の三点に集約・整理し、これを自衛権の定義、自衛権の行使要件とした。

①急迫不正の侵害の存在
②他に取り得る方法がないこと(必要性)
③必要最小限度の範囲にとどまる措置であること(均衡性)

 わが国でも、横田喜三郎博士は、既に戦前において、「自衛権は、国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為でなくてはならない。」として、具体的に「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。(以下略)」と説いていた(「国際法」上巻・有斐閣 1933年)。

 これらは、わが国の従来の政府見解「自衛権行使三要件」と同じであり、集団的自衛権とは縁もゆかりもないことは明らかである。

(パリ不戦条約)
 
 パリ不戦条約は本文3か条のうち、第3条は手続規定であるから、正味は、第1条、第2条のみである。

第1条 締約国は国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、かつ締約国相互の関係において、国家政策の手段としての戦争を放棄することを、各々の人民の名で厳粛に宣言する。

第2条 締約国は、締約国相互の間に起こる全ての争議または紛争は、その性質又は原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないことを約束する。

 第1条には「国家間の紛争の解決のため」とか「国家政策の手段として」とかの語句があり、戦争放棄は条件付のようにも読める。同条においては侵略戦争の放棄をしているだけであって、自衛戦争は放棄されていないと読み取る余地が生じる。
 しかし第2条は単純明瞭である。全ての争議または紛争を、性質、原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないとある。そこでわかりにくい第1条を第2条とともに解釈すると全ての戦争を放棄する趣旨だと解さざるを得ない。

 パリ不戦条約第1条だけを取り出して、同条約の本旨を自衛のための戦争を留保し、侵略戦争の放棄を約したものと解し、そこから「国際紛争を解決する手段として」というわが憲法9条1項の用語例を、自衛のための戦争、武力の行使を排除する趣旨だという読み方が人口に膾炙しているが、どうやらそれは間違いのようである。
 もっとも、実際問題として、パリ不戦条約では自衛戦争(あるいは自衛のための武力行使)は放棄されていないものとして取り扱われてきた。ではどうしてそうなるのか。
 実は、各国は、不戦条約批准に際し、「自衛権の行使を留保する」との趣旨を明示した交換公文を取り交わしていたのだ。つまり各国は、「自衛権の行使を放棄しない」との条件で批准をしていたから、不戦条約では自衛戦争(もしくは自衛のための武力行使)は放棄されていないということになるというカラクリになっていたのである(田岡良一「国際法上の自衛権」勁草書房157頁以下参照)。

 ここで各国が交換公文で留保した自衛権は、各国各様の主張にもかかわらず、パリ不戦条約を主導したケロッグ米国務長官により、「自国領域を攻撃又は侵入から守る自由」と定義されている(1928年6月23日付公文。森肇志『自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開』東京大学出版会146頁以下参照)。これは上述した国際法上の自衛権に一致するものである。

(チェンバレン・ドクトリン)

 さて、上述のとおり、坂元氏は、英国がパリ不戦条約調印に際し差し入れた交換公文に「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明記されていることをあげて、集団的自衛権の考え方が既にこのころには存在していたと主張したのであった。

 確かに、英国が、パリ不戦条約調印に際し、交換した公文に上記の趣旨が明記されていた。これはチェンバレン・ドクトリンと呼ばれているものだ。

 これを集団的自衛権の先例とする著名な国際法学者もいる(田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』)。坂元氏の上記主張は、これに追随し、自己流にふくらましているのである。

 しかし、これはあくまでも英国政府の政治的マニフェストに過ぎない。英国は19世紀末葉までは世界の海を制覇し、パックス・ブリタニカと称せられた帝国主義国であった。時改まって1920年代、その勢力は斜陽となっていた。しかし、斜陽となった帝国主義国家も、否、斜陽となったればこそ一層というべきであろう、帝国の権益を固守しようとはかるものである。そのような帝国主義の真髄を示す政治的マニフェストが、帝国主義を拒絶し、戦争と武力行使を違法化し、禁止をするための条約において受容されることはあり得ない。事実、前記ケロッグ国務長官の公文によりそのことは確認されている。

 英国だけではない。帝国主義列強の末席に連なるごとく参入したわが大日本帝国も若いだけに鼻息は荒かった。時まさに幣原協調外交から田中儀一強権外交に席を譲った頃であった。わが大日本帝国は、満蒙の特殊権益なる特異な主張をし、それを守ることも自衛権の行使だとして戦争、武力行使の違法化、禁止を無効としてしまうような自衛権概念を呈示した。これはパリ不戦条約の交換公文には明記されていないが、わが国が国際社会に発した公然たるメッセージであった。しかし、だからといって、そのような特異な自衛権概念が自衛権には含まれるなどとは誰もいわないだろう。チェンバレン・ドクトリンも満蒙の特殊権益論も自衛権の意義、目的、要件になんらの変更をもたらしてはいない。

