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緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(16)

緊急事態条項は、危険、有害かつ不必要である(その4)
  
 諸外国でも緊急事態条項の悪用や濫用の事例は枚挙にいとまがないほどである。以下に掲げるのはそのほんの一部に過ぎない。

ドイツの場合・・・ナチス政権登場の前夜
 ドイツでは、第一次大戦の敗北により帝政が崩壊し、政治の民主化が急速に進行し、1919年、当時、世界で最も民主的と評価されたワイマール憲法が制定された。
 同憲法54条によると宰相も各大臣も議会の不信任決議があった時は辞任しなければならないとされており、議会の多数派の信任を得て内閣を構成する議院内閣制を志向していた。しかし他方で、第53条では、大統領には憲法上は何ら制約のない宰相及び各大臣の任免権が認められていた。つまり大統領内閣制である。このためにワイマール憲法下の内閣は、二人の主人を持つと評されていた。
 かくして元来、内閣の政治的基盤は不安定であった上に、議会が不信任決議をするにあたって、次の宰相や各大臣を選出することは義務づけられておらず、政争の果てに無責任な不信任決議が繰り返された。
 ワイマール憲法の定める統治機構は、政治的混乱と動揺をもたらす構造的欠陥を孕んでいたのである。

注:現在のドイツ憲法(ボン基本法)は以下のようい規定している。

第67条(不信任投票)
① 連邦議会が連邦宰相に対して不信任を表明できるのは、その議員の過半数をもって後任を選出するとともに、連邦大統領に対しては連邦宰相の否認を要請した場合に限られる。連邦大統領は、この罷免要請に応じるとともに、被選出者に対する任命を行わなければならない。
② 略

 議院内閣制に純化するとともに、議会が宰相を不信任する場合には次の宰相選出を条件とことしたのである。後者を、聞きなれない言葉であるが「建設的不信任制度」と呼んでいる。
 ボン基本法は、ワイマール憲法の上記の欠陥を除去しようとしたのである。
 ドイツ国法学の大家カール・シュミットは、当初はナチス政権寄りの姿勢をとりナチスに重用さたが、その後、政権から疎んじられることになった。そのカール・シュミットは、戦後、ナチスが猛威を振るった時期、自分は暇だったので、ナチス台頭の原因に思いめぐらす十分な時間があったと述懐している。彼の思いめぐらしたことが曲折を経て、ボン基本法に採択されたのであろう。


 ドイツでは、ワイマール憲法が制定された1919年からヒットラーが首相に就任する1933年1月まで、議会においては安定多数の政治勢力が形成されず、首相や各大臣に対する不信任決議が度々なされては、後任首相が議会で選任できず、前内閣が暫定内閣として事務処理を続けるか、政治的空白となるか、大統領の任免権に基づいて新内閣を組閣するか、いずれかで推移してきた。当然のことながら次第に議会も内閣も弱体化し、世界恐慌期にあっても積極策が打ち出せず、国民の不満が高まって行った。
 そうした国民の不満の高まりがナチス躍進の原動力となったである。
 もっとも、1932年7月の総選挙で、総議席608のうち230を獲得、第一党となった時が、本当はナチスが自由な選挙で国民の支持を得たピークであった。その4ヶ月後、同年11月の総選挙では、196に議席を後退させてしまった。同時に、ようやく世界恐慌からの脱出の兆候もようやく見え始め、今後、ナチスが伸びる要素はなくなりつつあった。しかし、そのときナチスにとっては思わぬ救世主が現れた。
 保守政党の実力者フランツ・フォン・パーペンなる野心家が画策し、ヒンデンブルグ大統領にヒットラーを首相に任命させたのである。まさにパーペンとヒンデンブルグは、坂道を転がり始める寸前に、ナチスを助け起こしてしまったのであり、ナチスにあってプロパガンダの天才と言われたゲッペルスも、この事態を評して、「偉大な奇跡が起きた」と日記に記しているほどである。
(続く)
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緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(15)

緊急事態条項は、危険、有害かつ不必要である(その3)

いわゆる2・26事件(承前)
 
 1936年2月26日、皇道派に属する青年将校が、指揮下の部隊を動員し、決起した。世に言う2・26事件である。
 彼らの決起は、北一輝の「天皇は全日本国民とともに国家改造の根基を定めんがために、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」(『日本国家改造法案大綱』)を実行しようとしたものであった。しかし、それは彼我の力関係や権力中枢部の動向を無視した無計画かつ無展望なもので失敗に帰することは火を見るより明らかな類の幼稚なものであった。
 2・26事件の深層に眼を向けるとき、その主役は、むしろ彼らと対立する統制派といわれた陸軍の実権派につながる幕僚将校グループであり、彼らのカウンター・クーデタ構想こそ注目されなければならないことがわかる。
 彼ら幕僚将校グループは、非常事態勃発とともに軍の主導の下に、国内事態の改善を図り、事態の推移において一部軍隊の反乱に立ち至れば速やかに戒厳を布き、外交、国防、政治機構、経済機構、社会政策、教育の各分野にわたる革新大綱を断行することを企図していた。

注:陸軍参謀本部第二部片倉衷( ただし)大尉を座長とする幕僚将校グループ作成の『政治的非常事態勃発に処する対策要綱』1934年1月)に、このことが明記されている。

