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明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(2)

 帝国軍隊が、はじめて海外で威嚇の具として用いられたのは1872年9月のことである。

 1871年12月、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らが米欧遣外使節団に加わり、米欧諸国歴訪に出かける間際、彼ら使節団に加わるメンバーと三条実美、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助ら留守を預かる面々との間で、留守政府は、これまでの政策、施策を変更せず、重要な事柄は必ず使節団メンバーと協議するなどとしたためた十二箇条からなる誓約書を取り交わしていた。
 ところが、この留守政府の面々、いずれも一筋縄ではいかない者ばかり、こんな誓約書、どこ吹く風とばかりにどんどん独走を始める。その最たるものは後世から征韓論の名で呼ばれる対朝鮮強硬外交策であった。

 勿論、征韓論は、留守政府において突如持ちあがったものではなく、根は深く、18世紀終わりころから、朝鮮圧服もしくは朝鮮善導など日本の優越性を誇示する論が一部に説かれていた。かの吉田松陰も、兄杉梅太郎に宛てた書簡で「取り易き朝鮮・満州・支那を切り随え、交易にて魯国に失う所は又土地にて鮮満にて償うべし」と述べているように、その一人であったと言っていい。
 しかし、朝鮮とわが国の関係は、幕末も国交は断絶することなく、釜山近くの草梁に倭館を置き、朝鮮の特許状と対馬藩主の特許状を対馬藩の船と人を通じて交易がなされていた。

 戊辰の内乱終結のめどがたった1868年12月(会津藩の降伏は同年11月6日である。)、政府は、対馬藩を通じて朝鮮に対し、王政復古を告知する文書(「書契」と呼ばれる。)を交付しようとしたが、朝鮮は、その文章中に「皇」とか「勅」とかいう天皇を朝鮮王の上位にあることを示す文言が使われているとの理由で、受理しなかった。
 当時、朝鮮は、1864年に即位し高宗(コジュン)の父、つまり大院君(テウォングン)が実権を握り、原則的で強硬な攘夷の施策が断行されていた。それは情況に応じて柔軟に姿態を変えるいわば方便としての攘夷主義に対し、原理的攘夷主義と言うべきものであった。朝鮮が契書を受理せず、わが国との国交を鎖そうとしたのは、原理的攘夷主義からの反発もあったのかもしれない。

 これを無礼だと気色ばんだのは、まず木戸孝允であった。彼は、1869年1月末、これを咎めて「神州の威を伸長せんこと」を岩倉具視に提言している。外務省は、さっそく対朝鮮政策を立てるべく、久留米藩の頑固な攘夷主義者として知られた佐田白茅(さだはくぼう)らに命じて調査を開始した。その結果、いくつかの提言書が外務省に提出されたが、方法論として硬軟二様の差はあるものの、いずれも最後は武力制圧せよということで一致していた。

 しかし、勇ましい提言も、なかなか実行できるものではない。既に述べた如く、1871年になると、王政復古と戊辰戦争を闘い抜いた三条、岩倉、西郷、木戸、大久保、板垣、大隈、伊藤、山縣ら豪華絢爛たる陣容を整え、廃藩置県を一気に断行した政府も、内部に意見の相違を抱えて、なかなか踏み切ることはできなかったのであろう。

 まさしく鬼のいぬ間の洗濯とばかりに、独走を始めていた留守政府は、征韓論でも、突っ走ろうとした。

 最初に先頭に立ったのは外務卿副島種臣であった。彼は、1872年9月、草梁倭館を外務省の直轄下に置き、大日本公館とした上で、そのための整理・交渉と、あわせて侵攻の下準備としての調査・測量を行わせるために、部下の外務大丞(現在でいえば外務審議官クラスと思われる。)花房義資に命じて、軍艦春日と汽船に乗船させた歩兵二小隊を率いて草梁に赴かせた。まさしくこれは、欧米列強が先鞭をつけた砲艦外交そのものである。

 これに対し、朝鮮当局は、一切交渉に応じず、倭館との窓口となる役人の引き揚げ、朝市の閉鎖、公館のまわりを練り歩かせる、さらには公館における交易活動に対する監視と取り締まりの強化をしたりして対抗した。

 かくして留守政府において、一気に征韓論が沸騰して行く。三条は、1873年1月、重要案件山積を理由に木戸、大久保に召還命令を出す、5月、大久保帰国、7月、木戸帰国、9月、岩倉ら残りのメンバー帰国、その後の岩倉、木戸、大久保、伊藤らの一致した反対と征韓派の敗北(西郷、板垣、副島、後藤象二郎、江藤新平の下野)で、一旦、幕引きが行われたのは同年10月のことであった。

 アーネスト・サトウは、同年10月26日、その日記に以下のように書いている。

 「朝鮮との戦争の問題をめぐって、副島と西郷と板垣が辞職した。かれらはこの戦争を強く望んでいた。後藤と江藤も辞職した。大隈と大久保と大木(喬任)は残った。海軍卿勝安房と外務卿寺島と工部卿伊藤が後者に加わった。」
 「副島は五万の兵を率いて朝鮮に侵攻するつもりであった。すなわち、これを二手にわけ、一方は朝鮮の北部国境東側に、他方は西側に向かい、それぞれの上陸地点に一万の兵を守備隊として残し、残りの兵力をもって南下する計画であった。」
 「岩倉は強く反対した。この結果朝鮮との戦争ばかりでなく、台湾遠征計画も当分放棄された。」


 注:アーネスト・サトウは、当時英国公使館の日本語書記官。彼については後に詳しく触れる機会があるだろう。

 なお征韓論については、再び第三話『大西郷は永続革命をめざしたのか?』で再論することにしたい。
                       (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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