明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(2)

 「明治六年の政変」の意味、西郷がそこでめざしたものを解明するには、西郷が政府に加わる直前及びそれ以後、国政運営上いかなる問題があり、西郷はどのような問題意識を持っていたかを検討してみる必要がある。

 西郷が政府に加わる直前

(有司専制への歩み)

 1870年8月23日東京・集議院(公議所改め)の前で、わが国初代の文部大臣として名高い森金之丞有礼の実兄である元薩摩藩士横山正太郎が割腹自殺を遂げた。そのとき横山は、直訴の形式を踏まえて、一通の建白書を携えていた。それには以下の如き激烈な政府批判の条々が記されていた(原文をわかりやすく書き換えた。)。

① 大臣からして驕り、浪費、贅沢を尽くしている。上(かみ)は朝廷を誤らせ、下(しも)は貧しき者の飢餓に気付かない。
② 上位・下位の役人は華美となり、実利を得ることに汲々とする。
③ 朝決めたことを夕方には変える。万民疑い、寄る辺を失う。
④ 駅ごとに運賃を増やし、その上5分の1も税金を加算する。
⑤ 正直者を尊重せず、小器用な者を尊重する、廉恥の心を重んじない。
⑥ 官職に相応しい人を求めず、人のために官職をつくる。官職にあるものはただ上の言いなりである。
⑦ 酒食の交わりを重んじ、人としてなすべき交際を軽んずる。
⑧ 外国との条約がいいかげんなため常に争いを生じる。
⑨ 罪刑の法典がなく、賞罰は好き嫌いでなされる。そのため私的な恨みで冤罪を着せられる者もいる。
⑩ 上も下も自己の利益だけで動き、国は危うい。役人たちは恣意的で勝手なことをする。


 同じ薩摩藩出身の大久保利通は、この建白書の内容を知って「忠志感ずべし」ともらしている。心打たれるものがあっただろう。しかし、ここで批判の対象となっているのは、大久保が起草し、1869年8月、三職(大臣、納言、参議)各自署名した次の四箇条の誓約書によって運営される自らの政府に対するものであることを、大久保は忘れているようだ。

第一 機密厳守
第二 三職の熟議こそ意思決定の要諦である。
第三 三職の共同責任
第四 三職は、月に数度は各自の自宅を訪問しあい、親密にならねばならない(要するにお互いに飲食を供しあうということだ。)。


 このようなことを通じて、一部の者の専権体制を生み出すことになる。有司専制は、既にその歩みを進めていたのである。

(西郷自身の問題意識)

 では西郷自身はどのような問題意識を持っていたのであろうか。

 西郷は、1868年秋以来、鹿児島に帰り、しばらく湯治などで羽を休めた後、鹿児島藩の顧問、大参事として、藩政改革にいそしんでいた。もっとも政府からは度々出仕の要請があり、その都度断っていたものの、政府の動きはウォッチしていたものと思われる。
 そんな西郷のもとを訪れ、その話を直接聞いた人物がいる。英国公使館書記官アダムズである。アダムズは、1871年1月9日から1週間ほど鹿児島に滞在し、情報収集を行っている。アダムズによると、西郷の側近の有力者(実は弟従道であった。)を通じて、西郷の考えを聴取したとのこと、パークス公使に『薩摩藩の現状』とタイトルを打った覚書を提出している(1871年2月8日付パークスの本国外務省への報告書添付文書)。それによると西郷は次のとおり語ったとのことである。

 「中央政府は混乱を極めている。あまりに違った意見が多すぎる。今日有る計画が採用されても、明日になると別の計画が採用される(朝令暮改)。何人かの公卿たちがあまりにも強大な勢力を持ち過ぎている。かれらはまったく実務の経験がないので、右顧左眄するだけであり、その結果何事もなしえない。莫大な金が無駄に消費されている。このような制度がつづくならば、日本は一文無しの国になり下がるおそれがある。」
 「鉄道建設は、江戸・横浜間の短距離なら異議はない。しかし政府の手持ち金はわずかなのだから、長距離の鉄道建設は図るべきではない。もっと別の政策に力を注ぐべきである。」
 「あまりにも重税が課せられているために、その日の暮らしにも困る国民の利益のために、他に実行すべきもっと重要な政策がいくらでもある。」


 西郷は、多少控えめに語ったようだ。アダムズより3カ月前に、庄内藩の藩士一行40名程が鹿児島藩を訪問、西郷と面談している(藩士の中には、戊辰戦争の際に、西郷の寛大な処置に感動し、西郷を慕う人たちが多かったようである。)。彼らに西郷が語ったことは、もっと辛らつである(庄内藩士犬塚勝弥の藩主酒井忠篤に提出した報告書『薩州滞留中の大略』。)。

 「朝廷のお役人は何を致しておりそうろうと思いそうろうや、多分は月給を貪り、大名屋敷に住居致し、何一つ職事あがりもうさず、悪しく申せば泥棒なり。」
 「文明開化と申す事は、はばかりながら当今の勢いに御座なくそうろう。右手に筆をとり、左手に剣をおさげなされそうろうお気持ちにて、今一度御革政遊ばされそうろう上に、自然文明の勢いに立ち至るべきことと申されそうろう。」


 さて、アダムズが鹿児島を去って約1カ月、1871年2月7日、勅使岩倉具視(大納言)が、鹿児島入りし、西郷に政府に出仕することを求めた。これに応えて、西郷が決断を下して、上京するのは、3月21日のことであった。

                          (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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