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ここにもいた安倍政権ベッタリの高坂門下生 (中)

(「安全保障環境の変化」その2)

 「安全保障環境の変化」論は、結局は、米国の力が減退する中での世界展開する軍事力の再編、縮小に応じてわが国が肩代わりをすることによって米国の覇権を維持するということ、この一点に収斂するのである。このことをもう少し歴史的にみてみよう。今回はその前篇である。

 世界の憲兵として存立し続けること、それは米国が戦後引き受けた使命であった。米国の世界戦略は、その使命を果たすために構築され、世界情勢の変化に応じて調整されてはきたが、軍事力を世界展開し、他国を牽制し、時には抑圧するということを骨格とするものであったことは一貫している。

 しかし、そうは言っても米国もいわゆる「世界帝国」ではなく、あくまでも国民国家である。だから自国の経済を無視し、財政の健全化と国民生活の向上を図らずに、無制限に、軍事費を垂れ流すわけにはいかないし、自国民のみに血を流し続けさせるわけにはいかないことは当然のことである。だから、米国は、戦後初期から、その負担を単独で引き受けるのではなく、同盟諸国にも軍事面での応分の負担を担わせようとしてきた。

 各国に応分の負担を担わせるための拠り所となったのはヴァンデンバーグ決議であった。米国は第二次大戦までは、伝統的に孤立主義・モンロー主義を国是としてきた。戦後、その伝統的国是を投げ打ち、軍事同盟を通じて世界に介入するには、それなりの国内的合意が必要であった。それがヴァンデンバーグ決議である。
 ヴァンデンバーグ決議は、1948年6月、可決された米上院決議で、その要諦は、「継続的で効果的な自助及び相互援助」を同盟国の義務として課するというものであった。

 わが国が、1951年9月、サンフランシスコ講和条約とともに締結した旧安保条約は、米国に、日本国内に、望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間駐留させる駐兵と基地確保の権利を設定し、日本防衛の義務を課さない片務的条約で、占領体制に条約の衣を着せただけであったが、それは、日本国憲法による制約と軍事的能力の欠如のために、ヴァンデンバーグ決議に謳う「継続的で効果的な自助及び相互援助」の義務を果たすことでできないからだとされた。当時、外務省条約局局長だった西村熊雄は、「日本が米国軍に駐屯してもらいたいというのが真理であると同じく米国が日本に駐兵したいと考えるのも真理」であり、「五分と五分」の関係だったのに上記の如き片務条約締結を余儀なくされたことを「汗顔の至り」と述懐しているが、その述懐は、ヴァンデンバーグ決議の壁にぶちあたり、無残に敗北した敗者の弁、もっと言えば引かれ者の小唄のようである。

 米国は、既に1950年7月1日、マッカーサー書簡という形式のわが国政府に対する命令により、朝鮮戦争勃発に伴い米駐留軍を朝鮮半島に動員する穴埋めとして、7万5000人の警察予備隊を発足させ、かつ海上保安庁の8000人増員を実現させ、わが国の再軍備に着手していた。米国は、サンフランシスコ講和条約と旧安保条約締結過程においても、ダレス特使を通じて、わが国に再軍備の明確な目標呈示を迫り、吉田政権から、現有の警察予備隊と海上保安庁要員とは別に5万人の保安隊をつくり、仮称国家治安省に仮称自衛企画本部を設置して、将来日本の民主的軍隊の参謀本部の中核とするとの案を引き出した。吉田政権の示した案は、後に保安庁・保安隊を経て、防衛庁・自衛隊として現実化されることとなった。

 サンフランシスコ講和条約と旧安保条約が発効した後も、米国は、ヴァンデンバーグ決議を拠り所としてわが国への軍備増強と憲法改正の圧力を強めた。

 その点からすると、現行安保条約は少しはずれているように見える。第5条で、わが国施政権の及ぶ領域内における武力攻撃に対する共同防衛を謳うことにより双務性を有するかのごとき体裁をとっているが、その本旨は第6条、極東の「平和と安全」のための米軍への基地供与と駐兵承認にあり、本質的には相互防衛条約ではなく、旧安保条約となんら変わりはない。ただ、それでも在日米軍はわが国防衛の義務を負うことを確認したのは、ヴァンデンバーグ決議からの逸脱ではある。しかし、その逸脱も、1950年代末の、原水爆反対運動、基地反対闘争、沖縄における反米闘争などかってない高まりと広がりが、わが国を米国から自立する国家へと導くことをおそれた米国の巧妙な迂回作戦と理解すべきだろう。

 米国の最終目標は、ヴァンデンバーグ決議の貫徹であり、わが国が、NATO諸国、西太平洋諸国、東南アジア諸国及び韓国と同様に、ソ連、中国封じ込めのフロンティアとして、米国とともに戦闘に参加できるだけの軍備を持ち、そのような戦闘に参戦することを不可とする日本国憲法を改正させることにあった。

 ところが、1960年代末頃から、同盟各国に応分の負担を担わせるという既往の路線に新たな要素が付け加わることになった。それはベトナム戦争が泥沼化し、敗色濃厚となったことである。膨張する戦費負担と国内経済の悪化による財政赤字が深刻化したことに伴い、米国にとって、従来のように軍事負担を続けることは次第に困難となった。米国政府は、重荷となってきた軍事負担をできる限り同盟諸国に肩代わりさせるという要請をく前面に押し出すこととなった。