(まとめ)

 以上述べたところから、チェンバレン・ドクトリンに飛びついて、集団的自衛権は自衛権の一種として存在していたと言うのは誤りであり、デマゴギーに類する主張であることがお分かり頂けたことと思う。それはあくまでも帝国主義国家・英国の特殊な主張であり、国際法上の自衛権の意義、目的、要件になんらの影響ももたらすものではない。
 坂元氏は、国連憲章51条の書きぶりにも言及するが、それは上述の如く歪んだ眼から見た憶測に過ぎないから、これ以上言葉を費やす必要はなかろう。
                         (了)

坂元一哉公述人の憲法論は政治的弁舌の類だ

 坂元一哉氏は、京都大学で高坂正堯氏に師事した国際政治学者、現在大阪大学教授である。坂元氏の著作『日米同盟の絆―安保条約と相互性の関係』(2000年5月刊行)は、講和・安保条約の締結から新安保条約の締結に至る戦後政治外交史を日米双方の原資料を丁寧に読み込み、骨太に描いた堅実な学術書で、名著と言っていいだろう。私も、随分学ぶところがあった。まじめな研究成果は、立場が違っても参考になるものだ。

 しかし、坂元氏の9月15日参議院院『平和安全特別委員会・中央公聴会』で行った意見陳述は残念ながらまじめな研究成果の披歴とはかけ離れたものであった。特に、全文5432字のうち実に4003字を占めた(枕詞や展開のための措辞もあるから意見陳述の殆どを占めたと言っていいだろう。)憲法論は、専門家としての立場を離れた政治的弁舌の類と言ってよく、こんなものを聞かされても委員諸氏にはなんの参考にもならなかっただろう。

 坂元氏は、「わたくしが、この安全保障関連法案を評価いたしますのは、『国家国民を守る』という観点からだけではなく、『憲法を守る』という観点からでもあります。」などと前置きをして、次に摘示する4つの論点を提示し、本法案の柱となる集団的自衛権行使容認は憲法違反との大多数の憲法学者や圧倒的多数の法曹の見解に対し、不遜にも攻(口)撃を加えんとした。そこで、若干大人げないかもしれないが、攻(口)撃を排除するために以下のとおり必要最小限度の反論の措置をとることにした。

・ 本法案の柱となる集団的自衛権の行使容認は、砂川事件最高裁判決によれば、「一見極めて明白に違憲」とは言えず、最高裁が違憲判決を下す可能性はない。

・ 砂川事件最高裁判決でいう「自衛のための措置」には、集団的自衛権を射程に入っており、むしろ合憲論に与するものだ。

・ 本法案の柱となる集団的自衛権行使はあくまでも限定的なものであり、「海外派兵は自衛のための必要最小限度を超える」との政府見解を踏襲すると述べており、憲法上の制約は遵守される。

・ 万一、最高裁が違憲判決を下したなら、そのときに法律を改正したらいい。

「本法案の柱となる集団的自衛権の行使容認は、砂川事件最高裁判決によれば、『一見極めて明白に違憲』とは言えず、最高裁が違憲判決を下す可能性はない。」との主張について

 周知のように砂川事件最高裁判決は、旧安保条約が憲法9条に反するのかどうかという極限された争点に対し下された判決である。
 審理の対象となった旧安保条約は、米側からすれば「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ」米軍を日本に駐留させる単なる駐兵条約に過ぎなかったが、わが国政府の主観からすれば頼みの綱である国連による集団的安全保障が期待できない状況下で米軍にわが国の防衛を委ねたいとの希望を体現するわが国の安全を確保するための条約であった。

 砂川事件最高裁判決は、この極限された争点について以下のように判示したにのである。

 「(旧安保条約が)違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。」
 「果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法9条2項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」

 砂川事件最高裁判決は、これ以上のものでもなければこれ以下のものでもない。旧安保条約と、その下でわが国に駐留する米国軍隊は、「一見極めて違憲無効」とは言えないと指摘して、合憲・違憲の判断を回避したのである。

