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坂元一哉公述人の憲法論は政治的弁舌の類だ

 坂元一哉氏は、京都大学で高坂正堯氏に師事した国際政治学者、現在大阪大学教授である。坂元氏の著作『日米同盟の絆―安保条約と相互性の関係』(2000年5月刊行)は、講和・安保条約の締結から新安保条約の締結に至る戦後政治外交史を日米双方の原資料を丁寧に読み込み、骨太に描いた堅実な学術書で、名著と言っていいだろう。私も、随分学ぶところがあった。まじめな研究成果は、立場が違っても参考になるものだ。

 しかし、坂元氏の9月15日参議院院『平和安全特別委員会・中央公聴会』で行った意見陳述は残念ながらまじめな研究成果の披歴とはかけ離れたものであった。特に、全文5432字のうち実に4003字を占めた(枕詞や展開のための措辞もあるから意見陳述の殆どを占めたと言っていいだろう。)憲法論は、専門家としての立場を離れた政治的弁舌の類と言ってよく、こんなものを聞かされても委員諸氏にはなんの参考にもならなかっただろう。

 坂元氏は、「わたくしが、この安全保障関連法案を評価いたしますのは、『国家国民を守る』という観点からだけではなく、『憲法を守る』という観点からでもあります。」などと前置きをして、次に摘示する4つの論点を提示し、本法案の柱となる集団的自衛権行使容認は憲法違反との大多数の憲法学者や圧倒的多数の法曹の見解に対し、不遜にも攻(口)撃を加えんとした。そこで、若干大人げないかもしれないが、攻(口)撃を排除するために以下のとおり必要最小限度の反論の措置をとることにした。

・ 本法案の柱となる集団的自衛権の行使容認は、砂川事件最高裁判決によれば、「一見極めて明白に違憲」とは言えず、最高裁が違憲判決を下す可能性はない。

・ 砂川事件最高裁判決でいう「自衛のための措置」には、集団的自衛権を射程に入っており、むしろ合憲論に与するものだ。

・ 本法案の柱となる集団的自衛権行使はあくまでも限定的なものであり、「海外派兵は自衛のための必要最小限度を超える」との政府見解を踏襲すると述べており、憲法上の制約は遵守される。

・ 万一、最高裁が違憲判決を下したなら、そのときに法律を改正したらいい。

「本法案の柱となる集団的自衛権の行使容認は、砂川事件最高裁判決によれば、『一見極めて明白に違憲』とは言えず、最高裁が違憲判決を下す可能性はない。」との主張について

 周知のように砂川事件最高裁判決は、旧安保条約が憲法9条に反するのかどうかという極限された争点に対し下された判決である。
 審理の対象となった旧安保条約は、米側からすれば「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ」米軍を日本に駐留させる単なる駐兵条約に過ぎなかったが、わが国政府の主観からすれば頼みの綱である国連による集団的安全保障が期待できない状況下で米軍にわが国の防衛を委ねたいとの希望を体現するわが国の安全を確保するための条約であった。

 砂川事件最高裁判決は、この極限された争点について以下のように判示したにのである。

 「(旧安保条約が)違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。」
 「果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法9条2項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」

 砂川事件最高裁判決は、これ以上のものでもなければこれ以下のものでもない。旧安保条約と、その下でわが国に駐留する米国軍隊は、「一見極めて違憲無効」とは言えないと指摘して、合憲・違憲の判断を回避したのである。

 坂元氏が、プライベートな場面であれば、その砂川事件最高裁判決に希望を託して、どのように夢想しようともそれは自由である。しかし、少なくとも国会に公述人として招致され、そのような希望的観測を意見陳述の中で述べることは場所をわきまえていないと言わざるを得ない。
 1954年4月以来確立している「自衛権行使三要件」に基づき、集団的自衛権行使は憲法9条の下では認められないとするのは一貫した政府見解であり、国会においても了解事項であった。それは単なる一政府の解釈というにとどまらず、国家実践を通じてわが国における憲法9条に関する解釈原理として憲法9条の血となり肉となっている。従って、これをたがえて集団的自衛権行使を容認する7.1閣議決定や本法案は「一見極めて明白に違憲無効」であると判断されると考えるのが憲法学の常識であり、最高裁も必ずやそのように判断するであろう。

 仮に最高裁が「一見極めて明白に違憲無効」とは言えないと判断して憲法判断を回避することがあり得るとしても、それは合憲だということを意味するものではないことは明らかである。砂川事件最高裁判決が「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする」としているように、現在、『産経』を除く各社世論調査も集団的自衛権行使容認に反対する者が多数派であり、その主権者の判断こそ何よりも尊重されるべきで、坂元氏のように最高裁が憲法判断を回避するから政府と国会の多数派で決めればいいのだというのは暴論である。

