明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(21)

(明治六年の政変とは一体何だったのか)
―「蜘蛛の糸の巻きあい」の如くもつれた対立と抗争の再確認とその後―


 ここで明治六年の政変をひきおこすことになった「蜘蛛の糸の巻きあい」(大久保の表現)の如くもつれた対立と抗争を再確認しておこう。

① 木戸の急進的改革志向とそれに反発する漸進改革の大久保の対立。
② 留守政府の約束に反した急進改革の推進とこれに反発する使節団主要メンバーの対立、感情のもつれ。
③ 留守政府における旧肥前、土佐藩勢力の台頭、旧長州藩勢力の凋落、旧長州勢力に対する江藤率いる司法省の追及
④ 留守政府が、太政官制を改革し、有司専制の基盤を掘り崩してしまったこと。
⑤ 副島の外交姿勢

 これらは政変の結果、どうなったか。

 ①については大久保のヘゲモニーの確立、木戸のフェイドアウトによって解決を見た。

 ②は使節団主要メンバーの圧勝により決着した。

 ③については旧肥前、旧土佐藩勢力地滑り的退潮、旧長州勢力の復権(大久保の後継者は伊藤という路線も確立した。)、司法省による追及の頓挫により解決した。それにより、井上も槇村も逃げおおせることができた。

 井上は、1873年5月9日、外務大輔を辞職し、政府を去っていたが、1875年1、2月の大阪会議の根回しをして、政府への影響力を確保、1876年2月、江華島事件の処理においては弁理大臣の黒田清隆を補佐する副使となって朝鮮との交渉に当たり、日朝修好条規を締結させるのに貢献した。その後、井上は、しばらく外遊をしたあと、1878年6月、伊藤の要請を受けて参議兼工部卿に就任、翌1879年9月、外務卿へ転任。明治十四年の政変では、伊藤の盟友として、大隈追い落し一役買った。

注:政変直後の11月1日、井上は参議兼工部卿となった伊藤に次のような書簡を送っている。熟読玩味して頂きたい。利権あさりの催促状である。わが世の春を謳歌する井上の顔が目に浮かぶようである。

 「・・・早速ながらわがままがましくそうらえども、工部卿職に対しそうらいて申しあげそうろう。諸鉱山への税御免と□□(破損により不明)鉱山だけは是非とも生(:井上のこと)へおうせつけられたく願い奉りそうろう。また飛騨高山鉱山の儀は小民稼ぎ(小規模経営という意味)に従来の弊多くこれありそうらえども、充分見込みもこれありそうろう山にそうろうあいだ、一応鉱山寮に(工部省の部局である)のものにお引けあげ下されそうらいて、わが会社へお任せ下されそうらえばありがたく存じそうろう・・・」


 山縣は、1873年4月18日、あいつぐ不祥事と自身に対する疑惑の責任をとり、一旦、陸軍大輔を辞職したが、その後間もなく、西郷に救ってもらい、同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理。)に就任(同年6月には正式に陸軍卿となる)、やがて帝国陸軍と近・現代日本の政界に、長州閥という魔物を埋め込むことに貢献することとなった。

 ④については岩倉の閣議決定無視、太政大臣の上奏権の不可侵なる言動により、内閣・閣議を国政の最高意思決定機関とした1873年5月2日改正の太政官職制を失効せしめ、太政大臣(もしくは左右大臣)の上奏権と輔弼専権が再確認された。有司専制は復活した。

 ⑤については、副島の退任により、外交姿勢は転換されることになった。
 副島の外交姿勢というとき、朝鮮への大規模侵攻論だけではなく、外国人の国内旅行の自由を求める諸国との交渉姿勢もその中に入る。安政以来の、修好通商条約では、締約国の諸国民の移動範囲を開港場から10里以内と制限していたが、これを撤廃し、これら諸国民の内国旅行の自由を求める声が諸国外交団から上がっていた。副島は、これを容認することに前向きであったのである(パークスの1873年12月8日付本国外務省への報告)。
 政変後、外務卿に就任した寺島は、11月8日に行われた諸外国代表との会談で、副島の下で煮詰められつつあった「内地旅行規則案」について論議することを拒否した。その弁を確認しておこう。

「(超訳要旨)各国は風俗・文化を異にしている。だから各国民に内国旅行の自由を認めるのは不都合である。治外法権の下でも外国人の内国旅行の自由を認めている国もあるが、わが国は、そうした諸国の経験を研究した上でなければ交渉には入れない。」(日本外交文書第6巻)。

 やがて時代は、明治憲法の制定、国会開設へと進んで行く。この近代日本の立憲政治の草創期が、伊藤のような政治家に道筋をつけられたことは、私たち現代を生きる者にとって幸せであったのか、不幸であったのか、それは現在の政治状況の評価とともに各人各様の考えとなるのであろうが、私は、不幸であったと考える一人である。

 明治六年の政変、明治十四年の政変により、フランス流立憲政治、アメリカ流立憲政治、イギリス立憲政治、いずれにも向かい得る多様な可能性は消去され、プロシア流の疑似立憲政治へと選択肢が絞られた。法律によっていかようにも制限できる「自由」と「権利」、万世一系の天皇の大権、統帥権の独立。その下でわが国は、産業の発展と軍事大国化の道をひた走り、植民地と市場の確保のために軍事力を行使し続ける。気づいてみれば、軍国主義、ファシズムが席巻し、アジア全域を侵略し、世界を相手に無謀な戦争へ突入に突入していた。
 しかし、敗戦によって、その道が完全に断ち切られたわけではない。今も、わが国民は、疑似立憲政治の呪縛から解き放たれてはいないのである。

          (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(20)

(明治六年の政変とは一体何だったのか)

 再び前出の高等学校用教科書を見てみよう。そこには、「征韓論が否決されると西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣らの征韓派参議はいっせいに辞職した(明治六年の政変)」と記述されている。この説明、明治六年の政変とは、征韓論を否決された筆頭参議西郷以下の合計5参議が辞職して下野したことだという説明は、一般に広くゆきわたっているものと思われるが、ここまでお読み頂いた方には、誤りであることはもうおわかりであろう。
 このような説明が誤りであることは、翌1875年5月に征台の役が敢行し、さらにその翌年9月に江華島事件を引き起こした政変後の「反征韓派」の率いる政府の実際の行動が、何ものにもまさって顕著な証明となる。