 坂元氏が、プライベートな場面であれば、その砂川事件最高裁判決に希望を託して、どのように夢想しようともそれは自由である。しかし、少なくとも国会に公述人として招致され、そのような希望的観測を意見陳述の中で述べることは場所をわきまえていないと言わざるを得ない。
 1954年4月以来確立している「自衛権行使三要件」に基づき、集団的自衛権行使は憲法9条の下では認められないとするのは一貫した政府見解であり、国会においても了解事項であった。それは単なる一政府の解釈というにとどまらず、国家実践を通じてわが国における憲法9条に関する解釈原理として憲法9条の血となり肉となっている。従って、これをたがえて集団的自衛権行使を容認する7.1閣議決定や本法案は「一見極めて明白に違憲無効」であると判断されると考えるのが憲法学の常識であり、最高裁も必ずやそのように判断するであろう。

 仮に最高裁が「一見極めて明白に違憲無効」とは言えないと判断して憲法判断を回避することがあり得るとしても、それは合憲だということを意味するものではないことは明らかである。砂川事件最高裁判決が「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」としているように、現在、『産経』を除く各社世論調査も集団的自衛権行使容認に反対する者が多数派であり、その主権者の判断こそ何よりも尊重されるべきで、坂元氏のように最高裁が憲法判断を回避するから政府と国会の多数派で決めればいいのだというのは暴論である。

「砂川事件最高裁判決でいう『自衛のための措置』には、集団的自衛権を射程に入っており、むしろ合憲論に与するものだ。」との主張について

 坂元氏は、砂川事件最高裁判決が、以下のように述べておるところを、独自の解釈のもとに援用している。

 「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」

 まず断っておくが、この部分は争点に直接関係なく、判決の結論を左右しない傍論であり、判例として後世の裁判、行政の実務の指針として寄与するものではない。余事記載部分と言ってもいいだろう。従って、坂元氏がこの部分に依拠して「集団的自衛権」行使容認論をオーソライズしようとすること自体、憲法学・法律学の素養の欠如と無知を示して余りあると言ってよい。

 さて、その傍論においてさえ、「集団的自衛権」の片りんさえも見つけだすことはできないのであり、そこに「集団的自衛権」を読みこもうとすることはアクロバット的所業と言わなければならない。砂川事件最高裁判決は1959年12月16日に言い渡されているが、当時、わが国においては憲法9条の解釈として、第一には憲法9条に1項について「自衛権行使三要件」の下で自衛権は認められる、同2項について「自衛権行使のための必要最小限度の自衛隊は許容される」との政府見解と、第二には憲法9条1項において自衛権行使が認められるかどうかはともかくして同2項において一切の戦力を保持せず、交戦権を有しないと定めている以上自衛隊は違憲であるという憲法学界の圧倒的多数意見とが対峙している状況であった。従って「自衛権行使三要件」にさえ背反する「集団的自衛権」が憲法9条の下で認められないという点については、憲法学界も政府も、法律学を学び実務のトレーニングを受け、そして裁判実務に携わっている裁判官にとっても、アタリ前田のクラッカーだったのである。
 一人砂川事件最高裁判決だけがその傍論において「集団的自衛権」も射程に置いていたと考える前提も根拠も全くない。この傍論部分で述べられている「国家固有の自衛権」、「自衛のための措置」が、「集団的自衛権」にまで広がる意味を持つものではないことは議論の余地のないほどに明白である。

 なお、坂元氏は、他衛即自衛であり、「集団的自衛権」も自国防衛のためのもので、自衛権であるなどと漠然としたことを述べ、あるいは元来自衛権には「集団的自衛権」も内在していたなどと得々と述べるが、これらについては当ブログの下記記事などで既に述べたところであるから、参照願いたい。

「集団的自衛権は国連憲章を食い破る鬼子だ」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-257.html

「横田喜三郎・尾高朝雄著『国際連合と日本』に学ぶ」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-262.html

「本法案の柱となる集団的自衛権行使はあくまでも限定的なものであり、『海外派兵は自衛のための必要最小限度を超える』との政府見解を踏襲すると述べており、憲法上の制約は遵守される。」との主張について

 坂元氏は、「集団的自衛権」が戦後世界でどのような役割を果たしてきたのか、全く現実を見ていない。というよりは頭書にあげた著作では、安保条約の生成、改定、その後の実情をきちんとフォローしているのであるから、実際には「集団的自衛権」とはどのような役割を果たすものかを把握している筈であり、知っているのに敢えて無視していると言ってもよいだろう。「集団的自衛権」が当初は、国連による集団的安全保障と調和できるように限定解釈、即ち自国の平和、安全が脅かされる場合にはじめて行使が認められると説かれた自国防衛説からスタートしたことも知っているだろう。ところが実際には、大国・強国の支配、ヘゲモニー、国益に小国を従わせるために行使されてきた夥しい実例を知らない筈はない。「限定行使」と言いながら、「集団的自衛権」行使を容認することは海外派兵へと一瀉千里である。

