憲法九条は幣原喜重郎元首相の発案によるもの

 雑誌『世界』5月号に、教育学の重鎮堀尾輝久東大名誉教授の『憲法九条と幣原喜重郎』という論文が掲載されています。

 戦争放棄・戦力不保持を謳う憲法九条は、1946年1月24日、当時の首相、幣原喜重郎とマッカーサーとの会見の場で、幣原が提案したものだという説が有力であることはご存じだと思います。これまでにもマッカーサー回想録をはじめ、当事者や関係者の話や証言等がその論拠として引証されています。

 堀尾さんは、この問題ずっと追究されていたのですね。上記論文で、1957年、内閣に設置された憲法調査会の高柳信三会長が、九条制定経緯を解明する目的で、マッカーサーに出した質問とそれに対する回答を綴った往復書簡の原本を発見し、あらためて九条幣原起源説を論証しています。老いてますます盛ん、堀尾さんの九条にかける熱い思いに感銘を受けました。

 公平を期するために、これに対する疑問説も紹介しておきます。

 たとえば古関彰一『平和憲法の深層』(ちくま新書・2015年5月刊)は憲法九条幣原起源説に以下の理由をあげて疑問を呈しています。

 ①幣原の肝煎りで内閣に設置された憲法問題調査会が1945年12月8日に発表した「松本四原則」では九条につながるものは微塵もなかった。
 ②上記憲法問題調査会の憲法改正案にもなかった。
 ③GHQ草案を受けた後の最初の閣議で、幣原はじめその他の閣僚が「我々はこれを受諾できない」と述べたこと。この閣議後マッカーサーを訪ね、GHQの真意を確認(天皇の戦争責任追及をめぐる情勢、天皇を守るにはこれしかない)、はじめて閣議を受諾する方向に転じさせたこと。
 ④「幣原さんは閣議では一度もああした信念や憲法の条項にしたいとなどという発言をしていませんでした。」との金森徳次郎談
 ⑤幣原の生の直接証言がないこと。

 もっとも私は、当時の風潮、内閣の構成、憲法上は未だ天皇は統治権の総攬者であったことなどを考えると、以上は幣原の深謀遠慮の苦労のあとを物語るものとはいえ、疑問を呈する論拠としては空振りではないかと思います。

 私は当ブログで、以前、この件を天皇制存続との絡みで取り上げたことがあります。幣原喜重郎という人物紹介もザッとしていますので興味のある方は覗いてみてください。

http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-59.html

 1946年1月24日の会談で、幣原がマッカーサーに申し入れた要点は、①憲法に戦争放棄・戦力不保持を明記すること、②実権を持たない象徴としての天皇を残すことでした。マッカーサーにとっては①については青天の霹靂でしたが、②はかねて占領政策遂行のためには民主主義と天皇制の存続が不可欠との考えと完全に一致する考えでした。
 マッカーサーは、中国、オーストラリア、オランダ、ソ連が天皇制廃止、天皇の戦争責任追及の態度を示しており、極東委員会が動き出すとやっかいなことになると焦っていました。そこに①の申し入れ。マッカーサーにとって、青天の霹靂は、すぐさま大いなる希望の星として光を発したのです。強硬派諸国は、天皇制を残すことにより日本が再び武力をもって戦う日が再来することを恐れているのだから、①を憲法に規定すれば、難局を乗り切ることができると。

 マッカーサーは、感動し、幣原の手を握り締めたとのことですが、さぞかし幣原の手は、赤く腫れあがっていたことでしょう。

 九条の発意は昭和天皇にあるとして、1946年1月1日の人間宣言をあげる人もいますが、この人間宣言こそ、幣原が前年のクリスマス・イブに夜なべをし、精魂を傾けて書いた一世一代の名文。それを言うならむしろ幣原に帰することになるでしょう。

 なお、幣原は老骨鞭打ってのこの夜なべ作業により肺炎を発症し、GHQに供与されたペニシリンで一命を取りとめた由、そのペニシリンのお礼の名目で、1月24日の幣原・マッカーサー会談が実現したのですから、これも歴史の巧緻というべきでしょうか。(了)
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プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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