「砂川事件最高裁判決でいう『自衛のための措置』には、集団的自衛権を射程に入っており、むしろ合憲論に与するものだ。」との主張について

 坂元氏は、砂川事件最高裁判決が、以下のように述べておるところを、独自の解釈のもとに援用している。

 「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」

 まず断っておくが、この部分は争点に直接関係なく、判決の結論を左右しない傍論であり、判例として後世の裁判、行政の実務の指針として寄与するものではない。余事記載部分と言ってもいいだろう。従って、坂元氏がこの部分に依拠して「集団的自衛権」行使容認論をオーソライズしようとすること自体、憲法学・法律学の素養の欠如と無知を示して余りあると言ってよい。

 さて、その傍論においてさえ、「集団的自衛権」の片りんさえも見つけだすことはできないのであり、そこに「集団的自衛権」を読みこもうとすることはアクロバット的所業と言わなければならない。砂川事件最高裁判決は1959年12月16日に言い渡されているが、当時、わが国においては憲法9条の解釈として、第一には憲法9条に1項について「自衛権行使三要件」の下で自衛権は認められる、同2項について「自衛権行使のための必要最小限度の自衛隊は許容される」との政府見解と、第二には憲法9条1項において自衛権行使が認められるかどうかはともかくして同2項において一切の戦力を保持せず、交戦権を有しないと定めている以上自衛隊は違憲であるという憲法学界の圧倒的多数意見とが対峙している状況であった。従って「自衛権行使三要件」にさえ背反する「集団的自衛権」が憲法9条の下で認められないという点については、憲法学界も政府も、法律学を学び実務のトレーニングを受け、そして裁判実務に携わっている裁判官にとっても、アタリ前田のクラッカーだったのである。
 一人砂川事件最高裁判決だけがその傍論において「集団的自衛権」も射程に置いていたと考える前提も根拠も全くない。この傍論部分で述べられている「国家固有の自衛権」、「自衛のための措置」が、「集団的自衛権」にまで広がる意味を持つものではないことは議論の余地のないほどに明白である。

 なお、坂元氏は、他衛即自衛であり、「集団的自衛権」も自国防衛のためのもので、自衛権であるなどと漠然としたことを述べ、あるいは元来自衛権には「集団的自衛権」も内在していたなどと得々と述べるが、これらについては当ブログの下記記事などで既に述べたところであるから、参照願いたい。

「集団的自衛権は国連憲章を食い破る鬼子だ」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-257.html

「横田喜三郎・尾高朝雄著『国際連合と日本』に学ぶ」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-262.html

「本法案の柱となる集団的自衛権行使はあくまでも限定的なものであり、『海外派兵は自衛のための必要最小限度を超える』との政府見解を踏襲すると述べており、憲法上の制約は遵守される。」との主張について

 坂元氏は、「集団的自衛権」が戦後世界でどのような役割を果たしてきたのか、全く現実を見ていない。というよりは頭書にあげた著作では、安保条約の生成、改定、その後の実情をきちんとフォローしているのであるから、実際には「集団的自衛権」とはどのような役割を果たすものかを把握している筈であり、知っているのに敢えて無視していると言ってもよいだろう。「集団的自衛権」が当初は、国連による集団的安全保障と調和できるように限定解釈、即ち自国の平和、安全が脅かされる場合にはじめて行使が認められると説かれた自国防衛説からスタートしたことも知っているだろう。ところが実際には、大国・強国の支配、ヘゲモニー、国益に小国を従わせるために行使されてきた夥しい実例を知らない筈はない。「限定行使」と言いながら、「集団的自衛権」行使を容認することは海外派兵へと一瀉千里である。

 坂元氏のこの主張についても、以下の当ブログの記事を参照して頂きたい。

「フルスペックの集団的自衛権も限定的な集団的自衛権も単なる言葉の綾である」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-250.html

「武力行使新三要件はタカの卵である」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-264.html

「専守防衛が堅持される?それほんまかいな~?」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-237.html

「専守防衛が堅持される?それほんまかいな~?(続き)」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-238.html

「万一、最高裁が違憲判決を下したなら、そのときに法律を改正したらいい。」との主張について

 坂元氏は、憲法99条を読んだことがあるのであろうか。そこには次のように書かれている。

 「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」

 坂元氏のように全て最高裁任せでよいとするのでは国務大臣や国会議員には憲法尊重、擁護の義務がないに等しくなる。その一方で、上述のごとく坂元氏は、最高裁が憲法判断を回避する可能性を期待しているのであるから、政府や国会議員に好きにやればよいと勧めているようなものである。このような放言は決して許されるものではない。

(おわりに)

 以上坂元公述人の意見陳述における憲法論に反論をしてみた。坂元氏は、安倍首相も信頼する私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築のための懇談会」のメンバーであり、安倍首相のお友達の一人である。その坂元氏が献上した意見陳述には安倍首相もおおいに勇気づけられたことであろう。しかし、それを参考にすることは安倍首相にとって、むしろ首をしめる結果に終わるであろう。曰く、巧言令色、鮮なし仁。くれぐれも注意した方がよいだろう。

                                (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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