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緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(9)

平和主義と自衛権(その4)

巨大な前進

 無差別戦争論(戦争の自由・同盟の自由)の時代から戦争と武力行使を違法とする時代へ、人類は巨大な前進を遂げた。しかし、それは直線的な前進ではない。

 何よりも戦争と武力行使を正当化する自衛権が承認されていたこと。ただし、それは、前回述べたところから、今日でいうところの個別的自衛権のことであることは明白であった。

 もっとも英国がパリ不戦条約調印に際し差し入れた交換公文に「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明記されており、個別的自衛権を超える自衛権を主張していた。英国は、パクスブリタニカの夢からいまだ覚醒しきっていなかったようである。

注:この交換公文に明記されたイギリスの立場は、当時の外相チェンバレンの名前をとって、チェンバレン・ドクトリンと呼ばれている。


 また遅れて帝国主義列強の末席に連なることになったわが大日本帝国も鼻息は荒かった。パリ不戦条約批准は、時まさに幣原協調外交から田中儀一強権外交に席を譲った頃であった。わが大日本帝国は、満蒙の特殊権益なる特異な主張をし、それを守ることも自衛権の行使だと国際社会に向けて公然と主張していた。

さらなる前進と逆流

 枢軸国が敗退し、連合国の勝利で終わることが確実となった第二次世界大戦末期から、戦後世界の平和と安全は、包括的国際機構(国連)を設立し、個別国家による一切の武力行使を禁止し、国連が国際の平和と安全を確保するための措置をとるという集団的安全保障の道が模索された。
 1944年10月、米国、英国、ソ連、中国の主要連合国の間で合意され、公表されたダンバートン・オークス提案である。ここに連合国が主体となって永久平和を志向する国際機構(以下単に国連という。)を組織し、加盟諸国家に対し武力不行使の原則を承認させることにより、国際紛争を国連の安保理の下で、一元的にかつ国連軍の強力を背景に解決するという集団安全保障措置の制度・仕組みの原案が示されている。

 しかし、1945年6月、連合国によって開催された国連憲章の制定のためのサンフランシスコ会議において、次第に対立を深める米ソの思惑とこれに起因する小国の不安が交錯する中で、集団的安全保障とはあい矛盾する国連憲章第51条が採択されてしまった。これは加盟国個々の武力行使禁止原則を定める第2条4項と矛盾するものであった。その経緯をたどってみよう。

注:国連憲章第2条4項と第51条

第2条4項〔武力行使禁止〕
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。   
第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国が措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。


 ダンバートン・オークス提案は、多くの人びとに、希望と勇気を与えた。ところがその4ヵ月後、早くも逆流現象が始まった。1945年2月4日から11日までソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。世にいうヤルタ会談である。
 ヤルタ会談ではヨーロッパにおける戦後処理の問題が話し合われ、何とか合意に至ったものの、大きなしこりを残すこととなった。対日戦についてもルーズヴェルトとスターリンの間で、不明朗な密約が取り交わされた。

注:ヤルタ密約
 ソ連は、ドイツ降伏後2ヶ月から3ヶ月のうちに対日戦争に参加することし、その見返りに英米は、①南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させる、②千島列島をソ連に引き渡させること密かに確認しあったものであり、大西洋憲章、カイロ宣言、モスクワ宣言で重ねて確認された、領土不拡大の原則なる今次大戦における連合国の国際公約に違背すること明らかであった。


 それにもまして重大なことは、ヤルタ会談で、国連の運営に大きな桎梏となる合意がなされたことである。米国は長らくモンロー主義の伝統があったから国連によって行動の自由が制約されることには強い懸念を抱いていた。そこで米国がまず、安保理の決定には五大国(米英ソ仏中が想定されていた。)の一致の原則を求めた。これをソ連は支持した。ソ連は、多数を占める資本主義国が安保理を牛耳り、ソ連の国益に反する決定を押し付けてくることを危惧していたのである。米ソの同床異夢の思惑が、五大国一致の原則を採択させたのである。

注:安保理の決定に五大国一致を要するとの規定は、国連憲章第5章第27条3項として成文化されている。

 ダンバートン・オークス提案によると、集団的安全保障のための強制措置をとる場合、安保理の下に組織される国連軍によって実行する方法のほかに、ある一定地域内の諸国が、国連の目的に適合する集団安全保障のための地域機構を作っている場合には、これを利用し、もしくはその地域機構の強制措置発動を許可するという道も用意されていた。現在の国連憲章でいうと第8章第52条、第53条である。
 ヤルタ会談から1ヵ月後の1945年3月、メキシコシティ郊外のチャプルテペック城で開催された中南米諸国のチャプルテペック会議において、この集団的安全保障のための地域機構を組織するためのチャプルテペック協定が成立を見た(後に米州機構と全米相互援助条約として結実する)。
 同年4月、国連憲章策定のために開催されたサンフランシスコ会議では、チャプルテペック協定に拠った中南米諸国から、このままでは五大国の対立が生じたときには、自分たちのチャプルテペック協定でめざすこととなった地域機構と地域協定が無効となってしまうおそれがあると猛然と異議申し立てがなされ、このままでは脱退するとの動きになって行った(「ラテン・アメリカの危機」といわれた。)。この異議申し立てに、1945年3月、アラブ連盟を結成し、地域的結束を深めていたアラブ諸国も同調した。
 さらに米ソの微妙な駆け引きがその上に展開される。

 そのようにして国連憲章第51条という大きな矛盾と混乱の種が持ち込まれてしまったのである。

注:米ソの微妙な駆け引き・・・ソ連は、旧敵国を対象とした従前の相互援助条約を戦後のヘゲモニー確保の道具としようとの思惑、アメリカは地域協定・地域機構を利用して戦後のヘゲモニー確立に役立てようとの思惑が働いた。

 国連憲章51条は、集団的安全保障の例外として、加盟国の自衛権行使を「個別的又は集団的自衛の固有の権利」として認めた。しかし、国連憲章制定過程ではこの「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の意義、目的、要件については何ら議論もなされてはいないし、規定もなされていない。また集団的安全保障とどう整合性をもたせるかについても何ら考慮も払われなかった。
 実際、戦後の歴史をふりかえると、国連憲章51条所定の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が、どれだけ大国の武力行使を正当化する論拠として使われたか、例をあげればきりがないほどである。

 我々人類は、聖戦論⇒正戦論⇒無差別戦争論(自己保存権、戦争の自由、同盟の自由)⇒戦争・武力行使違法化(集団的安全保障)へと歩みを進めてきたが、それは、いつの時代も逆流を伴っていた。しかし、それでも試行錯誤を繰り返し、ジグザグに、一歩一歩前進をしていることもまぎれのない事実である。
(続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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