 あらためて確認しておこう。明治六年の政変とは、以下のようなことであった。

 1871年8月、三条、岩倉、西郷、木戸、板垣、大隈によって構成される政府(大久保は大蔵卿として大きな力をもっていたが、参議ではなかった。)が発足して以来、とりわけ遣外欧米視察団出発以来、急進的改革が累次積み重なり、同使節団全員が帰国した直後の1873年9月中旬の時点で、蜘蛛の糸の巻きあいといった具合に、もつれにもつれてしまった政権内部の対立と抗争を、遣朝使節派遣問題に焦点をあわせ、西郷が用いた「レトリックとしての使節暴殺論」を逆転させ、使節派遣=即時開戦との論をたてて、遣朝使節派遣を延期=拒否し、西郷と西郷を支持する参議らを失脚させることによって、漸進改革の提唱者である大久保を中心とした政権に一新する、同時に、有司専制なる少数者の密室政治を復活させ、確立させる、これが明治六年の政変である。

 狂言回しは伊藤、主役は大久保、脇役は岩倉、ピエロを演じさせられたのは三条、木戸は舞台の袖に立ったものの、間もなくおりてしまう。

注:木戸は、1874年4月、征台の役に反対して参議兼文部卿を辞職、以後1875年1、2月の「大阪会議」後、同年3月に一旦参議復帰、翌1876年3月再び辞職。1877年5月26日、西南戦争のさなか、西郷と政府の双方を案じながら死去。享年45歳
 
 大久保、木戸と、傑物はあい並び立つことはあり得ないとの通則がここでも貫徹したのか、二人は、結局、あい並び立つことはなかった。

 イチかバチかの大ばくちを仕掛けた、伊藤、大久保。勝負は、彼ら胴元側の大勝利のうちに終わった。このときの勲一等により、大久保のあとは伊藤という道筋もつけられ、実際、1878年5月14日、大久保が非業の死を遂げた後、実際、そのとおりになって行ったのである。やがて、伊藤には、名実ともに第一人者となるためには、ひたひたと追走する参議兼大蔵卿大隈を振り切ることが課題となる。それをやりとげるのは明治14年10月のこと、明治十四年の政変である。苦節十年、深謀遠慮、積極果断、まことの策士ここにあり、である。

補遺―明治十四年の政変

 ここで少し脱線するが、明治六年の政変の狂言回し・伊藤という人物評価に関わることであるから、明治十四年の政変について若干解説しておこう。

 1877年2月、鹿児島の郷里に隠棲した西郷を巻きみ、九州地方を戦乱の渦に投じこんだ西南戦争は、同年9月、大久保率いる中央政府の勝利のうちに終結した。しかし、その後遺症はその後の明治政府に重くのしかかる。上述のごとく大久保暗殺もその一例であるが、それ以上に深刻であったのは、西南戦争の戦費調達のための政府財政のひっ迫とインフレ・米価高騰の進行による自作農、中・上層農民の富の富裕化(地租は地価の100分の3、金納であるから、米価高騰による利得は、自作農、中・上層農民の手元に集積する。)と江戸時代と変わらぬ割合の現物納付を強いられる小作農民、賃金・給与、日銭稼ぎの都市生活者(彼らはインフレと米価高騰の直撃を受ける。)など一般人民の生活の窮乏化であった。

① 政府財政のひっ迫に関して言えば、大蔵省部門を管掌する参議・大隈(この時点では、参議、各省長官兼任制度は改められていた。)は、財政積極論の立場から5000万円(当時の歳出予算の8割程度、地租収入の1.3倍)の導入を主張した。これに対して、伊藤は反対であった。しかし、反対派は参議の中では少数派であったため、岩倉を走らせて、問題を天皇の裁可にゆだね、結局、外債不可との「勅諭」を得て、大隈の主張を排斥した。
 それでは財政の手詰まりをどう打開するのか。結局、緊縮財政政策しかないことになる。大隈も一旦は、引きさがり、これに従うことになる。しかし、折からのインフレを追い風に、積極財政をとって殖産勧業を図るべしと考える大隈は、やがて早期に国会開設し、公議輿論を吸収した安定政権を確立し、外債を導入するという方向に活路を見出そうとする。

② 富裕化した自作農、中・上層農民の資金力は、農村を地盤とする民権運動を高揚させ、一般人民の窮乏化は、反政府の機運を高め、これまた民権運動に結集してゆく。1879年11月、板垣退助率いる愛国社は、大会を開いて、民選議院設立請願運動を展開することを決めると、全国津々浦々から、請願運動が澎湃として沸き起こる。民権運動は、これを機に空前の盛り上がりを見せる。

③ こうした民選議院設立請願運動の高まりを見て、政府は、一方で懐柔・譲歩、他方で弾圧、つまりアメとムチの対策をとった。
 アメは、同年12月、伊藤の主導の下に、左大臣有栖川宮熾仁名義で、各参議から国会開設についての意見書提出を命じ、政府主導で国会開設の先鞭をつけようとしたことである。これに応じて提出された各参議の意見は、一部は時期尚早論、多くは漸進論であった。
 ムチは、1880年4月5日太政官布告第12号「集会条例」であった。これは政治集会を許可制とし、所割警察署の自由裁量に近い拒否権を認め、集会開会後であっても立会警察官に解散権限を与え、違反者には罰金、禁獄の罰則が科されるという集会の自由を奪うに等しいものであった。

④ 大隈は、早期国会開設論と立憲政体としてイギリス流の議院内閣制をとるべき固めたが、意見書の提出を控えていた。これにより政府内の対立が先鋭化することを避けようとしたのである。しかし、有栖川宮からの重ねての催促を受けて、意見書の内容を他の参議に明かさないとの約束のもと、ようやく1881年3月に意見書を提出した。
 その内容は、年内に憲法制定、政体は政党本位の議院内閣制とする、翌年末には国会議員選挙、2年後国会開会という急進的なものであった。
 その内容に驚いた有栖川宮は、約束に反して、三条、岩倉に相談、伊藤もその意見書を閲読するに至る。伊藤は憤然として、大隈を切るための陰謀をめぐらし始める。

注:松本清張『象徴の設計』(松本清張全集17・文芸春秋社)の中で、伊藤が山縣自慢の邸宅・椿山荘に山縣を訪れて交わしたやりとりが出てくるので抜粋してみよう。山縣は、このころは参議兼参謀本部長であった。

