横田喜三郎・尾高朝雄著『国際連合と日本』に学ぶ

(はじめに)

 8月11日の当ブログの記事『「集団的自衛権」は国連憲章を食い破る鬼子だ』で触れた国際法学者横田喜三郎と法哲学者尾高朝雄との共著『国際連合と日本』(有斐閣・1956年。以下「本書」という。)をようやく読み終えた。
 上記記事において、私は、上丸洋一『新聞と9条』(朝日新聞夕刊連載第88回)から以下のように孫引きし、横田らが本書において国連憲章の改正提案をしていることを紹介した。

 「集団的自衛権に関する(国連)憲章第51条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」
 「自己に対しては、まだ直接に(武力攻撃が)発生していないばかりではなく、近い将来にかならず発生するという急迫性もない。それにもかかわらず、これに対して自衛権を行使し、武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」


 本書で確認したところ、第三章「国際連合と安全保障」・第三節「地域的安全保障」中の第五項「集団的自衛権の修正」(194頁)に、このことは確かに書かれていた。
 さらに本書は、国連憲章を改正して、同51条から集団的自衛権を削除し、これを本来の自衛権(筆者注:個別的自衛権のことである)のみを認めることとし、同時に国連総会の3分の2以上賛成により国連自身による集団的安全保障措置(強制措置)をとれるようにすることを提案していることも確認できた(195頁)。 

 (集団的安全保障体制と「同盟」)

 上記の提案を理解するためには、本書において、国連の本来の目的である国連による集団的安全保障と「同盟」による集団的自衛権の関係がどのように整理されているかを確認しておく必要がある。

 国連による集団的安全保障は、特定国を仮想敵国とするものではなく、構成国間どうしの武力衝突を未然に防止し、万一、武力衝突が発生した場合には、国連安保理が主体となって、その平和的解決のために行動し、もしくは不法な攻撃を排除し、制裁を加え、平和を回復するために武力行使をする仕組みである(国連憲章第七章)。これに付加して国連憲章第八章には国連加盟国による地域的取極又は地域的機関(以下これらを「地域的機構」という。)の規定が置かれており、地域的機構が国連安保理の下で(具体的にはその許可を得て)集団的安全保障の措置をとることも予定されている。
 これに対して、「同盟」による集団的自衛権は、特定国を仮想敵国とし、この仮想敵国に対して「同盟」の構成国が相互に援助しあい、その攻撃と共に戦うことを想定する仕組みである。

 このような区別を前提として、本書は次のように述べている。

 この差異は国際社会の全体から見ると、極めて重要な意味がある。本来の安全保障(筆者注:集団的安全保障のことである。以下同じ。)、国際社会の一般的な安全にはすこしも害がなく、これに寄与するところが大きい。この安全保障では、それに加わっている諸国の間で、安全を確保することを目的とするもので、第三国には対抗しないから、第三国に対して不安を与えない。その上に、当事国の間で起こる侵略を防止しようとするから、それだけ侵略の可能性がのぞかれる。これに反して、同盟では、常に第三国間の攻撃を予定し、はなはだしい場合には、この第三国を明示し、それに対抗して、当事国の間でたがいに援助することを約するから、第三国に対して不快と不安を与えずにはおかない。第三国がこれに対抗するために、みずからも他の第三国と同盟を結ぶならば、二つの同盟の間にはいっそう緊張した対立が発生する。こうして同盟は必然的に国際間の不安を引き起こし、緊張を増加する。それによって国際社会の一般的な安全が害されることになる。

(集団的自衛権の否定と国連憲章の改正提案)

 国連安保理の常任理事国を構成する五大国に、拒否権が認められることとしたため、現実には、国連安保理による集団的安全保障も地域機構による集団的安全保障も画餅に帰することが予測されるところとなり、その間隙を埋めるために国連憲章51条に集団的自衛権の規定が置かれることになった。戦後の国際情勢のもとで、北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構を双璧とする地域的機構は、集団的自衛権と結合することにより、「同盟」としての役割を果たすことになった。これによって国際間の不安と緊張が増大し、国際社会の一般的な安全が害されることになった。

 なお、横田によれば国際法上確立した自衛権とは「国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為」であり、具体的には「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。」(横田喜三郎「国際法」上巻・有斐閣1933年)であり、自国が武力攻撃を受けていないのに「武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」から、「集団的自衛権に関する(国連)憲章第51条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」ということになるのである。

 そこで、本書は、拒否権行使により安保理が職責を果たせないときには、総会が3分の2以上多数決で決議することにより、安保理にかわって集団的安全保障の措置をとることができるようにするとともに、集団的自衛権を消去するよう国連憲章の改正を提案しているのである。

(本書は現在の我々に何を訴えているか) 

 本書は、1953年2月、カーネギー平和財団から委嘱を受け、わが国の国際法学会が行った「国際機構とくに国際連合に対する日本の国策と世論」に関する調査結果の報告書『日本と国連』及びそれに引き続く継続調査の結果をもとに横田、尾高の両名が書き下ろしたものである。当時、わが国は、国連加盟を目指し、鋭意奔走していた時期であり、戦争・武力による威嚇・武力の行使を放棄し、戦力と交戦権の保持を否定する徹底した平和主義を謳う憲法9条を持つわが国として、国連はどうあるべきかについて強い関心が持たれていた。本書は、国連は平和維持の機関としての職責を果たすべきであるとの決然たる認識に立って、上記の提案を行っているのである。

 かえりみれば、国連中心主義は、わが国外交の要の位置に据えられて既に永きに及んでいる。しかし、米国との「同盟」を深化させることはこれに背を向けていると言わねばならない。まして事態対処法による「存立危機事態」のみならず、平和協力支援法による「国際平和共同対処事態」、重要影響事態法による「重要影響事態」、国際平和協力法による「国連の統括しない国際連携平和安全活動」、自衛隊法改正による「外国軍隊の武器防護」などあらゆる回路を通じて集団的自衛権行使に道を開く安保法案は、真っ向からこれに挑戦する悪法コンプレックスである。

 今、我々は、この流れを断ち切り、国連中心主義を名実とも実践する道を切り開かなければならない。そのことを本書は、現在の我々に訴えている。
                                    (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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