明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(5)

 征台の役についてさらに補足がある。その後始末である。これは実に興味深い経緯をたどるが、ごくあらましを述べるにとどめよう。

 台湾現地での軍事行動が、6月3日に完了した後も、英国公使パークスから、国際法違反だと厳しい追及がなされた。しかし、矢面に立った岩倉は、①清国は蕃地にたいして何の権利ももっていない、②日本は蕃人を懲罰し、さらに蕃地の秩序維持、再発防止のために必要な一切の措置をとる完全な権利を有している、と突っぱねた。前年3月、副島種臣の使者として、柳原前光が総理衙門(外務省)に赴いた際、清国側は、蕃族は「化外に置き、甚だ理することなさざるなり」と述べたことを論拠にしているのである。

 その一方で日本政府は、7月15日、清国との交渉により、償金を獲得して撤兵するとの基本方針を決定、駐清公使として赴任していた柳原にその旨伝達し、交渉にあたらせた。しかし、当然のことながら、清国側の態度は硬化しており埒があかない。清国側は、前年3月の話自体も否定したのであった。言った、言わない、の水掛け論をしてもどうしようもないし、仮にそのような発言があったとしても、その発言を聞いて直ちに話を打ち切り、その言質を軍事行動の口実に用いるなどという日本側のやり口を清国側が受け入れるとは考えにくい。

 そこで一切の責めを負うと豪語していた大久保は、自ら和戦を決する権を含む文字通りの全権弁理大臣となって、清国にわたり交渉することとなった。その決定をみたのは、8月2日のことであり、16日には、大久保は日本を立った。

 しかし、大久保が出ても交渉が前に進むわけではない。清国側は、自国の領土に不法に侵攻し、軍事行動をされながら、それを不問に付し、あまつさえ償金を払うなど到底できることではない。日本側は、弾劾を受けたまま撤兵するわけにはいかない。いよいよ決裂かという危機に陥る。しかし、いかに強がりを言っても、両国とも、この時期に戦端を開くに至ることなど望んではいない。そこでその間隙をついて、駐清英国公使ウェードが、巧みに仲裁作業を行う。

 実に延々2ヶ月半、清国側から「両便の弁法」(「お互いの顔が立つ方法」という意味だと思われる。)発言を引き出した大久保の粘り(この異様なほどの粘着質には、おそらく清国側も閉口しただろう。)、交渉決裂して帰朝するもやむなしとの揺さぶり、それを上回るウェードによる懸命の仲裁作業、これらの功が実って、ついに10月31日、交渉は妥結を見た。取り交わされた協定書の内容要旨は以下のとおり。

第1条 日本国は、保民義挙の行動と主張。清国は、不是としない。
第2条 清国は日本国に撫恤銀、費用銀を支払う。
第3条 日本軍の撤退期限を同年12月20日とする。
別紙支払証書 撫恤銀10万両 費用銀40万両

 ここに撫恤銀とは、罹災者遺族への給付金であり、費用銀とは日本が支出した諸雑費の補てんである。50万両は当時の邦貨にして約78万円、当時の国家予算における歳入が6000万円ほどであるから、多額というべきか、それほどでもないというべきか、私にはわからない。しかし、大久保は、この結果に満足し、その後政府内における威信を高めたところをみると、全体として首尾よしと評価されたのであろう。期限までに撤退が完了し、金銭の支払いもなされたことは言うまでもない。

 この結果を政府内にあって、ひややかに見ていた人がいる。参議兼海軍卿の勝安房である。

「政府がこの成功で有頂天になり、傲慢なふるまいに出ることをおそれている。しかし、近く予定されている大久保の帰国までは、その傲慢さがどのような方面にあらわれるのか、それを予測するのは不可能である。」(アーネスト・サトウが11月26日、勝を自邸に訪ね、勝の談話を録取した覚書)。

 征台の役に、長くとどまりすぎたようだ。先を急ごう。

                         (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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