明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(4)

 征台の役について、少し補足しておこう。

 前に見たアーネスト・サトウの日記1873年10月26日の条にあるがごとく、征韓派の敗退で、台湾(蕃族)征伐も延期されるかに見えた。しかし、わずか4カ月後の、1974年2月、政府は、「台湾蕃地処分要略」を決定するに至ってしまった。これを主導したのは大久保利通、大隈重信であった。これに対し、木戸孝允は職を賭して反対の声をあげる(4月18日辞表提出)。山縣有朋も反対、伊藤博文は消極的意見であった。

 反対の声は、政府部内だけではなく、英米両国公使からもあがった。

 まず英国公使パークス。1874年4月7日付のパークスが本国外務省宛て報告書に次のように書かれている。

 「日清両国に紛争をひきおこすおそれのある事件が突発した。日本は士族階級をなだめるために、台湾の原住民を懲罰する遠征軍を派遣しようとしている。この原住民なるものは、すくなくとも遠征の名目上の目的を提供しているが、真の目的は台湾の一部の獲得である。」
 「清国政府の見解と意向を知るために、わたしはウェードに電報を打った。日本政府は、輸送用に外国船舶を雇用しようとしているからである。清国側がこの遠征を清国領土に対する侵略とみなす場合、イギリスは、危険、ことによったら戦闘行為に参加する危険をおかすことなしには、輸送に従事することはできない。他方、清国側がこの遠征に同意する場合、われわれとしては黙っているほかはない。」


注:ウェードは駐清英国公使。5月2日、清国側は、日本の遠征については何も知らないこと、台湾は蕃地もその領土であると主張していると、パークスに返信。

 次に米国公使ビンガムであるが、彼は、台湾全土が清国の領土であるという前提に立ち、日本が台湾(蕃族)征伐を実行することは清国に対する敵対行為であり、そのような目的のために、アメリカの船舶とアメリカ人を使用するは認めない、断固として阻止すると抗議した。

 思わぬ反対に直面した政府は、既に、台湾蕃地事務局を長崎に置き、その長官に大隈をつけ、西郷従道(陸軍中将)を台湾蕃地事務都督に任命して、遠征の準備に入らせていたが、4月19日、急きょ延期を決定した。大隈は、これに従い、遠征強行を唱える西郷の説得に努めたが、西郷は次のように述べて息まき、頑として聞き入れない。

 「この際姑息の策に出れば、かえって志気をうっ屈させ、わざわいは佐賀の乱の比ではない。強いて止めようとするなら、国には累を及ぼさないように、命令に反した賊徒となって生蕃の地を襲う。」

 同年2月に起きた佐賀の乱(征韓論で下野した江藤新平をかついだ佐賀県不平士族の反乱)を鎮圧し、江藤を含む領袖を斬罪に処し、一段落つけて東京に戻った大久保も、5月3日に長崎にかけつけた。しかし、その前日2日、既に谷干城(海軍少将)が、約1000名の兵を率い、台湾へ向けて出発してしまっていた。そこで4日、あらためて長崎現地において、大久保は、大隈、西郷が協議し、不都合が生じたときは一切の責めを負うとの決意のもとに、延期を覆して決行することを決めた。

 西郷は、この決定を得て、残存部隊を率い、長崎を出航、台湾に向かった。22日、台湾社寮(しゃりょう)港に全軍(兵が約2200名、人夫・職人など後方支援要員約800名、総数約3000名)集結して行動を開始し、いたるところで村落を焼き払い、6月3日には原住民の居住地区を制圧した。
 このとき台湾原住民の犠牲者の数は、はっきりしないが、23日の石門掃討作戦において「我凱旋兵は12 の首級を得、その頭髪を青竹に縛り付け意気揚々之を担いで還った」と、日本軍による首狩りの蛮行の様子を派遣軍医が記録しているところから、推し量るほかはない。
 一方、日本軍の方は、戦死者は十二名、マラリアによる病死者五百数十名であったと言う。
                  (続く)
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明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(3)