(伊藤)「狂介、あとはおぬしに頼むよ」と言った。有朋にはなんのことかわからなかったが、伊藤がそれから言いだしたことは悉く彼の胸に響いた。
(伊藤)「今も言うたとおり、大隈は頭の悪い奴じゃが、目先は利いとる。あいつの議論は、みんな若いもんから取って来とる。そこで・・・そこで、俺が考えるには、大隈を台閣に置くと、将来物騒でいけん。いい加減なところであいつを引きずり下ろそうと思っちょる。」
(中略)
(伊藤)「だが、もし、板垣と大隈とが手を握って、全国的に自由民権の火を大きくしたら、こりゃアもうわしの手に負えぬ。そこで、狂介、おぬしが最後の締め括りをしてくれと頼んだのじゃ。おぬしさえ引き受けてくれたら、わしは安心して下野した大隈を生け捕ることができる。
(山縣)「あとを頼むというのは、これのことか?」と山縣は坐ったまま腰のサーベルに手を当てる真似をした。
(伊藤)「そうだ。おぬしにそのほうをしっかり頼んでおきたい。そっちさえ引き受けてくれたら、わしはあんな連中の反政府運動ぐらい水をかける自信は十分にある。」

 伊藤は、山縣に、大隈を切った後、板垣、大隈が共闘して反政府運動が拡大した時、軍事力による弾圧を求める。山縣は、これを引き受ける。なにやら若いころ、江戸・御殿山に新築中のイギリス公使館を焼き討ちした頃のテロリストの姿を彷彿とさせるではないか。私には、このやりとりがフィクションとは思われぬ迫真性をもっているように思えてならない。 

 
 結局、伊藤は全参議を糾合し、再び岩倉と結託し、岩倉をして、折から発生した(北海道)開拓使官有物の払い下げ問題(開拓使の存続期間満了をもって、時価3000万円相当ともいわれた官有物を、わずか30万円で、しかも30年間無利息割賦払いという、現代の森友学園国有地払い下げ問題など足もとにも及ばない巨額の国家財産簒奪事件。開拓使長官が黒田清隆、払い下げを受ける者が五代友厚、いずれも旧薩摩藩出身であることから連日新聞紙上をにぎわした。)で、大隈が情報操作をして、騒ぎを大きくし、早期国会開設の自論を有利に導き、政権基盤を確保しようとしているなどと天皇に讒訴、参議罷免を上奏させるに至った。

 大隈は涙をのんで、同年10月11日、辞表提出、翌日、これを受理するとともに開拓使官有物払下げは取り消し、あわせて「明治23年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志をなさんとす」との勅諭(国会開設の詔)が公布された。

 大隈が追い落とされた翌年、1882年8月5日、戒厳令が制定された(太政官布告第36号)。これはたまたま時期がそうなったものではないことは、衆目の一致するところであろう。

 こうして見ると、明治十四年の政変は、明治六年の政変の規模の小さいリフレインであったといえる。伊藤の奸知がますます冴えわたっているのが見えるようだ。

                               (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(19)

(明治六年の政変―それでも8月17日の閣議決定は維持された)

 15日の閣議には、木戸は引き続き欠席、西郷は、前述のとおり「始末書」を提出し、欠席した。
 「始末書」全文をもう一度読み返して頂きたい。前日の、岩倉、大久保の意見に対する極めて説得力のある反論となっていることが確かめられるであろう。さすがにこのような反論にあっては、伊藤、大久保の手を尽くした準備も、大久保の死を賭したかのようなおおげさな覚悟も、水泡に帰することになること必定である。

注:大久保は14日の閣議出席に際し、「小子が憂国の微志を貫徹して、各々奮発勉強、心を正し知見を開き、有用の人物となりて国のために尽力して、小子が余罪を補う」との決死の覚悟を示した書面を残している。

 あにはからんや、閣議はまとまらず、三条、岩倉の評議、そして三条の裁断に委ねられる。その結果、悩みに悩んだ末、三条のくだした裁断は「実に西郷進退に関係そうらいては御大事につき、やむをえず西郷見込みどおりに任せそうろうところに決定致しそうろう。」(原文をわかりやすく表記した。)であった。

 議論の限りでは、8月17日の閣議決定をひっくり返すだけのものは何もなかった。むしろこれを維持しようとする西郷の正論がはるかに勝っていた。伊藤の絵に完全には乗っていなかった善人三条の裁断に委ねられた以上、これはあまりの当然の裁断であった。
 この裁断は、再開した閣議で全員一致承認された。大久保も「御異存は申し上げず」と、これに従ったのであった。

 ここに伊藤の描いた絵は、単なる絵で終わる運命となったかのように見える。

(逆転のシナリオ。驚くべき陰謀と奸知)

 しかし、事実は小説よりも奇なりであった。

 三条、岩倉は、大久保に、参議就任受諾時に確認したことが貫徹できなかったことを必死に謝罪する。

三条 (超訳要旨)もともと最初の軽率な行動が今日の事態をまねいてしまった。このうえは僕が軍隊を率いて戦う(10月15日付大久保宛て三条書簡)。

岩倉 (超訳要旨)弁解のしようがない。めんぼくない(同岩倉書簡)。

 しかし、大久保は、このような謝罪を受け入れて事をすますほどの小人物ではない。大久保は、あるいはこうなることも予測のうちにはいっていたのかもしれない。16日は悠然と囲碁に興じ、翌17日から大久保は、一転して忙しく動き回る。一度は「御異存は申し上げず」と従った三条の裁断、閣議決定をひっくり返すべく、決然たる行動に打って出るのである。

 17日朝、三条を訪ね、辞表提出。おそらく伊藤が根回しをしたのだろうが、木戸も同日三条に辞表提出。さらに、おそらく大久保、木戸、伊藤の三者と示し合わせてのことであろうが、岩倉も三条に辞意を表明する。
 「御小肝」で全くの善人・三条はこれによって精神の錯乱を引き起こし、執務不能になる。ここで伊藤が新たなストーリー描く。宮中の要人を動かして岩倉を太政大臣代行に任命させ、天皇への上奏手続きを三条にかわってとらせるという秘策だ。大久保は、これを「ただ一つの秘策」として採用、勇猛果敢に突進する。岩倉を叱咤激励して、「断然奮起」を約束させ、旧薩摩藩出身の宮内少輔吉井友実に働きかけ、宮内卿徳大寺実則を説得して、とうとう岩倉を太政大臣代行職につけてしまった。
 あとは岩倉がどこまで頑張れるかだ。大久保は、岩倉に、「丁卯」(1867年、慶応3年のこと)以来、王政復古、戊辰戦争から維新変革に至るまで、ともに手を携え、苦楽をともにしてきたことを思い起こさせ、今日(こんにち)の奮起を促す。岩倉も、今度こそは動揺しないことを確約する。

 こうした事態を知って、副島は、再度閣議を開くことを岩倉に求めた。しかし、岩倉は、これに応じなかった。そこで22日、西郷・板垣・副島・江藤らは岩倉邸に押しかけ、10月15日の遣朝使節派遣の閣議決定を早急に上奏するよう要求した。