 事態は彼ら陸軍統制派に属する幕僚将校グループの構想どおり進展した。同月27日、緊急勅令により戒厳が宣告され、反乱は同月29日に鎮圧された。しかし、それにもかかわらず、戒厳は継続され、反乱将校と民間人らに対する非公開・弁護人なし・一審限りの軍法会議を進め、刑の執行が終了した後の同年7月19日に至り、ようやく解除された。

注:陸軍軍法会議法によると、軍法会議の被告人となり得るのは陸軍軍人もしくは軍属であり、原則として所属する師団に設置される師団軍法会議が管轄を有することになっていた。また弁護人の付与、第二審の高等軍法会議への上訴も認められていた。しかし、2・26事件に関しては、「東京陸軍軍法会議設置に関スル件」なる緊急勅令が発令され、特設の東京陸軍軍法会議が設置され、そこで北一輝、西田税ら民間人を含め、いくつかの師団に分属する被告人全員を東京陸軍軍法会議で、一括して、一審限り、弁護人なし、非公開の下に審理・判決がなされた。これは陸軍統制派幕僚将校グループの手による上記カウンター・クーデタ構想をなぞった一大政治裁判と言ってよいだろう。

 その間、戒厳下において、2・26事件後に組閣された広田弘毅内閣は、軍部の要求に押され続け、軍部大臣現役武官制の復活により内閣の存亡は軍部の動向に帰することとなり、軍ファシズム体制の下でわが国は戦争の遂行と高度国防国家づくりに邁進することになった。その帰結は、明治憲法のどこをどう叩いても出てくる余地のない国家総動員法の制定であり、まさに明治憲法さえも乗り越える軍事独裁国家体制であった。

その他の緊急勅令悪用例として

 そのほか法案は議会で審議未了・廃案となったのに、議会閉会後に、法案どおり治安維持法を改悪した緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)も、悪用もしくは濫用例として記憶に留めておきたい。

注:映画『武器なき斗い』(山本薩夫監督)において、主人公の労農党代議士山本宣治が、治安維持法改悪に反対して活動したことが活写されている。当時の雰囲気を知ることができる作品である。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(14)

緊急事態条項は、危険、有害かつ不必要である(その2)

 戒厳令を「戦時若しくは事変」以外の事態に目的外使用した事例を、主に歴史家の大江志乃夫の説くところ(『戒厳令』岩波新書)に依拠しつつ、ざっと概観してみることとする。

日比谷焼き討ち事件

 日露戦争は、ロシア側の戦没42,000人余り、負傷146,000人余りに対し、日本側は戦没88,000人余り、負傷153,000人余り、と、その犠牲者の数において、日本側がロシア側をはるかに凌駕しており、日本の大苦戦であったことは、歴史を学んだ者なら誰もが知っていることである。総じて言えば、ロシア側の革命情勢の進展とイギリスの支援、アメリカのセオドア・ルーズベルトの仲立ちによって、わが国はようやくにして薄氷の上の勝利を得たと見るのが穏当なところであろう。ポーツマス講和条約では、満州と朝鮮からのロシアの撤退、満州の権益と南樺太の譲渡が謳われたものの無賠償であった。
 そのポーツマス講和条約が成立したのは、日本時間で1905年9月5日15時47分。その報が伝わるや、連日大勝利の虚報に踊らされた民衆は、怒って街頭に繰り出し、日比谷公園に集結した。これに対して、警官たちが抜刀して解散させようとしたことから、群衆の一部が暴徒化し、内務大臣官邸が襲い、交番などを焼き討ちした。東京市中の約7割の交番が焼き討ちされ、死者17名に及んだというから、その激しさは推して知るべしである。
 政府は、翌6日、東京市中と府下5郡に戒厳令を適用する緊急勅令を発した。諮問を受けた枢密院会議では、議論が紛糾、反対論が続出し、実に7対6の僅差で、辛うじて承認であった。反対論は警察力で鎮圧すべしというものであり、賛成論も軍隊を治安のために出動させることにはためらいがあった由である。
 戒厳司令官の命により各要所に展開した軍隊は、東京市内と府下5郡を軍事制圧し、その下で警視庁は検問所を設置、市民を監視し、郵便物も無差別に検閲された。かくして暴動はまたたく間に鎮圧されたが、戒厳が解除されたのは、実に約3カ月後の11月29日のことであった。
 軍隊の治安出動は、これを嚆矢とする。

関東大震災

 1923年9月1日、関東地方を襲った関東大震災において、同月3日、関東一円に行政戒厳が発令され、戒厳司令官が治安に関する全ての権限を掌握し、傘下の武装部隊が展開した。戒厳発令は、朝鮮総督府において総監を務めた水野錬太郎内相と同じく朝鮮総督府において内務局長を務めた赤池濃(あつし)警視総監が、主導したと言われている。
 両名は、1919年3月1日事件後に、朝鮮総督府にあって、産米増殖計画を推進し、朝鮮農民から土地を取り上げ、彼らを流浪の民として日本内地の底辺労働者として大量流入させた。両名は朝鮮民衆の怒りを肌身で感じていた筈である。特に水野は、朝鮮総督府に赴任したとき、斎藤実総督とともに爆弾テロの攻撃を受けており、朝鮮民衆に対する畏怖心は如何ともし難いものがあったであろう。
 戒厳令の下で、朝鮮人の暴行略奪、朝鮮人による暴動、さらには主義者による破壊活動などとの流言飛語が飛び交い、憲兵隊によって組織された自警団や或いは憲兵隊自らの手で、朝鮮人、労働運動家、社会主義者や無政府主義者を虐殺する凄惨な事件が各地に頻発した。
 内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)よると、朝鮮人死亡231人・重軽傷43人、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59人、重軽傷43人であったとされるが、それも全容の一部に過ぎないだろう。
 この戒厳が解除されたのは、同年11月15日のことであった。
(この項未完)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(13)

