明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(6)

(有司専制という名の大久保独裁体制)

 征台の役の後始末である北京交渉を「首尾よく」まとめて、大久保が横浜に帰り着いたのは1874年11月26日のことであった。大久保の威信は高まり、政府は大久保が主導するところとなったが、旧主君で維新改革に対する不平・不満の塊、守旧派の頭目であった左大臣島津三郎久光が目を光らせており、大久保にとっては何かと遠慮がある。その上、征韓派の西郷盛、板垣、後藤、副島、江藤の下野、さらには征台の役に反対した木戸の下野で、政府は弱体化している。そこで木戸、板垣の再登板を図って、1885年1月、はじめに大久保、木戸が、続いて木戸と板垣があいついで会談を持ち、これに引きつづいて翌2月、大久保、木戸、板垣、井上(馨)、伊藤の五者会談が行われた。これらの会談は、いずれも大阪で行われたことから、一般に全体をひとまとめにして「大阪会議」と呼んでいる。

 大阪会議では、以下の4点が確認され、木戸と板垣は、3月にあいついで参議に就任した。

①権力独占を防ぐ。そのため元老院を設け、立法の審査をさせ、他日国会を解説する準備をする。
②大審院を設け、司法権の基礎を固める。
③地方会議を設けて、地方の民情の把握をする。
④天皇の政治への注力を図る。そのため参議と各省長官たる卿とを分離し、内閣は参議のみより構成し、天皇の輔弼に専念する。

 これを受けて、4月、次の詔書が発せられた。

「・・・元老院ヲ設ケテ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼オント欲ス。」
 これが漸次立憲の詔と言われるものである。

 しかし、穏やかな日々は続かなかった。まもなく有司専制という名の大久保独裁政治が始まる(10月、島津、板垣辞職、さらに翌年3月には木戸も辞職)。まさしく勝の「政府がこの成功で有頂天になり、傲慢なふるまいに出ることをおそれている。」との予感が的中してしまう。
 井上清の表現を借りれば、大久保は、不断に対外危機を作り出し、豪気果断、明敏審密の手腕をもって解決を図ろうとしたのである(井上清『明治維新』中公文庫『日本の歴史』20)。

 それを全て述べることがこの小論の目的ではない。テーマの「ニワトリからアヒルの帝国軍隊」に即して、簡単に述べるにとどめよう。
 なお、大久保は、1878年5月14日朝、登庁の途中、島田一良ら6名の士族に襲われ、非業の死をとげたので、これら全てを見届けたわけではない。

(琉球処分)

 まずは琉球処分である。征台の役を通じて、清国も琉球を日本国に属することを認めたと強引に解釈した大久保は、早速、これを名実ともに日本国に属するものとする措置を次々にとった。
 既に、1872年9月14日、琉球王国を改めて琉球藩とし、国王尚泰(しょうたい)を「藩王」とし華族(侯爵)に列せしめる措置がとられていたが、大久保は、1875年7月、腹心の内務大丞(内務省の局長クラスの上席にあたるのだろう。1878年職制改正により大書記官。)松田道之を琉球処分官に任命し、琉球に派遣、清国との冊封と朝貢関係の廃止、明治年号の使用などを厳命させたが、琉球藩王は抵抗し、これに応じようとはしなかった。
 1879年1月、松田は、再度、琉球を訪れ、同様の命令を伝達したが、琉球藩王はこれにも応じなかった。
 3月、松田は、みたび琉球を訪れる。今度は、丸腰ではなく、約160名の警察官と熊本鎮台の兵約400名を率いて。
 4月、松田は、この力で威圧し、琉球藩を廃止、沖縄県設置、さらに5月、尚泰を上京させた。
しかし、王族や士族の清国への亡命などによる抵抗が続き、農村の地方役人層にまで抵抗が波及(県政加担者を殺害した「サンシー事件」など)。

 この琉球処分と呼ばれる強硬措置は、後の日清戦争の要因の一つとなったのである。

                           (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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