 しかし、岩倉は、西郷ら各参議に、使節派遣を可とする意見と、これを不可とする意見の太政大臣代行としての意見の双方を上奏し、宸断(天皇の決定)に任せると申し渡す。各参議は激しく抗議するが、岩倉は押し切った。これにより10月15日の閣議決定は、岩倉の一存で、反故にされたも同然のこととなってしまった。

 天皇の宸断は、24日に下るが、西郷はそれを待たず、勝負あったとばかりに23日に辞表提出。その辞表には、ただ「胸痛のわずらいこれあり。とても奉職まかりありそうろう儀あいかなわず」としたためてあったに過ぎない。まことに西郷らしい散りざまではないか。
 辞表は同日受理、あわせて近衛都督(陸軍の実質的な長)の任も解かれた。かくして西郷は、「帰りなんいざ」、と鹿児島へ引きあげ、かの地にひっそりと引きこもることになる。西郷の名が、再び政界をかけめぐるのは、西南の役まで待たねばならなかった。
 西郷に続いて、24日、板垣、後藤、副島、江藤が辞表提出。26日受理となった。
 その前に出されていた木戸、大久保の辞表は受理されず、参議としてとどまることになり、最初から大久保に同調した大隈、日和見的態度をとって最後は大久保に同調した大木の両名も残留、4参議の辞表受理と同時に新たに伊藤、勝安房、寺島勝則が新たに参議就任、政府構成は一新されることとなった。
 このときから、大久保の意見により、参議は各省長官を兼務することになった。それは以下のとおりである。

木戸    参議兼文部卿
大久保   参議兼内務卿(11月、内務省新設後)
大隈    参議兼大蔵卿
伊藤    参議兼工部卿
大木    参議兼司法卿
寺島    参議兼外務卿
勝      参議兼海軍卿

注:内務省は、大蔵省の勧業、戸籍、駅逓、土木、地理の各寮(「寮」は現在の「局」に相当する。)、司法省の警保寮、工部省の測量司(現在の国交省・国土地理院の前身)の六寮一司からなり、その職掌範囲は、地方行政、警察行政、衛生行政、土木行政、社会政策などに及ぶ。内務省は、戦前、省庁の中の省庁として大きな権力を振るった。

以上の政変は明治史上、最大規模でかつ最もドラマチックなものであり、後世、これを称して「明治六年の政変」と呼びならわすことになった。

                                    (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(18)

(明治六年の政変―決戦の火ぶたは切られた)

(大久保おおいに発奮、しかし論理矛盾は明らか)

 大久保は、逃げ回った挙句、ころあいを見はからって、十分に自分の価値があがったとほくそ笑みつつ、10月10日、ついに参議就任を受諾する。しかも、実に、恩着せがましく二つの但し書き条件を付して。

 一つは、三条、岩倉に、自分は遣朝使節派遣延期のために働くがそれはあなたがたの命に従ったまでのこと、そのことを忘れないで欲しいと念を押し、確認してもらうこと。大久保の10月10日付岩倉宛ての書簡には次のように書かれていた。

 「(超訳要旨)遣朝使節派遣延期とすることをしたためた書面拝読。この命に従い、参議受諾し、身を粉にして働きます。」

 もう一つは、大久保任命と同時に外務卿副島も参議に任命し、かつ参議ではない伊藤にも閣議列席を認めよということ。

 このような二つの条件は、多少うがった見方かもしれないが、万一事が成功しなかった場合のことをおもんぱかって責任のがれのための予防線を張り、かつ外交案件を紛糾させてきた副島を、同時に切り捨てるためだったのであったと私は考える。

注:副島は、日清修好条規の批准書交換を表向きの任務とし、台湾問題に関して清国と談判するとの密命を帯びて、1873年3月から7月まで全権大使として清国を訪問したが、このとき、清国との間で、任務にはない朝鮮問題を話し合い、自説を述べたことで、政府部内で、余分のことを話過ぎた(大言壮語だった)との批判を受けていた。また副島は、安政以来の修好通商条約締結諸国の人々の内地旅行の自由をめぐる交渉において、それを容認する姿勢を示していたことについても政府部内で批判を受けていた。

 大久保、副島の二人が参議に任命されたのは、大久保が12日、副島が13日のことであった。こうして大久保は、後顧のうれいなくその力を発揮する舞台を確保することになった。三条、岩倉を叱咤激励して、遣朝使節派遣阻止そして伊藤の描いた絵の実現に邁進していく。

 かくして決戦の火ぶたは切られた。14日の閣議である。発言の主なものを以下にあげてみよう(要旨)。
 なお、木戸は前述のとおり、欠席であり、意見を述べていない。

西郷  8月17日の閣議決定を確認し、遣朝使節派遣を求める。

岩倉  樺太問題が先だ。遣朝使節派遣は、開戦に直結する。延期するべきだ。今、使節を送り、開戦した場合、財政、内政、外交に困難をもたらす。戦争準備を整えてからにすべきだ。

大久保 遣朝使節派遣は、即開戦となるので延期すべきだ。今、使節を送り、開戦した場合①戦争の混乱に乗じて不平士族の反乱がおこる、②数万の派兵と巨額の戦費調達は人民の生活を苦しめ、騒擾をひきおこす、③戦争は財政面から政府を崩壊させる、④戦争は軍需品の輸入増大をもたらし、経済をかく乱する、⑤朝鮮との戦争はロシアに漁夫の利を得させる、⑥戦費調達のために巨額の外債を必要とし、既存の外債の償還にも影響し、イギリスの介入を招く、⑦条約改正問題を抱える今、朝鮮戦争はマイナスで、国内体制の整備につとめるべきだ(大久保利通建白書に基づき陳述)。

江藤  遣朝使節派遣と樺太問題とは次元の異なる問題。前者は国と国との関係の問題。後者は民と民とのトラブル。遣朝使節派遣即開戦なる論は、既に朝鮮とは戦端を開くべき事態にあることを前提とするもの。それでありながら戦争準備が整うまで使節派遣を延期せよとは論理矛盾ではないか。

注:江藤は、岩倉、大久保の論理矛盾をついているだけで、朝鮮問題について自らの立場を明示していない。後日の行動、それも一般に流布している物語から、この議論当時も彼が征韓論者であったと断じることは避けたい。

 この議論の状況をどう見るか。人によって見方は異なるかもしれない。しかし、私は、岩倉、大久保の論は、それこそまさに征韓論(先に定義した「武力で威嚇をし、あるいは武力を行使して、朝鮮を屈服させるべきだという政論」)ではなかったかと思うのであるが、いかがであろうか。
 それはともかくとして。さすがにこの日は決議にはいたらず、閣議は、15日に続行されることとなった。

                                  (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(17)

(明治六年の政変―伊藤が描く大久保を軸とする政権構想)