緊急事態条項は、危険、有害かつ不必要である(その1)

 ここまで述べてきたことをおさらいしておこう。
 緊急事態条項とは、緊急事態条項とは「戦争・内乱・恐慌ないし大規模な自然災害など、平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して、非常措置をとる」国家緊急権に係る憲法の条項である。
 従って、それはそもそも立憲主義に背馳するものである。
 国民主権と三権分立の統治構造、平和的生存権を含む基本的人権の保障、恒久平和主義は日本国憲法の三大原理であり、国家権力はそれにより厳格に拘束される。これが現代立憲主義である。
 日本国憲法の恒久平和主義は、人類社会の過去500年に及ぶ戦争と平和に係る法的実践のフロンティアを切り開き、集団的安全保障と個別国家の戦争・武力行使の全面禁止を展望するものである。9条はそれにふさわしい解釈がなされなければならない。
 以上をふまえるならば、緊急事態条項を創設せんとする日本国憲法「改正」の企みは憲法論として本質的に認められないところである。このことを確認した上で、念のため現実問題として緊急事態条項は認めがたいことを以下順次述べていくことにする。 
 キーワードは、「危険、有害かつ不必要」である。
  
緊急事態条項の危険・有害性

 緊急事態条項が悪用もしくは濫用された事例をいくつか挙げてみよう。最初にわが国の事例を見ておきたい。

 明治憲法には、緊急勅令制定権(第8条)、戒厳宣告の大権(第14条)、非常大権(第31条)、緊急財政措置権(第70条)の各緊急事態条項が置かれていた。

注 上記の各条項を参考までに掲記しておく。

(緊急勅令)
第8条 天皇は公共の安全を保持し又は其の災厄を避くる為緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於て法律に代るべき勅令を発す
2 此の勅令は次の会期に於て帝国議会に提出すべし若議会に於て承諾せざるときは政府は将来に向て其の効力を失ふことを公布すべし
(戒厳の宣告)
第14条 天皇は戒厳を宣告す
2 戒厳の要件及効力は法律を以て之を定む
(非常大権)
第31条 本章に掲げたる条規は戦時又は国家事変の場合に於て天皇大権の施行を妨ぐることなし
(緊急財政措置)
第70条 公共の安全を保持する為緊急の需用ある場合に於て内外の情形に因り政府は帝国議会を召集すること能はざるときは勅令に依り財政上必要の処分を為すことを得
2 前項の場合に於ては次の会期に於て帝国議会に提出し其の承諾を求むるを要す


 これらのうち最も悪用、濫用されたのは、緊急勅令で、とりわけ行政戒厳が問題であった。行政戒厳とは「戦時若しくは事変」の場合にのみ宣告されることになっていた戒厳令(1882年太政官布告。明治憲法第76条1項により、効力を存続することとされた。戒厳令第1条には「戒厳令は戦時若しくは事変に際し兵備を以て全国若しくは一地方を警戒する法とす」と定められている。)を、「戦時若しくは事変」以外の「非常事態」に緊急勅令によって準用、施行した措置で、いわば戒厳令の目的外使用である。
 その顛末は次回とする。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(12)

平和主義と自衛権(その7)

安倍政権の暴走

 戦後、保守政権の下で打ち立てられた「自衛権行使三要件論」と「自衛のための必要最小限度論」を二本柱とする9条解釈の現実的な役割は、専守防衛と海外派兵禁止により自衛隊が武力行使できる局面をミニマムに押さえ込み、交戦権否認とあいまって、自衛隊に普通の国に軍隊とは異なる半軍隊の地位に押しとどめてきた。その意味で、なお9条の趣旨は生かされてきたと言えるのである。
 しかしながら、安倍政権は、2014年7月1日の閣議決定によって、従来の「自衛権行使三要件」に変えて、「武力行使新三要件」を打ち出し、2015年9月、安保関連法を強行成立させることにより、自衛隊を普通の国の軍隊へと一気に昇華させてしまった。

注:「武力行使新三要件」
① 我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合であること
② これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力を行使すること


 思えば、戦後わが国は、集団的安全保障と個別国家の戦争・武力行使の全面禁止を追求するフロンティアを走ってきたのだ。しかるに、安倍政権の暴走により、わが国は、9条のない普通の国々の軍事力によるパワーポリティクスの修羅場に押し戻されようとしている。