 坂元氏のこの主張についても、以下の当ブログの記事を参照して頂きたい。

「フルスペックの集団的自衛権も限定的な集団的自衛権も単なる言葉の綾である」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-250.html

「武力行使新三要件はタカの卵である」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-264.html

「専守防衛が堅持される?それほんまかいな~?」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

「専守防衛が堅持される?それほんまかいな~?(続き)」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-238.html

「万一、最高裁が違憲判決を下したなら、そのときに法律を改正したらいい。」との主張について

 坂元氏は、憲法99条を読んだことがあるのであろうか。そこには次のように書かれている。

 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」

 坂元氏のように全て最高裁任せでよいとするのでは国務大臣や国会議員には憲法尊重、擁護の義務がないに等しくなる。その一方で、上述のごとく坂元氏は、最高裁が憲法判断を回避する可能性を期待しているのであるから、政府や国会議員に好きにやればよいと勧めているようなものである。このような放言は決して許されるものではない。

(おわりに)

 以上坂元公述人の意見陳述における憲法論に反論をしてみた。坂元氏は、安倍首相も信頼する私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築のための懇談会」のメンバーであり、安倍首相のお友達の一人である。その坂元氏が献上した意見陳述には安倍首相もおおいに勇気づけられたことであろう。しかし、それを参考にすることは安倍首相にとって、むしろ首をしめる結果に終わるであろう。曰く、巧言令色、鮮なし仁。くれぐれも注意した方がよいだろう。

                                (了)

武力行使新三要件はタカの卵である

 托卵(たくらん)とは、卵の世話を他の個体に托する動物の習性のことであると説明されている。ホトトギスもこの托卵の習性をもっており、たとえばウグイスが卵を産むとその巣から一つの卵をくわえ出し、その巣に自分の卵を一つ産み落とす。ホトトギスの卵は、他のウグイスの卵より早くヒナになり、残ったウグイスの卵も巣の外に落としてしまう。そんなこととはつゆ知らぬ母ウグイスはホトトギスのヒナを、自分の子として育てるということだ。

 東大で憲法学を講ずる石川健治氏は、雑誌『世界』8月号で、インタビューに応じて、次のように語っている。

 卵をこっそり産み、結局は巣を乗っ取ってしまう―。集団的自衛権の問題はこのたとえにふわさわしいと思います。昨年7月1日に、政府は、集団的自衛権を小さく産み落とすことに成功しました。個別的自衛権行使の量的拡大にすぎないかのような体裁に見せて、実際には質的に異なるものを持ちこんだのです。
もちろん、いわゆる「新三要件」の起草段階では、公明党や内閣法制局の努力があって、既存の個別的自衛権の枠内に押さえ込もうとしました。しかし、集団的自衛権という産み付けられた卵は、ウグイスの子だと内閣法制局や公明党がどれほど言い繕っても、やはり着実にホトトギスの子として育っている。たとえば安全保障法制の議論をしてみると、何かといえば、地球の果てまで自衛隊が行ける話になってしまう。国内向けにはウグイスの子として育ててきたものの、やはりそれはホトトギスの卵だったのであって、大きく育ってウグイスの巣を占領しつつあります。

注:(武力行使)新三要件とは「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」と題する昨年7月1日付閣議決定で定式化された武力行使の要件(「①我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合であること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力を行使すること」)であり、「国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合がある」と説明されている。

 なかなか巧みな説明である。その上、公明党と内閣法制局に少しは花をもたせてやろうという謙虚な姿勢に好感が持てる。しかし、それでも私は多少こだわってみたくなる。

 私は、武力行使新三要件とこれを存立危機事態として法制化しようとする「事態対処法案」と「自衛隊法改正案」は、もともと個別的自衛権に限りなく近い範囲の限定的な集団的自衛権の行使を容認するにとどめようというようなヤワな代物ではなかったと考える。

 国連憲章51条は、加盟国の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」として認めた。しかし、国連憲章制定過程ではこの「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の意義、目的、要件については何ら議論もなされてはいないし、規定もなされていない。

 国際法学者は、「個別的自衛の固有の権利」については従来から認められている国際慣習法上の自衛権とイコールであるが、「集団的自衛の固有の権利」については国連憲章において新たに認められることになった権利であると解し、前者を個別的自衛権、後者を集団的自衛権と呼び慣らわすことになった。諸国家も国連や関連機関も、そのように理解し、外交や国際紛争に対処してきた。