 帝国軍隊が、海外で武力行使をした嚆矢は、征台の役であった。その経緯をたどってみることにする。

 1871年11月、琉球の宮古島から本島に年貢を運んで帰路についていた船が遭難し、台湾南部の東海岸・パーヤオワンに漂着、乗組員66名中、54名が原住民に殺害され、残り12名が清国の地方行政機関に保護されるという事件が発生した。
 かつて琉球国は、薩摩藩に服属するところであったから、この事件の報が伝わると、鹿児島県士族は、台湾(蕃族)征伐の声に沸き立ち、自ら出兵することを願い出るもの後を絶たない状況となった。こうした動きにおされて、翌1872年5月、時の鹿児島県参事大山綱良(実質上の県行政責任者)は、政府に次のような建白書を差し出した。

伏して願わくは綱良皇威により、問罪の使を興し彼を征せんと欲す。故に謹んで軍艦を借り、直ちに彼が巣窟を指し、その巨魁をほろぼし、上には皇威を海外に張り、下には島民の怨恨を慰せんと欲す。

 しかし、政府としては、ようやく中央集権国家への緒についた現在、鹿児島県に軍艦を貸して、台湾(蕃族)征伐をさせることなど出来ようはずもない。そこで、政府は、自らの手で、これを決行する検討を始めた。これを決行する上で、最大の難問は、清国の出方であった。台湾は、清国の領土であるから、台湾(蛮族)征伐が、清国との戦争に発展するようなことは避けなければならない。そこで、清国の出方を確かめる必要があった。

 少し時計を巻き戻すが、日清間で、日清修好条規の締結交渉が始まったのは、1870年8月のことである。外務省の権大丞というから局長クラスにあたると思われる柳原前光らによる予備折衝を経て、1871年4月、大蔵卿伊達宗城が全権大使となって、清国に乗り込み、清国側全権大使李鴻章との間で、交渉を重ねる。ようやくにして締結・調印に至ったのは同年7月であった。これは、相互尊重、相互援助、全権公使の交換、相互の開港場(横浜・神戸・上海・寧波など)での交易、相互の領事裁判権の行使に承認しあうもので、本文18条、付録の通商規側・海関税則33款からなる完全平等条約であった。
 これに対して、パークス不在の間のイギリス公使の代役を務めていたアダムズ代理公使が、相互援助の条項が「攻守同盟」と解される余地があるとの懸念を表明、その批准に待ったがかかった。政府内からも、最恵国条項や内地通商条項がないことに異論がでた。しかし、紆余曲折の末、、政府は、結局、これを批准することに決し、1873年3月、副島外務卿を批准書交換のため、清国に派遣した。

 その際、副島は実に巧妙に立ちまわった。日清修好条規の批准書交換を終えると、副島は、前出の柳原前光を総理衙門(外務省)に遣わし、琉球・宮古島島民の遭難事件を説明させ、犠牲者は日本国の人民だとして、清国側の措置を尋ねさせた。清国側は、蕃族は「化外に置き、甚だ理することなさざるなり」と応じたので、柳原は、ただちに話を打ち切り、副島にその旨報告した。それだけ聞けば十分、これでかの台湾蕃族は清国民ではないし、その住む所は清国の有効に支配する地ではない、無主の民であり、無主の地だから、これに兵を派遣して討つことは、清国が容喙できることではない、こう副島は結論を下したのである。

 イギリス公使パークスは同年3月帰任、副島は同7月帰国、早速、同8月に会談が持たれた。そのとき、副島は、清国との話し合いで、清国は、かの台湾蕃族の行為には何の責任も持てない、日本政府がこれを罰する権利を持っていると答えたと述べ、およそ1カ月後に、1隻ないし数隻の軍艦を派遣しすることになると語ったとのことである(パークスが本国外務省に送った覚書)。

 実際に、台湾(蕃族)征伐が、実行に移されるのは翌1874年5月のことであった。

                    (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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