されどわが9条

 わが9条は、世界に先駆けて戦力不保持を謳い、交戦権を否認した。よもやこの9条の下で、自衛のための戦争・武力行使が許容されるとはこの憲法制定を主導した人たちは予想もしなかったことであろうし、9条2項をどのように読んでも自衛のためであれば戦力を保有できるなどという解釈が出てくる余地はない。
 事実、憲法制定会議となった第90帝国議会における政府側答弁において、一様に確信をもって、9条は、自衛のための戦争・武力行使を放棄する趣旨であることが明言されていたし、つい最近も、5月3日の憲法記念日にNHKが放映した各政党代表による討論で、自民党代表の高村正彦副総裁でさえ、「憲法9条2項は誰が読んでも自衛隊は認められないと読める」と述べたところである。

注:高村副総裁の発言の真意は、だから9条を変えなければならないという点にあり、安倍自民党の公式声明でもある。かのギリシャ神話に出てくるプロクロステスという名の強盗は、旅人を休ませてやろうと声をかけてはアジトに招き入れ、鉄製のベッドに旅人を寝かせ、ベッドの長さにあわせて、旅人の体を裁断し、あるいは引き延ばしたりして殺害ししていたと言う。安倍自民党は、このひそみに倣おうとしているのである。

 さて戦後の政府見解と国家実践は、この立場からすれば不当であり、憲法違反を重ねてきたと言わねばならない。しかし、それがいかに不当であっても積み重ねられたものは、あまりにも大きな躯体を構成してしまっており、また国民世論の支持を受けている。従って、これを一気に解体することは困難なことであり、また国論の尖鋭な対立を招く。
 9条の精神は、対立を先鋭化させず、対立する側との信頼関係を醸成することにより、平和を維持しなければならないということであろう。私たちの政治実践においても、その9条の精神を大切にしなければならない。
 かような意味で、私たちは、当面、従前の「自衛権行使三要件論」と「自衛のための必要最小限度論」に基づき専守防衛と海外派兵禁止の枠組みを堅持させつつ漸次軍備縮小と平和な国際環境の形成に努め、国連中心外交により平和国家日本への信頼を勝ち取って行く道を進むべきであろう。そのための第一歩として、7.1閣議決定の撤回と安保関連法の廃止を追求しなければならない。安倍首相の言葉をもじれば、今が「不可逆的な」ターニングポイントである。

 さてこれで緊急事態条項総論を終える。いよいよ次回から各論に入る。ご期待を請う。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(11)

平和主義と自衛権(その6)

 国際社会は、国際法として、個別国家による戦争と武力行使を違法とし、これを禁止する原則を確立した。しかし、いまだその例外として自衛権行使が容認されている。
 戦後の歴史を見ると自衛権行使の名の下に侵略戦争が公然と行われてきたことは顕著な事実であるし、今なお軍事力によるパワーポリティクスが国際政治の主要なテーマとなっている。人類の悲願である一切の戦争と武力行使を廃絶する道はいまだ半ばというところである。
 しかし、戦争と平和に係る国際法の歴史を、この500年というスパンの中で骨太に解読するとき、我々人類は、試行錯誤を繰り返し、ジグザグにではあるが、聖戦論⇒正戦論⇒無差別戦争論(自己保存権、戦争の自由、同盟の自由)⇒戦争・武力行使違法論へと歩みを進め、集団的安全保障と個別国家の戦争・武力行使の全面禁止へと一歩一歩前進をしていることもまた見えてくることは、これまで概観してきたとおりである。

 ではもう一つの課題である、日本国憲法は、自衛権行使をどのように取り扱っているかということに論を進めよう。

日本国憲法と自衛権(憲法第9条の解釈)

 日本国憲法第9条の下において、自衛権行使が認められるかどうかは、戦後の憲法論争史を飾る主要な論点であった。

 日本国憲法第9条
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


 憲法学説は大きく分類すると以下の三説となる。

 第一説は、そもそも9条第1項自体があらゆる戦争・武力行使等を放棄しており、自衛のための戦争・武力行使も認められないと説く。
 第二説は、9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」との文言を重視し、第1項で放棄したのは侵略のための戦争・武力行使等であって自衛のための戦争・武力行使等は留保している、しかし第2項は戦力・交戦権を無条件に否定しているとして、結局、9条全体では一切の戦争・武力行使等が禁止されると説く。
 第三説は、9条第1項を第二説と同じに解し、かつ第2項の「前項の目的を達するため」は第1項の「国際紛争を解決する手段としては」を受けるのであるから、9条の解釈としては自衛のための戦争・武力の行使等を放棄していないと説く。

 憲法学者芦部信喜によると、第一説を有力説、第二説を通説とし、第三説についてはこのような「説もある」とのことである(「憲法新版補訂版」岩波書店)が、この指摘は今日現在においても妥当するだろう。

 わが国政府は、上記学説の分類に従えば、当初は、第一説もしくは第二説、その後若干の動揺を経て、第三説に近い立場に移行している。
 内閣法制局の打ち立てた政府見解は、憲法9条1項はそもそも国家固有の権能としての自衛のための武力行使を放棄していないが、9条2項の戦力不保持と交戦権否認の趣旨から、「自衛権行使三要件論」と「自衛のための必要最小限度論」の二本柱のもとに、限定された自衛権を認めるというものである。

注:「自衛権行使三要件」論
1954年4月、政府は、憲法9条の下での自衛権は、以下の厳格なる要件に適合しなければならないとの見解を示した(同年4月6日衆院内閣委佐藤達夫法制局長官答弁)。
① わが国に対する急迫不正の侵害があること
② この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