 この頃の伊藤は、未だ西郷、木戸、大久保ら維新三傑の後塵を拝する位置にあり、官職も、一工部大輔に過ぎない。しかし、後に稀代の策士いわれることになる人物だ。早くも、この時期に、その片鱗をあらわしている。伊藤を「知の政治家」と高く評価する瀧井一弘は、この時期の伊藤の働きぶりについて、「松陰が認めた『周旋家』の面目躍如である。だがそのような活動の裏には、『制度の政治家』のパトスが脈打っていることを忘れてはならない。」と述べているが、(『伊藤博文―知の政治家』(中公新書))、私に言わせれば、「策謀をめぐらす政治家」伊藤の真骨頂を見たというのが適切なように思われる。

 伊藤は、師匠の木戸が、意気消沈し、辞職したいなどと漏らす中、頻繁に木戸を訪問して情勢報告をして、その奮起を促す一方で、岩倉、大久保をも度々訪ね、大久保を軸とする政権構想を描いていく。

 以下に伊藤の9月27日付、三条、岩倉宛ての手紙の文面を紹介しておこう。

 「(超訳要旨)重大切迫する事件が数々ある。これを乗り切るには、木戸、大久保の共同と、三条公、岩倉公の合力が必要。そのためには、まず大久保を参議に任命されたい。」

 ただ、一点、注意を促しておけば、三条、岩倉、木戸、大久保の四巨頭の一致協力を要請しているのは、数々の重大切迫する事件に対処するためであって、遣朝使節派遣問題に焦点があてられているわけではない。

 かくして傍観者たらんとしていた大久保の参議かつぎ出し作戦が始まる。しかし、肝心の大久保は、三条、岩倉の参議就任要請を頑なに拒み続ける。どうも、島津久光の嫌忌を気遣っていたようだ。そういう趣旨のことが、三条から岩倉に差しだした手紙に書かれている。三条は、お手上げだのようだ。
 伊藤は、数々の重大切迫する事件を乗り切るためなどと、漠然とした目的を挙げていたが、その程度のことだけで大久保を説得するのは難しいということを思い知らされた。

 このままでは伊藤の画策も頓挫したかもしれない。

 丁度そのころ、西郷から三条に、内定していた遣朝使節派遣を閣議で確定させるようにとの厳しい催促がなされた。数度に及んだようだ。あせった三条が「困ったものだ」と岩倉に愚痴をもらした。9月28日に、三条は岩倉にそういう手紙を書いている。
 このあたりから遣朝使節派遣をとりやめにするという具体的目的が、伊藤の描く政権構想にはっきりと据えられることになる。伊藤は、その一方で、使節団留守中に新任された後藤、大木、江藤の三参議を解任し、そのかわりに大久保を新たに任命するという人事構想をも描いている。実際に、そのことを大隈に打診し、その同意も得られたとして、直接、三条、岩倉にも要請している。これは、10月に入って早々のころである。

 この間、木戸は、前述した如く動くこともままならない。大久保は、参議就任要請に逃げ回っている。まさに伊藤の独壇場である。

 伊藤は、西郷が用いた「レトリックとしての使節暴殺論」を逆転させ、使節派遣=即時開戦との論をたてて、使節派遣阻止の一点で、三条、岩倉、木戸、大久保の四巨頭を結束させ、あわせて参議の人事も一新して、大久保主導の体制を作り上げようとする。

 一点突破、全面展開作戦である。

 その多くはみごとに当たり、実現するが、少しあてが外れた面もある。大木が途中で意見を変えて、大久保につき、参議として残ったことだ。勿論、西郷、板垣も辞職することは、伊藤の絵の中に、あぶり出しの絵として入っていただろう。

 かくして遣朝使節派遣是か非かの議論は、ことさらに対朝鮮開戦是か非かとの極論に歪められて行った。

 ここでついに大久保も岩倉も、伊藤の絵に乗ることになった。おそらくカラクリを十分に理解した上で。一方、三条は、この絵に乗り切ることができなかった。彼は、このような策謀を弄するにはあまりにも善人過ぎたようだ。
                             (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(16)

(明治六年の政変)

(使節団全員帰国。役者は揃った。しかし・・・。)

 大久保にしても木戸にしても、三条の召還訓令により使節団の一行から離れて早く帰国したのに、全く生彩を欠く状態が続いていた。そこに残りの一行がようやく帰国してきた。それは9月13日のことである。役者は揃った。
しかし、それでも大久保、木戸は自ら積極的に動き始めたわけではない。

 精力的に動くのは伊藤である。9月14日、旅の疲れを癒す間もなく、伊藤は木戸のもとを訪れる。経緯を語れば長くなるので省略するが、木戸は、自分にとっては一番弟子ともいうべき伊藤に対し、使節団の中での同人の言動、特に対立関係にある大久保に同人が接近し過ぎていることに不満を募らせていた。それを察知しての伊藤の気配りだったのだろう。心憎いばかりだ。
 さすがに木戸も、その忠勤ぶりに相好をくずしたようだ。当日の『木戸日記』には「伊藤春畝来訪、欧州一瞥以来の事情を承了し、また本邦の近情を話す。」と記されている。

注:春畝(しゅんぽ)とは、伊藤博文の号。「欧州一瞥以来の事情を承了し」という微妙な言い回しに、木戸は伊藤に屈折した思いを持っていたことが察せられる。

 木戸は、翌15日、早速、伊藤宛てに手紙を書く。「(超訳要旨)自分は、岩倉からも留守政府からも信用されていないし、自分も彼らを信用していない、だから辞職したい。」と。一方、大久保のことにはひとことも触れられておらずなく、完全無視である。
 この気弱というか退嬰的というか、舞台から降りかかっているかつての千両役者木戸も、前述「小野組転籍事件」について、自説を吐露する手紙を立て続けに伊藤に送っている。彼は、これまた弟子の槇村らに対する裁判所の強硬姿勢によほど反感を抱いていたようだ。「(超訳要旨)こんなふうに身分ある官員を取り扱ったことは幕府でもなかった、裁判所など天下のためにも人民のためにもならないから廃止した方がよい。」と。

 岩倉も活動を再開する。同日、三条と面談、当面する問題を話し合った。その結果を踏まえであろうか、19日、岩倉は、パリで世話になった駐仏公使(中弁務使)鮫島尚信に書状を書き、当面する重要課題を自分なりに整理している。
その内容は以下のとおりである。
 
 「(超訳要旨)①井上、渋沢らの辞職、これにはいろいろ言われており心配だ。②島津久光の問題は一応おさまったがその進退が懸念される。③農民一揆は落ち着き、今年は豊作であるが、今後も心配なのでおだやかな改革にしたい。④台湾遠征はいずれやらねばならないが、すぐ着手とはならないだろう。⑤朝鮮征伐も同じ。⑥樺太におけるロシア側からの圧迫は放置できない。談判を始め、始末しなければならない。」

