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明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(1)

 帝国軍隊の歴史を少したどってみたい。

 戊辰戦争を戦ったいわゆる官軍は、薩・長・土・肥を中心とした雄藩の藩兵からなる寄せ集めの軍隊であった。それらはおおいに働き、旧幕軍の反抗を鎮定するに貢献したが、戦役の終結とともに、続々と帰藩して行った。それら藩兵が帰藩してしまうと、中央政府には、旧幕府から接収した富士山・朝陽など4隻の軍艦からなる海軍などわずかの兵力のほか、見るべき兵力は存在しなくなった。
 この状態を一新したのが、先に触れた親兵の設置である。

 1871年4月11日、鹿児島藩歩兵4大隊、砲兵4隊、山口藩歩兵3大隊、高知藩歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊の合計1万を親兵として、兵部省管轄下に置くことが発令された。『陸軍省沿革史』(山縣有朋編・1903年)には、これにより「初メテ兵ヲ朝廷ニ備フルヲ得ルに至レリ」とある。

 公称1万からなる親兵の集結が完了したのは同年7月下旬のことであり、ここに兵部省管轄の帝国軍隊(陸軍・海軍)が誕生したことになる。

 しかし、同年12月、兵部大輔(注:卿が長官で、大輔は次官であるが、このとき卿は空席であったので事実上の長官であった。)山縣、兵部少輔川村純義・兵部少輔西郷従道らの手になる『軍備意見書』によると、これは国内の動乱を鎮圧するものに過ぎず、対外防衛に堪えないと指摘する。

所謂親兵ハ、其実聖体ヲ保護シ禁闕ヲ守衛スルニ過キス。四管鎮台ノ兵、総テ二十余大隊。是内国ヲ鎮圧スルノ具ニシテ、外ニ備フル所以ニ非ス。海軍ノ如キハ数隻ノ戦艦モ未タ全ク完備ニ至ラス。是レ亦果シテ外ニ備フルニ足ランヤ。

 そして、同意見書は、わが国固有の領土、内地を守るための兵備として、砲台の構築と軍艦の建造と海軍の拡張を提言する。

皇国沿海ノ防禦ヲ定ム。則チ戦艦ヲ造ル也。海岸砲台ヲ築ク也。・・・・
皇国沿海万里四面皆敵衝ナレバ、悉ク砲台ヲ併列シ、之カ備ヘヲ為ス能ハス。故ニオオイニ海軍ヲ皇張シ、至大ノ軍艦ヲ造リ、砲台ノ及バザル所ヲ援ケ、内地ヲ保護スベシ。


 今日の言葉で言えば専守防衛である。

 1872年2月、兵部省が解体されて、陸軍省と海軍省となり、軍備増強が実務的進められていく。同年12月には「全国徴兵の詔」が発せられて国民皆兵制度に進む。その趣旨を説明した「太政官告諭」は、もともとわが国は古来、国民皆兵であったが、後に、双刀を帯び、威張りかえって何の仕事もせず、あまつさえ人を殺しても何の罪も問われない兵農分離の幣を訴えた後、次のように言う。

然ルニ大政維新、列藩版図ヲ奉還シ、辛未ノ年(注:かのえひつじの年。明治4年)ニ及ビ、遠ク群県ノ古ニ復ス。世襲坐食ノ士ハソノ録ヲ減ジ、刀剣ヲ脱スルヲ許シ、四民漸ク自由ノ権ヲ得シメントス。コレ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル基ナリ。

 武士を廃して、国民皆兵制度にすることにより、四民平等、自由・平等の世の中にすることができると。

 翌1873年1月4日発布の徴兵令には、徴兵令の施行により従来の4鎮台を6鎮台とすることとし、「以上六鎮ヲモッテ全国兵備ヲ管シ、所属ノ府県ヨリ毎歳ノ定員ヲ徴募シ、以テ管内ノ守衛ニ充ツ。」と明記されていた。

 以上、帝国軍隊の創業の銘は、専守防衛、四民平等と自由の担い手、各鎮台の管内の守衛であったことを確認しておこう。

                       (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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