「自衛のために必要最小限度の実力」論
1954年12月、政府は、自衛隊創設の合憲性に関して次の見解を示した。
「憲法9条は独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のための必要相当な実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない。」(鳩山内閣統一見解)


 この見解は、国民の間に定着した上記学説第一説もしくは第二説に依拠したあらゆる戦争と武力行使否定の世論と折り合いをつけながら、専守防衛、海外派兵禁止という枠内で、自衛隊を合憲とするもので、国民の多くの支持を取り付けてきた。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(10)

平和主義と自衛権(その5)

いわゆる集団的自衛権について

 国連憲章51条中の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」について、その意義、目的、要件を定めた規定は憲章中には存在しないし、その制定過程においても、それについて議論さえもなされていなかったことは、既に述べたとおりである。
そのことの意味するところを考えれば、国連憲章は、従来の自衛権概念を何ら変更していないということであり、従来どおりの自衛権を確認したに過ぎないということになる筈である。
 ところで実際に加盟国の実情を見てみると、加盟国には自衛権を行使し得るに足る軍備を保有する国もあれば、そうではない国もある。前者は、自ら侵略を排除する措置をとればよいが、後者の国はそれができない。そこで後者の国は、自ら加盟する国連の集団的安全保障措置により侵略を排除してもらうことを期待するだろう。しかし、国連の現状では、その負託に必ずしも応えられない。そこで、そのような国は、一定の関係国の支援により、自国に対する侵略を排除してもらうことが認められるべきである。それも自衛権の行使のありようではないか。
 そうしたことを確認したのが国連憲章51条であり、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」なのである。

 残念ながら、戦後、国際法学者はこのような読み解きをしないで、「個別的自衛の固有の権利」を従来から国際法で認められていた自衛権(今ではこれを個別的自衛権と呼んでいる。)のほかに、「集団的自衛の固有の権利」を国連憲章が新たに認めた集団的自衛権と解してしまった。そして、諸国家及び国連もそうした解釈の下で国際政治、外交、国際紛争に対処することになっていった。

 しかし、そうではあっても、国際法学者の主流的な立場の人たちは、国連の集団的安全保障、即ち加盟国の武力行使を禁止し、国連安保理が平和の維持、安定のための措置をとることを旨とする体制を、恒久平和を達成するための至高の到達点ととらえ、これを危殆に陥れないように、集団的自衛権の行使を限定しようとし、自国防衛説と言われる見解を唱えた。この見解では集団的自衛権とは、他国に対する武力攻撃が同時に自国の死活的利益を危うくする場合に、自国の防衛のため、当該武力攻撃に反撃する権利である説かれている。ところが自国防衛説は、現実には、米国とその同盟国、旧ソ連とその同盟国など大国が、自国の国益を守り、そのヘゲモニー、イデオロギーを強制するために、侵略と干渉の道具として集団的自衛権を濫用する論拠となってしまった。

 これに対し、ニカラグア事件に関する国際司法裁判所の判決(1986年)は、集団的自衛権の要件として、被害国における自衛権要件の充足と、被害国の明示の要請をあげた。これは他国防衛説と言われる見解で、国際司法裁判所は、自国防衛説のもとで集団的自衛権の濫用を招き、国連による集団安全保障が危うくされている現状を直視し、敢えてこの見解を採用することにより、集団的自衛権を限定しようとしたものと考えられる。
 現在は、むしろこの見解が国際法学の主流となっている。

注:ニカラグア事件
1979年、ニカラグアにサンディニスタ革命政権が樹立された後、国内では右派ゲリラ勢力(コントラ)の武装闘争が展開され、逆に隣国の親米国家エルサルバドルでは反政府組織が勢力を拡大し始めている中で、アメリカが、ニカラグアの港湾の機雷封鎖、港湾施設や海底パイプラインや石油貯蔵施設の爆破など、サンディニスタ革命政権に攻撃を加えた。1984年、ニカラグアは国際司法裁判所に提訴、アメリカはニカラグアからエルサルバドルの反政府勢力への武器援助がなされたとしてエルサルバドルへの集団的自衛権の行使だと主張したが、1986年、同裁判所はこれを排斥、アメリカの国際法に違反する違法な武力行使を認定した。


 さて、わが安倍政権は、7.1閣議決定とその後成立させた安保法制において、集団的自衛権行使を認めるという憲法9条解釈の大転換をしたが、そこで認められることになった集団的自衛権は、フルスペックではなくわが国の存立もしくは国民の生命、財産、幸福追求の権利が危殆に瀕するときにはじめて行使される限定的なものに過ぎないと主張している。これは上に述べた自国防衛説そのものであり、安倍政権は、その下で集団的自衛権が濫用された歴史に完全に無視しているというほかはない。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(9)

平和主義と自衛権(その4)

巨大な前進

 無差別戦争論(戦争の自由・同盟の自由)の時代から戦争と武力行使を違法とする時代へ、人類は巨大な前進を遂げた。しかし、それは直線的な前進ではない。

 何よりも戦争と武力行使を正当化する自衛権が承認されていたこと。ただし、それは、前回述べたところから、今日でいうところの個別的自衛権のことであることは明白であった。

 もっとも英国がパリ不戦条約調印に際し差し入れた交換公文に「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明記されており、個別的自衛権を超える自衛権を主張していた。英国は、パクスブリタニカの夢からいまだ覚醒しきっていなかったようである。