 こうした経緯から、個別的自衛権はその意義、目的、要件はおのずから明白で、おおむね以下のように整理されている。

 「自衛権は、国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為でなくてはならない。」⇒具体的には「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。」
(横田喜三郎「国際法」上巻・1933年有斐閣)

 これは従来わが国政府が示してきた自衛権行使三要件(自衛権の発動としての武力行使は①わが国に対する武力攻撃があること、②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきことの要件を満たさなければならない。)と同じである。

 一方、集団的自衛権については当初からその意義、目的、要件は不明確なものだった。このため国際法学者の主流的な立場の人たちは、国連の集団的安全保障、即ち加盟国の武力行使を禁止し、国連安保理が平和の維持、安定のための措置をとることを旨とする体制を危殆に陥れないように、これを限定する趣旨で、他国に対する武力攻撃が同時に自国をも危うくする場合に、自国の自衛のために、この武力攻撃に反撃する権利であると解してきた。これを称して自国防衛説と言う。即ち、集団的自衛権は、もともと7.1閣議決定流の限定的なものとするのが国際法学上の主流的な立場だったのである。

 ところが現実には、集団的自衛権は、米国とその同盟国、旧ソ連とその同盟国など大国が、自国の国益を守り、そのヘゲモニー、イデオロギーを強制するために、侵略と干渉の道具として行使されてきたのであった。これが、今、フルスペックの集団的自衛権といわれているものの実情である。

 従って、武力行使新三要件がどんなに言葉巧みに限定的集団的自衛権の装いをこらしても、この道はいつか来た道、フルスペックの集団的自衛権への道なのである。実際に、武力行使新三要件の目玉とされる「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」との文言は多義的で不確定であり、総合判断を要するものであるもので、時の政府の判断に委ねることにならざるを得ない。

 武力行使新三要件は、鳥の卵のたとえを用いるなら、それはホトトギスの卵ではなく、タカの卵である。
                                                          (了)

再び軍部独走を許してはならない


 このところ自衛隊制服組の独走ぶりを示す事実が相次いで発覚している。

 一つめは、今年5月26日、安保法案の衆議院での審議が開始されたまさにその日に、自衛隊統合幕僚監部において、8月成立、来年2月施行のスケジュールを立てて、今年4月に日米合意がなった新ガイドラインを具体的に運用する計画書が作成されていたこと。
 これについて中谷防衛大臣は、当初、当該文書の詳細を承知していないと答弁した。このことは、自衛隊幕僚監部が、防衛大臣の指揮・監督の及ばぬところで、法案の成立・施行時期を想定し、その先の具体的運用を検討していたことを示している。まさに制服組の独断専行である。

 二つめは、河野克俊統合幕僚長が、昨年12月に訪米した際、米側のオディエルノ米陸軍参謀総長から安全保障法制整備の見通しを問われて「与党の勝利により安保法制の整備は夏までには終了する」と説明、政治過程にコミットした発言をしていたことである。
 防衛省は、呈示された会談記録写しと同一の文書の存在確認できなかったなどとしているが、当の河野統合幕僚長が、記者会見で、同一のタイトルの文書は存在していると認めたこと及び指摘された発言を否定しなかったことから、これは事実であろう。これまた制服組の独断専行である。

戦 前、わが国は、軍部の独走に引きずりまわされた。まずは関東軍の独走が、満州から中国全土に及ぶ侵略戦争にわが国を引きずりこんだ。2.26事件の後成立した広田弘毅内閣において「軍部大臣現役武官制」が復活され、その後、軍部は、これを梃子に軍部の意向に反する内閣をつぶし、軍部の意向に従う内閣を作り上げ、とどのつまりは対英米決戦を挑むに至らしめた。軍部独走により、2000万人及ぶアジアの人々と310万人に及ぶに同胞、多数の米英兵士の尊い命が失われ、アジアの人々とわが国民は、物心両面にわたる塗炭の苦しみを強いられた。

 戦後、政府は、日本国憲法9条の下で、本来は認められない自衛隊を創設に及んだが、さすがに戦前の轍を踏まないためのシビリアン・コントロールの制度的保障として防衛庁(省)設置法にさまざまな仕組みを作った。これらを総称して文官統制と呼んでいた。制服組を背広組が抑制する仕組みであり、これによってかつてのような軍部独走を防止するための担保とすることを企図したのである。

 文官統制は次の三本柱から成っていた。

① 参事官制度・・・背広組防衛官僚から8~10名の参事官を任命。これら参事官は、職制としては内部部局の官房長や局長を兼務しつつ、参事官として防衛庁長官(防衛大臣)の行政・防衛(軍事)両面にわたる基本方針策定を補佐する。
  