注:島津久光の奇行については「留守政府の栄光と混迷」のところで述べた。同人は、鮫島にとっては旧主君筋である。
 
 注目すべきことは、これによると岩倉は、外交案件では、ロシアによる樺太圧迫問題を最重問題と考え、すぐにも交渉開始して始末すべきこととしている一方で、朝鮮問題については「朝鮮征伐」との位置付けをしつつ、いずれ着手する問題だとの認識を示し、西郷遣朝使節派遣問題に一言もふれておらず、そのことを当面解決すべき重要な課題だとは見ていないこと、である。
 
 いずれにしても大久保、木戸、岩倉の言動を見る限り、この9月中旬過ぎの時点で、朝鮮問題を重要問題としていたとは到底認められず、勿論、自説の開陳も一切なされていない。この時点で、10月に起こる政変を予知させるようなものは、微塵も認められないのである。
                             (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(15)

明治六年の政変

(遣外欧米使節団のメンバーの帰国後の動向―先に帰国した大久保、木戸はどうしていたか)

 かの使節団から、三条からの召還訓令により、大久保が取り急ぎ5月26日に、ついで大久保とは別行動をとった木戸が7月23日に帰国したことは前に見たとおりであるが、この二人は帰国後どうしていたのであろうか。

 まずは大久保について。大久保は参議ではなかったが、大蔵卿という重職にあったのであるから、もし政府内の議論に異論があれば、何らかの意見表明ができる立場にあった。しかるに、彼は、君子危うきに近寄らずとばかりに、箱根の温泉につかり、そのあと京都・大阪をめぐる旅に出て、終始、傍観者の立場に身を置いていた。

 大久保は、閣議で、西郷を遣朝使節として送る決定がなされ、天皇の意により内定扱いとなる直前の8月15日、同じ旧薩摩藩出身の陸軍幹部にしてヨーロッパ留学中の村田新八・大山巌宛てに、使節団がパリを訪れた際いろいろ世話になったことを感謝する手紙を送っている。その手紙で、彼は次のように書いている。

 「(超訳要旨)帰国後の政情は私には手のつけようもない状態だ。傍観するしかない。その詳細を書きつくすことはできないので送った新聞を読んだらわかる。使節団も帰れば役者もそろうので、秋には元気も回復するだろう。」

 大久保がここで言っている手のつけようもない状態とは、①内閣が西郷を遣朝使節として送る方向に動いていること、②使節団のメンバーと取り交わした約束に反し、留守政府が急進改革を推し進めてしまったこと、③井上、渋沢辞任を招いた大蔵省の紛糾のことをさしているだと言われている。
 しかし、①については、憶測に過ぎないようである。

 大久保は、それが何であるか明示することなく、送った新聞を読んだらわかるとほのめかしているのであるが、前出の毛利敏彦は、西郷が村田らに送った新聞を該当期間から割り出してしらみつぶしにあたってみたそうだ。そうすると、①の問題は一切記事になっておらず、②の急進的改革の数々とそれに反発する農民暴動、②の大蔵省の紛糾とそれに関連問題などがクローズアップされるとのことである(『明治六年政変』中公新書139頁、140頁)。
 そうであれば遣朝使節問題については、手のつけようもない状態という事項の中には容れていなかったことがわかる。つまり大久保の批判の目は、この問題には向かっていなかったのである。
 彼が批判の目を向けたのは約束に反して急進的改革をどんどん進め、大蔵省を紛糾させ、太政官職制を改正して参議の権限を高め、内閣を国政の最高意思決定機関と位置付け、太政大臣の権限を名目化するような制度改革をした留守政府そのものであったと見るほかはない。

 一方、木戸はといえば、参議であるにもかかわらず、閣議には欠席を続けている。ただ彼は、8月中(日付は特定できない。)に、三条宛て次のような意見書を送っている。

 「(超訳要旨)琉球人を殺害した台湾原告住民懲罰の軍を派遣するのは当然だ。また無礼な朝鮮を討つのは当然だ。しかし、今は財務を健全にし、国力をつけるのが先決問題だからそれらの軍事行動は時期尚早である。」

 これは、軍事行動、即ち征韓実行は時期尚早だというこの意見書は、三条の提出した議案に対する反対を表明するものであったが、西郷の主張する使節派遣に直接反対するものではない。
 
 木戸は、8月31日、馬車から落ちて頭、肩を痛打し、頭痛が続くようになる。そのためかその後も閣議を欠席し続ける。それにしても冷徹な論理の人、木戸らしくもない沈滞ぶりである。これは、体調不良も勿論あるが、おそらく木戸の神経質な心に、既に述べた旧長州藩出身者の凋落と彼らに江藤率いる司法省の厳しい追及の手が迫っていたことが大きな負担となっていたことも一つの要因となっていたのではなかろうか。

                             (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(14)

(征韓論本論―西郷は征韓論者か) その2

 さて、いよいよ8月17日に至る。当日の閣議で、西郷が求めたとおり、西郷を遣朝使節とすることが決定され、三条はこの決定を天皇に上奏したが、天皇は、これを了承した上で、ことは重大なので岩倉らの帰国後に再度熟議し、あらためて奏問すべしと付け加えたとのことである。つまり内定(もしくは内決ともいう。)という取り扱いである。あとはやがて帰国する岩倉の出席する閣議で確定させるばかり、しばらく岩倉の帰国待ちということになった・

 9月13日、その岩倉率いる使節団の残りが帰国する。しかし、三条はなかなか閣議を招集しない。そこで西郷は、三条に対し、閣議を開いて遣朝使節派遣を確定させるよう要請する手紙を度々送る。かくしてようやく10月14日、閣議が開催されることになる。
 そこからの顛末は次章で述べることとするが、西郷は、10月14日に引き続いて行われた翌15日の閣議を欠席し、そのかわりに自分の言い分をまとめた「始末書」と題する書面を提出した。これは西郷の考えを示す重要なものであるから、ここで少し長いが全文紹介しておきたい(原文をわかりやすい表記に改めた。)。