注:この交換公文に明記されたイギリスの立場は、当時の外相チェンバレンの名前をとって、チェンバレン・ドクトリンと呼ばれている。


 また遅れて帝国主義列強の末席に連なることになったわが大日本帝国も鼻息は荒かった。パリ不戦条約批准は、時まさに幣原協調外交から田中儀一強権外交に席を譲った頃であった。わが大日本帝国は、満蒙の特殊権益なる特異な主張をし、それを守ることも自衛権の行使だと国際社会に向けて公然と主張していた。

さらなる前進と逆流

 枢軸国が敗退し、連合国の勝利で終わることが確実となった第二次世界大戦末期から、戦後世界の平和と安全は、包括的国際機構(国連)を設立し、個別国家による一切の武力行使を禁止し、国連が国際の平和と安全を確保するための措置をとるという集団的安全保障の道が模索された。
 1944年10月、米国、英国、ソ連、中国の主要連合国の間で合意され、公表されたダンバートン・オークス提案である。ここに連合国が主体となって永久平和を志向する国際機構(以下単に国連という。)を組織し、加盟諸国家に対し武力不行使の原則を承認させることにより、国際紛争を国連の安保理の下で、一元的にかつ国連軍の強力を背景に解決するという集団安全保障措置の制度・仕組みの原案が示されている。

 しかし、1945年6月、連合国によって開催された国連憲章の制定のためのサンフランシスコ会議において、次第に対立を深める米ソの思惑とこれに起因する小国の不安が交錯する中で、集団的安全保障とはあい矛盾する国連憲章第51条が採択されてしまった。これは加盟国個々の武力行使禁止原則を定める第2条4項と矛盾するものであった。その経緯をたどってみよう。

注:国連憲章第2条4項と第51条

第2条4項〔武力行使禁止〕
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。   
第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。


 ダンバートン・オークス提案は、多くの人びとに、希望と勇気を与えた。ところがその4ヵ月後、早くも逆流現象が始まった。1945年2月4日から11日までソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。世にいうヤルタ会談である。
 ヤルタ会談ではヨーロッパにおける戦後処理の問題が話し合われ、何とか合意に至ったものの、大きなしこりを残すこととなった。対日戦についてもルーズヴェルトとスターリンの間で、不明朗な密約が取り交わされた。

注:ヤルタ密約
 ソ連は、ドイツ降伏後2ヶ月から3ヶ月のうちに対日戦争に参加することし、その見返りに英米は、①南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させる、②千島列島をソ連に引き渡させること密かに確認しあったものであり、大西洋憲章、カイロ宣言、モスクワ宣言で重ねて確認された、領土不拡大の原則なる今次大戦における連合国の国際公約に違背すること明らかであった。


 それにもまして重大なことは、ヤルタ会談で、国連の運営に大きな桎梏となる合意がなされたことである。米国は長らくモンロー主義の伝統があったから国連によって行動の自由が制約されることには強い懸念を抱いていた。そこで米国がまず、安保理の決定には五大国(米英ソ仏中が想定されていた。)の一致の原則を求めた。これをソ連は支持した。ソ連は、多数を占める資本主義国が安保理を牛耳り、ソ連の国益に反する決定を押し付けてくることを危惧していたのである。米ソの同床異夢の思惑が、五大国一致の原則を採択させたのである。

注:安保理の決定に五大国一致を要するとの規定は、国連憲章第5章第27条3項として成文化されている。

 ダンバートン・オークス提案によると、集団的安全保障のための強制措置をとる場合、安保理の下に組織される国連軍によって実行する方法のほかに、ある一定地域内の諸国が、国連の目的に適合する集団安全保障のための地域機構を作っている場合には、これを利用し、もしくはその地域機構の強制措置発動を許可するという道も用意されていた。現在の国連憲章でいうと第8章第52条、第53条である。
 ヤルタ会談から1ヵ月後の1945年3月、メキシコシティ郊外のチャプルテペック城で開催された中南米諸国のチャプルテペック会議において、この集団的安全保障のための地域機構を組織するためのチャプルテペック協定が成立を見た(後に米州機構と全米相互援助条約として結実する)。
 同年4月、国連憲章策定のために開催されたサンフランシスコ会議では、チャプルテペック協定に拠った中南米諸国から、このままでは五大国の対立が生じたときには、自分たちのチャプルテペック協定でめざすこととなった地域機構と地域協定が無効となってしまうおそれがあると猛然と異議申し立てがなされ、このままでは脱退するとの動きになって行った(「ラテン・アメリカの危機」といわれた。)。この異議申し立てに、1945年3月、アラブ連盟を結成し、地域的結束を深めていたアラブ諸国も同調した。
 さらに米ソの微妙な駆け引きがその上に展開される。

 そのようにして国連憲章第51条という大きな矛盾と混乱の種が持ち込まれてしまったのである。

注:米ソの微妙な駆け引き・・・ソ連は、旧敵国を対象とした従前の相互援助条約を戦後のヘゲモニー確保の道具としようとの思惑、アメリカは地域協定・地域機構を利用して戦後のヘゲモニー確立に役立てようとの思惑が働いた。