② 自衛隊の部隊運用・作戦を制服組だけに任せない仕組み・・・背広組から成る内部部局(防衛局運用課。その後組織改編により運用局事態対処課及び国際協力課)が制服組から成る各幕僚監部で作成された部隊運用・作戦計画をチェックし、防衛大臣の決裁を得るための起案をする。

③ 背広組が制服組優位する仕組み・・・防衛大臣が制服組トップである統合幕僚長や陸・海・空の幕僚長に指示を出したり、方針を承認したり、一般的監督をしたりするのに、背広組である内部部局の官房長や局長がこれを補佐する。

 これらのうち①は、既に2009年に廃止されている。制服組の圧力がしからしめたのである。そして②、③は、今年6月10日成立した改正防衛省設置法によりいずれも廃止された。これまた制服組の圧力がしからしめたのである。

 文官統制の廃止により制服組の地位と権限は、著しく伸長することとなった。

 こういう流れの中で、自衛隊統合幕僚監部や河野統合幕僚長の独断専行が生じているのである。このような状況において自衛隊の海外派兵の常態化、集団的自衛権行使、海外での武力行使をオーソライズする安保法案の成立を許せば、かつての軍部独走の再現を見ることになる。だから、私たちは、なんとしても安保法案成立を阻止しなければならない。


                              (了)

横田喜三郎・尾高朝雄著『国際連合と日本』に学ぶ

(はじめに)

 8月11日の当ブログの記事『「集団的自衛権」は国連憲章を食い破る鬼子だ』で触れた国際法学者横田喜三郎と法哲学者尾高朝雄との共著『国際連合と日本』(有斐閣・1956年。以下「本書」という。)をようやく読み終えた。
 上記記事において、私は、上丸洋一『新聞と9条』(朝日新聞夕刊連載第88回)から以下のように孫引きし、横田らが本書において国連憲章の改正提案をしていることを紹介した。

 「集団的自衛権に関する(国連)憲章第51条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」
 「自己に対しては、まだ直接に(武力攻撃が)発生していないばかりではなく、近い将来にかならず発生するという急迫性もない。それにもかかわらず、これに対して自衛権を行使し、武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」


 本書で確認したところ、第三章「国際連合と安全保障」・第三節「地域的安全保障」中の第五項「集団的自衛権の修正」(194頁)に、このことは確かに書かれていた。
 さらに本書は、国連憲章を改正して、同51条から集団的自衛権を削除し、これを本来の自衛権(筆者注:個別的自衛権のことである)のみを認めることとし、同時に国連総会の3分の2以上賛成により国連自身による集団的安全保障措置(強制措置)をとれるようにすることを提案していることも確認できた(195頁)。 

 (集団的安全保障体制と「同盟」)

 上記の提案を理解するためには、本書において、国連の本来の目的である国連による集団的安全保障と「同盟」による集団的自衛権の関係がどのように整理されているかを確認しておく必要がある。

 国連による集団的安全保障は、特定国を仮想敵国とするものではなく、構成国間どうしの武力衝突を未然に防止し、万一、武力衝突が発生した場合には、国連安保理が主体となって、その平和的解決のために行動し、もしくは不法な攻撃を排除し、制裁を加え、平和を回復するために武力行使をする仕組みである(国連憲章第七章)。これに付加して国連憲章第八章には国連加盟国による地域的取極又は地域的機関(以下これらを「地域的機構」という。)の規定が置かれており、地域的機構が国連安保理の下で(具体的にはその許可を得て)集団的安全保障の措置をとることも予定されている。
 これに対して、「同盟」による集団的自衛権は、特定国を仮想敵国とし、この仮想敵国に対して「同盟」の構成国が相互に援助しあい、その攻撃と共に戦うことを想定する仕組みである。

 このような区別を前提として、本書は次のように述べている。

 この差異は国際社会の全体から見ると、極めて重要な意味がある。本来の安全保障(筆者注:集団的安全保障のことである。以下同じ。)、国際社会の一般的な安全にはすこしも害がなく、これに寄与するところが大きい。この安全保障では、それに加わっている諸国の間で、安全を確保することを目的とするもので、第三国には対抗しないから、第三国に対して不安を与えない。その上に、当事国の間で起こる侵略を防止しようとするから、それだけ侵略の可能性がのぞかれる。これに反して、同盟では、常に第三国間の攻撃を予定し、はなはだしい場合には、この第三国を明示し、それに対抗して、当事国の間でたがいに援助することを約するから、第三国に対して不快と不安を与えずにはおかない。第三国がこれに対抗するために、みずからも他の第三国と同盟を結ぶならば、二つの同盟の間にはいっそう緊張した対立が発生する。こうして同盟は必然的に国際間の不安を引き起こし、緊張を増加する。それによって国際社会の一般的な安全が害されることになる。