「朝鮮御交際の儀
 御一新のきわより数度に及び使節さし立てられ、百方御手をつくされそうらえども、ことごとく水泡とあいなりそうろうのみならず、数々の無礼を働きそうろう儀これあり、近来は人民互いの商道をあいふさぎ、倭館詰めおりの者も甚だ困難の場合に立ち至りそうろうゆえ、御よんどころなく護兵一大隊差し出るべく御評議のおもむき承知致しそうろうにつき、護兵の儀は決してよろしからず、これよりして闘争に及びそうらいては、最初の御趣意にあい反しそうろうあいだ、この節は公然と使節をさし立てらるる相当のことにこれあるべし、もし彼より交わりを破り、戦をもって拒絶すべくや、その意底たしかにあいあらわれそうろうところまでは、尽くさせそうらわでは、人事においても残るところこれあるべく、自然暴挙もはかられずなどとの御疑念をもって、非常の備えを設けさし遣わされそうらいては、また礼を失せられそうらえば、是非交誼厚くなされそうろう御趣意貫徹いたしそうろうようこれありたく、そのうえ暴挙の時機に至りそうらいて、はじめて彼の曲事分明に天下に鳴らし、その罪を問うべき訳に御座そうろう。いまだ十分尽くさざるものをもって、彼の非をのみ責めそうらいては、その罪を真に知るところこれなく、彼我とも疑惑致しそうろうゆえ、討つ人も怒らず、討たるるものも服せずそうろうにつき、是非曲直判然とあい定めそうろう儀、肝要のこととみすえ建言致しそうろうところ、おうかがいのうえ使節私へおうせつけられそうろう筋、御内定あいなりおりそうろう次第に御座そうろう。この段なりゆき申し上げそうろう。以上」


 数々の無礼なふるまいがあったのでやむなく兵を派遣するとの提案が閣議になされた。それで、私は、丸腰、烏帽子直垂の正装、礼を厚くしての使節を派遣するべきだと申し上げ、それが認められて、私を使節として派遣することが内定した。その経過を申し上げておく・・・。

 超訳し、要約するとこうなる。なんとまっとうな言い分であろうか。これをまともに読んだ上で、なおかつ西郷を征韓論者だと言う人がいたら、よほど先入見にとらわれていると言わざるを得ない。

 さらに、冒頭「はじめに」の章で、この時から2年も経ない1885年9月に起きた江華島事件の報を聞いて、篠原冬一郎こと国幹に送った手紙の一部を引用したが、もう少し引用を続けてみよう。

 「朝鮮の儀は数百年来交際の国にて、御一新以来、その間に葛藤を生じ、既に五、六ヶ年談判に及び、今日その結局に立ち至りそうろうところ、全く交際これなく人事尽くしがたき国と同様の戦端を開きそうろう儀、まことに遺憾千万に御座そうろう。」

 なお、西郷は、第二話「ニワトリからアヒルの帝国軍隊」で述べた江華島事件の正しい経過ではなく、政府のねつ造した経過しか知らされていない状況でこの手紙を書いているようである。真の経過を知ったなら、どのように述べたであろうか。押して知るべし、である。
 
 以上で、西郷を征韓論者とするのは謬論であることがおわかりであろう。

                               (続く) 

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(13)

(征韓論本論―西郷は征韓論者か) その1

 西郷も人の子である。幕末の尊王攘夷論者由来の朝鮮蔑視史観の影響を受けていなかったとは私も断言しない。しかし、いま問題にしている征韓論は、武力で威嚇をし、あるいは武力を行使して、朝鮮を屈服させるべきだという政論である。その意味の征韓論についていえば、西郷は、既に述べたところから明らかなようにはっきりしたアンチ征韓論者であったと断言してよい。
 
 この点に関して、いや西郷こそゴリゴリの征韓論者であった、これらがその証拠だと言って常に持ち出されるのが、①自分を使節として送る決定がなされるように助力を願って板垣に送った手紙の文面、②三条に直接頼み込んだ手紙の文面、③さらにそれが内定した後、そのとおり実行されるように協力を求めた板垣への手紙の文面、あるいは三条に対する督促の手紙の文面その他の言動である。そこでこれらを一瞥しておくこととする。

 一番目は7月29日付板垣宛ての手紙。

「(超訳要旨)副島も帰国したが、もし遣朝鮮使節の評議がまだなら病をおしても出席する。兵隊を先に派遣することはダメだ。使節を先に立てるべきだ。そうすれば先方が暴殺するだろう。副島君のような立派な使節はつとまらないが死ぬくらいのことはできる。是非、私を遣わしてほしい。」

 このころ西郷は体調をこわし、下痢続きだったので、閣議も欠席しがちであった。使節が副島に決定することを必死に阻止しようとしたことが文面からうかがえる。
 この文面から、一般に、西郷は、捨て石になることによって朝鮮出兵の口実を作ろうとしたのだというように言われている。
いわゆる「使節暴殺論」である。しかし、「使節暴殺論」は、征韓論者向けのレトリックに過ぎないとの説(毛利敏彦『明治六年政変』中公新書など)に、私は軍配をあげる。
 なぜなら、西郷が、丸腰、烏帽子直垂の正装、礼を厚くして談判に及ぶべきことを主張しているのであるが、そのような使節が暴殺されるなどというのは、朝鮮を突飛な国、野蛮な国するう観念に毒された暴論であるから。西郷は、朝鮮を、数百年来、国交を通じてきた国であり、王政復古以来の関係は不正常と嘆きこそすれ、朝鮮を野蛮な国とする観念とは無縁であった。
 それはむしろ戦争を防ぐ目的だと考えるのが常識にかなうであろう。

 板垣は、留守政府の参議中では西郷に次ぐ実力者。その板垣が、兵士一大隊を派遣せよ、これは正当防衛だと言って、まっさきに閣議に提出された武力を用いて談判するとの原案に賛成したのであるから、板垣の心を引きつけなければならなかった。その故に多少論理の飛躍があっても戦争を避けようとしているのではないことを印象付ける必要があったのでこのようなレトリックを用いたのだろう。
 
 二番目は、8月3日付三条宛ての手紙。朝鮮への使節派遣の必要性を説き、「なにとぞ私を差し遣わされたく」と懇願しいている。

 これもまた本議案の提出者が三条であり、原案が「居留民保護のためにも、陸軍若干、軍艦数隻を派遣し、九州鎮台にて即応態勢をとり、談判に及ぶべきである」とされているのであるから、そうではなくまずは礼をつくした使節として自分を派遣せよとねじこんでいるのであって、むしろ原案反対の立場を示すものである。
 なお、西郷はこの手紙の写しを板垣にも送っているが、それは根回しとして当然のことであろう。
 
 三番目は8月14日付板垣宛て書簡。

 「(超訳要旨)必ず戦いは起こるから暴殺されても無駄死にではない。不憫だなどという心をおこさないでほしい」

 これは「使節暴殺論」の二番煎じであり、一番目の手紙について論評したところに特に付加することはない。おそらく閣議で西郷を死なせるわけにはいかないというような話があったのだろうが、西郷にとっては、そのことは、閣議の議論が、西郷の筋書きに沿って進んでいることを確認できたわけで、内心満足しつつ、その種の同情論に一応くぎを刺しておいたのであろう。