 国連憲章51条は、集団的安全保障の例外として、加盟国の自衛権行使を「個別的又は集団的自衛の固有の権利」として認めた。しかし、国連憲章制定過程ではこの「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の意義、目的、要件については何ら議論もなされてはいないし、規定もなされていない。また集団的安全保障とどう整合性をもたせるかについても何ら考慮も払われなかった。
 実際、戦後の歴史をふりかえると、国連憲章51条所定の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が、どれだけ大国の武力行使を正当化する論拠として使われたか、例をあげればきりがないほどである。

 我々人類は、聖戦論⇒正戦論⇒無差別戦争論(自己保存権、戦争の自由、同盟の自由)⇒戦争・武力行使違法化(集団的安全保障)へと歩みを進めてきたが、それは、いつの時代も逆流を伴っていた。しかし、それでも試行錯誤を繰り返し、ジグザグに、一歩一歩前進をしていることもまぎれのない事実である。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(8)

平和主義と自衛権(その3)

国際法上の自衛権の確立

 無差別戦争論(戦争の自由・同盟の自由)の時代は、英、仏、独、それに新興国米国を含む列強諸国による帝国主義的領土分割の時代でもあった。やがて、それは、わが国もその驥尾に加わり、蘭熟し、20世紀における二度にわたる世界大戦という疾風怒濤期を経て終息期に向かう。さしずめ現在はその最後の時期にさしかかっていると言ってよいのかもしれない。

 その大きな時代の移り変わりの中で、戦争と平和という人類史的テーマにかかわる国際法(国際条約法と国際慣習法)も様変わりして行く。

 かつて例をみない惨害をもたらした第一次世界大戦がエポックを画した。全世界を覆う平和運動の波とロシア革命を先頭とする変革の嵐。やがて国際連盟が設立され、国際社会あげて、軍縮の実現をめざし、戦争と武力行使を違法とし、禁止し、それに反する行動をとった国には国際連盟による制裁を科すという道が模索された。
 ヨーロッパの英、仏、伯、伊、独5カ国間のロカルノ条約を経て、とにもかくにも戦争と武力行使を違法とし、禁止するパリ不戦条約が締結されたのは1928年のことであった。

注:①国際連盟は、加盟国間に重大な紛争を生じたときは、国際裁判もしくは国際連盟において紛争解決の手続をとるべきことを義務づけ、その手続き進行中と結論が出されたのちは一定の場合に、戦争に訴えることを禁じた。これに違反した場合には、連盟加盟国に違反国に対し、制裁その他の措置をとるべきことを義務づけた。
②1925年・ロカルノ条約において、締約国は、あらゆる攻撃及び侵入の絶対的禁止、挑発にもとづかない侵略に対する被害国を支援する義務、国際紛争平和的解決の義務を約定した。
③パリ不戦条約は本文3か条のうち、第3条は手続規定であるから、正味は第1条、第2条のみである。
第1条 締約国は国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、かつ締約国相互の関係において、国家政策の手段としての戦争を放棄することを、各々の人民の名で厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、締約国相互の間に起こる全ての争議または紛争は、その性質又は原因の如何を 問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないことを約束する。


 パリ不戦条約第1条には「国家間の紛争の解決のため」とか「国家政策の手段として」とかの語句があり、戦争放棄は条件付のようにも読める。同条においては侵略戦争の放棄をしているだけであって、自衛戦争は放棄されていないと読み取る余地が生じる。しかし第2条は単純明瞭である。全ての争議または紛争を、性質、原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないとある。そこでわかりにくい第1条を第2条とともに解釈すると全ての戦争を放棄する趣旨だと解さざるを得ない。

 わが国では、パリ不戦条約第1条だけを取り出して、同条約の本旨を自衛のための戦争を留保し、侵略戦争の放棄を約したものと解し、そこから「国際紛争を解決する手段として」というわが憲法9条1項の用語例を、自衛のための戦争、武力の行使を排除する趣旨だという読み方が人口に膾炙しているが、どうやらそれは間違いのようである。

 もっとも、実際問題として、パリ不戦条約では自衛戦争(あるいは自衛のための武力行使)は放棄されていないものとして取り扱われてきた。ではどうしてそうなるのか。実は、各国は、不戦条約批准に際し、「自衛権の行使を留保する」との趣旨を明示した交換公文を取り交わしていたのだ。つまり各国は、「自衛権の行使を放棄しない」との条件で批准をしていたから、不戦条約では自衛戦争(もしくは自衛のための武力行使)は放棄されていないということになるというカラクリになっていたのである(田岡良一「国際法上の自衛権」勁草書房157頁以下)。

 ここで各国が交換公文で留保した自衛権は、各国各様の主張にもかかわらず、パリ不戦条約を主導したケロッグ米国務長官により、「自国領域を攻撃又は侵入から守る自由」と定義されている(1928年6月23日付公文。森肇志『自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開』東京大学出版会146頁以下参照)。これは以下に記す国際法上の自衛権に一致するものである。

 こうして国際社会において戦争と武力行使を違法とし、禁止することが公認されるようになる反面、諸国は、これに穴を開け、その例外として許容されるべき戦争と武力行使の道探しをする。そうして浮上したのが自衛権の行使としての戦争と武力行使である。
 諸国の国際法学者らは、上述したように百年も昔のカロライン号事件におけるウェブスター書簡中で示されたウェブスター・フォーミュラに息を吹き込み、次の三点に集約・整理し、これを自衛権の定義、自衛権の行使要件とした。