(集団的自衛権の否定と国連憲章の改正提案)

 国連安保理の常任理事国を構成する五大国に、拒否権が認められることとしたため、現実には、国連安保理による集団的安全保障も地域機構による集団的安全保障も画餅に帰することが予測されるところとなり、その間隙を埋めるために国連憲章51条に集団的自衛権の規定が置かれることになった。戦後の国際情勢のもとで、北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構を双璧とする地域的機構は、集団的自衛権と結合することにより、「同盟」としての役割を果たすことになった。これによって国際間の不安と緊張が増大し、国際社会の一般的な安全が害されることになった。

 なお、横田によれば国際法上確立した自衛権とは「国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為」であり、具体的には「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。」(横田喜三郎「国際法」上巻・有斐閣1933年)であり、自国が武力攻撃を受けていないのに「武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」から、「集団的自衛権に関する(国連)憲章第51条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」ということになるのである。

 そこで、本書は、拒否権行使により安保理が職責を果たせないときには、総会が3分の2以上多数決で決議することにより、安保理にかわって集団的安全保障の措置をとることができるようにするとともに、集団的自衛権を消去するよう国連憲章の改正を提案しているのである。

(本書は現在の我々に何を訴えているか) 

 本書は、1953年2月、カーネギー平和財団から委嘱を受け、わが国の国際法学会が行った「国際機構とくに国際連合に対する日本の国策と世論」に関する調査結果の報告書『日本と国連』及びそれに引き続く継続調査の結果をもとに横田、尾高の両名が書き下ろしたものである。当時、わが国は、国連加盟を目指し、鋭意奔走していた時期であり、戦争・武力による威嚇・武力の行使を放棄し、戦力と交戦権の保持を否定する徹底した平和主義を謳う憲法9条を持つわが国として、国連はどうあるべきかについて強い関心が持たれていた。本書は、国連は平和維持の機関としての職責を果たすべきであるとの決然たる認識に立って、上記の提案を行っているのである。

 かえりみれば、国連中心主義は、わが国外交の要の位置に据えられて既に永きに及んでいる。しかし、米国との「同盟」を深化させることはこれに背を向けていると言わねばならない。まして事態対処法による「存立危機事態」のみならず、平和協力支援法による「国際平和共同対処事態」、重要影響事態法による「重要影響事態」、国際平和協力法による「国連の統括しない国際連携平和安全活動」、自衛隊法改正による「外国軍隊の武器防護」などあらゆる回路を通じて集団的自衛権行使に道を開く安保法案は、真っ向からこれに挑戦する悪法コンプレックスである。

 今、我々は、この流れを断ち切り、国連中心主義を名実とも実践する道を切り開かなければならない。そのことを本書は、現在の我々に訴えている。
                                    (了)

「ある外交官の証言」 戦後政治外交史こぼれなし―その4

 今回は、ある外交官の証言に注目してみた。ある外交官とは、故中島敏次郎氏。1977年1月当時外務省条約局長。同年9月北米局長になり、その後外務審議官を経て、中国大使。外務省退官後は、最高裁判事に就任している。外務省のほぼ頂点をきわめた人である。
 