 米国の力の減退を補うための同盟諸国に対する肩代わり要求が形をとってあらわれたのがニクソン・ドクトリンである。ニクソン・ドクトリンとは、1969年7月、グァムで非公式に発表された新戦略であり、「(イ)米国は太平洋国家として今後もアジアにかかわりをもつ、(ロ)米国は従来の条約上の約束は今後も守る、(ハ)しかし米国は新しい約束はしない。アジアの安全保障はアジアの自主性を促がす範囲で米国は援助するに止める、(ニ)アジア地域が核の脅威をうけた場合を除き、米国は紛争に介入しないということであって、米国のアジアヘの過剰介入の整理とアジアの互助と自立を骨子としたものである。」とされていた。

 その中でも資本主義世界において米国に次ぐ経済大国になったわが国に対する期待と要求、圧力は大なるものがあった。わが国に関して言えば、米国の力の減退に伴う変化、応分な負担の要求から肩代わり要求への移行の分岐点になったのは、沖縄返還協定をめぐる交渉であった。

 この交渉において、米国はなりふりかまわず、銭ゲバに終始したのであった。

 沖縄返還協定は1971年6月に調印されたが、この協定をめぐっては、財政問題での密約が、早くから浮上しており、毎日新聞・西山太吉が早くからこの問題を追跡した。西山が解明しようとした疑惑は同協定第7条に書かれた日本側が支払いを約した3億2000万ドルは、実際には、日本側財政負担の一部しか書かれておいないのではないかということであった。としていた。その取材活動で、入手した協定第4条3項に基づき米側負担とされた基地用地の原状回復費400万ドルを日本側が肩代わりする密約がなされたことを示す外務省公電の写しを入手、これに基づく記事を書いた。しかし、政府がこれを否定したことから、国会で取り上げてもらうことを望んでいた彼の手元から、社会党横路孝弘衆議院議員らがその写しを入手した。ここから西山記者外務省公電秘密漏えい事件が始まる。

 外務省公電秘密漏洩事件は、沖縄返還協定の財政密約問題において占める位置は、実際には副次的であるに過ぎない。我部政明の研究によると、日本側の財政負担の約束額は6億8000万ドル余り、協定書第7条に書かれている3億2000万ドルは、半分以下であったという(我部政明『沖縄返還とは何であったか 日米戦後交渉史の中で』NHKブックス)。
 当時のレートでの単純換算でも、実際には2448億円余り、それに対して額面1152億円であったに過ぎない。因みに、当時のわが国の一般会計予算は10兆円足らずであった。すさまじいぶったくりである。

 この沖縄返還協定により甘い汁を吸った米国は、わが国へ軍事費の肩代わりを求めるようになる。1978年度から始まる基地改善・維持費の定常的な負担、いわゆる「思いやり予算」である。その推移は以下のとおりで、巨額に及んでいる。

1978年 62億円、1979年 280億円、1980年 374億円、1985年 807億円、1990年 1680億円、1995年 2714億円、2000年 2567億円、2001年 2573億円、2002年 2500億円、2003年 2460億円、2004年 2441億円、2005年 2378億円、2006年 2326億円、2007年 2173億円、2008年 2083億円、2009年 1928億円、2010年 1881億円、2011年 1858億円、2012年 1867億円、2013年 1860億円、2014年 1848億円、2015年度1899億円(予算案ベース)

 さらに軍事費の肩代わりにとどまらず、事態はさらに進行する。ニクソンが二期目中途、ウォーターゲート事件の発覚で、退任に追い込まれ、1976年の大統領選で、カーターが、副大統領から昇格して大統領職を務めていた共和党のフォードを破り当選したのであるが、1977年1月、カーター新大統領は、ニクソン・ドクトリンの延長線上において在韓米軍撤退を打ち出した。これに驚愕したわが国政府・外務省は、米国にこれを思いとどまらせるために、総力をあげて説得にあいつとめたのであった。時の福田赳夫首相も、カーターに対し直接談判に及んでいる(中島敏次郎『外交証言録 日米安保・沖縄返還・天安門事件』岩波書店)。
 このようなことをすれば、わが国は、肩代わり押しつけようと虎視眈眈の米国側の要求を断ることができなくなるのは理の当然である。否、当時の福田政権は、むしろ好んで火の中に飛び込んだと言うべきだろうか。

 第一次日米ガイドラインが策定されたのは1978年。カーター民主党大統領が1期で終わり、レーガン共和党大統領の時代になると、「日米同盟」を謳歌する時代の幕開けとなった。日米防衛協力が動き出し、共同演習が頻繁に行われるようになる。
 その端緒は、このあたりに求めることができるのかもしれない。因みに日米同盟なる用語が、公式に用いられたのは鈴木善幸首相が1981年5月に訪米したときのこと、このときに初めて日米共同声明に盛り込まれた。シーレーン防衛が盛り込まれたのもこのときだ。
 中曽根康弘首相の日本列島不沈空母発言が飛び出したのは1983年、同年には前出の首相の私的諮問機関「平和問題研究会」の報告書が出された。中曽根政権ではシーレーン防衛構想も一層明確に打ち出されている。わが国領域及びその周辺においてわが国に対する武力攻撃に対し、ほかに方法がないとき必要最小限度の実力行使をするという専守防衛から明らかに一歩も二歩も踏み出そうとしているようだ。

 それでも米国にとって、わが国に対し、軍事面での肩代わりをさせるという要求を貫徹することは思うに任せぬ難行であった。日本国憲法9条が難攻不落の城だったのである。それをゆさぶるのは冷戦終結後の課題となった。

                           (続く)

※上下2回の予定でしたが、上中下の3回に変更し、次回完結します。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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