① 急迫不正の侵害の存在
② 他に取り得る方法がないこと(必要性)
③ 必要最小限度の範囲にとどまる措置であること(均衡性)

 わが国でも、横田喜三郎博士は、既に戦前において、「自衛権は、国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為でなくてはならない。」として、具体的に「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。(以下略)」と説いていた(「国際法」上巻・有斐閣 1933年)。
(続く)

緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(7)

平和主義と自衛権(その2)

自衛権前史

 第一次大戦前は、無差別戦争論(戦争の自由・同盟の自由)の時代であったから、本来、自衛権が国際社会において権利もしくは戦争の正当化理由として機能する余地すらなかった筈である。しかし、国際紛争と外交交渉の場で、自衛権が語られることはしばしばあった。いわば外交上の方便としての自衛権である。

 国際法学者によって、自衛権の問題として、語り伝えられるカロライン号事件は、そのようなものであった。

 カロライン号事件とは、概要以下のような事件であった。

 米国と英領カナダの境にあるナイアガラ川のカナダ領内にネイヴィ島という妙にキナ臭い名前の島があった。1837年当時、そこを拠点として、カナダの英国からの独立を目指す人々が武器をとって英国と戦っていた。その独立派の人々に対し、米国人所有の船カロライン号が、米国側とネイヴィ島との間を往復し、人員、武器、物資を輸送していた。英国は、かねて米国にその取り締まりを要求していたが、はかばかしい効果がない。そこでカナダ提督指揮下の英軍が、米国ニューヨーク州シュロッサー港に停泊中のカロライン号を急襲し、火を放った上、ナイアガラの滝から落下させてしまった。同年12月29日深夜の出来事である。

 当然、この事件は、英国と米国との間で、重要な外交案件となり、厳しい交渉が行われた。英国側は、いろいろな主張をしたが、その中には自衛権の主張もあった。そこで米国務長官ウェブスターは、駐米英国公使フォスターに宛てて書簡を送り、「英国政府は、差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったことを示す必要がある」、「たとえ仮に米国領域への侵入がそのときの必要性よって容認されるとしても」、「非合理な、もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があり、それは、自衛の必要によって正当化される行為が、かかる必要性によって限界づけられ、明白にその範囲内にとどまるものでなければならないからである」と反論、英国政府に、カロライン号急襲と米国領侵犯につき、自衛権の行使としての正当性の論証を求めた。

 カロライン号事件は、どう見ても現在の通念では、自衛権の行使と目されるような事案ではなく、英国の武力行使が自衛権として国際法に照らし正当なものかどうかが問われたわけではない。言ってみれば、外交上自衛権なる問題が取り上げられ、英国、米国の外交上の非難・応酬の対象となったに過ぎず、結局は、英国、米国とも、落としどころを得て、無事、落着をみた。

 しかし、上記ウェブスター書簡で述べられた「差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったこと」という定式は、後に国際法上の自衛権が確立する時代において、国際法学者によって、ウェブスター・フォーミュラと命名され、自衛権の要件として注目されることとなる。

注:第一次大戦前、カロライン号事件と同様、自衛権が外交上の方便として主張された事例はほかにも以下のようなっものがあった。

①1807年・デンマーク艦隊事件(ナポレオン戦争に時代。トラファルガー沖海戦においてイギリス艦隊が、スペイン・フランス連合艦隊を打ち破ったのは1805年11月。その後、イギリスは、当時、イギリスに次ぐ艦隊を保有し、中立政策をとっていたデンマークに艦隊引き渡しを、強く要求した。デンマークはこれを拒否。イギリスは、デンマークに艦隊を派遣、コペンハーゲンを砲撃し、、実力によりデンマーク艦隊を接収。イギリスは、「危険は確実であり、切迫しており、極度のものであったから、緊急かつ重大な必要がある事態を形づくっており、ほかに取るべき手段を選択する余裕がなかった」と主張。
②1817年・アメリア島事件(アメリア島は現在の米国ジョージア州の南端を流れるSt.Mary川河の島。当時はスペイン領。この島を拠点に無法者集団がスペイン政府の討伐をかいくぐり、密輸や海賊など犯罪行為を繰り返していた。米側が、軍艦を派遣して鎮圧。米側は自衛として正当化。)
③1836年・米墨国境侵犯事件(メキシコ・インディアンの侵入に対し、米側がメキシコ内に軍隊を派遣・駐留させた事件。米側は自己保存原則・不変の自衛原則を主張)
④1873年・ヴァージニアス号事件(キューバ独立のための武装集団を支援して物資・人員の輸送活動をしていた米国船籍のヴァージニアス号をスペイン軍が公海上で拿捕。サンチャゴに引致して、米国人・英国人・キューバ人を軍法会議にかけて処刑。スペイン側は自衛行為と主張。)
⑤1886年~87年・ベーリング海オットセイ保護事件(1867年、ロシアからアラスカを譲り受けたアメリカは、ベーリング海海峡にオットセイの禁漁区を設定。これに立ち入り、操業したイギリス、カナダ漁船を拿捕。アメリカは、仲裁裁判において自衛権を主張。)

(続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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