四番目は、8月17日付板垣宛ての手紙。いよいよ同日、閣議で決定という運びになったので、始まる前に届けたもの。

 「(超訳要旨)三条には、一度目は礼を厚くして談判に及べば必ずや暴殺に及ぶからそのときは討ったらよい。『内乱をこいねがう心を外に移して、国を興すの遠略」』などと説いて、私を遣朝使節とするように求めた。閣議には出席してもうひと押しして欲しい。」

 これもまた「使節暴殺論」の三番煎じ、出がらしの茶である。
 敢えて付け加えることはないが、有名な「内乱をこいねがう心を外に移して、国を興すの遠略」などという物騒なフレーズが出てくるので一言しておこう。
 このフレーズに関して、西郷は当時の「不穏な情勢」(1873年には、明治維新後農民一揆が最高潮に達し、各地で不平士族が跋扈していた。これらが結びつくと内乱状態になることが危惧される状況にあったことは確かで「不穏な情勢」の存在は認められる。)を打開するために、朝鮮との戦争を願っていたのだという解釈が広く行き渡っている。
 しかし、これは、経過全体の中で考えると、見当違いの解釈であることがわかる。即ち、このフレーズは、あくまでも、原案提出をした三条、これにまっさきに賛成した板垣、さらには名だたる征韓論者副島など、当時の閣議メンバーの多くが共有していた意識をズバリ衝いて、自分を使節として朝鮮に送ることを決定させようとした殺し文句だったと私は考えるのである。
 
                            (続く)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(12)

(「征韓論本論」―1873年、留守政府での論議の経緯)
 
 副島が、既に述べたとおり、表向きは日清修好条規の批准書交換の目的、内実は台湾問題での談判の密命を帯びて、清国派遣特命全権大使に任じられたのは1873年2月27日、清国に向かったのは3月13日のことであった。
 ところが副島は、何ら任務を与えられていなかった朝鮮問題を、清国側と相当つっこんで議論していたことがパークス覚書によって認められる。

 この副島の動きに歩調をあわせるように、外務省が朝鮮問題に火をつけ始める。釜山・草梁の大日本公館に日本側責任者としてとどまっていた外務省7等出仕広津弘信(前出のパークス覚書に出てくる2名の下級役人の一人、もう一人はり、15等出仕束田伊良)から、同年21日と31日の二度にわたって、副島の留守を預かっていた外務省少輔上野景範宛てに、以下の内容(要旨)の報告書が提出された。

 昨年大日本公館として外務省に回収して以来、東京の三井組の手代が対馬商人に名義を使って商売をしようとしたことが、密貿易だとの朝鮮側の怒りを買い、現地の官憲の取り締まりが厳しくなっていたが、この度東莱府(とうらいふ・釜山における朝鮮側の対日窓口)が、公館の門に日本を侮蔑する内容の言葉を書き連ねた「伝令書」を掲示した。

 このうち31日付報告書には、束田が400字にも及ぶ漢文を、一見しただけで記憶にとどめ、その記憶に基づいてか再現したのだという「伝令書の写し」なるものが添付されていた。抜粋(原文をわかりやすく表記した。)すると以下のとおりであるが、この文書、そのような代物であることから、正確に「伝令書」の趣旨を伝えるものであるかどうか、保証の限りではない。

 「かれ(日本のこと)制を人に受くるといえども恥じず」「近ごろ、かの人(日本人)の所為を見るに、無法の国というべし」「すべからくこの意をもって、かの中(日本)の頭領の人を恫諭して、妄錯して事を生じ以て後悔あるに至らざらしめよ」

 これらの報告書を受けて、上野は、突如として、三条太政大臣に、閣議において朝鮮問題について審議することを求めた。三条は、同人と協議の上、次のような議案を閣議に提案した。
 議事録が残されていないので、明確に日にちを特定できないが、同年6月末から7月にかけてのことだと考えられる。

注:『明治天皇紀』三、丸山幹治『副島種臣伯』および『伊藤博文伝』上には、日にちが特定されていない。『大西郷全集』三の「年表」には「明治6年6月12日」とされているが、出典は不明である。学者からはいろいろな見解が示されているが、おおむね6月から7月と見る者が多い。ここでは報告書の到達期間を考えて、もう少し絞り、「6月末から7月にかけて」とした。

 これは副島がまさに朝鮮問題を、清国側と談判している時期に重なるが、単なる偶然の一致とは到底思えない。いずれにしても、三条自身がこのような内容にまとめて議案提出したのは、上野からの強力にネジを巻かれたからであろう。しかし、この議案の提出者はあくまでも三条である。


 (議案要旨)「朝鮮官憲が日本を無法の国とし、妄錯して事を生じ後悔させよなどという掲示をしたので、暴挙を起こし、日本人がどのような凌辱を受けるに至るかはかり知れない状態である。そもそもこれは朝威にかかわり、国辱ものである。もはや武力を用いて解決するほかはない。居留民保護のためにも、陸軍若干、軍艦数隻を派遣し、九州鎮台にて即応態勢をとり、談判に及ぶべきである。」

 閣議では、おそらく怒りの声が渦巻いたであろう。板垣が、居留民保護のために兵士一大隊を派遣せよ、これは正当防衛だとまくしたてる。大勢は原案支持に傾きかけた。
 それに対し、西郷は、ただちに軍隊を派遣するとかえって朝鮮官民の疑惑を招くので、まず使節を派遣し、公理公道に基づく談判をするべきだと反論した。
 すると三条も西郷の使節派遣論を支持しつも、使節は護衛兵を率い、軍艦に搭乗していくべきであると主張した。しかし西郷はこれにも反対し、兵は率いず、烏帽子直垂の正装を着し、礼を厚くして行くべきだと主張した。

 その結果、原案支持に傾いた大勢は、西郷の意見へと揺り戻された。

 では誰を使節とするのか。事の成り行きからすれば、当然、外務卿の副島になる。三条もそのつもりである。
 そこで西郷は、敢然と名乗りをあげた。副島が使節となることを阻もうとしたのである。副島は名だたる征韓論者であり、外交交渉ではく、軍事制圧さえをも構想していたこと、外務省をその強硬路線で固め、引っ張ってきたこと、これらはあきらかであった。そのようなに人物に朝鮮問題を任せるわけにはいかない。とすれば自分が名乗り出るしかない、そう西郷は考えたのである。
 なるほど筆頭参議たる西郷自らが遣朝使節になるとすれば副島を朝鮮問題から切り離すことができる。みごとではないか。

                         (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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