 私が注目したのは中島敏次郎『外交証言録 日米安保・沖縄返還・天安門事件』(岩波書店・2012年1月27日第1刷発行)中に採録された以下の証言である。

(問い)
 1977年1月、米国でカーター(Jimmy Carter)政権が始動します。カーター政権は、在韓米軍撤退の政策を掲げて、日本はじめアジア同盟国に動揺を与えます。
同年3月のワシントンにおける日米首脳会談でも、福田赳夫首相はこの問題に対する慎重な対応を働きかけております。当時の日本政府の対応についてお聞かせ下さい。
(中島)
  「カーターさんは、もともと誰も大統領になると思っていなくて、選挙のとき笑い話で、“Jimmy Who ?”と言われた方でした。強力な政治家がうまく出てこなかったところに、うまいこと飛び出したのだと思います。それで彼は在韓米軍撤退政策をぶちあげたのですが、あの人は海軍の軍人でしたので、妙にプリンシプルなことにこだわるところがありました。しかし、南北朝鮮の対立が続いていた時代ですから、簡単にそうなっては困るというので、いろいろな方面から反対論が出てきて、結局取り下げになったという経緯があります。
 私自身も取り下げることになって幸いだったと考えています。日本も思いとどまらせようとしたのでしょうけれども、その際にいかなる論理を組み立てたのかというのは、要するに、朝鮮半島情勢は依然として流動的であり、そういうときにアメリカが引く話になったら、アジアにいろいろ波紋が起こりますよと説得したのだと思います。
 もともと、朝鮮半島は、アメリカのアチソン(Dean G. Acheson)が、シベリアのほうから日本と朝鮮の間に防衛線があるという演説をやって、そのことが北朝鮮の南進による朝鮮戦争勃発の一つの契機になりました。そのためにうっかり防衛線の変更みたいな話を責任ある人がやると大変なことになるという国際社会の教訓があり、その頃を知っている人間は誰しも、再び北朝鮮を刺激して、朝鮮戦争で生々しい事態が起こることを非常に心配したわけです。それで結局、国連軍の代表があそこにいて、静かな情況が継続したことで 、ある意味ほっとしたということだったと思います。
(問い)
 中島大使はじめ外務省事務レベルでは、具体的にカーター政権に対して撤退政策の反対を働きかけたということで何かご記憶がございますか。
(中島)
 どういう形でやったかは詳しく覚えていません。誰が乗り込んでいってどうしたという記憶はなく、おそらく在米の我が方の大使館がいろいろ働きかけたと思いますが、静かな格好でやったのではないかと思います。

第1の注目点

 1960年代から70年代は、米国が、ベトナム戦争とその後遺症に病んでいた時代である。カーターの前々任者の共和党ニクソン大統領は、就任間もなくの1969年7月、グァムでの記者会見で、非公式に新戦略・ニクソン・ドクトリンを発表した。それは、ベトナム戦争の泥沼化と、アメリカ経済の深刻な落ち込みを受けて、「(イ)米国は太平洋国家として今後もアジアにかかわりをもつ、(ロ)米国は従来の条約上の約束は今後も守る、(ハ)しかし米国は新しい約束はしない。アジアの安全保障はアジアの自主性を促がす範囲で米国は援助するに止める、(ニ)アジア地域が核の脅威をうけた場合を除き、米国は紛争に介入せず、アジアの互助と自立を促進させる。」とし、ベトナム戦争の収束とアジアに展開する米軍の整理、縮小、アジア諸国には自ら責任を果たさせるとの方向性を打ち出したものであった。カーターは、民主党候補として、ニクソン辞任後の1976年11月の大統領選挙で、副大統領から昇格した現職大統領のフォードを破り当選したのであるが、ニクソン・ドクトリンの延長線上において在韓米軍撤退を打ち出したものであろう。これは米国にとって、賢明かつ合理的で現実的政策であったと評価できる。
 しかるにわが国政府・外務省は、米国にこれを思いとどまらせるために、総力をあげて説得にあいつとめていたことを、故中島氏は、実にあっけらかんとその内実も含めて語っているのだ。
 このようなことをしたのであれば、わが国は、応分の役割分担に任ぜざるを得ないことになるのは当然である。カーター民主党大統領が1期で終わり、レーガン共和党大統領の時代になると、「日米軍事同盟」時代が幕開けとなったが、その端緒はこのあたりからであったのかもしれない。
 因みに日米同盟なる用語が、公式に用いられたのは鈴木善幸首相が1981年5月に訪米したときのこと。このときに初めて日米共同声明に盛り込まれた。その後、時はたち、今、日米同盟の深化を叫ぶ安倍首相の下で、わが国は、ついに違憲の集団的自衛権の封印を解き、米国とともに世界で一体となって戦う道に入り込もうとしている。まさに今昔の感がある。

第2の注目点

 以前から、朝鮮戦争勃発の要因の一つとして、ディーン・アチソン国務長官が、1950 年1月12 日ナショナルプレスクラブで行った演説で、アリューシャンから日本列島、琉球諸島、フィリピンに至る島嶼ラインの重要性を指摘したことがあげられていた。金日成に朝鮮半島には米国はコミットしないとの誤ったメッセージを送り、「南朝鮮解放」への決断に導かせたというのである。
 そのことを外務省のトップに近い故中島氏が公然と認めたのである。しかも単に話としてそうだと言うだけではなく、カーター政権に韓国から米軍撤退を断念させる論拠としたとのことのようだから、これは驚きである。
 ところで、このアチソン演説は、1948年3月初旬、皇室御用掛の寺崎英成が、昭和天皇の意向を戴して、GHQ顧問シーボルトを通じ米国務省に伝達された「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を、アメリカの防衛前線として確定すること」を要請した天皇メッセージといわれるものを彷彿させる。アチソンは、何故わざわざ「南朝鮮」を抜いたのであろうか。ミステリアスだ。
                                 (了)
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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